銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色

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【概要】
・本作品は、2011~2012年にかけて、今は亡きにじファン様で連載していた同タイトルの改訂版です。
・個人ブログ『ことばつなぎ。』及び小説家になろう様とのマルチ投稿となります。
・ブログではすでに80話ほどまで公開済みですので(2016年1月時点)、手っ取り早く先を読みたい方はブログをご利用ください。URL含め、詳細はユーザページにまとめてあります。

・冒頭は三年ほど前の文章なので、今とはだいぶ文体が異なっている点だけご了承ください。


第1話 「フットルース・ステップ ①」

 

 

 

 

 

 夜を歩くようだった。

 

 森はあたかも空を嫌うかのようにうずたかく伸び、いっぱいに広げた両腕で空を奪っていた。今が晴れているのか曇っているのかもわからないままひっそりと木々に分け入る様は、まさしく夜闇を進むのと似ている。ただくしゃりと枯葉を踏みつける音だけがどうにも耳障りで、男は浅く目を細めた。

 

 風変わりな男だった。二十代中頃かそれ以降か、黒髪黒目の標準的な日本人の相貌に、しかしその身を包むのは洋服でなく、狩衣(かりぎぬ)にも似た白の和装。その実、狩衣とは元々狩りの際に好んで着られた運動着であるのだが――今のご時世、それを着て外を歩けば奇異と不審の目を引く。他人のいない深い森の中とはいえ、すれ違う木々すらも、男の突飛な様相に眉をひそめているようだった。

 男の足取りは静かで、しかし迷いない。周囲を見回すこともせず一直線に進んでいく様子は、歩き慣れている以上に、行くべき場所を初めから知っているという印象を与える。

 

 男がそうして目指した場所は、奥地、寂朽ちた一つの神社であった。塗装は剥げ、屋根は崩れ、柱は朽ち、境内は枯葉と雑草で足の踏み場もない、一目で廃れたのだと見て取れる神社。それを正面から見据えて、男は小さく苦笑した。

 

 男はすぐにまた歩き出す。枯葉と雑草を踏み鳴らし、境内をぐるり、社の裏に回った。

 するとそこに、背の高い石造りの鳥居があった。参道の入口に設けられるはずの鳥居が、なぜかこの廃れた神社では、本殿の裏に隠れるようにして建てられている。鳥居を越えた先に広がるのは薄闇の森だけで、参道はもちろん、獣道すらありはしない。

 されど男はその異様な鳥居を前にしても表情を変えることなく、『笠木』と呼ばれる鳥居のてっぺんを眺めて、やがて静かに笑みの息をつく。

 

 同時、男の黒髪が風に揺れた。けれども、森は依然ざわめくことなく静謐を保っている。男の周囲にだけ風が巡っているのだ。

 男の体に変化が起きる。黒かった髪はまるで絵の具を洗い落とすようにして銀色へ変わり、赤みのある健康的な肌は、少しだけ白く。そして頭の上からぴょこりと生えたのは獣の耳であり、尾骨あたりから不意に伸びたのは、彼の背丈と同じくらいの大きさになる、豊かな銀の毛で覆われた――尻尾。

 人から人外へと“戻った”彼は、そうして笑う。唇端引き上げ、子どものように。

 

「では行こうか。久方振りの――」

 

 ――幻想郷へ。

 

 森が鳴いた。或いは彼を歓迎するように、さわさわ、さわさわと。

 やがて鳥居をくぐった男の体は、森に溶けるようにしてどこかへと消えゆく。

 

 残るのはただ、寂朽ちた小さな神社と、森の声だけ。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 両腕に提げた四つの饅頭の桐箱。これが何日で空になるのかを考えると、魂魄妖夢は憂鬱になった。「食欲の春よ! 食欲の春にはお饅頭をお腹いっぱい食べるのが習わしなの!」――朝っぱらからそんなことを宣う主人の頭は、間違いなく春なのだろう。

 

 春の朝だ。陽春の朗らかな朝日が注ぎ、巡る涼やかな風に乗せられ、甘い花たちの気配が香っている。そんなありふれた春の景色は、しかしこちらの荒んだ心を慰めようとするように穏やかで心地がよかった。この天気の下を歩けるのなら、朝一番で主人にお遣いを命じられたのも、まあ、悪くはなかったかもしれない。

 とはいえそれで妖夢の機嫌がすっかり回復することもなく、人里での買い出しを終えた帰り道、進める足取りはどんより重い。

 

