銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色

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東方地霊殿 ⑤ 「神喰らい」

 

 

 

 

 

 志弦が幻想郷に移り住んでよかったと思うことのひとつに、学校に行かなくてよいというのがある。

 高校がないのだから当たり前だ。それどころか大学だって、専門学校だって中学校だって小学校だってなくて、唯一あるのは寺子屋と呼ばれる私塾の類だけ。更には第二次・第三次産業が未発達なせいか就職活動という概念すら希薄で、若者はみな家業を継ぐのが基本とされている。

 つまりなにが言いたいのかというと、幻想郷の住人となった志弦はもはややりたくない勉強をやる必要などなく、守矢神社という働き口を見つけた以上は就職活動の荒波に身を揉まれることもないのだ。

 外で生活していた頃は、霊感体質もそうだが大学受験や就職活動といった、『将来への漠然とした不安』というやつにいつも心を苛まれていた。しかし、幻想郷にやってきてからそれが綺麗さっぱり解消された。お陰で志弦はもう、将来への不安を割かし感じることなく気ままな幻想郷ライフを満喫しているのだった。

 

「よーし、じゃあ今日のお勉強始めるよー」

「あーい」

 

 とは、いえ。専門の教育機関がないといっても、それがそのまま「なんの勉強もしなくていい」なんて都合のいい事実に直結するわけではない。人生とはすなわち、生涯をかけて学び続けることだ。守矢神社で居候する志弦に目下与えられた仕事は、早苗の諸々のお手伝いと、早く一人前の巫女になるための勉学なのであった。

 神道とはなにか。神とは、そしてその神に仕える巫女とはどういったものか。講師はその日によってまちまちだが、一日でだいたい一~二時間程度はこの座学に当てられる。本日の講師は諏訪子だった。神奈子は留守で、早苗は隣でお茶の準備をしてくれていた。

 秋までは青空教室というのも珍しくなかったが、冬になってからは母屋の炬燵でぬくぬくしながらやるのが常である。志弦の向かい側で、諏訪子が気持ち年上ぶった顔をしながら言う。

 

「じゃあ今日はねー、……あれ? なにやるのか忘れちゃった」

 

 かわいい。

 横から早苗が苦笑混じりで、

 

和御魂(にぎみたま)荒御魂(あらみたま)ですよ、諏訪子様」

「そうそれ! 私たち神の魂は二つの側面を持っています! それが、和御魂の荒御魂なのです!」

「あー、聞いたことある」

 

 具体的には、昔観ていたアニメでそんな言葉が出てきていた。まだ幼かった自分にとっては響きがカッコよかったので、頭の片隅でこっそりと覚えていたのだ。そういえば、和御魂と荒御魂の他にも二つほど種類があった気がする。

 

「もしかして、もう二つくらい似たような言葉があったりしない? なんだっけ……くしみたま? さきみたま? とか」

「へえーすごいね、そこまで知ってるんだ!」

 

 当たっていたらしく、諏訪子が長い袖をこたつの上でぱたぱたさせた。かわいい。

 志弦が幻想郷に移り住んでよかったと思うことのもうひとつに、みんなかわいいというのがある。例えば、目の前の諏訪子という幼女神。もちろん見た目はまんま幼女なのだが、曲がりにもウン千年を生きている由緒ある神様なので、品もなくぎゃーぎゃー騒いだり泣いたりすることのない、『子ども』のいいところばかりを取って集めたような女の子である。言うことやることがいちいちかわいくて和む。こんな幼女に勉強を教えてもらえるなんて、一部の紳士な人たちにとっては喉から手が出るほどのご褒美に違いない。

 他にも、紅魔館のスカーレット姉妹であったり霧の湖の妖精たちであったり、幻想郷にはいい意味で幼い女の子が多い。水月苑で彼女らと出会うたびに、志弦はいつもほっこりとした気持ちにさせられている。彼女ら小さな女の子が、月見のような優しい大人の男性にじゃれたりなんだりしている姿は、思わずため息が出てしまうくらいに微笑ましいのだ。

 かわいいのはなにも小さい子どもだけではない。外の世界でいえば中~高校生くらいの少女たちだって、それ以上の女性たちだって、志弦が笑ってしまうくらいにお顔のレベルが高い。正直、祖父を以てして「生まれる性別を間違えた」と言わしめる志弦だけれど、女でよかったと今では心の底から安堵していた。もし志弦が男だったら、思春期真っ只中の青少年だったら、とてもではないが幻想郷生活を満喫することなんてできなかったと思うのだ。みんなかわいすぎて、いろいろな欲望を抑えられなくなるという意味で。

 外の世界の青少年たちよ、みんなは幻想入りなんてしてはいけない。生きることに絶望したりせず、勇気と希望を持って自分たちの世界を生き抜いてほしい。

 ともあれ。

 

「一霊四魂、ですね」

 

 横から、早苗がお茶を出しながら補足してくれた。ところでこの少女、外の出身なのに幻想郷の女の子たちとタメを張れるほど顔がいい。彼女は神の血を引く『現人神』なる存在らしいので、志弦のような普通の人間とは格が違うのかもしれない。普通って辛いね、じっちゃん。

 ……ともあれ。いい加減授業に集中しよう。

 

「いちれーしこん?」

「元々は和御魂と荒御魂の二種類だったんだけど、江戸時代以降になると、そこに奇御魂(くしみたま)幸御魂(さきみたま)の二つを加えた、『一霊四魂』っていう考え方が広まったの」

「私はあんま好きじゃないけどねーその考え方。なんでも細かく分類しようとするのは人間の悪い癖だよ、まったく覚えにくいしややこしい」

 

 志弦は苦笑した。志弦も今までの学校の授業で、「なんでこんなに種類多いんだよ……」と頭を抱えた覚えは何度もあった。古文の活用形とか、化学の周期表とか。

 

「それに一霊四魂は、どっちかっていうと神よりも人間の魂に焦点を当てた考え方だからね。今回は触れないよ」

「そうなんだ」

「そうなんだよー」

 

 かわいい。

 

「というわけで、まずは和御魂ね。漢字で書くと……こう」

 

 諏訪子が紙に『和御魂』と書いた。小さな外見にとてもよく似合う、勢いがあって元気な字だった。

 

「これは、神が人間に恵みと加護を与える働きのことだよ。要するに『優しい魂』だね」

「ふむふむ」

「で、荒御魂がその逆。神が人間に試練や危害を与える働きのことで、要するに『怖い魂』だね。神の御魂は、みんなこの二つの側面を持っているのです。……あ、漢字はこうね」

 

