銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色

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東方地霊殿 ⑦ 「霊知の太陽」

 

 

 

 

 

「――ねえ、ちょっといいかい?」

 

 その神から声を掛けられたとき、古明地こいしはちょうど地霊殿へ戻る道すがらにいた。

 例によって、無意識のうちにあちこちを歩き回ってしまった帰り道だった。今回は旧都を遠く離れ、現在の地獄が置かれる場所の近くにまで行ってしまった。寸前で正気づくことができて本当によかったと思う。あそこには三度の飯よりお説教が好きな傍迷惑な閻魔様がいるし、己の能力に意識を乗っ取られ迷い込んだこいしの存在を知れば、自分の出番だとばかりに千言万語のお説法を説くのだろう。

 

 この、『無意識を操る程度の能力』と付き合うようになってから随分と経つ。第三の目を閉じ、覚妖怪としての読心を捨てた代わりに目覚めた力。随分と哲学的な名前をしたこれが果たしてどんな能力かといえば、主に相手の無意識の領域に入り込み、自分の存在を意識させないようにすることができる。つまりは誰にも気づかれることなく月見のところまで遊びに行ったり、面倒があったときにこっそりとバックレたりできるのだ。とても便利な能力である――ただしその副作用として、時折自分自身が無意識に支配され、知らぬ間に知らぬところを徘徊したりしてしまうのだけれど。

 他人の無意識を掌握する代わりに、自分が無意識に掌握される。これで無意識を『操る』というのもちゃんちゃらおかしな話だと思う。ふと気づいたら目の前の景色がまったく違う場所に変わっている、というのは非常に面倒だし、あの正気づいた瞬間に背筋を襲う、体温がぐっと冷え込むような一瞬の恐怖は、何度経験したところで一向に慣れることはない。

 だがそれに鑑みても、こいしはこの能力が嫌いではなかった。一人の覚妖怪として、望みもせず人の心を読み続ける生活を送るよりかはずっと気楽だったからだ。心、とは、醜いものだ。人畜無害で仏みたいな顔をしたヤツが、心の底では口にするのも反吐が出るようなことを平気で考えている。世の中には知らないでいた方がよいこともある。知らないでいれば、幸せでいられる。事実、不愉快極まりない雑音から解放されたこいしの毎日は、それなりに楽しかったし、充実もしていた。

 ただの建前だ。もちろん嘘ではないけれど、本当の理由はもっと別のところにある。

 自分がこの『無意識を操る程度の能力』を満更でもないと思っているのは、ただ嫌いだったからだ。人の心を読むという、なんのためにあるのかもわからないあの力を切って捨てることさえできれば、代わりに目覚める能力などなんでもよかった。人が覚妖怪の力を忌み嫌うように、覚妖怪であるこいし自身もまた、心を読める己の力を忌み嫌っていた。

 だから、捨てた。

 姉を――古明地さとりを、苦しめ、泣かせる、力なんて。

 こいしは、要らない。

 

 ただ。

 嫌いだとか要らないとか言い切っておいてなんだが、悔しいことに、生きているとふとあの能力を恋しく思ってしまうときがあるのだ。

 特にこういう、見知らぬ相手からいきなり声を掛けられたときなんかは。

 

「……なに?」

 

 心を読む能力があれば、この少女がなんの目的で自分に声を掛けてきたのか一発でわかるのに。今のこいしにわかることをいえば精々、少女が人でも妖怪でも悪霊の類でもなく、どうやら地上の神様らしいというくらいだった。

 だからといって、あの力を取り戻したいとは死んでも思わないけれど。

 

「いや、ちょっと尋ねたいことがあってね」

 

 特別旧都に近いわけでもない、岩と瘴気と枯れた木ばかりの地底くんだりに、神様張本人がわざわざ出向いて。

 変なの。

 

「なに?」

 

 その直感通りに変なやつだったら、能力を使ってさっさと逃げよう。そう思う。そう思って少女の言葉を待つ。

 

「なあに、大したことじゃないよ。ねえあんた――」

 

 そして少女は魔女のような、神らしからぬ顔で笑った。

 

「――ちょいと神様の力に、興味あったりしない?」

「……?」

 

 ――神様の、力?

 今のこいしの心は、覚妖怪でなくたって容易に読めたはずだ。

 

「ちょっと、幻想郷に新技術でも起こしてみようと思って。ほら、ここに灼熱地獄の跡地があるでしょ? そこを利用してみたいんだよね」

 

 話を聞かされてみれば。

 この神様は幻想郷の技術水準が外の世界よりずっと遅れているのを気にしており、ここいらでひとつ、新しい技術を取り込んでみようと企てているらしい。サンギョウカクメイだのカクユウゴウだの、難しい言葉が多くてこいしにはよくわからなかったけれど、要は灼熱地獄の熱をエネルギーとして使いたがっているようだった。

 しかしここの灼熱地獄は今はもう使われていない――実際、精々が地霊殿の床暖房として役立つ程度でしかない――ので、まずはかつての猛々しい姿を取り戻してもらう必要がある。

 そこで登場するのが、神様の力とやらだった。

 

「力は私が与えてあげるから、それを使って灼熱地獄を活性化させてほしいんだけど……ちょいと候補者選びに苦労しててね。ほら、地上と地底って不干渉の決まりだから、旧都で大っぴらに訊くわけにもいかなくてさ。それであんたに声を掛けたってわけ」

 

 つまりは、誰かいい人知らない? という話のようだった。

 そんなこと言われても、とこいしは思う。姉と違って地霊殿の外も活発に動き回って――無意識に彷徨い歩いて――いるこいしだけれど、知り合いはこれといって多くない。聖輦船の妖怪たちと多少面識がある程度で、旧都の連中なんて知ったこっちゃない。悪いが少女の期待には応えられそうもないので、素直にそう口にしようとして、

 

「――地獄鴉ってのがここいらにいるでしょ? そいつらがいいかなあと思ってるんだけど」

 

 危うく表情を変えるところだった。

 

「でもただの地獄鴉じゃダメ。利口で、一番力のあるやつがいいね。あと、神の存在を余すことなく受け入れてくれる純粋な心も必要だ」

 

