基本的に遅刻やサボりをしないよう心がけている古城。しかし今、古城の姿は学校ではなくアイランド・ノース、絃神島北地区の研究所街にあった。
幾つも立ち並ぶ企業の研究所は絃神島内でも比較的未来的な印象が強い。そんな幾つもある研究所の中から古城は迷うことなく一つの建物に辿り着いた。
アイランド・ノースの第二層B区画にある、研究所跡地だ。建物の形状は直方体に近く、高さは四階建て程度のビルと同等。窓の類がなく、稼働しているか閉鎖しているかもイマイチ判然としない。
しかし古城は躊躇うことなく建物の裏手、通用口のほうへと回っていく。そんな古城を、今まで黙ってついてきた雪菜が呼び止める。
「待ってください。本当にここに彼らがいるんですか?」
「ああ、多分な」
「その根拠はなんです?」
雪菜が懐疑的な目を向けてくる。ここに来るまでに何度も同じ質問をしたが、その度に適当にはぐらかされたのだ。さすがの雪菜も訝しむ。
古城は通用口を探しながら答える。
「まず、注目すべきはロタリンギア人でも殲教師であることでもない。アスタルテって呼ばれてた子が
「そうですね。
「そうだ。そうなると絶対的に必要になるのが、
そこまで言われて雪菜は理解した。
「つまり彼らが拠点にしているのはどこかの研究所……」
「その通り」
よく分かりました、と出来の良い生徒を褒めるように古城が言う。だが雪菜はあまり嬉しそうではない。古城が思い至ったことに、自分が気づけなかったことが情けなかったのだ。
「姫柊……」
「続きをお願いします」
雪菜の内心を察して古城がフォローしようとするが、当人から話の先を促されて結局タイミングを失ってしまう。
「……
言って古城は目の前の建物を見上げる。
「スヘルデ製薬。本社はロタリンギアで主な研究内容は
「オイスタッハ殲教師が隠れるには丁度いい、そういうことですね」
得心がいったとばかりに頷いて、しかし雪菜はその双眸を怪訝に細める。
「でも、どうやって調べたんですか」
その問いは来るだろうと予期していた古城は前々から考えていた台詞をそのまま口にする。
「うちの母親が研究関連の仕事でな。その伝で調べた」
原作で古城がこの場所を知ったのは浅葱に調べてもらったからだった。しかしこの古城は原作知識でそれを知っており、わざわざ浅葱に骨を折ってもらう必要性がなかった。故に古城は母親である暁深森を利用した、ということにした。
暁深森はMARという企業の医療部門に所属する研究員だ。その伝を使ったといえば、辻褄は合っているだろう。
「先輩のお母様……」
「ちょっと……かなり変な人だけど、研究員としての腕は確かだ。お、あれか」
丁度正面玄関とは反対側に通用口らしき扉を見つけて、古城は足早に駆け寄る。
研究所は閉鎖されているだけあってどこも鍵やら鎖やらで固く閉ざされている。この扉も同様に太い鎖と南京錠で封鎖されているように
しかし古城は隣に並び立つ雪菜へ、
「姫柊、頼めるか」
「幻術ですね。任せてください」
雪菜は背負っていたギターケースから雪霞狼を引き抜き、その穂先を扉に突き立てた。
キィン!と冷ややかな音が響き扉にかけられていた鎖と南京錠が消失、加えて人の出入りの痕跡が浮かび上がってきた。
さて行くか、と意気込んで建物の中に踏み込もうとする古城の行く手に雪菜の手が差し出される。
「先輩は外で待っていてください。ここから先はわたし一人で──」
「暗いなぁ、明かりは……吸血鬼だから夜目が利いたわ」
「ちょっと、待ってください先輩!」
雪菜の制止など知らぬと研究所内に足を踏み込む古城。まさか完全に無視されるとは思いもしなかった雪菜は慌てて追いかけ、今度は古城の前に立ちはだかる。
「分かってるんですか。この先には殲教師たちがいて、確実に戦闘になります。そんな状況で眷獣も制御できない先輩に、なにができるんです?」