「これでしばらくは……もたないだろうなあ。五日……いや、三日かしら。早ければ明後日にもまた買い出しを頼まれる可能性が……」

 

 風が甘く香っても、口からこぼれるのは憂色濃いため息ばかり。頭を悩ます種は、ただいま全身全霊で春を謳歌している自由奔放なご主人サマ。

 

 妖夢の主人である西行寺幽々子は、この幻想郷に広く名を知らしめる健啖家であり、なかんずく饅頭に注ぐ愛たるや、まさに山より高く海より深く。朝に眠気覚ましだと言っていくつか食べ、朝食のあとにデザートだと言っていくつか食べ、昼食のあとにデザートだと言っていくつか食べ、三時のおやつにいくつか食べ、夕食のあとにデザートだと言っていくつか食べ、夜になると一日の締め括りとしてまたいくつか食べる。とにかく、見てるこっちが胃もたれするくらいに食べるのだ。

 それでも彼女が太りもせず病気にもならないのは、体質故か、それとも亡霊だからなのか。ともかくそんな余計な能力を神が与えてしまったばかりに、妖夢のストレスは四六時中治まることを知らないでいる。

 

「さすがにどうにかしないとダメかなあ……。でもそうしたところで今度はお煎餅とかに流れていって、どの道買い出ししなきゃなんないのは変わらないんだろうなあ……」

 

 どうにかできるものなら祖父が既にしていただろう。幽々子の大食い癖が今なお健在なのは、祖父の腕を以てしてもやめさせることができなかったからだ。

 ならば、未だ庭師としても幽々子の目付役としても半人前の妖夢にどうして止めることができようか。結局、今の妖夢にできることといえば、幽々子のいないところで小言を漏らす程度でしかないのだ。

 

「幽々子様のばかー……」

 

 白玉楼のエンゲル係数は、どうやら今月も七割を超過しそうであった。

 

「――もし、そこの半人半霊の女の子。そろそろ止まってくれないとぶつかるのだが」

 

 その時、妖夢は聞き慣れない声を聞く。男の声。波の穏やかな聞き心地のいいバリトンの声音だ。

 ハッとして俯けていた視線を上げると、正面、手を伸ばせば届くほどの至近距離に、男が立っていた。――幽々子のことばかりを考えていて、完全に気がつかなかった。

 

「ッ、す、すみません」

 

 咄嗟に二歩後ろに下がれば、視界に男の全身が映る。同時、妖夢の脳に鮮烈に飛び込んできたのは――銀。

 銀髪の男だ。上白沢慧音のように青みがかっているのではなく、森近霖之助のように灰色がかっているのでもない、光沢すら感じさせるくすみのない鮮やかな銀色。自分のよりずっと綺麗かも、と妖夢は思わず惚けた。

 そしてそれに数秒魅入ってから、ふと男の頭から獣の耳が生えていることに気づく。続けざまに、背後で同じ銀色の尻尾が揺れていることにも目が行った。

 脳が彼が妖狐であることを告げ、反射的に身構えるも、すぐに男の表情に害意がないことに気づいて体から力を抜いた。

 

「随分と考え事をしてたみたいだね。何度か呼び掛けたんだけど、さっきの距離になるまで全然気づいてくれなかった」

「も、申し訳ないです」

 

 頬が熱を持っていくのを感じる。こんなんだから半人前って言われるんだと、妖夢は猛省した。

 ともあれ、知らない相手だ。妖夢は頬の熱が色になっていないことを祈りつつ顔を上げ、改めて男の相貌を見る。

 若い男だ。妖怪故に年齢は知れないが、人間でいえば二十代中頃か。背は、こちらが少し低いこともあってか、この距離からでもやや見上げる程度には高く見える。温厚の色濃く細まった瞳は暖かく、細面なのも相まってか、外見以上に大人びた印象を受ける。

 

「ええと……なにか、御用ですか?」

 

 まさか軟派などではなかろうが、念のため距離を保ったまま問い掛ける。男は柔和な笑みを崩さず、なに、と浅く右腕を持ち上げた。

 

「少し、尋ねたいことがあってね」

「なんでしょう?」

「ここ最近で、この幻想郷で変わったところはないだろうか」

「……変わったところ?」

 

 男の問いが理解できず、思わずオウム返しで訊き返してしまう。失礼だろうかとは思うけれど、それにしても妙な言葉ではあった。

 

「変わったところ、といいますと?」

「ん、そうさな……最近になってこのあたりにできた新しい建物とか土地とか、そういうものはないかな?」

「はあ……」

 

