銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色

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東方地霊殿 ⑧ 「砕けゆくもの」

 

 

 

 

 

 陰陽玉からの指示に従って月見が旧都の入口付近まで辿り着くと、人気のない小さな民家の屋根で手を振ってくれているお燐を見つけた。早速天子たちを連れて向かえば、お燐は猫らしい愛嬌あふれる笑顔で迎えてくれた。

 

「おにーさん! あーよかった、やっとここまで辿り着いたよ~」

 

 それから、ほんの小さなため息ひとつ。そこにはなかなか思うようにいかない現実への疲弊と、拭い切れない自責の念がにじんでいた。笑顔があっという間に鳴りをひそめ、

 

「ごめんねおにーさん……なんか、あたいのせいですっかりややこしいことになっちゃって……」

 

 妖精に伝言を任せた件を言っているのだろうと月見は思う。確かに、謝罪の意図はわからないでもない。もしお燐がもっと確実な方法で事を知らせていれば、はじめから月見が地底に向かっていただろうし、そうすれば霊夢たちがわざわざ危険を冒す必要もなかっただろう。

 だがそれは、お燐が責め苦に遭うことではない。結果論ではあるけれど、彼女は霊夢と魔理沙を助け、最悪の事態を防いでくれたのだから。

 

「霊夢たちを助けてくれたお前を、どうして責められるんだい」

「……でも、それは」

「あ、あのっ」

 

 食い下がろうとするお燐の言葉を遮って、天子が帽子も落ちかけるくらいに深く頭を下げた。

 

「霊夢たちを助けてくれて、本当にありがとう……!」

「……あの、だからねおねーさん、あたいは」

 

 天子は聞いちゃいない。隣のアリスの肩を叩いて、

 

「ほらアリスもっ」

「わ、わかってるわよ。……えっと、その……あ、ありがとう」

「いや、だから」

「とにかくありがとう!」

 

 問答無用である。お燐が頬を指で掻き、すっかり困り果てた様子で苦笑した。

 

「……おにーさんの知り合いって、結構人の話聞かないよね」

 

 まんざら否定もできない。幻想郷の住人たちは、どいつもこいつも元気いっぱいなのである。

 

「……ありがと、おねーさんたち。ちょっと気持ちが楽になったよ」

 

 お燐は足元の屋根を指差し、

 

「二人はこの中で寝てるよ。ついてきて」

 

 それでも決して「どういたしまして」と言わなかったのは、やはり、自分に感謝される権利はないとかたくなに思っているからなのだろう。

 お燐に連れられ民家に入ると、どうやら空き家らしかった。玄関の戸を開けて正面に茶の間がある簡素な構造で、畳の上には霊夢と魔理沙が寝かされていた。一番早かったのはやはり天子だった。履物も揃えず畳へあがるなり足音を殺して駆け寄り、やがてそっと胸を撫で下ろした。

 投げ出されっ放しな天子の履物を代わりに揃え、月見もあとに続く。

 目立った点といえば魔理沙の両脚に氷嚢が載せられているのと、二人とも水をぶっかけられてびしょ濡れになっていることくらいだろう。お燐がやってくれた応急処置と思われるが、その荒っぽさ満点なところが実に妖怪らしい。空き家だからどうだっていいのか、畳が水浸しになるのもお構いなしである。しかしそれを除けば二人の寝顔は随分と穏やかで、生きるか死ぬかの瀬戸際を切り抜けたばかりだとはとても思えなかった。

 というか、

 

「えへへぇ……これが博麗の巫女の実力よぉ~……この私に歯向かうなんて、百年早いんだからぁ……」

「……」

「あ、だ、だめだ香霖……確かに八卦炉壊しちゃったのは、悪かったけど……だからって、か、体で支払えなんて……」

「…………」

 

 なんというか、とても元気そうだった。

 アリスが極めて遺憾げに、

 

「こんなこと言っちゃうのもどうかと思うんだけど――心配して損したわ」

「ぶ、無事でよかったじゃない! こ、こういうのは損した方がいいんだよきっと!」

 

 頑張って前向きに考えようとしている天子も、やっぱりだいぶ複雑そうな顔をしていた。もちろん霊夢たちが元気そうで安心したのは事実だし、それに文句を感じるのもひどく不謹慎ではあるのだけれど、しかしせめてもう少し空気を読んでほしかったというか、霊夢はさておき魔理沙はなんの夢を見ているのか。白黒の魔法使いは、「で、でも香霖がそこまで言うなら……」と妙に幸せそうなご様子なのだった。

 

「叩き起こす?」

 

 ああアリス、お前はそのゴツいハンマーを構えたおっかない人形をどこから出した。

 月見は頬が引きつるのを感じながら、

 

「いや、二人とも頑張ったんだ。休ませてあげよう」

「……そうね」

 

 アリスは渋々とハンマー人形をどこかにしまった。引っ込み思案な少女が胸に秘めるダークサイドを垣間見て、天子は「ひええ……」と隅っこで震え上がっていた。

 ともかく、これで霊夢と魔理沙の無事は確認できた。この調子なら、放っておいてもそのうち元気に目覚めるだろう。肩の荷がひとつ消えてなくなったのを感じながら、月見はいま地底で起こっている異変へ意識を切り替えようとした。

 いきなり、

 

「月見く――――――――むぎゅ!!」

 

 玄関からものすごい勢いで何者かが飛び込んできたので、驚いた月見は反射的に尻尾で叩き潰してしまった。

 しまったつい――と肝を冷やして尻尾をどかしてみると、藤千代だった。

 月見は安堵した。こいつだったら別に叩き潰してもいいや。

 

「ふふふ、これは月見くんの愛の鞭ですかっ」

 

 ほら、何事もなかったかのように無傷だし。

 突然の闖入者に、少しの間空気が固まった。天子とお燐は揃って目を点にしていて、アリスは天子の後ろに縮こまって隠れていた。そんな中で霊夢と魔理沙が、えへへふへへと幸せな夢を見続けている。

 ようやく天子が、

 

「えっ……ふ、藤千代?」

「あら、天子さんじゃないですかー」

 

 立ち上がった藤千代は着物についた埃を払いながら周りを見て、まるで今はじめて気づいたように、

 

「おや? どうしたんですかアリスさんもお燐さんも、こんなところに集まって」

「そういうお前こそ、よくここに私たちがいるとわかったね」

「月見くんの匂いを察知したので、地霊殿からすっ飛んできましたよっ」

「そうかー、気配じゃなくて匂いと来たかー」

 

 近頃藤千代は、常識という概念をますます見境なく踏み外しつつある。

 お燐が信じられないモノを見る目で、

 

「えっ……藤千代、ここから地霊殿までだいぶ距離あるよね? おにーさん今来たばっかだし、匂いが届くわけないと思うんだけど」

「やーですよお燐さん。月見くんの存在を見逃す。それは、私が私でなくなると言っているようなものです」

 

 こいつが非常識なのは、戦闘能力だけにしてほしかった。

 頬どころか空気そのものまで引きつるような沈黙が広がったところで、外の方から声が聞こえた。

 

「ふ、藤千代さ~ん……ど、どこ行っちゃったんですかぁ……」

「……!?」

 

 驚くあまり、お燐が体ごと外を振り向く。

 

「さ、さとり様!? なんで地霊殿の外に……!?」

「……今の、さとりか?」

 

 捨てられた子犬みたいに哀愁を誘う声だったので、月見にはいまいち判断しがたい。しかしお燐がご主人様の声を聞き間違えるはずもないから、彼女の肝を潰した驚き様にも納得が行った。

 お燐は、こいしとおくうのことをさとりには話していないと言った。だが心を読むさとりの前で隠し事などできるはずもないから、お燐はしばらくの間地霊殿に帰っていなかったのだろう。すべてを知れば、さとりがほんのわずかにでもおくうを嫌ってしまう可能性があったからだ。

 そこまでしてでも、お燐はおくうのことを庇いたかった。そしてこのままさとりとパッタリ出くわしてしまえば、ぜんぶが水の泡になってしまう。

 

「あらさとりさん、追いかけてきてくれたんですね。……さーとーりさーん! こーこでーすよーっ!」

 

 藤千代が手をぶんぶん振り回しながら飛び出していく。それから一瞬遅れて、お燐が真っ青な顔で慌て始める。

 

「どどどっどうしよう、なんでさとり様が外に出てるの!? このままじゃ、心読まれておくうのことが……っ!」

 

 さとりとこいしのペットという立場であるお燐は、主人たちから疎まれることをなによりも恐れている。その気持ちが月見にはよくわからないだろうとお燐は言ったし、実際月見には、推測こそできても共感はしがたいものだった。

 お燐の気持ちが、理解できないのではない。

 そんなことであの子がお前たちを疎むはずもないという、確信ともいえるさとりへの信頼があったからだ。

 

「落ち着け、お燐。ぜんぶ話してしまえばいいじゃないか」

「で、でも……」

「さとりはその程度でお前や空を嫌ったりしない。むしろ、そうやって隠し続けていた方こそを、あの子は責めるんじゃないかな」

 

 お燐が、うっと呻いて答えに窮する。そうしているうちに、ぱたぱたぱたと元気な足音が近づいてきて、

 

「お待たせしましたーっ!」

「……!」

 

 お燐の全身が強張る。藤千代に手を引かれ、転びそうになりながら飛び込んできたのはやはり古明地さとりだった。すっかり息切れし肩で酸素を補給するさとりは、まず月見に気づいて目を見開いた。

 

「ほ、本当に月見さんが……。藤千代さんの気のせいじゃなかったんですね」

「当然ですっ」

 

 そんなことで胸を張られても困る。

 という月見の心の声を聞いて、さとりは乾いた苦笑いだった。

 

「ええと……本当は、奥の方々にご挨拶するのが先だと思うんですけど」

 

 ほんの束の間だ。そこで言葉を切ったさとりは、途端に月見でもあまり見た記憶のないドライな眼差しになって、

 

「お燐」

 

 さりげなく月見の後ろに隠れていたお燐が、ギクリと固まった。

 

「あなた、こんなところにいたのね」

 

 ぷるぷる震え始めた。

 

「とにかく出てきなさい、そんなところで隠れてたら月見さんのご迷惑に」

 

 そのとき、さとりの表情が突然変わった。頭からさっと血の気が引くような、強烈な困惑の色が顔一面に広がった。

 心を読む力を持つさとりの前では、あらゆる隠し事がその意味を成さない。

 

「……ちょ、ちょっと待ちなさい。あれ(・・)がこいしとおくうの仕業ですって? ど、どういうこと……?」

「? ……そうなんですか、お燐さん?」

「う、うう……っ」

 

 事情を知らない二人の視線がお燐を捉える。目の前にさとりがいる以上、黙秘を貫いたところでなんの意味もない――しかしそれでもなお、お燐は口をかたくなに閉ざして真実を話そうとはしなかった。

 否、話せないのだろう。黙ったところでなんの意味もないと頭ではわかっていても、嫌な想像が先行してしまって唇を動かせない。そんな彼女の心すらも読み取って、さとりはひとつのため息をついた。

 

「……なるほど。だからあなたは、あんな書き置きを残して私の前から消えたのね」

 

 呆れるのではなく、慈しむように。

 

