青年、白岡角人の朝は大変早い。
静岡県沼津市内浦に存在する浦の星女学院に新人の教師として勤める彼は、自身が受け持つ授業の予習、生徒との会話の中で覚えたほうがよいことなどを予め理解しなおす必要があるからだ。
――まぁ
そんな教職に対し勤勉に生きる彼だが、ひとたびそれが休みとなると、それはまぁ酷く怠惰な生活を送る。
昼前に起きるのは当たり前、食事も手間暇をかけない残りものを冷蔵庫からあさる。
服もだらしなくし……といった、ろくな生活の出来ない男と変化する。
そんな姿は名家黒澤家の
しかしそんな彼を支えてきたのが家族、そして使用人である神居信基。
そして今同じように、黒澤家にて生活をする彼を窘める存在がいる。
――そう、角人の
この話は、そんな彼と彼女の
***
白岡角人の休日の朝は遅い。
午前の九時を過ぎていながらも、彼は自室のベッドの上でゴロゴロとしていた。
そんな彼の下に一人の人物が近づく。
――彼の
「角人……角人。もう何時だと思ってるの? もう十時を回るわよ、起きなさい」
「んー……」
必死に布団を揺らし、角人へ目覚めを要求するダイヤ。
彼女の長い髪は結わえてポニーテールのような髪型となっている。
私服の上に淡めの紅色をしたエプロンを付けているところから見るに、恐らく
当の角人はダイヤによって揺らされるもなんのその、布団に深く潜りなおして寝直しを決め込む。
そんな角人とかれこれ数分布団の奪い合いを行い、キリがないと確信した彼女は、角人のベッドの上に乗りあげる。
顔をしかめて抵抗していた角人は、布団を引っ張る力がなくなったことに安心したのか、力を抜き頭を布団から出す。
そんな角人の寝顔に呆れつつも
はっと我に返り、険しい顔をした後、角人の頬に手を伸ばす。
彼女がとった行動は――
「起きるのっ、です!」
「いでででぇ!」
――角人の頬を強く、強くつまみ、そして引っ張ることであった。
頬を引っ張られた当の角人は痛みによって意識が覚醒。
普通であれば犯人が誰かというのをまず把握するところから始まるが、誰がやったかなど彼らの間柄では
故に角人は意識を起こした直後、彼女に向かってこう告げる。
「――ダイヤ、もう少し優しく起こしてくれないものか?」
「あら角人、せっかくこの
「お前昨夜はそんなこと一言も言ってくれなかったじゃん」
「今日はお母様が早く仕事にでたので、このままだと貴方の朝食がないかもしれないと
「あーはいはい。大体わかったわ」
大きなあくびをしながらベッドから降りる角人。
そんな彼を見ながらなぜだか
彼女は彼に、何を求めているのやら。
「すっ角人!」
「……?」
そんなダイヤに気付かず、寝ぼけ眼でふらふらとリビングまで向かおうとする角人。
ダイヤは声を上ずらせながら彼を呼び止める。
角人が彼女のほうを向くと、ダイヤはモジモジと後ろ手に組み、体を揺らしながら言葉を詰まらせる。
「……なんだ? 朝飯はリビングだろ?」
「そっそういうことじゃ……なくて……その……」
「――ああ、
そう呟くと角人は右掌を右目の前に掲げ、左手で自身の首を撫でる。
少々痛々しく見えるこのしぐさ。実は彼の癖のようなものであり、
そのまま彼は
「――おはよう、ダイヤ」
「――ええ、おはよう。
ダイヤが求めたのは朝の挨拶。
ごくごく普通の、よく見るような当たり前の行動だが、大事な相手と一日で一番最初に行う挨拶は、どうやら感じるものが違うらしい。
角人からの挨拶に一気に
***
時刻は昼時。
ダイヤと角人はある場所にいた。
――そう、角人が教師として在籍し、ダイヤが
彼女達はこの学院の生徒会室、そこのテーブルに着席し、書類仕事を行っていた。
「あぁぁ……なんで休みの日にまでこんなことしなくちゃいけないんだよ……」
「仕方ないでしょう。浦の星女学院は見事
午前、角人が起きた後十時過ぎからこうして学院にて仕事をしている二人。
なんていうことはない。単にダイヤが書類のことを思い出し、思い立ったが吉日とばかりに角人を連れて仕事をしに来ているのである。
「そんなん三年の
「廃校を免れたのはわたくしの代。責任はわたくしが引き受ける物でしょ?」
「その責任感は結構だがさぁ……だったらなんで俺まで……」
ぶつくさぼやきながらも、
こうしてみると顔も整っており、癖である右掌の位置も相まってどこかアンニュイな空気を醸している彼。
そんな彼は学院内では良き教師として通っていて、生徒からの人気も高い。
彼のこんな姿は自分しか知らないのだと、少しばかり
「――んだよダイヤ」
「フフッ、なんでも」
「……あっそ」
彼の目をそらした位置にちょうどよく時計があったため、今が何時であるのかを確認する。
短針が一を示していることに声を上げる角人。
それと同時に彼の腹から空腹を訴える音が鳴る。
「……もうこんな時間か」
「そういえばそうね。角人、
「準備いいよなぁ……もしかして最初からこれを考えていたとかないよな?」
「……そんなことは……ないわ?」
「おい、こっち見て答えろよ」
***
ここは浦の星女学院の屋上。
そんな場所で、角人とダイヤはブルーシートを引き、座り込んだ。
