その告白の日の朝に(ARIA短編集)   作:ゆうきゆう

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原作最終話の頃の灯里の心境のお話。


その蒼のある日常は

 私の一日は、会社の受付のシャッターを開けることから始まる。

 閉じた会社の内の空気を外の世界へと解き放つこの行為は、同時に私自身も外へと飛び出したくなるような、そんな気分にさせてくれる。

 シャッターを上げた瞬間、私の目に飛び込んでくる蒼は、ネオ・ヴェネツィアに来てから手に入れた宝物のひとつ。

 部屋の中央から眺める、受付カウンターの枠に切り取られたネオ・アドリア海の風景は、まるで一枚の絵画のようで、季節の移り変わりだけでなく、朝、昼、夜と短い一日の間でも刻一刻と姿を変えるその様は、絶えず私に新鮮な感動を与えてくれる。

 水の都と呼ばれるここネオ・ヴェネツィアにおいても、目の前に開けた外海が広がる場所に位置するARIAカンパニー。

 思うに、その蒼にちなんだ通り名を授けてくれたアリシアさんもきっと、この受付を通して見る風景に魅せられたひとりだったのではないだろうか。

 そんな彼女とふたり眺めたこの名画を、今はひとり占めしてしまっている。

 その事実にちょっとした優越感と、そして同じくらいの寂しさを、どうしようもなく感じてしまう。

 

 

 

 一人前(プリマ)への昇格を果たしてからこっち、いろいろなことがあって、気付けばこの短くも濃密な時間を一気に駆け抜けてしまっていた。

 けれどもようやく一息をつけるようになって周りを見回すと、ほんの少し前とはあまりにも変わってしまった自らの状況が、私の心に戸惑いという名の影を落とす。

 プリマの水先案内人(ウンディーネ)として、そしてARIAカンパニーの唯一の社員として、新たに歩みを始めた私を待ち受けていたもの。

 それは私自身の周りにぽっかりと空いた、ひとり分ないしふたり分の空間だった。

 

 ウンディーネを目指し、遥か地球(マンホーム)よりここ火星(アクア)を訪れてからというもの、私の傍には常に誰かがいた。

 アリシアさんに始まり、藍華ちゃんやアリスちゃん、晃さん、そしてアテナさん。

 もちろんウンディーネ仲間だけでなく、暁さんたちも含め、この街で出会った全ての人々が私にとってはネオ・アドリア海と同じく素敵な宝物だ。

 そんな宝物たちに囲まれて過ごす時間はとても楽しく、愛おしく。

 早いもので私がアクアに来て既に幾年もの月日が経過している事実に、楽しい時間は足早に過ぎていくという、よく言われる俗信を改めて実感する。

 アリシアさんと向かい合っての朝食や藍華ちゃんたちとの合同練習、そしてまた私の帰りを迎えてくれたアリシアさんと囲む夕餉の食卓。

 大切な人たちとの大切な日常は、気が付けばいつの間にやら、もはや過去のものになってしまっていたのだった。

 

 そんな大切なみんなと物理的に少し距離が開いてしまった今日この頃。

 以前とは違う時間の流れの中に身を置いているように感じる。

 このゆったりとした時間がもたらす心の隙間には、ふとした瞬間にするりと寂しさが忍び込む。

 プリマ昇格とアリシアさんの引退。

 本当の意味でのひとり立ちをして初めて、アクアにおいて私はひとりでいることに慣れていないのだと知った。

 会社の同僚がアリシアさん(先輩)以外いなかった私にとって、藍華ちゃんやアリスちゃんという共にプリマを目指す仲間を社外で得ることができたのは、本当に望外の幸せだったのだ。

 もちろん、ふたりとの合同練習の日々を送っていた当時においても、十分に幸せを実感してはいた。

 けれどもそんな幸福な時間を通り過ぎ、歩み進んだ現在。

 少し先の道から振り返った「あの頃」は、当時の自分が感じていた以上に眩しく光輝いていて、思わず踵を返し手を伸ばしたくなる。

 楽しかった「あの頃」に戻れたならと、そう思うこともしばしばで、ついつい甘い想い出に浸っていたくなる。

 

 そんな風に、昔のことを思うにつけて揺らいでしまう私の心だったが、しかしこれまた以前にアリシアさんが伝えてくれた言葉によって落ち着きを取り戻す。

 過去は素敵だった、けれども今だって素敵だ。

 そんな趣旨の彼女の言葉が、ひとり立ちして前を向いて歩いていく私の背中を押してくれる。

 そしてそれと同時に、今も昔も変わらず私の傍にいてくれるアリア社長の顔を見る度に、「今」という時を大切にしていこうと思うのだった。

 後ろばかり気にしていては、共に歩くあまえんぼさんに失礼だ。

 楽しかった「あの頃」は、心の奥底にでもしまっておいて、たまに思い出した時に取り出して眺めるくらいが、きっとちょうどいい。

 

 

 

 以前とは違うゆったりとした時間によって得られたものは、なにも寂しさだけではない。

 これまで一生懸命走っていた時には見えていなかったものが見えたり、また、これまでとは違ったものの見方が出来たり。

 会社の受付を通して見るネオ・アドリア海の風景も、そのひとつ。

 かつてアリシアさんとともに眺めたこの景色からは、プリマを目指して頑張る半人前を温かく見守るような優しさを感じていた。

 全力で走り続ける私の成功も失敗も、全てを受け入れてくれるような懐の大きさがそこにはあった。

 

 今はひとりで眺めるこの景色が、私を包み込んでくれるようなその広大さを損なうなんてことは、もちろんない。

 けれどもプリマのウンディーネとして、そしてARIAカンパニーの経営者として対峙するネオ・アドリア海からは、かつて感じていた一方的な優しさだけではない、ウンディーネを生業とする者に対する信頼が感じられる。

 ここネオ・ヴェネツィアに数多く存在するイベントの中でも、とりわけウンディーネに縁の深い「海との結婚」。

 以前は、単純に盛大なお祭りとしてのそれを楽しんでいた私だったが、事ここに至り、ようやく「海と結婚する」ことの、その本当の意味を感じつつあるのだった。

 「母なる海」なんて言葉もあるように、私たちウンディーネは母に対する敬愛を、「母」たる海は「子」たるウンディーネに対する信頼を。

 海と人との双方向の優しさと信頼こそが、水の都の、水の都たる所以なのだ。

 

 

 

 昔ふたりで眺めた景色とは違う、今ひとりで眺める景色。

 将来もしも私に後輩が出来た時に、再びふたりで眺める景色は、きっとこれまでのどんな見え方とも、また違った見え方がするのだろう。

 その時までは海と私との信頼関係を、それこそアリシアさんにも負けないくらい深いものにしていこう。

 そんなことを思いながら、今日もまたシャッターを上げるのだった。




次でラストの予定です。
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