「お燐、馬鹿なことを考えないで頂戴。あなたたちを見放したりなんて、するわけがないじゃない」

「……さとり、さま」

「だから怖がらないで、みんなに教えて。あなたが知っていることを」

 

 やはり、月見の思った通りだった。さとりはこの程度で家族を嫌うほど心が狭いやつではない。むしろ、なぜ旧都の妖怪たちから避けられているのか理解し難いほど心優しい少女なのだ。月見の着物の裾をぎゅっと握り締めていたお燐の手から、解けるように震えが消えた。

 そしてさとりがいつの間にか、若干恥ずかしそうなジト目で月見を見ていた。

 

「月見さん、またそういうことをさらりと……私、そういうのってどうかと思いますっ」

「は? ……ああ、どうして他人から避けられてるのかわからないくらい優」

「くくくっ口に出さないでくださいっ!? 恥ずかしいですからっ恥ずかしいですからっ!」

 

 あいもかわらず古明地さとりは、ストレートな誉め言葉に滅法弱い。

 後ろからお燐が小声で、

 

「……おにーさん、なに考えてたの?」

「いやだから、さとりはすごく優し」

「月見さんっ、からかわないでください!!」

「私はただ感じたことを素直に」

「もお――――――っ!!」

 

 今となってはさして珍しくもないこのやり取りが、なぜだか今はとても懐かしく感じられた。そんなわけはないのに、やはり状況が状況だからなのか、強張っていた月見の心を実に心地よく解きほぐしてくれた。

 お陰で、上手く気持ちを切り替えられたと思う。

 

「……それじゃあ、少し話を整理しようか。地底で一体なにが起こっているのか。そして、私たちが一体なにをするべきなのかをね」

「む、むう……」

 

 さとりはなんとも物言いたげだったが、この状況であーだこーだ言うのも大人げないと思ったのか、履物を脱いで素直に座敷にあがった。

 そしてあがった瞬間、「ふわひゃあ!?」と素っ頓狂な悲鳴とともにひっくり返りかけた。藤千代が背中から咄嗟に支えた。

 

「おっと。……どうしたんですか?」

「す、すみませ……でででっでもでもっ、なんて夢を見ているんですかそこの方はぁ!?」

 

 顔面真っ赤なさとりがビシビシ指差した先には、やたら香霖香霖言いながらとても幸せそうに眠っている魔理沙がいる。

 

「……あー、」

 

 なんとなく、わかった。さしずめさとりはその能力で人の心のみならず、人が見ている夢をも読み取ることができるのだろう。その上で魔理沙が一体なんの夢を見ているかといえば、まあ、「体で支払う」とか言っていたからやっぱりそういう夢だったのだ。思春期だなあ、と月見は思う。

 

「……やっぱり叩き起こす?」

 

 ああ、アリスの瞳から光が消えかけている。さとりに至っては「ふけつです……」としゅうしゅう湯気を上げていて、話もできそうにない有様である。ちょうど畳の上が水浸しでもあるので、ひとまずは別の小部屋に場所を移す運びとなった。

 ところが、そこでも問題が発生した。簡単な自己紹介を交え、さとりが心を読む力を持った覚妖怪だと知るや否や、天子とアリスの態度が急変したのだ。

 別にそう悪い意味でではない。ただ、天子は急にそわそわと落ち着かない様子になり、アリスは頭の上に精巧なガラス細工を載せられて身動きひとつ取れないでいるような緊張で石化し、やっぱり話ができない有様になってしまった。しまいにはさとりの方が「あの、落ち着かないのでしたら……」と気を遣い出す始末で、二人ともそそくさと霊夢たちの部屋まで退散していってしまった。

 月見は難しく頭を掻いた。人見知りのアリスは仕方ないにしても、天子なら案外大丈夫なのではないかと思っていたのだが。

 

「なんだか、悪かったね」

「いえ、大丈夫です。むしろ、お二方の方が普通の反応です。おかしいのは月見さんですよ」

 

 妙に棘を感じる口振りだった。さとりはたっぷり微笑んで、

 

「いつもからかってくれるお返しです。……それにお二人とも、なにも悪いことは考えていませんでしたよ。ただ、恥ずかしがっていただけです」

「そうなのか」

「ええ。アリスさんは、特に恥ずかしがり屋なんですね。私なんかの心を読ませてごめんなさいって、すごく謝ってきました。はじめてです、あんな方」

 

 月見は苦笑した。カチンコチンに固まって微動だにもしなかったのは、どうやら心の中でひたすら謝りまくっていたかららしい。なんともアリスらしいと思う一方で、しかしある意味では、心を読む力に対する有効な対処法なのかもしれないとも思った。

 

「天子さんは……ふふ」

 

 さとりは月見を見て、意味深に目を細めると、

 

「こちらは、ちょっとここでは言えませんね。個人情報の保護に抵触するので」

「……お前が言うと、妙に説得力があるね」

 

 どうあれ、ただ恥ずかしがっていただけというのならば、月見も少しばかり肩の力を抜けた。

 

「実を言うと、私も不安でした。でも、お優しい二人でよかったです」

「ああ、私もそう思うよ」

 

 このままずっと長閑な話を続けられればいいのだが、今はそうもいかない。頷いたさとりが笑みを消し、胸の奥でくすぶる痛みをこらえるように眉を歪めた。

 

「……正直、信じられません。あれ(・・)が、こいしとおくうの仕業だなんて」

 

 あいかわらず気温は春みたいに暖かいし、窓から見える地底の端の空には、恒星を思わせる静かな輝きが浮かんでいる。信じたくない心はお燐も同じで、いつもなら元気に尖っているはずの耳が今は力なく垂れている。

 

「……はい。正確に言えば、神様の力を手にしたおくうを、こいし様が……その、扇動、してるんだと思います」

 

 藤千代が端的に問う。

 

「理由は?」

「えっと……」

 

 お燐は言葉を選ぶ間を置いてから、やがて訥々と、

 

「……元々、強い力に興味があったんだと思う。それで、おくうが強くなったらいろいろなことができるようになるって考えて……例えば、さとり様が誰かからなにかをされたときに、守ってあげられるかもしれない、とか……」

 

 さとりが首を振り、俯いた。

 

「こいし……バカなことを」

「さとり様、そう言わないであげてください。こいし様は、」

「いいえ、バカよ」

 

 また首を振った。それは取り返しのつかないところまで進んでしまった現実を嘆き、苦心する、彼女の心の表れだったのだと思う。

 

「たとえ私のためだとしても。私はそんなこと、してほしいなんて思ってなかった。ううん、してほしくなかった。こいしとおくうには、してほしくなかったのよ」

 

 お燐が唇を噛み、握り込んだ拳でスカートの上に皺をつけた。

 それはそうだろう、と思う。もちろんお燐だって予想はしていたはずだ、真実を知ればさとりは必ずこう言うはずだと。だからこそ聞きたくなかった。さとりの口から直接聞きさえしなければ、お燐のただの考えすぎであり、単なる邪推であり、タチの悪い妄想でしかないのだから。

 今こいしとおくうがやっているのは、誰からも望まれてなどいない、なんの意味もないこと(・・・・・・・・・・)なのだと。

 知らないままで、終わらせたかったのだ。

 

「それに……月見さんのご友人を、二人も傷つけてしまった」

「っ、それはあたいが……!」

「お二人をおくうのところへ連れて行ったのが、あなただとしても。お二人と戦うことを選んだのは、他でもないおくうたちのはずよ」

「いや、そうとも限らないだろう」

 

 月見は言う、

 

「霊夢と魔理沙が一方的に仕掛けた可能性だってある」

 

 二人とも、異変の黒幕を見つければ問答無用で突っ込んでいきそうな性格をしている。それではじめはおくうも仕方なく応戦して、しかし二人が予想以上に強い人間だったせいで、いつしか加減が利かなくなってしまったのかもしれない。ああそういえば、そのあたりの経緯を天子たちから聞けていなかったなと、月見は今更のように気づく。

 

「そう……ですね。確かに、そういう可能性もありますね」

 

 だがさとりはかたくなに、

 

「でも、やっぱり、こいしたちが望んで戦ったのは間違いないと思います」

「……?」

 

 ――なぜ、そう断言できるのか。

 無論、月見が一体どれだけこいしという少女を知っているかと問われれば、それはさとりの足元にも及ばない程度でしかないと思う。明確に霊夢と魔理沙を傷つけられてなお、信じられないと見苦しく言い張るつもりはない。だがそれでも、月見が今まで見てきた『こいし』は、

 

「空が虫も殺せないくらいに優しい子なら、空を霊夢たちと戦わせたのはこいしだろう。けど、優しいのはあの子だって同じじゃないか」

 

 ちょっといたずら好きな困った一面はあるものの、それだって人をおどかしたりいつの間にか隣にいたりする程度で、こいしはいつも元気でよく笑う人畜無害な少女だったはずだ。力に憧れて、神の力をおくうに喰わせたのはまだいい。しかし、こいしが自ら望んでおくうを霊夢たちと戦わせ、お燐がいてくれなければあわやというところまで追い詰めたのはなぜなのか。そんな非情な姿など、月見が今まで見てきたこいしからは想像もできない。まさか彼女も、心の中では地上の者たちを憎んでいたのか。なら、月見に見せてきたあの天真爛漫な笑顔は一体なんだったのか。

 月見の嫌な思考を掻き消すように、一転、さとりがきっぱりと首を振った。

 

「いえ、こいしは間違いなく月見さんが好きですよ。私にあの子の心は読めませんが、断言できます」

 

 お燐も、心の声が聞こえないなりに流れを汲んで同意した。

 

「んと、あたいもそう思うよ。嫌な相手にいっつもいっつもべったりするなんて器用な真似、こいし様には絶対できないはずだし」

「それに、地上の方々を憎んでいることもないと思います」

 

 さとりは藤千代を気まずげに一瞥し、

 

「……ときどき、勝手に向こうまで遊びに行っているようですし」

 

 ならばなぜ、霊夢たちだけを。

 さとりの瞳が、迷いに揺れた。

 

「そ、それは……ですね」

 

 確信が持てず悩むのではなく、確信してはいるが口にするのを躊躇っている。

 

「う……ま、まさにその通りなんですけど……ええと、」

「――原因は、霊夢さんより何代も前の博麗の巫女だと思います」

 

 答えは思わぬところからやってきた。今までずっと耳を傾けるだけだった藤千代が、いつもの茶目っ気ある佇まいを消し飛ばし、人が変わったように滔々(とうとう)と口を切っていた。

 『博麗の巫女』と聞いて、さとりの体がわずかに震える。

 

「ふ、藤千代さん……」

「私からは詳しくは話せません。でも、こいしさんが『博麗の巫女』そのものを嫌ってもおかしくないだけのことを、あの頃の巫女はしたのです」

 

 どうやら事実であるらしく、さとりは唇を引き結んだままなにも言わない。

 その反応を見れば、迂闊に踏み込んではならない話なのは容易に察せられた。だがその上で、許されるのならば聞かせてくれないかと月見は願った。今の自分は、あまりにこいしという少女を知らなすぎる。このままでは、彼女を止めるために如何な言葉を重ねたとしても、単なる『知った風な口』を叩くだけで終わってしまう。

 

「……」

 

