本当は、はじめからずっと辛くて嫌だった。
元々は、灼熱地獄を飛び回って亡者の死肉を啄む、なんの変哲もない地獄鴉の一匹でしかなかった。遠い昔の、おくうが『霊烏路空』という名すら持っていなかった頃で、灼熱地獄跡がまだ『跡』ではなく、地獄の裁きのひとつとして機能していた時代でもあった。お燐とは当時からすでに顔の知れた友人同士だったが、やはり彼女にもまだ『火焔猫燐』という名がなく、「あんた」とか「お前」とか、「猫」とか「鴉」とか、そんな風に呼び合って自由気ままに暮らしていた。
変わったのは、灼熱地獄が灼熱地獄『跡』になって、何年かした頃。
地上から突然、妖怪たちが移り住んできて。
灼熱地獄と地底をつなぐ土地の真上に、地霊殿という建物ができて。
そしておくうは、運命の出会いをしたのだ。
さとりとこいしがまずしてくれたのは、『霊烏路空』と『おくう』の名を与えてくれたことだった。前者はさとりが、後者はこいしが考えてくれた名前だった。二人の性格がよく表れていると思う。『霊烏路空』という堂に入った名は、いかにもしっかり者で礼儀正しいさとりらしいし、『おくう』というかわいらしい名は、いかにも自由奔放で元気いっぱいなこいしが考えた風である。もちろんどちらも、聞いた瞬間大好きになった名前だった。
きっと『おくう』は、あのときにはじめて生まれ落ちたのだ。
お燐にも同じように、『火焔猫燐』と『お燐』の名が与えられた。もっともお燐は、さとりから贈られた『火焔猫燐』の方は、少し仰々しすぎて苦手なようだったけれど。呼ばれると、くすぐったくて尻尾の付け根がモゾモゾするらしい。なのではじめのうちは、たくさん呼んでたくさんからかってあげた。
さとりとこいしのペットになってから、おくうは変わった。
名前を与えてもらった。
人の姿を取れるようになった。
誰かのために働く楽しさを知った。
誰かを笑顔にする喜びを知った。
そして、なにより。
大切な家族ができて、『愛』という感情を知ったのだ。
自覚症状が出てきたのは、さとりたちのペットとして暮らす日常が当たり前のものになってきた頃だった。
生きた餌を食べられなくなった。ただの鴉だった頃は、そのへんを飛んでいる虫も平気でひょいひょいと食べていたのに、急に『可哀想』という感情が浮かんでくるようになった。中庭を歩いて移動するとき、足元にアリさんがいないか、間違って踏んづけたりはしていないかと不安を感じるようになった。生き物に限らず小さな一本の花であっても、間違って踏んでしまえば後味の悪いものを覚えるようになった。
なぜ。
愛されていたからだ。
鴉だった頃は愛されることなどなく、奪われるものは自分の命以外になにもありはしなかった。仲間はいたが、それは単に似た者同士が群れていただけで、とりわけ好きではなかったし、好かれてもいなかったと思う。
けれどさとりたちのペットになって、たくさん可愛がってもらえて、大切にしてもらえて。いつしか自分の中にも、『大切にする』という心が生まれていたのだ。傷つけることが、奪うということが、なんだかとても虚しくて悲しいものだと思えてきて、気づけば虫の一匹も殺せない性格になってしまっていた。
仮にも妖怪として情けないような気もしたが、それほどコンプレックスはなかった。
おくうは、優しいのね。
そう言って、自分の大切な人が、笑ってくれるから。
はじめはただ、こいしとさとりの力になりたい一心だった。
ある日、こいしが地上の神様を連れてきて。
この力があれば、私たちにもお姉ちゃんを守ったりできるんだよ――そう言われたとき、断るという選択肢なんて頭に浮かびもしなかった。
おくうは、弱い妖怪であった。
恐らく、まともに戦えば主人にも勝てない。地獄鴉とは、結局のところ地獄に棲んでいるだけのただの鴉であり、戦うための力なんて皆無にも等しかった。だから、さとりが旧都の連中になにかひどいことをされ、泣きながら帰ってきたときも。過去の記憶に苛まれ、眠れない夜を過ごしているときも。おくうは、ただ見ているだけだった。それしかできなかった。誰かが下手に慰めようとすればするほど、さとりは心配を掛けまいと気丈に振る舞い、自らを追い詰めていく性格だった。だから慰めることもできなかった。
なにもできない自分は、本当に歯痒かった。
けれど、力があれば。
こいしの言う通り、今の自分にはできないもっと別の形で、さとりを助けられるようになるかもしれない。それがどういう形かは想像もできないけれど、ともかく力さえあれば、なにかを変えることができるかもしれない。
そのためなら。
さとり様とこいし様の、力になるためなら。
はじめは、本当に、ただそれだけだったのだ。
しかしいざ神の力を手にしてみると、思わぬ形でおくうに幸運が舞い込んでくる。
こいしが、自分だけを見てくれるようになった。
おくうは今となっては虫の一匹も殺せない、妖怪として情けないくらいに気弱な性格をしているし、みんなと平和に暮らしていけるなら他に望むものなんてないとも思っていた。だが近頃は、胸の内で沸々とある不満が募りつつあった。
月見とかいう、あの狐だ。
今年の夏より少し前の頃に、あの狐が突然地霊殿を訪ねてきた。そして、さとりやこいしとあっという間に仲良くなってしまった。
言葉にしてしまえば、たったそれだけだ。
だがその『たったそれだけ』のことが、おくうには筆舌に尽くし難いほど気に入らなかった。あの狐は、地上の妖怪だ。さとりとこいしを傷つけ、地底まで追いやった連中の仲間なのだ。敵なのだ。そんなやつをみんなが受け入れてしまうだなんて、おくうにとってはまさしく理解不能とも言い切れる出来事だった。
