青白い月が見下ろす
両脚を投げ出すように桟橋に腰掛け、ヴェルディアナは穏やかな太平洋の水面を眺めていた。
アヴローラを氷の柩から解放し、辛うじてザハリアスの襲撃を退けた。藍羽浅葱なる少女の介入や
ザハリアスを始末する絶好の機会を逃してしまったのは痛かったが、
それよりヴェルディアナの胸中を占めているのは一つ。“まがいもの”がアヴローラの血の従者であったことだ。
ヴェルディアナが物憂げな溜め息を零すと、コツコツと静かな足音が響いてくる。振り返れば拭い切れない疲労を滲ませた“まがいもの”が歩いてきていた。
“まがいもの”は一瞬居心地悪そうに目を逸らすが、即座にヴェルディアナの瞳を真正面から見つめる。
「ヴェルディアナ、少し話せるか?」
「……えぇ」
小さく頷いてヴェルディアナは位置を少しずらす。空いたスペースに“まがいもの”はやや遠慮がちに腰を下ろした。
遠すぎず近すぎず、友人とも恋人ともいえない距離感で二人は並んで座る。柔らかな潮風が二人の間をそっと吹き抜けた。
腰を落ち着けた“まがいもの”はどう話を切り出すか迷う。話すべきことは決めていたが、いざ話そうとすると言葉が出てこなかった。
「……怪我の具合は大丈夫なの?」
「あ、あぁ。まだちょっと身体は重いけどな……」
昼間に風穴が開いていた胸元を抑え、“まがいもの”は疲れ混じりの笑みを零す。
ザハリアスが撤退した後、“まがいもの”はその場で気を失って倒れた。血の従者となって初めての蘇生は“まがいもの”の想像以上に心身に負担が掛かっており、緊張の糸が切れた瞬間に意識を失ってしまったのだ。
“まがいもの”が倒れたことでその場は騒然となったものの、気を失っているだけと判明してからは落ち着いたもの。“りあな号”の寝台で休まされ、今やっと目が覚めた次第である。
「そう……よかった」
複雑な思いはあるが、ヴェルディアナは心から“まがいもの”の無事を喜び優しく微笑んだ。その微笑みに“まがいもの”の覚悟は決まった。
「血の従者だったこと、黙っててごめん」
深々と“まがいもの”は頭を下げた。
下げられた頭をヴェルディアナはじっと見下ろす。睨むような鋭さはない。瞳に浮かぶのは様々な感情が綯い交ぜになった複雑なものだった。
「……いつから、血の従者だったの?」
「覚醒したのは今日。アヴローラが目醒めたことで、俺に魔力供給が開始された。血の従者になったのは三年前。ゴゾの遺跡だ」
「三年前……ゴゾの、遺跡……」
ヴェルディアナが小さく息を呑む。三年前、ゴゾの遺跡で何があったのかを知っていたからだ。
ゴゾの遺跡とは欧州に存在する旧い遺跡の一つであり、かつてアヴローラが眠る柩が安置されていた場所。そして、柩を巡った争いによりヴェルディアナの姉であるリアナ・カルアナが命を落とした地である。
「そう、だったわね……三年前、遺跡にはあなたたち兄妹もいたんだものね」
三年前のあの日、ゴゾの遺跡に施された封印を解くために暁兄妹はあの場に居合わせた。そして“妖精の柩”を狙う獣人優位主義者による襲撃に巻き込まれてしまった。
「あぁ。そこで俺は一度死んで、凪沙がアヴローラに働きかけてくれたおかげで命拾いした」
当時のことを“まがいもの”は覚えていない。そもそも“まがいもの”が暁古城に成り代わったのは血の従者となって蘇生した時。それ以前の暁古城の記憶は一つとしてない。
故に知っているのは原作知識。暁古城は獣人の凶弾から凪沙を庇って命を落とし、凪沙とアヴローラの手によって蘇った。それが純然たる事実だ。
「そういう、ことね……」
“まがいもの”が血の従者となった経緯を理解し、ヴェルディアナはふっと肩の力を抜いた。張り詰めていた緊張の糸が緩んだ気配がした。
「──よかった」
「え……?」
予想していたのとは違う反応に“まがいもの”は目を丸くする。怒るどころか文句の一つもぶつけられないとは思ってもみなかったのだ。
「怒らないのか?」
「今まで黙ってたことはちょっと怒ってる。でも、血の従者になっていたこと自体には怒ってない。むしろ、ほっとしてるかも」
「なんで……」