 脳裏に『彼女』の姿が浮かぶ。ちょっと鳥頭でドジなところもあるけれど、人の言葉を話せる分だけそんじょそこらの鴉よりずっと頭がいい。人型をとることができるので、地獄鴉の中では割かし力が強い。絵に描いたように純粋な性格をしているので、神様の存在もころっと受け入れてしまいそうだ。

 

「あ、そうそう。結構強力で危険な(・・・・・・・・)能力だから、使いこなせるように努力してくれるやつだとなおいいかな」

「……」

 

 ――覚妖怪が、なぜお世辞にも明るくない歴史を歩んできたかといえば。

 結局のところは、弱かったからだ。心を読む以外に、なにも特別なものを持たない種族だったからだ。どうせ大した仕返しもできぬだろうからと一部の連中が軽んじ、弱いくせに生意気だと声をあげる。するとその感情は周囲の妖怪にまで伝播し、具体的な行動はせずともそれとなくこいしたちを避けるようになる。

 みんなが嫌っているやつと仲良くするのは、恰好悪いことだから。

 そしてこいしたちは、それを受け入れるしかなかった。歯向かうだけの力なんてなかったから。

 例えば覚妖怪に鬼と肩を並べる腕っ節の強さがあったなら、未来は大なり小なり変わっていたはずだ。少なくとも、今より悪くなっていたとは思えない。ただ心を読むだけの妖怪ではないと認めさせ、こいつを侮ると痛い目を見るのだと思い知らせ、たとえ畏怖という形であろうとも、妖怪の中に居場所を得ることができていたと思う。

 弱かった、から。

 こいしとさとりが地底に移り住んで、まだ間もなかった頃の話だ。ある日さとりが、泣きながら家に帰ってきたことがあった。転んでひざを擦りむいたとか、お気に入りの服に水溜まりの泥がはねたとか、そんな陳腐な話では断じてない。なにがあったのかはついぞ教えてもらえなかったが、あれは冗談では済まないひどいことをされた者が、本気で流す悲しみの涙だった。

 それを見たこいしは心の底から失望したものだ。――ああ、結局こいつらも同じなのかと。共に地底へ行こうと善人面して手を差し伸べておいて、結局やることは地上の頃と変わらないのかと。

 それっきりさとりは、牢で囚われる罪人が如く地霊殿に引きこもって暮らすようになった。彼女が最後に外へ出たのがいつだったかは、もうこいしもはっきりとは思い出せなくなってしまっている。

 だからこいしは、唯一さとりを笑顔にしてくれる藤千代を除いて、旧都の妖怪たちがみんな嫌いだ。手を差し伸べておきながら、さとりを泣かせた。嘘をついた。やつらを嫌うこれ以上の理由なんてありはしない。

 弱かった、から。

 はじめは、出来心みたいなものだったのだ。別に仕返しや復讐などというつもりはなく、単純に力そのものへの好奇心だった。

 強くなったら一体どうなるのか、興味が疼いた。弱くて困ることはたくさんあるし、できないことだってたくさんある。でも強くて困ることはきっとあんまりないし、できないことだって、弱い場合よりかは確実に少なくなる。

 だから、力を与えてやると、この神様が言うのなら。

 それは、素直に受け取ってしまってもいいんじゃないかしら。だって、神様が声を掛けてくれるなんて、きっと運命に違いないから。

 力があれば、今よりいろんなことができるようになる。自分たちはもう弱くないのだと力を示せる。お姉ちゃんをいじめるとあとが怖いんだぞと旧都のやつらに思い知らせてやるのだって、もはや単なる夢物語ではなくなるのだ。

 なにも求めず、今までと変わらない生活を続けていくのか。

 それとも力を受け入れて、新しい世界へ足を踏み出してみるのか。

 その二者択一なら、こいしは。

 

「――それだったら、心当たりあるよ」

「おっ、ほんとに?」

 

 力が、あれば。

 

「うん。ウチで飼ってるペットなんだけどね――」

 

 ――私たちにも、お姉ちゃんの、力になってあげられるかもしれない。

 

 本当に、ただ、それだけだったのだ。

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 強くなって損なんかしないよ。

 お姉ちゃんを守ったり、助けたり、きっといろんなことができるようになるよ。

 こいしがそう言うだけで、おくうは二つ返事だった。さとり様とこいし様のためならと笑顔で答え、なんの躊躇もなく神様の力を呑み込んでくれた。

 もちろん、はじめはなかなか思うように行かなかった。強大すぎる神様の力をおくうはなかなか上手く扱えず、まずは灼熱地獄跡で特訓するところから始まった。あとでさとりをびっくりさせたかったので、旧都を離れ、灼熱地獄の端の端で。おくうは地霊殿に戻りもしないで不断の努力を重ねたし、こいしも着替えや食べ物を運んだりしてできる限り応援した。このときばかりは、月見の名前なんて綺麗さっぱり忘れていた。毎日毎日、おくうのことばかりを考えていた。

 そして遂におくうは、鬼だって目じゃないほどの強大な力を手にしたのだ。

 その力をはじめておくうから見せてもらったとき、予想を遥かに超える凄まじさにこいしははしゃぎながら喜んだ。おくうが強くなったのが嬉しかった。この力があればきっとたくさんのすごいことができると、そう考えると夢のようだった。

 

 ぜんぶが上手く行くと思っていたのだ――地上から、博麗の巫女がやってくるまでは。

 

 その日、いつものようにおくうのところで食べ物のリクエストを聞いていると、灼熱地獄に誰か二つの気配が入ってくるのを感じた。さとりでもお燐でも、地霊殿のペットたちでもなかった。なのでこいしは念のために能力を使って隠れ、おくうが様子を見に行くことになった。

 そう。

 おくうが巫女たちと出会ったそのはじめから、こいしはずっと傍で見ていた(・・・・・・・・・)のだ。

 こいしが一番、大嫌いな、人間。

 お姉ちゃんを退治しようとした、博麗の巫女を。

 無論あれはもう何百年と昔の話なのだから、当時の巫女はもう生きてなどいまい。だが当代の巫女である霊夢という少女は、こいしの記憶に潜む巫女と憎たらしいほどによく似ていた。もう少し年を取って髪を短くすれば、瓜二つどころの話ではないように思えた。まさかあいつが、不死の外術に手を出して今までずっと生き永らえていたのかと、そんな荒唐無稽な想像までもが頭を過ぎったくらいだった。

