銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色

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東方地霊殿 ⑩ 「『当たり前だ』」

 

 

 

 

 

 一番はじめに気づいたのはお燐だった。その日、おくうの姿を捜して灼熱地獄跡まで下りてみると、いつもならそのへんを飛んでいるはずの彼女が右にも左にも見当たらなかった。

 すぐにおかしいと思った。ここへ下りてくる前に確認している――おくうは、地霊殿にはいなかった。地霊殿にも灼熱地獄跡にもいないというのはありえない。おくうは地上のみならず、旧都の妖怪にも強い警戒心を抱いていて、自分からは絶対に外に出ようとしない。さとりもそんなおくうの心を知っていて、灼熱地獄跡の管理だけを彼女の仕事として与えている。つまりおくうは、主人のさとりに負けず劣らず、筋金入りのひきこもり妖怪なのだ。

 ならおくうは、一体どこにいるのか。

 意識を集中させてみると、ほどなくして気づいた。灼熱地獄跡の外れの方に、かすかではあるが、得体の知れない妙な気配を感じる。

 

「……おくう?」

 

 かどうかはわからないけれど、確かめた方がよさそうだとお燐は判断する。普通の気配ではないから、ひょっとすると外から何者かが忍び込んできたのかもしれない。仮におくう、もしくは他のペットたちの誰かだとしても、あんなに遠くでなにをやっているのかは甚だ疑問だった。

 そしてしばらく空を飛び続けたお燐は、天上の地盤を支える細長い岩が無数にひしめく森の中で、遂におくうの背中を見つけた。

 

「おく、」

 

 名を呼ぼうとして、お燐は咄嗟に口を噤む。改めて疑問に思う。――こいつ、こんなところで一体なにを。

 そう思って注意深く見てみると、なるほどいつもと違っているのは単にその気配だけではない。右の腕に、足元まで届きそうなほど長く大きな木筒をはめている。右脚には、まるでそこだけ西洋の甲冑から盗み出してきたような、鈍色の無骨で重そうな靴。背中を丸々覆い隠す純白のマントを羽織り、翼は一回り大きくなったように見える。

 こんな奇抜なお洒落を楽しむようなやつではない。

 名を呼ぶまで、一分近くは躊躇っていたと思う。お燐はそっと、まるで赤の他人に声を掛けるように、

 

「……おくう?」

 

 おくうが、振り返った。

 

「……ん? あ、お燐」

 

 顔だけ見れば、至っていつも通りのおくうだった――が、そんなものなど目にも入らずお燐はぎょっとした。

 おくうの胸元で、宝石かとも見紛う真紅の瞳がひとつ、じっとお燐を見返している。

 さとりやこいしが持つ『第三の目』とはワケが違った。少なくともお燐の目には、あれはおくうの素肌に直接取りつけられた器官であるように見えた。木筒といい靴といいマントといい、やはり単なるお洒落にしては奇抜で悪趣味すぎる。

 

「……お、おくう? どうしたの、その恰好」

「ああ、これ?」

 

 おくうはゆっくりと翼を羽ばたかせ、少しの間悩んでから、

 

「……んと、私にもよくわかんない。気がついたらこうなってた」

「わかんないって……」

 

 意味がわからなかった。だがお燐は首を振って、

 

「そ、それに、なんだか雰囲気も変だよ。なんか……強そう? ていうか……そんな感じがするんだけど」

 

 こうして目の前にしたからこそよくわかる、おくうの気配は明らかに異質だった。人型を取れる以外はごくごく普通の地獄鴉であるおくうを、何十年も一緒に生きてきた家族同然の親友を、お燐は今、少しだけ怖いと感じていた。まるで旧都で、いかにも柄の悪そうな筋骨隆々の鬼を前にしてしまったときのような。非常にありふれた表現だが、『強そうな気配』とでも呼ぶべきプレッシャーが、おくうの全身から滲み出るように放たれていた。

