“まがいもの”の第四真祖   作:矢野優斗

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観測者たちの宴 Ⅳ

 幼い古城の姿を思う存分写真に収めご満悦となった深森は、やたらとツヤツヤした様子で仕事へ戻っていった。後に残されたのは気力やら生気を削がれて真っ白に燃え尽きた古城少年だけだった。

 嵐に巻き込まれまいと傍観に徹していた少女たち。ぐったりとソファに座り込んで灰になってしまった古城少年に声を掛けようか迷っていると、くぅと小さな音が響く。発生源は古城少年であり、気恥ずかしさのあまり顔を真っ赤にしている。

 ヴァトラーとの激闘を繰り広げ、死に体なってもなお走り続けた古城。古城の肉体は朝方から何も飲まず食わずの状態であり、腹が空くのも無理はない。それはこの場にいる少女たちも同様であり、古城に釣られて少女たちの中からも空腹を訴える音が鳴った。

 そんな経緯で彼ら彼女らはテーブルを囲み、深森の主食として用意されていた大量の冷凍ピザを食べるに至る。

 

「つまり、この人たちは記憶を失う前の俺の後輩だったり同級生ってことでいいのか?」

 

「そうだね。取り分け君と親密な関係を築いていた人たちのはずだよ」

 

「親密な関係……」

 

 じぃっと穴が開きそうになるほど雪菜と紗矢華、浅葱を凝視する古城少年。少しでも思い出せることがあればと考えていたが、いくら顔を見つめても記憶が戻る気配はなく、力なく嘆息を洩らす。

 肩を落とす古城を励ますように、雪菜が優しく微笑みかける。

 

「無理に思い出さなくても大丈夫です。わたしたちに気を遣う必要もないですから」

 

 記憶と経験した時間を奪われて不安だろう古城を慮っての言葉だった。古城も少し気が楽になったのか、固い表情をふっと緩めて小声で「ありがとう」と返す。

 

「……ところで、そっちの人は俺とどういう繋がりだったんだ?」

 

 純粋な疑問を紗矢華に投げ掛ける。雪菜と浅葱は同じ学園の後輩と同級生ということで納得できたが、紗矢華は彩海学園の生徒ではない。制服も違うもので、関係性がさっぱり浮かばないのだ。

 

「ふぁい?」

 

 話の矛先を向けられると思ってもみなかった紗矢華が、ピザを頬張っている格好で硬直する。

 

「そういえば、どたばたしてたからスルーしてたけど、あなた誰?」

 

 浅葱も古城と同様の疑念を抱いたらしく、ピザを片手に持ちながら胡乱げな眼差しを紗矢華に向けた。ちなみに浅葱は誰よりも早いペースでピザを平らげながら、空いている手で愛用のノートパソコンを操り那月の捜索に注力している。

 唐突に疑わしげな目を二人から向けられ、紗矢華は慌てて口に含んでいたピザを飲み込んだ。そして何と答えるべきか頭を悩ませる。

 古城と紗矢華の関係を端的に説明するならば、第四真祖と第四真祖を監視する獅子王機関に属する舞威媛である。監視の任務を帯びているのは雪菜であり、古城と紗矢華が繋がりを築いたのは黒死皇派のテロ事件の時だが。

 しかし関係性をそのまま説明するわけにはいかない。古城少年は記憶を失い第四真祖としての自覚がなく、浅葱は古城の正体を知らないのだ。下手なことを言えば折角落ち着いた古城少年はまた混乱し、浅葱に妙な疑心を抱かれてしまうだろう。

 悩んだ末に紗矢華は不安げに話の流れを見守っていた雪菜を見やり、半ばやけっぱち気味に答える。

 

「私は、雪菜のお姉ちゃんよ!」

 

「お、おぅ……」

 