 なんとなく、頷ける話だった。例えば和御魂。神様は神社に祀られる大変ありがたい存在であり、毎日多くの人々がお参りをし願い事を祈っている。それはまさしく、神様の『優しい魂』にあやかろうとしているわけだ。

 一方で、荒御魂。神様は悪い人間にバチを与える。『神の怒り』や『神の祟り』といえば、小学校くらいの子どもでも、漠然と「なにか恐ろしいことが起こる」程度の認識は持っているはずである。まさしく、神様の『怖い魂』というわけだ。

 

「神様ってことは、諏訪子にも荒御魂はあるんだ」

「あるよー」

 

 炬燵の上に突っ伏しながら、諏訪子はふにゃっと笑った。

 

「私の荒御魂は怖いよぉー」

 

 かわいい。

 そんなかわいい諏訪子の荒御魂を想像してみる。楽しみに取っておいたお菓子を神奈子に食べられてしまい、「神奈子のバカ――――――――ッ!!」と涙目でぷんすかしていた昨日――は、さすがに違うと思うが。

 

「どんな感じなの?」

「んー……」

 

 諏訪子は少し唇をとんがらせて考え、それからまた笑った。ただし今度は、「ほくそ笑んだ」とも表現できそうな得体の知れない笑みだった。

 

「――神の荒御魂ってのはね、要は災害みたいなもんなんだよ」

「さ、災害?」

 

 思いがけず物騒な言葉に志弦は目を丸くした。

 

「そう。人間じゃあどうにもできないもの。風の神なら大嵐、地の神なら地震、海の神なら津波、五穀豊穣の神なら大凶作。もし本当にそんなのが起こったら、人間はただじっとするか逃げるかして、無事に終わってくれるのを待つしかないよね」

 

 志弦は頷くことしかできない。

 

「神奈子は風と雨と山の神だから、大嵐かな。人里の家がことごとく吹っ飛んで、あちこちが水没して、この山では土砂崩れが起こる。きっと何百人も死んじゃうね」

「……、」

「私は山の神だけど、祟り神を使役したりもできるからねえ。地震も凶作も起こせるし、疫病だって蔓延させられるよ。今はもう諏訪から離れちゃったし、昔と比べればだいぶ力も落ちたけど――それでも結構殺せると思うなあ」

「…………、」

 

 沈黙。

 早苗が慌てて、

 

「諏訪子様っ、怖いです怖いです! 志弦が固まっちゃってます!」

「う? あ、ごめん」

 

 改めて思い知る――この少女はかわいらしいナリをしていても、間違いなく怪力乱神の力を持った神様なのだと。「結構殺せると思うなあ」と彼女が言ったとき、蛇に睨まれた蛙のような、背筋どころか心臓まで凍りつく強烈な怖気を感じた。背中に変な汗をかいているし、顔の筋肉がひきつっている。

 諏訪子の笑みが、にぱっとあどけないものに戻る。

 

「大丈夫だよー。荒御魂が暴れるなんて、よっぽどのことがない限りはありえないしね」

 

 その『よっぽど』が今後一切起こらない保証はどこにもないわけで。

 

「だ、大丈夫よ志弦っ! 神様の荒御魂を鎮めて和御魂に変えてあげるのも、私たち巫女の大事な役目だもの!」

「早苗師匠っ……! あっし、一人前の巫女になれる気がせんとです……っ!」

「泣かないで!?」

 

 そういえば、荒ぶる神を鎮めるために巫女がその身を生贄にして――という展開はよく見かける気がする。……あれ? もしかして私、結構ヤバい職場に就職しちゃった?

 ぷるぷる震える志弦の思考を読んだのか、諏訪子が少し心外そうに、

 

「だから大丈夫だってば。災害クラスの荒御魂を持ってるのは、私とか神奈子とか、一部の格の高い神だけさ。ほとんどの神は、今はもう大した力を持ってません。人間一人二人にバチを与えるのが関の山だよ」

「はあ……」

「ほら、人間の信仰離れってのが深刻だからね」

 

 炬燵の上に顎を載せて、しかめっ面をした。

 

「ここはまだマシだけど、外はもうほんとひどいよね。私らなんて、もう半分くらいは人間の奴隷みたいな扱いだもん。祈れば願い事を叶えてくれるとか、そんなわけないじゃん」

 

 ぷくーっと蛙よろしくご立腹する諏訪子に、志弦は曖昧な苦笑いを返した。そのあたりは、始めて間もない頃の授業で耳にタコができるほどみっちり叩き込まれた。神は人の願いを叶える存在では決してない、お賽銭は願い事を叶えてもらうために投げるのでは断じてない、願い事を言うなとは言わないけど日頃の感謝とか神拝詞とかもっとこうさあ、エトセトラエトセトラ。知らないことばかりで申し訳なくなった一方で、大変なのは神様も同じなんだなあと思い、でもそれって授業というより愚痴だよね、とも思ったものだ。

 

「でも安心してよ。志弦もこの頃は、私たちをちゃんと信仰できるようになったからね。この先どっかの妖怪が調子乗って暴れるようなことがあっても、私と神奈子が守って進ぜよー。正しく信仰してくれる正しい人間には、相応の加護を与える。それが和御魂なんだから」

「諏訪子っ……!」

 

 やだ、この幼女カッコいい。

 

「これからも諏訪子と姐御のこと、ちゃんと信仰しまっす!」

「うむ、くるしゅうないぞー」

 

 諏訪子が袖をぱたぱたさせた。かわいい。

 

「……さてと、ちょっと脱線しちゃったね。でも、これで和御魂と荒御魂についてはバッチリだよね?」

「うっす!」

「じゃあ次行くよー! ……あれ、次はなんだっけ? また忘れたー」

 

 ほんとこの幼女かわいい。

 早苗にあれこれ助け舟を出してもらっている様子を、微笑ましく見つめながら――けれど、志弦は心の奥底でふっと考える。

 もしどこかの神が――いや、なにも神だけに限った話ではない。強大な力を持つ人ならざる存在が、なんらかの理由で暴れ回ってしまったとき、この幻想郷ではどのような対処が為されるのだろう。

 スペルカードルールという決まり事があるとはいっても、本当にそれだけで上手く回るものなのか、まだ幻想郷に馴染みきっていない志弦はしばしば疑問に思っている。ルールに従わない悪いやつが相手だったらどうするのだろうか。言葉が通じなかったら。ルールを知らないやつだったら。ルールだとかなんだとか言う暇もない緊急事態だったら。

 外の世界では、日夜様々な事件が起こっている。不慮の事故であれ悪意の事件であれ、志弦の知らない場所でいつも誰かの命が脅かされている。警察があり自衛隊があり、法律と呼ばれるものまで存在するにもかかわらずそうなのだ。