 問いの意味は掴めたが、そう尋ねる男の意図は依然知れないまま。

 どうしてそんなことを訊くのだろうか。最近になって新しくできた建物や土地といえば、守矢神社や永遠亭などが挙げられるけれども、そこは同じ幻想郷に住む者だ。知らないということはないはずではないか。

 そう頭をひねりながらも、とりあえずだんまりしていては失礼なので、先に答えを返しておく。

 

「去年の秋頃、妖怪の山の頂付近に、外の世界から神社がやって来ました。……こういうので大丈夫ですか?」

「ふむ、大丈夫だよ。他には?」

「そうですね、あとは……」

 

 迷いの竹林の永遠亭。あとは、最近かどうかはあくまで妖夢の主観になるが、霧の湖の紅魔館も挙げておいた。

 

「なるほど。外の世界から来た神社に、永遠亭に、紅魔館ね」

「ここ最近ではこんなところだと思います。……お役に立てましたか?」

「もちろん。助かったよ、ありがとう」

 

 満足げに頷いた男は、軽く右腕を挙げて会釈。そして驚くほどあっさりと踵を回し、妖怪の山の方向へと歩いて行ってしまった。

 

「あっ、」

 

 妖夢は反射的に半歩足を前に出したけれど、思い直せば特別呼び止めるような理由もなかったので、すぐに息をついて足を戻す。

 男はまっすぐ妖怪の山を見据え、振り返る素振りはない。こちらの存在など既に忘れているのだろう、動かす脚のリズムに合わせて、右へ左へと尻尾が陽気に揺れている。

 なんだかよくわからない妖怪だ。銀の狐なんて珍しい存在なのになんの噂もなくて、なぜ幻想郷の新しい建物を知ろうとしたのかも謎のまま。

 話をした感じ悪い妖怪ではないようだから、引き留めようとは思わないものの、

 

「……変なの」

 

 思わずそう呟いてしまう程度には、変な妖怪だった。

 けれど妖夢も、すぐに男のことを意識から外した。今妖夢が最優先すべきことは幽々子のお遣いを終わらせること。あまり帰りが遅くなると機嫌を損ねられるだろうし、そうなると色々と面倒なので、すぐに白玉楼へと向けて飛揚した。

 

 この狐が何者なのか知るのは、それより少しばかり、あとの話。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 頂を見上げれば首が痛くなるほどに、高く高く伸びる石段。それを長い時間を掛けて登り切った先で、昂然と飛び込んでくる日本庭園がある。四方の形で並ぶ数多の桜を取り込んだ石庭は、まさに荘厳華麗の体現であり、冥界の中核である白玉楼を象徴する傑作であった。

 

 その石庭に四囲を彩られた日本屋敷、白玉楼。流水の如く見事な枯山水を望む大広間で響くのは、しかしバリボリという、庭の景観を全て台無しにする品の欠片もない咀嚼(そしゃく)の音。

 西行寺幽々子が、煎餅をむさぼり食っていた。

 

「おほいはへーほうふ。いっはいほほへほりみひしへるのはひは」

 

 煎餅一枚を割ることもせず丸々口に放り込み、頬をいっぱいに膨らませながら、細かく砕く。欠片を舌の上で転がすと、ほのかに醤油の甘さが香った。

 美味しい、と頬が緩む。幽々子は煎餅よりも饅頭の方が好きだが、もちろん煎餅だって大好物だ。また一枚を掴んで口に放り込む、その動きは速く、見る見る内に手元の桐箱から煎餅がなくなっていく。開けた当初は四十枚ほどあったが、今では既に半分まで減ってしまっていた。

 とはいえ、幽々子はそのことを微塵も気に留めない。『食べたい時に食べたい物を食べたいだけ食べる』を処世訓とする幽々子にとって、どの食べ物がどれだけ残っているかなど些細な問題なのだ。

 

「相変わらず、あなたは食べてばかりねえ……」

 

 バリバリ煎餅を砕く音に混じって、正面からため息が飛んできた。幽々子は煎餅を飲み込みかすかに渇いた喉をお茶で潤すと、「あらあら」と笑みをたたえて正面を見据えた。

 宝石のような光沢すら見て取れる、美しい金髪の少女がいる。その細やかな輝きも、彩られる整った相貌も、奥で悄然と細まった瞳も、全て幽々子がよく見知ったもの。

 

「だって私は食べるのが大好きなんだもの。今更よ、紫?」

 