 さとりが迷いと闘う、片時の間があった。藤千代は、あとはすべてさとりが決めることだと言うように沈黙し、お燐は主人の葛藤を察して悲痛に顔を歪めた。

 旧都の外れの空き家とはいえ、外はやはり騒がしい。地底中を襲うあの異常現象に、気づいていない鈍感な住人は一人もいないはずだ。ただでさえ暖かかった気温が、なおも少しずつ上がってきているように感じられる。

 さとりが、顔を上げた。

 せめぎ合う迷いを生唾とともに呑み込み、大きく長い息をついて、色の失せた白い唇を動かした。

 

「――昔、博麗の巫女に退治されそうになったことがあるんです」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――神霊・『夢想封印』!!」

 

 終わったと、そのときさとりは一切を諦めた。

 それは、しばしばさとりがうなされる悪夢の続きであり、かつて我が身を実際に襲った現実の想起だった。さとりがまだ、地上で生活をしていた頃のこと。どこかの人間の依頼を受けて、博麗の巫女が妖怪退治に動いた。大した戦闘能力も持たないさとりはあっという間に追い詰められ、逃げずに戻ってきてしまった妹とともに、為す術もなく退治されてしまうはずだった。

 だがさとりとこいしが今も生きて地底にいるように、現実はそうならなかった。

 なぜ。

 『彼女』が、来てくれたからだ。

 

「……ッ!?」

 

 巫女が大きく息を呑んだ気配。それと同時に、さとりとこいしを呑み込むはずだった七色の光弾が、すべて呆気なく弾き飛ばされた。

 なにが起こったのかわからなかった――突然目の前に出現した、彼女の背中を見るまでは。

 七色の光が掻き消え森に静寂が戻ると、鉄面皮を崩した巫女が頬を引きつらせて笑ったところだった。

 

「……いや、ちょっと。あんたが出てくるとか冗談でしょ?」

 

 ずっと倦んでいた巫女の声音に、明らかな動揺がにじみ出ていた。

 

「――ねえ、鬼子母神サマ」

 

 さとりもまた、これはなにかの間違いではないかという思いで藤千代の背を見つめていた。

 一般的には『鬼子母神』の二つ名で広く知られる大妖怪――藤千代。『妖怪の賢者』たる八雲紫と並んで最強の双璧をされる片割れが、今さとりの目の前にいた。

 無論、知らぬ相手ではない。だがそれはさとりが一方的に知っているというだけの話であり、向こうはさとりの名前すらも知らぬはずだ。要するに赤の他人である。故になぜ助けられたのかがわからず、ただただ呆然とするばかりのさとりは、藤千代の背中に声を掛けることも忘れていた。

 

「こんにちは」

 

 表情は見えないが、藤千代の声音は穏やかに笑んでいた。博麗の巫女は荒っぽくため息をついて投げやりに、

 

「はいはいこんにちは。……てかね、人の術を埃でも払うみたいに消し飛ばすのやめてくれる? 結構凹むんだけど」

「いえいえ、素晴らしい一撃でしたよ。ほら、右手切っちゃいました」

「たったいま私の目の前で完全に治ったけどねそれ。ああもう、ほんとフザけた治癒速度だわ」

 

 感情などないかのように淡々とさとりを追い詰めた巫女が、今はまるで別人が如く焦燥している。いや、危機感に駆られているとすら言い換えてもいい。ふざけるな、こんなやつと戦うくらいなら報酬なんてもらえなくていいから逃げた方がマシだ――そう、彼女の心は激しく悪態をついていた。

 そこでふと気づく。すぐ目の前にいる藤千代の心がなぜか読めない。さとりの『心を読む程度の能力』は、相手との実力差によって無効化されることのない絶対的な能力である。それが通じないということは、藤千代の方で心を読まれぬなんらかの細工をしている可能性を意味する。

 このときのさとりはまだ、藤千代の能力が『認識されない程度の能力』だとは知らなかった。

 

「……で、あの駄賢者と並んで最強の誉れ高き貴女サマがなんの用かしら。ぶっちゃけ私もう帰りたいんだけど」

「はい。こちらの妖怪さんを退治するのは、見送っていただきたいと思いまして」

「いやまあ、それはあんたがそいつ庇った時点でわかってるけど。でもどうしてよ。友人かなにか?」

「いえ、まだお名前も知らない相手です」

 

 意味がわからん、と巫女の心は言った。

 

「あー、じゃあ前置きはいいから大事なトコだけ教えて頂戴」

「はい。私たち鬼は、近いうちに地底に住処を移そうと考えています。こちらの妖怪さんをはじめ、地上で住む場所に困っている方々を連れて」

「はあ」

「正式な交渉はいま紫さんと行っている最中ですが、結構煮詰まってきてまして、話がなくなること自体はほぼない状態です。どのみち地上から姿を消すなら、退治してもしなくても同じですよね?」

「まあ、そりゃそうね。しかしまた随分と急な話じゃない。なに、地上で生活するのが嫌にでもなった?」

「まあ、そんなところです」

 

 そうなのかよ、と巫女が心の中でツッコむ。

 いやー、と藤千代はバツが悪そうに頭を掻いて、

 

「実はこの頃、私たち鬼の中で人間に対する反発が高まっちゃってまして。もーこんなところで暮らせるかーって感じで」

「なんか聞いたことあるわねそれ。あれでしょ? 私ら人間が真剣勝負してくれないのが不満で愛想尽かしてるとか」

「まったくもってその通りで」

「随分とムシがいい話よね。どう見ても人間の勝ち目が薄い勝負を面白半分でやってたってのもそうだし、私らが頭使って歯向かうようになったら『裏切りだ』とか何様よ。体強くない人間が、頭と数に頼らざるを得ないのは当然でしょ」

 

 この巫女、もう帰りたいとか言っておきながら自ら喧嘩を吹っかけているような気が。

 けれど当の藤千代はまるで気分を害した素振りもなく、それどころか巫女がまったく正しいと認める素直な態度で、

 

「返す言葉もないです。でも、仕方のないことだと思います。人間がそういう種族であるように、鬼もそういう種族なのですから」

「はいはい。……それで地底に住処を移すってわけね。まあこっちとしては、私らに迷惑掛けないようになるならなんだっていいわ」

「お仕事、なくなっちゃいません?」

「あのね、私みたいなやつは暇してる方がいいことなのよ。それに巫女は妖怪退治だけの脳筋じゃありません。祭祀とかお祓いとか、他にも収入源はいろいろあるんだから」

 

 吐息。

 

「じゃあ私は帰るわ。まったく、さんざ鬼ごっこした挙句あんたが出てくるし、きっと報酬ももらえないだろうし、とんだ貧乏くじだったわ」

「私としては、このままお手合わせしてもいいんですけど」

「絶っっっ対イヤよ。命がいくつあったって足りゃしない」

 

 そこまでだった。臨戦態勢を解いた巫女が、あっさりと踵を返してこの場から立ち去る。さとりなどもはや一瞥もしなかったし、心の中でも、その存在にわずかとも思考が割かれることはなかった。

 巫女の姿が完全に見えなくなったところで、張り詰めていた緊張がどっと崩壊した。こいしを抱き締めたままだった両腕が地面に垂れ、ほとんど彼女の背に体重を預ける格好になってしまう。全身が鈍痛に苛まれ、まるで力が入らない。もう、戻ってきた妹を叱りつける気力も、助けてくれた藤千代に礼を言う余裕もありはしなかった。

 と、

 

「よっと」

「っ、」

 

 いきなり藤千代に担ぎ上げられた。完全な不意打ちだったのでかなりびっくりしたが、それよりも口を衝いて出てくるはずだった悲鳴が声にならなかった方への動揺が勝った。いきなりなにするんですか、と言おうとするものの、それもやはり上手く声にならない。だから、こりゃ相当参っちゃってるなあとさとりは今更のように実感した。

 担ぎ上げられたこの体勢では見えないが、自分の右脚には今もなお、あの太すぎる針が突き刺さったままのはずだ。

 

「とりあえず怪我の治療ですね。私はそういうのよくわからないので、わかる方のところに連れていきます。もうちょっと我慢してくださいね」

 

 応急処置の仕方も知らないなんて藤千代らしい。怪我をしてもすぐ治る彼女にとっては、まさに必要のない知識だろうから。

 

「あなたも、いいですか?」

「……うん」

 

 藤千代に腕を引かれて、こいしがふらふらと立ち上がる。目の焦点がどこにも合っておらず、心ここにあらずに見える。人間に退治されかける寸前まで行ったのははじめてだったから、幼い彼女は恐怖で放心してしまったのかもしれない。

 藤千代が腕を引いて何歩か歩いてみると、こいしは転ばないのが不思議なくらいに覚束ない足取りでついてくる。そんな調子でこの森を抜けられるはずもないので、結局藤千代は、こいしも担ぎ上げて飛んで戻ることにしたようだった。

 こいしとどっこいどっこいの体格のくせに、二人を同時に担いでも眉ひとつ動かさないあたりはさすがとしか言葉が出ない。

 なには、ともあれ。

 あちこち走り回ったせいで体力を使い果たし、九死に一生を得たことで気力がごっそりと削られ、体中の怪我で血もだいぶ失って。

 そんな中で空を飛ぶ心地よい風に吹かれていたら、なんだか少し、頭の中が眠気でぼーっとしてきて。

 気づいたときには、もうまぶたも上げられなくなってしまっていた。

 

「――……の、巫女」

(……?)

 

 ただ、気のせいではなかったと思う。

 

「――博麗、の、巫女」

 

 さとりがついぞ聞いた覚えもないほど冷え切った、こいしの氷の呟きは。

 夢と呼ぶにはあまりに生々しく、さとりの記憶に刻みつけられた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 こういう、いかにも憐れで不幸な身の上話を他人に語って聞かせるのは、さとりはあまり好きではない。最たる理由はやはり、さとりが望む望まざるにかかわらず、能力で相手の心が隅々までわかってしまうせいだ。

 この話をはじめて聞かされた相手の反応は、得てして決まっている。どう反応すればいいのか、どんな言葉を掛ければいいのか咄嗟に判断できず、困惑し、困り果てる。そして最終的には、なんともその場凌ぎといった感じで『同情』という行動に落ち着く。

 だから、あまり話したくないのだ。まるで自分が、己の不幸を餌に人から同情されたがっているように見えてしまって。もちろん今の今までは、月見にだって話すつもりは毛頭なかった。状況が状況でさえなければ、これからもずっとそうだっただろう。

 だが話しているうちに、少しずつ考えが変わった。

 

「――そうか」

 

 月見の反応は、静かだった。同情するのでも共感するのでもなく、さとりから聞かされた言葉をそのまま受け止めるような、曇りのない真摯な言葉だった。

 

「そうだな。昔はまだ、そういう時代だったものな」

「……そうですね。あの頃は、大変でした」

 

 月見の心は、困惑も同情もなく静かに凪いでいる。こいしのことを考えている。自分が今まで見てきた『こいし』と、さとりの話から知った『こいし』を、ひとつに集約して受け入れようとしている。

 『同情』と『理解』は、似て非なるものだ。この話を聞いて『同情』した者は数多くいたが、『理解』しようとしてくれたのは彼がはじめてだった。

 妹のことを、ここまで誠実に考えてくれる人がいる。さとりのように、「バカなことを」なんて決めつけて否定したりはしない。それがさとりには、辛い記憶を語った痛みすら忘れるほどに嬉しかった。

 

