暁古城は世界最強の吸血鬼だ。半年前、先代第四真祖より規格外な魔族の肉体と神話級の眷獣を受け継いだ、正真正銘の怪物である。
保有する戦力は軍隊を一人で凌駕し、存在そのものが核爆弾と同義と言っても過言ではない。故に獅子王機関より雪菜が監視役として派遣されてきたのだ。
しかし現在、
だがそれは事情を理解していれば納得できる話。よもや自身の肉体が魔族の、それも世界最強の吸血鬼に成っているなどと知らぬ古城少年は、蚊帳の外に置かれて不満を募らせていた。
ソファに浅く腰を沈め落ち着きなくそわそわとしている古城少年。同じく留守番となった優麻は隣に座り、どうにか落ち着かせられないかと思案していた。
「少し落ち着いたほうがいいよ、古城。気持ちは分かるけど、ボクらにできるのは待つことだけなんだ」
優麻とて身体の調子さえ戻っていたのなら雪菜たちと共に行動したかった。だが同行したところで碌に戦えないのも事実。優麻にできるのは精神的に不安定な古城少年が暴走してしまわないように見ていることだけである。
「分かってるさ。俺が居ても邪魔なことくらい、分かってるんだ……」
第四真祖の自覚がない古城少年は、己が無力な少年だと思い込んでいる。戦う力を持たない子供が戦場に踏み込んだところで邪魔にしかならない。それでも、自分だけ安全地帯で指を咥えて待ってなどいられなかった。
「古城……」
指先が真っ白になるほど拳を握り締め無力さに歯噛みする少年を、優麻はただ見ていることしかできない。
「古城がそこまで思い詰める必要なんてない。誰も君を責めたりなんてしないし、君は何も悪くないんだ。だから──」
「──違うんだ、ユウマ」
自身を宥めようとする言葉を遮り、古城少年は焦燥に満ちた顔で言う。
「声がさ、聞こえるんだ」
「声?」
ぽつりと呟くような古城少年の告白に優麻が首を傾げる。
部屋の中には優麻と古城少年以外は誰も居らず、隣室から声が洩れ聞こえてくるようなこともなかった。
ならば誰の声なのかと優麻が目線で尋ねると、古城少年は痛みを堪えるように胸を押さえながら答える。
「誰かは、分からない。でも、さっきからずっと叫んでるんだ──護り抜けって」
心の底から湧き上がる衝動を抑えるように古城少年は歯を食い縛った。
記憶を失い、経験してきた時間すらも奪われてなお、少年に訴えかける声なき声。それは無意識の領域に押し込められた“まがいもの”の衝動、あるいは焼き付けられた焦燥だ。
“まがいもの”が常日頃から己に戒めていた
「そんなにも、君は自分を追い詰めていたのか……」
呆然と呟く優麻。もはや精神疾患と変わりがないレベルの強迫観念に囚われている幼馴染にかける言葉が見つからない。それほどまでに記憶を奪われる前の古城が追い詰められ、思い詰めていたことに衝撃が隠せなかった。
不意に優麻は苦しむ古城から玄関の方へと顔を向けた。何かが優麻の魔女としての知覚に干渉している。まるで誘うように、呼ぶように──
古城少年は気付いていない。内から響く声に気を取られ、向けられる魔力の波動にまで注意が及んでいないようだ。
如何するべきか優麻は悩む。今の古城少年を一人にするのは不安が残る。雪菜からも託された以上、この場を離れるのは得策ではない。
だが、このまま向けられる魔力の波動を無視し続けるわけにもいかない。仮定の話だが、魔力の持ち主がこの場に乗り込んできた場合、最悪第四真祖の眷獣が暴走する事態になりかねない。
「ユウマ……?」
怪訝な顔で古城少年が見上げてくる。優麻は何度か逡巡しながらも、外の気配の正体を確認する意思を固めた。
「ごめん、古城。ちょっと外に出てくる」
「なっ……待てよ、ユウマ。お前まで……!」
「大丈夫、すぐに戻ってくるよ」
慌てて止めようとする古城少年に微笑みを残し、優麻はリビングを後にする。念のため、優麻は部屋に侵入者があれば感知できるように簡易的な結界を施して。
部屋の中から不満げな、それでいて不安に満ちた古城の気配がするが、優麻は意識を切り替えて玄関から外に出た。
