銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色

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第10話 「たった一つの愛の証明」

 

 

 

 

 

 ――ねえ、お姉様。

 ……なあに、フラン?

 

 ――あのさ。もしフランがいなくなったら、お姉様はどうする?

 ……意味がわからないわよ、フラン。なによ、いなくなったらって。

 

 ――そのまんまの意味よ。もし私がお姉様の前からいなくなったら、お姉様はどうする?

 ……捜すわ。当たり前でしょう?

 

 ――じゃあさ、もし私が誰かに殺されそうになったら、どうする?

 ……なによ、それ。

 

 ――喩え話よ。……ねえ、どうする?

 ……守るわよ。下らないことを訊かないで。

 

 ――もし、殺されちゃったら?

 ……訊かないでと言ったはずよ、フラン。……なに、怖い夢でも見たの?

 ――……。

 ……大丈夫よ、フラン。……させないわ、そんなこと。

 ――お姉様……。

 ……ええ、させるものですか。フランは絶対に、私が守るから。

 

 ――どうして? どうしてお姉様は、フランを守ってくれるの?

 ……どうしてって、そんなの決まってるでしょう?

 

 だって、私は。

 

 この世界でたった一人の、あなたの――

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 雷の如く迸った紅い妖力が、槍を成す。

 

 その動きを、決して意識したわけではない。

 しかしレミリアは、いつしか己が(かいな)にグングニルを発現させていた。

 一瞬遅れてついてきた理性が、どうしてこんなことしているの? と自らに問い掛けてくる。そしてその時になってようやく、レミリアは気づくことができた。

 

 ああ、そっか。私の本能が叫んでるんだ。

 

 

 ――こいつを、殺せって。

 

 

 だから、レミリアはそうした。殺すと、その意志だけを以て、グングニルを投擲した。

 十一の尾を揺らす妖狐。フランを殺した――月見に向けて。

 

「――!」

 

 光爆。紅い光だ。月見を貫いたグングニルが、込められたあまりの妖力に耐え切れず、内側から爆薬の如く炸裂した。轟音と熱風がレミリアの体を打ち、激震が紅魔館を揺るがしていく。あまりの衝撃に、隣で咲夜が悲鳴を上げて膝をついた。

 だが、そんなことなどどうでもいい。

 

「ッ、フラアアアアアン!!」

 

 濁流のように荒れ狂う黒煙を、声で、体で切り裂き、レミリアは駆けた。フラン。血に沈んだあの光景など夢だと、死んだなど嘘だと、ただひたすら自分に言い聞かせて。

 けれど、それこそが夢だったのだ。

 

「フラン、フランッ……!」

 

 体中を斬り刻まれ、鮮血で染まった肢体。光を失い、淀んだ闇色で潰れた瞳。生気が抜け落ち、身が凍るほど真っ白になった頬。レミリアが駆け寄っても、抱き起こしても、決して動いてはくれない。

 そして、なによりも。

 フランの運命が、見えない。

 能力を使っても、見える彼女の運命はただの暗闇。月見の尾で斬り刻まれたその瞬間に途切れ、唐突に、終わってしまっていた。

 それが意味することなんて、一つしかなくて。……ああ、そうだ。これと同じ暗闇を、かつて月見の運命を覗いた時に、見ていたじゃないか――。

 

「あ……!」

 

 死んでいる。

 

「あ、ああ……!」

 

 本当に、死んでしまっている。

 

「あああああっ……!!」

 

 たった一人の妹が、目の前で、無惨に、死んで――

 

 

 

「――再会の挨拶にしては、少し乱暴なんじゃないか?」

 

 

 

 頭蓋を殴り飛ばされる感覚。響いた声に、レミリアの体が瞬く間もなく凍りついた。

 払われた黒煙の、向こう側。

 あいつが、いる。グングニルが直撃したはずのに、それでもなお。

 傷一つ――いや、衣服の一糸すら乱さない、完全な無傷の姿で。

 銀の十一尾を靡かせ、月見が立っている。

 

「――っ!?」

 

 驚愕、とはいう言葉だけでは足りなかった。レミリアが扱う攻撃手段でも最高クラスの殺傷力を持つグングニル。それを考えうる限りの全力で放ったのに、直撃したはずだったのに、どうして傷一つ負っていない? 身を打つ感情はもはや驚愕ではない。恐怖、であった。

 

「どうして……」

 

 こぼれ落ちた言葉を拭う。違う。今レミリアが問うべきなのはそんなことではない。

 だからレミリアは、なぜ、と言葉を替えた。腕の中にある妹の体をきつく抱き、揺れる銀を睥睨(へいげい)し、叫んだ。

 

「なぜ、フランを殺したっ――!!」

「さほどとりたてた理由はないよ」

 

 言葉と呼ぶには、あまりに無機質な即答だった。その言葉がまるで別世界のモノのように異質に聞こえて、レミリアは返す声を失った。

 月見はあくまで淡々と、ただ事実だけを告げるように言う。

 

「生きるか死ぬかの殺し合い、その直線上にある至ってありふれた結末だ。一方が勝ち、一方が負けた。それ以上でもそれ以下でもない」

「……!」

「殺さねば、殺されていた。だから、殺される前に、殺した」

 

 レミリアを冷たく見下ろし、それでも最後にだけは笑みの陰を見せて。

 

「――それだけだ」

「ッ――!!」

 

 転瞬、レミリアは飛び出していた。フランの体を置いて、その分だけ速く、強く。

 また本能が叫んでいる。あいつを殺せと頭蓋を叩いてくる。脳髄が割れるほどに痛くて、焼き切れそうなほどに熱くて、泣き出しそうなほどに苦しくて――それはまさしく、“怒り”という名の感情だった。

 

 やはり意識しないうちに、右手にはグングニルがあった。あの鮮紅色の刃は、今は昂ぶる激情でひどく黒ずんでしまっている。構いはしなかった。この色で、あいつの銀を凄惨に染め上げてやろうと思った。

 

 腕に渾身の妖力を収斂(しゅうれん)させ、そのあまりの密度に筋肉が軋むのも構わず、突き出す。切り裂かれた大気が悲鳴を上げるほどの速度だった。やつの心臓。ただそれだけを見ていた。肉を切り裂き骨を砕く感触ごと、一閃する。

 その手応えは、間違いなく現実のものであったはずだ。飛散した鮮血は、二つに分かたれた彼の肢体は、間違いなく本物であったはずだ。

 

「――甘いぞ、吸血鬼」

 

 ――なのに、どうして、やつの声が背後から聞こえるのだ。

 冷静に考えれば、フランの『フォーオブアカインド』のように分身だったのかもしれない。しかしその思考に至りかけた時には既に遅く、背後から来た全身を震撼させる衝撃に、レミリアの体は瞬く間もなく制御を失った。宙を吹き飛んでいるのだと、それだけが辛うじてわかった。しかしわかったところで為す術もなく、壁に激突して身動きが取れなくなるまで、何度も何度も水切りするように床を転がった。

 そうして己の総身が完全に床に沈んだ時、レミリアはもう指先を動かすことすら敵わない。全身を蝕む激痛のせいもあったけれど、それよりも、なによりも、妹が殺されたというのになにもできない自分が、打ちのめされるほどに情けなくて。

 

「ッ、……ぅ、く……!」

 

 こぼれ落ちたグングニルが空気に溶けていく。紅い霧が広がる横倒しの世界。痛みで霞み涙で潤んだ視界で、しかしあの銀だけが、なにも変わることなく静かに映える。

 空気を撫でるような声音で、月見が言った。

 

「……レミリア。どうか私に、一つだけ訊かせてくれないか?」

「……ッ、」

 

 なにをだ。そう言い返そうとしても、脳の命令が上手く体に伝わってくれない。悶えるように拙く呼吸し、呻くことしかできなかった。

 それを、月見は肯定と取ったのだろう。一歩ずつ歩みを寄せながら腕を組み、険のある細い視線でレミリアを見据えた。

 問いが来る。

 

「――なぜ、お前はそんなに怒っているんだ?」

 

 すぅ、と寒気がした。怖いと、レミリアは思った。どうしてそんなことを訊くのか理解できなかった。そんなの、そんなことなど、答えるまでもなくわかりきっているはずなのに。

 けれど、月見は静かに首を横に振った。

 

「わざわざ問うまでもないことなのは、私だってわかっているさ。たった一人の妹が殺されたんだからね。……けど、けどね。こうなるより少し前に、私はあの子から聞かされたんだよ」