 名は、八雲紫という。幽々子の唯一無二の親友であり、また幽々子がこの冥界を管轄しているように、彼女は幻想郷という世界を庇護している管理者でもある。

 そんな紫は今、せっかくの端正な顔立ちを明らかな私情で歪めていた。忌々しいと、そんな気持ちを包み隠さず表現した半目でこちらを睨み、

 

「なんで幽々子はそんな食べてばっかりなのに全然太らないの? 不公平過ぎるわ……」

 

 彼女がこんな表情をする原因を、幽々子は既に察している。つまりは紫、なにがとは言わないが、“増えた”のだ。少し前に外の世界に出掛けた際、誘惑に負けてケーキをいくつか頬張ったのだという。

 やはり女たるもの、“増え”てしまうと精神的に大きなダメージを負うものだ。妖夢もそれが嫌で嫌で、仕方ないから自分の食生活にはかなり気を遣っていると言っていた。

 けれど幽々子はそんな彼女らをあざ笑うように、どれだけ食べても一向に太らない体質の持ち主だった。だから、鼻にかけるように大きく笑んでこう返す。

 

「羨ましい?」

 

 すると案の定、紫はなお一層とその口元を歪めて舌打ちした。

 

「ええそうよ、羨ましいわよ」

「紫も食べる?」

「人の話聞いてた? 食べないわよ」

「美味しいわよー?」

「結構ですー」

 

 ツンとそっぽを向く紫に、幽々子は可愛らしいものだと笑みを深めた。じゃあちょっとだけいじめてやろうかと、これ見よがしに煎餅を噛み砕きながら、独り言を言うように、

 

「一瞬の油断が命取り。難儀よねえ……」

「うぐぅっ……ふ、普段は大丈夫なのよ?」

「これはきっとあれねー。外の世界から買ってきたケーキを親友にお裾分けすることもせず独り占めしたものだから、ケーキの神様が罰をお与えになったのよ」

「うう、ケーキの神様のバカ~……」

 

 紫が心底悔しそうに目元を歪めた。幽々子は芝居がけて大仰に両腕を広げ、声高につなげる。

 

「今からでも遅くないわ、私にそのケーキを持ってきなさいな! そうすれば私がケーキの神様にお話をして、あなたにかけられた呪いを解いてもらうようにお願いしてあげる!」

「……騙されない、騙されないわよ。つまりはあなたがただケーキを食べたいってだけでしょ」

 

 紫は半目でこちらを睨み、それから吐息。

 

「それに、もうちょっとで元に戻るもの。努力の勝利よ」

「ああ、ケーキの神様、ケーキの神様! ここにいる薄情者に更なる罰をお与えください!」

「ちょっと幽々子ー!?」

「具体的には、もっと太」

「やめてえええええ!? それ冗談にならないから、ストップ、ストップ!」

「知らないわよー! 意地悪な紫なんていっそぶくぶくに太」

「やああああああああ!?」

 

 紫が顔を真っ青にしてこちらに飛び掛かってきた。そのままビシビシと頭を叩かれたので、すぐに幽々子も反撃に出る。

 

「ケーキを独り占めする紫が悪いのよー!」

「仕方ないじゃない、とっても美味しそうだったんだものー!」

「ふーんだ!」

 

 負けじと平手を振るう勢いに任せて、

 

「これからもそうやって誘惑に負けて、太って、いつか“あの人”に呆れられちゃいなさい!」

 

 と、言った瞬間だ。

 

「――……」

 

 唐突に、紫の動きが止まった。

 

「……紫?」

 

 幽々子は紫を見た。今までの食いかかる勢いは露と消え、こちらに掴みかかった体勢のまま、それでもどこか心あらずと茫と視線を迷わせている。

 幽々子は内心で吐息した。『あの人』。たったそれだけの言葉でこんな反応をされるとは思っていなかったから。

 ちょっとした冗談のつもりだったけれど、失敗だっただろうか。そしてどう取り繕うかと考えていると、先に紫が、ポツリと言った。

 

「ねえ、幽々子」

 

 もはやふざけるのはおしまいだ。幽々子は掴みかかられていた紫の手をそっと解いてやり、その声に真摯に耳を傾ける。

 

「なあに?」

 

 促しに、紫は一つの言葉で応じた。

 

 

「――昨日ね。あいつの夢を見たの」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「そう。あの人の夢を、ね」

「うん」

 

 告げる紫の声色には、ややの思慕の感情がにじんでいた。幽々子は口元にそっと笑みを忍ばせる。

 

