IS-refrain-   作:ソン

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極東の夏

――ふと、目が醒めた。

 

 草の香りの中でまどろみに迷い込んでいたようだ。瞼が重く、息をしているのかどうかすらも分からない。暖かい日差しに照らされて、僅かに目を細めた。

 晴れ渡った空にはまるで吸い込まれた錯覚すら抱いてしまうほど深い蒼穹がある。引き寄せられるかのように手を伸ばして、やはり届かないなと笑う。そんな事は既に分かり切っていたことだ。ただそれでも伸ばしたのは、何となく子供の頃を思い出したからだろう。

 透き通るような光、そして地平線の彼方にまで続く草原は一面が深緑である。そんな草原の上で寝転んでいたらしい。道理で寝心地が良い訳だ。

 眼前には大樹が聳え立っており、その根元の日陰で休憩でも取っていたように思える。不思議と疑問は湧かなかった。それよりも大事なことが傍にあるような気がしたから。

 日光を遮る葉が微かに揺れて思わず頬を緩めた。吹き渡る風が優しく頬を撫でる。荒れ地の心が潤いを取り戻す。

 どうやって此処まで来たのか、どうして此処にいるのか。不思議なことにそんな事はまったく気にならなかった。いや正確に言うならば気にする必要は無い。どうせ過去の事に決まっている。

 ならばほんの少しの間でも良いからこの温もりを甘受したいと思った。この現実に少しでも目を向けて、眼前の風景を記憶に馴染ませよう。この時をいつまでも心にとどめておきたいから。

 風に流されてゆく雲が、とても懐かしく見える。まるで遠い昔、どこかに置き忘れてきたかのように。

 

「おい、起きたのならせめて返事くらいはしろ」

「そうだぞ、兄さん。私よりも寝坊なんてみっともない」

 

 もう一眠りしようと思う矢先に、突如として耳に飛び込んできた声。惰眠を貪りたいという欲求はどこかへと消え去り、彼は体を起こした。

 二人の女性がいる。まるで姉妹であるかのような相貌に、心が震えた。

 いや震えたのは心だけではない。きっと少年を構成する全てが打ち震えている。

 もっと大切な、決して忘れていけない大切な何か。それがドクンと胸の中で鼓動を打った。

 

「……? 怖い夢でも見たのか?」

「夢なら大丈夫だろう。悪い夢はいつか醒めるモノさ」

 

 明るい木漏れ日の中で、彼女達は微笑む。本当に仕方がない――そう言いたげな表情で。

 草原を吹き抜ける風に揺られて、二人の長い髪が靡いた。優しい風が彼女達を包み込む。その香りが、酷く愛おしかった。

 悪夢は無限にあらず、いつか終わる物――あぁ、きっとそうだろう。

 ようやく、ようやく――。

 

「なるほど、それで起きたのか。……なら仕方ない。もう少し此処にいるぞ。目が醒めたら言え」

 

 鼓動に掻き消されて自分の声は聞こえない。それほど高鳴っていたのか、あるいはそれを抑えきれなかったのか。

 だが、別にどちらでも構わなかった。そんな事を決めるよりも大切な事がある。忘れてはいけないモノが眼前にある。

 今この時は、ただ美しいと思えるようなこの瞬間だけは、永遠であってほしいから。何一つ錆びず、何一つとして変わらない――永久の不変であるように。

 その願いを込めるべく、そして動き出した歯車の音を決して忘れないように返事をした。

 癒されていく。歪み続け、捻じ曲がり続け、絡まり続けたモノが元へ戻っていく。

 

「あぁ、お休み――」

 

 そうして少年は、暖かな日差しの中でゆっくりと目を閉じた。

 

 

 

 

 

「――!」

 

 プロペラ音が聞こえた。その響きが、彼の意識を呼び戻す。鉄の香りと服にこびりついた血の香り。――その瞬間、嫌でも己が何者であるか分かってしまう。

 見慣れたヘリの内部風景に、今までの事を思い出す。椅子の隣においてある報告書の束と整備途中の銃の部品を見て、やっと合点がいった。

 帰還のためのヘリに乗ったまま、寝てしまっていたのだろう。

 窓から見える風景に目を馳せて、先までの夢を思い出す。あの夢で掴んだはずの温もりは、もうその手には残っていなかった。満たされたはずの思いなど、欠片すら無かった。

 

「――」

 