 

 だから、こう言ってやったのだ。

 おくう。こいつ、昔お姉ちゃんを退治しようとしたやつと一緒だよ。

 だから――やっちゃえ。

 もちろんおくうは、物にしたばかりの神様の力で応えてくれた。

 

 おくうが灼熱の結界を張って人間二人を閉じ込めたとき、巫女に気づかれかけたのにはひやりとさせられた。ほんの一瞬だったので、向こうは気のせいだと思ったようだったけれど。容姿のみならず、勘が鋭いところまで本当にあの巫女そっくりだった。

 人間とは思えないくらいに、強いところまでも。

 おくうがやられそうになったその瞬間、かつて巫女に退治されかけた姉の姿が重なって、こいしは無意識の塊となって飛び出していた。確かに巫女は強いが、それでも人間は人間であり、そうである以上肉体は脆い。気づかれさえしなければ、こいしでも意識を奪う程度は造作もなかった。

 そのあと魔法使いに予想外の悪足掻きをされたけれど、それもおくうが力尽くで捻じ伏せた。

 こいしたちは、勝ったのだ。――ほら、やっぱり、私たちはもう弱くなんてない。

 かくして、今に至る。

 

「……」

 

 すべてが掃討されていた。おくうが砲撃を放った直線状に、原型を留めているものはなにひとつ存在していなかった。森のように乱立していた岩の柱が根こそぎ掃討され、端の結界すらをもぶち抜いて、どこまでも続く見晴らしのよい一直線を作り出していた。一体どこまで飛んでいったのだろう。もしかすると灼熱地獄の一番端まで届いて、そこに新しい洞穴をこじ開けたりしたのかもしれない。

 ふう、と小さなため息が出た。

 ようやく、邪魔者が消えた。

 

「おくう」

 

 こいしはおくうの名を呼んだ。今や大妖怪にも比肩する力を得た最強の地獄鴉は、振り向くと殊の外怯えた表情をしていた。怒られる、と思ったのかもしれない。確かにやりすぎではあった。ここまで劇的に景色を変える一撃だったのだ、人間など影も残るまい。

 別に、ここまでやるつもりなんてなかった。

 だが仕方がなかった。魔法使いが最後に見せた悪足掻きは当たればこっちだって無事では済まなかったから、やり返したおくうはなにも悪くない。

 だから、こう言っておく。

 

「ありがとう、守ってくれて」

「……」

 

 迷いを振り払おうと苦心するような沈黙があった。おくうは一度深く目を伏せ、呼吸して、ほどなくしてあげた。

 もう、怯えてはいなかった。

 

「――はい」

「うん。……ところでおくう、右手のあれって捨てても大丈夫だったの?」

 

 魔法使いを倒すために、おくうは右腕にはめていた木筒を投げ捨てた。灼熱地獄に落下し、恐らくもう燃え尽きてしまっただろう。あれは確か、神様の力が暴走しないよう抑えるストッパーの役割を果たしていたはずだが、おくうはなんともなさそうにケロリとしている。

 おくうは頷く。

 

「はい。特に問題ないです」

「ふーん……」

 

 ということは、あの注連縄の神様が言っていたのはただの嘘だったのだろうか。百パーセントの力を発揮されてしまうと万一牙を剥かれた場合に面倒だから、「暴走するぞ」と釘を刺して予防線を張ったのかもしれない。まったく余計な真似をする。そのせいでこっちは、危うく魔法使いにやられかけたのだから。

 

「まあいいや。とりあえず、外に出よ」

 

 頷いたおくうが、広がっていた灼熱の結界を消した。

 まずは、旧都へ。地霊殿に戻って、おくうがこんなに強くなったんだとお姉ちゃんに教えよう。この力があればいろんなことができる。いじめられたってやり返せる。また一緒に、昔みたいに、外を歩いたりだってできるんだと。

 おくうが崩落させてしまってできた大穴から、地底へと出る。

 

「ぷはっ。あー、あっつかったー」

 

 こいしは妖怪ではあるけれど、おくうと違ってそれほど熱さに強い体ではない。おくうの前では主人風を吹かせてやせ我慢していたけれど、本当は結構キツかったのだ。すぐに灼熱地獄の熱気が届かない岩陰に隠れて、ハンカチでびっしり浮かんでいた汗を拭った。冬の冷たい空気は、すっかり火照った体には爽快なほど心地よかった。

 

「ごめんなさいこいし様、私のために……」

「もー、そうやってすぐ謝らないのっ。いいんだよ、私がやりたくてやってたんだから」

 

 顔はいくらかさっぱりしたが、やはり服の下もそこそこ汗を掻いていて気持ち悪い。おくうのことをお姉ちゃんに教えたらシャワーだな、と思った。

 

「お待たせ。じゃ、行こっか」

 

 そしておくうの手を、取ろうとした。

 

「っ、く……!?」

 

 それより、ほんの少しだけ早く。

 こいしが取ろうとした手で胸を押さえて、おくうが苦悶に身をよじった。

 

「……おくう?」

 

 肩で息をしている。

 

「おくう!? どうしたの、大丈夫!?」

「っ……は、はい」

 

 どう見ても大丈夫ではなかった。こいしが覗き込む先でみるみる玉の汗が浮かび、呼吸がどんどん荒くなっていく。触れずともわかるほどに体温が上がっている。迂闊に触ったら火傷をしてしまうのではないかと躊躇って、咄嗟におくうを支えることもできなかった。

 

「まさか、暴走……!?」

「違いっ、ます!」

 

 おくうが強く首を振った。途切れ途切れになりながらも言う、

 

「だ、大丈夫、です。思いっきり、力を、使ったから。体に熱、が、溜まってるんです。今、までも、何回かありました」

「そう……なの?」

「は、い。だから、少し、発散すれば。すぐ治ります」

 

 おくうが、こいしの反対方向に向けて腕を振った。神様の力と熱を凝縮した光の波動。炸裂し、岩肌が隆起してできた山を三分の一ほども削り取る。破壊された巨岩が無骨な瓦礫の滝となって、なんとも呆気なく崩落していく。土煙は、こいしたちのところまで届いた。これだけで本当に楽になったらしく、おくうの呼吸が少しだけ落ち着いた。

 

「離れていてください」

「……うん」

 