 八雲紫には想い人がいる――なんて話は、少しばかり唐突だろうか。けれどそれは、幽々子のように紫と親しい者ならば誰しもが知っていることだ。

 

 綺麗な銀の毛を持つ狐であった。幽々子の知りうる限りで最も澄んだ銀である彼は、

 

「あの人が外の世界に出て行って……もう500年くらいになるのかしら」

 

 久しく昔、幻想郷から外の世界に出て行って、それっきり戻ってきていない。自由奔放で好奇心旺盛な妖怪なのだ。この幻想郷より外の世界の方が面白いからと、それだけ言い残して、もう500年の年月を数えている。

 

「なるほどね、じゃああなたがそんなにセンチメンタルになってる理由も納得したわ。つまり――会いたくて会いたくて仕方ないってことね?」

 

 問い掛けに、紫はちょっとだけ気恥ずかしそうに頷いた。そんな姿が、たとえ千年以上を生きた大妖怪であっても少女のように可愛らしいのだと、幽々子は己の笑みを深めた。

 

「きっと大層、外の世界での生活が楽しいんでしょうね。500年もあなたのことをすっぽかしてるんだもの」

「……」

 

 半瞬の沈黙。

 

「……ねえ、幽々子」

 

 紫の表情に陰りが差し、そうして幽々子に掛けたのは不安げな問い。

 

「ここって、そんなに面白くないのかな。……つまらないのかな」

 

 今にも消えてしまいそうに儚いその声音を、しかし幽々子ははっきりと聞き、そして答えた。

 

「少なくとも、私はそう思ったことはないわよ? でもあの人は、もしかしたら違っていたのかもね。あの人はあなたみたいに人間のことが大好きで――でもあなたとは違って、妖怪と人間を共存させるのではなく、もっと単純に、人間たちと同じ時間の中を肩を並べて歩いていこうとした」

 

 一息置いて、

 

「幻想郷の時間は、外の世界に比べればきっと止まっているようなものでしょうし。なにかが足りないって、感じていたのかもしれないわよね」

「……」

 

 単純な単位としてではなく、生活水準の発展という意味合いで、幻想郷の時間は成立当時からほとんど変わっていない。仕方のないことではあるのだ。過度に文明を発達させれば外と同じように妖怪の住みにくい世界になりかねないから、そんな外から隔離し時間を止めた幻想郷のシステムは、妖怪と人間を共存させる上で必要な予防線だ。

 このシステムをつくり上げた紫は間違ってなどいない。だからこそ、

 

「だとしたらきっと、あの人が外の世界に出て行ったことは必然だったんじゃないかしら。ほらほらあれよ、いわゆる『価値観の相違』ってやつね」

 

 例えば外の世界には、未だに幻想入りを拒み、人間たちとともに生きている妖怪たちが少なからずいる。生き物の価値観は千差万別。妖怪の中にだって、妖怪の楽園とされる幻想郷よりも、あえて外の世界を選ぶような変わり者はいるのだ。

 そして彼は、後者だった。ただ、それだけの話。

 

「……」

 

 ままならないものね、と幽々子は思う。紫は幻想郷を管理する立場だから、一緒にいたくても彼のあとを追うことはできない。そして彼は、きっと紫の想いにも気づいているのだろうけど、花より団子と自分の好奇心に従って生きている自分勝手な妖怪。こうも噛み合わないのは、傍から見ていて実にもどかしい。

 

「戻って、こないかなあ……」

 

 切々と揺れる紫の呟きに、幽々子はそっと眉を下げた。

 或いは慈母のように、微笑んでやる。

 

「あの人は自分勝手だけど、決して薄情じゃない。……むしろ、妖怪には珍しいくらいの人情家だもの」

 

 一息、

 

「きっとその内、なんの前触れもなく戻ってきてくれるわよ」

 

 言い切ると同時、ただいま戻りましたー、と大広間の襖が開く。親友として紫を思う幽々子は、しかしここに来て己の食欲を優先させた。あどけなく目を輝かせ、満面の笑顔で、広間に入ってきた彼女を迎える。

 

「おかえりなさ~い、妖夢! そして待ってたわよ、お饅頭~!」

 

 幽々子の視線の先、魂魄妖夢は疲れのにじんだため息を一つこぼして、両手の荷物――袋いっぱいに入った饅頭の木箱――をドサリと下ろした。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 ポヤポヤ笑顔の幽々子に迎えられて妖夢が大広間に入ると、彼女とちょうど差し向かう形で、お遣いに出る前には見られなかった人影があった。

