IS-refrain-   作:ソン

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消えない想い

 

 織斑一夏は純粋だった。

 世界最強と天災――そんな歪んだ二人の間にいながら、彼はただ純粋に育った。世界に名を響かせた姉と比べられ、周囲から孤立して尚、彼は純粋だった。他からすればそれは間違いなく異常に違いない。

 世界を変えてしまうほどの力を持った二人に挟まれれば、誰であろうといずれ心が圧迫され何かが壊れるに決まっている。だが彼は変わらなかった。

 彼は歪まなかったのではない――元から、その二人など話にならないほど歪みきっていたのだ。

 けど彼はそれを歪だとは思わなかった。彼はそれを変えようとは思わなかった。

 彼は、織斑一夏は――何かに依存しなければ、生きる事すらままならないのだから。己を押し潰してまで彼は織斑になろうとした。姉に相応しき弟になろうと足掻いた。悲鳴を挙げ、のた打ち回る己を無視した。耳を塞ぎ、目を閉じて、最初から何もなかったかのように。

 織斑一夏である前に、人として在らねばならなかったはずの全てを踏み躙り、置き去りにした。

 人である前に、織斑一夏として生きる事を選び、あらゆる物を投げ捨てた。蔑ろにした物が何であろうと、その裏切りの対価に――大切な人の笑顔があると信じていたから。

 例えその果てに、破滅と言う末路が待ち受けていたとしても。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「大丈夫か?」

「う、うん……。あ、ありがと……う」

 

 アインが少女と共に辿り着いたのは偶然にもレゾナンスの前だった。出来過ぎていると思い嵌められたのかと思いもしたが、考えてみればここは故郷だ。土地勘で何とか見つけたのかもしれない。俗に言う直感が導き出した助けだったのだろう。

 だが、強いて言うならばもう少しだけ何か助けが欲しかった。特に少女の事に関してである。

 早い話どのように喋ればいいのか分からないのだ。普段口を交わす相手を数えるとすれば、それは指の本数で事足りるに違いない。

 

「……」

「……」

「……」

「……」

 

 とにかく気まずい。

 少しでもこの空気から逃げ出そうと、アインは重い口を開こうとした時、叫び声が聞こえた。

 

「お嬢様―ッ! どこですかーッ!」

「あっ……」

 

 少女が何かに気づいたかのようにその方角を向く。

 逸れた人物と出会えたのだろう。何がどうであれ再会できた事は良い事である。

踵を返してアインは歩き出そうとした。 

 

「あ、ありが、とう……」

 

 少女に呼び止められ微かに足を止める。だが何事も無かったかのように振り返った。

 

「……いや、勝手な事をして悪かった。ほら、早く行くといい。付き添いが待っている」

 

 お礼を言われたのはどれくらい久しぶりだろうか、と頭のどこかで考える。だがその程度の記憶はどうでもいい事だ。素性もまったく知らぬ赤の他人と二度出会う事など在り得ないに等しいのだから。

 アインは少女に軽く微笑むとそのまま踵を返してレゾナンスの中へと入っていった。

 

 

 

「あちゃー、かんちゃんを助けてくれたなら下手に手出せないわねぇ。嫌われるのも嫌だし……。うーん、諦めるのが懸命かしら。…………ま、いっか。喧嘩売るような事しなければ大丈夫よね」

 

 アインがレゾナンスへ入った後、例の少女もまた彼を追うようにしてレゾナンスへと入っていった。

 

 

 

 

 人目の注目を集める中、ブランド品を取り扱う店で商品を頼み、スコールの用事を済ませた。退店する際に、やたらとアクセサリーを勧められたがアインにとっては無用の長物だ。彼にとって装飾品など、ただの物品に過ぎないし特別な思いがある訳でもない。

 スコールの用事を済ませた以上はもうやる事が無いので、さっさとレゾナンスを出て本部へ向かうか、この辺りをぶらつくか程度の事である。以前の自分であればすぐさま本部へ戻っていたのだろうが、何故か今回はそういった気にはならなかった。この故郷の土地を、忘れられずにいるのだろうか。

ここに来る途中アインはISコアの反応が複数ある事に気がついた。

 今のところその個数は六個であり、間違いなく専用機持ちだろう。近場にはモノレール乗り場があり、その先はIS学園である。だとすれば間違いなくIS学園の関係者がここにいる。