 翼を打ち鳴らし、土煙を切り裂いておくうは飛んだ。左手を高く掲げる。掌に光と熱が集約し、まるで太陽のような灼熱の球体を作り上げる。明らかに周囲の気温が上がった。太陽のような、ではない――あれはまさしく、神の力によって生み出された霊知の太陽だった。

 ため息が出た。

 

「すごい……」

 

 改めて思い知る、あの神様は本当に凄まじい力をおくうに授けてくれたのだと。古めかしくて胡散くさい感じのする少女だったが、今では素直に感謝していた。

 別に、今まで虐げられた復讐をしようというわけではない。

 ただ、力を示したい。地霊殿には凄まじい力を持った妖怪がいるのだと。古明地さとりを怒らせれば、悲しませれば、これからは相応の仕返しが待っているのだと。

 私たちは、もう、弱くなんてないのだと。

 

「うううううぅぅぅ……っ!!」

 

 おくうが唸り声をあげている。やはり、まだ完全に力を使いこなせているわけではないのかもしれない。苦しいのかもしれない。けれどあんなに頑張って、一生懸命に力を制御しようとしてくれている。だからきっと大丈夫。きっとすぐに、なにもかもが上手く行くようになる。

 本気で、そう信じていた。

 だから、知らなかった。知れるはずもなかったのだ。

 

「うううっ……ああああああああっ……!!」

 

 布を裂くように叫ぶおくうの、本当の心の声を。

 第三の目を閉じた自分に、聞けるはずがなかったのだ。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

『――本当はね。おくうって、虫も殺せないくらいに優しいやつなんだよ』

 

 大切な思い出話をするようなお燐の声が、逸る月見の心をそっと宥めた。

 旧都へ向かう洞穴の中だった。明かりを灯してもなお不明瞭な薄闇を、月見は天子とアリスを連れて切り裂いている。二人がついてこられるギリギリの速度だった。視界があまりよくないせいもあって、洞穴特有の起伏に富んだ地形には、もう何度も足を取られかけている。

 だが、月見は片時も飛ぶ速度を緩めない。

 霊夢と魔理沙の無事はすでに確認できているから、こんなにも慌てる必要はないのかもしれない。それでも月見の心が早鐘を打って已まないのは、陰陽玉から響くお燐の言葉がすべてなのだろう。

 

『嘘だって思うでしょ? おくう、おにーさんには相当キツく当たってたからねー』

 

 こいし様を、止めて。

 おくうを、助けて。

 そう、お燐は言ったのだ。

 それが一体どういう意味で、地底で一体なにが起こっているのか。すべてを月見に伝えるため、お燐がまず語ったのはおくうのことだった。

 

『まあ、結構愛想のないこと言ってたかもだけどさ。でも、力尽くでおにーさんを追い払おうとしたりとか、そういうのは一度もなかったでしょ?』

 

 なかった。確かにおくうは口を開けば月見を嫌う言葉ばかりだったけれど、それ以上の具体的な行動を起こしたことも、起こそうとしたこともなかった。月見を、言葉以上の手段で攻撃しようとした試しは一度もなかった。

 なぜ。

 

『結局、おくうに度胸がなかったからなんだよね。たとえ認めたくない相手でも、根が優しすぎるから悪口言う以上の真似ができないの』

 

 おくうは月見に対し今なお心を閉ざし、高く分厚い壁を作って拒絶している。とはいえ、それでおくうが意地の悪い女の子だと誤解するほど月見は馬鹿ではない。おくうはとても優しく、主人のことが大好きで、だからこそそれが裏返しとなって、余所者である月見への敵意となっているのだ。だからお燐の言葉も、実感はあまり持てなかったけれど、嘘だとはちっとも思わなかった。

 

「……あ、月見だ! おーい月――呪ってやるうううううっ」

 

 岩陰の方から自称地底世界のアイドルの声が聞こえたが、無視して素通りする。今は彼女のコントに付き合っている場合ではない。思わず振り返った天子とアリスは、すぐに「ああ、あいつか……」と察した顔で前に向き直った。

 

『ん? いま誰かなにか言った?』

「なんでもない。続けてくれ」

『そう?』

 

 陰陽玉の向こうまでは届いていないようだが、背後からは「しこたま呪ってやるうううううっ」とチープな怨嗟の声がかすかながら響いてきている。今度出会ったときが面倒そうだと億劫になりながらも、月見は進路を妨げる鍾乳石群を注意深く躱し、決して立ち止まらず奥へと進み続ける。

 

『……まあそういうわけで、おくうはとっても優しいやつなわけなんだけど』

 

 そこで、お燐の声音から剽軽の色が消えた。

 

『間欠泉を起こしたのは、間違いなくおくうだよ。……もっとも、本人は気づいてもいないだろうけどね。おくうの力の余波で、偶然間欠泉が発生しちゃったってところかな』

 

 ほんの余波だけで、間欠泉を発生させてしまうほどの力。

 

『あたいもよく知らないんだけど、いつの間にか、どっかの神様の力を呑み込んだらしくてね。その力を制御できるようになろうとして、ここしばらく灼熱地獄で暴れ回ってたのさ』

 

 決して予想外の言葉ではなかった。おくうは地獄鴉であり、地獄鴉は、例えば鬼や天狗のように優れた力を持つ部類の種族ではない。そんな彼女が余波だけで間欠泉を起こすほどの力を発揮するには、それこそ神を呑みでもしない限りは不可能なのだろう。

 だが、己の身に神の力を宿すのはそう簡単ではない。概念としては巫女が行う神降ろしに近いが、あれだって日々の修行と、それ以上に生まれながらの才能で決まる人間離れの業である。鳥頭故に、恐らくは神のなんたるかもロクにわかっていないであろうおくうが、自分の力だけで神を呑み込むのはまず無理だ。

 

『でも優しいおくうが、あんな危ない神様の力に自分から手を出すなんてありえない。じゃあなんでこうなってるのかっていうと……』

 

 おくうが力を得るよう誘導した、第三者がいる。

 つまり、この異変、

 

『……こいし様が噛んでるんだよ。こいし様がおくうのところに地上の神様を連れていって、その神様からおくうが力をもらったらしいんだよね』

 

 本当の黒幕は、おくうではなく、

 