「……ありがとう。教えてくれて」

 

 そしてさとりには、やはり同情などではなくまっすぐな感謝を示す。だからきっと、彼にはぜんぶお見通しだったのだろう。

 同情されたくて話したわけではない。憐れんでほしいわけではない。ただ、「可哀想」なんて理由で見る目を変えてほしくなかっただけ。

 だから月見の感謝の言葉は、呆気ないほどストンとさとりの胸に落ちてきた。

 月見さんに話して、よかったのかもしれないなと。はじめて、そう思えた。

 

「ひとつ、訊いてもいいだろうか」

「はい」

 

 月見の心は言う。――こいしが今でも博麗の巫女を恨んでいるなら、お前もそうなのか。

 真っ当な疑問だと思い、首を振った。

 

「私は大丈夫ですよ。もう、昔の話ですから」

 

 もちろん、あれだけのことがあったのだ、博麗の巫女にいい印象を抱いているとは世辞でも言えない。霊夢が当代の『博麗』だと知ったとき、腹の底がぐっと冷え込むような感覚を覚えたのは紛れもない事実だ。

 だが、一方で、恨んでいるわけでもない。

 

「誰かを恨んで生きるのは、虚しいですし、疲れますから」

 

 結局さとりは、臆病だったのだ。復讐など、考えはしても、まるで行動に移す度胸がなかった。力がなかったから、ではなく、力があったところできっとさとりはそうだった。恨まれるのも、恨みを晴らすのも怖くて、そんなことを考えてしまう自分自身に疲れていく。そしていつしか、なぜ自分は過去ばかりにしがみついているのかと気づくのだ。

 どうして辛かった頃の記憶をわざわざ掘り返して、自分で自分を痛めつけているのか。

 確かに、住む場所を追われはした。この地底に追いやられた。でも今が不幸かといえばそれはまったく違っていて、むしろ地霊殿でペットたちと過ごす毎日は、さとりの心をそれなりに満たしてくれていた。例えばある日突然、幻想郷中の住人がさとりを受け入れてくれたとして。その上で地上に戻るかと問われれば、きっとさとりは地霊殿に残り続けるだろう。そう思える程度には、今の生活が好きだった。

 なら、もういいじゃないか。昔のことは。

 さとりは引きこもりだけれど、根暗ではない、つもりである。恨みを忍んでうじうじ生きるのは性に合わない。いつまでも過去ばかりを引きずるのはやめて、前を向いてみてもいいんじゃないかと。

 お燐やおくう、藤千代と出会って、そう思えるようになったのだ。

 

「……まったく」

 

 一杯食わされたと天を仰ぐような、月見の一笑だった。

 

「お前がなんで周りから距離を置かれてるのか、皆目見当もつかないよ。みんな見る目がないんだね」

「か、からかわないでくださいってば!」

 

 顔があっさりと熱くなるのを感じた。やはり何度経験しても、月見からしばしば贈られてくる褒め言葉への耐性がまるでつかない。心を読む能力のせいで、からかいなどではない本心からの言葉だとわかってしまうせいだ。

 それでもさとりが「からかうな」と返すのは、そう思うことで、自分の心を守ろうとしているからなのだと思う。

 同じ女性同士ならまだしも、男の人から真っ当な心で褒められてしまうと、なんだかすごくくすぐったい。ほだされてしまいそうになる。これだったら世辞の方がまだマシなくらいで、だからさとりはからかわれているだけだと思い込みたいのだ。

 しかし藤千代がうんうんと二度頷き、お燐までもがまったくだと腕組みをして、

 

「そうですよねー、こんなに優しくて素敵な方なのに」

「さとり様は、心読んでもそれを悪用したりしないのにね。みんなオーバーに考えすぎだと思うよ」

「と、ともかくっ」

 

 変な流れになりそうだったので、さとりは咳払いで強引に軌道修正した。褒められて赤くなっている場合ではない。事態は、さとりが思っているよりもずっと深刻かもしれないのだから。

 そう考えると、頬の熱もあっという間に引いていった。

 

「昔、そういうことがあったので……こいしは、おくうを霊夢さんと戦わせたのかもしれません。仕返しのつもりで」

 

 嘆息し、

 

「もう何百年も昔の話で、霊夢さんは無関係なのに……本当に、バカだわ」

 

 少なからずさとりを想っての行動である点は、言うまでもなく嬉しかった。形式張ったさとりと自由奔放なこいしは前々からなにかと反りが合わず、なかなか上手くコミュニケーションが取れないでいた。さとりがなにかを言うと、こいしはいつも決まってうるさそうな顔をしている――と思う。こいしの心が読めないせいもあって、もしかして嫌われているのではないかと不安を感じたためしは一度や二度ではなかった。

 手段さえ間違っていなければ、さとりは素直にこいしの気持ちを喜んだだろう。

 こいしは、恐らく知らなかったとはいえ月見の友人を傷つけた。お燐が助け出していなければ、死んでしまっていてもおかしくない状況だったと聞く。こいしは霊夢と魔理沙の体を傷つけたのみならず、天子とアリスと月見の心をも傷つけたのだ。

 そして、きっと、おくうのことも。

 心を読む能力を捨て、外をぶらぶらと放浪するばかりなこいしは知るまい――おくうが一体どれほど心優しい少女であるかを。虫の一匹を殺す勇気もなく、地霊殿に虫が入り込んだときはいつも率先して逃がしてあげている。月見の存在に強い嫉妬を見せつつも、優しさが邪魔をしてそれをどこにも吐き出せずにいる。そしてきっと、自分の主人であるこいしのために、誰も傷つけたくないという己を殺して力を貸しているのだろう。それを知らずにこいしは、おくうを霊夢たちと戦わせた。博麗の巫女が嫌いだという、恨みの心に囚われて。

 本当に、バカだ。

 

「……」

 

 言葉が途切れる。腫れ物を触るような沈黙が、この部屋の隅々に重苦しく充満していく――そのとき。

 家が、かすかに音を立てて軋んだ。それは普段であれば誰も気にも留めないような、本当に大したことのない小さな地震だった。けれど今この場に限っては、誰しもが行き過ぎた想像を脳裏に巡らせた。

 まさか今の地震も、こいしとおくうが。

 

「……長話が過ぎましたね。私は、こいしとおくうのところに行きます」

「……!?」

 

 お燐が目を剥き、腰を浮かせた。

 

「さとり様、危険すぎます……! ここはあたいとおにーさんに任せて、」

「これは地霊殿の住人が起こしたこと。主人である私が行かないでどうするの?」

 

 お燐の心配はわかる。妖怪としての力を考えれば、ただ心を読めるだけのさとりにできることなどないのかもしれない。少なくとも、おくうが手にした強大すぎる神の力を止めるのは天地が引っくり返ったって無理だろう。

 月見がどうしてここに来たのか、お燐の心を読んださとりはすでに知っている。月見がここでなにをしようとしているのか、彼の心を読んださとりはすでに知っている。彼がいかに頼もしい力を持った大妖怪であるかだって、藤千代からさんざ自慢話を聞かされた。最古の狐。さとりなどいなくとも、彼があっという間にこいしたちを止めてしまうのかもしれない。

 けれどここで行かなかったら、家族のために動かなかったら、さとりは一生己を恥じることになる。こいしの姉を、おくうの主人を、胸を張って名乗れなくなる。たとえなにもできずとも、『なにもしなかった』にだけはなりたくない。だから行くのだ。

 

「……あ、あのっ」

 

 と、襖の向こうからだいぶ遠慮した感じの声が聞こえた。振り向いてみると、わずかに開けられた襖の間から、天子と名乗った少女がおずおずと顔を覗かせていた――が、さとりと目が合った瞬間、心の中ではにゃあああああと悲鳴をあげて縮こまってしまった。

 心を読まれてアレコレ知られてしまうのを、並々ならぬまでに恥ずかしがっている。

 例えば、自分が月見をどう思っているのか、とか。

 無論、時既に遅しである。さとりはもうバッチリと知ってしまった。天子にとっての月見とは、人生の目標であり、命の恩人であり――それ以上の、特別な存在でもあるのだと。

 今だって、さとりの能力を意識するあまりバリバリ月見のことを考えてしまっている。襖の奥から思考がダダ漏れになるほどである。なにを考えているのかは、個人情報保護の観点から触れないでおくけれど。

 みるみる赤くなっていく天子に、さとりは微笑んだ。こういう、暖かな心を読むのは、好きだ。

 

「大丈夫ですよ、天子さん。誰にも言ったりしませんから」

「あぅ……」

 

 茹でダコみたいになってしゅうしゅう沈んでいく天子を、同性のさとりですら愛くるしいと思った。きっと地上では、さとりなんかとは違って人気者の女の子に違いない。

 赤くなっている理由に敢えて触れない月見の判断は、きっと正しかった。彼にまで言及されてしまったら、もはや彼女は絶叫しながら家を飛び出す以外になかったはずだから。

 

「どうかしたかい、天子」

「あっ、え、えっと、」

 

 天子はわたわたと気を取り直して、

 

「その……私も、一緒に行きたくて。私なんかじゃ、役に立たないかもしれないけど……事情とかも、ぜんぜんわからないし」

 

 そのとき天子の心にあったのは、月見へのひたむきな想いだった。月見の力になりたい。自分の力不足は嫌というほどわかっているが、それでもなにかをしたいという気持ちが止められない。助けてもらった恩を、感謝の言葉だけではなく、少しでも形にして返したい。

 かつて月見と天子の間になにがあったのかも、表層だけではあるが読み取れた。

 だからさとりは、やっぱり月見さんは月見さんだなあと思った。妖怪なのに、体を張って人間を助けたりして。いや、彼にとっては妖怪と人間などという区別はもはや必要ではなく、困っている妖怪や悲しんでいる人間がいれば話を聞かずにはおれないのだろう。

 見て見ぬふりをしたり、見捨てたりすれば、悔いが残るから。

 そしてそれは、今のさとりだって同じだ。

 

「私は構わないけど……霊夢と魔理沙は」

「アリスが看ててくれるって……わっ」

「シャンハーイ!」

 

 天子の帽子の上に人形が飛び乗り、ここは俺に任せとけ! とばかりにえへんと胸を叩いた。

 正直なところ、さとりは少し悩んだ。同行させるべきではない、という思いがないと言えば嘘だ。天子までもが危険な目に遭ってしまうかもしれないし、『見ず知らずの地上の人間』という不確定要素は、とりわけ地上嫌いなおくうを逆上させる原因にもなりかねない。

 けれど、それでも。

 

「……わかりました。力を貸してください、天子さん」

「は、はいっ」

 

 さとりは、断れなかった。月見を想う天子のひたむきな気持ちに、ほだされてしまったともいえよう。天子の心があまりに眩しすぎて、とてもではないけれど、断るなんて血も涙もない真似はできそうもなかった。

 少し、月見のお人好しな性格が感染(うつ)ってしまったのかもしれない。

 藤千代が、

 

「私も、地底の代表として同行します――と言いたいところなんですけど、先に向かっててください。もう少し、旧都の皆さんとお話をしておかないとなりませんから。この騒動の原因がこいしさんとおくうさんだって、知られない方がいいですよね?」

「……ありがとうございます」

 