玄関近くに人の気配はない。優麻を呼び出した存在はゲストハウスの外にいるらしい。気を引き締めて優麻は謎の気配の元へ向かう。
ゲストハウスを出てしばらく研究所の敷地内を歩いていると、所員の休憩施設だろうこじんまりとした庭園に辿り着く。噴水と幾つかベンチが設けられ、申し訳程度に花壇が整備されている。
時間帯が時間帯なのと波朧院フェスタで所員の大半が休暇中のため人気はない。ただ、噴水の側に一つの人影が静かに佇んでいた。
警戒しつつも優麻はゆっくりと人影に歩み寄る。近づくにつれて人影の風貌が月明かりの中にはっきりと浮かんでくる。
薄闇に浮かぶシルエットは小柄な少女のもの。背を向けられているため顔は見えないが、黒猫風の仮装に身を包んでいることが分かる。
「凪沙ちゃん……?」
見覚えのある後ろ姿に思わず呟く。目の前に立つ人影はついさっき暁深森の手で運ばれていった凪沙だった。だが、何故こんな所にいるのだろうか。
優麻の声に反応して凪沙がゆらりと振り返る。優麻を見る少女の顔には何処となく気怠げな微笑が浮かんでいた。
「凪沙ちゃん、じゃない……君は、まさか……!?」
知っている、その気怠げな笑い方を。
知っている、その懐かしい仕草を。
知っている、その澄んだ空色の瞳を。
忘れるはずがない。ずっと探し求めていたのだ。優麻が己の手で選び取り、作り上げた何よりも大切なものだったから。
感極まって言葉すら出ない優麻に、
「久しぶりだな、ユウマ──」
その時、魔女の瞳から一筋の涙が零れ落ちた。
▼
人気のない絃神島の裏通りを疾走する雪菜たち。インカムを通した浅葱からの指示に従い、キーストーンゲートまでの安全なルートを只管に走っている。非常に強固なセキュリティと大勢の攻魔師に守られるキーストーンゲート内部に逃げ込んでしまえば、那月の身を守るのも容易と考えてのことだ。
後方には凄まじい熱を放ちながら追いかけてくる精霊遣いの老人がいる。老人は隙あらば火炎や熱波を放ち、その対処に紗矢華が走りながら奮闘していた。
『──そのお爺ちゃんの名前はキリガ・ギリカ。中近東カブリスタンのゲリラ部隊出身の兵士で、自分の体内に
「精霊遣いですか。わたしとは相性が悪いですね……」
ナビゲーションの片手間に浅葱が調べ上げた囚人の情報に、雪菜は苦々しげな表情を浮かべた。
雪菜が持つ“雪霞狼”は対魔族戦闘を想定した兵器である。魔力や魔術を扱う敵手に対しては有利を取れるが、霊力や物理エネルギーを無効化することはできない。精霊は桁外れの霊力を有するエネルギー体であり、“雪霞狼”を以ってしても対処できないものだ。
故にしつこく追いかけてくるキリガ・ギリカの攻撃を防げるのは“煌華麟”だけであり、ひっきりなしに放たれる火炎や熱波を紗矢華が一人で対処せざるを得ないのである。
『大丈夫。このペースなら十分も掛からずにキーストーンゲートに辿り着ける。もう少し頑張って!』
浅葱の鼓舞を受けながら雪菜たちは走り続ける。
浅葱がリアルタイムで逃走経路を指示してくれているおかげで今のところは順調である。キリガ・ギリカも何とか紗矢華が抑えており、那月も多少息が上がり始めているがまだ走れそうだ。邪魔さえ入らなければ間もなくキーストーンゲートに辿り着けるだろう。
だが、そう易々と事が運ぶはずもなく、インカム越しに浅葱の驚愕の声が響いた。
『はあ? ちょっ、何でそんな所に屯してんのよ!?』
「どうしたんです、藍羽先輩?」
那月の手を引きながら雪菜は問いかける。
『キーストーンゲートに続く通りが大勢の人で塞がれちゃってんのよ。パレードがあるわけでもないのに、何してんのさこの人たちは!?』
インカムを通して浅葱の切羽詰まった叫びが聞こえてくる。予想外の障害に苛立っているらしい。
『あぁもう、仕方ない。少し遠回りになるけどルートを変えるわ。次の角を右に曲がって──』