もちろん、その頃からお節介なお燐にはあれこれ言われていた。あのおにーさんは優しいよとか、さとり様になにもひどいことしないよとか。半信半疑で覗いてみれば、なるほど確かに、あの狐はさとりたちと随分上手く付き合っていた。さとりとこいしをいつも笑顔にしてくれていて、旧都の妖怪たちにも見習わせてやりたいくらいだった。そのうち二人からも説得され、おくうは渋々ながら、あの狐は悪いヤツじゃないと思うようになった。
しかし、敵じゃないとは思わなかった。
あの狐は、おくうにとって間違いなく敵だった。さとりたちと上手くやっている――それこそがなによりも問題だったのだ。それはすなわちおくうにとって、自分の
この地霊殿において、さとりたちを笑顔にするのは一体誰の役目か。もちろん、おくうを始めとしたペットたちである。そこに、あの狐は入り込んできた。
当然ながら、同じことは藤千代にもいえるだろう。藤千代もまた、地霊殿の外の妖怪でありながら、おくうたちの日常に入り込んできている少女である。しかしおくうは、不思議と藤千代のことはそれほど嫌いではなかった。理由は、なんとなく想像がついている。藤千代が、地上で主人を助けてくれた命の恩人だったから。そして主人と同じ地底へ下った妖怪であり、主人と同じ女だったからなのだろう。
だがあの狐は、なにもかもが違う。地上の妖怪のくせに。男のくせに。さとり様たちと出会ったばかりで、二人のことなんてなにも知らないくせに。
何度も思った。言い聞かせた。――お前なんかよりも私の方が、ずっとずっとさとり様たちと仲良しだもん。
そのときになって、はじめて知った。
ああ、私はこんなにも独占欲が強い妖怪だったのかと。
さとりとこいしは、あの狐と出会ってからというもの、あの狐のことを考えるようになった。特にこいしなんてひどいものだった。早く月見が遊びに来ないかなー、まだかなーと毎日のように言っていた。そんな妹を諌めながらも、さとりだって内心ではその日を楽しみにしていた。月日が重なるに連れて、それは次第に顕著なものとなっていった。
秋になる、少し前。
月見に会いたくて会いたくて仕方なかったこいしが、こっそりと地上に出て行って、彼を連れてきて。
そして、月見を認めようとしないおくうを、怒鳴りつけた。
たぶん、あの日が分水嶺だった。あの日を境におくうは知ってしまったのだ――自分の主人は、もう、おくうではなく、あの狐の味方になってしまったのだと。
寂しかった。もちろん少ししてから、ひどいこと言ってごめんね、とこいしから謝られはした。けれど、おくうの心についた傷が癒えることはなかった。
――でも、そうやって謝っても、やっぱりこいし様はあの狐の味方なんですよね?
そんな思考が、いつも頭の片隅でくすぶり続けるようになった。
寂しかった。
それが、神の力を手にしてからは劇的に変わった。
こいしが、自分のことだけを考えてくれるようになった。とりわけ熱さに強いわけでもないのに、毎日灼熱地獄跡まで下りてきて、おくうの特訓を見守ってくれた。毎日着替えを持ってきて、食べ物を運んできてくれた。
嬉しかった。本当に。どこか遠くに行ってしまっていたこいしが、やっと帰ってきてくれたような心地さえした。
その実感はやがて、おくうにあるひとつの確信をもたらす。
ああ、そっか。
この力があれば、この力で言うことを聞いていれば、こいし様は私を
「さとり様とこいし様の力になりたいから」――おくうが神の力を振るう、その理由が。
「自分を見ていてほしいから」に、変わった瞬間だったのだと思う。
与えられた神の力をはじめて振るい、岩ひとつを粉々に消し飛ばしたとき、あまりの恐怖に体が竦んだ。
力を上手く制御しきれず、全身を焼かれるような苦痛に涙を流した。
眠れない夜だって、何度もあった。
おくうに力を与えた注連縄の少女曰く、神の力を使いこなすためには、その存在を余さず受け入れる広い心と、己にも神にも固執しない自由な精神が必要であるという。それを考えれば、そもそも力を恐れていて、かつ「自分を見ていてほしい」という欲に囚われていたおくうには、なんの適性もありはしなかったのだと思う。最初から、おくうが手にしていい力ではなかったのだ。
でも。
でも。
おくうは、寂しかった。もはやこの神の力だけが、おくうがこいしとつながれるたったひとつの方法だったのだ。怖くても、辛くても、それ以上に自分を考えてくれるこいしの行動が嬉しかった。幸せだった。そして力を物にすれば、きっとさとりだって自分を見てくれるようになると信じていた。
この力があれば、きっと、私にも――。
そう、思っていたのに。
ねえ、こいし様。
そんなこと、言わないでくださいよ。もうやめようなんて、私が間違ってたなんて、言わないでくださいよ。
確かに私は、ひどいことをしました。
人を、二人、殺しました。
この狐も、どう見たって無事ではありません。
本当は、こいつが悪いやつではないのだと、ずっと前からわかっていました。こいし様の言うことが正しいんだと、ずっと前から認めていました。こいつは、優しかった。いつもこいし様たちを笑顔にしてくれていた。でも、それが私には一番辛かったんです。こいし様たちがこいつとどんどん仲良くなって、いつか私なんて見向きもしてくれなくなるんじゃないかって。嫉妬してたんです。だからあのとき、今度こそこいし様を取られてしまうような気がして、どうしても我慢することができなかったんです。
ごめんなさい。
でも。
でも。
こいし様が望んでいたのは、こういうことじゃなかったんですか。
こうして、気に入らないやつを倒して、私たちは弱くないのだと、力を示したかったんじゃないんですか。
なのにどうして、間違いだったなんて言うんですか。
私の、勘違いだったんですか。
やっぱりこいし様も、その狐も味方なんですか?