 なら、幻想郷は。

 外と比べればずっとずっと狭い土地だけれど、年中(つつが)なく平和というわけではあるまい。志弦は、幻想郷が決して安全な土地ばかりではないのだと、幻想入りしたばかりの頃に身を以て学んでいる。

 例えばどこかの妖怪が暴れ回り、人の命を脅かすとしたら。スペルカードルールに従わず、暴虐の限りを尽くすとしたら。

 警察も自衛隊もいないこの幻想郷で、そのとき力なき人々を守るのは一体誰で。

 そして徒に命を脅かす悪しき妖怪を、誰が止め、誰が裁くのだろうか。

 

 志弦はまだ、幻想郷のことをなにも知らない。

 幻想郷の地下に、地底と呼ばれるもうひとつの世界が広がっていることも。

 そこで、二人の少女が戦っていることも。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 志弦が神社の炬燵でぬくぬくと暖かい時間を過ごしているとき、霊夢と魔理沙もまた冬の寒さとは無縁の場所にいた。

 ただし、こちらは『ぬくぬく』などという生易しい次元ではない。大きく深い穴を下りきってそこ(・・)に辿り着くや否や、霊夢も魔理沙も近年稀に見る盛大なしかめっ面をして仰け反った。

 灼熱地獄跡――今はもう使われていない場所だと、お燐とかいう黒猫からは聞かされたが。

 

「おいおい、これで使われてないとか嘘っぱちだろ……ガンガン燃えてるじゃんか」

「……このあたりだけ活性化してるっては言ってたけど、これは予想外ね」

 

 予兆はあった。穴を下る間も地下から濛々(もうもう)と熱気が込み上がってきていたし、炎が揺らめく色だって見えていた。しかしこうして穴を抜けきってみれば、広がった光景は霊夢の予想と比べ物にならないほど凄絶なものだった。

 火の海とは、きっとこういう景色のことをいうのだろうと霊夢は思う。

 そもそも、灼熱地獄がここまで広大な空間であることからして予想外だ。旧都へ戻る方角については、地平線の彼方まで延々と炎が広がっている。旧都と逆の方角については、山というよりもはや柱と呼ぶべき険峻な岩群がそこかしこにそびえ、天上の地盤を支えている。その先はやはり、轟々と燃え盛る炎で視界を閉ざされている。

 罪人の魂どころか、地底そのものを焼こうとしているのではないか。珠のような汗が止まらないのは、この火の海に原始的な恐怖を抱いたからではなく、単純に気温が高すぎるせいだ。緋想天の夏だってここまでひどくはなかった。冬用の巫女服を着ているのも災いし、体内の水分がまるで容赦なく吸い取られていく。この凄まじい熱気は紛れもなく灼熱であり、この凄まじい光景は紛れもなく地獄であり、『灼熱地獄』は間違いなく霊夢の眼前に広がっていた。

 

『す、すごい……霊夢、魔理沙、熱くない?』

 

 息を呑んだ様子で、陰陽玉から天子が問うてくる。熱くないもなにもすでに汗だくなのだが、あまりはっきりとこちらの景色が見えるわけではないと言っていたから、そこまではわからないのかもしれない。

 まあ、それはそれで都合がいい。余計なことは知られないままでいた方が、要らない心配をされずに済む。天子のことならすぐきっと、引き返した方がいいとか、月見に助けてもらおうとかうるさいだろうから。

 

「まるで蒸し風呂よ。……こりゃ長居はできないわよ、さっさと黒幕見つけて叩きのめさないと」

 

 こんな灼熱の中に居座ろうものなら、四半刻を待たずにぶっ倒れてしまう。頷く魔理沙もすっかり汗だらけで、顎の先まで滴ってきたそれを荒っぽく拳で拭った。

 

「だな。問題は、黒幕がどこにいるのかだけど……」

 

 霊夢と魔理沙は、どちらからともなく自然と同じ方角を見据えていた。

 剣山刀樹が如く急峻に入り組んだ、岩柱の森――その更に奥。頭上の穴を下ってくる最中から、ずっと不穏な気配は感じ続けていた。

 なにかが、いる。

 

「……なにかしらね」

「……さあ」

 

 普通の気配ではない。妖怪が、己の力を示すために妖気を放っているのとは明らかに違う。心臓が脈打つように、どくんどくんと胎動している。そのたびに霊夢の元まで届くのは、人間離れして異質で、同時に脂汗が浮かぶほど濃密な力と熱の波動だ。

 妙だった。

 

「……これ、もしかすると妖怪じゃないかもしれないわね」

「はあ? じゃあなんだってんだよ」

「神様」

 

 魔理沙が絶句した。

 

「勘だけど、そういう気がするわ。ちょっと神々しい感じがしない?」

「そう言われると……」

 

 しかし、彼女の顔には怪訝の色の方が濃い。

 

「いやでも、おかしいだろ。言われてみればそんな気もするけど、これはむしろ……なんていうか、禍々しいってか」

 

 魔理沙の言う通りではある。神々しいのはほんのわずかで、それ以上にこの気配は下手な妖怪よりも邪だ。八坂神奈子や洩矢諏訪子がまとう清澄な神気に触れ慣れている者であれば、神らしからぬ、と考えたとしても致し方ない。

 しかし、この禍々しさもまた世の神々が持つひとつの側面なのだ。確かに神は人間にとって救いの存在であるべきだが、すべての神がいつ如何なるときもそうであるとは限らない。神は古より多くの人間に恵みを与え救ってきた一方で、多くの災いをも与え命を奪ってきたのだから。

 正解を口にしたのは天子だった。

 

『荒御魂……だね』

「そうそう。さすがにあんたは知ってるのね」

 

 裕福な家の生まれで所謂英才教育を受けてきた天子は、天然そうに見えて実は意外と頭がいい。しかも彼女の生まれである比那名居家は、細かい部分は忘れたが神ともつながりのある一族のようで、神道にまつわる知識量なら霊夢をも凌ぎかねない有様だった。『天界からやってきた』という希少なステータスだけで人里の教師をやっているわけではないのだ。

 次いでアリスの人形が、

 

『一霊四魂、ね』

「あら、アリスも知ってるのね」

『い、一応……言葉だけだけどね』

 

 霊夢は素直に感心した。『一霊四魂』なんて言葉を知っているのは、霊夢のように神道の仕事をしている者か、天子のように優れた教育を受けた者か、もしくは一部の物好きくらいだろうに、それを外人のアリスが知っているのはすごいと思った。ほら見てみろ、魔理沙なんか「なに言ってんだこいつら」みたいな顔をしている。

