ー喰種人権保障協会本部、跡ー
「...これは、ひどいなァ」
つい昨日に被害があった現場をぐるりと見渡すのは、下口上等捜査官だ。そこには、おびただしい人だったモノと、むせ返るような血臭が広がっていた。壁から天井まで辺り一面に赤黒い血がぬらぬらと光っていて、まだ事件が起きてそれほど経過していない事を表している。
下口が後ろを振り向くと、連れてきた部下数人が吐いているのが見えた。
「おいおい、こんなクセェところに汚ねえもんぶちまけんなよ。片付けるの誰だと思ってんだ」
「だ、だって...こんなもの見せられたら、よっぽどサイコパスじゃなけりゃ気持ち悪くもなりますよ。下口さんはなんでだよ平気なんすか、うっ⁉︎おろろろろ...」
思わず顔をしかめ苦言を呈した下口に、部下の一人、岡平二等捜査官が反論するが、また真っ青な顔をして吐いた。もう吐くものがなく、黄色がかった胃液しか出ていない。
下口は、相変わらず顔をしかめながら、
「捜査官長くやってりゃ、こんな現場なんて何遍も見ることもあるんだよ。ったく。情けねぇなぁ」
髪をがしがしとかきながら、吐き終わった岡平に質問する。
「で?ガイシャの正確な人数は?」
「それは、その...さすがにここまでぐちゃぐちゃにされると、人数のつけようがないというか...」
「なんだよそれ。まあ、もう原型も留めてねぇしなぁ」
「うっ⁉︎原型も留めてないとか、言わなおろろろろ」
テメェもぐちゃぐちゃとか言ってたじゃねぇか、と、またもや吐いた岡平にイライラしたような目を向けて、下口は一人ごちた。
「まあ、喰種の人権だかなんだかを言ってた非常識人共だったがな。しかしその肝心の喰種に喰われるってんだから、本末転倒というかなんというか...まったく、喰種ってのは本当にろくでなししかいねぇんだな」
ため息をひとつ吐くと、下口は、
「よし、じゃさっさと退散するぞ。こんなとこ居たくねぇしな」
「えっ⁉︎もういいんですか?」
「俺らがここにいてもできることは今のところねぇ。後は鑑識の仕事だ。吐いてねぇでさっさと帰るぞ」
「ま、待ってくださいよぉ〜」
ーー3区、夜ー
人通りの少なくなった、3区街通。車も無く、明かりと言えば、月の僅かな光と、街灯だけだ。《CCG》での事務仕事を終え、一人でとぼとぼ帰る岡平は、一人ため息をついていた。
「はあ、こんな暗がりの中、一人、かあ...。あんなの見ちゃった後だから、何か起きそうで怖いなぁ」
基本的に気が弱く、何故自分が命をかける仕事である喰種捜査官をしているのかは、自分でも分からない。強いて言えば、喰種への反感が高まっているこの時代、腕が立つ者は男女問わず《CCG》に入局するのが社会世論になっていた。この男、人畜無害な顔のくせに剣道の高校の全国優勝者なのだ。高校時代、悪鬼羅刹とまで言われた男は、こうして、悲惨な現場を見てただ吐くしかできなかった。我ながら情けないとは思うが、剣道の試合をする以外はどうも気持ちが乗らない。
「はあ...」
何度目かも分からないため息を付き、下を見る。
ーー本格的に、捜査官が向いてないかもなあ。
そう思えば思うほど気が沈み、そうでない理由を探そうとすれば、逆に向いてないことを決定づける理由ばかり思い浮かびまた落ち込む、という負のスパイラルに陥る。
ーーほんとに情けない。
こんな時は酒でも一杯やって忘れたいが、どうしてもあのヒトがただの肉塊になっている光景がフラッシュバックする。
「おえっ」
そしてまた吐きそうになるのを、自制心とプライドだけで押しもどす。何時までも引きづっていられない。いい加減切り替えなくては。そう思い、帰路につく足を早めたーーすると、声がした。
「こぉ〜んな人の少ないところに一人とか、超ウケるんですけどww」
「⁉︎」