 この異常現象がこいしとおくうの仕業だと知れ渡れば、旧都の妖怪が彼女たちへ向ける目も――間違いなく悪い意味で――変わるだろう。知られずに終わらせられるのならそれに越したことはない。こいしとおくうまでもがさとりと同じ爪弾き者にされてしまうのは、絶対に嫌だった。

 藤千代は、仕事だけでなくこういう気遣いもできる女なのだ。……本当に、このあたりだけを切り取ってみれば、とても素敵な女に見えるのだけれど。

 月見が立ち上がり、着込んでいた冬用の和装コートを脱いだ。もう、そんなものを着ていては逆に暑いほどまで気温は高くなってきている。

 天子の帽子の上の人形に、

 

「これ、預かっててくれ」

「シャンハーイ!」

 

 さとりも立ち上がる。

 

「お燐、場所はわかるわね? 案内して頂戴」

「……わかりました」

 

 頷いたお燐は、それから躊躇って、泣きそうな顔をして、心の中で切々とした想いをこぼした。

 ――大丈夫ですよね、さとり様。

 無事に終わりますよね。

 また、みんなで、笑えるようになりますよね。

 

「……なるわよ。絶対に」

 

 そう――絶対にだ。

 さとり一人だけでは無理かもしれないが、ここには一番頼れるペットのお燐がいて、地底最強の鬼である藤千代がいて、そんな藤千代が認める男である月見がいて、赤の他人なのに力を貸してくれる天子という少女までいる。まさに百人力だ。だから絶対に上手くいく。してみせる。

 わからずやのこいしに、思い知らせてやるのだ。強大な力なんて、自分たちには必要ない。

 さとりはただ、家族みんなで笑って毎日を過ごせるのなら、それ以上に望むものなどありはしないのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 道中の会話はほとんどなかった。交わすのは必要最低限の言葉だけで、あとは皆が皆、今の自分になにができるのかを一心不乱に考え続けていた。

 地底の天に君臨する、あの太陽のような星を目指すにつれ、気温は更に上昇していった。地底の外れとも呼べる場所までやってくると、雪が残らず溶け切っているばかりか、完全に蒸発して影も形もなくなってしまっている。もはや春とすら言い難い。ここら一帯に限り、地底の季節の針は夏まで逆戻りさせられていた。

 天に浮かぶ星が眩しい。直視できないほどではないけれど、肌で感じる光と熱はまさしく太陽を思わせる。ほの暗く沈んでいた地底の大地を容赦なく照らし出し、決して途切れることのないエネルギーを放ち続けている。予想以上の熱気に汗が滴り落ちそうだ。恐らく、ここから先はまた更に気温が上がるだろう。

 やがて、さとりたちは地底の外縁を囲む峡谷地帯に差し掛かる。無骨な岩肌がいくつも山となり連なった土地で、昔はあちらこちらに血の池地獄があり、血の川が流れていたという場所だ。

 見晴らしの悪い地形でも、嫌というほど感じる力の波動と、ひっきりなしに聞こえてくる地響きのお陰で、『その場所』はすぐに見つかった。

 いた。

 

「……こいしっ!」

 

 こいしが、振り向いた。

 

「……あっ、お姉ちゃん!」

「――……、」

 

 そのときさとりは、愕然としたと思う。

 さとりに気づいたこいしが、笑ったからだ。さとりがいつも見慣れているのとなんら変わりない、明るく無邪気な顔で。

 

「あー、本当はこっちからびっくりさせようと思ってたんだけどなー。……まあいいや!」

 

 どうしてそんな顔で笑えるのか、わからなかった。

 

「見て見て、お姉ちゃん! おくうね、すっごく強くなったんだよ!」

「……こ、こいし、あなた」

 

 どうしてそんなことが言えるのか、わからなかった。

 

「? ……ほら、これぜんぶ、おくうがやったんだよ! すごいでしょ!」

 

 こいしが、あどけなく指差した先。

 隆起した岩肌が無数に連なる峡谷地帯に、突如としてぽっかりとした空間が出現している。そう表現すると大したことのないように聞こえるが、実際は広大すぎて目測すら利かない、まるで隕石でも落ちたような途轍もない空白だ。その範囲において原型を留めているものはなにひとつなく、岩の山はすべてが見る影もなく崩壊し、無数のクレーターが大地を穿ち、至るところで炎が濛々(もうもう)と黒煙を上げている。そしてその真上に、数メートルの大きさにまで圧縮された極小の太陽が君臨し、大地の惨状を欠片も余さず浮き上がらせている。確かに凄まじい光景ではある。だがさとりは笑えない。無惨な焦土へと変わり果てた地底の姿を目の当たりにして、笑うなんて真似だけは絶対にできない。

 危険な能力だとお燐や月見から聞かされて、自分なりに想像を働かせてはいた。そんなのなんの意味もなかった。おくうが手にした力はさとりの想像を超えて遥かに強大で、おくうが生み出した光景はさとりの覚悟を超えて遥かに凄惨だった。

 こいし、は。

 こんな恐ろしい力を、月見の友人に向けたのかと。こんな恐ろしい力を、おくうに使わせているのかと――そう思うと、打ちひしがれるあまり目の前が暗くなるような心地がした。

 こいしは、笑っている。

 

「お燐。……あ、月見も来たんだ! そっちの人間はお友達? 私、古明地こいし。よろしくね!」

 

 それは、異様な光景だった。禍々しい太陽と、焼け野原へと変わり果てた(むご)たらしい世界を背に、にっこりと笑って、朗らかな自己紹介をする少女。肌が粟立つほどの力の波動も、足元を小刻みに揺らす大地の鳴動も、彼女はまるでなにも感じていないかのような顔をしていた。

 だからこそ、完膚なきまでにわかった。こいしが間違いなく、自らの意思でこの力を欲したのだと。こいしは、おくうが強くなって嬉しいと本気で思っているのだ。

 誰しもが、絶句していた。この少女に、どんな言葉を掛ければいいのかわからなかった。

 

「? ……みんな、どうしたの?」

「……こいし」

 

 はじめに正気を取り戻したのは、やはり月見だった。一歩前に出た彼は、うっすらとした笑みを浮かべて、

 

「お燐から聞いたよ。空が、神様の力を手に入れたって」

「うん! これがそうだよ! びっくりした?」

「ああ。すごくびっくりした」

 

 ここまで来れば、止まっていたさとりの思考もだんだんと再起動を始める。頭を振って、途切れかけていた気を持ち直す。確かに、さとりにこいしの心は読めない。さとりにとってこいしは、まさに『自分に理解できない埒外の存在』といっても過言ではない近くも遠い妹だった。

 今までは、仕方のないものと思って諦めていた。けれど、もうそれでは駄目なのだ。

 理解するのだ。月見のように。この世でたった一人の、何物にも代えられない妹のことを。

 月見の口調は、まるで世間話をするように優しい。

 

「でも、どうしてこんなことを? 危ないよ。みんな心配してた。私をここに呼んだのだって、お燐だよ」

 

 こいしは、ひどく無防備に答える。

 

「もぉー、お燐はお姉ちゃんに似て心配性なんだからー。猫って飼い主に似るのかな?」

「そうすると、気ままな性格はこいしに似たのかな」

「あはは、そうかも」

 

 自分を話題に出されても、お燐はまだなにも言えず、表情も変えられなかった。胸の中で激しく渦巻いているのは、さとりと同じで、こいしという少女への隠し切れない戸惑いだった。

 

「でも、大丈夫なのか? あんまり騒ぎになるようなことをすると、旧都の妖怪たちに迷」

「そんなの知らない」

 

 人が変わった――そう思わしめるほどの、情け容赦ない即答だった。

 

「だって私、あいつらのことキライだもん」

 

 こいしは、あいかわらずの笑顔だった。その事実が、逆にさとりの身も心をも凍りつかせた。

 

「あいつらひどいんだよ。一緒に地底へ行こうって、善人ぶって手を差し伸べてきたのにさ。蓋を開けてみたら、地上の人たちとぜんぜん同じ。お姉ちゃんのこといじめて、地霊殿に閉じ込めた。お姉ちゃんが泣きながら帰ってきたときのこと、今でも覚えてるもん」

「……!」

 

 さとりは息を呑んだ。そして、よく考えもせず口を挟めば逆効果になりかねないのも忘れて、声をあげていた。

 

「違うのこいし、それは……!」

「旧都のやつらがひどいことを考えて、お姉ちゃんを泣かせた。だからお姉ちゃんは、怖くて外を歩けなくなった。違うの?」

 

 違う。違うのだ。確かに、旧都のごく一部の妖怪がひどいことを考えていて、それでさとりが不覚にも泣いてしまったのは事実だ。怖くて外も歩けなくなった。だがさとりは地霊殿に閉じ込められたのではなく、自らの意思で閉じこもることを選んだのだ。さとりは元から、外界との交流を積極的には望まない内気な性格だったのだから。

 あの出来事が引鉄となったのは間違いないけれど、そうでなくとも遅かれ早かれ、さとりは自然と地霊殿に引きこもり、外との交流を断つようになっていただろう。旧都の妖怪ばかりではなく、さとり自身の性格にも原因はあるのだ。

 だが、その事実をここでどう伝えればいいのかがわからず、言葉に詰まる。

 結局、図星を衝かれて言い返せないと受け取られたようだった。

 

「この力があれば、それも変わるよ。他にもたくさん、今までできなかったいろんなことができるようになる。ねえ、お姉ちゃんはどうしたい? 私たちはもう弱くないんだってみんなに思い知らせてやれるし、いじめられた仕返しだってできるよ」

 

 こいしは笑っていたが、それが楽しさや嬉しさによるものでないのは一目瞭然だった。能力が通じなくたってわかる、今のこいしの奥底ではなにか黒い感情がとぐろを巻いている。昨日今日という次元ではない。きっと、何年も、何十年も、心の中に溜め込み続けてきた負の感情だったのだろう。

 だから。

 

「こいし……っ!」

 

 だから、さとりは。

 心の底から、己の浅慮を悔いた。こいしを理解しようとしてこなかった己を悔いた。こいしが自分をどう思っているのか確かめるのが怖くて、逃げていたのだ。もしかすると、『口うるさいお節介な姉』と嫌われているのではないかと思って。

 こいしは自らの心を自ら封じ、第三の目をも閉ざすことで、いつも笑ってあちこちを放浪するばかりな妖怪と化した。だからきっと、恨みや悲しみといった負の感情とも無縁になったのだろうと、勝手に決めつけてしまっていた。

 心を閉ざしたからこそ、負の感情はどこにも吐き出されず積もり積もっていたというのに。

 さとりは心を読めずとも、心を読めないからこそ、こいしという少女をもっと知ろうとするべきだったのだ。

 

「……」

 

 さとりは一度頭の中を空にし、深呼吸をして、それから考えをまとめた。

 

「――こいし。でも、そんなに慌てなくてもいいんじゃないかしら?」

 

 月見のように、できる限り優しい声音で。こいしの考えを、頭ごなしに否定しない言葉で。

 

「その力はいくらなんでも危ないわ。おくうの体にも、きっと相当な負担が掛かっているでしょう?」

「それは……」

「もう少し、私たちの間で話し合ってからでもいいと思うの。今は、ちょっといきなりすぎるもの。あなたとおくうの考えを、もっと教えて頂戴?」

 