 

「まあ要するに、神様にも穏やかな心と荒ぶる心があるってことよ」

「ほーん。で、それが荒御魂ってやつで、もしかするとこの気配がそうじゃないかと」

「そ。こういう神様の荒御魂を、祈祷とか祭り事で和御魂――穏やかな心に変えてあげるのが、私たち巫女の役目のひとつなのよ。知らなかったでしょ」

「おう、ぜんぜん」

 

 魔理沙だって幻想郷生まれの幻想郷育ちなのだから、魔術ばかりにハマってないでもっと日本のことを知った方がいいと思う。

 

「そういや、あの猫から黒幕のこと詳しく聞くの忘れたな。男か女かもわからん」

「いいんじゃない今更。これだけわかりやすい気配してるんだもの、行けばわかるわよ」

 

 早速行動を開始した。そびえる岩柱の間を抜け奥へと進む。飛べば少しは風で涼しくなるかと思ったが、打ちつけてくるのは熱風ばかりで余計汗がひどくなった。服の中がぐっしょりべたべたでもう最悪だ。早く水月苑に戻って温泉に入りたいなあ、なんてことをふっと思う。

 脈打つ気配が次第に近くなってくる。ここまで来れば霊夢も魔理沙も、この先で待ち構えているのが普通の妖怪だとは欠片も期待していない。霊夢たちが今まで解決してきた異変の首謀者は、レミリア・スカーレットという五百年を生きる吸血鬼であったり、西行寺幽々子という冥界の姫君であったり、伊吹萃香という伝説に名を残す鬼であったり、八意永琳という地球外生命体であったりと、普通とは言い難い大物ばかりだった。だから、どうせ今回も同じ類であろう。灼熱地獄に巣食う神らしき存在と言われても、霊夢にはさっぱり想像できないけれど。

 

「……近いわね。気をつけなさい魔理沙、そろそろ出てくるわよ」

「おう」

 

 脈打つ気配は目前だ。しかし、気配がデカすぎるせいで逆にはっきりとした位置を掴みづらい。辺り一帯が丸々覆い尽くされてしまっていて、前にも後ろにも、右にも左にもいるように感じられる。もう少し先へ進まなければならないのかもしれないし、ひょっとするとすぐそこの岩陰にひそんでいるのかもしれない。いつ不意打ちが飛んできてもおかしくないので、茹だる体に鞭打ち周囲へ気を配りながら、そびえる岩柱の森を進んでいく。

 事態が動いたのは、目の前の柱を躱そうと大きく左へ弧を描いた瞬間だった。

 少女がいた。

 

「うわ!?」

「うにゃあ!?」

 

 向こうもちょうど同じことをしようとしていたのだ。相手は驚くあまりほとんどなにもできないまま突っ込んできたが、霊夢は天性の反射神経に物を言わせてこれを辛くも躱した。文にも負けない、黒くて立派な翼を持った少女だった。

 しかし霊夢の後ろには魔理沙がついてきているわけで、

 

「おわわわっ!?」

「うにゃにゃにゃ!?」

 

 今度は魔理沙と激突一秒前である。魔理沙はもちろん、今度は少女の方もなんとか回避行動を取った。幸い躱す方向が被ることもなく、魔理沙は上に、少女は右に急激な方向転換をして、

 

「うにゃー!?」

 

 少女は判断を誤った。無数の岩柱が森と化してそびえるこの地帯では、横ではなく縦に回避を行うべきだった。もしくは、回避と同時に減速を行わなければならなかったのだ。だが不意を衝かれて気が動転していた少女にはできなかった。結果として彼女は、方向転換した先で屹立する柱に減速すらできないまま激突し、

 

「う゛み゛ゅっ!!」

 

 霊夢が思わず顔をしかめるくらい、とっても痛くて生々しい音がした。

 

「う゛に゛ゅ~……」

 

 ひとたまりもなかった。目を回した少女の体は自由落下を始め、木の葉のように宙を滑りながら、ほどなく灼熱地獄の火の海に呑まれて消えてしまった。

 

「「……」」

 

 霊夢と魔理沙は気まずくお互いの顔を見合わせ、同時に思う。――あれ? もしかして私たち、やっちゃった?

 少女が一人、火の海に落ちた。人間ならあっという間に焼け死んでしまうであろう、血も涙もない地獄の業火に。黒い翼を持っていたので妖怪と思われるが、ともかくそれが事実である。

 そういえばいつの間にか、あの心臓の脈打つような神の気配が綺麗さっぱり消えている。

 

『――れ、』

 

 誰しもが言うべき言葉を見失って沈黙する中、天子とアリスがようやく、

 

『霊夢、自首しようっ? 今ならまだやり直せるから!』

『魔理沙……いつかやるんじゃないかと思ってたわ。最後くらいは潔くあるべきよ』

「「いやいやいや」」

 

 霊夢と魔理沙はぶんぶん首を振る。灼熱地獄の熱さによる汗と、今の状況に対する冷や汗がふんだんに飛び散る。

 

「……え? ちょっと待って、この異変これで終わり? 冗談でしょ?」

『霊夢……信じたくないのはわかるけど、これが霊夢のやってしまったことなの。でも大丈夫、私は霊夢の味方だからっ。月見もきっとわかってくれるよ……!』

「待て待て待て、ま、まだそうと決めつけるのは早いだろ。こんなあっついとこにいる妖怪なんだし、案外炎に落ちても平気なんじゃ」

『魔理沙、自分の罪は素直に認めなさい。たとえ不幸な事故であっても、現実は覆らないわ』

「「だーかーらーっ!!」」

 

 魔理沙と二人揃って叫んだ、そのとき。

 予兆としてはまず、あの心臓の鼓動にも似た力の波動が復活した。ビリビリと肌が痺れるのを感じた霊夢と魔理沙が下を見た瞬間、たったいま少女を呑み込んだ灼熱地獄の火の海に、ぽっかりと穴が空いた(・・・・・・・・・・)

 

「……!」

 

 一言で穴といっても大小深浅様々だが、これはちょうど博麗神社の境内と同程度の大きさで、炎に包まれ影も見えなかった灼熱地獄の地表が剥き出しになる程度の深さだった。それだけの範囲で燃え盛っていた業火が、ほんの一瞬でちりぢりに消し飛ばされた。もちろん、霊夢と魔理沙に同じ真似は逆立ちしてもできない。

 少女。

 

「……うにゃー、びっくりしたぁ」

 