 おくうは、特に表情を変えなかった。

 

「ふーん……やっぱりそうなんだ」

「やっぱりって……」

「神様の力をもらったの」

「へー、なるほどそれで……ってちょっと待って、」

 

 こいつ今なんて、

 

「だから、神様の力。なんて神様かは……忘れちゃったけど」

「……へ、へー、そうなんだ」

 

 当たり障りのない返事を返しながら、お燐は思考をフル回転させて会話に食らいつこうとした。――神様の力をもらった。それは、文字通りの意味で捉えてしまうべきだろうか。いや、それ以外にあるまい。真意を計る必要があるほど意味深な言い回しなんておくうにはできない。つまりおくうは至ってその言葉通りに、体に神の力を宿しているのだ。

 理解しがたいというのが正直な本音だったが、逆にそう考えてしまえば、おくうの変容にも一貫して説明がつく気がした。神様の力を宿したから外見に変化が起こって、気配も変わった。それでなんだか強そうに見える。

 とにかく、おくうの口振りは嘘や冗談を言っているようにはまるで見えなかった。

 しかし、

 

「な、なんで急にそんな? なにがあったの?」

 

 なにゆえおくうが神の力を宿すに至ったのか、理由が皆目見当もつかない。なぜおくうはそんなことをしているのか。地獄鴉という、言ってしまえば弱小妖怪の部類であるおくうに、なぜそんな芸当ができているのか。まるで動揺と混乱を隠せないお燐に対し、おくうは妙なほどに冷静で、

 

「こいし様が」

「こいし様?」

「そう。こいし様が地上の神様を連れてきて、その神様が、私に力をくれたの」

 

 ますますわけがわからなくなった。

 

「え、こ、こいし様? なにそれ、どういうこと?」

 

 思考をフル回転させても、とんと会話に追いつけなくなった。先ほどと同様に言葉通りで考えれば、やはり、こいしが地上の神様をおくうのところまで連れてきたということになる。しかしなぜこいしがそんな真似をするのか、もうなにがなんだかさっぱりわからなかった。

 答えは、いきなり後ろから飛んできた。

 

「どういうことって、そういうことだよ?」

「み゛ゃ!?」

 

 混乱のあまりすっかりスキだらけだったお燐は、真上に飛び上がってびっくり仰天した。振り返ってみるとまさしく件のこいしが、不思議そうに首を傾げてお燐を見つめていた。

 おくうの顔がぱっと輝いた。

 

「あ、こいし様!」

「やっほーおくう。様子見に来たよ!」

 

 お燐は、バクバク抗議の声を上げる心臓を深呼吸で落ち着かせる。わざとやっているのか無意識がそうさせるのかは知らないが、しばしば音も気配もなく神出鬼没に出現し、いきなり声を掛けて人を驚かしてくるのは、放浪癖に次ぐこいしの困った悪癖のひとつだった。正直、現在に至るまでこれで削られた寿命の長さは、もう結構なものになるんじゃないかとお燐はニラんでいる。

 

「どう、調子は?」

「んと、普通にしてる分には問題ないです。ただ、力の方は、まだ上手く使いこなせませんけど……」

「大丈夫だよ、まだ始めたばっかだもんね。ゆっくりやってこ!」

「は、はい!」

 

 いつまでも心臓をバクバクさせている場合ではない。気を取り直したお燐は速やかに問う、

 

「あ、あの、こいし様」

「ん?」

「おくうのこと、なんですけど」

 

 こいしは「ああ」と相槌を打って、

 

「そういえばお燐には言ってなかったね。おくうは、神様の力を手に入れて強くなりましたっ。ヤタガラスっていうんだって! すごいでしょ!」

 

 得意そうに胸を張ってそう言うのだが、お燐が知りたいのはそこではないし、ヤタガラスという名前も無学故にピンとは来ない。

 