 距離はさほど遠くは無く、歩けばすぐに着く場所である。行おうと思えば強襲も暗殺も可能な間合いだ。今のアインにとっては造作も無い。

 

「……」

 

 そしてその頭数には間違いなく、織斑一夏の専用機も含まれている。

 上手く行けばここで彼の暗殺を行う機会が訪れる可能性がある――そこまで考えてアインは頭を振った。

 ここはデパートの中であり、暗殺などと言う行為を行えば間違いなく騒ぎになる。アインにとってのメリットはあるだろうが、スコール達からしてみればただの命令違反に終わるだけの話だ。

 監視カメラもある上に地理の把握も不明瞭な悪環境であり、さらには国家代表候補生数人をまとめて相手にしなければならない。狭い地形を活かせば戦えないこともないが、デメリットが多い上にメリットが少ないのだ。

 スコール達に迷惑がかかると判断して、アインはその考えを諦めた。

 

「……ちっ」

 

 鋭い舌打ちの音を残して立ち去ろうと踵を返す。

 その背後の奥に、実の姉が立っていたことなど知らず、ただ出口へと通じるエスカレーターを降りて行った。

 

 

 

 簪の心境は、何かもう爆発しそうだった。

 心の軽そうな男二人に言い寄られ、どう対処すれば良いのか考えていた時に突如として割り込んで来た人物。

 まるで魔法か何かのように、即効で二人を沈めてすぐさま簪をその場から連れ出した。女性と見違えるほどの綺麗な肌と髪をしていたが、声音と体型ですぐに男だと分かった分簪にはそれが一層恥ずかしい。余りにも非現実的な光景――それを彼女は目の当たりにしたのだ。

 言うなれば彼はヒーローのような行動をしていた訳なのである。

 実際のところ、この出来事は彼女の中で何倍にも美化されていた。それはもう、修正しようがない程に。

 

「……あう」

 

 彼女と自分の水着を選ぶ付き人の言葉も今の彼女には届きそうになかった。

 

 

 

 

 レゾナンスの出口付近でアインはふとその足を止めて人気のない一画へと向かった。そこはまるで外れのような場所で、群集のざわめきも、彼のいる場所では壁で遮られているかのようだ。だが、今のアインにとっては打って付けである。

 彼は獣のような眼光を隠す事もせず、背後を背中越しに睨み付けた。鋭い眼光が、彼を尾行し続けていた者を捉える。

 更識楯無――IS学園でアインが一時的に交戦した敵だ。今の状況で果たしてどれだけ戦えるか。彼女も間違いなくあの一件以来実力を高めてきているはずだ。一方的に主導権を握られたなど、彼女にとっては屈辱に違いない。

 しかし彼女は笑っていた。

 

「久しぶりね……。ってそんな怖い顔しないで頂戴。こんな場所でIS展開する訳にはいかないでしょうし。それに学園の事なら、私は気にしてないわ。こちらへの損害は軽微だったしISコアも確保出来たみたいだしね」

 

 その声音に戦いの気配は含まれていない。隠されているのではなく、最初からないのだ。つまり――更識楯無はアインと戦うつもりなど一切無いのだ。

 まるでただ世間話に来ただけのようである。それがアインには理解できない。

 

「……更識、戦いじゃないのなら何のようだ」

「そうね、サクっと本題に行っちゃいましょうか。二つほど用事があるのよね。まず一つ目だけどお礼を言いにきたのよ」

 

 その瞬間、間の抜けた雰囲気が辺りに漂った。無論、アインの思考が一時停止し楯無の言った言葉の意味を吟味し始めていたからである。

 少なくとも、彼は礼の言われるような事はしていない。増してや戦った相手である以上、感謝される事などありえないはずだ。

 人助け程度なら、と考え始めた時、ふとその答えに行き着いた。眼鏡をかけた水色の髪の少女。――それはどこか更識楯無に似ている。

 

「あの少女か?」

「そっ。私の妹なんだけどね……。何というか結構消極的な子なのよ。だから私が助けてあげようと思ったんだけど……ありがとね」

 

 楯無の声には僅かな自責の念が込められていた。何も出来ない無力な己を呪うかのような響き。

 それはアインも幾度となく経験している。手を伸ばしても決して助けられぬ者がいるという事。運命に抗えぬ者がいる事。そして――その運命を変える力を持たない自身に投げかけられる自問自答。