 今からでも遅くはない。今ならまだ間に合う。今こそこいしを正しく理解しなければ、こんな恐ろしいことをやめさせるのは夢のまた夢で終わってしまうだろう。

 こいしは、むうと腕を組んで考え込んだ。悪くはない反応だった。嫌なら、こいしはその場ですぐさま嫌だと否定する。

 まずは、こいしを説得する。力をどう使うかの話は置いておいて、ひとまず地霊殿まで戻るように。この場をやめさせるように。こいしが折れればおくうだって折れざるを得ないはずだから、あとは地霊殿で心ゆくまで言葉を交わし合えばいい。

 言う。

 

「だから、一度地霊殿に戻」

 

 突然だった。

 岩の山がひとつ、木っ端微塵に吹き飛んで崩落した。

 

「……!?」

 

 バランスを失うほどの地響きが大地を襲う。さとりから見て右手前奥の、そう大したことはない小ぶりな岩山だった。だが、たとえ大したことのない岩山であっても、根本から砕け散ってバラバラに崩壊していったのは事実だった。

 おくうが、いた。

 緋色に鈍く輝く不気味なオーラをまとっている。ただ、遠目なせいもあるのだろうが、明らかにおかしいところといえばそれくらいで、他は至っていつも通りのおくうに見えた。――彼女の心の声を、聞くまでは。

 なにかが、いた。

 おくうの心の中に。

 

「――ッ!!」

 

 全身が怖気立った。

 その心の声は、人の言葉をしていなかった。少なくともさとりには、頭の中をごちゃごちゃに掻き回されるようなノイズとして響いた。そんなはずはない。さとりの能力は相手の表層意識を読み取るものであり、種族や言語の違いに囚われたりはしない。妖怪だろうが人間だろうが動物だろうが植物だろうが、意思ある生物すべての思考をさとりは超感覚的に読み取る。意識として成立しない単なるノイズを読み取るなど、到底考えられない現象だった。

 しかし、聞き続けているといくつかわかってくることがあった。

 まず、このノイズにほとんど押し潰される形で、おくうの思考がわずかながらに感じ取れること。

 そして、一見単なるノイズに聞こえるが、これは、

 

(鴉の、啼き声……?)

 

 もしもこのノイズが、おくうが呑み込んだという神――八咫烏の意識であるならば。

 それはすなわち、おくうの意識が、八咫烏の意識に押し潰されかけていることを意味する。

 

「おくう……!?」

 

 おくうが豆粒のように見える距離なのだ、まさかその声が聞こえたはずはなかろう。

 だがそのとき確かに、さとりはおくうと視線が交差したのを感じた。

 

「あ、おくうだ! おくうーっ!」

 

 こいしがぶんぶんと両手を振っておくうを呼ぶ。おくうはこの距離でもはっきりわかるほど大きく翼を打ち鳴らし、燕のような速度で飛んできた。

 ほぼ一週間振りに見る、おくうの顔だった。

 

「……おくう」

「――さとり、さま」

 

 おくうは、やつれた顔をしていた。汗だらけで、肩で息をしていて、瞳にはまるで元気も力もなかった。なのに全身から迸る妖気と熱気だけが凄まじく、さとりの肌をビリビリと痺れさせる。

 ノイズのせいで、おくうがなにを考えているのか上手く読み取れない。

 

「おくう、あなた」

「やっぱり、さとり様はそっち(・・・)なんですね」

 

 おくうが、笑った。

 やつれた顔で。

 

「私を、止めに来たんですよね? そこの狐に、手伝ってくれとでも頼まれたんですか?」

「……おくう、なにを」

なにしに来たんですか(・・・・・・・・・・)

 

 感情の失せた声。

 嫌な、予感がした。

 

「どうせさとり様は、私よりそっちの狐の方が好きなんでしょう? こんなところになんか来ないで、地霊殿で仲良くお話してればいいじゃないですか。いつもみたいに」

「ちょ、ちょっと待って、あなたなにを」

「私のことなんて、放っておいてください」

 

 狼狽えたのは、さとりだけではなかった。ずっとおくうと一緒にいたはずのこいしですら、信じられない顔つきでおくうを見上げていた。

 

「……お、おくう? どうしたの?」

「こいし様は、私の味方ですよね?」

「え? ……えっ?」

 

 自分たちの足場が、突然ボロボロと崩れ落ち始めたような。

 そんな、冷たい錯覚。

 

「ちょ、ちょっと待ってよおくう、さとり様はおくうを心配して」

「うるさい。どうせお燐もそっち(・・・)でしょ」

 

 一体なにが起こっているのか、さとりたちは頭の理解がまるで追いつかない。

 

「どうせ、さとり様も、お燐も、その狐の味方なんだ。みんな私を止めに来たんだ。私を見てくれるのは、こいし様だけなんだ」

 

 おくうが、笑う。歯車の狂った人形のように。

 今度は、泣きそうな顔をして。

 

 

「――もう、放っておいて、くださいよ」

 

 

 おくうの心は、ノイズのせいでほとんど読めない。

 だからさとりには、目の前でなにが起こっていて、なにをするべきなのかがまるでわからない。

 胸元に深紅で炯々(けいけい)と輝く目玉を埋め込んだ、異形の出で立ち。

 ノイズで潰され、読み取れない思考。

 そして、彼女がさとりとペットとなってからはじめて口にする、拒絶の言葉。

 一週間――。

 ほんの一週間見ない間に、おくうはあまりにも変わりすぎていた。

 

「――空」

「黙れッ!!」

 

 月見がおくうの名を呼んだ。その瞬間おくうが、まるで獣のような形相をして、右の掌に凄まじいエネルギーを収束させた。

 月見が飛ぶ。おくうが撃つ。

 的を外れた光弾は遥か後方に転がっていた岩を穿ち、炸裂した。

 

「っ――待てッ!!」

 

 ほんの掌程度の光弾だったのに、吹き荒ぶ爆風はさとりたちが立っていられなくなるほど凄絶だった。そのせいで、月見を追って飛翔したおくうに、誰も手を伸ばすことすらできなかった。

 

「おくう!? おく、」

 

 さとりがようやく叫んだその頃には、もう月見の姿もおくうの姿も見当たらない。ただ、岩山の消し飛ぶ爆音とかすかな地響きが、段々と奥へ遠ざかっていくだけだった。

 

「いっ……たい、」

 

 ――なにが、どうなって。

 ここまで来てもまだ、目の前の現実に頭が追いつけない。わかるのは、たった一分にも満たないわずかな時間で、あってはならない方向に事態が崩壊したということだけ。

 おくうが、月見を攻撃している。

 目の前の焦土を作り出した、恐るべき神の力で。

 おくうが破壊の限りを尽くした空間から、ギリギリのところで難を逃れていた岩山が、今度は二つまとめて消し飛んだ。崩れ落ちていく岩の塊を目覚ましい速度で躱し、おくうと月見が姿を現す。おくうの周りに、灼熱の色で輝く光弾が無数に滞空している。それを次々と撃ち出し、また次々と新たに作り上げ、おくうが絶え間なく月見を攻撃している。

 一発一発が、岩山を瓦礫に変えるほどの威力だった。

 

「……だ、だめ、」

 

 全身が恐怖で粟立った。もし、あれが月見に当たってしまったら。あんなものを喰らってしまったら、いくら大妖怪であっても無事で済むとは思えなかった。

 それ以上はもう、なにも考えられなかった。

 とにかく、止めなければならない。止めなければ、本当に取り返しのつかない、大変なことが起こってしまう。ただその恐怖だけに囚われ、さとりは無意識のまま足を前に、

 

「――うあ゛ッ!?」

「さとり様!?」

「お姉ちゃん!?」

 

 できなかった。突如襲いかかってきた脳を抉られるような激痛に、頭を押さえて膝から崩れ落ちた。

 

「っ、う、ああ゛……っ!?」

「さとり様!? さとり様、どうしたんですか!?」

 

 お燐の声が、遠い。

 脳が、ノイズで蹂躙されている。おくうの中に巣食う八咫烏の意識。だがそれは、もはや『頭の中を掻き回されるような』レベルではなかった。

 脳味噌を、石でゴリゴリとすり潰されているような。

 おくうの感情に共鳴して、暴走の一歩手前まで激昂しているのだ。嫉妬、憎悪、悲傷、孤独、苦悩、自棄、おくうが抱くあらゆる負の感情を貪欲に呑み込み、燃え盛る怒りへと昇華し、それを更に力へと変換して放出している。

 神の、荒御魂。

 その波動が、筆舌に尽くしがたいノイズとなってさとりを襲う。

 

「あ……あああ……!!」

 

 地底が、破壊されていく。

 岩山が次々と消し飛ばされ、大地も岩の塊も区別なく爆炎が呑み込み、焦土がまるで灼熱地獄のように変わり果てていく。

 それだけでも、もう立ち上がれなくなるほど打ちひしがれたのに。

 

「――ダ、メ」

 

 こいし、が、

 

「ダメだよ、こんな」

 

 震えている。瞳孔が開き、まばたきもできなくなった瞳で、月見とおくうの姿を追いかけている。

 

「ち、違う。こんなの、私、望んでなんかない」

 

 足が一歩、前に動いた。

 

「……! こいし!」

 

 さとりは手を伸ばす。だが頭を掻きむしるノイズに邪魔をされ、その動きは拍子抜けするほど緩慢なものでしかなかった。

 さとりの指は、遂にこいしに届かなかった。

 

「ダメええええええええええっ!!」

 

 こいしが、飛んだ。

 戦うおくうと月見を、目がけて。

 飛んでいって、しまった。

 

「こいしっ!? 待っ――づ、う゛……ッ!?」

「さとり様、無茶です!」

 

 咄嗟に立ち上がろうとしたが、さとりの体にはまるで力が入らず、倒れる寸前でお燐に支えられた。頭が割れるようだ。気を強く持っていなければ、気絶しそうになってしまうほどの激痛だった。

 

「私が行く……! あなたたちはここにいて!」

 

 もうほとんど目を開けていることもできなくて、ただ耳朶を打った少女の声から、天子がこいしを追いかけていったのだとわかった。

 お燐に支えられながら、さとりは歯を噛み砕かんまでに軋らせた。

 

 どうして。

 どうして、こんなことになってしまうの。

 なにも傲慢な望みなんて抱いていない。ただ家族たちと、月見と、藤千代と。さとりを受け入れてくれる優しいみんなと、お茶を飲みながら、取るに足らない世間話をして、笑い合うことができればそれで幸せなのに。

 なのにどうして、その通りになってくれないの。

 どうして、私の頭に流れ込むみんなの心は、こんなにも苦しんでいるの。

 

「さとり、さま……っ」

 

 背に回されたお燐の腕は、震えていた。

 ――もう、どうすればいいのかわからない。

 泣きそうになっている、お燐の心の声を聞いて。

 さとりもまた、震える両腕で、お燐に縋りつくことしかできなかった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 ――なにが、『いいタイミングが巡ってくる』だ。

 そう表現すれば響きはいいが、結局のところそれは、時の流れにすべてを丸投げした現実逃避に他ならなかったのかもしれない。恰好つけた言葉で飾り立てて、彼女と向き合うことから逃げていただけなのかもしれない。

 少なくとも、結果論からいえばそういうことになる。

 なぜならば今まさに、目の前の現実が手遅れになっているのだから。

 