こいし様。
教えてください。
私はなんのために、人を殺したのですか。
私はなんのために、こんな力を手にしたのですか。
私はなんのために、今まで頑張ってきたのですか。
私がやってきたことに、一体なんの意味があったのですか。なんの意味もなかったのですか。
私は。
なんのために。
教えてください。
こいし様。
助けてください。
助けて。
体が、熱いんです。
苦しいんです。
変、なんです。
熱い。苦しい。痛い。熱い。痛い。痛い。苦しい。熱い。苦しい。苦しい。痛い。痛い。
いやだ。
いやだ。
助けて。
誰か、助けて。
誰か。
誰か。
○
はじめのうちは、自分が生きているのかどうかもよくわからなかった。
さとりが最後に見たのは、天で光り輝いていた星が突如として砕け、世界が炎に呑まれていく光景だった。思い出すだけでも体が凍てつく。網膜に焼きついている。世界の終末と呼ばれるものが本当に存在するのなら、きっとあのような地獄であるに違いない。
あのまま自分も炎に呑まれてしまうはずだったが、どこも痛くないということはどうやら無事らしい。段々と目の焦点が回復してくると、まず見えてきたのはお燐の姿だった。岩壁に背を預け、丸め込んだ両膝に顔を押しつけている。心の中が、真っ黒な暗闇に閉ざされている。
「お燐……?」
「……ぁ、」
お燐が顔を上げ、さとりは呼吸が止まった。お燐の瞳が、心と同じように、なんの感情もなく真っ黒に染まっていたからだ。
「さとり様。頭、痛くないですか?」
そんな目をして、お燐は笑った。笑うような感情なんて、なにも読み取れないのに。
「ごめんなさい。あたい、ここに逃げ込むのに精一杯で。そのときさとり様、頭ぶつけちゃったみたいで」
そう言われてみれば、後頭部が妙に痛い。だがそんなものは敢えて苦言を呈すほどでもないし、今は心底どうだっていい。
一応、礼は言っておく。
「……大丈夫よ。ありがとう、助けてくれて」
お燐はまた笑った。虚ろな心で。いくら感覚を研ぎ澄ませても、彼女はやはり、笑みを浮かべるような感情なんて欠片も抱いてはいなかった。
「一体、なにが起こったの……?」
さとりはあたりを見回す。ここはどうやら、岩山の根本が削られてできた天然の壕ともいえる場所のようだった。どうしてこんな場所に逃げ込まなければならなかったのか――さとりはどうか、頭の片隅で蠢く冷たい予感が当たってくれるなと祈っていた。
外からかすかに聞こえる、炎が燃え盛る音なんて。聞こえないふりをしていた。
「わからない……! わからないよ……っ!」
お燐が背を丸めた。現実を受け止めきれない者が殻に閉じこもって自分を守ろうとする、精一杯の防御行動だった。
咳き込むような、涙声だった。
「なんで……!? どうして、どうしてこんなことになるの……ッ!?」
外が、赤い。
頭の片隅で蠢く気配が、段々と大きくなってくる。意識を侵食される。どこか片隅で冷静な自分がやめろと叫ぶのに、さとりは自分でもよくわからぬうちに壕の縁をよじ登り、外に顔を出していた。
やめておけばよかったのに。
「――――――――な、」
赤しか、なかった。
すべてが、燃えていた。大地も。山も。撒き散らされる大量の火の粉で、空までもが。
赤しか――炎しか、ない。
ここはどこだという、極めて根本的な問いからさとりは考え始めなければならなかった。当たり前といえば当たり前だ、こんな世界をさとりはついぞ知らないのだから。今の灼熱地獄跡とはまるで比べるべくもないし、最盛期の頃だってここまで凄惨ではなかっただろう。だってこれでは、罪人の魂はもちろん、地獄の獄卒たちまで残らず焼かれてしまうはずだから。
無論、本当はわかっている――最後の記憶から合理的に判断すれば、この炎の海こそが今の地底の姿なのだと。灼熱地獄が如く変わり果てた、現実の姿なのだと。だが、わかったところで認めていいようなものでは断じてなかった。
「そん、な」
炎が届いているわけでもないのに、それでもさとりの体は焼けてしまいそうなほどに熱い。灼熱地獄が如き、などという生易しい次元ではない。これは地獄だ。いま自分の目の前に広がっているのは、現実世界に顕現した地獄の姿だ。そう断じ切れるほどまでに、赤だけの世界は血も涙もなく残酷だった。
そして、気づき、愕然とした。
「……ま、待って。おくうは? こいしは? ……月見さんと、天子さんは?」
この壕の中には、さとりとお燐しかいない。つまりおくうは、こいしたちは、外にいる。
でも今、外は、あんなで。燃えていないものなんてなにひとつもなくて。生命の気配なんて、なにひとつも感じられなくて。
じゃあ。
じゃあ、みんなは。
「……」
お燐は、答えなかった。
口でも、心でも、なにも、答えなかった。
さとりの全身が、虚ろと化した。
――誰か。
誰か、助けて。おくうを。こいしを。お燐を。月見さんを。天子さんを。みんなが助かるのなら、私はどうなったって構わない。世界中から虐げられたっていい。命だって要らない。
だから誰か、こんなの、嘘だと言って。夢だと言って。
本当は、みんな無事で。争うようなことなんて、なにもなくて。
すぐにまた、みんなで一緒に、笑い合えるようになるんだって。
誰か、そう言ってください。
助けてください。
誰か――。
「誰かっ……!」
――そのときさとりは、かすかな音を聞いた。
ただの気のせいだったのかもしれない。炎の弾けた音か、岩が崩れた音の聞き間違い。絶望の淵まで追い詰められ、狂いかけるさとりの意識が生み出した、ありもしない幻聴の類だったのかもしれない。
なら。
ならさとりがいま感じているこの妖気も、ただの気のせいに過ぎないのか。
「……!」
さとりとお燐は同時に顔を上げ、燃える世界の一点を見つめた。違う。気のせいではない。気のせいであるはずがない。彼女が生み出す途方もない妖気は、地底に棲む妖怪であれば誰しもが骨の髄まで刻み込んでいるのだから。
自分たちの頂点に君臨する、最強無比の大妖怪として。
「……お願いです……っ!」
歯を軋らせ、爪で土を抉り、さとりは懸命に声を上げた。喉が痙攣して上手く言葉にならない。そうでなくとも炎の音だけに包まれた世界で、この声が彼女に届くことはないだろう。
でも、それでも。
祈らずには、いられなかったから。
「助けてください、藤千代さん……っ!!」