 

 背後に横たわるフランの体へと須臾(しゅゆ)の意識をやって、それから咎めるように、嘆くように眉を歪めて、言った。

 

 

 

 ――私はずっと一人ぼっちで、どうせ誰にも愛されてない。だから、誰も助けてなんてくれないんだ。

 

 

 

「――……」

 

 レミリアは呼吸を失う。あれだけ熱く暴れていた頭が瞬く間に血の気を失い、静まり返る。

 確認するように、月見がつなげる。

 

「……この言葉の意味が、お前にわかるだろうか」

 

 わからなかった。

 本当にフランがそんなことを言ったのかと、信じられなかった。

 

「わからない、といった風だね。やっぱり、だからこそ、長年あの子を幽閉し続けたということか」

 

 嘘だと思った。けれどなにも言えなかった。冷え切った頭はちっとも動いてくれない。ただレミリアの小さな手だけが、その冷たさに凍えてカタカタ震えていた。

 なんで。どうして。呆然と月見を見つめる。彼は諭すように据えた瞳をしていた。嘘偽りない、真実を告げる者の瞳だった。嘘じゃない。でも信じられない。信じたくなかった。だって、彼の言葉がもし真実だったら、レミリアは。

 月見が、その面差しに眉を下げた微笑を落とした。

 

「まあ、少しばかりそのままで、ゆっくり考えてみてくれないか。――私が“この子”の相手をしている間にね」

 

 その時。月見の背後、靡く十一尾の奥で、もう一つの銀が映えた。

 月見のものではない。あの銀は、いつもレミリアの傍で揺れる、彼女の。

 

 

「――月見様ああああああああ!!」

 

 

 十六夜咲夜。レミリアでさえ未だかつて聞いたことのない、強い、強い叫びを以て。

 横一閃、耀(かがよ)うナイフの太刀筋で、斬り払う。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 振り返った月見は、走った銀閃を一歩背後に退いていなす。ナイフを振るった少女――十六夜咲夜。唇を固く引き結び、目元をくしゃくしゃに歪め、体を震わせて、込み上げてくる感情を全身で押し殺して、彼女はそこを薙いでいた。

 

「来てしまったんだね、咲夜」

 

 月見は力なく微笑み、ため息を落とすように小さく息をついた。

 

「……お前には、見せたくなかった」

「ッ……!」

 

 再度、銀閃が光る。

 こちらの胸板を狙っての横薙ぎを、月見は過たず咲夜の腕を掴んで止めた。甘い一閃だったし、それは咲夜もわかっていたろう。だが取られた右腕を解こうとする様子はなかった。また、未だ自由である左腕で抵抗することもなかった。深く俯き、ただしきりにその肩を震わせていた。

 

「やめろ、咲夜……!」

 

 背後から刺すようなレミリアの声が飛ぶ。次第に痛みから回復してきたのだろう、腕を杖にして必死に体を起こそうとしていた。

 

「貴様、咲夜にまで手を出してみろ! その時はッ……!」

「別になにもしやしないよ」

 

 月見は簡潔にそれだけ答えた。だから黙っていろと、言外に伝えた。

 同時、咲夜が動きを起こした。取られた右腕を振り解くのではない。能力を使って逃れるのでもない。自由の左腕で拳を作って、振り上げ、

 

「どうしてですか……!」

 

 月見の胸を、叩く。

 

「どうして、こんなことっ……!」

 

 攻撃するためではない。

 

「どうしてっ……!」

 

 伝えるために。

 

「どうしてなんですかっ……!」

 

 振り上げて、振り下ろして。ただそれだけを繰り返す。

 動きは緩慢だった。拳に力はこもっていなかった。咲夜が体に巣食う震えとともに顔を持ち上げると、蒼の瞳の下で、決壊寸前の水面が揺れていた。

 

「いやですよ、こんなのっ……!」

 

 振り上げ、振り下ろす。水面から雫がこぼれた。

 振り上げ、振り下ろす。こぼれた雫たちが、川を作った。

 

「いやぁ……っ!」

 

 次々こぼれ落つ涙を拭おうともせず、震える声を隠そうともせず。

 

 

 

「――私は、こんな涙を流すためにあなたを信じたんじゃないのに!!」

 

 

 

 咲夜は、泣いた。

 そして振り下ろした最後の拳だけは、月見が一歩後ろにたたらを踏むほどに強くて。言葉は確かに、月見の胸を叩いていた。

 月見の襟にしがみついて、胸に額を押しつけて、咽び、泣きじゃくる、少女。

 

「……」

 

 咲夜が涙を流す理由は、きっとフランが殺されたことだけではない。本当に月見を信じていたのだろう。だからこうして裏切られて、悔しくて、悲しくて、泣いて。

 すまない、と月見は思う。けれど言葉にはしなかった。たとえ咲夜の思いを裏切ってでも――いや、こうして裏切ったからこそ、決してあとに退いたりはしない。最後まで、成し遂げる。

 だから月見は咲夜の頭にそっと手を置き、そこを通して妖術を掛けた。お前は、どうか静かにしていてくれと。

 

「あ……」

 

 咲夜の体からふっと力が抜ける。手が月見の襟から滑り落ちる。慌てて掴み直そうとして、しかしそれすらできず、その場にペタリと座り込んだ。

 一時的に体を弛緩させる妖術。目元を濡らしたまま虚を突かれた面差しでこちらを見上げる咲夜に、月見は眉を下げて微笑んだ。

 

「そのまま静かにしていてくれ。……もう少しで、全部終わるから」

「月見、様っ……!」

 

 咲夜が全身に力を込め、立ち上がろうとした。けれど動かない。立ち上がれない。だから月見は、もう咲夜を見なかった。

 振り返り差し向かうは、一人の吸血鬼の少女。

 

「月見様ああぁ……っ!」

 

 背後で上がる泣き声を聞くこともせず、レミリアに向けて歩みを寄せた。

 彼女の本当の気持ちを、あの子に届けるために。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 ……フランは、寂しかったのだろうか。

 

 ――私はずっと一人ぼっちで、どうせ誰にも愛されてない。

 

 ……そうだったのかもしれない。確かにレミリアは彼女を遠ざけていた。紅魔館の者たちに、彼女に近づくことを禁じていた。けれどそれは愛していなかったからではない。愛していたからこそ、フランが誰も傷つけたりしないようにと張った予防線だった。

 すれ違っていたのだろう。レミリアの想いはフランに届いていなかった。彼女がこれ以上誰かを傷つけ、疎まれてしまわないようにと、そればかりに囚われて気づけないでいた。

 わかっている。これはレミリアの責任だ。フランと理解し合うことをせず、ただ一方的に押しつけるばかりだった、レミリアの。

 

 でも、

 でも、

 レミリアは、知らない。

 

 ――だから、誰も助けてなんてくれないんだ。

 

 その孤独を、フランが助けを求めるほどに苦しんでいたなんて――レミリアは、知らない。

 だって、フランはいつも笑っていた。時折顔を見にいった時も必ず笑顔で出迎えてくれて、一生懸命に色んな話を聞かせてくれて、暗い顔なんて一度だって見せたことがなかった。だから、フランも狂気を制御しようと前向きに頑張っているんだと、信じていたのに。

 故に、レミリアは知る。

 レミリアの想いがフランに届いていなかったように。

 フランの想いもまた、レミリアに届いていなかったのだと。

 

「……わかっただろうか。あの言葉の意味が、お前に」

「……」

 

 カツ、カツ――(くつ)で床を静かに鳴らし、月見が近づいてくる。けれど彼の声は、もうほとんどレミリアには聞こえていなかった。

 茫然と、言葉がこぼれる。

 

「……どうして、なにも言ってくれなかったの? 独りが嫌だったなら、助けてほしかったなら、そう言ってくれれば……いくらでも一緒にいてあげたのに……」

「面白いことを言うね」

「っ……!」

 

 弾かれるように顔を上げた。月見が口の端を醜く歪め、侮蔑するように笑っている。

 力を失っていたレミリアの心が、またざわついた。

 

「なにが、面白いんだ……!」

「いやね。反面教師として、これ以上愉快なものはないじゃないか」

 

 くつくつ、月見は喉を鳴らして。

 

「だって、そうだろう?」

 

 右腕を低くレミリアへ掲げて、薄気味の悪い笑顔とともに。

 

 

 

「――だってお前は、フランになにも言わなかったじゃないか」

 