 凄まじい気迫で高らかに雪菜の姉宣言をする紗矢華。あまりの勢いに古城少年は気圧され、浅葱も軽く引き気味になった。

 しかし二人の反応など構わず、紗矢華は何故か雪菜に対する有り余る想いを語り始める。

 

「雪菜はね、私の天使なのよ。見てみなさい、こんなに可愛いくて愛らしくて綺麗な子はいないわ。分かる?」

 

 紗矢華が己のスマホを取り出し、見せつけるようにその場の面々に突き付けた。

 画面に表示されていたのは、幼い少女が寄り添う姿だった。少女たちは雪菜と紗矢華らしく、顔立ちには今の二人の面影がある。

 雪菜も紗矢華も年相応に愛らしく、古城少年と浅葱は思わず感嘆の声を洩らす。幼い時分の写真を公開された雪菜は耳まで赤くして顔を両手で覆い、優麻にフォローされていた。

 

「そんな雪菜が、私の天使が! 一人でこんな島に引っ越すだなんて心配するに決まってるでしょ!? 一人暮らしは寂しくないか、ご近所さんとは上手く付き合えているのか、学校ではちゃんと友達がいるか、心配で不安で夜も眠れなかったわ」

 

 本当に不安だったのだろう。当時のことを思い出しているのか、紗矢華は憂鬱げに目を伏せる。その表情は正しく大切な妹を案じる姉のものだった。

 

「姫柊さんのことを大切にしてるんだな」

 

 自然と古城少年は口にしていた。記憶を奪われて幼くなっているが、古城も凪沙という妹を持つ兄なのである。紗矢華の想いに共感できる節があったのだろう。

 

「当たり前でしょ? 私たちは本当の家族よりもずっと一緒にいるんだもの。だからね、雪菜が此処でちゃんと笑ってるのを見て安心したのよ」

 

 伏せていた顔を上げて、紗矢華は今までにないくらい優しい微笑みを浮かべた。

 

「雪菜が笑えているのはきっとあなたのおかげ。色々と言ってやりたいことはあるけど、本当に感謝してるわ」

 

 ありがとう、と万感の想いを込めて紗矢華は言葉を切った。

 面と向かって感謝されてしまった古城少年は面映さから挙動不審に陥っていた。

 身に覚えのないことではあれど、紗矢華の想いに嘘偽りはない。誰かをここまで大切に思える人間ならば信用も置ける。関係性も雪菜を通じてのものと分かり、古城少年の疑念は綺麗さっぱり晴れた。

 代わりに多大な精神的ダメージを受けたのは雪菜だ。優麻のフォローで何とか気を持ち直し、暴走列車こと紗矢華を止めんとする。

 

「あの、紗矢華さん。それくらいに……」

 

「大丈夫よ、雪菜。私の秘蔵フォルダの思い出はまだまだあるから。一晩中だって語り続けられるわ」

 

「お願いですから、もう許してください!?」

 

 これ以上の公開処刑は耐えられないと、雪菜が絶叫しながら紗矢華からスマホを取り上げようとする。しかし悲しいかな、雪菜と紗矢華では体格的に後者に軍配が上がる。むしろ飛び付いてきた雪菜を紗矢華が嬉々として抱きしめた。

 全てを悟った表情でされるがままになる雪菜。至福の表情で雪菜を抱きしめる紗矢華。中々に混沌とした流れに呆れ返っていた浅葱の視線が、ノートパソコンに吸い寄せられる。そこに映った映像を見て目を見開いた。

 

「ねえ、ちょっとこれ見てくれない」

 

 浅葱が差し出したノートパソコンの画面に全員の注目が集まる。画面には波朧院フェスタで賑わうメインストリートが映し出されている。絃神島市内の監視カメラの映像の一つだ。

 

「少し巻き戻すわよ」

 

 浅葱がキーボードを叩くと映像が巻き戻っていく。十数秒ほど巻き戻したところで、浅葱は映像の中心に映る少女を指差す。

 

「ここ! この子、似てると思わない?」

 