「姫柊の援護くらいならできるだろ。昨日みたいに」
「それは……」
昨日のことを持ち出されて雪菜は言葉に詰まる。
あの時、古城が助けに入らなければ雪菜は死んでいたかもしれなかった。それが分かっていて、なお一人でオイスタッハ殲教師たちに勝てると宣える程、雪菜は愚かではなかった。
己の力不足に俯く雪菜。そんな彼女のか細い両肩に手を載せ、古城は真正面から雪菜の目を見据える。
「べつに一人で背負う必要なんてないんだ。俺は武術とかができるわけじゃないし、眷獣も制御できやしない危険人物だけど、一緒に背負うくらいはできる」
「先輩……」
「あんまり気負いすぎるな。俺は姫柊を頼りにしてるんだ。だから、姫柊も俺を頼りにしてくれ」
「……はい、分かりました。先輩を頼らせてもらいます」
今までの固い表情を緩めて雪菜は古城を見上げる。
古城は満足げに頷き、雪菜と至近距離で見つめ合っていたことに思い至り、少しドギマギしながら手を離した。
「それじゃあ、行くぞ」
「はい!」
薄暗い研究所の廊下の奥を見据え、二人は建物内に踏み込んだ。
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閉鎖されているだけあって研究所内は暗く、吸血鬼の夜目が利いていなければまともに歩き回ることすら困難を極めた。しかし雪菜は素で吸血鬼並みに夜目が利くのか、ずんずん奥へと進んでいく古城に苦もなくついていく。
しばらく歩いていると広い部屋に出た。実験室らしく、天井の高い部屋だ。
琥珀色の液体に満たされた円筒形の水槽が規則正しくずらりと並んでいる。どうやら
「先輩、これは……」
水槽内の生き物を見て雪菜は首を傾げる。しかし古城は生き物の正体を知っているためその表情は恐ろしいまでに無表情だ。
水槽の前で立ち止まる雪菜を置いて、古城は足を進める。その進行方向から、ぺたぺたと水気を含んだ足音が聞こえてきた。
「先輩……!」
すかさず雪菜が古城の前に躍り出る。古城もまた、歩みを止めて音の発信源を見やる。
二人の視線の先、一つの調整槽の陰から藍色の髪の少女──アスタルテが姿を現した。その格好は素肌の上に手術着のような薄布を纏い、全身びしょ濡れの状態で、殆ど裸と変わりない。恐らくたった今、調整槽を出たところなのだろう。
「だ、ダメです。先輩は見ないでください!」
アスタルテの格好に雪菜が咄嗟に古城の視界を妨げるように手を上げる。
だが、古城はずぶ濡れで裸同然のアスタルテを見ても無反応。ただその無機質なまでに無感動な瞳を向けるだけだ。
「アスタルテ、だったか……」
古城が
「
「島が、沈む……!?」
アスタルテの警告内容に雪菜が驚きの声を洩らす。荒唐無稽な話ではあるが、機械的な口調で事実だけを伝えるアスタルテの姿に嘘を言っている気配はない。
背筋を嫌な汗が伝っていくのを感じながら、雪菜は槍を構え直す。いつ何が起きても先制できるよう、戦闘態勢を整えた。
しかしアスタルテは依然として無防備な姿のまま、
「“この島は、龍脈の交叉する南海に浮かぶ儚き仮初めの大地。要を失えば滅びるのみ”……」
「そんな……!?」
アスタルテの言わんとすることを悟り雪菜が呻く。しかしその背後に佇む古城は無言のまま、ずっとアスタルテの瞳を見つめている。
そして、アスタルテの背後にゆらりと大柄な影が立った。
荘厳な法衣と、以前破壊されたのとは違う新たな装甲強化服を着込んだ大男。戦斧も一新したロタリンギア殲教師ルードルフ・オイスタッハがアスタルテを見下ろすように現れた。
彼はアスタルテの言葉を引き継いで語る。
「──然様。我らの望みは、魔族におもねる背徳者たちにより奪われた不朽の至宝の奪還。そして今や、悲願を叶えるに必要な力を得ました。獅子王機関の剣巫よ、貴方のおかげです」
「どういうことですか」
槍を殲教師に向け構えて雪菜が問う。