 面妖な出で立ちをしている。霊夢にも負けない大きなリボンを頭につけて、ぶつけたおでこを左手でさする姿はいかにも普通の少女らしく見える。しかしその右腕には、自分の腕より一回りも二回りも太く長い、神社のみくじ筒(・・・・)を引き伸ばしたかような棒状の木筒を装着している。広げた翼に合わせてマントが大きく広がり、そこには夜空めいた闇色の空間が縫いつけられている。極めつけには胸のところに、ぎょろりと紅い目玉がひとつ浮き出ているときた。

 その頭上では、霊夢の陰陽玉とは明らかに違う、まるで極小の太陽にも似た球体が光と熱を放っている。

 どう見たって普通ではない。

 だからこそ間違いなく、こいつが異変の真の黒幕なのだと確信できた。

 

「……ま、さすがにあれで終わっちゃうような雑魚じゃないわよね」

 

 ほっと胸を撫で下ろす――そのどこか片隅で、あれで終わってしまえばよかったのにと舌打ちしている自分もいた。実際に目の当たりにして痛感したのだ。あの黒猫が「怪我じゃ済まないかもしれない」と忠告したのは、霊夢たちを侮っていたわけでも、身内を贔屓していたわけでもなんでもなかったのだと。

 

「……魔理沙、腹括りなさい」

 

 魔理沙とて、今まで幾度となく異変を戦ってきた立派な実力者である。わざわざ言わずともわかっているだろうが、それでも霊夢は敢えて言った。

 

「――あいつ、普通じゃないわよ」

 

 大妖怪クラス。

 少なくとも対峙して感じる圧力だけなら、鬼子母神より下、されど旧都で出会った勇儀とかいう鬼より上。

 霊夢より一回り大きい程度でしかない体の内側に、なにか途轍もなく巨大な力を内包している。その『巨大』が果たしてどれほどのものかといえば、『あまりに巨大すぎて想像するのも馬鹿らしくなるくらい』だ。心臓の鼓動に合わせて、底なしの妖気がとめどなく外まで噴き出している。放たれた妖気は風となり熱となり、霊夢の肌を痺れさせ、更なる汗を生み体力を奪っていく。あの力は灼熱地獄そのものだ。眼下に広がる火の海すべてがあいつの体の一部であるように思えてきて、霊夢は静かな吐息とともに天を仰いだ。

 

『れ、霊夢……』

 

 この妖気が果たして向こうまで届いているのかはわからないが、天子も間違いなく只ならぬものを感じ取っていた。声がかすかに震えている。

 魔理沙が、口の端を思いっきり曲げて笑った。この力の波濤に呑まれまいと己を奮い立たせる、強がりな笑みだった。

 

「……いやー、どうしようなこれ。逃げちまうか」

「……残念、そうするにはちょっと遅かったわね」

 

 少女と、目が合った。

 

「ちょっと、そこの二人……!」

 

 少女が翼を真上に振り上げ、一気に叩きつけて強く羽ばたいた。日頃の文ほどではないにせよ、それに迫る猛烈な速度で空を躍り、瞬く間に霊夢の正面までやってきた。

 羽ばたくたびに、美しくも(とう)の火の粉が散ってゆく。その恐ろしくも幻想的な姿とは裏腹に、少女はぷんすかと幼らしく頬を膨らませて、

 

「いきなり危ないでしょ、こんなところになんの用――」

 

 その言葉が、最後まで行かぬうちに尻すぼみとなって消える。

 束の間、霊夢たちの姿を改めて見直すような沈黙があった。

 そして、霊夢にははっきりとわかった。

 目の前の少女から、感情と呼べるものがチリひとつ残さず消え失せたのだと。

 

「――人間」

 

 ぞっとするほど心の欠落した無の声音。なにをする暇もなかった。四方八方にただばら撒かれるだけだった少女の妖気が一斉に収束し、逆巻く暴風となって霊夢と魔理沙の全身に襲いかかった。

 

「……っ!」

 

 咄嗟に踏ん張らなければ、背後の柱に叩きつけられてしまいそうなほどだ。衣服が気でも狂ったような勢いではためき、玉の汗が流れた瞬間灼熱の空へさらわれていく。時折肌に当たる橙の火の粉が、刺すように痛い。

 なんて、荒々しい力なのだろう。気品と呼べるようなものはなにひとつとしてなかった。どこまでも苛烈で、底知れず凄絶で、限りなく暴虐な波濤だった。粗暴が服を着て歩いているような伊吹萃香ですら、その力には確かな鬼としての矜持が乗っていたのに、この少女にはそれすらもまるでない。

 あるのはただ、すべてを呑み込み焼き尽くそうとするような、黒い黒い憎悪の炎。

 なんて、凄まじくて。

 そして、哀しい、力なのだろうか。

 

「地上の、人間が」

 

 ぷんすかと可愛らしく頬を膨らませていたはじめの声音は、見る影もない。

 

「さとり様とこいし様の、住む場所を、奪った連中が」

 

 陰陽玉から天子が何事が叫んでいるが、まるで頭に入ってこない。

 

「一体、なんの用で、ここまで来たの」

「……」

 

 今しがた聞こえた二人の名が誰かは知らないが、どうやら少女は霊夢たち人間を恨んでいるらしい。なぜ、とは思わなかった。旧都は、地上で住む場所を失った妖怪たちが築いた都。であれば彼らがまだ地上にいた頃は、当然そういうこと(・・・・・・)もあったのであろう。むしろそう(・・)であったからこそ、決して少なくない数の妖怪が地上を去って地底に下ったのだ。

 少女が霊夢たちにこうして敵意を向ける理由は、まあなんとなく想像がつく。さしずめ、その『さとり』と『こいし』とやらを退治されかけたとか、そういったところだろう。

 だがそれは、霊夢にはまったく与り知らぬ、関係のないことである。

 答えるより先に、霊夢はまず息を吸った。まぶたを下ろし、静かに、深く。

 それから一言、端的に答えた。

 

「――迷惑なのよね」

 

 少女が眉をひそめる。霊夢は続ける。

 

「あんたがここで好き勝手やってるせいで、私たちのとこが結構騒ぎになってるのよ」

 

 少女もまた、端的に答える。

 

「そんなの、知らない」

「でしょうね。だから私たちがここに来たのよ、あんたを止めるために。……じゃあ、今度はこっちの質問に答えて頂戴」

 

 霊夢は一度言葉を区切り、射るように少女を見据えて問うた。

 

「あんた、なにを喰ったの(・・・・・・・)?」

 

 今度は眉をひそめたのは魔理沙で、少女は表情を微動だにもしなかった。

 

「そんじょそこらの神様じゃないわね。……たぶん、神話クラス」

 