姿は見えないし、無論返事も返ってこない。
けれど炎を切り裂くように広がる妖気が、さとりとお燐を、そっと優しく包み込んでくれた気がした。
○
こいしたちを呑み込むはずだった炎が、すべて散り散りに消し飛んだ。
「っ……!?」
目を開けてもいられなくなるほどの突風が駆け抜け、こいしは咄嗟に顔を両腕で庇った。そして風が収まってから恐る恐る腕を下げると、目の前に『彼女』の背中があった。
――ああ、そういえばあのときも、こんな風に助けてもらったっけ。
「……鬼子母神、様」
彼女――藤千代は、目だけでこいしを振り返り、また目だけで微笑んだ。
「はい。間一髪でしたね、こいしさん」
それだけではなかった。すぐ後ろの方からやおら威勢のいい声が、
「うぉわ!? 月見、あんたまた随分派手にやられたねこりゃ!」
振り向くと、額からスラリと長い一本角を生やした鬼の少女が、月見の背の傷痕を見て仰天していた。旧都で何度か姿を見かけたことがある。確か、仲間たちから『勇儀姐さん』と呼ばれて慕われている鬼だったはずだ。
「ん? あれ、もしかして気絶してる?」
「あ、あのっ……! どうしよう、月見が……!」
天人の少女が、涙を流しながら勇儀を見上げた。勇儀はほんの一瞬「なんで泣いてんのこいつ」と驚いた顔をして、それからまた月見の傷を見るなり納得した素振りで、
「――ん、まあ、こんな傷だし無理もないか。あーあ、尻尾なんてもうボロボロじゃんこれ。あんなに綺麗だったのに、勿体ない……」
「……あ、あの、」
なぜお前はそんなに冷静なのか――少女の顔には、そんな愕然とした衝撃がありありと浮き彫りになっていた。こいしも少なからずぞっとしていた。この鬼、どうやら月見の知り合いらしいが、なのにどこからどう見たって無事ではない月見を心配していないのか。なんとも思わないのか。
対して鬼は、なんとも挑戦的な笑みを返してきた。
「なに? もしかして、月見がこんなもんで死んじゃうとでも思ってんの?」
「……、」
「そっかあ。どこの誰かは知らないけど、あんたの中の月見って、随分とひ弱なヤツなんだね」
「――ッ、ち、違う!!」
少女が激昂する。
「月見は! ……月見は、優しくて、強くてッ!」
「ん、そだね。私もそう思うよ」
え、と虚を衝かれた少女が接ぎ穂を失う。
勇儀はまた笑った。けれど今度は、『姐さん』と慕われる所以たる包容力にあふれた、実に爽然とした一笑だった。
「ほら、そんな優しくて強い月見の前でみっともない顔してんじゃないよ。その両手離しな、私が運んだげるから」
「そうですね、さっさと逃げちゃいましょー」
藤千代は正面から目を離さず、その声音はいつも通りおっとりとしていて、緊張感などまるでなかった。
そんな調子で、彼女は言うのだ。
「――これ、結構ヤバそうですし」
こいしが今までに見たことも想像したこともない、まさに桁外れの火柱が雄叫びを上げている。それは、形だけならば大樹に似ていた。大地に赤い亀裂を根のように張り巡らせ、両腕を回したってまるで足りない太すぎる幹を天に伸ばし、幾千幾万の枝葉に分かれて空を焼き尽くす炎の大樹。冗談を抜きにして天上の岩盤まで届いているのではないかと思わされるし、周りの景色なんてもはや炎以外になにも見えない。
そんな中でなぜこいしたちが無事であるかといえば、藤千代が妖気の壁で守ってくれているからだ。指の一本も動かすことなく、単なる気の放出だけで豪炎を退ける――こいしはただ、こんな力が欲しかっただけなのに。
勇儀が、月見を横抱きにして立ち上がる。さすが剛力自慢の鬼だけあって、自分より大きい男の体をまるで苦にしない。
「ほら行くよ、さっさと立つ!」
「っ……」
勇儀に叱咤され、天人の少女が砕けていた腰を押して立ち上がる。だが、こいしは立ち上がれない。
「私たちも行きましょう」
「っ……で、でも!」
藤千代から差し伸べられた手を、取ることができない。否、取るわけにはいかなかった。
「まだ! まだ
――そのときこいしは、鴉が低く唸る声を聞いた。
すべてが一瞬だった。足元の大地に血管が如く赤い亀裂が走り、砕け散って崩壊した。そしてその瞬間にはすでに、こいしは藤千代に抱えられて上空を駆け上がっていくさなかにいた。
隣には、勇儀と天人の姿もある。勇儀が月見をしっかりと抱え直し、半開きの口から「ひゃー」と気の抜けた声を出す。
「うわあ、なにあれ。さすがにちょっとまずいんでない?」
こいしは、下を見た。
空から見た今だからこそ、その光景がどれほど恐ろしいものなのかよくわかった。
大樹の根――すなわち大地を走る赤い亀裂は、おくうが能力で破壊した空間のほぼ全域にまで及んでおり、中心から外側に向けて次々と崩壊を始めていた。崩落した大地が落ちゆく先は、当然その下で広がる灼熱地獄以外にない。おくうの力でかつての姿を取り戻した灼熱地獄は、炎に包まれた大地を貪欲に呑み込んでなおもその勢いを増し、地表まで届く壮絶な火柱を上げていた。
しかも、血の色をした亀裂は決して収まることを知らない。少しずつ、しかし確実にその指先が届く範囲を広げ、みるみるうちに大地の姿を作り変えていく。炎の音。崩落の音。ただそれだけに包まれている。
呑まれていく。
こいしたちの地底が、灼熱地獄に呑まれていく。
「……ねえ、藤千代。これひょっとしなくても、ちょっとどころかかなりヤバい?」
勇儀の口振りは殊の外冷静だった。――いや、或いは目の前の光景に理解が追いつかず、心の中の動揺を表に出す余裕もなかったのかもしれない。
もしも――もしもこの崩落が、旧都にまで及んでしまったら。
それはすなわち、旧都の終わりを意味しているのだから。
「うーん、困っちゃいましたねえ。これは私にも止められません。私にできるのは、ぶっ飛ばすことだけですから……」
「……月見なら、なんとかできたかねえ」
「わかりません。……しかしどうあれ、その傷ではもう無理はさせられませんよ」
――私のせいだ。
これは、ぜんぶ、私のせいだ。
私がおくうに、神様の力を使わせたりなんかしたから。
力というものに憧れていた。強くなったらどう世界が変わるのか興味があって、灼熱地獄を活性化させてほしいというあの神様の要望を逆手に取り、与えられた力を私利私欲に利用した。けれど、決して悪いことを考えていたわけではない。姉を守るために。覚妖怪という種族故に距離を置かれる境遇を変えるために、あの力を役立てたいと思っていた。