『……間欠泉を起こしたのは、おくうなんだけど。でも、その……そもそもの原因はっていうと……』

「……こいし、なんだな」

 

 経緯は、わかった。

 こいしがおくうのもとにいずこかの神を連れていき、力を与えてもらった。彼女がおくうになにを言ったのかはわからないけれど、おくうは主人想いな性格が災いして、断ろうとも考えられなかったのだろう。そして与えられた神の力を使う中で偶然間欠泉が発生し、それを利用してお燐が月見に助けを求めようとした。

 こいしを止めて、おくうを助けてと。

 

『うん。こいし様、おくうに言ったらしいんだよ。……この力があれば、さとり様を助けられるんだって』

「……それは、どういう」

『ほら。さとり様って、旧都の中でも爪弾き者みたいになっちゃってるじゃない。こいし様、昔からそれをちょっと気にしててね。強い力があれば、なにかを変えられるかもって考えたみたい』

 

 それはこいしらしい、ひどく純粋で単純な行動理念だった。損得勘定などまるで入り込む余地のない、『こうなればいい』という希望的観測だけに従った思考回路。裏表などなく、限りなくまっすぐだ。そしてそれ故に、ふと後ろを振り返ることができない。

 自分の後ろで、おくうが一体どんな表情を浮かべているのか。きっとこいしは、まだ気づけないでいるのだろう。

 

『だからお願い、おにーさん。こいし様を止めて。おくう、絶対苦しんでると思うんだよ。地霊殿に入ってきた虫をさ、なんとか無事に逃がしてあげようとして、何十分も頑張っちゃうようなやつなんだよ?』

「……」

『情けないけど……あたいは、ダメだったんだ。結局あたいは、さとり様とこいし様のペットだから。だからその……こいし様には、あんまり、逆らえないところがあって……』

 

 お燐の声音に、己の力不足を恥じ、悔いる色がにじむ。

 

『……ごめんなさい。こっちでなんとかしないといけないって、わかってはいるんだけど……実は、訳あって、さとり様にはまだこのこと教えてなくて』

「……なぜ?」

『さとり様なら事情をわかってくれるって、思ってはいるよ。でも……でももしこんなことしたおくうが、ちょっとでも、さとり様から嫌われたりしたらって思うと……』

 

 納得が行った。

 さとりは、なぜ旧都の同胞から爪弾きにされているのか理解しがたいほど人畜無害の少女だ。お燐はおくうを『虫も殺せないほど優しい』と例えたが、月見にとってはさとりこそがまさにそうだと思える。心を読む能力を持ってはいるものの、それを悪用して誰かを不快にさせる真似は絶対にしない。だからきっと、こいしとおくうが悪意を持って誰かを傷つけたと知れば、その行いを厳しく叱責しようとするだろう。

 

『おにーさんには、あんまりわかってもらえないかもしれないけどね……? あたいたちにとって、ご主人様のさとり様とこいし様から見放されるのって、ほんとに怖いことで……だから……』

「……」

『だから、おにーさんしか、頼れる人がいなくて……』

 

 お燐の声が、どんどん小さくしぼみ、掠れていく。このとき月見が少し意識を集中すれば、陰陽玉の向こう側で、泣きそうになっているお燐の顔が見えたはずだ。

 だが月見はそうしなかった。代わりに短く、そして真摯に、まっすぐに、

 

「もうすぐ洞穴を抜ける。すぐに行くよ。……待っててくれ」

 

 月見が行ったところでなにができるのかはわからない。なるほど確かに、こいしは月見にとって、フランに次ぐ第二の娘のような存在ではある。こいしも月見によく心を開いてくれている。だがそれは所詮、今年の梅雨に地霊殿ではじめて出会ってからの関係であり、月見はこいしの、引いてはさとりの過去をまったくといっていいほどなにも知らない。二人が地上にいた頃になにがあったのかも、地底に下りてきてからどう生きてきたのかも。そんな自分がなにを言おうとしたところで、それは『知った風な口』でしかないのかもしれない。

 けれど。

 

『……うん。じゃあ、旧都の入口のとこで待ってるから』

 

 少し、間が合って、

 

『……ありがと。おにーさん』

 

 ずっと全身にのしかかっていた重圧から、ようやく解放されたような。そんなくたびれた声で笑んだお燐に、月見は心の底から、応えたいと思った。

 陰陽玉から聞こえる物音がなくなる。それから考えたことは多かった。行って自分はなにをするべきなのか。大切な姉のために力が欲しいと願ったこいしに、なにも知らない自分がどんな言葉を掛ければいいのか。そしてその隣には、未だ月見に心を開かぬおくうがいるはずだ。もしも彼女が月見の言葉に神の力を振るうことで答えたとき、自分は一体どうするべきなのか。

 

「つ、月見……」

 

 聞こえたのは、風を切る音にも掻き消されてしまいそうな、たどたどしい天子の声だった。

 

「そ、その……私、なにが起こってるのかぜんぜんわかんないし、こんなこと言っても、無責任なだけかもしれないけど……」

 

 彼女は浮かんでは消えていくとりとめのない言葉を、一生懸命にひとつにしようとしていた。

 

「だ、大丈夫だよ、きっと。だって、月見は――」

 

 気まずさに負けて何度も目を逸らし、けれど最後だけは切に月見を見つめて、

 

「――私のことだって、助けてくれたんだから」

 

 それはもしかすると、ひどく稚拙で勝手な言葉だったのかもしれない。お前のときとはまるで状況が違う、どうしてそんなことが言えるんだ――そう反論されればその瞬間に崩れ去ってしまう、なんの根拠もない、単に彼女の願望だけによって形作られた、まさしく無責任そのもののような言葉だった。

 けれど。

 根拠はなくても、無責任ではあっても。

 

「……ありがとう」

 

 心は、こもっていた。

 

「シャンハーイ!」

「うわっ」

 

 そして、上海人形が突然頭に飛びついてきた。そのまま、またグイグイと耳を引っ張られる。月見は後頭部のあたりを手探りでまさぐって、いたずらが過ぎる上海人形を強引にひっぺがした。

 

「「……」」

 

 月見も天子も揃って、「で、これはどういう意味?」という目をアリスに向ける。アリスがうっとたじろぐ。月見に襟首を掴まれ宙吊りな上海人形が、風に吹かれてぷらぷらと揺れている。

