亡国機業の一室――俗に訓練所と呼ばれる場所に四人の人影がいた。二人は手にしたナイフ―無論、訓練のため刃引きされている―で幾度となく白兵戦を繰り広げており、残る二人はそれを見ていた。
白髪の少年と銀髪の女性が振るうナイフは明らかに差が出ている。女性が振るうモノは何ら澱みなく、何の躊躇も無く振るわれているが少年の方はまだ何かが追いつけていないようだった。
やがて女性が振るったナイフの柄が、少年の鳩尾を突く。その一撃は彼の体に確かなダメージを与えた。それを証明するように少年が床へと倒れ込む。
『だからもう少し接近しろ。ナイフの刃先でやり合おうとするな』
『……分かってる』
『分かってない。少し頭を冷やせ馬鹿』
女性はくるくるとナイフを指先で弄びながら、訓練を見ていた二人へと近づいていく。
その内の一人、金髪の女性は優雅に紅茶を飲んでいた。傍らにはティーカップが二個用意されている所を見ると差し入れのつもりらしい。
『どう調子は?』
『銃に関しては呑み込みが早い。もうほとんどの武器をアタシと同じレベルで使いこなせるようになってる。だが近接に関しては見ての通りさ。まだまだ時間が掛かりそうだ』
『ナイフで体を打たれる事、二十六回。放り投げられる事、四十八回。溜息を吐かれる事、五十六回。……確かに時間が掛かりそうね』
『どうもご丁寧に。誰が数えたんだ』
『アルカよ、ほら今彼の手当てに向かってる』
見れば黒髪の女が少年の下に向かい、医療器具で治癒を施そうとしていた。明らかに妖しい色の液体が入った注射器を握りしめているのは、目の錯覚ではないだろう。
そしてそれを握る彼女の腕を懸命に掴んでいる少年の顔が危機に迫るような形相である事も間違いなく現実である。
『……過保護だねぇ、アイツも』
『分からないのよ。彼自身よく無茶をする子だから』
『ったく、んな事は自然に分かるって言うのに』
紅茶を飲みながら銀髪の女は、小さく息を吐く。ふと隣を見れば金髪の女は口を押さえて笑っていた。
その理由が分からず、彼女は再度息を吐いた。
『いえ、ごめんなさいね。あの子と貴方って本当に似てるから』
『似てる? アタシが馬鹿弟子と?』
『えぇ、言わなくても分かると思うから』
『……あー』
図星か照れ隠しか、銀髪の女は再度紅茶を飲み干した。
『まぁ、アイツを育てるのが楽しいって事は否定しない』
『そう、良かった。やっぱり貴方を彼の教官に充てて正解ね』
『……ま、ここからか。見てなスコール。アイツをお前の切り札にまで仕上げてやるさ。体だけじゃなくて心まで、しっかりと』
『楽しみにしてるわ。早く彼を、正しい道に戻してあげたいから』
二人が話している間、肝心の少年は注射器の薬品を打たれたからか、目を回して気絶していた。そんな彼が目を覚ます次の日まで訓練がお預けとなったのはまた別の話である。
これはカレン・ボーデヴィッヒがアインの教官となってから凡そ一ヶ月後の事だった。
アルカと共に、アインは篠ノ之束のラボにいた。理由は彼女が作成した近接ブレードを受け取るためである。
上空を軍用機並みの速度で翔け抜ける空母をラボと呼んでいいのか甚だ疑問では在るが、そんな事を全て抑えこんでアインは奥に進んだ。乗り込んだ方法としては、無人機で空母と並走する中を、跳躍すると言う方法である。あれはもう二度としたくない。
「本当にいるのか? 明らかに生活が出来るとは思えないが」
「可能ですよ。あの方は水と塩さえあれば生きていける方なので」
「誰でもいいからあの人に常識を教えてやれ」
「……アイン様が言える事でしょうか」
あたり一面がケーブルやらコードやらで覆われており、歩きづらい事この上ない。見えるも見えるも全て機械の山であり、日常品はほとんど見当たらない。
明かりもほとんどなく、アルカが誘導してくれなければアインは間違いなく何回か転んでいた。
機械の稼動音がやたらと耳に響く。瞬間、彼の本能が気配を嗅ぎ取る。
「……どうやら会いに来て下さったようです」
