銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色
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東方地霊殿 ⑥ 「炎に落ちゆく」

 

 

 

 

 

 ただ、繰り返したくなかっただけなのだ。

 なのにどうして、よりにもよってこんな大事な時に限って、自分の行動はことごとく裏目に出てしまうのだろう。

 

 夏の異変がなぜあれほど辛い事件になったかといえば、すべてではないにせよ間違いなく月見の行動にその一端があった。軽い気持ちで異変の片棒を担いだ結果が、博麗神社の倒壊であり、紫の怒りであり、そして天子の涙だった。

 だから、もう無闇には関わるまいと思っていた。自分から興味本位で首を突っ込むようなことはやめて、静かに見守る。月見が妙な真似さえしなければかつての幻想郷がそうであったように、霊夢を始めとする人間たちによって何事もなく解決され、(つつが)なく宴会が催されて、冬の騒がしい一幕として終わっていくのだろうと。

 

 なのに、天が月見に突きつける現実はこれだ。

 

 霊夢と魔理沙が負けた。灼熱地獄に落下した疑いが強く生死不明。陰陽玉は灼熱地獄の業火に呑まれ、アリスの人形は敵の攻撃で完全に破壊された。二人の無事を、もうどうやっても確かめることができない。もう、どうすればいいのかわからない。なにもわからない。

 

「わからないよ、つくみ……! つくみっ……!!」

 

 そう天子は、月見に縋りついて、泣きながら吐露した。

 それを、月見はただ棒立ちで聞くだけだった。泣きじゃくる天子を落ち着かせることも、震える肩に手を置くことすらもできなかった。当たり前だ、そんな馬鹿げた話を信じられるはずがない。信じていいはずがない。

 あの二人が負けて、生死すらわからぬなど。

 弾幕ごっこにかけては月見などとは比べ物にならないほど強い、あの二人が。

 もちろん、そんなものはただの逃避でしかない。玄関から、今にも倒れそうな足取りでアリスが出てくる。元々肌は白い方だったが、今はそこから血の気すら失われ真っ白で、瞳の焦点は虚ろな宙を彷徨っている。その後ろを、にとりと響子が恐る恐るとついてくる。呼吸すら許さぬようなこの沈黙が怖いのか、妖精たちが玄関のところに集まって月見を見つめている。緩んだ月見の尻尾から『くーちゃん』と『みーちゃん』が逃げ出し、仲間たちのところへそそくさと飛んでいく。

 月見はようやく、縋りついて泣く天子の背に片腕を回すことができた。

 自問した。――自分は、ついていくべきだったのだろうか。地底なら土地勘があるし、知り合いもいるからと霊夢を説得して。そうすれば、こんな唾棄すべき現実を少しでも変えることができていたのだろうか。

 沈黙を破ったのは意外にも、陰陽玉を抱えて飛んできた『ひーちゃん』だった。

 

「あの、」

 

 自分で自分の声に驚いて口を噤む。しかし月見と目が合い、やがて意を決して、

 

「――ごめんなさい。わたしたち、遊ぶのに夢中ですっかり忘れてたの。お燐に頼まれて、あなたを呼びにきたんだって。助けてって」

 

 頭の裏で、カチリと歯車の噛み合った音がした。そして知らず識らずのうちに拳を握り、唇を噛んだ。

 はじめからこれは異変などではなく、人間が手に負うべきものでもなかったのだ。いま地底ではなんらかの重大な事件が起こっていて、偶発的かそうでないかはさておき、発生した間欠泉を利用してお燐が月見に助けを求めようとした。しかし不幸にも彼女の意図は実ることなく、地上からやってきたのはたった二人の人間だった。ただ二人とも、人間にしておくには勿体ないくらいの手練れだったから、もしかすると月見を呼ぶまでもないかとお燐は考えたのかもしれない。そして、結局、二人は勝てなかった。

 ようやく、声が出せた。

 

「――私は、地底に行く」

 

 この場にいる全員の視線が、一斉に月見を捉えたのがわかった。天子もむせび泣く声を止め、赤くなった瞳で月見を見上げた。

 今更、なのかもしれない。悪足掻きなのかもしれない。けれど今なら、まだなにかを変えることができるかもしれない。

 あの夏だって、そうだったのだから。

 このままなにもせずに後悔するくらいなら、月見は限界まで足掻く方を選ぶ。

 

「だから、お前たちはここで待」

「――嫌ッ!!」

 

 月見の胸に拳を落とすような、強くまっすぐな天子の声だった。

 

「私も、行く。連れていって」

 

 月見の襟元を握る彼女の掌は、まだ少しだけ震えていたけれど。彼女はもう、泣いてなどいなかった。

 息を呑むほど強い目をしている。この少女にこんな顔ができたのかと、月見は少なからず驚かされた。昔は傲岸不遜な女だったと本人は言うが、幻想郷に受け入れられてからはよく人を思いやり、時に嫌われまいと臆病な一面すらも見せる少女だった。

 その姿とはまるで違う。月見に喰らいついてでもついていく。それすらできないような自分なら死んだ方がマシだ――それほどまでの気迫を感じた。

 

「月見……私も、行くわ」

 

 アリスも同じだった。極度の引っ込み思案を患う彼女が、こんなにもまっすぐな瞳で月見を見るのははじめてだった。月見が胸に抱いている「今ならまだなにかが変わるかもしれない」という、ある種の天に縋るような思いとは訳が違う。

 この二人は、掛け値なしに、本気で霊夢たちが無事あると信じ、本気でその助けになるつもりでいる。霊夢らですら勝てなかった相手なのだ、地底へ向かえば自分だって無事では済まないかもしれない。中途半端な実力では、ミイラ取りがミイラになるだけ。二人だってそんなことはわかっている。わかった上で言っている。今の二人にとってはそんなもの、道端に転がる石程度の障害でしかないのだろう。

 月見はきっと、笑ったと思う。それほどまで霊夢と魔理沙を想う二人が。そして、それほどまで二人から想われる霊夢と魔理沙が。息が詰まるような月見の心に、わずかながらも確かな力を与えてくれた。

 頷いた。

 

「わかった。……ならすぐに支度だ。ひめ、悪いけど留守を任せていいか?」

「は、はいっ。この命に代えましても、お屋敷はお守りします!」

 

 わかさぎ姫は、水月苑を一体なんだと思っているのだろう。

 詳しく訊いてみたい気もしたが、月見はすぐに思考を切り替えた。そんなものは、ぜんぶが無事に終わってからゆっくりとやればいいのだ。作り置きしていた札を取りに、月見が屋敷へ足を向けようとしたその間際、

 

『――もしもーし、聞こえますかー?』

 