「それは、おくうから聞きました。……こいし様が、地上の神様を連れてきたんだって」

「うん、そうだよ。偶然ね」

「えっと……どうして、そんなことを?」

 

 こいしはきょとんと首を傾げた。

 

「おくうが強くなったらいいなって思ったから」

「……どうして、おくうを強くしようと?」

「? どうしてって……おくうを強くしちゃいけないの?」

 

 お燐は思わず閉口し、少し考え、

 

「んと、つまり、興味本位ってことですか? いや、てっきり、なにかやりたいことがあっておくうを強くしてもらったのかなーって、思ってですね……」

 

 このときのお燐は、とにかく事の因果関係を明らかにしようと躍起になっていた。なにからなにまでわけがわからなすぎて、そうでもしないと気が休まりそうになかったのだ。

 

「あー、やりたいことならあるよ!」

 

 こいしはぱっと笑顔になって、元気よく答えた。

 

「この力で、お姉ちゃんを助ける!」

「……さとり様を?」

 

 ……なんだかさっきから、わけがわからないことばかりだ。

 無論、今回ばかりは言葉の意味自体はわかった。しかし意図がわからない。さとりは今日も本を読んだり文章を書いたりしてのんびり気ままに過ごしており、とりわけ助けが必要な状態にあるわけではない。それに地霊殿には、さとりの身の回りの雑事を手伝うペットが多すぎるほどいるから、これといって日常生活に困ってもいないはずである。

 神様の力を使ってまでさとりのなにを助けるのか、想像がつかなかった。

 

「うん! お燐も覚えてるでしょ?」

 

 こいしは笑顔のままで――しかしそのとき、彼女の声の質が明らかに変わった。

 

「――ずっと前にさ、お姉ちゃんが泣きながら外から帰ってきたの」

「……!」

 

 ――ああそうか、そういう(・・・・)意味か。

 もちろん、覚えている。地霊殿での新生活が始まってから、まだそれほど日が経っていなかった頃だったはずだ。用事で外に出ていたさとりが、突然泣きながら帰ってきた。只ならぬ様子にみんな大層心配したが、さとりは結局、外でなにがあったのかをついぞ打ち明けてはくれなかった。ただ、旧都の妖怪になにか心ないことをされたのは間違いなさそうだった。

 あの日を境にしてさとりは地霊殿に引きこもり、外への用事をすべて遣いで済ませるようになった。

 もしもこいしの言う『助ける』が、さとりをその状況から救うという意味であるならば。

 

「だから私、旧都のヤツらがキライ。それで、あいつらからお姉ちゃんを助けたいなって」

「……でも、助けるって言っても、どうやって」

「んー……それは私も考えてるトコだけど……でも、お姉ちゃんが望むなら、旧都のヤツらに仕返しだってするよ!」

 

 お燐は見逃さなかった。おくうの肩が、ほんのかすかに、けれど間違いなく震えたのを。

 

「お姉ちゃんをいじめるとあとが怖いんだって、適当に痛めつけてみたり! そうすれば、お姉ちゃんがいじめられることもなくなるかも」

「……つまりこいし様は、さとり様のためなんですね」

「そうと言えなくもないよ!」

 

 なるほど。

 事の経緯はだいたいわかったし、納得もした。とはいえやはり、こいしの告白はお燐にとって衝撃的と言わざるを得なかった。

 まさかこいしがあのときのことを覚えていて、その影響で旧都の妖怪たちを嫌っていようとは、夢にも思ってもいなかったからだ。

 いつもにこにこ笑顔で自由奔放な妖怪だから、心の中もきっとそうなのだろうと思い込んでいた。嫌な記憶なんてさっさと忘れて、毎日を明るく楽しく生きているのだと。

 見当外れもいいところだった。こいしは、たとえいつもにこにこと笑っていても、嫌なことをしっかり根深く覚えていた。敢えて美しい言葉で言い換えるなら、お燐の想像を超えて遥かな姉想いだったともいえよう。