人混みに塞がれた通りを迂回する逃走ルートを即座に再計算して、浅葱はナビゲーションを続けた。
島中の監視カメラを掌中に置く浅葱に掛かれば、人混みを避けてキーストーンゲートまで到達するルートを割り出すくらいわけない。だがしかし、十分以上走り続けても雪菜たちは未だに目的地に辿り着けないでいた。
『キーストーンゲートに通じる道の殆どが市民で埋め尽くされてるなんて、おかしいわよ……』
呆然と浅葱が呟く。まるで雪菜たちの行手を阻むように何処からともなく湧いてくる人々に、然しもの浅葱も迂回経路を見つけられないでいた。
観光客や市民の大半はメインストリートで行われているナイトパレードに釘付けとなっており、裏通りや路地裏などはほぼ無人の状況になっているはずだった。しかし今、キーストーンゲートに続く通りや路地には何処から迷い込んで来たのか大勢の人が集まっており、雪菜たちの行手を阻んでいる。
「多分ですけど、その人たちは精神支配を受けているんだと思います」
『精神支配? 操られてるってこと?』
「はい。誰が操っているかまでは分かりませんけど、間違いないかと」
逃走劇を繰り広げながら雪菜は道を塞ぐ人々の様子を観察していた。彼らは一様に虚ろな目をしており、正常な精神状態には見えなかった。恐らくは脱獄囚の誰かが雪菜たちの逃走を妨害するために、適当な市民や観光客を操っているのだろう。
悔しげに浅葱が呻く。島中の監視カメラをハックできる浅葱も、操られた人々を退かして道を開けさせるなんてことはできない。それはつまり、雪菜たちをキーストーンゲートまで誘導できないことと同義だった。
『いいわよ、やってやろうじゃない……!』
「藍羽先輩?」
『ルート変更よ。後ろのお爺ちゃんを監獄に叩き戻してあげるわ』
並々ならぬ気迫を漲らせ、浅葱は別ルートへと案内を始めた。
雪菜たちは浅葱の指示に従って通りを走り抜け、地下街へ続く階段を駆け下りる。踊り場に現れたのは水道管や地下送電線をメンテナンスするための、作業用トンネルの入り口だ。
ロックは浅葱の手で解除されており、雪菜たちは転がり込むように薄暗い地下共同溝へ侵入した。トンネル自体は直径二メートルほどの造りであり、先は暗くて見えない程度には長い。
雪菜たちを追ってキリガ・ギリカも共同溝へ入ってくる。同時に遠隔操作で入り口のロックが掛けられた。これで精神支配された市民が入る余地はない。
『まだまだ、ここからよ!』
待っていましたとばかりに浅葱は用意していた罠を発動させた。
キリガ・ギリカを閉じ込めるように天井から分厚いシャッターが降りてくる。火災や洪水、魔族の襲撃から人工島を守るために用意された非常用隔壁だ。
分厚く、魔力付与によって強度を上げられた特殊鋼材の隔壁は、吸血鬼の眷獣による攻撃にだって耐えられる。並大抵な力では突破することも儘ならないだろう。
だがしかし、例外もある。
雪菜たちの目の前で隔壁がオレンジ色に発光し始める。キリガ・ギリカが超高温の炎で鋼材を溶かしているのだ。
魔力付与によって魔術や眷獣の攻撃に対しては滅法強く設計されてはいるが、純粋な熱強度に関しては通常の鋼材と大差がない。故に
だが、時間は稼げる。隔壁は一枚だけではなく複数ある。焼き落とすのにも多少は時間を要するはずだ。キリガ・ギリカとの距離をある程度離すくらいはできるだろう。
『時間稼ぎだけで終わらせるつもりはないのよ』
獰猛に言い放って浅葱は次の一手を打った。
ガコン! と音を立てて地下トンネルの側壁が開き、轟音と共に大量の水が噴き出す。水は鉄砲水と化してキリガ・ギリカを横殴りに襲い、声を上げる間もなく吹き飛ばした。
「ぐおおおおおっ!?」
超高温の老人に触れた水流は一瞬で沸点を超え、水蒸気爆発を引き起こす。衝撃はキリガ・ギリカを襲い、絶えることなく流れ込む激流と共に元来た道へと押し戻した。
隔壁越しに聞こえてくる激流の音と爆発音に雪菜と紗矢華は困惑する。壁越しの音で何となく情景は思い浮かぶが、何をどうしたらそうなるのかが理解できなかった。