 巻き戻しが解除された映像の中にいる一人の少女を見て、雪菜たちは小さく呻いた。

 少女はやけに豪奢なフリル付きのドレスを着て、そこはかとなく不安げな表情で人波を右往左往している。

 年の頃は今の古城少年と同じくらい、十歳前後だろう。人形のように整った顔立ちや、何処となく漂う威厳めいた雰囲気。南宮那月を若返らせたらこうなるだろうという(なり)だ。

 彼方此方に仮装している人間がいるため服装で目立つことはないが、少し観察すれば迷子ではないかと察せられる動きをしている。現に映像の中で道行く人に声を掛けられていた。

 しかし少女は声を掛けられても取り合わず、逃げるようにその場を去ってしまう。まるで見えない何かに怯えているように。

 映像に映った少女の特徴、服装は概ね那月のものと合致する。まず間違いなく、映像の少女は那月だろうと雪菜たちは意見を一致させた。

 

「藍羽先輩、この映像は何処の監視カメラのものですか?」

 

「ちょっと待って……出た、キーストーンゲート近くの大通りのカメラね。丁度、ナイトパレードをやってるとこよ」

 

「キーストーンゲートですか?」

 

 怪訝な表情で雪菜が呟く。監獄結界からキーストーンゲートまではかなりの距離がある。最後の力を振り絞ってキーストーンゲート付近まで空間転移したのだとしても、何故そこに移動したのかが分からない。

 疑問に対する答えは浅葱から齎された。

 

「キーストーンゲートには特区警備隊(アイランド・ガード)の本部があるのよ。それに、あそこのセキュリティは絃神島の中でも最高クラスだから、那月ちゃんが逃走先に選ぶのもおかしくない」

 

「でも、本部に直接転移するだけの力は残っていなかったみたいね。結果として、記憶を失い若返った状態で放り出されてしまったと」

 

 キーストーンゲート内部ではなく外を彷徨う那月の現状から紗矢華がそう結論付けた。

 特区警備隊による庇護を当てにして転移した那月であったが、その途中で魔導書の呪いによって記憶と魔力を失い、訳も分からない状態で放り出されてしまった。今の那月は完全無欠に行く宛を見失った迷子と変わらない。挙句に凶悪な脱獄囚たちに命を付け狙われている。早急な保護が必要だろう。

 那月の居所は判明した。あとは脱獄囚よりも先に接触し、保護するだけだ。問題があるとすれば仙都木阿夜の対処だ。

 

「南宮先生の保護を優先しましょう」

 

 決然とした表情で雪菜が言う。阿夜の企みを阻止することも重要であるが、見えない脅威に怯える少女を放っておくわけにはいかない。それに、那月が魔力さえ取り戻すことができれば監獄結界の機能を回復させ、脱獄囚たちを監獄に戻せるという打算もある。

 他の面々も異論はないらしく、銘々に動き出せるように支度を始めようとする。しかしそこで雪菜がストップを掛けた。

 

「藍羽先輩と優麻さんは残ってください。あと、そこでこそこそしてる暁先輩も留守番です」

 

 名指しで居残りを命じられた三人があからさまに不服そうな顔をする。この期に及んで蚊帳の外に置かれるのは我慢ならないと顔に書いてあった。しかし雪菜は毅然とした態度で反論を封じる。

 

「今から向かうのは激しい戦闘になりかねない危険地帯なんです。訓練を受けていない藍羽先輩や、完全に回復できていない優麻さんを連れてはいけません。暁先輩なんて以ての外です。絶対、に駄目です」

 

「そうね、古城は留守番だわ」

 

「当然よ。今の暁古城を連れ出すなんて、正気の沙汰じゃないと思うんだけど」

 

「ボクも古城には待っていてほしいかな」

 

「何だって俺だけそんな本気で否定するんだよ……」

 