 その陽気な声が誰のもので、一体どこから聞こえてきているのか、誰しもが咄嗟には理解できなかった。

 

『……あれ、こうじゃないのかなー? 確かこんな感じで話してたと思ったんだけど……』

 

 ようやく、声の出処に全員の視線が集まる。

 ひーちゃんが抱えている、陰陽玉。

 当然、まっさきに天子が反応した。

 

『もしもーし、誰か聞こえてたら返』

「霊夢ッ!!」

『み゛ゃあ!?』

「ひゃあっ!?」

 

 ほとんど体当たりに近い勢いで陰陽玉まで詰め寄り、怒鳴ったのと大差ない大声で霊夢の名を叫んだ。そのあまりの剣幕にひーちゃんがひっくり返り、陰陽玉の向こうでも誰かが尻餅をついた音がした。

 霊夢の声ではなかった。天子は倒れたひーちゃんには目もくれず、転がった陰陽玉を拾い上げてなおも叫ぶ。

 

「誰!? 答えてッ!!」

『まままっ、待って待って落ち着』

「霊夢は!? 魔理沙はどこっ!? 答えなさいッ!!」

『うみゃー!?』

 

 月見がこの声の持ち主に気づくのと、ひーちゃんがお尻の雪を払いながら「この声って……」と呟いたのは同時だった。月見は後ろから天子の肩に手を置き、

 

「天子、代わってくれ」

「っ……月見」

 

 振り向いた天子は、陰陽玉を手放すのをひどく躊躇った。無理もない、今の彼女にはこれだけが霊夢たちの無事を知る頼りの綱なのだから。結局天子は陰陽玉を手渡すのではなく、月見の口元まで持ち上げるという形を取った。

 月見はそのまま話した。

 

「その声、お燐だな?」

『……あっ、この声はおにーさん! あーよかった、やっと話ができるよー』

 

 与太話に割くような余裕はない。単刀直入に問う。

 

「お燐、悪いけどまず教えてくれないか。霊夢と魔理沙――その玉を持っていた人間の女の子はどうした?」

 

 胃を押し下げるような重苦しい沈黙が満ちた。陰陽玉を持つ天子の指先に祈るような力がこもり、アリスが胸の前でぎゅっと両手を重ねた。

 そして、お燐は答えた。

 

『あ、そうそう。いやー、ほんと間一髪だったよ。私があとちょっと遅れてたら、二人とも灼熱地獄に落ちちゃってたんだから』

「……、」

 

 それは、つまり、

 

『二人とも、気を失ってはいるけど無事だよ。まあ、ちょっと火傷してるくらいかな? あと、軽く熱中症になってるかもしれないから、それはいま手当してるとこー』

「おっと」

 

 安心するあまり腰を抜かした天子が膝から崩れたので、月見は咄嗟に両腕で支えた。陰陽玉が雪の上を転がる。天子は折れた膝を立て直すこともできず、そのまま月見のお腹に顔を押しつけて、

 

「よかった……!」

 

 また押し寄せる感情に負けて、泣いてしまったけれど。

 

「よかったぁ……っ!!」

 

 二度目の涙は、もう、冷たくはなかった。

 

『で、この陰陽玉とかいうのは灼熱地獄に落ちてたのを――ん、どうかしたの?』

「……二人を助けてくれて、ありがとうだって」

 

 アリスも、涙こそ流してはいなかったけれど、憑き物が落ちた様子で胸を撫で下ろしていた。そんな二人を見たにとりと響子が、お互いを見合ってくすぐったそうに笑う。張り詰めていた空気が和らいだのを感じて、妖精たちの間にも安堵の感情が広がり始める。

 その中で陰陽玉の向こう側にいるお燐だけが、わずかな自責と後悔を感じさせる息遣いで笑った。

 

『あはは……どういたしましてって言いたいところだけど、あたいには、そんな風に感謝される資格なんてないよ』

 

 なぜ。

 いや、そもそも。

 なぜお燐は、霊夢と魔理沙を助けたのだろう。もちろんそれ自体は喜ぶべきことだし、お燐は地底の妖怪でもとびきり人懐こいからやりかねないと思う。しかし一方で、いくら人懐こいお燐であっても、知り合いでもなんでもない人間を善意で助けなどするのかという疑問が過ぎった。

 なによりお燐は火車で、人の死体を奪う妖怪。彼女が本当に火車であるなら、霊夢たちを助ける理由などないはずなのに。

 

『だって、この二人を灼熱地獄まで案内したのはあたいだもん』

 

 お燐は、言う。

 

『この二人じゃあ勝てないかもなあって、はじめから予想はしてたんだ。その上で案内した。それって、見殺しにしようとしたのと大差ないよね』

「……でも、あなたは、はじめは二人を止めようとしたわ」

 

 アリスが口を挟み、お燐は「そうだね」と短く答えて、

 

『でも結局は、案内した。それが事実だよ』

「……」

 

 アリスが閉口した。喉元まで出かかる思いはあるが、彼女はそれを上手く言葉にできないでいるようだった。

 実のところお燐と霊夢たちの間で如何なやり取りがあったのかは、月見にはただ推測するしかない。とはいえ、地底へ辿り着いた霊夢たちが偶然お燐と出会い、「異変の犯人を知っているなら教えろ」と強引に詰め寄ったのは間違いなさそうだった。それに半ば押し切られるような形になって、お燐は二人を灼熱地獄まで案内すると決めた。

 その結果として二人が負ける可能性を、充分に承知した上で。

 一方で、もしかすると、二人が勝ってくれるのではないかと期待して。

 

『でもやっぱり、二人ともおにーさんの知り合いだっていうから、なんかあったらやだなあって、どうしても吹っ切れなくて。こっそり後ろ尾けてって、戦ってるとこをずっと隠れて見てて……それで、今に至るってわけ』

 

 お燐が、緩く一息をついた。

 

『というわけで、二人は無事です。……それで本題なんだけどさ。この二人を迎えに来るついででいいから、あたいのお願い、聞いてくれないかなあ』

「ああ、わかった。……止めてほしいやつがいるんだな?」

『……うん。おにーさんも、よく知ってる(・・・・・・)妖怪。だから、おにーさんなら止められると思うんだ』

 

 たぶん、月見の予想は当たっていると思う。

 なぜお燐は、霊夢たちを灼熱地獄跡まで案内したのか。――そこに、止めてほしい異変の黒幕がいるからだ。

 その上で、月見がよく知っている妖怪なんて一人しかいない。

 灼熱地獄跡には、一体誰がいたか。月見はそれをよく知っている。灼熱地獄跡の温度調整を任されているという『彼女』が、地上の者たちに対しどんな感情を抱いているのかだって、身を以てよく知っている。