自分にだって、ほんの少しくらいは、お姉ちゃんに家族らしいことをしてあげたい。
本当に、ただそれだけだったのだ。
なのにどうして、こんなことになってしまったのだろう。なにがいけなかったのだろう。一体いつから、自分は間違えてしまっていたのだろうか。
私のせい。
私の、せいで。
「――ごめんなさい……!」
気がついたときには、涙がこぼれていた。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……っ!」
こいしのせいで、月見が傷ついて。
こいしのせいで、旧都が滅んでしまうかもしれなくて。
こいしのせいで、おくうが無事なのかも、どうなってしまったのかもわからない。
こんなはずじゃなかった。
こんな恐ろしいことを、したかったわけでは断じてなかった。
こいしは。
こいしは、ただ。
ただ。
「……とにかく、今はさとりさんと合流しましょう」
涙を止められず、もう目を開けてもいられないこいしの背を、藤千代がそっと抱き締めてくれた。
「まだ。まだなにか、手はあるはずです」
こいしと比べても、そう大して変わらない背丈のくせに。
回された両腕は、まるで母親のように優しくて、温かかった。
○
一体、どれほどの間待ち続けたのだろう。数字にしてみれば高々数分だったはずだが、今のさとりには何日にも何十日にも感じられた。それほど長い数分間を、さとりはただ一心に祈り続けていた。そうでもしなければ、不安と恐怖で押し潰されてしまいそうだった。
何度も自分に言い聞かせる。――大丈夫だ。大丈夫に決まっている。だって、地底最強の鬼子母神と、彼女が最も信頼を置く妖狐がいるのだから。きっとすぐに帰ってくる。たんこぶこさえて、すっかり反省したこいしとおくうを連れて。心配かけたね、なんて、心配していたこっちが馬鹿らしくなるくらいにあっけらかんと帰ってくるに決まっている。
声が聞こえた。
「……さとりさーん! お~いっ!」
「……!」
心臓が飛び上がり、さとりは壕の縁から転げ落ちそうになった。ひ弱な腕力を総動員してなんとか持ちこたえ、赤黒く染まった空を見上げると、こいしを抱きながらきょろきょろしている藤千代の姿が見えた。
「藤千代さん……!」
ずっと岩壁に寄りかかったままだったお燐が、ようやく腰を浮かせた。
さとりに気づいた藤千代はぱっと笑い、
「あっ、さとりさん発見です! 勇儀さーん、こっちですよーっ!」
世界が炎に包まれるこんなときであっても、彼女はいつも通りの藤千代だった。小さな見た目らしからぬ速度であっという間にやってきて、さとりの目の前にこいしを降ろしてくれた。
限界だった。さとりは壕から一目散に飛び出し、体当たりするのとほとんど大差ない勢いでこいしを抱き締めた。
「こいしっ……!!」
トレードマークの帽子がなくなっているが、それ以外に変わったところは見られない。怪我ひとつしていない。心の底から安心した。今だからこそ認めよう、きっと大丈夫だなんて言っておきながらも、こいしが無事ではなかった未来を何度も考えてしまっていたのだ。
世界が炎に呑まれる――これだけの惨劇をこいしが自力で切り抜けたとは思えないから、きっと藤千代と月見が守ってくれたに違いない。
「よかった……! 本当に……!」
「こいし様……! 無事だったんですねっ……!」
お燐も、両の瞳を決壊寸前にまで潤ませて駆け寄ってきた。暗闇で包まれていたお燐の心に、安堵という名の光が差し込んでいる。虚ろではない、心からの笑みが頬ににじんでいる。なんだか、見ているこっちまで泣いてしまいそうだった。
「いやー、私のさとりさんセンサーもまだまだですねー。月見くんなら一発で見つけられるんですけど」
こんなときでもいつも通りな藤千代の姿は、さとりの心を不思議な安心感で満たした。
「あの……! ありがとうございます、こいしを助けてくれて……!」
「はい。間に合ってよかったです」
「それで……あの、月見さんは……?」
月見さんにも、お礼を言わなきゃ――そればかりを考えていたから、気づかなかったのだ。さとりの腕の中で、こいしがかすかに震えていたのだと。
「月見なら、ここにいるよ――っと」
藤千代の背後に降り立つ影がふたつ。ひとつは、藤千代から時折名前を聞くことがある勇儀という鬼で、もうひとつは天子だった。
月見はいない。だが勇儀は確かに、「ここにいる」と言った。
なら、彼は一体どこにいたか。
「――――……」
気づいてしまったさとりはその瞬間に心音を失い、心に戻りかけていた希望をすべて粉々に破壊された。
月見は、勇儀に抱かれていた。
体中に火傷を負った、明らかに無事ではない姿で。
「…………そん、な」
腕、脚、首、背中――中でも尻尾が目も当てられない。あんなに綺麗だった銀色が無残に黒ずみ、焼け落ちて、元が何尾の尻尾だったのかもわからなくなってしまっている。衣服はほとんど原型を留めておらず、まるでボロ布を被っているように見える。月見の心の声はなにも聞こえない。それはすなわち、夢を見ることもできぬほど彼の意識が完全に絶たれていることを意味する。
「ごめんなさい……!」
こいしが、皺がつくほどきつく、さとりの背に両腕を回した。
「私のせいで……! 私のせいで、月見が……っ!」
――いったい、なにがあったのか。
天子の心の声で、それがわかった。
こいしと天子が無闇に飛び込んでしまったせいで、激昂したおくうの力が暴走。月見は、身を挺して二人を守ってくれた。
そして今も、おくうの力は暴走を続けていて。
もしかするとこのまま、地底中が灼熱地獄に呑まれてしまうかもしれないのだと。
言葉の意味はわかった。
だが、脳がそれ以上の理解を拒否した。
「一体、なにが……どう、して」
さとりは、放心していた。月見がひどい怪我を負ってしまっただけでも打ちのめされたのに、その上おくうが暴走し、地底を灼熱地獄に変えてしまうかもしれないなんて。
崩れ落ちそうなさとりの肩を、藤千代が支えた。
「ともかく、今は離れましょう。じきに、ここも崩壊します」
「崩……壊、って」
藤千代はわずかな逡巡で目を逸らし、
「……見た方が、早いです」