 深い泥に溺れたのはいつからか。織斑一夏を奪われ、それに固執するようになったのはいつからか。己を見失ったのはいつからか。

 怖い――それを全て思い出すのは怖い。自分が自分で無くなってしまうような感覚。異物が常に体の中にあるような不快が心に澱む。

 初めて手に掛けたのは、生きている人形とそれを作り出す人間。無垢な瞳を殺し、恐怖の声を途絶えさせた。泣き叫ぶ声が脳髄の奥深くにまで刻み込まれていた。

 血と硝煙と贓物が混ざり合うその香りですら、もう何も感じない。ただそれだけがあると考えてしまうようになっただけ。

 黄昏の陽光が窓から差し込む中、アインはただ一人震えた。

彼の耳に届くのは無機質なプロペラの音のみ。人の声など有りはしない。彼の真の名を呼んでくれる声はどこにもない。ただずっと、孤独の泥に囚われ続ける。そんな事はとうの昔に覚悟していたはずだと言うのに。

 その姿はまるで、何かに怯える子供のようだった。

 

 

 

 

「――以上が全てです。ご理解頂けましたか、母上」

「うん、分かった。分かった。本当に分かったよ」

 

 束の表情には笑顔が浮かんでいるが、目だけは異なる。だと言うのに口元は不気味に微笑んでいた。

 そこだけ切り取られて貼り付けられたような――この時、アルカは人間でもそんな表情が出来るのか、とどこか納得した。強いて言うならば、壊れた人間でしか出来ないような表情と呼ぶべきか。

 まるで壊れた機械のように何度も言葉を繰り返した後、彼女は息をついた。呆れたような吐息だったが、それには怒気が含まれている。彼女の心を埋め尽くし焼き尽くさんとする怒りが、腹の底に煮えたぎっていた。

 

「まさかいっくんがそんな事に扱われていたなんてねぇ。これは束さんも我慢できないよ」

「失礼ですが、その組織は既に壊滅しています。亡国機業の手により残党処理も行われました。恐らく、もう生き残りはいないかと」

「亡国機業かぁ。まーちゃん、いなくなったと思ったらそこにいたんだ。久々に会いにいこっかなぁー。あー、でもいっくんの方が先か」

「詳細がお決まりになったらコアネットワークにて連絡をお願いします。それでは、またいずれ」

 

 アルカは闇に溶け込むようにして、姿を消す。まるで、最初からそこにいなかったかのように。それは言うなれば闇に溶け込む影のようだった。何にも捕えられず、見つかるはずのない黒の中の闇だった。

 彼女がほんの少し前までいた場所をしばらく傍観した後、束は小さく微笑んだ。その心に生まれたのは喜びか関心か。もしくは自分と同じ世界にいてくれる者がいる事実が在りがたかったと言うのか。

だがそんなことを決めるのは最早どうでもいいことだ。今やるべき事はただ己の課題に向けて全力でぶつかる事。

頭につけている兎の耳をモチーフにしたカチューシャがピクリと動く。

 

「ふふっ、さぁてそれじゃあ束さん頑張っちゃうぞ。……あ、でもあっちのいっくんの事なんて呼ぼうかなぁ」

 

 

 

 

 

 

 

 ヘリから降りたアインはそのままスコールの元へと向かっていた。彼女は大抵自室におり、そこでアインやスコール、エムやアルカに様々な任務を通達している。アインが彼女の下へ向かっているのはその報告であり、そして次の任務へ向かうための準備だった。

 己の体が限界を迎えるまで酷使し続けるのがアインという少年の日常だ。己の事など一切顧みない行動。それをまだ成熟し切っていない彼は疑問としない。

 

「……」

 

 通路ですれ違う人間は女性が多く、この組織もまた女尊男卑の影響をそれなりに帯びている。しかし、その土台を作り支え続けているのは紛れもない男性だ。例え時代が変わり、性別への評価が変わりつつあっても、能力や特徴は変わらない。

 現に、装備の点検や車両の整備はほとんど男性が行っておりこれは女性には真似できないほど繊細かつ丁寧だった。アインも銃の整備を任せようと思ったのだが、彼の師匠である者からの苦言により止められたと言う過去がある。

 シミや汚れなど知らぬとでも言いたげなほど艶々とした通路を歩き目的の扉を開ける。

 スコールの自室は広々としており、様々な調度品や家具が飾られていた。これだけ見れば大富豪が持つ邸宅の一室にも思えるだろう。だがこれはスコールがかつて世界を駆け巡っていた頃に集めたコレクションだと言う。

 それが普通の収集ではない事はアインも察していたが、それを聞き出すような野暮は無用だ。彼女との関係は崩したくないし、何より大きな恩義がある。

 

「最後の拠点を潰した。生き残りはいない」

「お疲れ様、アイン。残党狩りもこれで終わりよ、オータムが仕上げに向かってくれているわ」

 