 彼女なら、異変を起こすだけの理由を持っている。そして黒幕が彼女だからこそ、お燐が(・・・)、月見に助けを求めた。

 導き出せる名など、ひとつしかないと――このとき月見は、なんの疑いを抱くこともなく確信していたのだ。

 

『お願い、おにーさん。――を、止めて』

「……は?」

 

 ――なのに、どうして。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 時をやや遡る。

 月見がまだ屋敷の外で妖精捜しをし、妖精連合の総攻撃で紅美鈴が二階級特進を果たした頃、霊夢は地底の空を見上げながら人生の意味というものについて考えていた。

 生きるとはすなわち、苦しむことだ。そう説いたのは、かの有名な仏教のひとつ、浄土宗である。

 人生はありとあらゆる苦しみで満ちている。それは例えば、死ぬ苦しみであったり、老いる苦しみであったり、病の苦しみであったり、憎み憎まれる苦しみであったりする。だから輪廻転生を繰り返しこの世を生き続ける限り、人は永遠の苦しみから逃れられない運命にある。人が救われる方法はただひとつ。死後に阿弥陀仏様の御力で救い取っていただき、来世で極楽浄土へと至ることだ――という、ある意味で人生全否定のトンデモ思想を炸裂させているのが浄土宗の教えなのである。

 極論ではあるが、的外れだとも言えない。人生は、確かに多くの苦しみで満ち満ちている。生まれた瞬間から死へのカウントダウンが始まっているし、人によってはそれが理不尽なほど速かったりする。病はおろか、ただ転んだだけでもかなりの痛みが伴うようにできている。壁に肘をぶつければ涙が出るほど痛いし、箪笥の角に足の小指をぶつければ死ぬほど痛い。食事を摂らないと餓死する上に、なにもしなくたってお腹が空くし、なにかをしたってお腹が空く。人の心は様々な欲望で満ちあふれていて、それをある程度は満足させてやらないとストレスで心身に異常を来す。本当に、人に課せられた苦しみは挙げ始めればキリがない。しかも浄土宗が興った中世はまだ人々の生活が豊かではなく、苦しみの数も重さも今とは比べ物にならなかっただろうから、人生を全否定し死後の救済に縋る者が現れたっておかしくはなかったはずなのだ。

 人生とはなにか。苦しみながら生きる意味とはなにか。高々十数年しか生きていない霊夢如きが、いくら考えたところでまさか真理を悟れるはずもない。

 もちろん、単なる現実逃避の類である。

 というか、ヤバい。頭がぼーっとしすぎて自分でもなにを考えているのかわからない。どうせ現実逃避するならもっと楽しいことを考えればいいのに、なんだ人生の意味って。なんだ浄土宗って。ウチは神社です。霊夢はぶんぶんと首を振った。

 現実に、帰ってきた。

 そこはやはり灼熱地獄で、隆起した岩肌が無数の柱となってそびえる地底の迷宮で、霊夢は溶けかけの蝋人形になりながら岩の陰に隠れていた。隣には同じような有様の魔理沙がいて、アリスの人形が、魔法で生み出した冷気の風を一生懸命に送ってきてくれていた。

 

『……二人とも、大丈夫?』

「……まあ、なんとかね」

 

 気遣わしげなアリスの声に、霊夢はにじむような苦笑を返した。本当に「なんとか」だった。頭がまだ半分ぼーっとしているし、体も随分と重苦しい。顔中が汗だらけで、巫女服が前も後ろも上も下もぐっしょりで、喉がカラカラに干上がっている。あまりにも多くの汗を掻きすぎたせいで、体中の水分が枯渇しているのだ。アリスの人形が送ってきてくれている冷気の風が、この状況では天使の施しのようにも思えた。

 完全に、甘く見ていた。

 横の魔理沙が、肩で息をしながら冗談めかして言った。

 

「……いやあ、参った参った。私ら人間って、ここまで暑さに弱かったんだな」

「……同感」

 

 人間は、高い気温の中で動き回れば汗を掻く。汗を掻けば当然、体から水分が失われる。それが限界まで近づけば眩暈や虚脱感の原因となり、やがては失神を引き起こす。

 知識としては知っていた。

 だが実際に体感する『高気温と発汗による体力の消耗』は、霊夢たちの想像よりもずっと悪辣で耐えがたいものだった。

 夏の異変だってここまでひどくはなかった。あれも暑い中での戦いではあったが、それなりに爽快な風が吹いていたし、天界は空の高いところにある世界だからか気温があまり高すぎなかった。加えて日頃の生活でも、炎天下でぶっ倒れそうになるほど動き回った経験なんて幼い霊夢と魔理沙にはまだなかった。だから、自分の限界というものを知らなかったのだ。それ故の油断だったと言わざるを得ない。

 灼熱地獄は文字通り非常に暑く、地下のほぼ密閉された空間であるため空気がこもっており、当然風は吹いていない。灼熱の空気が足から頭まで霊夢の全身を這い回り、戦いで動き回ったせいもあって、滝のような汗が片時も止まらない。

 もちろん、襟巻きと手袋なんてとっくの昔に投げ捨てている。

 正直、状況としてはかなりマズい。向こうが神の力を持っているとかそんなのはどうでもよくて、とにかく今の環境自体が霊夢の前に立ちはだかる最大の敵だった。いかに劣悪な環境かは前述の通りで、しかも、炎の結界により脱出は不可能という余計すぎるオマケまでついてきている。戦闘を始めてからまだそう時間は経っていないはずだが、今まで経験したどんな戦いよりも疲れていると感じる。

 まだ体力と精神力が尽きていないうちに、勝負を決めなければならない。

 

『――霊夢っ、来たよ!』

 

 上から天子の声が鋭く降ってくる。頭上遥か高くで周囲を警戒してくれていた陰陽玉が、敵の接近をいち早く察知した。

 

『正面右四十五度!』

 

 あの地獄鴉の気配は、バカでかすぎて逆に居場所を掴みづらいのだ。

 

「やっと、見つけたっ!」

 

 そびえる岩の柱をかいくぐって、地獄鴉の少女が霊夢たちを視界に捉えた。そしてその瞬間には右腕の木筒でこちらに照準し、熱と光のエネルギーを集約させ始めている。霊夢と魔理沙は全身に緊張を呼び戻し、向かってくる少女に真っ向から対峙する。

 アリスが送ってくれた冷気の風のお陰で、気分はだいぶ楽になった。

 

「――さて、んじゃあもうひと踏ん張りしますか」

「おー……」

 