 この灼熱地獄に下りたとき、霊夢が感じたのは荒ぶる神の気配だった。しかし蓋を開けてみれば、現れたのは妖怪――恐らくはこの地獄で死肉に群がる鴉の類――であり、感じていた気配も彼女のものだった。

 なぜか。その理由がこれだ。

 この少女は、腹の中に神を飼っている。

 

「……神様を、喰った? そんなことができるのか?」

「できないこともないわよ。普通は無理だけどね」

 

 要は神降ろしのようなもの。霊夢ら人間にもできることなので、妖怪にだってその気になれば可能である。

 だが、そんじょそこらの名もない神ならまだしも、神話クラスは文字通り格の違う存在だ。大妖怪ともなれば多少話は変わるだろうが、少なくとも地獄で罪人の死肉を貪っているような下級の妖怪にできるはずがない。故に少女が自力で神を喰らったとは考えにくいし、ただ喰ったのみならず、その力に呑まれることなく正気を保っているのはなおさら不可解だった。

 なにかカラクリが――或いは少女の面妖な出で立ちこそがその仕掛けなのかもしれないが、

 

「知らない」

 

 少女の答えは素気ない。

 

「そんなの、どうでもいい」

「いやよくないでしょ。ってか、なんの神様かも知らないで喰ったの?」

「この力で、私の願いは叶った」

 

 胸の前で、きつく左の拳を握る。

 

「だから、どんな神様だっていい」

「……そう」

 

 霊夢は肩を竦めた。まともな返事を期待していたわけではないが、ここまでにべもなく言い切られると問い詰める気も湧かなかった。

 

「私を止めにきたって、お前は言ったわね」

「あ、そうそう。というわけで覚悟しなさい、博麗の巫女である私が――と見せかけて、この白黒のお姉さんがお灸を据えてくれるわ」

「うん、ちょっと待って」

「今度はあんたがやるって約束だったわよねー。藤千代と戦ったときは二対二だったからノーカウントだし。さあ遠慮することはないわ思いっきりやってきなさいほらほら」

「いやーそんな約束してたっけかなーあはははは」

「じゃあ私は、ちょっと上に戻って休んでくるわねー。あーもう喉カラカラ」

「わーい私も水飲みたいなー」

「コラ待て逃げるな」

 

 さりげなく引き返そうとした魔理沙の襟首を、させるものかと引っ掴む。魔理沙はジタバタと見苦しく暴れた。

 

「嫌だ! 帰る! もう帰る! ここあっついもん! もうやだっ!」

「敵に背は向けられないとかカッコつけてたのはどこのどいつよ。さあ、思う存分あいつを消耗させて散ってきなさい。美味しいところはぜんぶ私がいただくわ」

「うわあああああん!!」

 

 誰がヤマメと戦うかを決めるじゃんけんで、霊夢のぐーを相手にちょきを出してしまった己が不明を恨むがよい。

 「ここは二人仲良く共闘だろ!? この裏切り者おおおおおっ!!」と涙目で暴れる魔理沙がちょっと面白くて、霊夢はほれほれと嗜虐心満点で彼女を生贄に捧げようとし、

 

『――霊夢、前ッ!!』

 

 気づくべきだった――目の前の少女から、完全に目を離してしまっていたことに。

 天子の怒鳴り声に耳朶を叩かれ、咄嗟に前を見る。少女が、右腕にはめた木筒をまっすぐ天へ掲げている。それ以上でもそれ以下でもなく、なにやってるんだこいつと不審に思った瞬間、

 霊夢の視界が白で潰れた。

 

「……っ!」

 

 少女の掲げた木筒が閃光を放ったのだ。それほど強い光ではなく、視界が潰れたのはほんの束の間だった。光が収まったのを感じた霊夢が再び前を見ると、灼熱の色に燃える光弾がひとつ、打ち上げ花火のように天へ昇っていっている。

 だがもちろん、天で花開くのは断じて火花などではない。

 

 天が、焼けた。

 

 その刹那、少なくとも霊夢は本気でそう思った。天の中ほどで炸裂した光弾は、火花ではなく炎そのもので岩盤だらけの空を包み込んだ。炎はまるで生きているような速度で燃え広がり、霊夢の頭上をあっという間に通過し、しかしやがて弧を描いて大地に向け降下を始める。

 気づいたときには、なにもかもが手遅れだった。

 炎が、消えていく。

 

「……あー、」

 

 霊夢は圧倒されるあまり、それしか言えなかった。――やられた。

 

『霊夢!? 霊夢、なにが起こったの!? 霊夢ッ!?』

 

 陰陽玉の向こうでは、これ(・・)は巨大すぎて視認できないらしい。耳元で、天子が癇癪を起こしたみたいに喚いている。

 霊夢はぽつりと一言、

 

「――結界。閉じ込められちゃった」

『……え!?』

 

 天を覆っていた炎が消えると、その奥から現れたのは白熱する光の膜だった。それが、周囲一帯を一分の隙間もなく完璧に封鎖している。果たしてどれほどの規模の結界になるのか、目測ではまるで想像もできないほど巨大な結界である。

 退路が、完全に断たれていた。

 

「う、嘘だろ、こんな」

 

 凍りついた魔理沙の顔は、「こんなデカい結界なんて見たことない」と震える口よりよっぽど達者に語っていた。

 

「……これが、あいつが喰った神様の力ってことね」

 

 視界を覆う白の結界から、言葉にならない強烈なプレッシャーがのしかかってくるのを感じる。あの結界がそれだけ強固なものであるという証左だ。試してみないことにはわからないが、私じゃあ破るのはキツいだろうなと霊夢は思った。火力自慢の魔理沙ならいけるかもしれないが、そう簡単な話でないのに変わりはなかろう。

 予想外だとは思わない。むしろ、これくらいはやってのけて当然なのだろう。少女が腹の中に飼っているのは、恐らくは神話にその名を残す、伝説級の神様であるはずだから。

 

「――さて。これで、晴れて腹を括るしかないわけだけど」

 

 霊夢は、前を見た。少女は深く俯いており、その表情はここからでは見えない。

 けれど、声は聞こえた。

 

「――博麗の、巫女」

 

 ぶつぶつと呟いている。

 

「さとり様を、退治しようとした」

 

 揺らめく炎のようだと、霊夢は思う。中身のない虚ろな声音には、だからこそ少女の感情が如実にあふれ出していた。

 

「お前なんて」

 

 それはまさしく、少女自身が炎と化して燃え盛る、黒い黒い憎悪の荒御魂。

 断言する。

 

「博麗の巫女なんて、大っ嫌い」

 

 この少女は、間違いなく、

 

「――私はお前を、絶対に許さないッ!!」

 