 アインに向けて紅茶が差し出された。無論断る理由などどこにもない。

 紅茶の熱さが彼の心に落ち着きをもたらす。スコールが入れてくれたと言うのもあるのだろう。

 ほんの僅かな時間、アインの脳裏には今までの思いがよぎっていた。誘拐され改造され、そして彼女に助け出された事。当時は永遠の如く長かったが、振り返ってみれば余りにも一瞬だった。

 

「……もう、オレのような存在が作られる事は無いんだな」

「えぇ、技術もろとも破壊するように頼んでおいたから」

 

 楽しく笑うスコールの姿に、アインは小さく口角を吊り上げた。どちらも作り笑いである事など気づいていた。だがそうでもしなければ、周囲にある重苦しい雰囲気を払しょくできなかったのだ。

 今回襲撃したのは、彼を誘拐した組織の生き残りである。攫われた赤子はIS操縦者の遺伝子を受け着いた存在である。――すなわちISについての研究だ。そしてそれに携わっていた者は研究のためならば手段を厭わず結果だけを優先するような者達ばかりだ。

 皆殺しにしたIS操縦者もまた然りであり、彼に咎の意識など一片も無い。

ただ――彼女達をどうすれば助けられたのかと言う疑問だけが滲み出る。もしかすると違う未来が待っていたのではないのだろうか。

 

「……それで次は」

「ないわね」

「何?」

「前に言ったでしょ? 夏に大規模な作戦を行うって。だからしばらく任務はないわ」

 

 スコールの言葉に、ブリーフィングでの会話を思い出しアインは顎に手を当てる。

 いざ自由にしろ、と言われれば何をすればいいのか全く検討もつかない。アルカでもいれば、何か助言をしてくれるのだろうが、生憎今は席を外していていない。思えば訓練ばかりに身を費やし、それ以外を鍛錬に充ててきた。

 だからこそ、それ以外の事を行う時間など今まで全くなかったのだ。せいぜい休む程度の事であるが、生憎アインの体はまだまだ稼働域の範疇であり、休息など不要だ。

 思考がどうやって時間を潰せば良いかと言う難問に没頭しようとした時、スコールが何かを思い出したかのように手を打った。

 

「あ、そうそう。アイン、一つ私からお願いがあるんだけどいいかしら?」

「? 任務は無いと……」

「任務じゃないわ。プライベートな頼みよ」

 

 何かを思いついたかのようなスコールの言葉に、アインはより深く考え込む。彼女の実力はアインも知っており、彼ですら苦戦を強いられるほどの力量を持つ。もし彼女ならば、亡国機業から独立してもやっていけるのではないのだろうか、と思わせる程の力だ。

 そんな彼女がこの場で頼み込むような用事である。面倒事か、厄介事か、あるいはその類の何かだろうか。

 余程ややこしいんだろうな、と彼は内心呟いた。

 

「実はね、幹部会がある日に極東でレゾナンスというデパートで限定品のブランド品が売られるのよ。手間掛けて悪いけど、それをちょっと買ってきて欲しくて」

「……は?」

 

 気がつけばそんな間の抜けた声を出していた。それは彼の予測とは大きく異なる意味が、彼女の言葉に含まれていたからである。

 てっきり暗殺か強奪のどちらかを頼まれると思っていたのだが、どちらでもなかった。彼女の言い分は要するにおつかいだ。アインにとってはウォーミングアップにすらならない。

 しかも奪って来いではなく、買って来いという分アインにはますます訳の分からない話だ。ひょっとすると何か裏の意味があるのではないか、と言う考えが脳裏に滲み出てきた。

 

「オータムも私の護衛で幹部会に出ないと行けないし、エムは機体の改良で忙しいのよ。アルカにはエムの手伝いをするように頼んじゃったから……。それに私の身近で、頼めそうな人と言えば後はアインくらいしか……」

 

 なるほど、どこかで納得する。気が付けば脱力感は微かな安堵に変わっていた。

 詰まる所、彼女も女性だ。ならばお気に入りのブランド品を身に付けたいと思うのは女性としての自尊心だろう。彼女の収集癖も、それから生まれたモノなのかもしれない。

 今のところ断る気にはなれなかった。何しろ困難な内容でもないし、彼女からの依頼だから罠が仕組まれている事など在り得ない。スコールはアインにとって身内も同然であり、そんな彼女が困っているのだから尚更放っておく訳には行かない。

 腹の底から溜息を吐きたい気持ちを抑えて、アインはどこか呆れたように小さく息をつく。たまにはこんな時間も悪くないかもしれない。

 

「分かった。極東だな」

「えぇ、ありがとうアイン。私の名前を出せば支払いは例の場所に回されるから、お金の心配はしないでいいわ。それじゃあ楽しんできなさいな」

 