 その場にいる少女たち全員に真剣な顔付きで同行を拒否され、少なからず落ち込む古城少年。

 だが古城が止められるのも無理はない。今の古城少年は安全装置の外れた核爆弾と同じなのだ。脱獄囚との戦闘に巻き込まれて眷獣が暴走したら、最悪絃神島が沈みかねない。

 古城の留守場に関しては満場一致で決定された。古城の事情を知らない浅葱も、子供になってしまった同級生を戦場に連れて行くわけにはいかないと頷いたのだ。

 留守番が決定してしまい不貞腐れてソファに転がり始めた古城を横目に、尚も浅葱は雪菜の方針に食ってかかる。

 

「あたしが居ないと有脚戦車(タンク)を動かせないわけだけど、足なしでどうやって那月ちゃんを保護するつもり?」

 

「確かに不便ですけど、相手も徒歩での移動ですから不可欠ではないです。それよりも、藍羽先輩にはわたしたちのサポートをお願いしたいんです」

 

「サポート?」

 

 疑問顔で浅葱が小首を傾げる。雪菜は小さく頷いて真剣な表情で言う。

 

「南宮先生を保護する際に脱獄囚たちの襲撃は避けられないと思います。その時、一般市民を巻き込まない逃走ルートの指示や安全地帯への誘導をお願いしたいんです。わたしたちよりも絃神島に詳しい藍羽先輩にしかできないことかと」

 

「なるほどね。なんだか上手く安全な場所に誘導されてるような気はするけど、引き受けてあげるわ」

 

「ありがとうございます」

 

 折り目正しく頭を下げる雪菜に、ひらひらと手を振って浅葱は返した。

 

「でも、サポートするにしてもキーストーンゲートのメインコンピューターを利用したほうがいいから、あたしもキーストーンゲートまでは同行するわよ? というか、あなたたちを送ってくから」

 

「分かりました。むしろ、お願いします」

 

 雪菜との話し合いで一応は納得したのだろう、浅葱はいそいそと出発の準備を再開する。そんな中、同行を拒否された優麻が代わるように声を上げた。

 

「待ってほしい、ボクも一緒に行くよ」

 

「いいえ、優麻さんは残ってください。完全な堕魂(ロスト)ではなかったですが、消耗の度合いは凄まじいものだったはずです。その状態で、まともに戦うことができますか?」

 

「それは……」

 

 雪菜の厳しい指摘に何も反論できず、優麻は苦々しげに唇を噛んだ。

 不完全な堕魂と第四真祖の融合眷獣による反動。見た目以上に優麻の肉体はダメージを負っている。いざ脱獄囚との戦闘と相成った時、まともに戦うことはできないだろう。

 悔しさから拳を震えるほどに握り締める優麻に、雪菜はそっと近づいて耳打ちする。

 

「暁先輩をお願いします。今の先輩にとって、最も信頼できるのは優麻さんだけですから」

 

 ハッと優麻は顔を上げる。そこには少し寂しげな顔でソファに不貞腐れる古城少年を見遣る雪菜がいた。

 第四真祖の監視役である雪菜にとって、古城の側を離れる決断は簡単にできるものではない。記憶を失い不安定な状態となれば尚のことである。その上で、雪菜は優麻に託そうとしているのだ。

 直接的に力になることができない歯痒さはある。逆らえない運命(プログラム)であったとしても、囚人たちを脱獄させてしまった責任感も捨てられない。それでも、雪菜たっての頼みを断ることはできなかった。

 何より、今の古城少年を一人にしておくのは危険が過ぎる。普段から単独行動のきらいがある古城を放置すれば、水を得た魚の如く動き出す可能性は否定できない。誰かが古城少年の面倒を見ていなければならないのだ。

 

「分かったよ。くれぐれも気を付けて」

 

「はい、必ず南宮先生を保護して戻ってきます」

 