 

 

 どくん――一度だけ、心臓が強くレミリアの胸を叩いて――それっきり、止まった。

 そんな、ありえない感覚を感じた。全身の血が急に温度を失って、体が内側から凍えていく。あまりの寒さに筋肉が固まってしまっていた。なにかを言おうとしても、唇すらまともに動いてくれなかった。

 

「外は危険だからって、そればかり嘘をついて、なにも言ってやらなかったじゃないか。……そんなお前がなにも言えなかったあの子を責めるなんて、面白い話だと思わないか?」

 

 上げていた右腕を浅く振り払い、月見は笑みを消して、強い眼光を光らせた。 

 

「いいか、あの子はなにも言わなかったんじゃない。なにも言えなかったんだ。お前がなにも言ってやらなかったから、なにも言えなかったんだ。もしかして嫌われているんじゃないか、愛されていないんじゃないかと、それが怖くて、もしそうだったら自分が壊れてしまうから、ずっとなにも言えなかったんだよ」

 

 倒れそうになった上体を、レミリアは咄嗟に腕を杖にして支えた。頭が痛い。目の前がグラグラする。どうしようもないくらいに気持ちが悪い。

 月見は言葉を止めない。

 

「なあレミリア、知っているか? フランはね、別に心を狂気に支配されてなんかいなかったよ。自分の中に生まれた狂気の人格と、ずっと戦っていたんだ。呑み込まれないように抵抗していたんだ。何百年も、この薄暗い地下室で、たった独りで、でも諦めないで。……知らなかったろう?」

 

 嘘だと叫びたかった。ふざけるなと吐き捨てたかった。言葉は出ずに、ただ肩で息を切らす動きだけが音になった。

 

「でもね、ほんの少し親身になるだけで、私はそれを知ることができた。ただ少し本気で話をするだけで、お前が知らない真実を知ることができた。時計の長針が一回転する、たったそれだけの時間で、お前が何百年も知らないでいたあの子の本当の気持ちに気づけたんだ」

 

 頭の中はメチャクチャになってしまっていた。今までフランとの間に築いてきたものが、すべて音を立てて崩れていく。今まで見てきたフランがすべて幻だったような気さえした。なにが本当で、なにが嘘で、なにが正しくて、なにが間違いで――そのなにもかもが、崩れ落ちていく思考に呑み込まれてわからなくなっていく。

 けれど――

 けれど、たった一つだけわかることがあった。

 

「泣いていたよ、あの子は。寂しいと。悲しいと。辛いと苦しいと痛いと、……もう嫌だ、とね。だから私が終わらせることにした。あの子もそれを受け入れたよ。そう、――これは、望まれた結末なんだ」

「っ……」

 

 確かにレミリアは、フランの想いに気づいていなかった。フランなら大丈夫だと妄信するばかりで、目を向けようともしていなかった。

 だが、だが今こうしてレミリアの前ですべてを語るこの男は、フランに一体なにをした? フランの本当の想いを知って、その上で一体なにをした?

 跳ねるように体が震えた。焼かれるように肺が熱くなった。爪で床を抉り、月見を睥睨し、レミリアは声を絞り出した。

 

「だから、フランを殺したのかっ……!」

「そう。私があの子を殺さずに真実を伝えようとしても、どうせお前は耳を貸してくれなかったろう。ありもしない戯言を言うなと、一蹴したはずだ。違うか? それじゃあなにも変わらないだろう。あの子が苦しみ続けるだけだろう」

「っ……」

「まあ……そもそも私自身が殺されそうになってしまったから、選択の余地などなかったのだけどね。――だから殺した。私一人がお前たちから憎まれるだけで、あの子は永遠に楽になるんだ。それは、あの子にとって確かな救いだろうさ」

「黙れ……」

 

 月見の言い分は理解した。彼がフランに手を掛けた理由、今となってははっきりした。

 けれど、はっきりとした今だからこそわかる。理由なんて、本当は最初からどうでもいいことだったのだ。

 

「確かに、あの子を殺したのは私だ。だが言わせてくれ。これは、お前があの子とちゃんと向き合っていれば回避できたはずの結末だ」

「黙れ……!」

 

 なぜなら、その理由がどんなに理に適っていて、正しくて、仕方のないものだったとしても。

 

「だから、問わせてくれ。どうして、あの子とちゃんと向き合ってやらなかった」

「黙れっ……!」

 

 たとえ間違っているのが、レミリアの方だとしても。

 

「故に、知れ。――この結末の引鉄になったのは、他でもない。あの子の心から目を逸らし、背中を向け続けた、お前の歪みくねった愛情だ!」

「黙れええええええええええ!!」

 

 ――レミリアは決して、彼を許しなどしないのだから。

 

 喉は、限界まで震えた。そうして放たれた咆吼は、体を縛る(くびき)を激烈に断ち切り、レミリアの総身に力を呼び戻す。

 抉った床の欠片を粉にするほど強く握り締めて、渾身の力を奮って立ち上がった。

 

 

「お前になにが! お前に一体、なにがわかる!? 今までフランが、どれだけ周囲から危険視されてきたか知っているか!? どれだけ疎まれてきたのか、知っているのか!? 咲夜や美鈴がこの紅魔館に来る前はな、フランと親しくしようとする者なんて一人もいなかったよ! みんながフランを避けたんだ! ただ、ただその身に狂気を宿しているというだけで!!」

 

 

 咆吼は、軛のみならず感情の堰をも砕いていた。憤怒、悲哀、後悔、憎悪。それらの感情が体の中で氾濫し、引き裂かれてしまいそうになる。その感情を言葉にするたびに、全身が悲鳴を上げている。

 だがそれでも、叫びは決して途切れない。

 

 

「私だって、フランを外に出してやりたかったさ! 一緒に外を散歩したかったさ! だがな、もし外に出たフランが、その狂気のせいで拒絶されてしまったら!? 嫌われてしまったら、一体どうなる!? 身内から避けられ、外からも拒絶されてしまったフランは、一体どこで生きていけばいい!? フランの居場所がこの世界から消えてしまう! フランがこの世界に、いられなくなってしまうんだよ! 私は、それがどうしようもなく怖かった!!」

 

 

 手を握り締め、

 

 

「――だから、幽閉した! いつしか、フランがその狂気を完全に制御できるようになると信じて! いつしか、二人で外の世界を自由に飛び回れる時を願って! いつしか、フランがこの世界に受け入れられることを祈って! ――そうしたら、外の世界にフランの居場所が作れるんだから!!」

 

 

 腕を振り払い、

 

 

「望まれた結末だと!? ふざけるな!! たとえフランがそれを望んだとしても、私はそんなことなど望んではいなかった!! ああそうさ、確かに私は間違っていた!! 今になってどうしようもなく後悔しているよ! どうして気づいてやれなかったのか! どうしてちゃんと向き合ってやれなかったのか! もっと心の底から、ちゃんと、フランを愛してやればよかったっ……!!」

 

 

 歯を噛み砕き、

 

 

「だがな、フランはもう死んだ! 死んでしまったんだ!! どんなに抱き締めても! どんなに名前を呼んでも! どんなに謝っても! どんなに愛していると叫んでも! なに一つとして返ってこないっ……! 声も、笑顔も、温もりも鼓動もなにもかもが!! 私が愛する妹は、私が謝るべきあの子は、もう、もうどこにもいないんだっ……!!」

 

 

 喉を切り裂き、

 

 

「――だから私は、お前を決して認めない!! 私からあの子を奪ったお前を、絶対に許さない!! たとえ刺し違えてでも、この場で仇を討ってやる!!」

 

 

 体を砕くほどに、

 

 

「それだけが……!」

 

 

 切に、

 

 

「それだけがっ――!」

 

 

 切に。

 

 

 

 

 

「それだけが、今の私にしてやれる、フランへの!!