 今この場で、霊夢たちを排除しようとしている。

 少女が右腕の木筒をこちらに照準した瞬間、霊夢は魔理沙の首根っこを引っ掴んで真上に飛んだ。

 そうしていなければ、おしまいだった。

 

 霊夢の背後にそびえていた岩の柱が、完膚なきまでに砕けて爆ぜ飛んだ。

 

 凄まじいまでの暴風が巻き上がった。夏の台風だってここまでひどくはなかった。目を開けてもいられない衝撃に真下から煽られ、霊夢と魔理沙の体は放り投げられたように宙を待った。

 もちろん、ほんの束の間だ。霊夢も魔理沙も無意識に近い領域で術を制御し、崩れた体勢をあっという間に整える。

 しかしそのさなかで、不幸にも魔理沙の帽子がさらわれた。

 

「あ、」

 

 どうしようもなかった。爆風に乗った帽子はまさに飛ぶような速さで遠ざかっていき、魔理沙が追いかける暇もなく眼下の火の海に呑まれて消えてしまった。

 その突然の別れを惜しむ余裕もない。

 

「ちょっと、いきなりなにすんのよ!?」

「殺す気か!?」

 

 これぞ、人知を超越した神の御業――とでもいうべきなのか。

 神の力を凝縮して作り上げた、掌の上にも載せられようたった一発の光弾。

 それがこの威力だ。完璧に肝が潰れた。見れば天高くそびえていた岩柱の土手っ腹が、まるではじめからなかったかのようにごっそりと抉り取られてしまっている。分厚く巨大な岩の塊でさえあの有様なのだから、人間の霊夢たちに直撃すれば、どう考えたって無事では済まなかった。最低でも意識は持って行かれていた。そして『ここ』で意識を失うことはすなわち、つい今し方の魔理沙の帽子同様、灼熱地獄の業火に呑まれてお陀仏になることを意味している。

 それすらも理解していない、ただのお巫山戯だったとは言わせない。

 

「あんた、ふざけてんじゃないわよ!? スペルカードルール知らないの!?」

 

 スペルカードルールとは今の幻想郷で常識ともいえる決闘方式であり、『決闘』である以上は両者の合意がなければ成立しない。相手の準備が整わないうちに不意打ちを仕掛けるのはマナー違反だし、そもそも今の一撃は弾幕ですらなく、明らかな害意を持った攻撃だった。弾幕の撃ち方がわからないのか、実は呑み込んだ神の力を制御しきれず暴走しかけているのか、それともまさか、本当にスペルカードルールを知らないとでもいうのか。

 答えは、そのどれでもなかった。

 

「うるさいっ、うるさい!!」

 

 少女は耳を塞ぎ、首を振りながら吐き捨て、

 

「お前なんか……!」

 

 右腕を、刺し貫くように霊夢へ向ける、

 

「お前なんか……っ!!」

 

 単純明快な、拒絶だった。

 二度目の砲撃。今度は霊夢も魔理沙も同時に動いた。やはり間違いない――荒ぶる神の御魂に物を言わせ、途方もない力と熱を押し固めて作り上げた、ひと目見ただけで背筋も凍る光弾だ。ただ躱すだけでも相当肝が冷えたし、代わりに攻撃を受けることになった不運な地底の岩柱は、一度目同様粉々に砕けて爆散した。

 

「にょわーっ!?」

 

 再び襲いかかってきた爆風を、霊夢はなんとか踏ん張って耐えたが、魔理沙は耐えきれず素っ頓狂な悲鳴と一緒に飛ばされていった。ほうきから落ちそうになりながらも、なんとか体勢を整えて喚いた。

 

「れっれれれ霊夢サンよ、己の罪を正直に認めて魔理沙ちゃんに懺悔しろおっ! お前、あの鴉になにやったってんだ!?」

「し、知らないわよ!」

 

 霊夢は叫び返した。まるで心当たりがない。そもそも霊夢がこの地底にやってきたのは今日が生まれてはじめてだし、あの鴉と出会ったのだって間違いなく今日がはじめてなのだ。心当たりのある方がおかしい。

 陰陽玉から更に天子が、

 

『霊夢の嘘つきっ! 絶対許さないとか言ってたんだけど!?』

「だから知らないってば! 人違いじゃないの!?」

「はっきり『博麗の巫女』って言ってたんだから、人違いなわけないだろばかあっ!」

「じゃー教えてよ、今日はじめて出会った相手にどうやって恨まれろっての!?」

「やった方が覚えてなくても、やられた方ってのはいつまでも執念深く覚えてるもんなんだよっ!」

「冤罪よーっ!」

 

 少女が無言のまま霊夢たちに照準した。

 

「「ぎゃーっ!!」」

 

 三度目の砲撃。霊夢と魔理沙は逃げる。また岩柱が砕け散る。

 

「おい霊夢っ、土下座! 土下座して許してもらえ!」

「バカじゃないの!? 博麗の巫女が妖怪に土下座なんかできるわけないでしょ!?」

『私は、たぶん霊夢が悪いと思いますっ!』

 

 おのれこいつら。本当に霊夢の味方なのか。

 

『……ねえ、霊夢』

 

 口数少なく思考に耽っている分、見えるものが霊夢たちとは違っていたのだと思う。核心を衝いてきたのはアリスだった。

 

『ひょっとして、霊夢の前の代の巫女を言ってるんじゃないかしら』

「……あー」

 

 すとんと腑に落ちた。

 なるほど確かに、そう考えると筋が通る気がする。少女がいきなり攻撃を仕掛けてきたのは霊夢が博麗の巫女だとわかってからだし、なにより彼女は言っていた。「さとり様を退治しようとした」、「博麗の巫女なんて大っ嫌い」だと。

 博麗霊夢、ではなく。

 ありえない話ではない。霊夢が知らない遠い昔に、博麗の巫女が『さとり様』とやらを退治しようとしたせいで、博麗の巫女という肩書きそのものがこの少女から恨まれている――可能性としては充分ありうる。

 

『で、でも、それじゃあこれってただのとばっちりじゃ……』

「鴉だしな。鳥頭で、巫女はみんな同じに見えてるのかも」

「とりあえずあんたら、向こう戻ったら覚えときなさいよ」

 

 ため息。

 

「……ともかく、やるしかないわね。逃げ場もないし」

「ううっちくしょう、あの攻撃めっちゃ怖いよう……こんなことになるんだったら来るんじゃなかった」

「ここまで来たら一蓮托生よー」

 