 安心させるように力強く、雪菜は頷きを返した。

 その後、支度を整えた雪菜たちは不服げな古城少年と優麻に見送られ、那月の保護へと祭りで賑わう絃神島市内へ出発した。

 少女たちの背中を見送ることしかできなかった古城少年は、悔しさと情けなさから唇を噛んだ。

 

 

 ▼

 

 

 少女は当てもなく祭りに賑わう街を彷徨っていた。フリル付きの可愛らしいドレスを揺らしながら歩く姿は、まるで本の中から迷い出たお姫様のようである。

 煌びやかな衣装を纏ったダンサーが大通りで踊り、仮装に扮した人々が白熱して歓声を上げる。日常とは掛け離れた非日常の空気に当てられ、街全体が大賑わいの様相を呈していた。

 そんな熱狂の渦中に少女は訳も分からないまま放り込まれた。前後の記憶は不確かで、朧げに残っているのは僅かな記憶と漠然とした危機感。何かから逃げなければならないと本能が訴えている。

 しかし何処へ逃げればいいのか、何を頼りにしていいのかが分からない。時折心配して声を掛けてくれる人もいたが、見知らぬ人間に対して恐怖が先立って手を振り払ってしまう。加えて無関係な人間を巻き込んではいけないと無意識的に考えており、助けの手を差し伸べられても掴むことができないでいた。

 少女はただただ活気に満ちた島を彷徨う。拠り所も見つからぬまま、目に見えない恐怖から逃げるように人気のない裏通りへ歩みを進める。

 パレードに注目が集まっているため裏通りに人の影は殆ど見当たらない。表通りの騒がしさとは打って変わる静寂に身体が強張る。夜風の冷たさに震えたのかと思ったが、違う。

 路地裏の暗がりから姿を現した禿頭の老人。凄まじい殺気を帯びた眼光が少女を竦ませた原因だった。

 

「見つけたぞ、“空隙の魔女”……!」

 

 少女を睨み付ける禿頭の老人。年齢は恐らく六十代、体格はかなり大柄な部類だ。粗末な襤褸と骨張った身体つきが相まって何処ぞの修行僧のようにも見えるが、纏う殺気は相対するだけで少女を立ち竦ませるものだ。

 獲物を見つけた肉食獣の如く口角を釣り上げ、老人は殺意と憎悪に塗れた目を向けてくる。記憶を失っている少女には恨まれる心当たりなどないが、本能が訴える危機感の正体が目の前の人物だとは理解できた。

 じり、と少女は警鐘を鳴らす本能に従って後退る。今にも逃げ出しそうな少女の姿に老人は嘲笑を浮かべ、全身を赤く染め上げる。怒りで肌が紅潮したのではない、肉体そのものが高熱を帯びた金属のように発熱しているのだ。

 老人の正体は精霊遣いだ。高次元空間に存在するエネルギー体である精霊をその身に降ろし、人知を超えた力を振るう者である。

 精霊は非常に不安定な存在で安定的に利用するには戦艦クラスの設備が必要になる。しかし例外はあり、アルディギア王家の姫御子は自らの体内に高位の精霊を召喚し、自在に操ることができる。精霊の格は落ちるだろうが、老人もまた己の肉体に精霊を呼び出すことができる例外なのだろう。

 

「投獄された屈辱、ここで晴らしてくれる!」

 

 凄まじい熱風が吹き荒れて少女を襲う。十メートル以上は離れているのに叩きつけられる熱気は喉や眼球を焼きかねないものであり、少女は堪らず背中を向けて逃走を始めた。

 

「待て、小娘──!」

 

 嗄れた叫び声を上げて老人が追跡を始めた。

 老人の足はそれほど早くなかった。必死で走る少女よりもやや遅い。上手く障害物や路地を利用すれば撒けるかもしれないと少女は考えた。だがその考えは甘かったと思い知らされる。