 

   ――たった一つの愛の証明だ!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 全身を粟立たせるこの感情を、月見は畏怖だと感じていた。

 レミリア・スカーレット。放たれた彼女の覇気は風をも生み出し、強く月見の肌を打ち、駆け抜けていく。粟立ったのは体だけではない。心もまた、その小さな吸血鬼の姿に圧倒されて震えていた。

 

 ――吸血鬼は、実に誇り高く、実に高貴で、実に美しい種族である。

 あの言葉通りの存在が、今、目の前にいる。

 

 子どもだと思った。伝え聞く吸血鬼の姿とは違うのだと落胆していた。だが違った。幼い容姿の奥底には間違いなく吸血鬼の誇りが(かよ)っていて、それを今この場で目の当たりにできること、月見は心の底から至高だと感じていた。

 妹を失ってなお誇り高く、

 激情に支配されてなお高貴で、

 体中に傷を負ってなお、美しい。

 もはやこれ以上などありはしない。わざと居丈高な態度を取って、一芝居打った(・・・・・・)甲斐があった。

 レミリアの想いは、間違いなく彼女に伝わったろう。――物陰からレミリアの背中を窺う彼女は、もうこれ以上居ても立ってもいられないと、こちらに一生懸命目配せをしてきていた。

 

(……そうだね。もう、充分だ)

 

 故に月見は、高く高く声を上げる。

 こぼれる笑みを抑えられない、最上の歓喜とともに。

 

「――見事だ、レミリア・スカーレット!!」

 

 指を鳴らす。

 この下らない世界を、さっさと終わらせてしまうために。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 パチン――。

 その音が響いた瞬間、レミリアを強烈な不快感が襲った。まるで、夢の中から無理やり現実に引き戻されたかのような。視界がぐわりと歪み、咄嗟に手を顔にやってしまう。

 

「なにをした……」

 

 レミリアの問いに、月見は答えなかった。ただ勿体ぶるような笑みを、その顔に貼りつけているだけ。

 だが、その笑みの意味するところがなんであったとしても、レミリアがすべきことは変わらない。目の前の妖狐を殺す。それだけだ。

 自己満足なのかもしれない。仇を討ったつもりになって、遅すぎたフランへの罪悪感を紛らわせようとする、浅ましい行為なのかもしれない。でも、彼女を失った今のレミリアには、もうそれだけしかないから。

 不快感は既に消えていた。レミリアは再度妖力を開放し、右手にグングニルを宿す。

 

 そして鋭く呼吸を一つ――前へと踏み出す、刹那。

 

 

 

「お姉様っ――!!」

 

 

 

 後ろからぶつかってきた小さな衝撃が、それを止めた。

 

「…………え?」

 

 漠とした声がこぼれる。

 胸に回ったのは、もう二度と動かないと思っていた、見慣れた小さく華奢な腕。

 頭に響いたのは、もう二度と聞けないと思っていた、聞き慣れた可愛らしい声。

 背に伝わるのは、もう二度と触れないと思っていた、感じ慣れた柔らかな鼓動。

 それは、まさに――

 

「フラ、ン……?」

「うん、うんっ! フランだよ、お姉様っ……!」

 

 強く頷くその動きが、レミリアの体をひどく懐かしく揺らした。

 妖力を制御することができない。携えたグングニルが霧散し、紅い霧となって(くう)に溶けていく。体が震え、喉が渇き、瞳が揺れ、息が乱れ、頭が痛む。

 

「ほん、とうに……?」

「本当だよ、お姉様」

 

 そう絞り出すのがやっとだった。でも、それでも、応えははっきりと返ってきた。レミリアを抱き締める小さな腕に、ぎゅっと力がこもった。

 

 ――ああ、感じる。

 

 この手は、間違いなくフランのもので。

 この鼓動は、間違いなくフランのもので。

 このぬくもりは、間違いなくフランのもので。

 

 そして、振り返れば――そこにいたのは、間違いなくフランで。

 

「――――――!!」

 

 ……その瞬間レミリアは、少なくとも自身の記憶の中では生まれて初めて、声を上げて泣いた。

 フランが生きていた。ただそれだけに、胸を埋め尽くされて。

 ――もう二度と、放さない。

 レミリアは、愛する妹を強く抱き竦めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 殺したくない、もうやめてと、どれだけ必死に祈っても、反して体は勝手に動いた。もはや自分のものではない体は、まるで楽しむかのような余韻すら見せて、月見の『目』を握り潰そうとしていた。

 『ありとあらゆるものを破壊する程度の能力』。万象の物質が持つ『目』というモノを自らの手中に移動させ、握り潰すことで、『目』の持ち主を爆殺する力。

 その能力で、フランの体は今まさに、月見を殺そうとしている。

 

「月見っ……!」

 

 ――ダメ! ダメ、ダメ!

 そう心で必死に叫んでも、狂気に乗っ取られた体は決して耳を貸してくれない。ただ月見の『目』を握り潰すためだけに、ただ殺害を楽しむためだけに、どこまでも勝手に動いてしまう。

 だがこの『目』を握り潰したら、月見は死んでしまう。友達になってくれないかと優しく優しく言ってくれた人が、いなくなってしまう。

 

「お願い、月見っ……!」

 

 やめて。

 お願いだから、止まって。

 

「お願いだから……!」

 

 必死に祈った。あんなに優しくしてくれた彼をこの手で殺してしまうなんて、ひどすぎる。そんな結末なんて耐えられっこない。絶対に、絶対に嫌だった。

 だから、必死に祈った。

 ――お願いだからっ……!

 

「逃げてえええええええええええええええ!!」

 

 ……でも、止まらなかった。

 グシャリ――そんな、柔らかいなにかを握り潰す感触が、生々しく手の中に広がって。

 

「――……」

 

 その瞬間、フランはきつく瞑目し、震えた。

 終わった。……終わってしまった。

 瞑った目を開けることはできない。見たくなかった。もし見てしまったら、自分が自分でなくなってしまうような気がして、怖かった。

 

「――ごめんなさい……」

 

 心がひび割れていく音が聞こえる。

 

「ごめんなさい、ごめんなさい……」

 

 その言葉を音にするたび、殺した、殺してしまったと、心が砕けていく。

 

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……!」

 

 そして唐突に、フランは知った。

 ――やっぱり私は、バケモノなんだ。

 せっかくできた優しい友達を粉々にして殺してしまうような、私は。

 

「ぁ――」

 

 漠とした声。その時フランは、確かに己の内側に感じていた。

 

 硝子が、壊れるように。

 心が、壊れた。

 

 狂気に染まっていなかった唯一の綺麗だったものが、壊れてはいけないそれが、壊れてしまった。

 

「……もう、ムリだよ」

 

 フランは笑う。すべてを諦め、涙し、虚ろに、己を嗤う。

 

「やっぱり、私なんかじゃ勝てっこないんだ……」

 

 誰にも、たった一人の姉にすらも愛されてなくて、

 唯一近づいてきてくれた優しい人をも殺して、

 そうしてまた、独りぼっち。

 

 ――もう、限界だった。

 

「もう……もう、……」

 

 自分が消えていくのを感じた。

 嗤う狂気の声に呑み込まれて、最後の自分が消えていく。

 全部、真っ黒になって、わからなくなっていく。

 

「――……」

 

 全部。全部。

 真っ暗闇に、消えて――

 

 

「――なあなあ、フラン」

 

 

 ふと、肩を叩かれた。

 誰だろう。顔を上げた。でも、なんだか目の前が暗くてよく見えない。とても背が高いけど、こんな人、私の知り合いにいたっけ。

 

「フラン、聞こえてるか?」

 

 それに、声も変だ。低い声。男の人の声。紅魔館にいる人じゃない。

 でも、どこかで聞いたことがあるような気がする。忘れちゃいけない、大切な人の声な気がする……。

 

「フラン? フーラーンー?」

 

 ……でも、どうでもいいかな。

 どうせ、もう、私には関係ないことだし。

 もうすぐ消える私には、あなたが誰だって、関係――

 

 

 

「――必殺、脳天幹竹割りっ!」

「うにゃあ!?」

 

 

 

 火花が散った。銀の火花だった。

 頭に突然痛みが走って、銀の光芒が暗闇に散って――その瞬間、世界がパアッと明るくなった。

 

「!? !?」

 

 世界が一瞬で真っ白になったから、とても驚いたけれど。

 銀色が消えて、世界に色が戻ってきた時には、すべて元通りになっていた。

 

「えっ……あ、」

 

 消えるはずだった意識がはっきり元通りになっていて、見るもの聞くもの、すべてがわかるようになっていた。

 くゆるランプに赤く照らされるここが、ずっと幽閉され続けた地下室であることも。

 誰かに、頭を思いっきりぶっ叩かれたことも。

 そして――それをやったのが、“彼”であることも。

 

「――つく、み?」

 

 ぎんのきつね。たいせつなひと。

 『目』を壊されて死んだはずの彼が、最後に見た時となにも変わらない姿で、すぐ目の前に立っていて。

 はっはっは、なんて、どこか得意げに笑っていて。

 