すぐに辺りを見渡す。誰もいない。おかしい。確かに、声を聞いたーー
「こっちよぉ〜ww」
うえに、おおきなおくち、があいていた。
「うわああああああああああっ⁉︎」
急いで体を屈ませ、かわそうとする衝撃で吹っ飛び、壁にぶつかる。体の左側にじくじくした痛みを感じ、見るとーー左腕が、無い。
「な、な、あ」
「おっほうwwなかなかいい肉じゃん?これ久しぶりにいい餌発見wwwww」
「ぐ、喰種...!」
岡平の左腕を齧りながら爆笑する、ヒトらしき生物。ソレこそが、社会の天敵、絶対悪、喰種だ。
ーーど、どうする⁉︎クインケなんて持ってないし、助けを呼ぼうにも、辺りに人がいな
「イッタッダッキッマッスww」
こちらが考えをまとめる前に、大口開けて、飛び込んで来た。直線的な動きのおかげで、なんとか避けることができた。喰種はそのまま壁にぶつかる。
「や、やったか⁉︎」
自動車並みの速さで飛んできたのだ。いくら人間より頑丈な喰種とはいえ、さすがに無傷ではーーと思った自分を呪った。
壁はまるで巨大な鮫に喰われたかのような痕をのこし、大きく抉れた。そして、立ち上がった喰種は口の中に入ったコンクリートを吐き出し、こちらを血走った目で見つめるーー無傷。血も、打撲も、裂傷も、かすり傷さえもついてない。
「そ、そんな...」
「ぺっ、余計なもん食っちまったよぉ。お口直しに一口だけ、ね?」
「ひ、ひいっ!」
ゲラゲラ笑いながらこちらに来る。もう逃げられない。本能が告げる。もう無理だ。諦めろ。ああ、そういえば、まだ実家に帰ってなかったなぁ...。
絶望のあまり、もはや生きることを放棄した岡平。喰種は大きくにやけた後、口を大きく開けた。
歯と歯の間に、肉片があるのが分かる。こいつは、一体何人の人を殺してきたのか、吐く息が血生臭い。喰種の目を見る。その色は歓喜。上質なステーキを食べるときの、自分の目と同じ。
この喰種は、仮にも似通ったカタチをもつ人間を、自分の食物としてしか見ていない。だから、そんな顔をしていられるのだ。
この喰種は危険だ、と今更ながら思う。こんな時、もし自分でなかったら、喰種捜査官は、手足がたとえもがれても戦うだろう。このクソチキン。死んでも臆病は治らねえ。
涙で視界がぐちゃぐちゃに歪む。もう終わりだ。さようなら、と死を受け入れた。最後に自分を罵る。これが、非力な岡平にできる唯一の抵抗だ。
喰種の手が肩に置かれる。そして、そこに歯を突き立て、ゆっくり、しかし確実に、喰いちぎるーー。
「ーー見つけた」
声がして、喰種が吹き飛んだ。
「藤川さん。こちら衣吹一等捜査官。レートB〜、通称《シャーク》発見しました。直ちに交戦に移ります」
青年は、インカムで上司にそう伝えると、岡平を見下ろす。その目は、無関心、無感情、無感動。ただ、目の前喰種を倒すためにすべての感情を使っているようだ。
「おい、お前」
「は、はいっ⁉︎」
「さっさと立って逃げろよ。協力する気がないなら邪魔だ」
「...う、うん」
言われた通りに後ろに下がる。いつの間にか震えていた。完全に腰が引けていたらしく、立ち上がれない。仕方なく、限りなく不恰好だが這いずって後ろに下がった。
「おい、君大丈夫か⁉︎」
「えっ」
後ろから声がし、振り向くと、アタッシュケースを持った喰種捜査官が一人やってきた。
「えっと...」
「ああ、すまん!大丈夫なわけないか!左腕がない⁉︎あいつに喰われたか!くそ、本当にすまん!我々の発見が遅れたせいで、きみに深手を負わせてしまうとは、なんたる失策!くそぉ...くそおおおおお!!!」
「藤川さん!うるさいんで黙って下さい!こっちは戦ってるんです!」
「ああ、そうか!すまん!よし、君、立てるかね?私が肩を貸すから、『一般人』は早くここから離れたまえ!」