「だって、そのおかげで古城は死なずに済んだのよ。文句なんて言えるわけないの」
三年前も、そして今日も。普通の人間であったならば暁古城は、そして“まがいもの”は蘇ることもなく野垂れ死んでいた。こうして無事でいられるのは偏に血の従者としての恩恵があったからだ。
“まがいもの”が生きていて良かった。怒りよりも何よりも、安堵が先にあった。
「古城は巻き込まれた被害者なんだから、気にしなくていい。むしろ、謝らないといけないのは私のほう。カルアナ家のいざこざにあなたたち兄妹を巻き込んでしまってごめんなさい……」
「別にヴェルディアナのせいじゃないんだ。謝らないでくれ」
もしも三年前のあの日の責任を問うのであれば、襲撃を仕掛けてきた獣人優位主義者の連中か、反対する牙城に圧力を掛けて暁兄妹を呼び寄せた遺跡調査団の出資者、次いで牙城とリアナに非があるかどうか。
遺跡にいたわけでもないヴェルディアナが頭を下げるのは筋違い。むしろ原作知識で諸々の事を知りながら黙っている“まがいもの”の方が余程罪深いだろう。
胸中で激しい罪悪感と自己嫌悪に苛まれながら、“まがいもの”はぽつりと言葉を紡ぐ。
「ヴェルディアナにとって、血の従者の立場は重要なものだったはずだろ」
「そうね、それは否定しないわ」
“
アヴローラとの信頼関係も築きやすいだろう。覚醒して一日と経っていないのにも関わらず、アヴローラは既に“まがいもの”に懐き始めている。命懸けで守ろうとしたというのもあるが、従者という立場が少なからず影響しているもの間違いない。
領地と領民の奪還、そしてザハリアスへの復讐を目論むヴェルディアナからすれば喉から手が出るほどに欲しいものだったはずだ。
「でも、私が血の従者になれなかったとしても、それが諦める理由にはならない。アヴローラは記憶喪失だったり誤算だらけだけど、まだまだ“宴”は始まったばかりだから。挽回ならいくらでもできるの」
むんと気合いを入れるように拳を握りヴェルディアナは気丈に笑ってみせた。
強いな、と“まがいもの”は思う。上手くいかない現実に直面しながら自棄にならず、今できる事が何かを考えようとしている。原作崩壊級の衝撃的な展開の連続に頭を抱えたくなっている“まがいもの”とは大違いだ。
ヴェルディアナのように前向きに物事を捉えられたなら、と益体もないことを考えては自己嫌悪に心が軋む。
ヴェルディアナの望む救済も復讐も叶わないと知りながら、どの面下げてそんなことを考えているのか。胸中で自分自身に吐き捨てて心を殺していく。そうでもしないと、目の前の少女を直視することもできない。
仄暗い感情を滲ませる“まがいもの”の姿に、ヴェルディアナは仕方ないとばかりに苦笑を零した。
「それでも古城が気に病むのなら、これからも私に力を貸してほしい」
「それは──」
ヴェルディアナの望みである領民の救済か、あるいは復讐か──
何方が、あるいは両方が出るかと身構えていた“まがいもの”は続く言葉に呆気を取られた。
「アヴローラの身の回りの面倒を見てほしいの」
「へ……?」
「あの子、記憶喪失で色々と心配事も多いでしょ? 記憶を取り戻す作業は長丁場になるだろうから、そうなると私もずっと側には居られないだろうし、一人にするのも不安だもの。古城が側に居てくれたら、あの子も安心するわ」
「お、おう。そうだな……」
「どうかしたの、古城?」
「……いや、なんでもない。こっちの早とちりだ」
疲れたように大きな溜め息を吐き、“まがいもの”は肩の力を抜いた。
勝手に勘違いした挙句に身構えて、肩透かしを喰らって撃沈した。ただそれだけのことであり、わざわざそれを自供するつもりもない。
「それに、古城にとってもアヴローラが記憶を取り戻すことは大切なことでしょう。凪沙を救うためには、アヴローラの力が必要なんでしょ?」
「そう、だな……」
アヴローラの記憶喪失はそう単純な話でもないのだが、凪沙を救うのにアヴローラの力が必要なのは事実だ。それがなくとも、“まがいもの”にはアヴローラを護らなければならない理由がある。