 博麗の巫女の威信に懸けて念のため断っておくが、灼熱地獄の環境に体力と精神力を削られこそすれ、勝負自体は至って霊夢たちの優勢だ。向かってくる少女の衣服には、何発か弾幕が被弾し煤けた跡がはっきりと見て取れる。一方で霊夢と魔理沙は、汗だくであることを除けば無傷といってもいい。

 灼熱地獄そのものともいえる、強大な神の力を有しているのに。

 理由を述べよう。

 まずあの地獄鴉は、戦いに関して一切の議論の余地なくド素人だ。攻めが実に直線的かつ単純であり、戦略と呼べるものがなにひとつとして存在しない。毎回馬鹿正直に真正面から突っ込んでくるし、仕掛けてくる攻撃といえば、あの熱の光弾を馬鹿のひとつ覚えのようにぶっ放す程度でしかない。あいつは鴉だから鳥頭で、あまり複雑なことを考えられないのかもしれない。威力自体は驚異的の一言に尽きるが、決まって真正面から飛んでくるのだとわかっていれば、躱すのは妖精の弾幕よりも簡単だった。

 そして、もうひとつ。

 エネルギーを溜め終えてから砲撃に至るまで、なぜか若干のタイムラグがある。

 

「っ……」

 

 ほら、今だってまた。光弾を発射する直前に、少女がなぜか苦悶とも取れる表情を束の間だけ浮かべる。

 やはり直線で飛んできた光弾を、霊夢と魔理沙は上へ飛んで躱した。目標を外れた光弾は背後へ流れ、そこにそびえていた岩の柱を爆音とともに破壊する。灼熱地獄の天を衝くこの荘厳な形となるまで何千年と掛かっただろうに、それが一瞬で無価値な石塊(いしくれ)に成り果て、根本から呆気なく崩落していく。

 何度見ても、威力だけは驚異的だ。――威力だけは。

 霊夢と魔理沙はすぐに牽制の弾幕を放った。とにかく第一で避けるべくは、あの至極単純な砲撃すら躱せぬほどに距離を詰められてしまうことだ。逆を言えば彼我の距離さえ充分に保っておけば、向こうの攻撃は確実に躱せる。

 しかしいくら素人とはいえ、適当に弾幕を撃っていれば勝てるほど甘い相手でもない。地獄鴉が今度は左手にエネルギーを集中させ、目の前に輝く灼熱の球体を作り出した。はじめ陰陽玉と同程度の大きさしかなかったそれは、凄まじい熱を放ちながら膨張し、あっという間に少女の体を覆い隠す。

 それは言うなれば、触れるものすべてを焼き尽くす炎の障壁。少女に当たる軌道を描いていた弾幕は、すべてその球体に弾かれて消し飛んだ。球体が消えて再び姿を現した少女に、もちろん被弾した様子はまったくない。

 魔理沙が小さく舌打ちした。

 

「むう、向こうもだんだん慣れてきたっぽいな。この距離じゃあもう無理か……」

 

 彼我の距離さえ充分に保っておけば、攻撃は躱せる――それは、向こうにとってもほぼ同じことが言える。鳥頭でも当然学習能力はあるわけで、『目の前に球体を作り出して攻撃を相殺する』動きが、次第に地獄鴉の中で最適化されつつある。魔理沙の言う通り、この距離からでの有効打はもう期待できないだろう。

 だがそれはいい。元々牽制として撃った弾幕だ、足止め以上の効果は期待していない。

 霊夢は相方の名を呼んだ。

 

「魔理沙。次で勝負決めたいから、ちょっと協力して」

「……ん、なんか策でもあんのか?」

「ないんだったら言ってないわ」

 

 少女が木筒を構え、そこから光弾を連射する。霊夢と魔理沙はともに、少女の周囲を旋回する軌道で躱す。

 

「……そうか、わかったぜ。要するに、あの球体でも防げない全身全霊のフルパワーをブチ込めばいいんだな?」

「バカじゃないの?」

「なんでだよ。悪くない作戦だろ?」

 

 連射された光弾が次々と岩柱を粉砕し、灼熱地獄の景観を変貌させていく。

 

「あのねえ。使い手が素人でも相手は神様の力よ。私たちの全力でも打ち破れない可能性は考慮すべきだわ」

『もし全身全霊のフルパワーでダメだったら、あなたに戦い続けるだけの体力は残るのかしら』

 

 アリスの冷ややかな反論に、魔理沙はぐぬうと唸った。

 天子も同意する。

 

『やめた方がいいと思う。敵を倒して終わりじゃないもの。ちゃんと無事にこっちまで帰ってこないとダメだよ』

「ぬぬぬ」

 

 そう、ただ勝てばいいというものではない。戦いに勝つのは当然として、そのあと霊夢たちはこの灼熱地獄から脱出しなければならないのだ。勝負には勝ったが全身全霊を使い果たし、灼熱地獄から脱出できずに力尽きたのでは意味がない。

 大切なのは、できる限り少ない労力で勝つこと。

 そして、そのための糸口はもう見えている。

 

「あいつの土手っ腹に、ぶっ倒れない程度でマスパ撃って。あとは私がなんとかするわ」

 

 魔理沙は少しの間だけ、黙った。

 

「……いいんだな、それで?」

「ええ。思う存分サポートして頂戴」

 

 お互いまだまだ十余年を生きた程度の若い女だけれど、付き合いはもうそれなりに長いし、相手のことだってまあまあよく知っている。

 霊夢は魔理沙が、普段はどうしようもない無法者でも、本当に大事なところではしっかり空気を読む女であることを知っている。

 魔理沙は霊夢が、普段はどうしようもない面倒くさがりでも、自分の意志でやると言い切ったことはやる女だと知っている。

 だから、余計な言葉なんて要らなかった。

 

「んじゃいい。これ以上ないくらい完璧にサポートしてやるから、思いっきりかましてこい」

「はいはい」

 

 少女が光弾の連射を止めて距離を詰めようとしてきたので、霊夢と魔理沙はすぐに足止めの弾幕を放つ。それを、少女はやはりあの球体を展開して相殺する。

 

『……ねえ、霊夢』

 

 そのとき天子が、耳をそばだてなければわからないほど小さく霊夢を呼んだ。意識して口にしたというより、気づいたらこぼれ落ちてしまっていたような声だった。

 

「なに?」

『あ、えっと……その、戦いとはぜんぜん関係ないし、たぶん私の勘違いだと思うんだけど』

 

 飛んできた反撃の光弾を危なげなく躱し、霊夢はもう一度同じ言葉で問うた。

 

「なに?」

『……霊夢たちが戦っている、あの女の子って』

 

 こんなことを口にしてもいいのか――そう躊躇うような間が、少しだけあった。

 

 