 

「え、えっと、その」

 

 わたわたしたアリスは持っていた魔導書で顔を隠し、三秒ほどしてから目だけをちょこっと上目遣いで出して、並々ならぬ羞恥に掠れたか細い声で、

 

「が、がんばれー、みたい、な……」

「「…………」」

「…………や、やっぱり私、帰る」

「え? ……ま、待って待って待って!?」

 

 流れるようなUターンで帰ろうとしたアリスを、天子が慌てて捕まえた。月見も立ち止まって振り返る。天子とアリスが、お互いの腕で綱引きならぬ腕引きを繰り広げている。

 

「放してえっ! おうち帰るぅ!」

「なんでどーして!? 一緒に霊夢と魔理沙を助けに行こうよ!?」

「だって、だってさっき、二人とも『なにやってんだこいつ』って目してたし! 頑張って勇気出した結果がこれよ、もうやだぁっ!」

 

 このところ、アリスは少しずつ声が出てくるようになってきたと思う。こんな風にぎゃーぎゃー涙目で暴れるアリスなんて、はじめて出会った頃からはまるで想像ができない。

 帰りたいアリスと帰さない天子の、くんずほぐれつの攻防は続く。

 

「そ、そんな目してないってば! ただちょっと、その……えっと……こ、個性的な応援だったなあって!」

「要するに変だったって言ってるでしょそれえええええ! もうやだおうち帰るのっ、やっぱり私には家で独りでいるのがお似合いなのよおおおおおっ」

 

 ふぎゃー!! と半泣きな主人の後ろ姿を見て、上海人形が「やれやれだぜ」みたいな感じで肩を竦めていた。この人形、本当は完全に自律しているのではなかろうか。

 と、月見の隣で浮かぶ陰陽玉から、

 

『あはは。やっぱり地上でも、おにーさんの周りが賑やかなのは同じなんだねー』

「……聞いてたのか、お燐」

『こっそりバッチリ。……ところで、おにーさん』

 

 お燐はすっかりいつも通りの声音に含みを持たせて、

 

『おにーさんたち、遊んでないですぐ来てくれるんだよね? まさか嘘ついたわけじゃないよね?』

「……すぐ行くよ」

 

 正直すまなかった。

 月見は天子とアリスの攻防に割って入り、アリスの頭の上に上海人形を乗せた。微笑み、

 

「二人とも、応援ありがとう。でも先を急ぐから、時間が掛かるようだったら置いていくよ」

「へ。あっ、月見ー!?」

 

 本当に二人を置き去りにして、月見は速やかに先へ進む。背後から天子の慌てた声、

 

「ほ、ほらアリスっ、置いてかれちゃうからとにかく行くよ! ふんぬーっ!」

「いやああああああああ」

 

 どうやら、腕引き勝負は天子に軍配が上がったようだった。首で後ろを振り向いてみると、やや離れたところでアリスを頑張って引きずる天子の姿が見える。彼女が追いついてこられるよう、少し、飛ぶスピードを緩めておく。

 洞穴の出口が見えてきた。

 

「お燐、いま洞穴を抜けるよ」

『ん。橋姫と立ち話なんてしちゃダメだよ』

 

 月見は苦笑した。それはもちろんわかっているのだが、パルスィの場合はキスメのように素通りすると後が怖そうだ。嫉妬の女神だけあって些細なことで機嫌を崩しやすく、付き合うのにコツがいる少女なのである。

 けれど、決して相手の都合を考えない自分勝手な少女というわけではない。事情を話せばわかってくれるだろうと、そう考えながら洞穴を抜けて、

 

「――……」

 

 足が、止まった。

 気づいた違和感は三つあった。ひとつ、冬のど真ん中であるのにまるで春のように暖かいこと。ふたつ、明らかに異質とわかる禍々しい気配が、旧都を越えた地底の奥深くで蠢いていること。

 そして、みっつ。

 その、旧都を越えた奥深くの空に浮かぶ、まるで太陽のようにも思える光の球体。

 陰陽玉が、言った。

 

『気づいた、おにーさん?』

 

 月見は低く答えた。

 

「……気づかない方が無理だよ、これは」

 

 理屈で考えれば。

 地底の気温が春のように高くなっているのも、人間とも妖怪とも違う異質な気配が肌を刺すのも、おくうが呑み込んだという神の力であり、その顕現がすなわち、地底の空で浮かぶあの光の球体なのだと思う。

 だが、

 

「……随分ととんでもないものを呑み込んだんだね、空は」

 

 霊夢と魔理沙が負けたという事実から、恐らく並の神ではないと漠然ながら想像はしていた。それを遥かに超えていった。

 季節を変え、星を生む。

 そんじょそこらの神ではありえない。

 

「や、やっと追いつい、」

 

 後ろから追いついてきた天子の言葉が半ばで途切れる。そして代わりに出てきたのは、呻くような、怯えるような、短く簡潔な一言だった。

 

「そ……んな、これって」

 

 後を継いだのは、アリスだった。

 

「……魔理沙たちが戦ったやつと、同じ気配」

「で、でも、あのときはこんなんじゃなかった! どうして、こんな」

 

 やや大袈裟な言い方ではあるけれど、そのとき天子の表情ににじんだのは、わかりやすくいって絶望に似た部類の感情であったと思う。季節を変え星を生む、人間では抗いようのない超越的な力の君臨。月見ですら気が遠くなりそうな心地がする。おくうがあの力を、もし誰かを害するために使ったとしたら、止めるのは骨が折れるどころの話ではあるまい。

 

「……お燐。空が呑んだという神、名前は聞いたか?」

『えっと……確か、ヤタガラスとかなんとか』

「ヤっ――!?」

 

 天子が、絶句した。

 そしてそれは、月見とアリスもまた同じだった。

 お燐が不安げに、

 

『……やっぱり、結構すごい神様なの? あたい、灼熱地獄育ちだから、そういうのぜんぜんわかんなくて』

「……すごいどころの話じゃないよ」

 