 それ自体は、さとりとこいしのペットとして、喜ぶべきことだったのかもしれない。

 しかし、

 

「だ、だめですよ、そんな」

 

 ほとんど無意識の領域で、お燐はそう言っていた。一拍遅れてからそのことに気づいてハッとし、けれど紛れもない本心ではあったので、撤回はしなかった。

 こいしが不思議そうに首を傾げる。

 

「なんで?」

「だって、それじゃあおくうが」

 

 今度は言い直した。こいしではなく、おくうに向けて、

 

「おくうは、いいの?」

 

 おくうは、心優しい妖怪だ。地霊殿に虫が迷い込めば、どんなに小さなやつであってもうにゃーうにゃーと頑張って逃してあげようとするほどに。そんなおくうが、いくらさとりを助けるためであっても、こいしの考えに共感して言うことを聞くとはどうしても思えなかった。

 だってこいしに従えば、おくうはひょっとすると、望まぬ争いに身を投じねばならなくなるかもしれないのだから。

 筋金入りの鳥頭であっても、それがわからないほど馬鹿ではあるまい。

 

「なにがダメなの?」

 

 だがおくうから返ってきたのは、取りつく島もない即答だった。

 

「こいし様とさとり様のためだもん。ダメなわけない」

 

 ――嘘つけ。

 わざと作っているのがひと目でわかる、下手くそなすまし顔だった。

 お燐は、おくうが本当に気持ちを押し殺すのは、そのまま「さとりとこいしのため」なのだと思った。おくうは心優しい妖怪で、それ故に主人のことを第一に考え、己の気持ちに蓋をしているのだと。

 結局それは、ただの勘違いだったのだけれど。

 

「ほら、おくうもこう言ってるよ?」

 

 心を読む能力を捨てたこいしに、おくうの本当の気持ちはわかるまい。

 

「で、でも、マズいですよ。下手に暴れたら、さとり様の立場がますます悪くなっちゃうんじゃ」

「元はと言えば、お姉ちゃんをいじめたアイツらがぜんぶ悪いのに?」

「そ、それはそうです、けど」

 

 お燐は動揺の中で懸命に言葉を探した。おくうは間違いなく、今のこいしに従いたいとは考えていない。ただこいしを想うが故に、嫌と言えないだけで。それにさとりだって、誰かに暴力を振るうような真似をしてほしいとは絶対に思っていないはずだ。

 確かに『力』によって好転する事態はあるかもしれないが、それも時と場合の話。少なくともお燐には、自分たちが力で明るい未来を得られるとは到底思えなかった。むしろ力が新たな争いの火種となって、今の日常が破壊されてしまうだけだと思った。

 さとりだって、おくうだって、きっと苦しむ。だからなんとかしてこいしを説得しようとするのだが、

 

「――それともお燐は、お姉ちゃんよりアイツらの肩を持つの?」

 

 その一言で、お燐の思考は完膚なきまでに捻り潰された。

 こいしが、ぞっとするほど冷めた目でお燐を見ていた。

 

「――え、」

「ふーん。お燐は、お姉ちゃんよりアイツらの方が大事なのかな?」

「ち、違いますっ!?」

 

 あっという間にパニックに陥った。血の気が失せた頭で必死に考え、二人を止めようとする自分の姿が、旧都の妖怪を庇っているように誤解されたのだと気づくまではかなりの時間が掛かった。

 気づいた瞬間、足の底から頭の先まで一気に恐怖が突き上がってきた。

 思った。――このままじゃ、こいし様に嫌われる。

 地霊殿に暮らすペットたちは、みんな思っている。この世界中でただ二人、さとりとこいしにだけは、なにがあっても絶対に嫌われたくないのだと。

 さとりとこいしからしてみれば、嫌いなペットをわざわざ飼い続ける道理などないのだから。二人の不興を買って失望させてしまえば、明日には地霊殿から追い出されたって不思議ではないのだ。