『放水路を逆流させたのさ──』
得意げに浅葱が種明かしをする。
人工島の内部には放水路が網目状に張り巡らされている。普段は排水ポンプや電磁弁によって海水の逆流を防いでいるが、浅葱はそれを利用して海水を取り込み、わざと地下共同溝を水没させたのだ。
「藍羽浅葱、あなた一体何者なの……?」
壁一枚隔てた先を水没させた浅葱の所業に、紗矢華は感心よりも規格外さへの警戒を抱いた。
簡単なことのように非常用隔壁を操作し、放水路の制御すらも乗っ取ることができる。ただの女子高生というには無理がある話だ。
しかし浅葱は紗矢華の疑念を一蹴する。
『お生憎さま。あたしはハッキングが出来るだけの普通の女子高生よ。それより、早くその場から脱出して。三つ先にある梯子を登ればキーストーンゲート前のマンホールに出れるわ』
「紗矢華さん、急ぎましょう」
今は浅葱の能力について議論している場合ではない。そう視線で訴えかけてくる雪菜に、紗矢華も渋々頷いた。
点検用の梯子を登り、マンホールを抉じ開けて一行は地上に脱出した。
浅葱の言葉通り、目的地であるキーストーンゲートは目と鼻の先だ。地下共同溝を通ったことで精神支配の術者の目も掻い潜れたらしく、真っ直ぐ走れば何事もなく到着できるだろう。
安堵に緩みかけた雪菜と紗矢華の表情が強張る。目の前の道路が異音と共に赤熱し、異臭を放ちながら融け落ちたからだ。
融解して開いたアスファルトの穴からキリガ・ギリカが這い出てくる。肌には幾つもの黒点が浮かび、炎の勢いは目に見えて落ちていた。浅葱の作戦が相当に刺さったらしい。
『あれで海まで流されてくれればと思ったけど、そう上手くはいかないか……』
忌々しげに浅葱が呟いた。
炎の勢いは衰えても変わらぬ眼光で老人は少女たちを睨み上げる。
「やってくれたな、小娘ども……! 貴様らは儂が手ずから焼き尽くしてくれる!」
「悪いんだけど、いつまでもあなたと鬼ごっこしてる暇はないのよ」
雪菜と那月の前に一歩出て、紗矢華が己の愛剣を構えた。
浅葱の策略によって著しく弱っているキリガ・ギリカ程度であれば、紗矢華一人で監獄に叩き戻すくらいはできる。ここで一人、脱獄囚を削れば後々の負担も軽減できるだろう。
「粋がるなよ、小娘風情がぁ──ッ!?」
憎悪と憤怒を昂らせ、殺人的な火炎が爆発しようとした、その時だった。
「──キサマのデバンはオわりだ、キリガ・ギリカ」
ザシュ、と生々しい音と共にキリガ・ギリカの身体が袈裟懸けに斬り裂かれる。余りにもショッキングな光景に雪菜は咄嗟に那月の目を覆い、紗矢華は新たな敵の気配に身構えた。
「き、さまぁ……!? よくも……!」
夥しい量の血を噴き出しながら、老人は背後に立つ甲冑の男へ向けて全力の火炎を放つ。しかし苦し紛れの一撃は男が手にする巨剣の一振りで薙ぎ払われ、夜闇を彩る火花と消えた。
最後の悪足掻きをあしらわれ、老人は為す術もなく倒れ伏す。生命維持に支障を来たすほどの負傷により腕輪の効力が発動し、虚空から飛び出した銀鎖が老人を監獄へと引き摺り込んだ。
後に残ったのは老人を斬り捨てた甲冑の男だけだった。
巨大な剣を手にした、黒色の甲冑に身を包む男だ。姿形は人と変わらないが肌の色は鋼色で、纏う濃密な殺気が否応なしに雪菜たちを萎縮させる。
甲冑の男は槍と剣を構えた雪菜と紗矢華たちを一瞥し、ついで二人の少女に庇われる黒髪の少女を見据えた。
「ミつけたぞ、“クウゲキのマジョ”……」
錆び付いた金属のような声音で呟き、男が真っ直ぐ向かってくる。
先の老人以上に強烈な殺意と圧力を放つ男を前にして、那月が不安げな表情で雪菜と紗矢華を見上げた。
刃を交えなくとも甲冑の男の力量が並外れたものであると察した雪菜と紗矢華は、揃って険しい顔付きでそれぞれの武器を構える。相手が誰であろうと二人に那月を見捨てる選択はなかった。
大気が軋むほどの闘気がぶつかり合い、激しい戦闘の幕が開けられた。