『――なんだか、すごく辛そうな顔して戦ってない?』

 

 

 そんなのは、とっくの昔に霊夢だって気づいていた。

 神の力を使うとき、ほんの束の間ではあるけれど、少女の顔が決まって辛そうに歪む。それがわずかなタイムラグとなって攻撃を遅らせ、結果として『充分な距離さえ取っていれば妖精の弾幕より躱しやすい』という稚拙な攻めの原因となっている。強大な神の力は、それだけ体への負担も大きいのだ――その程度にしか考えていなかった。真実がどうであれ、生まれるタイムラグは霊夢にとって都合のいいものだったから。

 けれど、

 

『戦いたくて戦ってるようには、見えなくて……私だけ、かな』

「……」

 

 ――やっぱり、そうなのだろうか。

 一瞬だけ見えるあの辛そうな表情が、神の力による体への負担ではなく。

 望まぬ戦に身を投じる心の悲鳴を、表しているのだとしたら。

 

「ッ……もう降参して!!」

 

 砲撃を止めた少女が、耐え切れぬように叫んだ。

 

「この灼熱地獄で、お前たちに勝ち目なんてない! もう負けを認めて……っ!」

 

 気のせい、なのだろうか。無駄な抵抗はやめろ、などというありふれた降伏勧告ではなく。

 もうこれ以上、私を戦わせないでくれと。戦いたくなんてないのだと。嘆願しているように、聞こえるのは。

 少女は望んで神の力を手にし、望んでそれを振るい、望んで霊夢たちと戦っている――当然霊夢はそう思っていたし、疑いなんて露も抱いてはいなかった。

 それが今ここに来て揺らぐ。彼女はなぜ力を手にしたのか。なぜ戦っているのか。なぜそんな、張り裂けそうになる体を懸命にこらえるような顔で、負けを認めろなどと叫ぶのか。

 これではまるで、天子が起こした異変と同じではないか。

 今までの異変では、異変を起こした黒幕が問答無用で悪だった。だから、スペルカードルールに則った決闘で叩きのめしてやればそれでよかった。難しいことなんて、なにも考える必要はなかった。

 だが、今年の夏の異変は違っていた。天子は悪であり悪でなかった。望んで異変を起こしながらも、彼女は自らが犯してしまった過ちを悔い、その罪の重さに苦しんでいた。天子は決して、『倒すべき敵』ではなかったのだ。

 ひょっとすると、あの地獄鴉も同じなのではないか。

 彼女なりの経緯があって力を手にし、彼女なりの理由があって霊夢たちと戦い――けれど同時に、苦しんでいる。躊躇している。

 その経緯や理由を、霊夢に推し量れる道理などないけれど。

 

「――まあ待てって。その前に、人間様の悪あがきってやつを味わってみろよ」

 

 霊夢がなにかを言おうとする前に、魔理沙がそう啖呵を切っていた。

 

『魔理沙……』

 

 揺れる天子の声音に、振り向きもせずに返した。

 

「……まあ、私だってなんとなくわかってるよ。あいつがワケ有りらしいってことくらい」

『なら』

「だがそいつは、あくまで向こうの都合だろ。私らには私らの都合があるんだから、無理に合わせるこたぁない」

 

 そして、陰陽玉を見遣ってニッと笑った。

 

「天子、お前は月見に影響受けすぎだぜ」

『そっ、……そ、そうかな?』

「はいはいそこ照れるところじゃないわよー」

『て、照れてなんかないっ!?』

 

 嘘つけ。いかにも嬉しそうなテレテレ顔が目の前に見えるわ。

 アリスの人形が、

 

『照れてるわね』

『ち、違うってば! こ、これはその……ひ、光の屈折現象で! 目の錯覚で!』

 

 さて、おバカな天人は置いておいて。

 

「――バカ」

 

 少女の、小さな呟きが聞こえた。

 

「もう、……もう、どうなっても知らないから」

 

 なにかを断ち切るように首を振って、右腕の木筒を照準した。

 もちろん、天子の気持ちがわからないわけではないのだ。もしかすると今の自分たちは、夏の異変と同じで、やる必要のない戦いに身を投じているのかもしれない。仮にもっと、ゆっくりと互いを理解し合うような時間が前もってあれば、こんな争いなんてせずに済んでいたのかもしれない。

 だが、『今更』だ。こうして始まってしまったからには、どんな形であれ決着させなければならない。そして霊夢たちが負けるのは論外だから、やはりここは一度地獄鴉を止めるしかないのだ。

 放たれた光弾を躱し、霊夢と魔理沙はまさに阿吽の呼吸で動いた。霊夢は自分にできる限り、数に物を言わせたありったけの弾幕を展開し、魔理沙はミニ八卦炉に余すことなく魔力を注ぎ込む。豊潤な動力を得たミニ八卦炉が魔理沙の手の中で目まぐるしく回転し、魔力の光を火花のように散らす。

 合図なんて、要らない。

 

「――『マスタースパーク』ッ!!」

 

 弾幕は火力だ――そう謳う魔理沙の、代名詞ともいえるスペルカード。地獄鴉が使う神の力だって目じゃないくらいの極太レーザーが、霊夢の視界を一瞬で埋め尽くした。

 そしてそのときには、霊夢はすでに動き出していた。

 ――あの地獄鴉の少女について、ここでもうひとつ補足しておこう。

 馬鹿のひとつ覚えのように単純明快な攻撃から、少女は戦闘そのものにおいて明らかなド素人である。それは、攻めのみならず守りに関しても同じことが言える。少女はある程度密度の高い弾幕を撃たれると、いつも決まって回避ではなく迎撃を選ぶのだ。それだけ神の力に絶対な信頼を持っているのであり、一方で上手く躱せる自信がないから迎撃を選ばざるを得ないのだともいえる。

 どうあれ、霊夢の数に物を言わせた弾幕が逃げ道を塞ぎ、土手っ腹に魔理沙の強烈なマスタースパークが迫ってくるとなれば、少女に取れる選択肢はひとつしかない。

 

「……!」

 

 案の定、少女はその場に足を止めて迎撃を選んだ。目覚ましい速度でチャージを終え、目の前にあの灼熱の球体を作り出す。球体はあっという間に四倍五倍の大きさに膨れ上がり、霊夢の元まで届く凄まじい熱を放ちながら、迫り来る弾幕すべてを真正面から受け止める。魔理沙必殺のマスタースパークをも軽々相殺するその威力は、さすが神の力だと舌を巻かざるを得ない。幾度も攻防を繰り返して、少女はすでに確信していただろう――あいつらの攻撃は、これさえあればぜんぶ防げるのだと。

 それが隙だ。

 マスタースパークが、消える。

 