ヴェルディアナに頼まれなくともアヴローラの面倒を見るのは吝かではなかった。
今頃は“りあな号”の寝台でぐっすり眠っているだろうアヴローラを脳裏に描いて、“まがいもの”はふっと笑みを零した。
「やっと笑ったわね」
「うおっ……」
隣から覗き込むようにヴェルディアナが顔を寄せてくる。唐突に距離を詰められて“まがいもの”は反射的に身体を仰け反らせた。
大袈裟な反応にヴェルディアナは何が楽しいのかくすくすと笑い、一頻り笑い終えると徐に夜空を見上げる。
「あーあ、憂鬱なの。ザハリアスは取り逃すし、アヴローラは記憶喪失だし、
「その割に愉しそうだな」
「愉しくないわよ。これから先どうすればいいか分からないし、ここで生活するために働かないといけないし……はぁ、カルアナの娘たる私が労働に身をやつさないといけないなんて……」
ずーんとあからさまに落ち込んでいくヴェルディアナ。地位を失う前までとの落差で見て分かるほどに気落ちしている。
笑ったり落ち込んだり忙しいヴェルディアナに“まがいもの”は苦笑を零した。
「悪いな、そっち方面ではあんまり力になれそうになくて。働き先探しくらいなら、多少は手伝えるかもしれないけど」
都市条例で中学生のバイトが禁止されているため、生活費を稼ぐことは“まがいもの”にはできない。約一名、中学生でありながらバリバリにアルバイトしている例外はいるが。ご存知、藍羽浅葱である。
「歳下の男に集ったりしないの。でも良い働き先があったら教えてほしいわ」
「お安い御用だ」
軽く胸を叩いて“まがいもの”は請け負った。
「あぁ、そうだ。忘れる前に返しとくよ」
“まがいもの”が懐から淡い輝きを放つ銀槍を取り出す。アヴローラの封印を解くのに用いられた真祖殺しの聖槍だ。
「わざわざ拾ってくれたの?」
役目を終えた聖槍は魔族であるヴェルディアナにとっては無用の長物。売れば一財産築くことも可能だろうが、あの時はアヴローラの保護が最優先だった。故に回収は諦めていたのだ。
「カルアナの数少ない遺産だろ?」
一族を根絶やしにされ、領地も領民も奪われた。ヴェルディアナの手元に残っているカルアナ家の財産や形見の類は悲しくなるほど少ない。
そんな彼女にとってはカルアナ家が代々守護してきた聖槍でさえも、家族との繋がりを感じさせる大切な品なのだ。
差し出された聖槍を受け取るヴェルディアナ。冷たい聖銀の感触に目を細め、胸元に押し付けるように握り締めた。
「ありがとう、古城」
「どういたしまして」
万感の想いが込められた感謝の言葉に、“まがいもの”は微笑み混じりにそう返した。
▼
絃神島の中央に位置するキーストーンゲートの屋上。絃神島の夜景を一望できる位置に佇む人影が三つ。何れも人ならざる気配を滲ませた、強力無比な吸血鬼であった。
一人は少年。年恰好は十代前半で黒髪褐色といった異国情緒の漂う出立ち。金色の瞳は闇夜に浮かぶ絃神島を鋭く睥睨している。
少年の名はイブリスベール・アズィーズ。第二真祖直系の吸血鬼だ。
一人は青年。純白の
青年の名はディミトリエ・ヴァトラー。“戦王領域”の貴族であり、真祖に最も近いと謳われる男だ。
そして最後の一人は少女。淡い緑色の髪を靡かせ、翡翠の如き瞳を愉快そうに細めている。佇まいは愛らしい少女のようであるが、しかし纏う空気は野生の豹の如く力強いものだった。
少女の名はジャーダ・ククルカン。“混沌界域”を統べる領主である第三真祖“
“戦王領域”からヴァトラー。
“滅びの王朝”からイブリスベール。
“混沌界域”からジャーダ。
三つの
三人が集った目的はただ一つ。久しく開催されていなかった“焔光の宴”への参加、あるいはその行末を見届けること。そのために彼等はこの時、この場に集ったのである。
「くふふっ、中々に面白い見せ物だったな。
昼間に勃発した事件の一部始終を見物していたのだろう。ジャーダが愛らしい八重歯を覗かせて愉しそうに笑った。
反対にやや険しい面持ちで事の成り行きを見届けていたのはイブリスベール。彼は隣に立つ飄々とした様子のヴァトラーを横目に睨み、やや非難するような語調で言う。
