その告白の日の朝に(ARIA短編集)   作:ゆうきゆう

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ARIAカンパニー入社初日のアイちゃんの話。
今回のみアニメ版の設定も使用しております。


そのはじまりの日の朝に

 頬を撫でる微風が私の意識を覚醒へと誘う。

 規則正しく一定の間隔で吹くそれは、湿気混じりで生暖かい。

 昨日、火星(アクア)に降り立った時に受けた、心地よい海風とは違う湿っぽい感覚に、よりにもよってこんな日に雨なのかと、少し憂鬱な気持ちになりながら目を開ける。

 途端、私の視界いっぱいに広がったのは、真っ白のキャンバスと爛々と輝くふたつの青い点。

 すぐ目の前に迫るその光景に、思わずどきりとさせられる。

 数瞬の後、焦点が合うにつれ、目の前に広がるものが何であるかが判明する。

 白と青のコントラスト。

 その正体は、私の顔を覗き込むアリア社長だった。

 その透き通るような青い瞳で私を見つめる火星猫からは、絶えず生暖かい微風が送られてきている。

 頬を撫でる湿っぽい微風は、なんのことはない、アリア社長の鼻息だったのだ。

 

 アリア社長なりのあいさつなのだろう。

 私が目を覚ましたことを認識すると、独特な愛らしい鳴き声を上げる。

 地球猫に比べて幾分大きなその顔が、目を開くと同時に視界いっぱいに映し出されるのは、正直なところあまり心臓によくはなかったが、しかしいち早く私の意識を現実へと引き戻す一助となったのも事実だ。

 そして、ついにアクアに、ARIAカンパニーに来たのだという実感を抱かせてくれたのも、また事実である。

 

 体を起こし、深く息を吸い込む。

 起き抜けの体に酸素を行き渡らせるとともに、これから始まる新しい生活に、期待と不安がないまぜになった心を抑えつけるように、ゆっくりと息を吐き出す。

 窓を閉めていても微かに漂う潮の香り。

 私の日常には無かったそれは、改めてここが地球(マンホーム)ではないのだという事実を突きつける。

 人の嗅覚というものは、その他の五感に比べて郷愁にかられやすいのだということを、以前どこかで聞いたことがある。

 この街で暮らしていれば、いずれ私もこの潮の香りに故郷を思うようになるのだろうか。

 とりあえずは、「他所に来ている」という感覚を一日も早く拭えるように頑張ろうと思う。

 

 ふと、枕元に置かれたそれに気付く。

 おそるおそる手を伸ばし、壊れ物を扱うようにそっと持ち上げる。

 新品特有の肌触りと、のりの匂い。

 念願の真新しいARIAカンパニーの制服は、今日から私も水先案内人(ウンディーネ)のひとりなのだという期待感とともに、とある不安も呼び起こす。

 それは、ARIAカンパニーへの入社が決まってからこっち、喜びや期待に水をさすかのように、私の胸の中でその存在を小さく自己主張し続けていたものだった。

 

 

 

 私は本当にウンディーネになりたいのだろうか。

 幾度となく自らに問いかけたその疑念は、終ぞ答えを得ることはなく、この日、この瞬間を迎えてしまった。

 初めてアクアを訪れてから、灯里さんを中心に幾人ものウンディーネとの出会いの中で、私の彼女たちに対する憧れは、遠くマンホームに在ってさえ、日に日に増していくばかりだった。

 幼い私にとって、「ネオ・ヴェネツィアの顔」としての彼女たちの笑顔は、とにかく綺麗で光り輝いていて。

 夢見がちな幼い少女が、そのきらきらしたものに、どうしようもなく惹かれてしまうのは、しかたのないことだったように思う。

 しかし、そんな「夢」を無条件に見続けていられたのは、後にウンディーネを目指す決意をし、実際にARIAカンパニーへの入社が決まるまでのことだった。

 それまで憧れの存在として見上げていたウンディーネ。

 いざ、その第一歩を踏み出さんと、正面へと戻した視線の先にあったのは、きらきらと輝く「夢」を支える無骨な屋台骨。

 ウンディーネという「仕事」の現実。

 平たく言えば、そのきらびやかな職業の「ゴンドラ漕ぎ」としての側面だった。

 

 幼い時分に憧れた職業に就けることへの喜びは、嘘偽りない本物の気持ちである。

 しかしながら、そんな憧れとしてのウンディーネとは、あくまで「ネオ・ヴェネツィアの顔」としての存在でしかなかったのだ。

 「ゴンドラを漕ぐ」という行為を生業とする「仕事」だという感覚は、当時の私にはまだなく、本当の意味でウンディーネになりたいのかという、自らへの問いかけはなされないまま、日々憧れだけが募っていった。

 後になって振り返ってみれば、私が思い浮かべるウンディーネ像はいつだって、灯里さんたちのきらきらした笑顔や温かく柔らかい言葉で、一人前の「ゴンドラ漕ぎ」へと至るための、相応の修行期間を要する職人気質な側面なんてものは、当然ながら見えてはいなかったのだ。

 つきつめれば、私の「夢」に対する憧れは、そのはじまりを鑑みるに「水無灯里という素敵な女性」への憧れと同義だったのではないだろうか。

 結局、諸々の現実に目が向いたのは、全てが決まった後のこと。

 憧れへの期待と、現実への不安を抱えたまま、今この瞬間に至っている。

 

 

 

 再びアリア社長がひと鳴き。

 手に取った制服を、顔の前で広げたまま逡巡する私を心配するかのようなその声は、事ここに至ってなお、深く暗い思考の泥沼に沈んでいきそうになっていた私の意識を、現実へと引き上げてくれた。

 様子を窺う仕草を見せるアリア社長に、何でもないといった風な笑みを返し、邪念を振り払うように、二度、三度と頭を左右に振ってみる。

 いつまでも迷っているわけにはいかない。

 灯里さん(上司)が下で待っているはずなのだから。

 

 真新しい制服に袖を通しながら、再び考える。

 自分が本当の意味でのウンディーネになれるのかは、私にはまだ分からない。

 けれども、そんな私を迎え入れてくれた「素敵な女性」とともに歩みたいと思う気持ちだけは、確固たるものとして、私の心に根ざしている。

 諸々の不安は尽きないが、今はこの想いを胸に、新たな一歩を踏み出そうと思う。

 

 憧れの制服に身を包んだ自分の姿を確認した後、意を決して階下へと足を向ける。

 願わくばこの一歩が、本当の意味でのウンディーネに向けての第一歩とならんことを。

 「ついてこい」と言わんばかりに一際大きな声を上げ、一足先に駆け出したアリア社長を眺めながら、そんなことを思うのだった。




最後までお付き合い頂きありがとうございました。
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