 恐怖のあまり、喘ぐような言葉しか出てこなかった。

 

「そ、それは、誤解で……」

「じゃあいいよね? お姉ちゃんのためだもん」

 

 こいしが、打って変わって可憐に笑った。

 そしてお燐は、己の敗北を悟った。

 

「……そう、ですね」

 

 そうとしか、言えなかった。

 

「で、でも、あんまりやりすぎちゃダメですよ」

 

 そう笑うことしか、できなかった。

 

「えっと、その……鬼子母神様って、怒るとすごく怖いですから」

「うん、わかってるよ」

 

 きっとこいしは、欠片もわかってくれてなどいまい。だがもうこれ以上、お燐には、なにも言えない。

 

「あ、そうだ!」

 

 こいしが突然両手を打って、驚いたお燐の尻尾が垂直に伸びた。

 

「このこと、お姉ちゃんには内緒にしててね。あとでびっくりさせてあげるんだー。だから、お姉ちゃんに心読まれたりしないことっ」

「……え!? む、無理ですよそんなの! さとり様に会っただけでアウトじゃないですか!?」

「根性でなんとかなるよ!」

「なりません!?」

 

 こいしがころころと笑い、お燐は心の底から安堵した。全身を押し潰されるような緊張からどっと解放された。無邪気なこいしの姿から、朗らかな雰囲気が広がっていく――しかしその中でも、おくうだけが微笑みもせず、思い詰めた顔で佇んでいるのをお燐は決して見逃さなかった。

 ふと、目が合った。

 言いたいことは、いろいろあった。だが喉まで出かかってきたすべての言葉が、音にならぬまま次々とどこかへ消えていく。おくうを想う気持ちより、こいしを恐れる心の方が遥かに勝っていた。

 結局、

 

「えっと……おくうも、無茶しないでね」

 

 やっとの思いで音にできたのは、そんな当たり障りのない一言だけ。

 おくうは「う」と「ん」の中間みたいな返事で、小さく頷いた。

 

「じゃ、じゃあ……あたい、戻りますから」

「うん。……お姉ちゃんに黙っててほしいのはほんとだからね! 無理にとは言わないけど、なるべく頑張ること!」

 

 曖昧に笑って頷く。踵を返し、引かれる後ろ髪を強引に振り切って、地霊殿へと空の道を引き返す。

 ――ダメだと、思った。自分では、こいしとおくうを止められない。今のやり取りで痛感した。少なくとも一対一の状況で、自分がこいしを諫めるのは絶対に無理だ。

 だが、このままにしておくわけにはいかない。おくうが手にした神の力は間違いなく強大だ。あんなものをこいしに言われるがまま振るってしまったら、多くの妖怪が傷つくことになりかねないし、そうなれば心優しいおくうだってきっと傷つく。自分の妹とペットが暴力に訴えるような真似をしたと知れば、さとりだって己を責め苛むだろう。場合によっては、さとりが今以上に旧都の妖怪たちから爪弾きにされてしまうかもしれない。

 誰も幸せになんてなれない。

 お燐が深刻に考えすぎているのか。

 それともこいしが、楽観視しすぎているのか。

 しかしどちらであろうとも、未然に防げるならそれに越したことはないはずだ。

 

(……でも、どうやって)

 

 まず浮かんだのは、いっそさとりにすべてを知らせてしまう選択だった。けれど、しばらくして首を振る。目に浮かぶようだ――血相を変えて妹を叱りつけるさとりと、口うるさい姉に反発するこいしの姉妹喧嘩(きょうだいげんか)が。とても解決どころの話ではない。それに、ひょっとすると、おくうがさとりから「そんなことを考える子だとは思わなかった」と失望されてしまうかもしれない。