「……!?」

 

 いい加減、向こうも気づいたはずだ。霊夢の姿が、あるべき場所から消えていることに。

 そして自分の背後から、致命的な霊力の奔流を感じることに。

 地獄鴉が、驚愕で目を剥きながら振り返った。嘘、という顔をしていた。痛快だった。きっと、夢にも思っていなかったに違いない。

 弾幕がすべて、自分を足止めするためのただの囮だったことも。

 マスタースパークの死角に隠れて、霊夢が背後まで回り込んでくることも。

 霊夢の策は完璧にハマった。あの球体を出す暇は与えないし、この距離なら回避もさせない。そうでなくとも戦闘慣れしていない地獄鴉の少女は、予想外の事態に思考が凍って、振り向いたきり指一本も動かせないでいるようだった。

 あとは、霊夢が『夢想封印』を撃てばそれで終わる。そのための準備はすでに終わっている。

 だから霊夢は、素直に撃った。

 

「これで、終わりよ!!」

「っ……!!」

 

 そう。

 終わる、はずだったのだ。

 

 

「――そうだね」

 

 

 魔理沙でも、天子でも、アリスでも、霊夢自身でも、目の前の地獄鴉でもない。

 知らない声が、聞こえた。

 

「終わりだよ、ニンゲンのお姉ちゃん」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 完璧なタイミングだったはずなのだ。

 魔理沙渾身のマスタースパークと、霊夢の数に物を言わせた弾幕を囮にし、地獄鴉がそれらを頑張って防御している隙に背後へ回り込む――詰まるところ霊夢がやってのけたのはそういうことで、人からよく無鉄砲だと言われる魔理沙も今回ばかりはさすがに呆れた。一発もらったら終わりという桁外れの攻撃力を持つ敵に対して、自分から接近して背後を取りに行くなんて、頭の神経がイカれているとしか思えなかった。

 そして同時に、そんなイカれた作戦を完璧に成功させてしまう相棒を礼賛もした。彼女が勇ましく「これで終わりだ」と宣言したとき、魔理沙もまたこれで終わりだと確信していたのだ。

 そうなるはずだった。そうなるべきだった。

 なのに。

 なのに。

 どうして、

 

「――霊夢ううううううううぅぅぅぅぅ!!」

 

 どうして、墜ちているのが霊夢の方なのだ。

 霊夢の体が灼熱地獄に向けて落下を始めた瞬間、魔理沙の全感覚から、霊夢以外の一切の情報が消失した。この瞬間の魔理沙は、射命丸文すらも寄せつけない一筋の流星と化していた。(おびただ)しい魔力の雲を引きながら灼熱の大気を切り裂き、落下してきた霊夢の体を炎に呑まれるギリギリのところで受け止めた。

 もちろん、受け止めきれず落とすようなヘマだけはしなかった。けれど同年代の少女の体は魔理沙が思っていたよりもずっと重く、受け止めた瞬間ほうきの高度がガクンと落下し、灼熱地獄の燃え盛る炎で脚を焼かれた。

 

「っ゛……!」

 

 魔理沙の脚を、刃物で裂かれたような耐えがたい激痛が襲う。炎に直接体を焼かれると、感じるのは『熱い』ではなく『痛い』なのだと、魔理沙はこのときになってはじめて思い知った。

 気力と根性と意地ですべてを捻じ伏せた。

 

「――づあああっ!!」

 

 魔力を爆発させ、魔理沙は強引に上へと飛翔した。なんの意味もないかもしれないが、せめて少しでも身を守る思いで岩柱の陰に隠れた。幸い脚を焼かれた時間はごくわずかだったので、ブーツやスカートに炎が燃え移った様子はない。ただし、脚はひと目ではっきりとわかるほど赤くなっている。

 どうでもいい。どうせ死にはしない。

 それよりも。

 

「おい! おいっ、霊夢!!」

「っ……」

 

 抱きかかえた霊夢の耳元で叫ぶと、かすかながら反応が返ってきた。霊夢が苦悶に身をよじり、ほんのうっすらとまぶたを上げた。

 

『霊夢、大じょ――ひゃっ』

『霊夢!! 霊夢、しっかりして!?』

 

 肩の人形から一瞬アリスの声が聞こえたかと思うと、それを押しのけて悲鳴にも近い天子の叫びに耳朶を打たれた。そこで魔理沙はようやく、霊夢の傍らにあったはずの陰陽玉が消えていることに気づいた。

 ひょっとすると、術者である霊夢が攻撃を受けた影響で制御を失い、灼熱地獄に落ちてしまったのかもしれない。

 霊夢が消え入る寸前の声で呻いた。

 

「……天子、ありがとうね。あんた、ギリギリで結界張ってくれたでしょ? そうじゃなかったら、完全にやられちゃってたわ」

『そんなのどうだっていいからっ!! 誰!? 誰にやられたの!?』

「……お、おい、ちょっと待てよ」

 

 魔理沙は思わず口を挟んだ。だって、自分はしかとこの目で見ていたのだから。あれは完全に霊夢と地獄鴉の少女の一騎打ちで、不意を衝かれた少女は指一本動かせないでいたはずなのだ。この戦場に、あの少女以外の敵はいない。ならばあのタイミングで霊夢を攻撃できた敵なんて、誰もいなかったはずではないのか。

 だが、霊夢は言う。

 

「もう一人、いたのよ……あのとき私が見たのは、あいつだったんだわ。あいつ、ずっと傍で(・・・・・)、私たちのこと見てたんだ……」

「な、なに言ってんだよ、霊夢」

 

 意味が、わからなかった。

 霊夢の言葉を鵜呑みにするなら、はじめから敵は二人いたということになる。だがそんなわけはないのだ。最初から今までずっと、この灼熱地獄にいるのは魔理沙と霊夢と、あの地獄鴉の三人だけだったはずなのだ。

 

「天子、アリス、なにかわかるか?」

『わからない……! 霊夢、なにを見たの……!? なにがあったの……!?』

 

 天子の声音が悲痛と困惑で掠れている。アリスからの返事はなかったが、この状況でなにも言わないならば、その理由は推して知るべしだろう。

 

「気を、つけて。魔理沙」

 

 霊夢の指が、魔理沙の袖を掴んだ。ロクに開けることもできない瞳で魔理沙を見据え、懸命に言葉を紡ごうとした。

 

「あいつは。あいつの、力は」

「――無意識を操る程度の能力、っていうんだよ」

 

 魔理沙の心臓が、凍りついた。

 知らない少女が、目の前にいた。

 

「――は、」

 