 

「あ、紫様。いらしてたんですね」

「……ええ、そうね。お邪魔してるわ、妖夢」

 

 紫はこちらを一瞥だけして、妙に元気のない声音でそう返してきた。少しばかり様子がおかしいような気がして、妖夢は幽々子に視線で問う。どうかしたのですか、と。

 対して幽々子は眉を下げた笑みを浮かべ、唇だけを動かして、大したことじゃないわ、とだけ言った。

 少し気に掛かったが、紫は妖夢よりもずっと上の立場だし、なにより主人である幽々子にそう言われれば踏み込もうとは思わない。新しくお茶を用意してあげようと思いながら視線を動かすと、テーブルの上で、ごっそりと中身の減った煎餅の桐箱が目に入った。

 

「……幽々子様、お饅頭もお煎餅も決して安くはないんですから、せめてほんの少しだけでも食べる量を減らして――ちょっと、聞いてますか?」

「うん、聞いてる聞いてる」

 

 幽々子はそう何度も頷きながら、こちらの買ってきた饅頭の箱を引っ掴んで包装を解きにかかっていた。

 

「ちょ、ちょっと、言ってる傍から開けようとしないでくださいよ! 聞いてないじゃないですか!」

「違うわよ妖夢、――聞いた上で開けようとしてるの」

「……、」

 

 どう返すべきかと妖夢が一瞬迷ったその隙に、幽々子は手慣れた手つきで包装を解き、中から饅頭を三つつまみ出す。そして瞬く間に、その中の一つが彼女の口の中に消えてしまった。

 

「あ~ん、美味しいわあ~♪」

「…………」

 

 もはや止めるには手遅れ、饅頭一つ守れない己の無力がなんとやるせないことか。妖夢はせめて他の饅頭だけはと桐箱を素早く幽々子から遠ざけ、一方で、自分もその中から一つを手に取った。

 

「あら、妖夢も食べるの?」

「私だって、お饅頭は好きですから。いつも幽々子様に取られてますけど」

「ふうん……」

 

 それに今は、精神的な疲れもあるのか、無性に甘い物を食べたい気分なのだ。体重の方がやや気になるけれど、お遣いに行って充分運動したし大丈夫だろうと恣意的に解釈。頬張った途端に口全体に広がるであろう餡の甘みを思い描きながら、妖夢は笑みとともにそれを口に――

 

「紫も食べる? 美味しいわよ」

「……ねえ幽々子、あなた今、私に喧嘩売ってる?」

 

 運ぼうとした瞬間、幽々子のその一言で周囲の温度が俄に冷たくなった。紫がほのかに黒いオーラをまとい始めているように見えるのは、恐らく錯覚ではないだろう。妖夢の全身から冷や汗が吹き出した。――そういえば彼女、今、ダイエット中だとか言っていたような。

 なにしてるんですか幽々子様!? と妖夢は幽々子を見やるものの、彼女はまったく気にも留めていない様子で肩を竦めており、

 

「ひどいわ紫ったら。私はただ、大切なお友達のために善意でお裾分けをしてあげようと思っただけなのに。――どこかの薄情な誰かさんとは違って」

「なんだ、そうだったの。――よし表に出なさい幽々子」

「お、おおお落ち着いてください紫様ー!?」

 

 ゆらり、幽鬼のように立ち上がった紫を、妖夢は慌てて両腕で引き止めた。喧嘩をするほど仲がいいなんて言葉があるけれど、この二人が喧嘩したら間違いなく白玉楼は半壊するし、どうせ修理はこちらの仕事になるのだ。迷惑以外のなにものでもないのでなんとしても思い留まって頂きたい。

 

「放しなさい妖夢、太る苦しみを知らないやつには制裁が必要なのっ」

「わ、私はわかりますよ! 嫌ですよね苦しいですよね、ほ、ほら私なんてもう体重計恐怖症で!」

「あら、あなたはいい子ねえ。私はとても嬉」

「太る苦しみ? なにそれ食べられるの?」

「さあ幽々子早く表に出なさあああい! ここで袂を分かってあげるわあああああ!」

「うわあああああ!?」

 

 殺伐と荒れ狂う大広間の空気、抑え切れず溢れる紫の妖力。白玉楼を泣きながら修理する己の未来が妖夢の頭をよぎった中、しかし元凶たる幽々子はポヤポヤ笑いながら「ほ~らほら」と饅頭を頬張るのみ。完全に遊んでいる。もうやだこの主人、と妖夢は泣きたくなった。

