満月の前日──
血の従者に覚醒して以来逃れることのできない朝の気怠さに頭を痛めつつ、“まがいもの”はクローゼットを前に支度を整えていた。
制服の上からパーカーを羽織るスタイル。一見すると普段と大して変わらないが、パーカーの下には防弾性を備えたタクティカルベストを着込んでいる。足元に置かれたスクールバックの中身は携行できる銃器と、銀の杭が装填された折り畳み式のクロスボウだ。
非常に物騒極まりない装備である。とてもではないがこれから学園で授業を受けるとはいえない様相だ。
それも当然だ。“まがいもの”に登校する意思など微塵もないのだから。
ふと、部屋の外から響く忙しない足音に“まがいもの”は物騒な銃器を物陰に押し込んだ。
「あ、古城くん。今日は早いんだね。凪沙はチア部のお手伝いがあるから先に行ってるね」
「あぁ、気をつけてな」
ぱたぱたと軽い足取りで部屋の前を過ぎる凪沙を見送る。一時期はぎこちない関係に陥っていたものの、浅葱の取りなしで以前と変わらない関係性に戻っていた。
玄関扉が閉じたことを確認して“まがいもの”は手早く支度を済ませる。一見すれば何処にでもいる高校生、服の下には物騒な装備を着込んだ学生が出来上がった。
重いスクールバッグを肩に担ぎ、“まがいもの”も外に出る。向かう先はヴェルディアナとアヴローラが拠点としている“りあな号”。そこにいるであろうヴェルディアナと話をする必要があった。
ヴェルディアナを相手に争うつもりはない。各種装備を用意したのは話し合いの後に必要だからだ。
吸血鬼にとっては鬱陶しいほどに眩い朝日に目を眇めつつ、“まがいもの”は確たる覚悟を胸に運命の一日を歩み始めた。
──“まがいもの”の知らぬところで、既に運命の歯車はどうしようもなく回り始めていたというのに。
▼
“まがいもの”が出立したのとほぼ同時刻、“りあな号”にて──
すやすやと涎を垂らしながら眠るアヴローラの傍ら、物音を立てないように身支度を整えたヴェルディアナがいた。
服装はアルバイトへ赴く時のものではない。絃神島へ来訪した時に着ていた一張羅の革のスーツだ。
アルバイトへはもう行かない。先週のうちに退職の旨を伝えて受理されている。店長からは急な申し出も相まって酷く惜しまれたものの、最終的には了承を得て比較的円満に職場を辞していた。
ただ、アルバイトを辞めた件については“まがいもの”にもアヴローラにも伝えていない。話せば理由を問われてしまうから。ヴェルディアナは最終勤務を終えても告げることなく、胸の内に秘めていた。
身支度を整えて船を出る直前、ヴェルディアナは後ろ髪を引かれるように船内を振り返る。
すっかり生活感の染み付いた船内。窮屈で決して快適な環境ではなかったものの、アヴローラと此処で暮らした日々は退屈のない充実したものだった。
寝台で眠る幼い少女を一瞥し、ヴェルディアナは──
「──さよなら、アヴローラ」
小さく別れの言葉を残して船を去った。寝台と床の隙間で掌大の銀のプレートが鈍い輝きを放っていることにも気付かず。
船を出てしばらく目的地に向けて歩いていると、往く道の先に見覚えのある人影が佇んでいた。
彩海学園の制服を身に纏う、黒髪をおさげに纏め眼鏡をかけた少女だ。その手に携える本も相まって、側から見れば登校途中の文学少女といった風体にしか見えない。
先に口火を切ったのは文学少女──閑古詠だった。
「一人で戦うつもりですか?」
古詠の問いにヴェルディアナは歩みを止める。
「今日までアヴローラは“
「暁牙城と暁古城は? 彼らは全てを知った上で、貴女を利用していたのです。復讐に巻き込んだところで、何の痛痒もないでしょう?」
「…………」
古詠の辛辣な物言いにヴェルディアナは寂しげに目を伏せた。
牙城と古城が自分を利用していることはずっと前から、絃神島に訪れるより以前から知っていた。
真祖殺しの聖槍を回収してから絃神島に乗り込むまでの期間、ヴェルディアナは故郷を救うための方策を探し求めた。ザハリアスを抹殺する以外の手段があるのならば、現実的な方法があるのならばと方々に手を伸ばして模索したのだ。
