本日二度目の意識喪失から回復した“まがいもの”は再び暗闇の中で目を醒ます。しかし今度は先とは違う点がある。
まず後頭部に誰かの温もりを感じた。次いで慈しむような優しい手付きで頭を撫でられていることに気付く。誰の温もりで、どんな体勢なのかは考えるまでもなかった。
「──目が醒めたのね」
「……あぁ、悪い」
頭上から降ってくるヴェルディアナの声に応じて、“まがいもの”はすぐに身体を起こそうとする。いつまでも膝枕をさせていては申し訳ないと思ったからだ。
「ダメよ。その……結構吸っちゃったから、無理に起きたら貧血で倒れるわ」
起き上がろうとしたところで額をやんわり抑えられ、“まがいもの”は渋々といった様子で従う。申し訳ないのは勿論だが、純粋に膝枕の体勢が恥ずかしかった。ヴェルディアナの表情が見えず、逆に自分の表情は一方的に見られているのも大きい。
くすり、と小さく笑う声が聞こえて“まがいもの”は少しばかり不貞腐れた顔で黙り込んだ。それが余計に可笑しかったのか、面白がるような気配が伝わってくる。
暗闇の中でヴェルディアナの手が遊ぶように“まがいもの”の前髪を弄るだけの時間が流れる。お互いに言葉はなく、しかし居心地の悪い沈黙ではなかった。
不意に“まがいもの”が申し訳なさそうな表情で口を開く。
「さっきはごめん。助けるためとはいえ、意識がないのに、その……」
“まがいもの”の謝罪の意図を悟ってヴェルディアナは手を止めた。
怒りを向けられるか、詰られるか。どんな文句も受け入れようと考えていた“まがいもの”は、しかし再び頭を撫でられ始めて困惑する。
「いいの。古城に邪な想いがなかったことくらいは分かってるから。あれは、その……人工呼吸みたいなものなの。だから、気にしなくていい」
それに、とヴェルディアナは声音に微かな羞恥を滲ませて続ける。
「私だって、古城から血を吸っちゃったから……文句なんて言えないの」
吸血鬼が引き起こす吸血衝動は性的欲求に直結している。勿論、命が掛かっているあの状況では生存本能の方が強かったものの、その手の感情が一切なかったといえば嘘になる。
暗闇でなければ真っ赤になったヴェルディアナの顔を見ることができただろう。しかし夜目の利かない“まがいもの”には分からない。ただ、額を撫でる手がやや乱暴になったことだけが分かった。
先の無体に関しては互いに精算が完了した。追手の匈鬼も此処までは追って来れないだろう。今は失った体力の回復が先決だ。
再び無言の時間が続く。膝枕と頭を撫でられる心地良い感覚に眠気を誘われ、“まがいもの”は眠るまいと必死に堪える。なまじ暗闇のせいで時間感覚も覚束ず、いつまでこの天国のような時間を耐えればいいのか分からなかった。
“まがいもの”が眠気と格闘していると、不意に頭上からヴェルディアナの声が降ってきた。
「牙城から、私の事情を聞いたの?」
「────」
不意打ち気味の話題に“まがいもの”は表情を強張らせる。その反応から図星だと読み取ったのだろう。ヴェルディアナからやや不満げな気配が伝わってきた。
「やっぱり。だからあんな台詞が出てきたのね」
「……ごめん」
本当は原作知識で知っていたのだが、それを正直に言うわけにもいかず素直に謝罪の言葉を口にする。後で牙城が文句を言われてしまうかもしれないが、そこは後で謝っておく他ないだろう。
「……身の程知らずだと思う?」
「それは……」
怨敵たるザハリアスへの復讐と奪われた領民と領地の奪還。諸々の条件を鑑みたとしても、百にも満たない女吸血鬼一人で成し遂げられることではない。
口籠る“まがいもの”の反応から察するヴェルディアナ。何処か自嘲するような掠れた笑い声が小さく響いた。
「分かってるの。こんな小娘一人でできることじゃないくらい、ちゃんと分かってる……でも、もう私しかいないの」
声音に抑えきれない激情が滲む。怒り、憎しみ、悲しみ。あらゆる感情がヴェルディアナの内で渦巻いていた。
「姉様も、父上ももういない。一族はみんな殺されて、残っているのは私だけ。私にしか、できないのよ……!」