 そう言って部屋から立ち去るスコールの姿を見送り、ようやく彼女が言いたかった事に気づく。

 その意味を理解して、彼は小さく口角を落とした。

 

「……休暇か」

 

 紅茶のカップを彼女の机に置き直し、アインもまたコートを翻して部屋から出る。

 ゆっくり体を休めて羽を伸ばせ、という意味なのだろう。激戦の日々を駆け抜け続けている彼にとっては、心の休息に丁度いいかもしれない。

 ちなみに今極東は夏真っ盛りであり、今のアインの日程を簡単に例えるとすれば夏休みだった。

 

 

 

 

 

 

 

 アインにとっては故郷である土地は、酷く懐かしかった。その空気が酷く体に馴染むのはやはりその血に刻まれたモノがあるからなのだろうか。

 照りつける夏の日差しや熱された空気は生憎彼の体に埋め込まれているISコアからの身体保護によって、熱さを完全に遮断されている。ただしそれは体表に限る話であり、飲食に関してはきちんと熱さを感じる事は出来る。

 猛暑を生み出す陽光の日差しと言うのは、彼からすればちょっと眩しい程度の感覚だ。

 故に周囲の人間が半袖の服で汗を滝のように流していようと、白のロングコートに身を包んだアインは汗一つ滲んでいない。

 長い白髪の髪に白い肌は、周囲の人間から羨望の眼差しを集めるのに十分な要素であるが、その特性がさらに注目を高めていた。

 しかしアインにとってはどうでもいい事であるし、些末な出来事の一つである。女性団体に襲撃でもされようものなら返り討ちにしてやればいいだけの事だ。

 しかし、彼には今一つ問題が発生していた。

 

「……迷った」

 

 レゾナンスの場所が分からないという事である。いくら故郷とは言ってもそれが変わり過ぎてしまえば分かるわけがない。それはアインもまた然りである。彼とてまだ十五の少年である。

 昔の朧気な記憶を辿れば駅前と言うのは分かるが、どこをどう歩けば辿り着くのかまったく分からないのだ。以前の記憶を頼りにしても、いざ思い出せるのは駅前と言う立地条件の良さ程度の記憶である。

 キョロキョロと見渡しても、見えるのはビルと人の群ればかり。そして彼に集められる視線程度のものだ。

 故郷は本当にこんな風景だったのだろうか、と少し心配になった。

 

「……」

 

 アインの耳に喧騒の音が届く。声量からすぐに位置を察した。場所はここからさほど遠くは無い。その視力で見渡せば簡単に目に映る程度の距離だ。

 見れば、一人の少女が二人の屈強な男に言い寄られている。女尊男卑の時代によく出来るな、と内心呟く。

 少女の水色の髪はどこかで見た事がある気がする。それに付随するのは戦いの気配。力を持つ者だけが纏うモノ。だが、その雰囲気を彼女は持っていない。

 掛けている眼鏡は空間ディスプレイのものだろう。アインの知る限り、中々の高級品だ。そして服装に乱れが無く気品のある佇まいから、余程懐が良い家に生まれたのかもしれない。

 彼女と男達の表情からどのような経緯になっているのかを瞬時に悟り、その事態に顔を顰める。

 

「ちっ」

 

 男達には生憎だが、いくら彼といえども無関係の人物が目の前で苦しんでいるのを黙ってみていられるほど寛容ではなかった。

アインは即座に男と少女を割るようして間に入り、一人目の男の鳩尾に拳を打ち込む。無論手加減はしっかりとされており、本気で打ち込めば彼が肉片へと成り果てるのは目に見えている故にである。だがそれでも、男にとっては屈強な一撃に等しかっただろう。

 打ち込むと同時に逆の手は二人目の男の手首を掴んで放り投げていた。アスファルトの地面に背中から叩きつけられれば、それは常人にとって十分気絶するに値する衝撃だ。ドスンと軽い地響きを立てた男は失神するのみ。

 アインが師匠である女性から習った組手。とある国の軍隊格闘術である。彼にとってはISとの戦闘でも使用する攻撃手段だ。それを一般人に使用したのは今回が初めてである。

 

「行くぞ」

「え、えっ、あ、あの……」

 

 彼女が何かを言う前に、アインは強引に手を引いて連れ出した。面倒事になる前に、さっさとこの場を抜け出す必要がある。幸いにも人の目は集まっており、それほど困難な事ではない。

 人ごみの多い中をすり抜けるようにしていけば見つかる事はないだろう。今は気配を殺しているため、大きい音でも立てない限り、視線を向けられることはないはずだ。

 群衆を掻き分けるようにして進む二人の姿。常人ならば目を合わせないほど気配を殺しきって移動する彼らを、水色の髪をした一人の少女が見つめていた。

 


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