我思う故に我有り。誰かがそう言った。
この世界はもしかすると全て嘘なのかもしれない。目の前にいる人は明日には生きていないかもしれないし、信じていた話はお伽話であるのかもしれない。
確かな真実などこの世界には無い。
だけど、彼はここにいる。彼と言う存在が生きている事は紛れもない事実だ。
俗に言う自己認識。当たり前だけど、だからこそ自分らしくいられる。
もしもそれが奪われたのなら、人は何なのだろうか。
だからこそ、彼は思う。
“――
底は地獄で、其処は果てだった。
燃え盛る火炎と崩れ落ちる廃墟。
生命など到底存命する事など出来そうにもない。
地面は焦土と化し、空気は熱に冒され、空は終焉を遂げようとしているのではないかと思わせるような灰色の空だった。
建物は崩れ落ち、廃墟は時間を逆行する破壊に晒され、瓦礫の山を築くのみ。そこに義務もなければ理由も無い。消えるときが来たからただ消えるだけ。
またしても、何かが崩れ落ちる音が響く。
そんな中を一人の少年が体を引き摺りながら歩いていた。
彼の総身は傷に満ちており、染み落ちる血が地面を濡らす。
「――」
“苦しい”
それが今、少年の中に渦巻く思いだった。
着用していた布の切れ端は既に焦げており、そこから見える肌は人間とは思えぬほど細い。
素足でこの地獄を歩くにはさすがに無謀すぎた。瓦礫の角が皮膚を削り、少年の傷を乾いた風が舐める。
灰色の空と吹き荒れる風、爆風により破壊された辺り一帯はこの世とは思えぬ光景。
地獄という物があるとするならば、きっとこのような場所に違いない。
熱風と熱砂、出血と熱が意識を奪い死へと彼を誘う。
だがそれでも、ようやく外に出れたのだ。
後はきっと姉が助けに来てくれる。
もう悪夢に苦しむ必要も無い。
少し、ほんの少しだけで――。
そんな希望にすがるように手を伸ばし、少年は倒れた。
浅く微かな呼吸を何度も何度も繰り返しながら、地面を這いずり少しでもこの地獄から抜け出すために僅かな歩みを進める。
だが、既にその体は限界だった。
煤に塗れても、彼は目を閉じず、ただ弱々しく灰色の空へ手を伸ばす。
簡単に折れてしまいそうなほど細いその腕は、土煙と鬱血に塗れていた。
“――助けて、千冬姉”
「――」
言葉にならぬ声。否、小さな声は地獄を吹き荒れる風に塗りつぶされてゆく。
まるで祈る事すら憚るようで、だが少年はそれに気づかず、ただ必死に手を伸ばす。
しかし、その手は何も掴まない。空を切った手は地に落ちる。
その手が落ちた音ですら、烈風に掻き消されてゆく。
総身は地面に横たわっており、頭だけがかろうじて動かせた。
彼の虚ろな目は空と地面以外何も映していない。
塗りつぶされてゆく世界の中で、微笑む姉の姿を幻視しながら、彼の意識は途絶える。
それが自身の作り上げた一芝居だとは気づきもせず、彼は限界に落ちていった。
少年の体を渇いた風がただ虚しく過ぎ去っていく。
世界は残酷だと誰かが言った。
ある者には幸福を与え、ある者には不幸を与える。
それを平等と言うには余りにも遠い。
だからこそ人は思う。
平等、幸福、不幸。その何が違うのか。
世界は何も言わない。
運命は何一つ先を知らせない。
もし仮に、世界と言う存在が話せるとして自分の運命を教えろと言ったのなら、世界はきっとこういうだろう。
“走れ。自身で前へ行かない臆病者に得るモノなど何も無い”
だからこそ人は言う。
“前とはどこだ”
そして世界は問いかける。
“全ては自身で考えろ。答えなど、与えられれば何の意味も無かろうに”
「ターゲットを確認、拘束する」
『了解よ、見張りは?』
「無力化させた。オータムが後処理を行っている」
長い白髪の少年は、事前に知らされていた情報と合致する女を見つけ、後をつける。
白いロングコートを着ているが、それは目立つようなモノではない。寧ろ目立つとすれば彼の容姿だが、気配を殺しきっている彼に気づけるような一般人は周囲にいない。
例の女が路地裏に入るのを確認し、少年もまた路地裏に入る。そこからの動きはまさしく高速と呼ぶのにふさわしかった。
足音と気配を先ほど以上までに殺し、女の下にまで僅か数歩で追いつくと足払いをかけ、事前に用意しておいた布で女の口を塞ぐ。無論、麻酔を染み込ませた布であるため、女は数秒足らずで気絶した。
「アルカ、ターゲットを捕獲した。後は頼む」
「分かりました。アイン様、スコール様が例の場所でお待ちです」
「あぁ」
どこからか現れたのは黒い服を着た女性の姿だった。少年と正反対である黒い長髪に黒の瞳。陶磁のような白い肌――それはまるで人形のようだ。
女を担ぎ上げた女性―アルカと呼ばれた女―は、そのままどこかへと去っていった。
再び少年は町へと戻っていた。とは言っても後は仲間と待ち合わせているだけであり、そこまで尊大な場所へ行くわけでもない。
先ほどとは違い、気配を殺しているわけではないので、町のありとあらゆる視線は彼一つに注がれていた。
白いロングコートに長い白髪、ルビーのように赤い瞳、無垢という表現があうのではと思わせるような白い肌――とにかく彼の姿は目立っていた。
黒いブーツをカツカツと鳴らしながら、彼は迷うことなくファストフード店へと入っていく。
二階にある店内の奥の席――そこにもまた、視線が注がれている人物がいた。
豊富な金髪に抜群のプロポーション、着ている服は一般人に溶け込むための変装だが、彼女から隠しきれない色気が滲み出している。
「もう少し品のある場所を選べない? アイン。確かに私は最寄の場所といったけど、せめてそこだけは考えて頂戴」
「だったら、アンタが指示してくれ」
「……冗談が通じないわね、相変わらず」
「与太話はいい。それよりも、何のためにここに?」
「上からの報告よ。もうすぐ例の場所に対して行動を開始するわ。各自いつでも動けるようにしておきなさい」
「……例の場所、か」
アインと呼ばれた少年は窓から見える風景を睨む。その先にあるのはIS学園と呼ばれている施設である。
紅い瞳は復讐の炎に駆られているかのように、鋭い。
「……アイン、落ち着きなさい」
「分かっている。……あぁ、分かっているさ」
アインは強く拳を握り締める。その耳に届いたのは“織斑一夏”という名前だった。
歯軋りの音が彼の耳に反響し、鈍い音を鳴らした。
この物語は英雄の話ではない。増してや道化が語る滑稽な話でもない。
ただ己を見失った人形が、人へなる過程を記すただの一幕。
長いようで余りにも短い人生の序章。
それを知らぬ彼に私達はこの言葉を贈ろう。
“光あれ”