 同じなのだ。アインと楯無は。まだ年端も行かぬ齢で余りにも苛烈な経験を積み過ぎた。それ故に常人から程遠くなってしまった。

 そしてアインは、今自身の心にあったはずの過剰な敵意が消え去っている事に気が付いた。吹き荒れていた暴風も、今や微風のようになっている。

 

「――なら、傍にいてやれ」

 

 刺々しい声が消えて、ほんの少しだけ優しい声音が響く。それはアインとしてではなく、彼がずっと隠し続けてきた本性が僅かに芽を出した瞬間だった。

 その響きに楯無は耳を疑う。彼の声はまるで感情が無い機械だったと言うのに、今はまるで人のようだ。情に満ちた、優しさに境界線が無い――本来の彼はそのような人物だと、楯無は漠然と感じた。

 

「えっ?」

「家族が傍にいる事を当たり前だと思うのは悪い事じゃない。気づかない幸福ほど幸せな事なんて何もないからな。だから――お前が傍にいてやれ。楯無じゃなく、姉として守り抜け。そうしなければ、いつかお前の元を離れていく。お前がそれを自覚した時は、もう手遅れになっているはずだ。本当に妹を大切に思っているならきちんと向き合え」

「……そうね、ありがとう。まさか敵に悩み聞いてもらえるなんて思ってもみなかったわ」

「次に会った時はこんな下らん質問に耳を貸さんぞ。自分の悩みなら自身で解決しろ」

 

 再び刺々しい口調に戻って小さく鼻を鳴らすアインだが、その口角は僅かに吊り上がっている。その表情には年相応の少年らしさが垣間見えていた。

 呆れて苦笑しているのか、それとも別の思惑があるのか――そこまで考えて楯無は一端詮索するのを中断する。こんな事を考えていた所で、今は時間の無駄にしかならないだろう。

 何にせよ、彼は根からの悪人と言うわけではないらしい。いや、強いて言うならば彼は楯無と同族の存在だろう。

 故にアインという人物が持つ僅かな善性が楯無にとっては好ましく見えた。

 

「次に会った時って事は、今ならいくらでも聞いてくれるって事よね?」

「……まぁ、その何だ……時間が無いから手っ取り早く言え」

 

 頬を小さく掻いてそっぽを向いた。

 よく聞いてみれば、声も少しだけ小さくなっているような気がする。その様子が、少しだけ幼い少年のように思える。

 もしかすると彼は分厚い鉄面皮を被っているのだろう。だがそれを問い質す程の手心を、楯無は必要としなかった。

 

「それじゃあ直球で行きましょう。貴方の目的は何かしら? 一応、聞きたい事は山ほどあるだけれどね」

「織斑一夏の抹殺。それだけだ」

「……へぇ、随分と素直に教えてくれるのね。どうしてそこまで彼に固執するの?」

 

 途端、アインの眼光がさらに鋭利になる。まるで研ぎ澄まされた刃の如く。

 彼の無手が銃を握る形に変わる。楯無も全身に僅かな力を込めて臨戦態勢へと体を徐々に移行させる。

 

「――過ぎた好奇心は身を滅ぼすぞ、更識楯無」

「あら、怖い怖い。それじゃあこれで最後にしましょうか。――IS学園に今後手を出す予定は?」

 

 ギロリと睨むアインに対し、楯無は微かに笑みを浮かべている。だがそれが作り物である事は明白だ。

 睨むアインと笑う楯無。対象的な光景だったが、一つだけ二人に共通している所がある。それは両者が戦火を交える準備を終えている事だろう。

 人気が全くないこの場所ならば、多少の戦闘は気づかれない。

 そして二人とも、相手を瞬時に殺す暗殺術には長けている。鍛え上げられた経験と技術と力は、人を殺すには十分すぎる牙へと昇華されていた。

 

「ある――かもな」

「うん?」

「それを決めるのは別の連中だ。オレ達は何の関係も無い」

 

 剣呑な殺気を仕舞いこんで、アインはレゾナンスの出口へと歩いていく。何一つ歩幅を緩ませる事無く、彼は淡々と踵を返す。

 あと少し歩けば群集に紛れ込むところで、彼は背中越しに楯無を一瞥した。その背中を楯無はどこかで見た事があるような気がする。だが見た事が無いような、そんな訳の分からない感覚が彼女の心をよぎる。