 しかし、たとえ涙を流してでも、白玉楼が破壊される未来だけは回避したい。ここには祖父から受け継いだ大切な日本庭園があるのだ、このまま全てを投げ捨てることなどどうしてできよう。意を決し、最後の説得を試みる。

 

「ゆ、紫様紫様、お願いですから落ち着いて」

「どきなさいスキマ送りにするわよ」

「ひー!?」

 

 けれど紫の感情は既に抑えが利かないところまで昂ぶっており、説得の余地などありはしなかった。ギロリと睨みを利かされ、妖夢は恐れをなしてその場でしゃがみガード。

 

「さあ幽々子ぉ……覚悟はいいかしらぁ……?」

「仕方ないわねー。じゃあ私も、ちょっとケーキの恨みを晴らさせてもらうとしましょうか」

(ぎゃあああああ!?)

 

 遂には幽々子が紫に応じて腰を上げてしまったので、妖夢はいよいよ血の気を失った。頭を体を右往左往、ななななんとかしないとなんとかしないとと焦りに焦り、その状態ではとてもじゃないけれど正常な判断などできるはずもなく、

 

「あ、あー! そ、そういえばお遣いの帰りに変な妖怪に会ったんですよねー!」

 

 気がついたら、そんなことを叫びながら二人の間に割って入っていた。「変な妖怪? 焼き鳥の妖怪とかかしら?」「幽々子様は黙っててくださいっ!」余計なことを言う主をいい加減に黙らせ、紫の気を逸らせるために身振り手振りであれこれ、必死に必死にまくし立てる。

 

「すごい特徴的な方だったんですけど私は全然知らない方だったのでもしかしたら紫様なら知ってるかもしれませんねだからもしご存知だったら教えてほしいなあとか思いましてだからお願いです喧嘩はやめてくださいお屋敷を壊さないでくださいいいいいい!」

 

 もはや妖夢に、己の外聞を気に掛ける余裕などありはしない。大事な庭を守りたくて、というか幽々子の世話だけでいっぱいいっぱいなんだからこれ以上余計な仕事を増やさないでくださいよと、ただその気持ちだけを以て泣きながら紫にしがみついていた。

 紫はしばらく不快げに顔をしかめていたが、やがてこちらの気持ちを汲んだのか、それとも単純に興醒めしたのか、ため息一つで溢れていた妖力を鎮めた。

 

「わかった、わかったわよもう」

「うわあああありがとうございますううううう!」

「はいはい……。で、誰なのその変な妖怪って?」

「あ、はい。綺麗な銀色の妖狐で」

 

 紫の妖力が再び溢れ出した。

 

「ひいいいいいごめんなさいどうでもいいですよねこんな話すみませんごめんなさい申し訳ありま」

「――妖夢、その妖怪はどこに行ったの?」

「……へ?」

 

 しゃがみガードをする妖夢の頭上、降ってきた声色に怒りの色はない。溢れる妖力とは対照的にひどく落ち着いた、語りかけるような声だった。

 恐る恐ると顔を上げれば、紫が張り詰めた表情でじっとこちらの答えを待っている。妖夢は言葉につかえた。彼女がどうしてこんな顔をするのかわからなかった。

 

「お願い、教えてちょうだい」

 

 二度目の問い掛け。妖夢はハッと背筋を伸ばして答えた。

 

「よ、妖怪の山の方に歩いて行きました……けど」

「そう。……ありがとう」

 

 そう短い返事をした時、紫は既にこちらを見ていなかった。白玉楼の外、妖怪の山の方向を一途に見据えて、驚くほどあっさりとスキマの中に消えていってしまった。

 

「……、」

 

 唐突に訪れた静寂に、妖夢はただ、一体なにが起きたのかと目を丸くするばかり。

 答えを送ったのは、背後で静かに笑みの息をついた幽々子だ。

 

「ふふ。居ても立っても居られないっていうのは、きっとああいう状態のことをいうのね」

「……幽々子様」

「でかしたわね~、妖夢。あなたが戻ってくる直前まで、ちょうどあの人の話をしてたのよ。やっぱり噂をすれば影が差すのね」

「は、はあ」

 

 どうやらあの狐、本当に紫や幽々子の知り合いらしい。しかも紫があそこまで張り詰めた表情をしたのだ、恐らくただの顔見知り程度ではない。

 

「何者なんですか? その男の方は」

 

 問うと、幽々子は不思議がるように「んー?」と口元に人差し指を添え、

 