その答えは、意外なことにも殲教師の口ではなく雪菜の背後に立つ古城の口から語られた。
「大方、姫柊の持つ槍の術式を解析した、ってところだろ。そしてその術式を、その子に植え付けた眷獣に書き込んだ」
「うそ……そんなことが……」
茫然と呟く雪菜。古城の言が正しければ、それは自分のせいで獅子王機関が秘奥兵器の術式を漏らしてしまったも同然なのだ。そのショックは大きいだろう。
蒼白になる雪菜を一瞥してから殲教師は古城に目を向ける。
「その通りです。これまで数々の魔族から魔力を喰らうことでアスタルテの寿命を延ばし、術式の構築を急いでいましたが、剣巫との戦闘データが非常に役立ってくれましたよ。ついさっき、調整を終えたところです」
己の功績を語るが如く得意げに殲教師が言う。
「しかし、なかなか頭が回るようですね。だが、そこまで分かっていながら、貴方はなぜここへ来たのです」
「俺としては、その子の調整が終わる前に殴り込みをかけたかったんだけどな。まあ、いいさ。どの道やることは変わらない」
言って古城は、肩を震わせる雪菜の前に進み出た。
「人を道具みたいに扱ういかれ殲教師は、俺がここで止めてやる」
「ほう、獅子王機関の剣巫を連れる貴方がそれを言いますか、第四真祖」
殲教師が愉快げに頬を歪める。その瞳が捉えるのは未だショックから立ち直れていない雪菜だ。
「知っていますか。そこの剣巫は獅子王機関の手によって幼い頃に金で買われ、ただひたすらに魔族に対抗するための技術を仕込まれた」
「や、やめてください……」
震える声で雪菜が止めようとするが、殲教師は平然と続ける。
「育て上げた子供は戦場へと送り込む。まるで使い捨ての道具のように」
「やめてください──!」
懇願にも似た悲鳴を上げる雪菜。それでも殲教師は口を噤まない。弱り果てた少女に止めを刺すように、
「道具として作り出したものを道具として使う私と、神の祝福を受けて生まれた人間を道具に貶める貴方たち。より罪深きは、どちらでしょうか?」
「もう……やめて……」
がっくりと膝を折って項垂れてしまう雪菜。ただでさえ責任を感じていた心が、殲教師の言葉によって折れかかっていた。それ程までにオイスタッハの言葉は雪菜の心を抉ったのだ。
虚ろな瞳で床を見つめる雪菜。そんな彼女の頭上から、温かくも頼もしい声が降りかかった。
「姫柊にとって、この数日間は楽しかったか?」
「え?」
「凪沙や浅葱と話して、叶瀬と一緒に子猫を可愛がる。その時間は、楽しかったか?」
「……はい、楽しかったです」
その答えに古城が微笑む気配があった。
「だったら、姫柊は道具なんかじゃないさ。確かに、ここに来るまでに歩んできた道は自分で決められたわけじゃないし、道の数も少なかったと思う。でも、今ここにいる姫柊は自分の意志で笑って生きてるじゃないか。そんな姫柊が道具なわけあるか?」
問いかけるような古城の言葉に、雪菜はしばし呆然と古城を見上げた。
古城は慈しみに満ちた眼差しを雪菜へと向けたあと、その瞳を藍色の髪の少女へと向けた。
「アスタルテ、おまえはこれでいいのか?このままただ命令に従っているだけで、いいのか?」
「わた、しは……」
なにかを言いかけようとして、しかし背後に立つオイスタッハからの無言の威圧にアスタルテは口を閉ざす。その瞳が激しく揺れていた。
「道具を甘言で唆すつもりですか。貴方も遣り手のようで」
「黙ってろ、殲教師。その子は立派な一つの
吐き捨てるように言う古城。その瞳が感情の揺れに応じて真紅の輝きを灯す。
口元から長い牙が覗き、とてつもない魔力を纏う。あまりにも桁外れな魔力が古城を中心に放出され、周囲一帯に物理的な圧力を振り撒いた。
「先輩……!?」
「ぬぅう、これ程までとは……!?しかし、獅子王機関の切り札、あらゆる結界を切り裂く“
殲教師の命令に、僅かな逡巡ののち