 

「尾行は出すな。関係が無いヤツを殺したくはない」

 

 そのまま歩み去る彼に背を向けたまま、楯無は静かに呟いた。

 この邂逅で得た情報は大きい。少なくともあの少年に対して生い立ちを知る手掛かりが掴めたのは明白だ。

 

「関係……ね」

 

 去り行く白髪の背中を見つめる。

 それはまるで、世界全てから拒絶されようと足掻く、迷い人のようだった。

 

 

 

 

「……エム様、サイレント・ゼフィルスの調整が完了しました。中々強情ですね、この子は」

「すまないな、アルカ」

 

 織斑マドカ―通称エム―は改めて自身のISであるサイレント・ゼフィルスの状態を確認する。確かに反応速度やスラスターの速度などが以前よりも上昇しており、持っている大型ライフルの感触もかなり手に馴染む。

 これはISコアが操縦者を受け入れていると言う証拠らしい。アルカが手を加える前との違いにマドカは思わず感嘆の声を挙げていた。

 

「ISコアと会話が出来るという話は本当だったのか……」

「疑っておられましたか?」

「……半分くらいは」

 

 クスリと微笑む彼女の姿に、マドカは軽く唇を尖らせる。アルカがアインの付き人である事を知っている。彼女の実力が、マドカでは到底及ばない極致である事も知っている。故にアインが彼女を信頼している事も知っている。

 それがどこかマドカは気に入らなかった。彼女はまだ嫉妬と言う言葉を知らない。

 

「大分お変わりになられましたね、マドカ様。アイン様に牙を向けていた頃は別人のようです」

「……いや、あの頃はまだ何も知らなかっただけだ。あの人がどのように生きてここに来たのかを、私はまったく考えようとしなかった」

 

 この組織で初めて彼と彼女が出会ったとき、彼女は即座に彼を殺そうと刃を向けた。憎悪と復讐に駆られたその双眸を忘れる事は無いだろう。まるで獣の牙のような一撃、それは憤怒に駆られた激情が生み出す衝動。

 彼はそれを簡単に受け止めた。例え何であろうと、全てを背負い続けると決めたその在り方――ただその思いだけで、彼は彼女の凶刃をその身に受けたのだ。それは常人ならば確実に絶命させる一撃だった。殺すと言う事に置いては文句のつけようがない程正確無比なモノだった。

 だが一つ誤謬があるとすれば、それは彼女が彼について知らなかったことだろう。凶刃は、その肉体を貫く前に刃自体を潰されたからだ。彼の体がIS装甲に匹敵する程の強靭な体である事を、彼女は知らなかった。条理は不条理によって捻じ曲げられた。

 そんな理不尽な最期で役目を終えた刃を、彼女はまじまじと見つめて、彼は何とも無いように一瞥する。

 その時の光景を未だにアルカは忘れられない。

 まるで鏡のようだった。

 彼女の目には人として確かな意思を灯しているが、彼の瞳は何を考えているのかまったく読み取れない。兄と妹の関係だと言うのに、余りにも違い過ぎていた。

 本来の人間ならば、きっと彼の瞳に恐れて逃げ出しただろう。それは人として受け入れるには余りにも無であったからだ。覗き込めば、二度と戻ってこられないような錯覚を抱かせたからだ。

 しかし彼女はそれに真っ向から勝負を挑んだ。その勇ましさを、貴いと思った。

 その後は様々な事があったが、思い返すには場違いだろうと察して、アルカは記憶を引っ込める。思い出などいくらでも思い出せる。

 

「まだ呼べていないのですか」

「……あぁ、あの人が目的を果たすときまで……兄さんと呼ぶ事は出来ない」

 

 目を伏せるマドカの瞳に影が曇る。

 身に纏っているサイレント・ゼフィルスの装甲が僅かに降下したように見えた。

 

「アルカ……姉さんは私の事を覚えていると思うか?」

「マドカ様?」

「私は数年前、姉さんの下から引き裂かれた。温かった日溜りから、冷たい闇の底へと連れて行かれた。誰に連れて行かれたのかは覚えていないが……それでも姉さんの名を呼んでいたのは確かだ。けどあの人は……あの人は」

「……心配は不要です。あの方は、いつも貴方の写真を大切にしていられました。織斑一夏にすらその全てを隠しています」

 