「――あああああっ!!」

「……ッ!」

 

 理性のタガを振り切るように叫び、おくうが灼熱の弾幕を放った。弾幕とはいっても、それはスペルカードルールで使用される生易しいものでは断じてない。銃弾が如き速度と、岩の山を丸々瓦礫に変えるほどの殺傷力を備えている。直撃すれば、月見とて間違いなく無事では済まない。

 そんな冗談の利かない弾幕で、おくうは月見を排除しようとしている。

 理由なんて、わざわざ問うまでもなかった。

 

「ずるいっ、ずるいずるいずるいずるいっ、ずるいよ!!」

 

 おくうは、泣いていた。たとえ涙を流さずとも。その叫びには、月見の想像を絶する深い嫉妬と悲傷がにじみ、滂沱(ぼうだ)の涙となって流れ落ちていた。

 

「私だって、私だってっ、さとり様に見てほしいのに!! なのにさとり様は、お前ばっかり、お前ばっかり、お前ばっかりッ!!」

 

 なにからなにまで、月見の考えが甘かったとしか言えない。

 おくうが月見を嫌う理由の根底に、嫉妬という感情があるのは理解していた。さとりやこいしたちと仲良くなっていく月見が気に食わない。自分の居場所が奪われてしまうような気がして許せない。気づいていた。ああ、気づいていたとも。

 だがまさか、こんなにも自分を追い詰めていただなんて。

 想像すらできていなかった月見を、愚かと言わずしてなんと言えばいいのか。

 

(――くそ)

 

 それしか言葉が出てこない。ここまでの自己嫌悪も久し振りだった。天子が起こした異変のときも大概だったが、もしかするとそれ以上かもしれない。

 なぜなら、おくうが神の力に縋り破壊の限りを尽くす原因は、根本的には自分であるからだ。

 天子の異変のときとはまるで違う。『原因の一端を担った』のとはワケが違う。

 これは、完全に、月見のせいなのだ。

 

「さとり様は、いつも澄ました顔してたけど! でも心の中では、こいし様と同じくらいに、お前が来る日を楽しみにしてた!! お前のことを考えてた!! 見てるだけでわかったもん!! 私のことよりも、ずっとずっと考えてた!! どうして!? 地上の妖怪のくせにっ、男のくせにっ、ずるいよ!!」

 

 おくうの弾幕は途切れない。月見にはただ躱すことしかできない。

 

「こいし様だって、お燐だってそう!! みんながお前のことを考えてた!! みんながお前を受け入れてた!! なんで!? お前は余所者でしょ!? 私たちの場所に入ってこないでよッ!!」

 

 おくうが、滞空させていた光弾をすべて掃射する。だが、まるで照準が月見に定まっていない、明らかに手当たり次第な連射だった。弾幕はほとんど躱す必要がないほど月見を外れ、そびえる山々を二つばかり焦土に変えた。

 砕け散った岩の塊を躱してなお先へ飛びゆくと、不意に視界が開けた。ここは、おくうがなにもかもを破壊し更地に変えてしまった空間だ。躱し続けるうちに飛ぶ方向が狂い、戻ってきてしまった。

 素早く知覚を研ぎ澄ませる。さとりたちのいる場所とはほぼ正反対に位置しており、巻き込む心配がないことを確かめる。

 

「本当は私だって、こんなことしたくないの」

 

 おくうがまた、周囲に無数の光弾を作り出していく。

 

「でも、でもこの力を手にして、こいし様は私を見てくれる(・・・・・・・)ようになった。毎日私のところまでやってきて、食べ物を持ってきたり、着替えを持ってきてくれたりした。私のことを考えてくれてた。――嬉しかった」

 

 泣き笑いの、顔。

 

「最初はこいし様の気持ちに応えようとしただけだったのに、気がついたら私がこの力に依存してた。この力があれば。この力でこいし様の言うことを聞いてれば、こいし様は私を見てくれるんだって。お前なんかよりも、私のことを考えてくれるんだって。こんなことなんてしたくないのに、でも、それよりも、私を見ていてほしかった。苦しくても、辛くても、こいし様が見てくれてるだけで嬉しかった」

「――、」

「バカだよね」

 

 バカなものか、と月見は歯を軋らせた。――バカなのは、お前をそこまで追い詰めてしまった私の方だ。『いいタイミングが巡ってくる』なんて恰好つけた台詞を言って、お前の心から目を逸らしてしまった、私の方なんだ。

 

「……ひょっとしたら、これなら、さとり様も私を見てくれるようになるんじゃないかって、思ってた」

 

 おくうが右手を、月見に向ける。

 

「でも――でも、ダメだった!! やっぱりさとり様は、お前の味方だった!!」

 

 二度目の掃射。だがやはり照準が、もはやわざとやっているのではないかというほど滅茶苦茶だった。月見が身動きひとつする必要もなく、すべてが月見を素通りし、閃光と爆風を上げて大地に無数のクレーターを穿った。月見の着物の裾が、おくうのマントが、狂ったような勢いではためいた。

 おくうが、身をよじった。

 

「やめてよ……! さとり様とお燐を、とらないでよぉ……! 返してよぉ……っ!!」

 

 それは、被害妄想というものだったのかもしれない。さとりだってお燐だって、しっかりとおくうのことを見ている。考えている。だからお燐は「おくうを助けて」と月見に助力を求めたのだし、さとりだって危険を顧みもせずにここまでやってきてくれた。

 だが、おくうが求めているのはそういうことではない。

 月見などではなく。

 自分を見てほしい。自分のことを考えてほしい。想ってほしい。肯定してほしい。

 穿った言い方をしてしまえば、おくうは構ってほしいのだ。さとりたちが月見ばかりに気を取られているものだから、悔しくて、寂しくて、悲しくて、殻に閉じこもっていじけているのだ。

 幼稚だったかもしれない。

 わがままだったかもしれない。

 けれどおくうの言葉は、撃ち出される灼熱の弾幕以上に鋭い刃となって月見に迫った。

 だって、それは。

 

 おくうがはじめて月見に打ち明けてくれた、彼女の本当の気持ちだったのだから。

 

「お前なんて……! お前なんて、キライだもん……!!」

 

 駄々をこねるように叫んだおくうが、両腕を掲げて次の弾幕を作り出す。今後は数が桁違いに多い。月見が見上げる天を、満天の星空もかくやの密度で埋め尽くしていく。これだけの数があれば、いくら照準が滅茶苦茶でも一発くらいは当たるだろうな、と月見は思った。

 他人事のように、危機感などまるでなく。

 それどころか、避けてはいけないのではないかとすら考えていた。今の自分に、逃げていい権利があるのかと。爪が肌を裂くほど拳を握り、唇を噛み締め、月見は言葉にならない感情の激流に立ち竦んでいた。

 答えが、見つからない。

 今の自分になにができるのか。なにかができるものなのか。どんな言葉を掛けるべきなのか。掛けられる言葉などあるものなのか。

 ひょっとして、自分は。

 ここに来ては、いけなかったのではないか。

 

「……ッ!」

 

 おくうが右腕を振ろうとする。そうすれば最後、輝くすべての星々が月見を射抜くために動くだろう。岩の山を瓦礫に変えるほどの威力を持つ弾幕。直撃すれば月見とて無事では済まない。当たる数によっては命の保証もない。

 わかっている。

 だがそれでも、これ以上、避け続けるつもりにはどうしてもなれなかった。

 おくうもきっと、それを感じたのだろう。おくうがきつく目を閉じ、なにかを叫んだ。月見はもはや彼女を見返しもせず、ただ、全身から力を抜いて、

 

「――おくうっ、だめえええええっ!!」

 

 彼我の時が、止まった。おくうは全身が瞬く間に凍りつき、月見は刹那の間、頭の中をぽっかりとした空白に呑み込まれた。

 こいしが、いた。

 月見が手を伸ばせば届くくらいの、ほんの目の前に。

 

「こいし様!?」

 

 おくうの反応はギリギリで間に合った。撃ち出される寸前まで行っていた赤の星々を、すべて強引に消滅させた。

 理解できない目をしていた。

 こいしが自分の前に立って、震えながら精一杯に両腕を広げて、月見を庇っているのだから。

 

「おくう、や、やめて。こ、こんなの、だめ、だめだよ」

「――月見ッ!!」

 

 しかも、こいしだけでは終わらなかった。彼女を追って飛んできた天子が、緋想の剣で、真横からおくうに斬りかかった。

 

「……ッ!?」

 

 おくうが天へ飛んで躱す。天子は叫ぶ、

 

「月見ッ、早くその子を安全なところに!!」

 

 だが月見は、その言葉を半分も聞いてはいなかった。なにが起こったのかをようやく理解した月見は、ただ呆然と一言、

 

「――お前ら、」

 

 ダメだ(・・・)それは(・・・)

 もちろん、二人とも必死の行動だったはずだ。こいしは無我夢中でこの争いを止めようとし、天子は少しでもこいしを危険から遠ざけようとした。その結果としてこいしは月見を庇ったのだし、天子は時間を稼ぐためにおくうへと斬りかかった。

 

 自分たちの行動が、最悪の引鉄を完膚なきまでに引き切ったとも知らずに。

 

「――こいし、さま」

 

 おくうの、虚ろな、声。

 きっと、裏切られた心地だったのだろう。ずっと自分を、自分だけを見てくれていたはずのこいしに、「やめて」と否定される。無論こいしにとっては、月見を、なによりおくうを考えての行動だったはずだが、思考が極限状態にある今のおくうに、そこまで理解できる余裕なんてありはしなかった。

 

「――やめて、」

 

 それは、まるで。

 おくうの心のたったひとつの支えだったこいしまでもが、自分から離れていってしまうような。

 今度こそ、本当に、ひとりぼっちにされてしまうような。

 

「やめてよ、」

 

 きっとおくうには、そう見えたはずだ。

 

「こいし様を、連れてかないで(・・・・・・・)

 

 そして、こいしまでもが自分から離れていってしまうのは、

 ぜんぶぜんぶ、月見という狐のせいなのだと、

 

「こいし、さまを、」

 

 そう考えなければ、おくうはもう、おかしくなって壊れてしまいそうだったのだ。

 

 

「――こいし様を、返せええええええええええええええっ!!」

 

 

 太陽が(・・・)砕けた(・・・)

 

 それがなにを意味していたのか、実のところ月見にはよくわからなかった。少なくとも月見には、眼前で起こった現象を目で認識し、脳で理解するだけの時間が与えられることはなかった。

 ただ、直感でわかった。

 このままでは、こいしも天子も助からない。

 だから己のすべてを、その直感を打ち砕くためだけに捧げた。

 

 間に合え。

 間に合え。

 

 十一尾を全開放、前に飛び出す、天子を抱き寄せ己の体で庇う、妖術で今できる限界まで尾を巨大化、銀の炎をまとわせ扇状に展開、焼け石に水だろうが結界を起動、なにもしないよりはマシだ、少しでもおくうから距離を取る、こいしに手を伸ばす、あと少し、あと少しで届く、こいしはなにが起こっているのかわかっていない、完全に固まっている、もっと速く、もっと速く、指先が触れる、間に合え、間に合え、間

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――その刹那になにが起こったのかは、天子の記憶に刻まれることなく遂に欠落してしまった。