 だれだこいつ、とそんな呑気なことを考えた。キャペリンとも呼ばれる鍔の広い深緑の帽子を被り、不自然なほど鮮やかな翡翠色の髪を揺らして、ニコニコと楽しそうに笑いながら魔理沙を見

 

『――魔理沙ッ!!』

 

 天子から人形を取り戻したアリスが、誰よりも早く反応した。

 そうでなければ、手遅れだったはずだ。

 アリスの人形が障壁を展開するのと、少女が弾幕を放ったのは完全に同時だった。障壁と弾幕が激突し、衝撃の余波で魔理沙の体勢が崩れる。いつもなら軽々と修正しているはずのわずかなズレが、霊夢を抱えたこの状況では命取りにも近かった。

 

「くっ……そおおお!!」

 

 ここまで全身の筋肉を総動員した日は未だかつてあるまい。体を鍛えるようなことは特になにもしていない魔理沙だけれど、『火事場の馬鹿力』というのはしっかり眠っていたようで、気がつけばどうにかこうにかバランスを立て直していた。

 しかし、同時に思い知る。ダメだ。人一人を抱えたこの状態ではまるで動けない。今はアリスが機転を利かせて防いでくれたが、次に弾幕を撃たれたら躱せない。

 思考が白熱する。

 マズい。

 マズすぎる。

 なにがなんだかさっぱりわからないが、霊夢がやられて、敵はもう一人いた。これが事実だ。間違いない。灼熱地獄の熱に浮かされて見た悪夢であればよいと願うが、まさかこのじくじくとした脚の痛みは嘘ではあるまい。

 とにかく、距離を取らなければ。

 

「うわわっ、びっくりしたー」

 

 まさか防御されるとは思っていなかった少女が、驚いて後ろに退がっている。霊夢が足枷となって自分から距離を取ることはできない。なら向こうに退いてもらうしかない。迷っている暇はない。このままなにもしなければ確実に負ける。負けたら終わる。

 弾幕。

 弾幕を。

 

 

「――こいし様に、手を出すなあああああっ!!」

 

 

 失念していた。

 声につられて魔理沙が上を見たとき、飛び込んできたのは、自分に照準を定め終えた地獄鴉の姿で。

 

「――あ」

 

 光。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 直撃を確認するなり、空はすぐさまこいしを抱えて後方に飛んだ。

 

「こいし様っ、なんで出てきた(・・・・)んですか!? 危ないじゃないですか!?」

 

 腕の中のこいしは頬を膨らませて反論する。

 

「あー、ひどいんだおくう。私が出てこなきゃ、おくう、今度こそやられちゃってたよ?」

「それは……そうですけどっ……」

 

 返す言葉もない。あのときこいしが能力を解いて(・・・・・・)出てきてくれていなければ、墜とされていたのは博麗の巫女ではなく自分だった。まんまと背後を取られ、なにもできないままやられそうになっていたのは素直に認める。

 だが、

 

「とにかく危険すぎます! あとは私がやりますから、下がっていてください!」

 

 こいしにこんなことをさせるために、空は力を手にしたのではない。

 

「それはいいんだけど……」

 

 しかしこいしはいまひとつ納得せず、至って純粋な目つきで空を見返した。

 

「ねえおくう、どこか調子悪いの? あんな人間、ほんとだったらすぐ倒せてたはずだよね?」

「っ……」

 

 ギクリ、とした。

 同時に思う。彼女が心を読む能力を捨てていて、本当によかった。

 

「まだ、能力、上手く使いこなせない?」

「……はい。まだ、少し」

 

 上手く笑えたはずだ。

 

「んー、そっかあ。なら仕方ないね」

「すみません。でも、あとは私一人で本当に大丈夫です。あの人間も、きっと今ので――」

 

 そのとき感じた『それ』を、空は的確な言葉で言い表すことができなかった。

 あとになって考えれば、所謂『殺気』というやつだったのだと思う。けれど妖怪の中でも割と平和な毎日を送ってきたと思われる空が、誰かから殺気を浴びせられたのなんてもちろん生まれてはじめてで、気がつけば全身が強張って身動きひとつできなくなっていた。

 わかったのはただ、自分に向けられるこの感情が、とてつもなく恐ろしいものであるということだけ。

 

「っ……!? おくう、後ろ!!」

 

 まだ、振り向けない。

 声が、聞こえた。

 

「――クソったれが」

 

 振り向いた。

 

 

 

 

 

 アリスの人形が身を挺して守ってくれた。魔理沙の代わりに地獄鴉の砲撃を受け止め、布切れのひとつも残さず燃え尽きてしまった。そうでなければ、今頃やられていたのは魔理沙と霊夢の方だった。

 アリスの人形はもういない。霊夢も完全に気を失ってしまったようで、魔理沙が抱くその体にまるで力が巡っていない。術者の霊夢がこうである以上は、制御から手放された陰陽玉が灼熱地獄に落ちたのも間違いないだろう。

 遂に、ひとりぼっちになってしまった。

 もはや歯車は、修復不可能なほどまで破壊されてしまっていた。もう、どう考えたって魔理沙に残された勝ち目はない。霊夢を抱きかかえたこの状態では機動力を大きく削がれるため、敵の攻撃を躱すことができない。かといって自分に張れる障壁程度では、強力すぎる神の力を防ぎきることもできない。加えて突如として現れたあの緑髪の少女は、どうやら姿を消す類の能力を持っていて、いつどこから襲いかかってくるかわからないときた。

 勝てるわけがない。

 

 ――今この瞬間を、除いては。

 

 魔理沙は、全身全霊、ありったけの魔力をミニ八卦炉に注ぎ込んだ。ミニ八卦炉が気でも狂ったような速度で回転を始め、異音を上げながら激しく火花を撒き散らす。このまま魔法を放てば、恐らくその瞬間にミニ八卦炉は負荷限界を超えて大破するだろう。

 製作者の霖之助曰く『山ひとつを焼き払える』という八卦炉の異様すぎる最大火力を、本当に使ってみた試しは実のところ一度もなかった。これが正真正銘のはじめてだ。どうなってしまうのかは、魔理沙本人にもまるで想像がつかない。

 構いやしない。今やらなければどの道同じだ。

 今ここで、敵をすべて薙ぎ払う。

 それができなければ、負ける。負ければ、終わる。

 もう、敵を倒したあとのことなんて考えない。

 いくら未来を心配したところで、『今』を乗り越えられなければなんの意味もないのだから。

 

「―― ファイナル 、」

 

 それは霧雨魔理沙という少女にできる、最大最強のスペルの宣言。

 今の自分に残された、切り札。

 

「 マスター 、」

 