「――目、覚めたか?」

「あ……」

 

 その時、フランは確かに目覚めた。

 震える手で、彼の裾を掴む。掴めた。幻なんかじゃない。

 震える体で、彼のお腹に飛び込む。抱き留められた。夢なんかじゃない。

 震える腕で、彼を抱き締める。暖かかった。嘘なんかじゃない。

 

「痛い、痛い。こら、フラン。痛いって」

 

 こちらの背中を叩いて訴える彼の掌は、とても大きい。叩かれるたびにぬくもりが伝わってくる。もっと叩いてほしくて、フランぎゅっと両腕に力を込めた。

 

「ちょっ、フラン、待っ……せ、背中が! いだだだだだ!」

 

 バンバン、背中を叩かれる。ちょっとだけ痛かったけれど、でもそれ以上に嬉しくて、やめる気なんて毛頭起こらなかった。

 なんで彼が生きているのか、疑問はとめどなくあふれていた。けれど今だけは、このぬくもりに少しでも長く浸っていたくて。

 

「よかったっ……!」

「い、いや待て、現在進行形でとてもよろしくない――あだだだだだだだだ!?」

 

 頭の上で上がる彼の悲鳴は、ごめんなさいと思いつつ、聞かなかったことにした。

 フランは笑う。あいもかわらず、涙は流れていたけれど。

 

「よかったよぉ……っ!!」

 

 それでも今度は、とっても綺麗に、笑うことができた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 死ぬかと思った、と月見は額の脂汗を拭った。背骨がズキズキと鈍い悲鳴を上げている。フランを引き剥がすのがあと少しでも遅れていたら、無惨に砕けてしまっていたかもしれない。

 やはり幼くとも吸血鬼。その膂力(りょりょく)は、白磁を思わせる細腕からは計り知れないほどに高いようだった。

 

「子どもに抱きつかれて死にかけるなんて、なかなか貴重な体験だったね」

「ご、ごめんなさい……」

 

 あの戦いを終えてしばし、月見はまた、フランのベッドの縁に腰を預けていた。その背を、フランが大分気後れした手つきでさすってくれている。背骨の上を行ったり来たりする小さな手は少しくすぐったくて、なんだかおじいちゃんになったみたいだな、と月見は思った。今や数千年を生きた自らの齢を考えれば、それでもまったく不思議はないのだけれど。

 

「……ねえ、月見」

「ん?」

 

 背中に掛かるフランからの問いに、振り返らずに応じる。

 

「どうして、無事でいられたの?」

 

 ポツポツと、フランが自分の持つ能力について教えてくれる。『ありとあらゆるものを破壊する程度の能力』。万象の物質が持つ『目』というモノを破壊することで、相手を粉々に爆砕してしまう能力だと。

 なるほど、あの時に月見が感じた死の予感は、気のせいでもなんでもなかったらしい。思い出すだけでもなんとも肝が冷えてくる話だった。

 

「それはまた、すごい能力だねえ」

「そう……自分でいうのもなんだけど、すごい能力なの。だから、どうして月見が無事でいられたのか」

「そうだね……」

 

 月見は顎に指の腹を添え、少し、考える。

 

 結論を言えば、フランが能力を使ったように、月見もまた能力を使っていた。『当てを外す程度の能力』。相手が月見に対して抱いた予想を覆し、強制的に正反対の現象を引き起こす能力だ。

 例えば先日、月見はこの能力を使って雛の予想を覆していた。「月見が雛に近づけば、厄をもらって不幸になってしまう」――その雛の予想を覆し、「月見が雛に近づいても厄をもらわず、また不幸になることもない」――そんな現象を強制的に顕現した。

 

 今回だって、それと同じ。大方フランは、「このままでは月見が死んでしまう」とでも考えていたのだろう。だからその当てが外れて、「このままでも月見は死なない」という正反対の結果となった。

 畢竟(ひっきょう)、それだけの話なのだ。

 

「……まあ、私も能力を使ったんだよ。どんな能力かは秘密だけど」

「そうなんだ……」

 

 胸を撫で下ろすような吐息が、首筋に掛かる。

 

「私の能力を無効化するなんて、きっと月見のもすごい能力なんだね」

「そうかな」

 

 月見は緩く苦笑した。確かにこの能力は、相手が抱いている予想次第では死すら跳ね返す強力な力を発揮する。……が、その逆もまた然りだ。

 仮にあの時、フランが「どうか死なないで」と考えていたら月見はどうなっていただろうか。――この能力は、平たく言えば、天国か地獄かの大博打をするような能力なのだ。

 

 ともあれ。月見は、この地下室に近づいてくる二つの気配を感じていた。レミリアと咲夜。月見たちの戦いが終わったから、結果を確認しようというのだろう。

 だから月見は、背後のフランに静かにこう問う。

 

「フラン。……レミリアの本心、問い質してみないか?」

「っ……」

 

 小さく息を呑む音とともに、背中をさする彼女の手が止まった。

 月見は続ける。

 

「お前を幽閉した真意。お前のことを本当に愛しているのか。そのすべてを」

「……どうやって?」

「簡単だよ。思わず全部吐き出してしまうような状況を作ってやればいい」

 

 嘘偽りない気持ちを吐き出させるために、『状況』を味方につける。そのための算段が、既に月見の頭の中にはあった。

 

「例えば……目の前で自分の大切な人が傷つけられたら、その人はとても冷静ではいられないだろうさ」

「……」

 

 フランは、月見が考えていることをなんとなく察したようだった。またゆっくりと、その小さな手でこちらの背を撫でながら、

 

「お姉様、心配してくれるかな。悲しんでくれるかな……」

「……それを知るために、やるんだろうさ」

 

 フランを苦しめる根底にあるのは孤独。故に彼女は人一倍“つながり”に飢えていた。それは、数十分という短い時間で簡単に月見に心を開いたことからもわかる。

 フランは、絆が欲しいのだ。決して仮初めなどではない、愛にも似た絆が。

 だとしたら、今が賭けに出る一つの転機なのかもしれない。

 

「お前ももう、ずっと目を逸らし続けて、ここで独りで生き続けていくのは嫌なんじゃないか?」

「……」

「レミリアとは私が話す。だからお前は、覚悟を決めるだけでいい。……前を向く、覚悟を」

 

 いつしか、フランの手は再び止まっていた。姿は見えないけれど、その沈黙から、彼女がどんな面持ちをしているのかは容易に察することができる。

 月見は、あくまで落ち着けた声色のままで続けた。決して強制するのではなく、

 

「お前に任せるよ。だから、聞かせてくれ」

「……」

 

 しばし答えがないまま、地下室に沈黙が満つ。フランに薙ぎ倒されたままになっているぬいぐるみたちが、皆、見守るように彼女を見つめていた。

 月見は胸中で、咲夜が館の空間を拡張していることに感謝した。お陰で、レミリアたちがこの地下室にやって来るまで、考える時間はたっぷりとあった。

 

 一分ほど、だったろうか。不意にフランが、月見の背中に寄り添ってきた。預けられたひどく軽い体重。躊躇いがちな指先が、つうっと背を撫でる。

 

「……もしダメだったら、どうしようね」

 

 少しだけニヒルな息遣いだった。月見は笑って、なんてことはないと答えた。

 

「そしたら、わからず屋のお姉さんをぶん殴って、家出して……そのあとは、私の娘になってみるか?」

「……へ?」

 

 背中越しで、フランがピクンと震えたのがわかった。虚を突かれ、呆然とこぼれた彼女の声。けれどすぐに、吹き出す鈴の笑い声に変わった。

 

「プッ……アハ、アハハハハハ……♪」

「ひどいなあ。笑うところか?」

「だ、だってぇ……アハハッ、ハハハハハ……♪」

 

 月見が振り返った時、フランは目元に小さな雫を浮かべながら笑っていた。おかしそうに、そして同時に、寂しそうに。

 彼女はそうしてひとしきり笑ったあと、雫をさっと拭って、吐息する。

 

「それもまあ、いいかもなあ……」

「……」

 

 呟くその表情には、やはり薄い寂しさの影が差していた。すぐに取り繕うように表情を改めたけれど、代わりに浮かべた笑顔は不器用だった。

 

「うん、そうだね。私も、頑張って前を向くよ」

「……いいのか?」

「……ほんとは、怖いよ。でも大丈夫。だって――」

 