「えっ、あの」
「藤川さん!早く!」
「さあ、行くぞ、早くせんと巻き込まれる!」
藤川上等捜査官とあの捜査官(バッジからして二等捜査官)が去ったのを確認する。
「やっと行ったか...」
「なんだよぉ〜こっちはしかとかぁ〜?せっかくいい肉見つけたのによぉ〜こっちゃもう腹ペコなんだゼェ〜?てめえ喰わせろぉぉぉ!!」
空腹状態で錯乱する喰種がこちらへ向かってきた。喰種の名は通称《シャーク》その名の通り、戦闘後や捕食対象にまるで鮫が齧ったかのような後があるため、そう呼ばれた。レートはB〜。そう大して脅威はないが、早々に潰しておく必要があった。作戦開始は3日前。まあ、作戦と言ったところで、『喰場』と思われる複数の場所をしらみ潰しに周り、先ほどようやく見つけたような、典型的な足で稼ぐタイプの方法だ。
ーー見つけるのに時間がかかった獲物だ。ここで逃したら、警戒してもうここに現れないかもしれない。住む区も変わるだろう。
そう考えると、衣吹は手にもつレートAクインケ《レイヴンMK-III》を構え、引鉄を引いた。
レートAクインケ《レイヴンMK-III》。ショットガンの形をした、羽赫クインケだ。威力は高いが、間合いが非常に狭く、使うには、比較的扱いやすい羽赫クインケにしては、腕を求められる。元となったのは、レートA喰種、《レイヴン》。その名の通り、カラスのマスクを被った喰種だ。かつて、上等捜査官3名を殺害、捕食し、その他10件の捕食事件を起こした。その後、紆余曲折あり、当時三等捜査官だった衣吹に討伐される。現在、衣吹専用クインケとして喰種を屠る、衣吹の相棒だ。
《シャーク》は《レイヴンMK-III》の放つ赫子にもろに当たり、またもや吹き飛ぶ。
「ぎぃやああああああ⁉︎」
目をやられたらしく、目を押さえながら悶える。
「くそおおおお!」
暴走し、赫子を飛ばす。狙いが定まらなく、軽く避けただけで衣吹に当たることなく、周りの壁や地面を傷つけただけだ。
ーー鱗赫か...少々厄介だ。
鱗赫は、文字通り鱗のような表面を持ち、変幻自在な動きをする、トリッキーな赫子だ。《シャーク》の赫子はまるで虫の様にうねうねと蠢いている。もともと予想外の動きに加え、暴走しているおかげで、非常にやりづらい。
「...!」
衣吹は狙いを定めると、二本の内一本の赫子に狙いを定めると、引鉄を引いた。赫子が血を流しながら、四散する。
「うぉぉああああ⁉︎」
痛みに叫ぶ《シャーク》に、ダメ押しの一撃をもう一本の赫子に当てる。そして、最後に《シャーク》の頭に銃口を向けーー火を噴いた。《シャーク》の頭が吹き飛んだ。そのままピクピクと痙攣し、やがて動かなくなる。
「藤川上等!《シャーク》討伐成功です」
「おお!よくやったぞ衣吹くん!いやぁ、君はすごいな!これで何対目だ?」
「30体目です」
「きみまだ入局して一年だろう⁉︎本当にすごいなぁ、このままでは、私なぞすぐに追い抜かれてしまう」
「いや、そんなことは。藤川上等には、まだかないません」
「そんな謙遜はよしたまえよ!そうだ!この後飲みに行かないか?衣吹くんの30体目討伐祝勝会だ!」
「はい。しかし、この後本部で呼び出されてまして、また後日でよろしいですか?」
「おお、構わんよ、では、私の方で何人か誘っておくよ」
会話をしながら、衣吹はふと気づいたことを問う。
「あの、そういえば、あいつは?」
「あいつとは?」
「ほら、紛れ込んでた奴です。あいつはどうしてますか?」
「ん?ああ。すぐに家に帰したが。」
「そうですか...」
藤川はどうやら、あの青年が喰種捜査官であると分からなかったらしいことを感じ取ると、
「それでは、これで」
「分かった。お疲れ様」
藤川と別れ、《CCG》本部へ向かった。