 もしもわずかとも主人に嫌われるようなことがあれば、恐らくおくうなど生きていけまい。

 さとりに知られぬまま、二人を止められる方法はないか。

 鬼子母神に止めてもらうのはどうか。いくらおくうの手にした力が強大でも鬼子母神には敵うまいから、現状を未然に防ぐ意味では百パーセント確実な手だといえよう。

 だがそれは、決して根本的な解決ではない。鬼子母神は、こいしが言うところの『旧都の妖怪』だ。鬼子母神はさとりの友人だが、ひょっとするとこいしは、内心では鬼子母神の存在を邪魔に思っているのではないか。こいしが『旧都の妖怪』を嫌っていると知った今となっては、どうしてもそう考えてしまって已まない。

 嫌いな『旧都の妖怪』に計画を邪魔されれば、こいしの心の中に巣喰う嫌悪の感情は反って勢いを増すだろう。それでは、今起ころうとしている悲劇を先送りにするだけの、単なる時間稼ぎにしかならない。

 一番理想的なのは、こいしに自らの過ちを気づかせ、自らの意思でやめさせること。

 それができる、最も近い場所にいるのは――。

 呟いていた。

 

「……おにーさん」

 

 こいしは、月見が大好きだ。一体なにがきっかけだったのかは甚だ不明だが、こいしは彼に、或いは地霊殿の誰に対してよりもよく心を開いている。まるで父親に甘える娘みたいだと、地霊殿のペットたちの中では専らの話題である。

 そんな月見の言葉なら、こいしに届くかもしれない。

 問題は、彼にどうやって助けを求めるかだ。自分が地上まで直接出向くのは難しい。万が一誰かに見つかってしまえば、鬼子母神直々のおしおきに掛けられた上、事情をなにからなにまで根こそぎ吐かされるに違いない。第一、道がわからない。そのへんの洞穴から行けると聞いたことはあるが、『そのへん』がどのへんなのかをお燐はさっぱり知らない。

 なら、鬼子母神に頼んで連れてきてもらうのは。頭の中でシミュレートしてみる――「どうして月見くんに会いたいんですかー? え、話せない? あらあら、話せないようなことのために私を使おうなんていい度胸ですねーうふふ」――ちょっと体が震えてきた。

 そこでお燐はふと、自分が本来ここまでやってきた目的を思い出した。地底の端っこで面白いものを見かけたから、おくうに教えてやろうと思って来たのだった。

 間欠泉。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――だからこれは、ぜんぶお燐のせいなのだ。

 一番動けたのは自分だった。自分が一番、こいしとおくうを止められる近い場所にいた。だから、あのとき二人を止められなかった自分のせいで、今がこんなことになってしまっているのだと思った。

 月見が倒れ。

 おくうの力が暴走し。

 地底が崩壊し、灼熱地獄へと呑まれていく。

 そして自分たちは、広がっていく火の海に背を向けることしかできない。お燐はもちろん、さとりも、こいしも。天子だって、勇儀だって。この崩壊を前にして自分たちに許されたのは、為す術もなく逃げ続けることだけ。

 ぜんぶ、なにもかも、自分のせいだと思った。

 

「……お燐、違うわ。あなたのせいなんかじゃない」

 

 隣を飛ぶ主人に、感情を殺した声音でそう言われた。彼女は、言葉にはしなかったけれど。お燐はそのあとに、「私のせいよ」と続くかすかな一言を聞いた気がした。

 

「……そう。これは、私のせいだわ。私がもっと、おくうのことを気に掛けていれば」

「違うんです、さとり様。だって、あたいは」

 

 自分は。

 

「……おくうを、こいし様を、本気で止めようとしていなかった」

 

 当時はそんなつもりなど毛頭なかったが、やっぱり、今になって思い返せばそうだった気がするのだ。あのとき、なぜお燐は諦めたのか。――「自分の言葉が二人に届かないと悟ったから」。なるほどそれらしくは聞こえる。だが本当にそうだったのか。本当に、お燐の言葉は二人に届かなかったのか。ひょっとしてお燐は、自分では止められないとそれらしい理由をつけて早々に諦め、自分の言葉が届かない現実に背を向けたのではなかったか。戦う前から負けを認めたのではなかったか。