 マドカの肩が僅かに震えている。その震えは一体どのような感情から来るのか。

 このような思いを得られる人間の心を、アルカは羨ましく思った。

 

 

 

 

 

「……」

 

 すっかり空も暗くなり、夜風に吹かれる中アインはビルの屋上にいた。眼下に広がる町並には人の声がまだ溢れている。だがそのほとんどは最早アインにとって無用であり無縁である。家族から与えられる温もりなど、今の彼には程遠い。

 金網のフェンスから見える光景は様々な光が溢れていたが、彼はただ一つだけを凝視していた。だがその世界は現実と幻想が混雑している。

 彼我の間合いは、常人ならば決して見えぬ距離だがアインには意識さえ集中させればはっきりと見えてしまう。

 彼が見据える一軒の家――その表札には織斑と書かれていた。

 右手でそっと金網を握り締めて、紅き双眸に憎悪の火を込める。左手は何かを堪えるかのように拳を握りしめていた。爪が皮膚の肉を抉り鮮血を滴らせる。

 

 小雨が降り始め、アインの髪を濡らしてゆく。彼の存在を掻き消すかのような冷たさ。だがそれもアインにとっては感じる事の出来ない感覚。しかし体で感じなくとも、心は否応なしに錯覚してしまう。

 その冷たさと今立っているビルの屋上からの光景が、決意の日を思い出させた。数年前、ここで果てた一人の少年。そして生まれた戦士。彼が祈った不変の誓い。

 余りに残酷で余りに脆すぎる誓い――そんな運命を歩み続ける覚悟は残滓へと成り果てた今も尚、心の奥底で静かに牙を研いでいる。

 

 

 

 

 

 彼の目が醒めた時、そこは見知らぬ天井だった。

 爆風に巻き込まれ、意識が途絶えたところまでは覚えている。

 だとすれば救出されたのだろうか。あの地獄から救い出されたのだろうか。望んでいた陽だまりへ帰る事が出来たと言うのか。

 所々に巻かれている包帯と着ている服が何となく真新しいように感じる。平和な香り、血や硝煙とは無縁な空気。ずっとあの場所で渇望していたモノだ。

 そこまで考えた時、ドアが開く音が聞こえた。

 

『あら、目が醒めた?』

 

 豊かな金髪の女性が入って来て、そこでようやく彼は解放されたのだと悟る。彼女の目はあの僻地の研究員とは違い、彼を人として見てくれていた。

 

『いきなりで悪いけれど、貴方の名前教えてくれるかしら? そうでもしないと何と呼べば良いのか分からないのよ』

 

 彼は自分の名前を告げた。

 ようやく家族に会えると、ようやくあの場所に帰れると。

 だが、名前を聞いた瞬間彼女は目を丸くした。その様子に、彼の心を暗雲が立ち込めていく。

 彼の姉の名を知らぬ者などいないはずだ。そう自負出来る程、あの人は有名になったのだから。

 

『……どういう事? 織斑一夏は救出されたはず。それに今の貴方、見た感じじゃとても日本人には見えないわ』

 

 嘘だと叫ぶ。

 あの地獄で痛感した。一人である事、誰も助けてくれない事、一度失った温もりはもう二度と戻ってこない事。ずっとずっと孤独な世界に飲み込まれる。

 それに恐怖を覚え、彼は両肩を震わせた。

 女性も彼の様子を見て、思案する。

 

『……極東に行って見ましょう。家は覚えてる?』

 

 女性の言葉に、彼は顔を埋めて小さく頷いた。

 嘘であってほしい、何かの間違いであってほしい。

 そんな希望の欠片に縋りながら、彼は震え続けた。

 

 

 

 

 

 ビルの屋上の金網を縋り付いて、彼は視線の先にある一軒の家を凝視していた。双眼鏡でようやく見えるほどの距離のはずが、彼はそれを裸眼で可能としている。

 彼女からすれば異常な視力だが、彼はそんな事をまったく気にしておらず、ただ答えだけを待っている。

 その様子を、女性は少し哀れだと思った。

 

『……あれが織斑千冬――貴方のお姉さんよ』

 