「――らしいな」
アルカの言葉に辺りを見渡したが誰もいない。風景に何ら変わりは無く――否、景色が歪んでいる。僅かに息遣いの音が聞こえる。
並みの人間ならまず気づかぬほど些細な変化だ。
「……光学迷彩とはまた奇抜な物を作りましたね、束さん」
どこから響いた音なのか正解のリズムを作るような機械音が聞こえた。
瞬間、バチバチと電光が走り、突如篠ノ之束が姿を現す。だが彼女はどこか不満げだった。
まるでいたずらを咎められた子供のような表情に、思わず口元が緩む。
「ぶーぶー、あーちゃん気づいてたなら言わないでよー。せっかくのいっくんとの再会なんだからー」
「申し訳ありません、母上」
「そうそう。お姉さんを――あっ、違うや。お母さんを敬うのだー……。それといっくん、ブレードの事だけど先に細胞を取らせてもらっていいかな?」
「構いませんが……何か気になることでも?」
「ISコアを直接人体に埋めるなんて私も予測してなかった事なんだ。あーちゃんの話だと、既に埋め込まれてから数年近くが経過してる。幸い、あっちのいっくんのデータも揃ってるから比較できるよ。今自分の体がどうなってるか知りたいでしょ?」
「……分かりました。簡単な健康診断と思えばいいんですか?」
「うん、あっ、でも同時にブレードの事も済ませておきたいから一緒にやろうか。ってコトでいっくん、そっちのベッドの上に寝てくれるかな」
突如、空間に現れたディスプレイを束が操作すると、床の一部が変形して簡単なベッドに変化する。
こういう事には無駄な努力と技術を駆使するのが篠ノ之束という人間だ。
そして何故かアインの背後の床も変化し、X状の磔台が構成される。そしてアインの四肢を拘束してから百八十度回転を行い静止した。
見ればアルカの手には蝋と鞭が握られている。
「……何してる?」
「いえ、アイン様が暴れてはいけませんので厳重に拘束しなければと思いました」
「だからってコレはおかしいだろうが! 何でベッドがあるのに磔台になってる!?」
「おかしいですね、拘束とはこういった趣旨のモノだとお伺いしていたのですが」
「誰だ。そんな知識教えたヤツは……」
「束さんです……」
「お前だったのか!」
既に武装追加の件も終わり後はアインが目を覚ますのを待つだけとなっていた。アルカはただ眠っているアインが目を覚ますまで彼の傍にじっと佇んでいる。
彼の体を切って、心臓にあるISコアを露出させ、粒子状のデータに変えた武装を埋め込む事で彼の武装へと完成させるのだ。そして束による改良で、武装の圧縮と展開がアインの体を切らなくてもよくなったのだ。これはアルカからしてみてもかなりの負担が軽減される事になった。
縫合したため、彼の体には再び包帯が巻かれている。だが既にその下のある傷は跡形も無く消えうせているだろう。
完成された彫像であるかのようなその上半身は何もない。傷など一つも残っていなかった。福音戦で負ったはずの火傷はもう完治し、痕すら見られない。
束は巨大なディスプレイの前に座って、何かを打ち込んでいる。
だがその指先に今までのようなキレは無い。指はまるで鉛をつけているかのように怠慢な動きを繰り返していた。
「ねぇ、あーちゃん」
「何でしょうか」
「……いっくんは、私を恨んでるかな」
生憎アルカのところから束の表情は見えないが、指の動きは静止していた。
声に活き活きとした様子は無く、まるで何かに怯えているかのような声音である。
「私がさ、ISなんて作らなかったらいっくんは誘拐されなかったしちーちゃんと引き離されることも無かった」
「……母上。それでは私たちや貴方様に罪があるような言い方です」
「違うよ、あーちゃんやあの子達に罪なんて無い。……悪いのは私だから」
懺悔を請うような言葉は、世界を変えてしまった故に紡がれた言葉。彼女にのしかかる重石であった。
彼女はそれをたった一人で背負ってきたのだ。その苦しみを、一体誰が共に背負おうと言うのか。