「
「……
古城とアスタルテが、それぞれの眷獣を呼び出した。
▼
暁古城は第四真祖である。しかし、その眷獣たちは古城を宿主とは認めていなかった。理由は単純明快、古城が未だに吸血行為をしたことがないからだ。故に眷獣たちは古城を宿主と認めていない。
だが、まったくもって言うことを聞かないというわけでもなかった。
古城の文字通り血の滲む対話の積み重ねにより、一部の眷獣たちは呼べば応じてくれるし、完全に顕現はしなくとも力の一部を貸してくれるようになった。その代わり、自らの肉体を傷つけるような無茶をしなければならないが。
「ぐあっ、あがぁ……!」
開戦一撃目からダメージを受けたのは古城だ。しかも自身が放つ眷獣の雷撃をその身に受けて、という自爆行為で。
その場にいた全員が古城の奇行に少なからず驚きを見せる。自らの眷獣で自分を傷つける行動の意図が読めないのだ。
全員が立ち尽くす最中、古城は己を内側から焼き尽くさんとする雷撃に必死に耐えていた。
第四真祖の規格外な身体能力と再生能力を以ってしても、痛みまでは誤魔化せない。内臓を焼かれ、全身を貫く雷の熱量に意識が遠のきそうになる。それでも古城は歯を食いしばり、その並外れた精神力で意識を繋ぎ止めた。
やがて激痛に慣れると古城がオイスタッハ目掛けて腕を翳した。
瞬間、古城の右腕から漏電するように、幾条にも枝分かれしながら稲妻が走る。
閃光を伴う雷の槍は、床や調整槽などの見当外れな的を壊しながらも殲教師に襲いかかった。
「ぬぅ、アスタルテ!」
古城の狙いが自分であると悟った殲教師は
呼ばれたアスタルテは自身の眷獣である顔のない虹色のゴーレムの内部に取り込まれた姿で、殲教師を庇うように雷撃の槍を受け止めた。
虹色のゴーレムの表面を覆うのは、雪菜が持つ雪霞狼と同じ、あらゆる結界障壁を切り裂き真祖を打倒し得る術式だ。それが古城の雷撃の尽くを防ぎ切った。
その様子に雪菜は絶望にも似た思いを抱く。第四真祖の眷獣の攻撃を防ぐ程の障壁を破る術が、雪菜には考えつかなかったからだ。
だが、古城は欠片も諦めていない。
「ちっ、だったら……」
継続的に襲い来る雷の激痛に耐えながら、古城は走り出す。どうにかしてアスタルテの背後に回り、その背に隠れている殲教師を狙い撃ちするためだ。
しかしアスタルテも馬鹿ではない。古城の思惑をすぐに察し、背後を取られないように立ち回る。
一向に相手の背後に回れない展開に古城はすぐに痺れを切らし、狙いを変える。
「逃げろ、姫柊──!」
右腕に電気を蓄積させ、その右腕を床に叩き付ける。
古城が齎した破壊によって実験施設に残っていた多くの調整槽が壊れ、その中身をぶちまけていた。床は調整槽を満たしていた液体で濡れている。その状況で雷にも匹敵する超高電圧を流せばどうなるかは、推して測るべし。
古城の警告に従ってまだ濡れていない床の上へ避難していた雪菜は問題ない。だがオイスタッハとアスタルテは違う。彼らの足元の床には琥珀色の水溜りが広がっていた。つまり古城の雷撃をもろに受ける羽目になる。
流された電気によって液体が一瞬で分解され更に凄まじい熱で蒸発する。古城は立ち上る蒸気の中にいるであろうオイスタッハたちの動向を注意深く窺う。
これで決まったのなら御の字。ダメだったならば、その時は
蒸気に覆われる古城の視界の中で巨大な影が動いた。そして次の瞬間、古城の眼前に虹色の拳が現れた。
「しまっ──!?」
咄嗟に腕で防御するがその程度で受け切れるはずもなく、古城の体が紙切れの如く吹っ飛ぶ。そして数メートル程の所で床に墜落し、何度か跳ねたあと動かなくなった。
「先輩!?」
立ち込める蒸気を銀の槍で切り裂いて雪菜が駆け寄ろうとする。しかしその行く手を無傷のオイスタッハが阻んだ。
「少しヒヤリとさせられましたが、貴方のおかげで助かりましたよ。貴方との戦闘データがなければ術式は完成していませんでしたからね」