 追ってくる老人は看板だろうが植垣だろうが構わず焼き尽くし、最短距離で真っ直ぐ迫ってくる。むしろ無駄に障害物を利用しようとした分だけ距離が縮まってしまった。

 下手な逃げ方では追い付かれてしまう。されど観光客で溢れ返る表通りには逃げ込めない。自分の命の危機でありながら、無関係の市民を巻き込んではいけないと無意識のうちに理解していたのだ。

 

「逃さんぞ……!」

 

 中々縮まらない間合いに業を煮やした老人が、爆発的に火力を高めて激しい熱波を放つ。背中に容赦ない熱波を浴びせられた少女は踏ん張ること叶わず、小柄な身体を固い地面に転がした。

 

「うぁ……」

 

「終わりだ、“空隙の魔女”……!」

 

 コンクリートの地面に叩きつけられて小さく呻く少女に、全身を赤熱させた老人が近づいてくる。ただそれだけで少女の身体はジリジリと焦され、呼吸も儘ならなくなってしまう。

 高熱と呼吸困難によって視界が霞み始める。魔力も回復していない状態では反撃はおろか逃走すらできない。万事休すかと少女が諦めかけた時──

 

「“雪霞狼”!」

 

「“煌華麟”!」

 

 玲瓏な音を響かせて銀の槍と剣が熱波を切り裂いた。

 身を焦がす熱が遮られ、少女は顔を上げる。迫り来る老人の脅威から庇うように二人の少女が立っていた。

 槍と剣を携えて老人と相対する少女たちの瞳には強い意志の光が灯っている。その横顔に既視感を覚えて少女は思わず呟く。

 

「あなたは、だれ?」

 

 小さな誰何の声に槍の少女──雪菜が振り返り、安心させるように優しく微笑んだ。

 

「わたしはあなたの味方ですよ、南宮先生」

 

「せん、せい……?」

 

「あぁ、えっと……那月ちゃん、とお呼びしたほうがいいのでしょうか?」

 

 監視対象である少年がよく口にする呼称を咄嗟に出してしまう雪菜。少女は口の中で転がすように名前を呟くと、すとんと失っていたピースの一つが埋まったような感覚があった。

 

「うん、ナツキ。わたしの名前」

 

 霧がかかっていた記憶の一部が晴れ渡り、少女──那月は表情を綻ばせる。こんな時でなければ素直に可愛らしいという感想が抱けたのだろうが、今の雪菜にそんな余裕はない。

 

「ごめん、雪菜。そろそろ限界……!」

 

 長大な剣を振るい、絶え間なく襲いくる熱波を斬り裂いている少女──紗矢華が冷や汗を流しながら言った。

 雪菜と那月が会話をしている間、距離を詰めてくる老人を相手に剣を振るい続け、殺人的な高熱を疑似空間切断で防ぎ続けているのだ。しかし接近されてしまえば周囲一帯が熱せられてしまい、熱波は防げても純粋な熱で参ってしまう。

 

「分かりました──浅葱先輩、逃走ルートの指示をお願いします」

 

『任せて。安全なルートでキーストーンゲートまでナビゲーションするから』

 

 雪菜と紗矢華の耳に装着されたインカムから自信に満ちた声が返ってくる。サポートするためにと浅葱が用意したものだ。肝心の浅葱はキーストーンゲートのメインコンピューターを利用して雪菜たちをリアルタイムでモニタリングし、全力でサポートする態勢を整えている。

 

「那月ちゃん、着いてきてくれますか?」

 

「……うん、お願いします」

 

 雪菜が差し伸べた手を那月は素直に取った。記憶に残っているわけではないが、無意識のうちに雪菜を味方と判断しているようだ。

 

「紗矢華さん!」

 

「背中は任せて。雪菜に傷一つだって付けさせやしないんだから!」

 

 “煌華麟”を構えて紗矢華が凄まじい気迫でもって答えた。

 自分よりも幾分か歳下になってしまった那月の手をしっかりと握り、雪菜は浅葱の指示に従って夜の絃神島を走り出した。

 

 

 

 


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