 魔力を注ぎ込む中で苦笑し、先に謝っておいた。

 ――悪いな香霖。せっかく作ってくれた八卦炉、ぶっ壊しちまった。

 撃った。

 

「 ―― スパーク ッ!!」

 

 

 

 

 

 空の視界が、ただ一色の白で染まった。

 

「……!?」

 

 一体なにが起こったのか、空が瞬間的に理解できたのは奇跡に近い。それは視界を容赦なく埋め尽くす馬鹿デカい砲撃であり、回避という選択肢を根こそぎ奪い去る、人のレベルを超越した魔力の激流だった。

 生きた心地がしなかった。

 だってここには、こいし様が。

 

「くっ……!」

 

 考えている暇もなかった。こいしを背後へ突き飛ばし、今の自分にできる限界の速度でチャージ、ロクに照準もせずすぐさま迎撃を放つ。

 おくうの視界が、また別の光で隅々まで埋め尽くされる。

 激突した人の光と神の光は、一瞬の間拮抗した。

 一瞬だけだ。

 次の瞬間に押し込まれ始めたのは、神の光の方だった。

 

「そ、そんな……!?」

 

 目を疑った。ありえない。いくら満足にチャージを行う時間もなかったとはいえ、神の力がこうも安々と凌駕されるなんて。懸命に出力を上げ押し返そうとするも、迫り来る人の光はわずかにもその歩みを緩めはしない。

 神の力をも超える、人の領域を踏み外した一撃。

 直感した。――このままでは、自分も、こいし様も。

 

「おくう!! おくう、頑張って!!」

 

 せめてこの隙にこいしだけでも逃げてくれればと思ったが、最悪なことに、焦った彼女は空の腰にしがみついて応援することを選んでしまった。

 これで晴れて、目の前の砲撃をどんな手を使ってでも打ち破らねばならなくなった。

 

「っ……!!」

 

 だがどれほど空が出力を上げても、上げた分だけ人の光もその勢いを増し、一歩一歩と確実に距離を詰めてくる。信じられない。こんなの人が撃っていい攻撃ではない。まさかあの魔法使い、仲間をやられた怒りで我を忘れ、悪魔に魂を売り渡しでもしたのではないか。そうでもなければ説明がつかなかった。

 

「こいし様っ、逃げてください!!」

「やだ!! 諦めちゃダメ、おくう!!」

 

 本当に、古明地こいしという少女は優しい。そしてその優しさが、歯を砕くほどの焦燥となって空の全身を呑み込んでいく。

 どうすれば。

 どうすればこいし様を守れる。自分はどうなったって構わない。今ここでこいし様を守れるなら死んだっていい。焦燥の熱を燃料にして思考を白熱させる。押し返せるだけの力はもはやなく、回避できるだけの時間ももはやない。せめて我が身をこいしの盾にすることはできるが、そんなものに意味などなく、あの砲撃はきっとすべてを等しく呑み込んで破壊し尽くすだろう。

 光が、もう目の前まで迫ってきている。

 やられる。

 どうすれば、どうすれば、

 どうすれば、

 

 

 ――そのでっかい木筒は、『制御棒』っていってね。

 

 

 思い、出した。

 

 ――まあ簡単にいえば、力が暴走しないようにセーブしてくれるやつさ。

 

 空の右腕にはめられている、この大きくて邪魔ったらしい六角形の木筒。

 

 ――それを付けてれば、あんたでも制御できる程度の出力しか出せなくなる。

 

 これが、今の空の力を抑え込んでいる。

 

 ――力を使うときは、忘れずに付けるようにしてね。

 

 これを、外せば。

 

 ――いい、必ずだよ。ちゃんと頭の中に叩き込んでね。

 

 外、せば。

 

 

 ――じゃないと上手く力を制御できなくて、最悪は暴走しちゃうからね。

 

 

 そんなの、知るものか。

 守りたい人を、守ることもできないような神の力なんて。

 空は、要らない。

 

 

 

 

 

 神の気配が、膨れ上がった。

 あと、少しだった。

 本当に、あと少しだったのだ。

 這い上がるべき頂に、指先をかけていたくらいの。

 

「――あああああああああああああああぁぁぁぁぁっ!!」

 

 だが天を轟かす少女の絶叫とともに、魔理沙は残された希望が完膚なきまでに打ち砕かれたのを知った。

 今までがただのお遊びだったと思えるほどの、あまりに濃密で残酷な力の波濤。魔理沙が死に物狂いで伸ばした指先は何物にも届くことなく、呆気なく虚空へ弾き飛ばされた。

 ミニ八卦炉に亀裂が走り、黒い煙を噴き上げ、それっきり沈黙した。

 それはミニ八卦炉の限界であると同時に、霧雨魔理沙という少女の限界でもあった。

 ファイナルマスタースパークが、消える。

 

「――――……」

 

 すべての魔力が、体力が、精神力が、一滴の雫も残さず枯渇した。

 傾いた体を立て直すのはおろか、目を開け続けていることもできなかった。

 天地が、逆転する。体が重力に支配される。

 そんな、あまりにもわかりやすい、終わりだった。

 神の砲撃に呑まれるのか、灼熱地獄の業火に呑まれるのか――それとも、両方か。

 

「――ちく 、 しょう」

 

 炎に、落ちゆく。

 薄れ行く意識の中で魔理沙が最後にできたことといえば、せめて霊夢の体だけは離さぬように、指先にわずかな力を込めるだけだった。

 

 意識が消えるその間際に、チリン、と小さな鈴の音と。

 猫の鳴き声を、聞いた気がした。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 邪魔者が消えてなくなった灼熱地獄で、こいしは空に手を伸ばす。

 

「……じゃ、行こっか。おくう」

 

 眼下で燃え盛る炎の光に照らされて、こいしの相貌は赤く艶めいて見える。

 だから、空は安心した。これなら自分の、きっと生気を失って真っ白になっているであろう顔色が、こいしに知られる心配もない。

 震える指先を、震えなくなるまで、握り締めて。

 

「――はい、こいし様」

 

 でも、きっと、今度こそ上手く笑えたと思う。

 こいしが――大好きな家族がこうやって、自分の方を見て、手を差し伸べてくれることこそが。

 今の空にとって、これ以上などない幸せなのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『お願い、おにーさん。――こいし様を、止めて』

「……は?」

 

 どうして。

 どうして、あの子の名が。

 

 強烈な忌避感とともに脳が理解を拒否する。咄嗟に待てと声をあげることもできない。だからお燐の言葉は途切れずに続く。

 

『こいし様を、止めて――』

 

 誰しもが、固唾を飲んで月見を見つめる先で。

 

 

『――おくうを、助けて』

 

 

 月見はただ、心の臓まで凍りつくことしかできなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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