 くしゃり、甘えるように笑って、

 

「月見が、支えてくれるんでしょ? だったら、頑張れるから」

「……そっか」

 

 強い子だと、月見は思った。だから同じようにくしゃりと笑って、フランの頭を優しく叩いた。

 

「よし。じゃあ一つ、頑張るとしようか」

「……はい」

 

 フランの笑顔から、寂しさの影が抜けた。

 話はまとまった。月見はベッドから立ち上がる。フランのあの弾幕――『495年の波動』といったか――によるダメージもすっかり回復していて、体に違和感は残っていない。万が一レミリアと戦うような事態になったとしても問題はないだろう。

 フランは怖がっているようだけれど、月見には、レミリアが彼女を愛しているという確信があった。だからレミリアの目の前でフランを倒せば、レミリアは間違いなく激昂する。あの深紅の槍を、今度は寸止めでもなんでもなく、本気で振り抜かれることだってあるかもしれない。

 大仕事になりそうだと、月見は内心で苦笑した。

 

「さて。レミリアがこの部屋に入ってきたら、お前が私に倒される……と、そういう話だけど」

「うん」

「それなんだが、フランはなにもしなくていい。物陰にでも隠れて、見つからないようにしておきなさい」

「……え?」

 

 どういうこと? と目を丸くしたフランに、月見は勿体ぶるように口端を引き上げた。

 

「言ったろう? お前がすべきことは、覚悟を決めることだけ。実際にお前が私に倒される必要はないよ」

「で、でもそれじゃあ、どうやって……」

 

 フランが困惑したように体をそわそわさせるけれど、しかしながら、それで問題ないのである。フランとしては痛いのは嫌だろうし、月見としても、彼女を傷つけるような真似はできる限りしたくない。

 だから、

 

「よく考えてご覧、フラン? ――私は、“狐”だよ」

「あっ――」

 

 銀の尻尾を見せつけるように大きく揺らすと、フランも月見の考えに気づいたようだった。そっか、と呟いて俯き、それからなにかを考えていたのか、ややの間を空けてから再び顔を上げた。

 

「じゃあさ、月見。……こういうのは、できないかな?」

 

 フランがベッドの上に立って背伸びをしたので、月見は耳を彼女の方に向けた。そして耳打ちされた言葉に、思わず眉をひそめる。

 

「それは……いや、しかし、いいのか?」

「……月見だって危ないだろうから、嫌だったらいいの。でも、もし大丈夫だったら、そうしてほしいなあって」

 

 なぜ? ――問うと、フランはこちらから一歩後ろに下がって、いーっ、と白い歯を見せ、

 

「いっぱいいっぱい寂しい思いをさせてくれた、仕返しっ! お姉様のばーか!」

「……、」

 

 なにか特別な思惑があるのではと勘繰っていたから、そのあまりに可愛らしい理由に、思わず呆けてしまったけれど。

 月見はすぐに、大きく声を上げて笑った。

 

「ッハハハハハ! わかった、やってやろうじゃないか。――レミリアのばーか!」

「うん! お姉様のばーか!」

 

 ばーか、ばーか! と何度も楽しそうに繰り返し、フランが部屋の奥へとトテトテ走っていく。その小さな背を目で追いながら、月見は眉根に静かな険を刻ませた。

 

 ――そうだ、レミリア。お前は大馬鹿者だ。

 あんなに可愛らしくてあんなに幼気な妹と、すれ違ったまま気づかないでいるなんて。

 だからどうか、私がきっかけを作るから、気づいておくれ。今から見せるこの夢を通して、あの子の気持ちに。そして、自分自身の本当の気持ちに。

 

 部屋の奥、物陰に隠れたフランが、パタパタと手を振って合図をしてきた。月見は頬を緩め、一つ頷く。

 瞳を閉じ、妖力を開放。あふれた力が風を生み出し、ゆっくりと肌を撫でていく。さわ、さわ、くすぐったく髪が揺れるのを感じながら、月見は静かに宣言した。

 

「――夢を見せよう」

 

 浅く両腕を広げ、形作るは一つの術式。

 

「招待状に、一輪の花を」

 

 見るものを夢へと(いざな)う――月見草。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 狐が妖術の真骨頂は、相手を化かすことにある。

 認識をずらす。幻を見せる。夢に落とす。ありとあらゆる手段を以て、華麗巧みに相手を騙す――幻術。妖狐とは、化け狸とともに双璧を成す、妖怪随一の幻術の使い手なのだ。

 

 つまり、フランが死んだのはそういうこと。

 

 月見が妖術で、『フランが殺された』という幻をレミリアたちに見せたのだ。すべては、レミリアが胸の奥に秘めていたフランへの想いを自白させるため。レミリアが幻の世界であのように激昂していた時、本物のフランは、物陰からハラハラと事の推移を見守っていたのだという。

 

 その真相を聞かされた時、レミリアは腰を抜かしてしまった。冗談などではなく、本当に立てなくなった。咲夜にお姫様だっこで運ばれる羽目になり、それをフランと月見に笑われたのは、人生でも有数の汚点となりそうだった。

 

 そして所は変わり、紅魔館の医務室にて。

 

「申し訳なかった、レミリア」「ごめんなさい、お姉様」

「……ぅえ?」

 

 その突拍子もない謝罪に、レミリアは咲夜へ右腕を出した体勢のまま固まった。

 顔を向けた正面。フランと月見が二人揃って、綺麗に斜め四十五度で頭を下げている。それがあまりに出し抜けだったので、レミリアの口から思わず変な声がこぼれていた。

 隣では、同じくして目を丸くした咲夜が、それでも律儀にこちらの腕に包帯を巻いていく。彼女の少しひんやりとした指先が肌に触れて、レミリアは正気に返った。

 

「な、なによ、いきなり」

 

 どもりつつ問えば、月見は顔を上げ、

 

「いや……目的あってのこととはいえ、あんなことをしたわけだしね。すまなかった」

「違うのお姉様、月見は悪くないの!」

 

 フランが、月見を庇うようにして一歩前に出た。

 

「言ったでしょ、私がああいう幻を見せるように月見に頼んだんだって! だから悪いのは私! ごめんなさい!」

 

 確かにそのあたりの話は、地下室からここに戻ってくる間に色々聞かされた。最初は普通にフランが勝負に負けるだけの幻を見せるつもりだったけれど、フラン本人が、いっそのこと殺されちゃうような幻にしたらどうかと月見に提案したのだと。そしてその理由が、今まで散々寂しい思いをさせてくれたレミリアに、ちょっとした仕返しをするためであったのだということも。

 それはわかっている。わかっているが、まさか二人揃って律儀に謝罪してくるとは思っていなかったので、呆気にとられてしまった。レミリアはてっきり、幻から覚めたあとも、フランに寂しい思いをさせてしまったことをネチネチ責められると思っていたから。

 

「いや、待てフラン。確かにそう言ったのはお前だけど、それを了承して実行したのは私だ。だったら私も悪いんじゃないかな」

「でもでも、それは私たちのためを思ってでしょ? 月見、私と友達にもなってくれたのに、なのに謝らないとダメだなんておかしいよ」

 

 いやいや。でもでも。そう言い合う二人は互いに譲ろうとせず、それを見た咲夜がそっと笑みの息をついた。

 

「妹様と月見様、随分と仲良くなったみたいですね」

「……そうね」

 

 その時レミリアは、少しだけしかめっ面をしていた。フランに友達ができたことは確かに嬉しかった。けれどそれがちょっと前までは死んでしまえばいいとすら思っていた男なのだから、決して諸手を挙げて喜べはしなかった。

 

 と、そこまで考えたところで、レミリアはふと気づく。

 ――ちょっと前までは、死んでしまえばいいと思っていた。

 ならレミリアは、“今”は、彼のことをどう思っているのだろう。

 

 真っ昼間から眠りの邪魔をされて、おまけにあんな一生のトラウマになりそうな幻まで見せられたのだから、嫌ったり恨んだりするにはあまりに充分だった。

 しかしレミリアは、心の中にあるこの気持ちを、感謝だと感じていた。

 確かに彼は随分と生意気なことをしてくれたけれど、それ故にレミリアは、フランを正しく理解できるようになったのだから。ただ信じて待つのではなく、自ら語りかけ一緒にいることこそが大切なのだと、気づけたから。

 だからレミリアは、既に月見のことを許している。謝られるなんてとんでもない。むしろこれは、レミリアの方こそが謝らなければならないことではないか。

 