 スペルカードルールを無視して、向こうからいきなり襲いかかってきたのだ。だったらこっちは二対一、いや、陰陽玉の天子とアリスの人形も数えて四対一の全力で迎え討つ。

 もはやそうする以外にない。

 結界で逃げ道を塞がれ、眼下が火の海で埋め尽くされた灼熱地獄なのだ。もし、万が一、負けてしまったら――。

 

「……」

 

 ――いや、よそう。

 霊夢はまぶたを下ろし、ゆっくりと大きく息を吸って、吐いた。戦闘のスイッチを入れる。混乱と焦燥で波立っていた心が静まり、感覚が研ぎ澄まされていく。

 

「……話は終わった?」

 

 聞こえた少女の声に、目を開ける、

 

「――?」

 

 気のせい、だろうか。そのとき少女の背後にそびえる岩柱の陰に、ほんの一瞬、なにか人影のようなものが見えた気が。

 しかし目を凝らしてみると、なんてことはない、そこには剥き出しの岩の塊があるだけだった。

 ちくしょーこうなったらやってやるー!! とヤケクソな魔理沙に気づいた様子はない。だから霊夢は、まあ岩の形を見間違えたのだろう、と一人で納得し。

 

 それがそのまま、勝敗を分かつ分水嶺となった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――まったく。どうしておまえたちは、そうじっとしてられないんだろうね」

「ぐおーっはなせーっ」

「はなせえーっ」

 

 失踪していた『くーちゃん』と『みーちゃん』を尻尾でぐるぐる巻きにし、月見はやっとこさ水月苑まで戻ってきた。

 随分と掛かった。この二匹、霧の湖まで飛んでいってそこの妖精たち――及び、ちょうど一緒に遊んでいたらしいフラン――と結託し、紅魔館に総攻撃を仕掛けていたのだ。妖精の大群+フランという圧倒的な戦力差を前に、弾幕ごっこが苦手な門番は為す術もなく殉職した。

 そしていよいよ月見も巻き込まれるかというところで、ニコニコ笑顔の咲夜が出現したため事なきを得た。うふふふふふと微笑みながらナイフを振るい妖精の大群+フランを撃破していく咲夜の姿は、人間にしておくにはもったいないほど逞しかった。その隅でボロ雑巾になっていた美鈴は、妖怪とは思えないほど情けなかった。

 もちろん、水月苑の庭はぐちゃぐちゃに荒れ果てたままだった。

 

「あ、旦那様ー」

「ただいま、ひめ」

 

 庭に降り立つと、すっかり復活したらしいわかさぎ姫が、いつものように池の水面から顔を出した。

 

「おかえりなさいませー。妖精さん、見つかったんですね」

「ああ、ようやくね。……みんな、ちゃんと留守番してただろうな」

 

 妖精たちの子守りはにとりと響子に任せて出たものの、あの二人では少々心許ない。それを補う意味で取りつけた『うるさくしたらおやつはなし』という口約束も、果たしてどれほど効果があったのやら。玄関を開けた瞬間ボロボロの屋敷が飛び込んできたっておかしくないと月見は腹を括る。

 と。

 

「……あの、旦那様」

 

 いつもおっとりなわかさぎ姫にしては珍しく、消えてしまいそうなほどか弱い声だった。事実、今にも不安と恐怖で押し潰さそうな顔の彼女を、月見は今日になってはじめて目の当たりにした。

 

「旦那様が留守の間に、お屋敷の方で……」

 

 妖精が好き勝手に暴れた程度でこうはなるまい。

 

「……ひょっとすると、その……大変なことに、なっているかもしれなくて……」

 

 月見は屋敷を振り向いた。なんの変哲もない、大きな図体の割にひっそりと大自然の中に佇む、いつも通りの水月苑の姿。

 静かだ。

 静かすぎる。

 そんなはずはない。この屋敷には何十匹もの元気いっぱいな妖精たちがいて、彼女らの世話で手を焼かれるにとりと響子がいるはずなのだ。会心のいたずらが成功して沸き立つ歓声。廊下を縦横無尽に走り回る音。必死に言うことを聞かせようとする怒鳴り声。賑やかすぎて目を覆いたくなるほどの喧噪が、外まで響いていたっておかしくないのに。

 なぜ、誰の声も聞こえないのか。

 なぜ、誰の姿も見えないのか。

 

 ――嫌な、予感がした。

 

 幽鬼のように迫り来る寒気。心臓が凍りつき、血の巡りが止まり、背筋が固まり、息が詰まる。月見はこの感覚を知っている。当然だ、前にもまったく同じ感覚に襲われたことがあるのだから。

 すぐ隣にあったはずの大切なものが、手の中から滑り落ちていく感覚。

 それは、あのときの。

 

 天子を失いかけた夏の異変と、同じだった。

 

 玄関の戸が開いた。顔を出したのはにとりで、彼女もまた、不安で押し潰される寸前の真っ白な表情をしていた。月見と目が合い、なにかを言おうと口を動かしかけ、

 

「――月見……ッ!!」

 

 ほとんど悲鳴に近い声だった。にとりを脇に押し飛ばし、薄く雪が積もった石畳で何度も何度も足を滑らせながら、まるでなにか恐ろしい怪物から逃げ惑うように。

 天子が、月見の胸に飛び込み、縋りついてきた。

 

「つくみっ……!! つくみぃ……っ!!」

 

 チリチリと、脳の神経が焼けている。

 天子は、泣いていた。同じだ。紫に斬られ、月見の腕の中で、なにも変われていなかった自分を悔いたあのときと。それは取り返しのつかない現実に打ちのめされ、無力な自分に打ちひしがれ、心を折られた、少女の姿だった。

 なぜ。

 その答えを持ってきたのは、『ひーちゃん』だった。お転婆でいたずら好きな妖精である彼女も、今だけはさすがに沈痛な面持ちをしていた。彼女が両腕で抱えて持ってきた、ただの置物に戻った(・・・・・・・・・)陰陽玉が、月見に否応なく、逃れようのない現実を叩きつけた。

 

「つくみ……!! どうしよう、つくみ……っ!!」

 

 天子は、月見の胸に押しつける顔を上げることすらできない。

 聞きたくなかった。或いは聞きさえしなければ、すべて自分の勝手な勘違いで済むと思っていたのかもしれない。

 

 

「霊夢が……! 魔理沙が……! やられちゃった……っ!!」

 

 

 しかし、やはり、それが現実だったのだ。

 

「もう、なにも、言ってくれないの……!」

 

 陰陽玉からは、もう、誰の霊力も感じない。

 

「も、もしかしたら。もしかしたら……!」

 

 霊夢と、魔理沙の、声は。

 

 

「――灼熱地獄に、落ちちゃったかもしれない……っ!!」

 

 

 二人の声は、もう、聞こえない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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