「…………」
ヴェルディアナの想いに“まがいもの”は何も言えない。復讐も領地と領民の救済も、叶わない理由を述べることは簡単だ。けれどそんな理屈で足を止められるのなら、今此処にはいないだろう。
「……なんて、古城に言っても仕方ないわね。ごめんなさい」
“まがいもの”が苦虫を噛み潰したような顔で黙っていると、ふっとヴェルディアナが纏う激情の気配が霧散した。代わりにあるのは取り繕ったような空元気のような気配。
「ヴェルディアナさん……」
「ヴェルディアナ」
「え?」
「ヴェルディアナでいい。敬語ももういらないの。最初から思ってたけど、古城ってあんまり敬語が似合ってないもの」
「いやでも、流石に歳上の女性にタメ口は……」
「──古城?」
ピリッと空気が凍る。“まがいもの”に他意はなかったが、その言い分は不味かった。
「ふふっ、レディーに年齢の話はマナー違反だって、そんな初歩的なことも忘れたの? 紳士講習が足りなかったみたいね」
「あ、はい、すみません」
前髪を撫でていた手で軽く鼻を摘まれ、“まがいもの”は間髪入れずに頷いた。口答えすれば鼻を捥がれかねない、そんな恐ろしさがあった。
ふふふふ、と暗闇の中で響く笑い声に身を震わせる“まがいもの”。そんな引き攣った少年の顔を見下ろして、ヴェルディアナは何処にでもいる少女のように微笑みを零していた。
その後、“まがいもの”とヴェルディアナは十分な休息を経て行動を開始。落下した洞穴は運の良いことに外へと繋がっており、二人は無事に脱出し後から駆け付けた牙城と合流するのだった。
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深い水底を揺蕩うような感覚。その中で耳朶を叩く少女の声と、壊れ物を扱うような揺さぶりに古城は重い瞼を開いた。
「──先輩! よかった……!」
「……姫柊?」
目を開けて最初に飛び込んだのは涙を眦一杯に溜めた後輩の姿。よほど心配したのか、鼻先が触れそうなほどの距離にあっても雪菜は離れようとしない。
「何が、あったんだ……?」
「第三真祖の眷獣の攻撃からわたしを庇ったんです」
「……そうか、そうだった」
意識が途切れる直前の記憶を思い出し、古城は目の前の雪菜を見やる。古城が間一髪で霧化させたことで雪菜の身体には火傷の一つもない。それに古城はほっと安堵の息を吐いた。
「姫柊は無事みたいだな。よかった……」
「よかった? こんな、消し炭も同然な姿にまでなって、何がよかったんですか……!」
怒りに震える雪菜の目の前にいる古城の姿は、それはもう酷いものだ。左腕は焼け崩れたまま未だ再生せず、その他の部位もほぼほぼ炭化し切っており、少し小突くだけで崩れかねない有様である。
辛うじて形を保てているのは古城が第四真祖だからである。真祖でなければ、確実に消滅していた。
怒りのままに雪菜は拳を振り上げて、しかし振り下ろすことなく古城の胸元に縋り付く。今の古城は僅かな衝撃ですらダメージになりかねない。何より、守られてしまった自分に古城を責める資格がないと理解していたからだ。
静かに嗚咽を零す雪菜が落ち着くのを待ちつつ、古城は自身の置かれた状況を確認する。
つい先程まではMAR医療施設の中庭にいたはずである。しかし今は見渡す限り闇一色の世界。上下の感覚もない、まるで宇宙空間にでも放り出されたかのような気分である。
無限に広がる闇の世界。古城には此処が何処なのか心当たりがあった。
第三真祖ジャーダ・ククルカンが保有する眷獣の一体。無限に広がる空間そのものを実体とする規格外の眷獣。原作においてはあのヴァトラーを半日以上もの時間、囚え隔離していた空間だ。
この空間、世界そのものがジャーダの眷獣そのもの。脱出は不可能ではないのだろうが、あのヴァトラーですら半日以上要した。果たして消耗し切った古城に脱出が可能かどうか──
古城が脱出手段を模索していると、落ち着いたのか雪菜が顔を上げる。涙で目を赤く腫らしながら、雪菜は真正面から古城の瞳を見据えた。