 女性の声に、彼は金網を握り締めた。

 黒いスーツに身を包んだ女性が、家の玄関で黒髪の少年に出迎えられている。

 ――。

 女性の微笑は、己の記憶と合致する。

 ――ウソだ。

 金網が握力によって引き伸ばされ、千切れる。

 その光景に女性は絶句していたが、彼はそんな事を気にも留めなかった。強く握り絞められた拳。指先の詰めが掌の肉を抉り鮮血を垂らす。

 ――違う。

 ポツポツと小雨が降る。それは徐々に勢いを強めていく。

 彼の総身を徐々に濡らすその水滴に、もう一つ小さな雫が混じった。目尻から流れるその衝動を抑えようともせず、彼は叫ぶ。

 心から漏れ出していくモノを塞き止める事はできなかった。どう止めればいいのか、まったく分からなかった。

 だから、叫んだ。

 

『違う! 俺は、俺はここにいるっ! そいつは偽者だ! 俺が! 俺が……。俺……が……』

 

 雨音に掻き消され、その声は消え失せてゆく。織斑千冬は造られた織斑一夏と共に家の中へと入っていく。最早外から内部は見えなかった。

 そこでようやく彼は気づいた。

 

“俺の人生は、何だったのだろう”

 

 何もない。残されたモノなど欠片どころか塵の一つすらない。

 自分は空っぽだ。あの人がいなくなってしまえば、自分はこんなにも矮小で無力な存在なのだと。何の意味も無い、ただの人形だったのだ。

 少年を突き動かしていた原動は、最早形骸と成り果てて二度と動き出す事は無いだろう

 この瞬間――彼は自分の中に何も残っていない事を悟った。憧れて、追いかけ続けてきた物が無意味だと気づいた。

 己の全てが、奪われたのだと錯覚した。そしてそれを一寸も疑わなかった。

 

『――――!!』

 

 言葉にならぬ慟哭。喉をも割かん程の声を挙げた。

 彼の目から流れ落ちる多量の雫が、雨音と共に彼を濡らす。泣き崩れ嗚咽を漏らすその姿を、女性は覆うようにして抱く。

 そのまま彼が泣き止む時まで、彼女は強く抱き締めていた。

 

 

 

『……取り戻したい?』

『あぁ……あぁ……!』

『なら、私たちと共に行きましょう。亡国機業――それが貴方の家族よ』

『家族……』

『貴方の名前はアイン。一を意味する言葉。貴方が名前を取り戻すその日まで、貴方はずっとアインとして生きていく。その覚悟は――聞くまでも無かったわね』

『アイン……』

 

 もう憧れていた人物に愛される事は無い。名前で呼ばれることすら有り得ない。彼女の温もりが再び包んでくれることは無い。

 自身が闇の中を這いずるその表側で、彼はきっと光の中を歩いていくのだろう。

 光は全てに優しくされ、希望へと導かれていく。闇は全てから拒絶され、絶望へと堕ちて行く。

 だから――殺さなくては。

 光を消して、闇も消してしまえば後には何も残らない。

 何も残っていない自分があの人に隣にいたとしても、それは不幸でしかない。自分が黒だとするならば、彼女は純白だ。何物にも染まらぬその無垢こそが彼女の全て。

 織斑千冬が在り続ける為に織斑一夏は消えなくてはならない。

 それこそが憧れの代価であり、それこそが罪科への償いだ。

 数々の罵倒を受けるだろう、数々の怨恨をその身に科せられるだろう、数々の生命をその手で奪っていくのだろう。

 全てを受け入れよう。

 呪いも恨みも何もかも全てを心の空白に仕舞い込もう。

 それが自身の在り方を体現するただ一つの手段で、自分が出来るのはそれしかないのだから。織斑一夏ではなく、人として生きるためには、何かに依存しなければならなかったのだから。

 

 雨の抱擁を受けたその日――少年は歩むべき道を定めた。

 

 

 

 

 

「……」

 

 気がつけば、コンクリートの地面には小さな水が溜まっていた。長い間、あの時の過去を振り返っていたのだ。気づかなかったのはきっと、その想いがまだ胸に残っているだろう。

 ここまで想いに耽るのも我ながら珍しい。そう思いながらアインは曇天の空を見上げる。

 

「アイン様、そろそろ戻りましょう。お体に障ります」

 