彼女の事を一部の者は“狂人”と呼ぶ。
彼女の事を一部の者は“救世主”と呼ぶ。
呼ぶ者が違うだけで人はこんなにも区別される。一人の少女でしかなかった人間など、大衆の中では簡単に埋もれてしまう。
大切にしていたはずの妹にすら忌避されてしまえば、一体誰が彼女を救えたのだろう。世界の発展のためならば、一人の人間の意味などあってないようなものだ。それに気づいてしまった。彼女は聡明であったが故に悟ってしまった。
だから彼女は限られた人物としか喋らない。背負わされたその全てを、彼女はたった一人で引き受けるために。
例え自分がどうあろうとも、周りの大切な人たちが笑っていてくれればそれで良いと。
「母上――確かに、貴方のしてきた事はある人にとっては苦しみであり、ある人にとっては絶望だったのかもしれません」
ただ彼女は自身が人としての生きていくコトと大切な妹のコトの二つを天秤にかけただけ。その結果として、彼女は妹を選んだ。家族を選び、大多数を切り捨てた。
余りにも理不尽なその問いから生まれた生き方を否定出来る訳が無い。そんなことが出来るのは、誰も傷つけた事が無いと胸を張って言えるような者だけだ。
「ですが今の世界は、多くの人が笑っています。例えどのような手段があろうと、その心底には大切な人が幸せになってほしいと言う意志があるのですから」
篠ノ之束は紛れもない人間である。
悲しみ、笑い、喜ぶ人間だ。そして、誰よりも大切な人の不幸を悲しむ人だ。
「貴方は誰よりも大切な人の喜びを願う人だと、知っていますから。この方も、私も、あの方々も、皆知っていますから」
彼女が人々を苦しめていたと言う事。それを否定はしない。当然の事だ。誰かを幸福にするのであれば、それは必ずどこかで不幸になる人間が現れる。
だが、彼女は決して自身の私利私欲には走らなかった。大切な人に笑顔であって欲しいと、幸せであり続けて欲しいと。
そのためなら例え自身を犠牲にしたとしても、彼女は容赦なくその衝動に突き動かされるだろう。
「……やめてよ、あーちゃん。そんなのは……そんなのは」
「えぇ、篠ノ之束は一人の人間です。そうでしょう、アイン様」
「――当たり前だ」
むくりとアインが起き上がる。
紅く優しげな瞳が、束を直視した。
声を漏らして彼女はそれに魅入ってしまう。
「俺は束さんを恨んでませんよ。こんなカタチになったのは、全部俺が弱いせいでしたから。それに世界は変わっていません」
「その通りです。母上、私たちが世界を変えたのではありません。私たちは何も変えなかった。ただ欲に溺れた者が這い出てきただけです。現に母上がISを使い、人を殺しましたか? そうではないのなら、貴方に咎はありません。全ては使う者次第なのですから」
その体現がアインと言う存在だ。
沽券を満たすためだけの争い、それは何千年前も前から繰り返されている。
拳から剣へ、剣から銃へ、銃から兵器へ、兵器からISへ。
こんな下らない事に何の意味も無い。
あるのは絶望と嘆き。そして積み上げられる屍の群れ。響く慟哭。
それら全てを摘み取り、終わらせる事が出来るはず。その為に彼らは戦っている。
「ありがとう……。……今だけは泣いていいよね」
何かに縋るように、篠ノ之束は涙を流す。
救われた――ただその事だけが、どれだけ彼女の傷を癒したのか。
「さて、いっくん。結果を報告するね」
泣き止んだ束はまるで別人であるかのように、その表情を切り替えた。
それまでの重々しい在り方は綺麗さっぱり無くなってしまっている。
「まず遺伝子の方だけど……限りなく別人に近い同人だよ。もうこれは別人って割り切った方がいいかもしれない。血の繋がりを消しちゃうなんて……そんな事思ってもいなかった」
「……次をお願いします。まだあるんでしょう」
「うん……いっくん、これは一番言い辛いんだけど、そのISコアは有り体に言っちゃうと半分適合して、半分拒絶されてる。だから体に馴染む事はあっても、完全に適応するなんて有りえない。このままだといっくんね――早死するよ。長く見積もっても後十年くらいが限界」