 八咫烏。かつて天照大神ら天上の神々が、地上へ直に遣わしたという太陽の化身。日本神話に堂々とその名を刻んだ、神の中の神。

 得心が行った。

 あの星は、『太陽のような』ではない。太陽なのだ。八咫烏の力によって生み出された、本物ならざる、しかし紛うことなき。

 だが、同時に新しい疑問も起こる。お燐は、「地上の神様がおくうに力を与えた」と言っていた。だが八咫烏ほどの力を誰かに授けるなんて、これもまたそんじょそこらの神では不可能のはずだ。それこそ神奈子のように、由緒正しい神格を備えた偉大な神でなければ――

 

(……というか、神奈子だったりするんじゃないだろうな。元凶は)

 

 そんな真似ができる神なんて、月見には幻想郷では神奈子しか思いつかない。しかしそれもそれで、なぜ彼女がわざわざ地底の妖怪に力を授けたのかと疑問が連鎖する。

 結局、ここでいくら考えても詮のないことでしかない。首を振り、後ろでなにも言えないでいる天子たちに、

 

「……ともかく、まずは旧都に行くよ。話はそれからだ」

「う、うん……」

 

 今が冬とは思えない暖かな空気を切り裂いて、月見たちは旧都へ向かう。

 地底全体の異常事態ということなのだろう。洞穴と旧都の境界となる反橋に、パルスィの姿はなかった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 様子がおかしいと気づいたのは、さとりが自室で気の向くままに文字を綴っていた頃だった。

 地霊殿と灼熱地獄跡は空間的につながっている。灼熱地獄へ続く大穴に、ちょうど蓋をする形で覆い被さっているのがここいらの土地なのだ。その証拠が地霊殿中庭にあるステンドグラスの天窓であり、開けて身を躍らせれば誰でも簡単に地獄の底まで落ちてゆけるようになっている。

 そんな土地柄の地霊殿なので、当然ながら灼熱地獄跡がもたらす恩恵を存分に享受している。具体的には、冬の間も灼熱地獄跡の熱で地面が暖められ、天然の床暖房を完備している。更には灼熱地獄跡から届くごく微量の光が床のステンドグラスを照らし、お洒落なインテリアの雰囲気を醸し出したりもしている。

 よって地霊殿は冬でもぽかぽか暖かく、逆に夏はちょっと暑い。

 もちろん、今日も地霊殿の室温は過ごしやすい温度で保たれている。

 しかし、少しばかり暖かすぎるような気がした。

 

「……?」

 

 さとりは小首を傾げる。言われなければ気づかない程度の差かもしれないが、生憎さとりは筋金入りの年中ひきこもりであり、「いつもの地霊殿の室温」が体の芯まで染みついている。やっぱり少し温度が高い。この地霊殿に限っては、自分の体感こそがなによりも信頼できる最高の温度計なのだ。

 無論、だからどうしたという話ではある。いつもより少し室温が高いことのなにが問題かといえば、実のところまったく問題ではないし、気にするのもさとりくらいなものだろう。どころか今が今でなければ、おくうが仕事をサボっているのだろうと決め込んで、さとりだって気にも留めなかったかもしれない。

 

 おくう。

 このところ、ずっと姿を見かけていない。

 

 虫の知らせというやつだったのかもしれない。どうにも落ち着かない感覚が拭い切れず、さとりは筆を置いて部屋を出た。さとりのペット育成論は、基本的に放任主義である。だから今の今まで深刻に考えてこなかったのだが、やはり一週間近くもまったく姿を見かけないのはおかしい。そう考えるとお燐の『大事な用』とやらも、行方知れずとなったおくうを捜しに行ったのではないかと思えてくる。

 まずは、本当に誰も行方を知らないのかペットたちに聞いて回る。それでダメなら、捜し物が得意なペットを集めて捜させる。もしそれでもなおダメだったらなら、心苦しいが藤千代に協力を頼むしかないかもしれない。

 と、

 

「さーとーりさーんっ!!」

 

 いきなり、少女の元気な大声が背後から前に駆け抜けていった。不意を衝かれたさとりはびっくりして振り返る。とんでもない大声なのに決して耳障りではない、どこまでも伸びゆく張りのある声音。さとりの知り合いでは一人しかいない。

 予定を変更し小走りでエントランスに向かうと、やはりそこにいたのは藤千代だった。

 

「こんにちは、さとりさん」

「はい、こんにちは」

 

 ああもうそんな時間なのか、とさとりは思う。筆を握って思いを文字にしていく一時ほど、『光陰矢の如し』という言葉を体で実感する瞬間はない。

 

「どうかされましたか?」

「ええ。外がちょっとおかしなことになってるので、一応お知らせに来てみました」

 

 ――おかしなこと?

 藤千代が腕組みをして、うーむと唸る。

 

「やっぱりさとりさんも知りませんかー。一体誰の仕業なんでしょう……」

「……なにかあったんですか?」

「なにかもなにも、……ああ、そういえばここはいつも暖かでしたね」

 

 話が見えてこない。さとりが小首を傾げて藤千代の言葉を待つと、彼女は指で外を示して、

 

「実は外も、ここと同じくらいの気温なんですよ」

「え? ……いやいや、そんなまさか」

 

 当然、はじめはまったく信じなかった。今の季節を考えれば当然だった。確かにここ地霊殿は冬でも暖かいが、それは前述の通り土地柄によるものと、家内という外から隔たった空間が熱を閉じこめるからであって、一歩外に出ればもうその理屈は通用しない。それにペットたちの報告によれば、今朝は一層と冷え込んで雪まで降ったというではないか。

 藤千代は鬼だが、どうも普通の鬼とは同じでありながら違う存在であるらしく、何食わぬ顔でさらりと嘘をつくのも珍しくない。藤千代相手だとさとりの能力も役に立たないから、しばしばこういった冗談でからかわれるのだ。けれど、今回は明らかに嘘だとわかった。さとりはふふんと胸を反らして、

 

「藤千代さん、今回は騙されませんよっ。だってペットたちから聞きましたもん、今朝は雪が降ったって」

「降りましたねー。もうぜんぶ解けちゃいましたけど」

「は、」

 

 あれ、なんだか思ってた反応と違う。

 

「冗談じゃないですよー。外に出てみればわかります」

「え、ええ……?」

 