 いつの間にいたのか。アインと同じように雨に濡れたまま、アルカは無機質―だがどこかで優しさを含んでいる―な声を挙げていた。

 短く返事を告げて、彼女は彼の後を追うように雨雲が覆う空を見上げた。雨はアインの心を慰めるかのように優しく降り続けているのか、あるいは嘲ろうと降りしきっているのか。

 

「……アルカ、篠ノ之束と接触したな」

「はい。彼女の協力が取り付けられれば以後の作戦が円滑に進むと判断し、実行しました」

「彼女は……あの人はオレの事を何と言っていた」

 

 心によぎったのは不安か期待か。それ故にアインはアルカの方へと振り返る。

 まるで子供のような様子にアルカはクスリと微笑を浮かべた。母親が赤子を諭すような雰囲気を浮かべて。

 美しい顔立ちが、ほんの少しだけ彼女と重なる。

 

「会いたい――そう仰っておりました」

 

 

 

 

 高級クラブのバー、そこのカウンター席に二人の女性が腰掛けていた。

 一人は長い金髪の女性で、着ている紫のドレスは魅力なボディラインを露わにし、豊満な胸を強調している。一言で言うとすれば妖艶だ。

 対して銀髪の髪を首元で揃えた女性の服装は黒いコートに黒いズボンと一色に揃った服を着ており、中性的な顔立ちは金髪の女性とは異なった美しさを醸し出している。その体はどちらかと言えば引き締められていると形容した方がしっくりと来た。

 つい先程、スコールは幹部会に出席した所である。ちなみに銀髪の女性である彼女も幹部会に出席しなくてはならないのだが、彼女は『面倒臭い』と言う理由で欠席しているのだ。それでも許されているのは、成果を挙げているからだろう。

 

「……どうしたんだスコール、アンタらしくも無い。まさかオータムじゃなくてアタシを誘うなんてね。おかげでさっき睨まれたよ」

「それはごめんなさいね。彼女も幹部会の内容にご立腹みたいだから」

「ふぅん、ってコトはアイツ絡みで何か言われたのかい?」

「……そうね、カレン。この事は内密に頼むわ。次の作戦に対して何故か私たちのチームに大幅な人員が投入されたの」

 

 スコール率いるチームは基本的に、スコール・アイン・オータム・エム・アルカの五人で任務を行う事になっている。それぞれの実力が非常に高く、亡国企業内でも文字通りトップの実力を誇りそれらを率いるスコールの手腕は非常に高く評価されているのだ。

 無論彼女のチームだけで、国一つすら相手取る事は出来るだろう。

 だが何故か、そのスコール達のチームに対して大幅に新参者が増加されたのだ。

 元々、スコールはそのような教育者としての指導は苦手であり、基本的には他任せである。アインを鍛え上げたのも、今目の前にいる銀髪の女性がいるからに他ならない。彼の持つ実力は、彼女によって完成されたと言っても過言ではないのだ。

 

「そうか、確かにそいつはちと臭うね……。分かった、アタシの方からも探って見る。アンタはいつもどおり馬鹿弟子の手綱を握っといてくれよ? アイツ、ああ見えて結構脆いぞ」

「……でしょうね。子供だから無理も無いわ。でもそこがいいのよ。彼みたいにあんな惨い経験が有るのに純粋になれる人って本当に稀よ」

「おいおい、アタシみたいな人間にそんな綺麗な話はやめてくれ。柄でもない。……と言うか、今だから言うけど、アンタ、アイツの事好きなんだろ?」

「否定はしないわ。でもどちらかと言えば子供みたいなものね。不安定だからいつも心配でしょうがないのよ。彼の師匠でもあって、娘がいる貴方なら分かるでしょ?」

「……まぁね」

 

 銀髪の女性は「あーあ」と声を漏らして、グラスに注がれた琥珀色の液体を飲み干す。

 

「遺伝子強化試験体……。本当にあのバカな連中は下らない事しか頭に無い。軍人の心構えなんて実戦でしか得られないのにね。ま、そんな思惑に気づかなかったアタシゃ、もっと大バカなんだろうよ。おかげで娘を取り上げられた挙句に左遷だ。……ククッ、本当にアタシはダメな人間だなぁ」

「……そう。でもアインは貴方の事誉めてたわよ」

「……おい、スコール。そういうのをここで語られると次アイツと会うとき恥ずかしくなるからやめろ」

 

 クスリと微笑むスコールに対し、女性はどこか困ったように頬を掻いた。

 

 


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