 こいしに嫌われるのが、怖かったから。

 おくうに誰かを傷つけるような真似をさせてはいけないと、わかりきっていたのに。このままでは絶対によくないことが起こると、確信していたのに。

 

「あたいは、逃げたんです」

 

 お燐は、こいしが怖くて逃げたのだ。

 あのときお燐は、親友を助けるのではなく、自分の身を守る方を取った。そして「月見の言葉ならこいしに届く」と愚かにも考え、逃げた自分自身から目を逸らし、すべてを月見に丸投げした。

 そんな自分が、責められなくてもよい理由なんて。地底が崩壊していくこの期に及んで、あるはずがないのだと。

 

「……違う! 違うよ!」

 

 姉に縋りついて泣くばかりだったこいしが、声を擦り切らせながら顔を上げた。その瞳はすでに泣き腫らしていて、目元にはなおも溢れ出ようとする涙の気配があった。

 

「そんなの! そんなの、お燐の話を聞かなかった私のせいじゃない! お燐は悪くない、私が悪いんだよ! 私が、間違ってたんだ……っ!」

「違うわこいし、私が」

「お姉ちゃんは、なにも知らなかったんでしょ!? お姉ちゃんは関係ない! 悪いのは、私なんだっ……!」

 

 結局、みんな同じだった。お燐もさとりもこいしも、みんなが自分のせいでこうなってしまったと考えていた。或いは、そのすべてが正しかったのかもしれない。誰か一人のせいなどではなく、三人の小さな過ちが少しずつ軋みを生んで、やがて取り返しのつかない崩壊へと至ってしまったのかもしれない。

 どうして、自分たちは。今がこんなになってしまうまで、なにもできなかったのだろう。こんなの、誰一人として、望んでなんていなかったはずなのに。

 それっきりお燐たちは、なにも言えない。骨まで食い込んでくるような沈黙に、ともすれば飛ぶことすらも忘れてしまいそうだった。

 

「――こら。あんたらね、月見の前でそんなみっともない言い争いするんじゃないよ」

 

 口を切ったのは、未だ意識の戻らない月見を抱えて飛ぶ勇儀だった。呆れたような、それでいて叱咤するような鋭い口振りで、

 

「誰が悪いとか悪くないとか、そういう言い合いはぜんぶが終わってから好きなだけやりな。それより今は、これからどうするかを考えた方がいいんじゃないかい」

 

 さとりに抱かれるこいしを顎でしゃくり、

 

「特に、そこのちっこいの。あんた、月見に助けてもらったんでしょ? だったらもう泣くのはおよし。あんたを泣かせるために、月見はこんな傷を負ったわけじゃないはずだよ」

「っ……」

 

 正論ではあった。今ここで、私が悪い、あなたは悪くないと言い合っても、おくうの暴走が収まるわけでは決してないし、地底の崩壊だって止まらないし月見の怪我だって治らない。いくら自分を責めても、人の過ちを否定しても、意味のないこと。わかってはいる。お燐だって、さとりだってこいしだって、頭ではとっくにわかっているのだ。

 けれど、

 

「……じゃあ、どうすればいいんですか」

 

 声を絞り出したのは、さとりだった。

 

「これから、どうすれば、いいですか。あなたと違って、なんの力もない私たちに。これから、なにができるっていうんですか」

 

 取り乱すまいと必死に感情を抑え込む口振りが、反ってさとりの、憤りともいえる無力感を迫るように感じさせた。――これからどうするべきなのか、答えがわかっているならとっくの昔にやっていると。

 おくうを助けることも、地底の崩壊を止めることも、月見の傷を癒やしてあげることもできない。今のお燐たちは、無力としか言いようがない極めて小さな存在だった。できることなんて、もう、なにもありはしないのではないか。そんなやるせない思いで、今にも心を押し潰されそうになっていた。