 なにが起こったのか最後までひとつとしてわからぬまま、肌を刺す熱と、胸にのしかかる重みだけを感じて天子は目を開けた。

 

「……月、見?」

 

 自分のすぐ胸の上に、見慣れた銀色の髪が広がっていた。尖った獣耳も見えた。間違いなく、月見の頭だった。

 自分が月見に押し倒されているのだと理解するまで、数秒ぼんやりと考え込んでしまった。

 そしてその頃には、いくら天子でもとっくに気がついていた。

 

「……なに、これ」

 

 火の海。

 無骨な岩肌が隆起する峡谷地帯だった場所は、見る影もなく崩落し、片っ端から炎に呑まれ、凄絶な地獄の様相を呈していた。

 そして自分の周囲のごくわずかな範囲だけが、まるで切り取られたように炎の難を逃れている。

 やっと、理解した。

 

「……そっか。月見が、守ってくれたんだね」

 

 また、助けられてしまった。本当は、自分が助けになるつもりだったのに。月見の頼もしさを改めて実感し、己の不甲斐なさを改めて痛感した。

 前からこうだ。自分はいつも月見の足を引っ張ってばかりで、そのたびに助けられて、彼に対する恩ばかりが増えていく。

 胸の上に感じる、少し重いくらいの、この重みを。

 自分はいつか、支えられるようになるのだろうか。

 

「つ、月見、ちょっと重いよ……」

 

 天子は身じろぎをした。天子はほとんど、月見に押し潰されているような有様だった。こんなにも間近で月見を感じるのは、夏の異変で、抱き締めてもらったとき以来で。そんな場合ではないと頭ではわかっているのに、それでもドキドキしてしまう自分がひどく恨めしかった。

 少し冷静になって考えれば、普段の月見なら冗談でもこんな真似はしないとわかったはずなのに。

 

「ん、んんっ……」

 

 力を振り絞って、月見の下から這い出ようとする。今の心音を月見に聞かれてしまうのが嫌だったからだ。けれど、さすが男の人だけあって月見の体はずしりと重く、天子の腕力ではわずかに押し返すのが精一杯だった。

 腹の下までやっとの思いで這い出たところで、一息つく。

 

「もう。月見、重いってば……」

 

 しかしこの重さが、なんだかいいなと天子は思っていた。さとりがこの場にいなくて本当によかった。今考えていることを読まれたら、恥ずかしすぎてちょっと生きていけなくなってしまう。

 重力に引かれた月見の頭が、天子の腿の上に落ちた。

 

「……月見?」

 

 やっと疑問に思った。

 なんで月見は、身動きのひとつもしないのだろう。どうして、なんの返事もしてくれないのだろう。

 

「月見? ねえ、こんなときになにして」

 

 肩を揺すった。

 気づいた。

 見てしまった。

 

「――――――――あ、」

 

 

 月見の背中すべてを覆い尽くす、惨たらしい炎の傷跡。

 そして、一本残らず無残に焼け落ちた、かつて銀色だった十一尾を。

 

 

「……あ、あはは。月見?」

 

 月見は、動かない。

 

「ねえ。ねえ、月見」

 

 ――きっと大丈夫だと、掛け値もなしに信じていたのだ。月見がいれば、絶対に大丈夫なのだと。天子の力ではどうにもならない事態になっても、月見がなんとかしてくれるのだと。

 だって、天子が異変を起こしたときはそうだった。

 月見が、助けてくれた。

 月見が、天子の願いを叶えてくれた。

 月見が、みんな笑える結末を手繰り寄せてくれた。

 だから、月見がいてくれれば、平気だって。

 なにも、なんにも、疑ってはいなかったのだ。

 そんなはずがなかったのに。月見だって天子と同じ、生きとし生ける者の一人でしかなかったのに。どんなに強大な力を持っていても、間違えもするし失敗もする、たった一匹の妖怪でしかなかったのに。

 世界が、焼けている。

 

「月見……! 月見、月見ッ……!!」

 

 返事は、返ってこない。

 

 銀の狐は、動かない。

 いつまで経っても、ピクリとも、動かなかった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 誰かが泣いているような気がして、こいしはゆっくりとまぶたを上げた。

 そこは、火の海だった。一瞬、灼熱地獄に落ちてしまったのかと本気で思いかけたくらいだった。背中から聞こえる少女の泣き声がなければ、魂を抜かれてしまっていたかもしれない。

 振り向いた。

 そして振り向いてすぐに、こいしは心の底から後悔した。だって、絶対に見たくないと思っていた光景が、血も涙もなく広がっていたのだから。

 

「月見……! 月見っ……! いや、いやだよぉ……っ!!」

 

 少女が、月見を抱いて泣いている。それだけだったなら果たしてどれだけよかっただろう。けれど、けれどこいしは、間違いなく見てしまった。

 

 月見は、誰がどう見たって無事ではなかった。

 

 背中全体を無慈悲に覆い尽くす火傷の跡。

 救いなどなく焼け落ちた、かつて銀だった尻尾。

 月見は、身動きひとつしない。こいしの目には、生きているのかどうかすら判別がつかなかった。

 

「――――――――――――、」

 

 なんの反応も、できなかった。なんの反応もできなかったこいしは、今となっては遠い昔の、姉が人間に退治されかけたときの記憶を思い出していた。

 あのときもし、藤千代が助けてくれていなかったら。自分が間に合っていなかったら。月見のようになっていたのは姉で、少女のように泣いていたのはこいしだった。

 

 自分は一体、なにをしようとしていたのだろう。

 

 夢から覚めたような心地がした。強い力があれば、きっとたくさんの素晴らしいことができるようになると思っていた。さとりが望むのなら、旧都のヤツらに今までの仕返しだってしてやるつもりだった。なんの疑問も抱いていなかった。なにも間違っていないと本気で思っていた。

 なら、目の前の光景は一体なんだ。

 これは、こいしが望んでいた『素晴らしいこと』なのか?

 家族と同じくらいに大好きな月見が、傷ついて。生きているのかどうかもわからなくて。そして、少女が、彼を抱いて泣いている。

 姿が、重なる。

 月見が、さとり。

 少女が、こいし。

 なら、あのときの博麗の巫女は――

 

「こいし、さま」

 

 おくうが、いた。魂が抜けたような顔をして。今にも崩れ落ちそうになりながら、それでも懸命に、一歩ずつゆっくりと歩いてきていた。

 少女が恐怖で全身を強張らせ、月見を抱く腕にあらん限りの力を込めた。震えていた。砕け散りそうな顔をしていた。同じ女に向けるような目では到底なかった。言葉にできずとも心の中では、こないで、もうやめてと必死に祈っていたはずだった。

 おくうの姿に、かつての博麗の巫女が、今度こそ完全に重なった。

 やっと、わかった。

 かつて博麗の巫女は人間たちの願いを受けてその力を振るい、こいしの深い恨みを買った。

 そして今、こいしの願いを受けて力を得たおくうは、この少女から月見を傷つけた敵として恨みを買おうとしている。

 同じだ。

 

 こいしはおくうを、大嫌いな博麗の巫女と同じ存在にしてしまったのだ。

 

 どうして気がつかなかったのだろう。旧都のヤツらに仕返しをしたところで同じことだ。おくうがその力を振るえば、誰かが月見のように怪我をする。そうすれば、誰かが少女のように涙を流す。たとえ姉を悲しませた憎い相手であっても、その人には必ず、こいしにとっての姉のような大切な誰かがいるはずなのだ。そしてその『誰か』はきっと、大切な人を傷つけたおくうを心の底から恨むだろう。

 自分は、月見になにをしてしまったのか。

 家族に、なにをしてしまったのか。

 ようやく、わかってしまったのだ。

 

「――おくう」

 

 こいしの頬を、涙が伝った。

 

「ごめんなさい。ごめんなさい、私が間違ってた」

 

 おくうの歩みが、止まった。

 

「こんなこと、しちゃいけなかったんだ」

 

 涙が、止まらなかった。

 これで正しいのだと思っていた。力が欲しいと願うのはなにも悪いことではなく、一度得た力を如何ように振るうのも自由だと思っていた。あの注連縄の神様と出会ったのは、運命だったのだとすら感じていた。この力で今までの自分たちから生まれ変われという、神様のお告げだった気がしたのだ。だから、素直にそうしようとした。そうなれると信じていた。

 間違っていた。

 傷ついてほしくない月見が、傷ついた。大切な家族が、博麗の巫女と同じ存在になってしまった。こいしが間違っていないのなら、こんな現実が起こるはずなどない。だからこいしは間違っていて、これは与えられた力を私利私欲に使ってしまった自分へ、神様が与えた罰なのだ。

 言わずにはおれなかった。

 

「そんな力、求めちゃ、いけなかったんだ」

 

 もう、涙で前もロクに見えなかったけれど。

 それでもこいしは、おくうに向けて、精一杯に微笑んだ。

 

「――もうやめよう、おくう……!」

 

 束の間、世界が焼ける音だけで満たされていた。おくうは、呆然としているように見えた。立ち竦んだままなにも言わなかったし、指の一本も動かす気配はなかった。

 

「……おくう?」

 

 こいしはおくうの名を呼んだ。しかしやはり、おくうはなんの反応も見せなかった。おかしい。おくうはどんなときであってもこいしの言葉を無視したりはしない。考え事をしているとも思えない。今のおくうはまさに、吹けばそのまま消えてしまいそうな、消え入る寸前のロウソクのように見えた。

 ざわざわと、胸騒ぎがした。

 そのときようやく、おくうがこいしの言葉に反応した。

 

「――は、は」

 

 おくうは、よろめいた。

 

「なんですか、それ」

 

 肩を震わせて、笑っていた。

 まるで、絡繰人形が壊れる寸前のような動きだった。

 

「なんで、そんなこと、今更(・・)

 

 こいしは、わかっていなかったのだ。今のおくうが、一体どれだけ危うい均衡の上に成立していたものだったのか。自分の言葉が、その崖っぷちの均衡にどんな影響を与えてしまうものだったのか。

 

「じゃあ――じゃあ私は、なんのために、こんな」

 

 この期に及んでも、まだ、なにひとつもわかっていなかったのだ。

 

 

「――――――――――――あ、」

 

 

 おくうが、揺れた。

 ほんの一瞬。

 それが引鉄だった。

 

 

 おくうが、崩壊した。

 

 

「――――――――α荒アァ或Aァa亜或荒呀唖α呀婀ぁ荒亜ァα阿aァあアaぁア阿亜a亜呀Aアあ荒αア唖!?」

 

 それは、おくうの声でありおくうの声ではなかった。おくうの声に、本来ならばありえるはずのない別の音が混ざり込んでいた。

 鴉の、哭き声。

 おくうの全身から、目もくらむ豪炎が噴き上がった。こいしなんて物の数にも入らない、まるで土砂崩れを起こしたような炎だった。

 

「――、」

 

 逃げなきゃとすら、思えなかった。

 炎に呑まれる直前、その狭間に、刹那のおくうの姿を見た。

 血と闇の色で潰れた瞳。

 胸元の目玉から木の根が如く広がる、深紅の文様。

 全身から炎を――破滅を振りまく、異形の外貌。

 悟った。

 

 ――あれは、おくうじゃない。

 

 そこまでだった。

 濁流が如く押し寄せてきた炎に、こいしも、月見も、なにもかも、一呑みで消えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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