そこから、自分がどう動いたのかはよく覚えていない。次に意識の焦点が合ったとき、さとりはこいしを抱きかかえながら、お燐に支えられて空を飛んでいて。
けれどその光景を目の当たりにした瞬間、頭蓋を金槌でぶん殴られたような衝撃とともに、さとりの意識は再度茫洋の海を漂うことになった。
「――――……」
なにも、言えなかった。それは藤千代が言った通りの、そして文字通りの『崩壊』だった。さとりの目の前で、地底が崩壊していた。
まず、大地にぽっかりと穴が空いている。山を三つも四つも呑み込むであろう、単なる『穴』と表現するには決して相応しくない途轍もない空漠が。かつておくうがその力で破壊の限りを尽くし、無数の石塊とクレーターで覆い尽くされていたはずの大地が、ごっそりとどこかに消滅してしまっているのだ。代わりにその空間を、地下から轟々と噴き上がる灼熱地獄の業火が埋め尽くしている。さとりが今まで見てきたどんな炎よりも、凄まじく、恐ろしい形相で燃え上がっている。単なる炎というよりも、それはもはや意思を持った魔物めいて見えた。充分すぎるほど距離は取っているはずなのに、その火の手はすぐさまさとりの足元まで喰らいついてくるような心地がした。
大地の崩れる音が聞こえる。まるで血管が如き赤い亀裂が中心から外側に向けて根を張り巡らせ、裂けた大地の空隙から炎が噴出し、やがてボロボロと崩れ落ちていく。谷だろうが山だろうが、そこに区別など一切ありはしない。すべてを等しく噛み砕き、破壊し、灼熱地獄へと呑み込んでいく。さとりたちが先ほどまで逃げ込んでいた、壕のように削り取られた岩山の根本も、たったいま目の前で炎の中に消えていった。
そして、その崩壊の中心では、どれほど巨大なのか想像する気も起こらなくなるほど度を超えた火柱が天を焼いている。撒き散らされた火の粉はやがて流星となってあたりへ降り注ぎ、あるひとつは灼熱地獄に落ちて更なる火種となり、あるひとつは大地に落ちて、地上を焼き尽くす火の海へと姿を変えてゆく。
「――こん、なの」
おくうという一人の少女が生み出していい次元を超えている。これはもはや災害だ。善と悪の区別もなく、触れる者すべての命を奪い去っていくことしかできない、人知を超えた天変地異の光景だった。
さとりはもうそれ以上なにも言えなかったし、お燐は血色のいい肌が真っ白に生気を失っていて、こいしはさとりの肩に顔を埋めてすすり泣くばかりだった。
藤千代が言う。
「おくうさんの力は、完全に暴走しています。……恐らく、力を制御できないほど心が不安定な状態にあるのだとは、思いますが」
もう、『何事もなく無事に終わる未来』を想像できる者など、誰一人としていない。
これから自分たちが、おくうが、そして地底がどうなってしまうのか、さとりにはもうなにもわからなかった。
この場所が、旧都から遠く離れた地底の端の端であることだけが、せめてもの救いだった。もしもここが、旧都のど真ん中だったら。旧都のすぐ傍だったら。さとりたちの住む町は、灼熱地獄に呑まれて終わってしまっていただろう。
そしてそれは、この先に待ち受ける悲劇のひとつかもしれないのだ。大地の崩落は、地底全体の規模から見ればわずかな速度であっても、決して止まることなく進み続けている。このまま崩落が止まらなければ、さながら真綿で首を絞めるように旧都が――引いては、地底そのものが炎の海に呑まれて消えるだろう。
おくうが。
さとりとこいしの何物にも代えられない大切なペットが、地底を滅ぼしてしまうかもしれない――。
「藤千代、さん。私たちは、一体、どうすれば」
心底情けない話だが、さとりには藤千代に縋るしか選択肢がなかった。地底が崩壊していくこの光景を目の当たりにしてなおも「自分がなんとかする」と自惚れられるほど、さとりは身も心も強くはなかった。ひと目見ただけでわかる。これはもう、さとりにどうこうできる次元を遥か彼方へ置き去りにしている。否、さとりはおろか、並大抵の妖怪でも到底太刀打ちできないはずだ。この災害めいた現実に立ち向かえるのは、同じ災害めいた力を持つ、大妖怪と呼ばれる存在だけなのだと。
「皆さんは、ここから遠くに離れてください」
さすがの藤千代といえども今ばかりは、口振りから普段の柔らかさが消えていた。
「私はおくうさんのところに行きます。今なら、なんとかなるかもしれませんから」
気づくべきだった。彼女の言葉が同時に、もうどうにもならない可能性を示唆するものであったのだと。そして疑問に思うべきだった。もしもどうにもならなかったとき、彼女は一体、おくうをどうするつもりでいたのかを。
だがさとりのみならず、皆が藤千代の言葉を信じていた。月見がやられてしまった今、もはや藤千代しか縋れるものがなかったのだ。誰しもが、頭の片隅で蠢く最悪の想像から無意識のうちに目を逸らしていた。
「勇儀さんは、旧都に戻って月見くんの手当をしてあげてください」
「あいよ」
もっとも仮に気づけていたとしても、さとりにはどうすることもできなかっただろう。
頭がまるで働かない。
もう、さとりにできることなんて。
なにも、ない。
○
「あちち!」
少し考え事をしながら飛んでいたせいで、噴き上がる火の粉で足首を焼かれてしまった。とはいえ刺すような痛みはほんの一瞬で、赤くなった肌も数秒で元通りになる。並外れた再生能力を持つ藤千代にとっては、ちょうどいい気つけになったと思う程度の出来事でしかなかった。
さとりたちと別れた藤千代は、灼熱地獄にいた。――今となってはそう呼ぶべきなのだろう。たとえここがほんの数分前までは旧地獄の一部だった土地であろうとも、足をつけるべき大地が根こそぎ崩落し、地の底より噴き上がる炎だけで埋め尽くされている姿は、紛れもなく地獄と呼ぶに相応しい光景だった。
「さすがは神話に名を刻んだ神……と言うべきなんでしょうかねえ」
八咫烏。かの日本神話において、天照大神らが遣わした太陽の化身。なるほど、或いはこの地獄めいた光景こそが、八咫烏の力で生み出された太陽そのものを表しているのかもしれない。
ほどなくして藤千代は、最も激しく炎が噴き上がる中心地に辿り着く。もしくは戻ってきたともいえようか。無論、こいしを助けた時点でまだその姿を留めていた大地や山々は、もう影のひとつも残さず消え去ってしまっている。
「……」