「そんな……わたしのせいで……」
古城の狙いはいい線を突いていた。だがそれも神格振動波の前に無力化され、痛い反撃を食らってしまった。
そう、神格振動波さえなければ古城の攻撃は通っていたのだ。
雪菜は戦意を喪失しかけるが、倒れ伏す古城を見て槍を構え直す。ここで折れれば古城までもが殺されかねない。そんなことは許されない。古城が死ねば悲しむ人がいるのだ。だから、護らなければならない──
敢然と銀の槍を構える雪菜に、オイスタッハが僅かに驚いたように声を洩らす。
「まだ戦う意志がありますか、剣巫よ」
「先輩に手出しはさせません。たとえここで死ぬことになっても──」
「成る程、決死の覚悟ということですか。いいでしょう、ならば貴方にはこの私自ら慈悲を与えましょう!」
オイスタッハが咆哮を上げる。それに呼応するように彼の全身から凄まじい呪力が噴き出し、視界を焼く程の黄金の光が漏れ出る。法衣の下に纏っていた装甲強化服がその真髄を発揮しようとしているのだ。
「ロタリンギアの技術によって造られし聖戦装備“
「雪霞狼!」
視界を黄金の光に焼かれながらも、雪菜は槍を手に猛然と駆け出す。たとえ視覚を失おうと剣巫としての直感で大体の位置は分かる。
雪菜は巧みに槍を操り、その穂先をオイスタッハに向けて突き出す。しかしその鋭い突きは、オイスタッハの戦斧によって難なく受け止められてしまう。
「その程度ですか、獅子王機関の娘よ!」
「うぐっ!?」
鎧によって強化された腕力に負けて、雪菜の手から雪霞狼が弾き飛ばされた。
武器を失った雪菜がその場に膝をつく。雪霞狼があった状態でも敵わなかった相手に素手で歯が立つはずもない。鎧によって強化されたオイスタッハはそれ程までの強敵なのだ。
「まだまだ若いながらも、貴方はよくやりました。誇りなさい。そしてせめてもの慈悲に、人である我が手で死になさい」
オイスタッハがその長大な戦斧を掲げる。雪菜にはその刃が己の命を刈り取る死神の鎌にも見えた。
雪菜が襲いくるだろう痛みに歯を食いしばり、オイスタッハが戦斧を振り下ろすのは同時だった。
ざしゅ、と生々しい肉を断つ音が聞こえ、雪菜の全身に生温かい血が飛びかかった。しかし、覚悟していたような衝撃や痛みはない。
恐る恐る顔を上げた雪菜の視界に飛び込んできたのは、左肩から左脇腹にかけてをごっそり失った古城の姿だった。
「え……?」
展開に頭が追いつけず、雪菜が間の抜けた声を洩らす。
状況からして古城が雪菜を庇ったのだろう。雪菜を突き飛ばし、代わりに戦斧の一撃を受けた。結果として古城は左上半身を戦斧によって抉り砕かれてしまったのだ。
戦斧を食らったショックでか古城の瞳は死人のように虚ろだ。事実、肉体は八割方死んでいる。恐らく意識も殆ど残っていないのだろう。
ふらりと左上半身を喪った古城が一歩下がる。
「先輩!」
今にも倒れそうな古城の体を雪菜が慌てて抱きとめる。その重さがあまりにも軽くて、雪菜は表情を青ざめさせた。
吸血鬼は不老不死と言われている。だがそれも、能力の根源である心臓を失っては、生き返ることもできない。
「先輩……どうして……わたしなんか……」
悲痛に顔を歪めて雪菜が古城の体を抱きしめる。流れ落ちる血が、雪菜の制服を赤く染めていた。
オイスタッハはその光景をしばし無表情に見下ろしていたが、やがてゆっくりと戦斧を掲げる。
既に雪菜の心は折れている以上、わざわざ止めを刺す必要性はない。だが、このまま悲愴に暮れさせるのも酷だろう。そんな慈悲の心から殲教師は戦斧を振り下ろそうとして、気づく。左上半身を喪った古城の口元が弧を描いていることに。
まずい、と直感的に悟ってオイスタッハが己の
「──姫柊を、護れ……!」
絞り出すような声に応じて、古城の右腕を食い破るように雷光が弾け出した。