 だが一方で、その感情をなかなか認められない気持ちもあった。一度素直に受け入れてしまうと、なんというか、自ら負けを認めるのと同義のような気がして据わりが悪かった。

 だからレミリアは一つ咳払いをして、そっぽを向きながらこう応じる。

 

「べ、別に私は、そこまで気にしてるわけでもないわよ……」

 

 へそ曲がりな唇がどんどんすぼまっていくのを感じつつ、ぽそぽそと、

 

「だから、二人して謝らなくても、まあ……許してあげる」

「……ふふ」

 

 クスリ、小さく吹き出したのは咲夜だった。見れば彼女はすっかり手当ての続きを放棄し、指の腹を口元に当てて、目を弓にしならせていた。

 

「お嬢様、素直じゃないですね」

「んなっ……」

 

 心の奥を言い当てられて、ドキリとする。

 

「わ、私は別にそんなんじゃ」

「月見様。お嬢様はこう見えて、あなたに感謝してるんですよ。ただ、」

「ちょっと咲夜っ!」

 

 余計なことを言う口を慌てて黙らせるけれど、既に手遅れだった。月見たちの方から嫌な視線を感じる。恐る恐る見てみれば、意外そうに目を丸くした月見の隣で、フランが口端を吊り上げた意地の悪い笑顔を浮かべていた。

 

「へえー……そうだったの、お姉様?」

「うぐっ……」

 

 頬がさっと熱くなる。咄嗟に反論しようとするが、熱っぽくなった今の状態でそうしても自爆するだけだと気づき、すんでのところで思い留まる。

 

「へー、へえぇー」

「く、くうっ……」

 

 レミリアは唇を噛んだ。否定したい。でも墓穴を掘るのは目に見えている。ここは否定する以外で、なにか上手い切り返しを考えなければ。

 頭の中で必死にうんうん呻いたレミリアは、結局、

 

「あ、あー! そういえば月見、あれは一体どういうことなのか説明しなさいよ!」

「露骨に逸らしましたね、お嬢様」

「かふっ……」

 

 咲夜の冷静なツッコミが胸に刺さった。焦るあまり、逸らし方が強引すぎたらしい。

 咄嗟にこんな行動しかとれない自分の情けなさを呪いつつ、レミリアはみんなを睨みつけた。もうなにも言うなと、渾身の眼力を込めて。このままこの居心地の悪い雰囲気が続くなら、レミリアはグングニルを振り回すのも辞さない。

 あいかわらずニヤニヤ笑うフランの横で、月見が苦笑一つ、まあまあと彼女の肩を叩いたのが見えた。……気を遣われたらしい。墓穴を掘るのと大して変わらないその屈辱に、レミリアは胸の風穴が広がっていくのを感じた。

 ダメだ。もうなにもする気が起きない。したくない。部屋に戻って寝たい。咲夜が困った薄笑いを浮かべながら月見に目配せしていたような気がしたが、レミリアには断じて見えなかった。見えなかったったら見えなかったのだ。

 

「なんだい、“あれ”って?」

 

 声の調子をわかりやすく上げて、月見がそう問うてきた。まったくもって、こちらに話を合わせて義理を立てようとしているのが見え見えであった。

 レミリアの中でなにかが吹っ切れる。もういい、笑わば笑え。

 

「……尻尾の数よ。あの時、あなたの尻尾は十一本もあったじゃない」

 

 ともかく、幻の世界で見た、あの巨大な十一尾である。月見の尻尾は今は既に一本に戻っているのだが、もしかしてあれも幻だったのだろうか。

 

「ああ、あれかい? あれはね――」

 

 応じる傍ら、月見は目を閉じて静かに妖力を開放した。するとほんの一瞬、彼の一尾が陽炎のように漠と揺らめいて、

 

「――あんなにあるとさすがに邪魔になるからね。普段は、妖術で隠しているんだ」

 

 そして次の瞬間には、十一尾にまで増えている。

 咲夜が大きく息を呑んだ音が聞こえた。レミリアもまた、眦を痛くなるほどにまで見開いて言葉を失っていた。幻なんかじゃない。十一尾の狐。未だかつて聞いたこともないその事実に、絶句以外の反応を返すことができなかった。

 ただ一人、フランだけは、

 

「わあ! これって、幻じゃなかったの?」

「ああ。正真正銘、私の尻尾だよ」

「もふーってしていい?」

「どうぞ」

「わーい!」

 

 目をキラキラ輝かせながら、彼のあふれんばかりの尻尾たちに飛び込んでいったのだが。

 まったく子どもだ、とレミリアは思う。大方、尻尾ばかりに目が行って、十一尾の妖狐というのがどれほど常識外れな存在なのかわからないのだろう。

 

「いいなあ……」

「え? 咲夜、なにか言ったかしら?」

「っ……いえ、なんでも」

 

 どさくさに紛れて咲夜がなにか言っていた気がしたが、気のせいだったらしい。

 

 ともあれ、十一尾である。割と周知のことではあるが、妖狐は年齢や妖力に応じて九つまで尾の数を増やし、それ以上の力を得ると逆に減らしていくと言い伝えられている。

 つまりこの月見という妖狐は、その言い伝えを根底から覆す存在ということになるのだが。

 

「なんで十一なのよ。おかしくない?」

「狐の尻尾が九本までなんてのは、人間たちが勝手に言い伝えてることだろう? 真実は違うということだよ」

「や、それはそうかもしれないけど……」

「とはいえ、私以外に九本より多くなったという狐も知らないねえ。藍も増えないみたいだし、もしかすると私が変なのか」

「……」

 

 もしも――もしも尻尾の本数が、単純にその者の強さを表すのだとしたら。もしかすると月見は、妖獣の頂点に立つ金毛九尾すら凌ぐ大妖怪なのかもしれない。

 それならば、フランと戦って生き延びたことも、レミリアが一撃で叩き伏せられたことも、納得できない話ではなくなってくる。……後者は、非常に気に喰わないけれど。

 

 それにしても、なんとも壮観であった。純粋に数が多いからなのか、それともくすみのない銀故か、金毛九尾とはまた違った美しさと神々しさを感じる。床に広げられたその姿は、さながら銀色の海を臨むかのよう。一本一本がレミリアを包み込むくらいにふさふさで、抱き枕にでもしたらさぞかし気持ちいいのではないか――

 

(――いやいや、それは違うでしょう)

 

 いや、決して気持ちよくないだろうということではなく、あくまで今は関係ないということで――

 

「あっははは、見て見てお姉様! すっごくもふもふだよー!」

 

 見ればフランが、銀色の海から脚だけを出してはしゃいでいた。上半身は完全に尻尾の中に埋もれてしまっている。フランが脚をばたつかせるたびに、海面がもっふもっふと波打った。

 とても、気持ちよさそうである。

 

「……」

 

 その波打つ銀の尻尾に数秒魅入ってから、レミリアは慌てて首を横に振った。込み上げてきた欲望を必死に頭の中から追い払う。レミリアは紅魔館の主人なのだ。主人として、今のフランのようにだらしない醜態を晒すわけにはいかない。

 と、理屈ではわかっているのだけれど。

 

「もふー、もふ~……うーん、気持ちいい~……」

「…………」

 

 尻尾と尻尾の間から顔を出したフランが、今にもとろけてしまいそうになっていたものだから。

 ちょっとくらい触ってみたいなあ、とか、本気で思ってしまって。

 

「……レミリアも来るかい?」

「――ハッ!?」

 

 気がついた時には、月見が苦笑しながら、そしてフランがまたあの意地の悪い笑顔を浮かべながら、揃ってこちらを見つめていた。

 正気に返ったレミリアは、我を忘れて両手を左右に振り回す。

 

「や、やっ、結構よ! ただその、暑苦しそうだなとか思ってただけだし!」

「そうか?」

 

 最悪だ、とレミリアは頭を抱えた。ついさっき胸に風穴が空いたばかりなのに、その傷が癒えないうちからこれだ。もう、頬から湯気が上がりそうだった。

 月見たちからふいと視線を逸らす。するとほどなくして、目の前に月見の尻尾が一本降りてきた。月見の位置からレミリアまでは二、三メートルほど距離があるのに、どうやらこの尻尾は伸縮自在らしい。ふりふり、こちらを誘うように左右に揺れている。

 ――……本当に気持ちよさそう。十一本もあるんだし、一本くらいもらえないかなあ。

 そんなことを考えながら、揺れる尻尾を右へ左へ追っていると、

 

「……お姉様、興味津々じゃん」

「猫じゃらしをもらった子猫みたいだね」

「は、謀ったわねえええええ!?」

 

 月見とフランの、それこそ子猫を見るような生暖かい視線が、どうしようもなく痛かった。

 そして遂に、胸の風穴が広がりすぎて、レミリアの精神が限界を迎えた。

 

「ふ、ふふふ……いいじゃない。そこまでこの私を挑発するんなら、あ、あなたのその尻尾、徹底的にいびり倒してあげるわ……!」

「いや、挑発した覚えはないんだが」

「素直じゃないお姉様が悪いんだよー」

「うるさあああああい! これでも喰らいなさあああああい!!」

 

 とかく色々と失態を晒しすぎて、恥ずかしすぎて、紅魔館の主人としてのプライドがボロボロになってしまって、この時のレミリアは自分でもよくわからない状態になってしまっていたのだ。

 謎の咆吼とともに月見の尻尾へ飛び込んだレミリアは、あっという間に体中を銀の毛に包まれ、

 

(うわっ、これ凄く気持ちいい……!)