「先輩は、どうしてそこまで自分を蔑ろにするんですか。誰かを守るためだからって、いくらなんでも行き過ぎです」
「それは……」
「──ヴェルディアナ・カルアナさんが、関係しているんですか?」
「────」
雪菜の指摘に古城はあからさまに動揺する。まさしく図星を突かれたからだ。
激しい動揺に二の句を継げない古城に、雪菜は己の考察を淡々と続ける。
「二度と取り零さないと先輩は仰いました。それはつまり、以前に取り零ししてしまった人がいるということ。お昼間の話から考えて、先輩が取り零してしまったのはそのヴェルディアナ・カルアナさん以外に考えられません」
「……あぁ、そうだよ。俺はヴェルディアナを取り零した。俺のせいで、ヴェルディアナ・カルアナは死んだんだ」
諦めたように、罪を告白する罪人のように古城は力なく項垂れる。普段の優しくも大人びた雰囲気はない。そこにいるのは後悔に塗れ過去から目を背け続けた弱い人間だった。
「先輩は藍羽先輩と同じように記憶を失っているんですよね? それなのに、どうして先輩のせいでと言い切れるんですか?」
ずっと疑問だった。覚えていないはずなのに、記憶がないはずなのに、古城は自分のせいでヴェルディアナ・カルアナは死んでしまったと断言している。まるで明確な根拠があるかのような物言いに、雪菜はずっと違和感を覚えていたのだ。
ピシリと古城の表情が凍り付く。ヴェルディアナの死因が己にあると断言できる理由。それは原作においてヴェルディアナが形はどうあれ生き延びていたから。だがしかし、それは自身が“まがいもの”であることを明かすよりも抵抗があることだ。
雪菜の追及から逃れようと目を泳がせる古城。しかし逃しはしないとばかりに雪菜に頬を両手で固定され、コツンと額が触れるほど至近距離で見つめられて激しく動揺してしまう。
「わたしはそんなに頼りないですか? 紗矢華さんや、藍羽先輩なら打ち明けられるんですか?」
「そんなことない。姫柊には何度も助けられた。これは……俺が、弱いのが悪いんだ」
弱々しく目を伏せる古城。今も目の前にある雪菜の顔を直視することができない。
そんな古城をじっと見つめて、ふっと雪菜が相好を崩した。
「本当に、仕方のない人ですね、先輩は……」
「姫柊……?」
「先輩が弱い人だってことくらい、分かっていますよ」
罵倒とまではいかないが、唐突な雪菜の言葉に古城は目を丸くする。そんな古城の反応に構わず、雪菜は真正面から向き合ったまま言葉を重ねる。
「誰よりも優しくて、いつも誰かのために駆けずり回っていて、一人で何もかも抱え込んで苦しんでいる。そんな先輩に救われて、今度はわたしが先輩の力になろうと思って……当の先輩は、わたしたちを遠ざけようとしていたみたいですけど」
ジト目で睨まれ古城は思わず目を逸らす。子供みたいな古城の仕草に雪菜はくすりと微笑を零した。
「でも、そんな先輩だからこそ、わたしは好きになったんです」
「姫柊……」
「藍羽先輩の二番煎じみたいでちょっと嫌ですけど……」
少し拗ねたように唇を尖らせながら告白した雪菜に、古城は二度目の衝撃に言葉を失う。
浅葱からの告白から殆ど間を置かず、雪菜からも想いを告白された。ただでさえ肉体も精神もズタボロの古城に、彼女たちの想いをきちんと受け止めることはできない。パンクして頭が真っ白になってしまう。
そんな古城に雪菜は優しく微笑みかける。
「答えはなくても大丈夫です。ただこれだけ、わたしはどんなに弱い先輩でも受け入れます。だから、
「…………俺は」
年下の少女、それも後輩に此処まで言わせて逃げられるほど古城は臆病ではいられない。腹を括って今日までひた隠してきた最大の秘密を明かす。
「未来を知っている。“まがいもの”の俺じゃない、ほんものの暁古城が辿るはずだった軌跡を知識として知っている」
「それは……」
驚愕に雪菜は目を見開く。明かされた秘密は個人が抱えるには大きすぎる、重すぎる代物だったからだ。
「限定的とはいえ未来視の能力、ですか。わたしたちの霊視よりも更に希少なものですね」
「未来視か。確かに、その表現の方が合ってるのかもな」