藤千代は天を振り仰ぐ。まるで桁外れに巨大な火柱が、見上げる藤千代の視界のことごとくを焼き尽くしている。吹き荒ぶ炎の風は、離れていてもなお藤千代の服を焦がしかねないほど凄まじい。
ここまで凄絶に燃える炎を目の当たりにするのは、夏の異変で月見が見せた『銀火』以来だろうか。でも月見くんの炎とはぜんぜん違うな、と藤千代は思った。月見の『銀火』は美しく、気高かった。けれどこの炎は、澱んでいるし禍々しい。文字にすればどちらも同じ『炎』なのに、単なる色の違い以上に、目の前の業火は亡霊のようだった。
(なんて、悲しい炎)
八咫烏の、荒御魂。だがその暴走の動力となっているのは、憎しみや怒りといった類の感情ではない。
絶望。
(……おくうさん)
藤千代はしばしば地霊殿を訪ねるさとりの友人だが、おくうとはこれといって面識があるわけではなかった。おくうは地霊殿の仲間には明るく気さくな一方で、余所者に対しては警戒心が強く、進んで姿を見せようとしてくれなかったからだ。
余所者を強く警戒する。それが裏を返して、家族や仲間への依存を表していたのだとすれば。
恐らくは、それ故の、絶望なのだろう。
「おくうさん」
藤千代はおくうの名を呼んだ。答えは返ってこなかったが、その代わりに目の前の光景に変化が起きた。
天を焼く炎の大樹が、みるみるうちに鎮まっていく。
そして散りゆく炎の向こうに、おくうの姿があった。
藤千代が記憶しているおくうとは、ひどく出で立ちが違っていた。翼が一回りも二回りも巨大化し、胸に埋め込まれた真紅の瞳が
藤千代の肌が、ビリビリと痺れる。
藤千代はもう一度、名を呼ぶ。
「おくうさん」
おくうが、目を開けた。
血と闇の色で塗り潰された、この世ならざる異形の瞳。
唇が、動く。
「 、 ?」
藤千代はまぶたを伏せ、灯っていた一縷の光を吹き消すように、細く長い息を吐いた。
「――やっぱり、遅かったですか」
今の、おくうの言葉は。
人の言葉では、なかった。
それだけわかれば、もう充分だった。
「おくうさん。――いいえ、」
まぶたを上げた。
そして彼女の名を、今度は正しく呼んだ。
「八咫烏。……私の声が、わかりますか?」
はじめて話を聞いたときからずっと疑問だったのだ。おくうが――言ってしまえば弱小妖怪の部類である地獄鴉が、どうしてその身に八咫烏の力を宿せたのか。そもそもこの旧地獄に、どうやって八咫烏の御魂を招き寄せたのか。
もちろん、きちんとした手順を踏めばすべて可能ではある。だがその『きちんとした手順』を、こいしやおくうは本当に知っていたのか。『神降ろし』の方法を知っているのなんて、神々と深い関わりを持つ一部の祭祀者程度に限られるだろうに。
果たしておくうは、八咫烏の力を手に入れるべくして手に入れたのか。八咫烏の依代となれるだけの資格を、本当に持っていたのか。
結果論として、答えは否だった。
だから目の前の少女は、もう、おくうではないのだ。
神の御魂を制御しきれず、逆に御魂を乗っ取られてしまった哀れな依代の成れの果て。荒御魂が鎮まるまで無差別に暴走を続ける、生きた災害。
こうなってしまえば、もう藤千代にはどうしてあげることもできない。藤千代にできるのは、ただ、壊すことだけ。だが壊すべき八咫烏の御魂はおくうの体を乗っ取り、その肉体と密接に結びついてしまった。おくうの姿を異質に変容させ、人の言葉すら奪い去ったのがいい証拠だ。
もはや、意識を奪うなんて甘っちょろい方法は通用しない。なぜならあれは、言ってしまえば荒御魂の災いを顕界にもたらすための単なる『箱』なのだから。いくら暴走しても疲弊することはない。いくら攻撃を受けても気絶することはない。荒御魂が燃え続ける限り、
藤千代にできる方法は、たったひとつ。おくうの体に巣喰う八咫烏の御魂を、力尽くで破壊する。もちろん、やろうと思えばすぐにでもできる。数秒で終わる。
おくうの肉体が受ける損傷を、度外視するならば。
ガラス玉の中に入り込んだ異物を、ガラス玉を割らずに取り出すことはできない。
大妖怪ならばいざ知らず、か弱い地獄鴉にとっての肉体の損壊は、そのまま死に直結するといっても過言ではない。
(……月見くんなら、なんとかできたでしょうか)
そう思わずにはおれない。古今東西様々な術式に精通する彼なら、おくうの肉体から八咫烏を切り離す芸当だってできたかもしれない。
もう、考えても意味のないことだ。月見はやられた。十一尾がすべて焼け落ちてしまうほど悲惨な大火傷を全身に負って。さすがの彼といえども目を覚ますまでは当分掛かるだろうし、仮にすぐ目覚めたとしても到底動けたものではあるまい。
月見がいれば、なんて。もう、考えるだけ無駄なのだ。
(…………)
けれど。
けれど。
藤千代の心にはそれでも、月見を信じていたい確かな想いがあった。こいしは、泣いていた。泣きながら己の過ちを悔いていた。さとりだってお燐だって、心の中ではきっと涙を流していただろう。
泣いている少女が、三人もいる。
ならば月見が、来ないはずはないのだと。このまま終わってしまうはずがないのだと。
そう、信じたかった。
「 ? 。」
八咫烏の返答は至極単純だった。首を傾げ、大翼を広げ、全身から目も覚める火の粉を撒き散らし、
言葉とは思えぬ咆吼を上げた。
藤千代の周囲に、灼熱地獄から次々と野太い火柱が突き上がる。炎はまるで意思を持ったように蠢き、何百何千という烈火の鳥を瞬く間に生み出していく。
八咫烏の頭上に、凄まじい熱と力を凝縮した無数の光弾が展開される。
藤千代は、構えた。
(……もう少しだけ。あと少しだけ、信じていてもいいですか。月見くん)
本来であれば、藤千代は確証のない希望になど縋っていい立場ではない。今は誰がどう見ても、いつ目覚めるかも知れない月見を悠長に待ち続けられるような状況ではない。地底が、灼熱地獄に呑まれて消えるかもしれないのだ。地底を任されている者として、旧都中の妖怪の命を背負っている者として、藤千代は常に最悪を想定して動かなければならない。
だから本当なら、その『最悪』を回避するために、敵はすべて
でも、どうか、あともう少しだけ。
(信じてます)
藤千代は、知っている。
(月見くんは、泣いている誰かを放っておいたりなんて、絶対にしないって)
それが、月見という妖怪だ。
鴉が、哭いた。