ゾクリとアインの背中を冷たい物が駆け抜けた。
早死――心のどこかで納得して、どこかがそれを強く否定する。十年、名前を取り戻しても、その程度しか生きられない。余計に周りを悲しませるだけだ。
早く名前を取り戻せば十年の間は生きられる。その中で自分を築いていけばいい。
そんな考えの交錯を打ち消して、アインは束の話に集中した。
「だから次は半年後に私のところに来て。私とあーちゃんの技術なら何とか延命治療は出来る。それなら人並みに生きる事は可能だよ」
アインはこれで篠ノ之束と定期的にコンタクトを取る事が必要不可欠となった。
世界にとってまた隠さないといけない事実が増えるな、と苦笑する。そしてもう一つ、増えた武器もまたスコール達にお披露目しなくてはならないだろう。
「分かりました。次は半年後ですね。……それじゃあ少し失礼して良いですか?」
左腰に現れた鞘込めの刀。それは近接ブレードと言うよりもまるで日本刀のようだ。分類でいうのならばそれは太刀に当てはまるであろう尺だった。
この重みが酷く懐かしい。昔、遥か昔に、この感覚を覚えたような気がする。
「あ、うん。全然良いよ。コードは斬らない様にね」
腰を落とし、重心を意識する。僅かに心が波打った。
柄に手を当てる。抜け落ちた何かがピタリと当てはまったような感覚があった。
過去の記憶が五感となって思い出す。確かな記憶が僅かに垣間見えた。
“重いだろ? 一夏。それが人を殺す重みだ”
「……あぁ、今なら分かるよ」
瞬間、鞘から放たれた刀は風切音を残して振り抜かれる。残心したまま、アインはこれから幾度となく振るう事になるであろう刀を見た。
翳された刀身はまるで磨き上げられた鏡であるかのようにあらゆる光を反射している。何物にも穢されようとしない意思を、まるで刃自身が持ち続けているかのようだった。
その美しさに見惚れ――そしてそれを使い続けていた織斑千冬の気高さを改めて理解した。
「……そのブレードはね、束さんお手製だよ。IS装甲には物理的力を使って破壊することも出来る。かなーり念を入れて作ったし、余程のことが無い限り折れないから安心してね」
返事代わりに、アインは納刀する。
金属音が、玲瓏の音色を以て辺りへ響いた。
「……ねぇ、あーちゃん。一つ聞いていいかな」
「何でしょうか?」
「どうしてあーちゃんはいっくんに尽くしてるの?」
束の問いにアルカはクスリと微笑んだ。
アインはまだ刀を振るい続けている。それは馴染むためと言うよりも何かを思い出そうとしているようにも見えた。消え去った何かを追いかけているように見えた。
「大切な人ですから。例え世界中があの方の敵となっても、私だけはあの人の傍にいます。それに、あの人は今も戦っています。自分自身に矛盾を感じながらも、生きている意義をたった一つの事にしか見出せなくとも、誰かのために戦うと言う事をずっと胸に抱き続けています。私はそれを支えるだけです」
「そうなんだ。……ねぇ、あーちゃん。いっくんって亡国機業に属してるんだよね?」
「はい、そうですが?」
「――もしかして、そこで次々と女の人を落としてない?」
「恋愛感情……というには少し違いますが、想いは寄せられていますね。そのカタチは様々で見ていて非常に興味深いです」
「まーちゃんも?」
「はい、兄として想いを寄せていらっしゃいます。ある方からは子供として、ある方からは弟として、ある方からは救い主として、ある方からは弟子としてでしょうか」
束は声を漏らす。IS学園にいる方の織斑一夏も大概ではあるが、彼も大概であろう。元々同一人物とはいえ、そこまで似る必要は無いのではないか。
「負けず劣らずだね」
「ですね」
再度、刀が鞘に納まる音が響いた。刀を持つその姿は、絵画のように美しく儚い。
だが彼の振るう刀に込められた意志は、常人には理解できないだろう。
彼は壊れた人間だから。