その果てに接触したのが世界の調停者たる獅子王機関。僅かにも可能性があるのならと門を叩いたヴェルディアナは、そこで無慈悲な現実を突き付けられることになった。
儀式自体の妨害を企めば、世界最強の吸血鬼たる真祖が三人と獅子王機関が立ちはだかる。大した力もないヴェルディアナには覆しようのない残酷な現実だった。
追い討ちをかけるように、暁牙城と暁古城がそれらの事実を知りながら沈黙していることまで明かされ、当時のヴェルディアナは見るに忍びない有様だった。
それでも、ヴェルディアナは絃神島へと来訪した。一縷の希望に縋る憐れな小娘のように振る舞いながら、全てを知った上で暁古城のもとへ現れたのだ。
じっと問い詰めるような古詠の眼差しにヴェルディアナはしばしの沈黙。ややあってから徐に口を開いた。
「そうね、貴女の言う通りなの
それは主観的に見ても、客観的に見ても事実だ。だからそこを否定することはしない。けれど、一方的に非難できない理由があった。
「牙城は、時々私の目の届く範囲に“
最初の頃は資料やら論文やらを放ったらかしにする牙城のガサツさに憤っていた。しかし次第にその行いが自身への遠回しな忠告、あるいはメッセージであることに気付いたのだ。
ヴェルディアナが復讐を諦められないことを理解した上で、牙城は遠回しなやり口で真実を告げようとしていた。資料の中には、ヴェルディアナの姉が伯爵領を生贄に捧げてでもザハリアスと戦おうとしていた事実を示すものもあった。それらの事実を知れば、あるいは踏み止まる可能性があるのではと考えたのだろう。
しかし牙城の思惑は叶うことなく、ヴェルディアナは絃神島へ訪れた。
「古城は私を止めなかった。止めたいと思ってるのはひしひしと感じたけど、止めないでいてくれたの。その上で、私が折れてしまわないように支えてくれた。だから私は……」
そこまで口にしてヴェルディアナは未練を捨てるように頭を振った。これ以上は野暮だと、口にすれば後ろ髪を引かれると思ったのかもしれない。
「私も彼らも、もう十分利用し合ったの。だから、これ以上は巻き込まない。ザハリアスへの復讐は、私が一人で終わらせるの」
改めて揺るぎない意思を表明したヴェルディアナは目の前に立つ古詠を真正面から見据える。
「だから、ごめんなさいなの。貴女たちとの取引には乗れないわ。彼らを騙すことも、アヴローラを差し出すことも、今の私にはもうできないから」
それは、ヴェルディアナと古詠が絃神島に訪れる以前に接触した時に持ち掛けられた取引。暁親子を利用し、最終的にアヴローラを差し出すのであれば、ザハリアスへの復讐だけは助力するという提案。
元カルアナ伯爵領の救済は叶わないが、怨敵たるザハリアスへの復讐は保証される。
「…………」
断られることは想定していたのか、大して動揺した様子もない古詠。ただ湖面のように凪いだ瞳は真っ直ぐヴェルディアナの瞳を見据えていた。
「……分かりました。我々はあくまで
「ええ、勝手にさせてもらうの」
いっそ清々しいくらいに獅子王機関からの提案を蹴り、ヴェルディアナは迷いない足取りで古詠の横を通り過ぎた。
死地へと赴くヴェルディアナの背中を見つめる古詠。その横顔には筆舌には尽くし難い、複雑な感情が滲んでいる。
しかし古詠はただ見送るだけ、ヴェルディアナの姿が見えなくなるのと同時にその場を後にした。
▼
物騒な銃器を詰め込んだスクールバッグを片手に、完全装備の状態で“まがいもの”はマリーンに足を運んだ。
静かに響く波音を聞きながら、“まがいもの”は“りあな号”を前に緊張を解すように深呼吸をする。
今日の目的はヴェルディアナと事を構えることではない。ヴェルディアナと面と向かって話し、隠していたことを包み隠さず明かして、その上で改めて協力を申し出る。話し合いは間違いなく難航するだろうが、これも今日まで利用してきたつけだ。罵声も罵倒も、拳も甘んじて受け入れる覚悟で来た。
「よし……いくか」
意を決して“りあな号”へ乗り込もうとする“まがいもの”。その出鼻を挫くように船内から小さな影が飛び出してきた。
「従者!」
「うおっ、どうしたアヴローラ? 今日は早起きだな」