 

 もふもふっ、と。そのえも言えぬ絶妙な触り心地に、一瞬で陥落してしまった。いびり倒すという当初の目的を即行で忘れ、酔ったように月見の尻尾を抱き締める。

 

(ああ、まずい。これは本当にまずいわ。あんまり気持ちよすぎて、なんか、眠く……)

 

 ……一応、弁解をしておけば。

 月見がこの紅魔館を訪れたのは昼日中であり、夜行性であるレミリアは睡眠の真っ最中であり、そこを咲夜に起こされたのだ。更にはあの幻の世界でグングニルを全力で振り回し、力の限り叫んで、怪我もして、疲れが溜まっていたので――。

 

 とどの詰まり。

 

 レミリアは、寝た。

 それはもう、この上ないほど、ぐっすりと。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――レミリア、レミリアー? って、寝てるし……」

「アハハ、凄く幸せそうな顔してる。よっぽど疲れてたんだねー」

 

 動かなくなったレミリアを不審に思って覗き込んでみれば、尻尾の一本に抱きついたまま眠りこけている。洩矢諏訪子を彷彿とさせるその姿に、月見の頬に緩い微苦笑が浮かんだ。

 

「も、申し訳ありません、月見様……」

「いや、いいさ。そっとしておいてあげよう」

 

 困った様子で視線を彷徨わせる咲夜をやんわりと制する。

 まさに見た目相応、と言わざるを得ないだろうか。すやすやくうくう、頬をふにゃふにゃにして眠る今のレミリアには、もはや吸血鬼としてのプライドなど露もなく、どこからどう見てもただの子どもであった。

 けれどそれは、月見がフランに感じているのと同じ――見る者を暖かい気持ちにさせる、微笑ましい幼さ。

 

「お姉様かーわいー。ていうか、こういう顔して寝るんだねー。うりうり」

 

 フランがレミリアの頬を突っつくけれど、レミリアはぴくりとも動かない。相当深いところまで落ちていってしまったようだ。半開きになったその小さな口から、いつよだれが垂れてくるとも知れない。

 まあ、そのあたりは諏訪子が今までに再三やらかしてくれたので、殊更気にしたりはしないが。

 それよりも気になることが、別にあった。十六夜咲夜。どことなく羨ましそうな色を目の奥に覗かせながら、尻尾の中にいるフランとレミリアをじいっと見つめている。

 意外と咲夜も、こういうのに目がなかったりするのだろうか。そう思った月見は、尻尾の一本を前に掲げながら、

 

「咲夜、お前も触ってみるか?」

「ぇうっ、」

 

 咲夜が変な声を出した。

 

「……咲夜?」

「は、はいっ!」

 

 びくーん、と咲夜の肩が派手に飛び上がる。一歩後退って俯くと、その両頬がじわじわと赤くなっていく。

 そのいかにもな反応に、まずフランが首を傾げて言った。

 

「咲夜って、こういうのが好きなの?」

「え、ええと、ですね」

「……なに、十一本もあるんだ。別に気を遣わなくても大丈夫だぞ?」

「そうだよ咲夜ー、もふもふだよー?」

 

 フランが尻尾を一本抱き締めて右へ左へとふりふり振ると、咲夜は理性と本能の狭間で揺らめく懸命の面持ちで、なにかをこらえるようにふるふる震えていた。

 ほんの数秒だ。それきりは落ち着いたのか、普段通りの表情に戻った咲夜は、その場でコホンと咳払い。澄まし顔で、

 

「月見様。お嬢様は夜行性ですから、しばらくは起きないと思います」

「露骨に逸らしたね、咲夜」

 

 フランのツッコミに、ピクン、咲夜の片眉が跳ねた。けれどギリギリのところで表情は崩さず、何事もなかったかのように続ける。

 

「少なくとも、夜までは起きないかと。ですからこのままというわけにも……」

 

 暗に、触れるなということなのだろう。その必死の澄まし顔からは、ある種、レミリアに睨まれた時以上の圧力がひしひしと感じられた。

 よほど追及されたくないらしい。なので月見も、何事もなかったかのように神妙に応じた。

 

「まあ、付き合うさ。こんなに幸せそうに眠ってるんだから、起こしてしまうのもなんだ」

「ですけど……」

「強いて言うなら、なにか暇を潰せるもの……そうだね、本かなにかがあるといいけど」

 

 咲夜は少し思案し、

 

「それでしたら、この紅魔館には大図書館があります」

「おや、そんなものまであるのか」

「ご希望のものがあればお持ちしますよ」

 

 言われ、月見は尻尾にひっついて眠るレミリアを見遣った。フランに頬を突っつかれても身動き一つしなかったし、少しくらいなら大丈夫だろうか。

 

「いや、是非私も見てみたいし、案内してくれないか?」

「……ですけど、そうするとお嬢様は」

「それなら、……フラン、悪いけど少しよけていてくれないか?」

「ん? どーかしたの?」

 

 フランが疑問顔で尻尾から離れる。それを確認した月見は、レミリアが抱き締めている以外の十の尾をまとめ、彼女を下から静かに抱き上げた。

 言うなれば、尻尾で作り上げた銀の揺り籠。案の定、深く眠ったレミリアが起きてしまうこともなく、これならば彼女に尻尾に抱きつかれた状態でもある程度自由に行動ができる。大図書館に移動するくらいならなんの問題もないだろう。

 その銀の揺り籠を、咲夜は感心したように、そしてやはりちょっとだけ羨ましそうに、見つめていた。

 

「……器用ですね、月見様」

「この尻尾は、私にとって手足と同じだよ。このくらいは簡単さ」

「わあ、いいなあお姉様……。ねえ月見、私も乗っちゃダメ?」

「まさか。……乗ってもいいけど、レミリアを起こさないようにね」

「うん!」

 

 一方のフランは素直なもので、月見の返事を聞くや否や七色の宝石を羽ばたかせ、そっとレミリアの隣に腰を収めた。

 

「大丈夫? 重くない?」

「いいや、乗っているのがわからないくらいだよ」

 

 だから、よかったら咲夜も乗ってみていいんだよ――という言葉は、胸の中に留めつつ。

 

「じゃあ、案内してもらえるかな?」

「わかりました。こちらです」

「しゅっぱつしんこー」

 

 歩き出した咲夜に続く傍ら、月見はもう一度だけ、揺り籠の上のレミリアを見遣った。すると、一体いつからだったのだろうか――彼女が、フランのスカートの裾をきゅっと握り締めているのに気づいた。

 

「……フラン」

「ん? なに?」

 

 もふもふ、尻尾の感触を楽しみながら首を傾げたフランは、果たして気づいているのだろうか。月見は、彼女の裾を握るレミリアの手を指差そうとして――やめた。

 微笑む。

 

「……よかったな、フラン」

「……? なに? なにがー?」

「なんでもないよ」

 

 それっきり前を向いて、咲夜の背中を追い掛けた。

 ふにゃふにゃに緩んだ寝顔を晒すレミリアは、一体、どんなに幸せな夢を見ているのだろうかと――そう、思いを馳せながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 ――どうして? どうしてお姉様は、フランを守ってくれるの?

 ……どうしてって、そんなの決まってるでしょう?

 

 だって、私は。

 

 この世界でたった一人の、あなたの――お姉さんなんだもの。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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