 藤千代がドアを大きく開け放って庭に出て、しきりに手招きをする。そしてその時点でもう、さとりは薄々ながら勘づいていた。

 ドアを開けても、外の冷たい空気が入ってこない。

 そんなバカなと思いながら藤千代のあとに続く。しかし、やはりそうだった。ここいらの土地は灼熱地獄跡の熱を存分に享受するが、それでも真冬ともなれば外は当然肌寒い。室内用の薄着などで庭に出れば、すぐさま鳥肌に襲われくしゃみが飛び出すはずなのだ。

 寒くない。

 暖かい。

 藤千代の言葉通り、中とほぼ同じ気温――否、こちらの方がわずかだが高い。地霊殿の室温がなぜいつもより高くなっているのか、その理由がこれではっきりした。外の方が暖かくなったものだから、その熱で室内の温度も上がったのだ。

 だが、到底納得できるようなものではなかった。

 

「え? ……な、なんで。どうして」

 

 藤千代だって、わからないと言っていたのに。

 

「不思議ですよねー。それにほら、見てください」

 

 藤千代が、地霊殿から遠く離れた空の彼方を指差す。普段であれば地底の薄闇にまかれ、なんの景色を見ることのできない空の先。

 そこに、

 

「……星?」

 

 としか思えない、揺らめく炎にも似た光の煌めきがあった。

 

「少し前から突然こんな感じで、旧都の方も結構騒ぎになってるんです。特に子どもたちが、せっかく雪が降ったのにーって」

「は、はあ……不思議なこともあるものですね」

「地上風の言葉でいえば、異変ってやつかもしれませんね」

 

 その言葉がどういう意味を持つものなのかは知らないが、異常事態なのは間違いないと思った。地底に移り住んでもう何百年になるさとりだが、こんな冬は未だかつて体験した覚えがない。

 

「それで、一応私が調べてこようと思って。その前に、ちょっとここに寄ってみたんです」

「……そうですか。すみません、なにも心当たりがなくて……」

 

 灼熱地獄跡の温度調整トラブル、という線はない。それだったら影響は地霊殿一帯に限られるはずであり、旧都中の気温が上がり雪が解けてしまう道理などない。加えて、彼方の空に浮かぶあの星のような光に至っては、もうなにがなんだかさっぱりだった。

 藤千代は朗らかな笑みで、

 

「いえいえ、もーまんたいですよー。ちゃちゃっと調べてきちゃいますので!」

「……ありがとうございます。藤千代さんは、本当に働き者ですよね」

 

 年中ひきこもりで家事も仕事もペット任せなさとりとは違って、藤千代は地底の代表として日頃からよく体を動かし、決して足労を厭わない。月見から聞いた話によれば、当代の天魔はしばしば仕事をサボって部下に折檻されているらしいが、それとはいい意味で対照的だ。お陰でさとりとしても、藤千代に任せておけば大丈夫だろうという安心感がある。

 

「ふふふ。今度月見くんが遊びに来たときに、是非話してくださってもいいんですよ! そうすれば、月見くんからの好感度上昇間違いナシですからね!」

 

 ――大丈夫よね?

 というかこの少女、まさかそのために自ら調べに行こうとしているわけじゃ、

 

「……むむっ!?」

「ど、どうしました?」

 

 突然、藤千代が旧都の町並みの方を振り向いて、ものすごく真剣な顔で、

 

「……月見くんの匂いです!」

「は?」

「間違いありません……! 十一時の方角……どうやら、ちょうど旧都に着いたばかりみたいですねっ!」

 

 藤千代さん。なぜあなたは、そんなに遠くの匂いをさも当然のように察知しているのですか。そして、なぜ匂いだけでそんなことまでわかるのですか。

 あいかわらずこの人は月見さんのことになるとぶっ飛んでるなあと、さとりはちょっと遠い目つきになった。

 藤千代は瞳どころか顔中をきらきらさせて、

 

「待っててください、月見くーん! いま行きますよーっ!」

「あっ、藤千代さん!? ちょっと、あれを調べに行くんじゃ!?」

「そんなのより月見くんの方が大事です!」

 

 訂正。やっぱりダメだこの人。

 つむじ風とともにすっ飛んでいった藤千代を仏像のような心地で見送って、さとりは全身でがっくりとため息をついた。それから小さく、

 

「……それにしても、月見さんですか」

 

 きっと彼も驚いているだろう。今の地底は、夏までとは言わずとも、春だって目じゃないくらいに暖かいのだから。

 本当に、なにが起こっているのだろう――そう、空の彼方で光る星を見晴るかしながら思う。

 

「……まったく。こんなときに、こいしもお燐もおくうも一体なにをして、」

 

 やはり、虫の知らせというやつだったのだろう。

 なんの確証もないことなのに。それでもその瞬間、絞めつけるような不安がさとりの心を絡みとって、途端に苦しく息が詰まった。

 荒唐無稽な妄想も、いいところだったのに。けれどさとりにはどんなに頑張っても、這い寄ってくる嫌な感覚を拭い去ることができなかった。

 もう一週間近くも、地霊殿で姿を見かけていない。

 『大事な用』の書き置きを残して、忽然と行方をくらませた。

 まさか、まさかそれが意味しているのは――この異常事態の中心に、彼女たちが関わっている可能性なのではないか。

 それに、月見も。この異常事態がちょうど起こったばかりのタイミングでやってくるなんて、いくらなんでも話が出来過ぎてはいないか。もしかすると彼はこの異常事態についてなにか知っていて、だから地上からわざわざ駆けつけてきたのではないか。

 本当に、荒唐無稽な妄想だ。

 でも。

 でも、

 

「……っ」

 

 ――なら、私の胸を絞めつけるこの嫌な感覚は、一体なに。

 居ても立ってもいられなくなって、さとりは藤千代を追って駆け出した。それは今や筋金入りのひきこもりとなったさとりが、何十年、いや、ひょっとすると何百年振りに旧都へ飛び出していった瞬間でもあった。

 もちろん、恐怖はあった。かつての記憶が甦ってくる。旧都の住人のごく一部は、さとりを見てとてもひどいことを考えている。それ以外も、少なくともさとりの能力を忌避しているのは間違いなく、好意的な目では見ていない。

 今でもきっと、それは変わっていないだろう。

 だから、呟いた。

 

「……月見さん」

 

 それは、さとりが己を励ます魔法の言葉。

 月見に会うためだと思えば、胸を軋ませるこの辛い痛みも、少しばかりは楽になった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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