「話してなかったかしら? 紫の想い人のこと」

「おっ……想い人、ですか」

 

 予想外の言葉に、妖夢は思わず身を固くした。半人半霊故に見た目以上に長生きしているとはいえ、魂魄妖夢、恋愛話にはなにかと初心なお年頃。

 その反応に幽々子は微笑み、

 

「そういえば、そういう人がいるってことしか言ってなかったかしらね」

「え、ええ……恐らく」

 

 答えつつ肩から力を抜き、妖夢は己の記憶を遡った。確かに、そんな話を相当昔に聞かされたような気がする。かなりおぼろげな記憶だが、何百年か前に外の世界に出て行ったきりなんの便りもなくて、軽い行方不明状態だとか言っていたか。

 

「まさか、彼が?」

「確定とは言えないけど、まあほとんど間違いないでしょうね。銀色の狐なんてあの人以外に知らないし」

 

 幽々子は頬に手を添え、吐息。

 

「なんの前触れもなく戻ってくるとは思ってたけど、本当にそうなるなんてね。あの人らしいわ」

 

 つなぐその声色はどことなく楽しげで、次第にたたえた微笑も深まっていく。紫の想い人だという彼が戻ってきたことを、喜ばしく思っているのだろう。その反応を、妖夢は意外だと思った。

 少なくとも幽々子は、その狐のことをある程度以上慕っているようだ。そうでなかったら、こんな風に嬉しそうな顔はしないだろう。

 

(ふうん……)

 

 初めて話を聞かされた時は特に興味が湧かず、名前すら尋ねずに聞き流していたけれど。主人とその親友がここまで慕うような男……改めて、どのような人物であるか気に掛かった。

 だから妖夢は、幽々子にこう問う。

 

「幽々子様。その人のことについて、教えてもらえませんか?」

「あら、あの人に興味が湧いた? 紫に怒られちゃうわよ?」

 

 意味深な横目を向けてきた幽々子に、そんなんじゃないですよと苦笑を返す。

 

「ただのお知り合いじゃあ、ないんですよね?」

「んー、どうかしら。私なんかは案外普通の知り合い同士のような気がするけど、でも紫にとっては違うわね。なんでも、あの人がいたから幻想郷を創ろうと思ったんだとか」

「……それって、もしかしなくてもすごい方じゃないですか?」

「思想的な話よ。あの人も、紫と同じで人間が大好きだから……」

 

 まあ、これよりも先に話すことがあるわね――そう浅く首を降って、幽々子はその場に腰を下ろした。

 お茶を一口すすり、吐息。

 

「……じゃあまずは、あの人の名前からかしら?」

「はい。お願いします」

 

 頷き、妖夢も幽々子の向かい側に座る。そして互いに差し向かう形の中、幽々子はまず懐かしむように目を細め、

 

「思い出してみて、妖夢。あの人の毛並み、銀色は、まるで月を見てるみたいに綺麗だったでしょう?」

 

 思い出に浸り、微笑んだ。

 

「だから、あの人の名前は――」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 無数の瞳が、彼女を見ていた。

 瞳以外に、体はない。延々赤黒い空間に無数の瞳だけを植えつけた、ただそれだけの『スキマ』と呼ばれる空間で――瞳たちが瞬きもせず滔々(とうとう)と追う先、八雲紫は飛んでいる。

 

「っ……!」

 

 その心には、もはや“彼”以外の何者もありはしない。彼以外の他者を全て弾き出し、ただ彼の隣に在るためだけに、がむしゃらにすらなって飛んでいく。

 

 いつ戻ってくるんだろうと、ずっとずっと心配だった。幻想郷を捨ててしまったんじゃないかと不安に思ったことがあった。もしかして死んでしまったんじゃないかと、怖くなったこともあった。

 

 けれど彼は、あれから500年も経ってしまったけれど、またここに戻ってきてくれた。

 だから、だから八雲紫は飛ぶ。このスキマの中を飛ぶことさえ煩わしいと、スキマを抜けるまでの数秒がどうしてここまで長いのだと、体を震わせて。

 

「待ってて……!」

 

 抑え切れない感情は、やがて一つの名を呼ぶ叫びを生んだ。

 それは、彼の名。

 奇しくもその叫びは、場所は違えど、西行寺幽々子が従者に彼の名を伝えたのと同時であった。

 

 片や、一時も早い再会を求めて、切々と。

 片や、遠い思い出に浸るように、蕩々と。

 紡ぐ音は、等しく三つ。

 

 ――月見(つくみ)、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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