厳密には違うのだが、原作知識も未来視も大差ない。この世界を既に確かな現実と認識している古城にとって、此処が物語などという荒唐無稽で愚かな思考はとっくに無くなっているのだ。
ただ雪菜に意図が、意味が伝わるのならばそれでよかった。
「“焔光の宴”の影響で俺は記憶を失った。でも未来の記憶は知識に分類されるんだろうな。失うことなく、今も俺の中に在る」
“焔光の宴”の記憶搾取の対象は思い出、取り分けエピソード記憶が該当したのだろう。原作知識は知識、意味記憶に分類されたがために難を逃れた。
「俺の知る道筋の中で、ヴェルディアナ・カルアナは宴を生き延びるはずだった。でも、現実にはあの日に命を落としている……知識と現実の違いはたった一つ」
「先輩が、別人であること……」
「そうだ……」
辛うじて形を保っていた右手で顔を覆い、古城は悔恨混じりの溜め息を吐く。
「俺が“まがいもの”だから、暁古城じゃなかったからヴェルディアナは死んだ。俺が殺したも同然だ。だから、もう二度と取り零さないと誓ったんだ……!」
不必要なまでの自己犠牲。自分以外の誰かが傷付くことを恐れ、失われることを避ける在り方。その根源は“まがいもの”が抱える罪に直結していた。
弱々しく項垂れて古城は己の心情を吐露する。
「なんて、そんなこと言いながら、俺は怖いんだよ。自分のせいでヴェルディアナを殺してしまったことが怖くて、過去から目を背け続けているんだ……」
古城が過去と向き合うことを恐れている理由。何も変えることができず、誰も救うこともできず、挙句に犠牲者を増やしてしまった。己の愚かな所業と向き合う勇気が、覚悟が持てなかった。
救いようのない愚者、それが“まがいもの”の本質だ。
心中に押し込めていた弱音も何もかもを吐き出して、古城は空虚な瞳で正面の少女を見やる。幻滅したか、軽蔑したか。見限られても仕方ないと思いながら見上げた視界には、慈しみに満ちた微笑みを湛えた雪菜がいた。
「──何度だって言います。わたしは、どんな先輩でも受け入れます。弱くて臆病で、愚かな人だったとしても、この想いが変わることはありません」
そっと壊れ物を扱うように雪菜が古城の身体を抱き締める。伝わる柔らかな温もりに古城は目を白黒させた。
いつにない距離感に古城がドギマギしていると、雪菜が密着した体勢から顔を上げる。至近距離で見つめ合いながら、雪菜は唇を開いた。
「あの日と同じです。覚悟ができないなら、わたしの覚悟を受け取ってください。怖くて進めないのなら、わたしが隣に立って一緒に歩きます。先輩は、一人じゃないんですから」
「こんな弱い俺で、いいのか?」
「先輩が、いいんです」
この期に及んで弱腰な古城に微かな不満を滲ませながら、雪菜は躊躇いなく断言した。
此処まで雪菜に言われてしまっては、古城も逃げ続けるわけにはいかない。改めて覚悟を決めて、ボロボロの右腕で雪菜の身体を抱き締め返す。
「……っ」
微かに身を強張らせる雪菜。抱き締め合う体勢の都合で古城には雪菜のほっそりとした首筋と鎖骨に繋がるラインが見えていた。
扇情的な光景に古城は吸血衝動を引き起こされ、血に飢えた犬歯が尖り疼く。瞳は爛々と真紅の輝きを湛え、雪菜の首筋に釘付けとなる。
古城の吸血衝動を感じ取った雪菜が両腕を古城の首に巻き付け、吸血しやすいように首筋を差し出す。間も無く古城の牙が雪菜の肌を喰い破った。
「せん、ぱい……!」
雪菜は微かな痛みと血を吸い上げられる感覚に声を洩らし、脱力しながらその身を完全に古城へと委ねる。古城は凭れ掛かる少女の肢体を優しく受け止めた。
無限の闇の世界で重なり合う二つの影。重力もない、時間の流れも感じられない昏い闇の中で古城と雪菜は想いを確かめ合う。
やがて潤沢な魔力を得て肉体を回復させた古城。雪菜の
神々が手にしたと謳われる退魔の利剣。その手に宿った剣を古城は高々と掲げる。瞬間、眩い雷光と荒れ狂う衝撃の嵐が剣に宿った。
莫大な破壊を宿した退魔の剣、それが無限の闇へと振り下ろされる。斬撃に昇華された第四真祖の凶悪な一撃は闇を切り拓き、そして──