「血の従者などどうでもいいが、お前は何を考えているヴァトラー。
「折角の“宴”ですから、愉しまなくては損でしょう?」
くつくつと喉を鳴らして笑うヴァトラーにイブリスベールは呆れた眼差しを向ける。
吸血鬼というのはどいつもこいつも退屈を嫌う。特に永い時を生きる者ほどその傾向は顕著である。ただしヴァトラーは吸血鬼の中でも若い部類に入るが。
ヴァトラーの言葉に同調するようにジャーダが首肯を返す。
「うむ、それでこそ“宴”が華やごうもの。だが、一つ気になるな」
ジャーダの翡翠の瞳が青年貴族を真っ直ぐに見据える。
「
「さて、どうでしたか。あまり細かいことまでは覚えておりませんので」
「くふふ、この
ジャーダが徐に背後を振り返る。いつからそこに居たのか、三人の吸血鬼が一堂に会する空間に一人の少女が踏み込んでいた。
彩海学園の制服を着た年若い少女だ。黒髪おさげに眼鏡という如何にも委員長然とした風貌である。胸元に抱える一冊の本も相まって図書室にでもいそうな佇まいだった。
しかし此処は図書室ではなく規格外の吸血鬼たちが集う場。三つの
「今宵は急な呼び出しに応えて頂きありがとうございます、お三方」
「全くだ。“
恭しく三人の吸血鬼に一礼する少女に、やや不機嫌な様子でイブリスベールが問う。
“
ルール違反などがあれば真祖であろうと容赦なく処罰を下す。人間の身でありながらそれを実行できるだけの実力を持っている。
少女の名は閑古詠、またの名を“
古詠は下げていた頭を上げると叩き付けられる鬼気を物ともせずに言葉を続ける。
「お呼び立てした理由を説明する前に、ネラプシ暫定自治領代表のバルタザール・ザハリアス議長からの言伝をお伝えします。今宵の議題については、我々の決定に従うとのことです」
「ふん、成り上がりの兵器商風情が。この場に顔を出していればその首を落としてやったというのに」
不快極まりないと言わんばかりに顔を歪めるイブリスベール。純血の吸血鬼であるイブリスベールにとって、粗暴で野卑な匈鬼は侮蔑の対象。そんな匈鬼を扇動して国を興させたザハリアスは嫌悪と殺意を向けるに余りあるのだろう。
ザハリアスはそれを察して古詠の招集を辞したのだろう。あるいは昼間の一件があって忙しなくしているのかもしれない。
「それでは、今回の議題を説明いたします。既に皆様ご存知かと思われますが、
「アヴローラ? あれにわざわざ名前を与えているのか?」
酔狂なことだ、とイブリスベールは呆れ混じりに呟く。イブリスベールにとって彼女たち“
アヴローラの名前の由来や名付けの経緯を説明するつもりもない古詠はそのまま話を続ける。
「本日、ヴェルディアナ・カルアナ元伯爵令嬢がMARに不法侵入。MAR研究施設にて保管されていたアヴローラの封印を無許可で解きました」
「領地と領民、一族と全てを失った貴族の娘が
「さて、我々には分かりかねます」
笑みを深めて問うヴァトラーに古詠は臆する事なく答えた。
空気が微かに張り詰める。貼り付けたような笑みのヴァトラーと能面のような無表情を貫く古詠。互いの腹を探り合うような視線の応酬は痺れを切らしたイブリスベールの言葉によって中断された。
「腹の探り合いは他所でやれ。議題は
「失礼しました。アヴローラですが、失格にはしません。このまま“宴”に参加させます」
「ほう? だがカルアナの娘は賭けるべき領地がない。ザハリアスめのせいでな」
カルアナ伯爵領は他ならぬザハリアスの手によって奪われ、今はネラプシ自治領と名を変えている。領地も領民も失ったヴェルディアナに選帝者としてアヴローラを担ぐことはできない。
「はい、ヴェルディアナ・カルアナに選帝者としての資格はありません。故に宴の舞台は私たちが用意します」
「たかが極東の島国が我ら
「もちろんです」
挑発的な物言いのイブリスベールを真正面から見据え、古詠は自らの背後に広がる絃神島の街並みを指し示す。
「私たち日本政府が賭けるのはこの島。この地と、此処に住む五十六万人全ての命です」
古詠の宣誓に三人の吸血鬼は愉快そうに口端を吊り上げた。