「まっさかブルーシートまでもってきてたとか。屋上に入れなかった場合はどうするんだよ」
「すっ、角人がいるなら問題がないとわかってたから……! わたくしはその確信がなければ持ってこなかったわ!」
「お前それ絶対考えてない顔だよな」
とは言うものの、角人自身屋上の鍵を借りるのは
なぜなら、浦の星女学院では角人とダイヤの関係――有名な地主の長女と、その許嫁である隣市三島の地主に当たる白岡家長男――は
そんな二人が
「そんなことはいいの。ほら、食べましょう?」
「へいへい……いっただっきまーす」
「まったく、食べるとなったらすぐにがっつくのだから……」
旨い旨いと行儀もなくバクバク食べていく角人が喉を詰まらせやしないか
「うぐっ」
「ああほら、それ見たこと!」
「坊ちゃま。これを」
***
時は変わって夕方。無事に学院での仕事を終えた二人は黒澤家まで帰宅をした。
「ただいま、ダイヤ」
「ええ、お帰り角人」
角人より先に玄関にあがるダイヤ。
彼女は彼からカバンを受け取り、胸に抱えながら
「角人、今日は何の日か知ってる?」
「あん? ……わからん」
「2/14。その日を
「……あー……うーん……色々教えすぎて覚えてねぇや」
ダイヤはあきれながらつま先で立ち、角人の額を指で打つ。
バシッと鈍い音とともに頭蓋に来る痛みを抑えながら彼はダイヤに苦言を漏らす。
「いってぇ……そんな勢いよく入れなくていいだろうが……」
「あっ……ごめんなさい」
「まぁいいけどさ……で、何の日だっけ?」
角人の改めての問いかけに再び苦笑いをこぼすダイヤ。
リビングの冷蔵庫まで角人を誘導し、中から
ハート型で、何やら小さく文字が書かれている箱。
明るめな黄色のリボンが結ばれたそれを、ダイヤは角人に
「これを見て、まだわからない?」
「……ああ、そうか。
合点がいったと数度うなずく角人に、ダイヤは満足げな笑みを浮かべる。
箱を持ち、意外そうに眺める彼に一言、彼女が念押ししたいことを告げる。
「その中身は、
「マジか、マジか――サンキュ。ダイヤ」
「ええ、ええ。喜んでもらえたなら何よりだわ」
子供のように眼を輝かせる角人。
そんな彼の様子に胸を張って自慢するダイヤ。
ふと
角人は意図がつかめないものの、そんな彼女の行動に合わせ、少し背をかがませる。
「ハッピーバレンタイン、
耳元で
***
「――はっ!」
――
どうやら今までのことが全て夢だったのか。
鮮明に覚えている内容に戸惑いつつ、枕元にあるデジタル時計を見る。
そこに書かれていた日付は2/14。通称バレンタインデー。
一つ違うことは、夢で見たこととは違い、まだ角人は
つまり、ダイヤは
「わたくしは……なんて夢を……!?」
角人との生活。休みの日に学校の屋上で共に弁当を食べるなど――
もっと言えばダイヤは
朝に角人を起こすというのも奇妙だ。彼は確かに遅いが、起こすのは
思えば変なことばかり見たものだと、彼女は嘆息する。
「まったく……どうしてわたくしが角人に……」
するのは
黒澤家の長女である自分から、許嫁の彼に対して接吻などと……
赤面しつつそんなことを考えていたところ、ダイヤはふとあるものの存在について思い出す。
「神居さんに頼んでいた
そう呟きつつ身支度を整え、冷蔵庫へと向かうダイヤ。
それは彼女が普段だったら絶対に用意することのないもの。
今まで洋風かぶれ云々と叫び距離をとったかもしれないもの。
そう、それは角人に
――
夢の中で渡していなければきっと忘れていたかもしれないそれを、ダイヤは冷蔵庫に取りに行く。
今日がバレンタインデー故に、角人へあげることもやぶさかではないと、そう口元を緩ませた彼女がリビングについたとき、衝撃的な光景を見た。
「
「なっ……なななななっ!?」
それは角人へ上げる予定だった、神居に代わりに用意してもらったチョコレート。
いつも彼はこの時間に起きないというのに、なぜ起きているのか。
なんで神居がそのチョコレートを置いていったと知っているのか。
ダイヤの頭の中には様々な疑問がうずまいていくが、はっきりと言葉にできたものは、ただ一つであった。
「角人の……」
「……んぃ?」
「バカァァァァァァ!」
直後角人は、彼女の張り手によって、大きく吹き飛ばされた。
・それ以外の理由
だいたいはダイヤの生活サイクルに合わせるため。
ダイヤと同じ時間に出勤する勤勉な旦那である。
・神居
化生の類にしか見えないくらいごくごく普通にどこからか現れる角人専属使用人。
いつの間にか現れて何かをしていつの間にか消えるとか正直人間じゃない。
・角人
手の癖が初めて明かされた。
そして最後のチョコレートのことだが、箱に入れられていても勝手に開けて食べてしまっていた。
割ともったいない精神が強いくせにいい加減な性格。
・ダイヤ
全編において読者に対し盛大な自爆をかましたメインヒロイン。
ダイヤの夢オチということは角人に対する印象や想いが赤裸々に綴られたようなもの。
本編の二人の雰囲気から見てどこか甘すぎるやり取りに違和感を持ったものがいるのではないだろうか?
料理ができないのに自慢気に料理やお菓子を振る舞う夢でもあったせいで彼女はより花嫁修業に奮闘することとなる。