もはや単なる音と表現すべきその叫びに、しかし、なぜだろう、藤千代はかすかなおくうの声を聞いた気がした。
――もう、楽にして。
○
そして、彼女は旧都を訪れた。
この町を訪ねるのは、いつも仕事のときばかりだった。地獄のスリム化政策で切り離された土地とはいえ、このあたりにはまだ亡者の魂が数多く彷徨っているから、鬼たちがきちんと管理を行っているか定期的に調査しなければならないのだ。今までなにか問題が起こったことはないけれど、彼女はいつも不安に思っている。鬼はよくいえば豪放磊落、悪くいえば大雑把でずぼらな性格の者が多いので、いつどんな問題が起こされたって不思議ではないのだと。
とは、いえ。
今回彼女がわざわざ彼岸から出張ってきたのは、その調査が理由ではない。目的が調査であるのは同じだが、その対象は怨霊の管理体制ではなく、いま旧地獄を取り巻いている異常現象についてである。
冬にもかかわらず上昇し続ける気温。ひっきりなしに続く地震。そして、正体不明の高エネルギー反応。
本来であれば調査など部下に任せておくものだが、ちょうど仕事に一区切りがついたところだったので、気分転換も兼ねて彼女自らが様子を見に来た次第なのだった。
実をいえば、異常の原因が旧都ではなく、旧地獄の端の端――かつて血の池地獄があった方角――にあるらしいのはすでに気づいている。地底の薄闇で巻かれた遥か彼方に、例の高エネルギー反応と、炎が燃えていると思しき赤い煌めきが確認できる。旧都を素通りして直接向かう選択肢もあったが、それでも彼女がここで足を止めたのは、まず詳しく話を聞かなければならない相手がいるからだ。
(さて、藤千代はどこにいますか)
当然、旧都の代表を務めるあの鬼の少女には話を聞かなければならない。なにか情報を掴んでいれば聞き出すし、なにも知らなければ代表としての自覚が足りないと説教しなければならない。とりあえず、そのあたりの鬼にでも居場所を訊いてみようと思い、
「――しっかし、まさか月見の旦那が来てたなんてなあ。あの人ってほんと、こういう騒ぎをどこからともなく嗅ぎつけてくるよなあ……」
聞き捨てならない名前が聞こえた。
通りの隅で座り込み、酒を酌み交わしながら世間話に興じている二匹の鬼だった。
「地上で夏に起こった異変にも、相当深く関わったって話だ。そういう体質なんだろうね。巻き込まれ体質っていうか」
「旦那、人脈めっちゃ広いからなあ。どこでどんな騒ぎが起こっても、必ず知り合いに当事者がいるんだろうよ」
――あの狐が、ここに来ている?
地上の妖怪の立ち入りが禁じられている、ここ旧地獄に?
「しかしまあ、旦那と藤千代サンがいりゃあ大丈夫だろ。誰が騒ぎ起こしてんのか知らないけど、同情するぜ。あの二人が組んじまったんだからな」
「しかも、勇儀姐さんまでついてったって話だしな。悪魔も神様も泣いて逃げ出すってもんだ」
「――もし、そこの二人」
声を掛ける。二匹の鬼は揃って酒を傾けながら、んあー? とかなり品のない返事で顔を上げ、
一斉に噴き出した。
危うく服にかかるところだった。
「きゃ!? ……い、いきなりなにをするんですかっ、はしたない!」
「ゲホゴホガホ!? す、すんませ、いや申し訳ゴホゲホッ」
鬼は二人仲良く咳き込んでいる。人の顔を見るなり酒を噴き出すとは、なんて無礼な鬼なのだろう。自分がまだ地蔵だった頃、あの狐に墨だらけの顔を笑われた記憶が甦ってきて、筆舌に尽くしがたく不愉快な気持ちがむくむくと込み上がってきた。説教してやろうかこいつら。
「ゲホゲホ……し、失礼しやした。アナタ様ともあろう方が、一体ワタシらになんの用で?」
しかしながら、本当に無礼を働いてしまったと猛省しているようだったので、その殊勝な心意気に免じて見逃すことにした。それに今は説教よりも、先ほどの話を問い質す方が肝要である。
「あなたたち、今、あの狐がここに来ていると言いましたか?」
「あの狐? ……ああ、月見の旦那のことですかい? ワタシらは見てませんが、来ていると藤千代サンが」
「ご覧の通り、なぜか気温が夏みたいに上がって、雪もぜんぶ溶けちまった有様で。そいつを解決してくるってんで、少し前に向こうに飛んでいきましたぜ」
そう言って鬼が指差したのは、この異常現象の原因があると思われる、例の方角だった。
「……そうですか。ということは、藤千代も、あの狐も、向こうにいるということですね」
「まあ、そうなりますが……」
「わかりました。ありがとうございます」
自分の次にすべきことが決まった。軽く礼を言って歩き出すと、背中に鬼の声が掛かった。
「行かれるんですか? ですがね、なんだか妙に禍々しい気配もしますし、やめといた方がいいと思いますぜ。旦那と藤千代サンに任せておいた方が」
「――あら。やめておいた方がいいって、誰に向かって言っているのですか?」
笑みとともに、振り返る。鬼たちがハッと息を呑み、沈黙する。
「どうやら、私が誰なのかよくわかっていないようで」
「い、いえいえ滅相もございません!?」
鬼二匹はぶんぶんとかぶりを振って、
「そ、そうでしたね。アナタ様に心配など不要ってもんで」
「な、なんてったって、地獄の頂点におわす御方ですもんね!」
「ええ、そうですよ」
そう――そうなのだ。自分は彼岸のトップに君臨するちょっとした存在なのだ。なのにあの狐は、そんなちょっとした自分をいつも子ども扱いしてからかってくる。幻想郷で再会してからというもの、食事を作ってあげたり掃除を手伝ったりと、大人の女性のなんたるかを繰り返しアピールしてきたので、近頃は少しずつわかってきてもらえるようになった。だがそれだけではまだ足りない。大人の女性と認めさせると同時に、自分の肩書きが如何に畏れ多いものであるかも理解させる必要がある。そのためには、ちょうどいい、自分がデスクワークや家事ばかりの女ではなく、荒事に至っても大変頼りになるのだと思い知らせてやるのはどうか。
うむ、と頷いた。
「では畏れ多くも、この私が手を貸しに参りましょうか」
――と意気込む彼女を見ていた鬼二匹は、後にこう語る。
「まったくもう、これだから大人の女性は大変ですねっ」
あのときの四季映姫・ヤマザナドゥは、なんかもうめちゃくちゃワクワクソワソワしていて、どこからどう見ても立派な子どもだったのだと。