盛大に寝癖を付けた寝起き姿で飛び出したアヴローラに“まがいもの”は目を丸くする。この時間帯に起きているのも驚きだが、それ以上にアヴローラの矢鱈と焦った様子が気掛かりだった。
「我が盟友が何処にもいない……」
「いない? バイトに出掛けたんじゃなくて、か?」
「い、否。違うと、思う」
明確な根拠があるわけではないのだろう。自信なさげに首を横に振るアヴローラだが、“まがいもの”は漠然とした胸騒ぎを感じていた。
逸る気持ちを抑えて船内に足を踏み入れる“まがいもの”。軽く船室内部を見回して、“まがいもの”は僅かな違和感を抱く。
「荷物が少ない? それに、妙に片付いているような……」
ぱっと見てヴェルディアナの私物がなくなっている。加えて船内も、生活感が薄くなっているように見える。まるでヴェルディアナの存在だけひっそりと抜け落ちてしまっているような感覚だ。
胸騒ぎが嫌な予感へと変わっていく。“まがいもの”はヴェルディアナのバイト先に連絡を取ろうとスマホに手を伸ばして、ふと寝台と床の隙間で鈍く光る銀色のプレートを見つけた。
目を見開き、微かに震える指先でプレートを拾い上げる。掌大のプレートには日本語でも英語でもない、恐らくは天部の時代の文字が刻み込まれている。解読はできないが、“まがいもの”はこのプレートの出自を知っていた。
それは“宴”の招待状。ザハリアスから
本来であれば
「まさか──!」
「従者!?」
血相を変えて船を飛び出る“まがいもの”と後に続くアヴローラ。
“まがいもの”は焦燥を露わに周囲を見回す。朝も早いマリーンに人影はなく、ヴェルディアナの行方を誰かに尋ねることもできない。
ならばと“まがいもの”は数少ない協力者である牙城に連絡を取ろうとスマホを取り出す。もしかしたら牙城の元にいるかもしれない、あるいは何かしらの接触があったかもしれない。
逸る気持ちを抑えて牙城へのコールを始め、応答を待つ。数コール、初期設定の呼び出し音が虚しく続く。昨夜の酒の影響で寝ているのか、牙城はなかなか応答しない。
「くそっ、こんな時に……!」
不在着信になった通話を切り、再度コールを始めて──遠く離れた場所で轟いた爆発音に意識を奪われた。
微睡む絃神島を呼び覚ます盛大な爆発音。“まがいもの”は反射的に振り返り、アヴローラはびくりと身を縮こまらせた。
「ひぅ……?」
「なんだ? あれは……爆発?」
爆発音から数秒、市街地方面から空へと立ち昇る黒煙を認めて“まがいもの”は眉を顰める。
何処ぞの魔族が暴動でも起こしたのか、或いは魔導災害か。“魔族特区”である絃神島で爆発騒ぎ程度は珍しくもない。ないが、タイミングがあまりにも不吉だった。
「──まて、待てよ。あのあたりって、確か……!?」
最悪の想像が脳裏を過った時、コールを繰り返していたスマホがやっと繋がった。
「牙城! 聞こえるか、牙城!? ……牙城?」
呼び掛けるではなく殆ど怒鳴るような声で相手の応答を求める。しかし呼び出した相手の声は聞こえない。通話口から洩れ聞こえるのは遠くで響く誰かの悲鳴と酷い雑音ばかり。
嫌な予感が現実味を帯びつつある感覚にいよいよもって余裕がなくなってきた“まがいもの”。通話口から牙城の声が響いたのはその時だった。
「よぉ、兄弟。元気そうで、なによりだ……」
「牙城!? 何があった? 無事なのか!?」
「ははっ、そんな台詞が飛び出すってことは、そっちも良くないことが起きてるみてぇだな……」
普段と変わらない軽薄な口調。しかし電話越しにも分かるほど、その声は憔悴し酷く弱々しい。時折聞こえる掠れ気味の吐息も相まって、牙城の状態が無事とは言い難いことが窺い知れる。
「はぁ……悪いな、兄弟。昨日の今日で悪いが、どうやら俺は、ここで
その言葉は“まがいもの”の嫌な予感を現実のものだと証明した。そして、既に運命の歯車が回り始めていたことを“まがいもの”に知らしめたのだ。
「──ザハリアスが、先手を打った。気を付けろよ、兄弟……」
短い警告を残して通話が途切れる。それがこの日、“まがいもの”と牙城の最後のやり取りになるのだった。