 だが、勇儀はこれといって表情を変えなかった。

 

「――まあね。藤千代が行ったからね。正直私らがなにもしなくたって、この事態は止まるんだろうって思う」

 

 じゃあ、

 

「でもさ。これって、それで本当にぜんぶ丸く収まるわけ?」

 

 お燐とこいしには、その問いの意図がわからない。

 

「要するに――あの地獄鴉の暴走が止まれば、それでハイめでたしめでたしかい? もう二度と、同じようなことは起こらないって言い切れる?」

 

 お燐たちは、答えに窮した。

 勇儀は、答えを待たずに続けた。

 

「私は正直、藤千代に問答無用で連れてこられた感じで、事情も詳しくは知らないけどさ。でも、これだけはハッキリ言える。――月見が体張って首突っ込んでこんな風に怪我するのは、間違いなく、目先の問題を解決しただけじゃ終わらないしち面倒くさいことが起こってるときだってね」

 

 彼女はなおも言う、

 

「事情なんか知らなくたってわかるさ。肉体に降ろした神様の御魂は、依代の精神状態に大きく影響を受けるからね」

 

 彼女の奥を飛ぶ天子が、重苦しく頷いた。

 

「依代の心が清らかなら和御魂に、荒んでいるなら荒御魂に変わる。私利私欲なく清らかであればあるだけありがたい加護を引き出せるけど、逆もまた然りで、荒めば荒むだけ恐ろしい災いをもたらすことにもなる……」

「そういうこと。つまりね――荒御魂があんな冗談ならない規模に肥大化するって、あの地獄鴉はどんだけ心に深い闇を抱えてたんだって話だよ。ハッキリ言って異常だね」

「……ちょ、ちょっと待って」

 

 お燐は思わず口を挟んだ。だって、もしも勇儀たちの話が真実であるなら、

 

「おくうが暴走したのは、神様の力が強大すぎて制御できなくなったから――じゃ、ないの?」

「それもある……とは、思う。あの地獄鴉に降ろされた神様――八咫烏は、神話に名を刻んだ由緒ある神様だから。でも、その荒御魂を呼び覚ますきっかけになってしまった『闇』があったのも、間違いないと思う」

 

 なるほど確かに、おくうは心にまったく闇を抱えていなかったとは言えない。月見に大好きな人を取られるかもしれない寂しさに怯え、取られたくないと嫉妬していた。それは認めよう。しかし、家族を取られたくないと嫉妬することの、一体どこが異常だというのか。そんな愛らしい心が地底をも滅ぼしかねない暴走の引鉄になったなんて、お燐はどうしても思いたくなかった。

 それともまさか、お燐が気づいていないだけだとでもいうのだろうか。寂寞と嫉妬はほんの氷山の一角でしかなく、その奥には神の荒御魂を暴走させて余りある、深淵が如き闇が広がっているとでも。

 

「なんにせよそういうわけだから、今の暴走を止めればそれでめでたしだとは思えないわけさ。神様の力は、まあこれが終わったら取り上げちまえばいい。でもそれだけじゃあ、あいつの心の闇は消えない」

 

 月見の体を意外と繊細に抱え直し、お燐たちをつと一瞥した勇儀の目は、澄んでいて人情味にあふれた鬼の瞳だった。

 

「それを払えるのは、藤千代でも月見でもない。あんたたち、家族ってやつなんじゃないのかね」

「……」

 

 そこまで言ったところで、彼女はいきなりニカッと笑って、

 

「――って、月見だったら言うだろうさ。これでもまだ、自分たちにはなにもできないって思うかい?」

 

 目の前の霧が、晴れていくような心地がした。

 上手く笑えるほどではなかった。地底の崩壊は今なお止まることなく続いていて、安易な気持ちで笑っていい状況ではないとわかっている。けれど少なくとも、両肩に重くのしかかっていた「もうなにもできない」という無力感は溶けてなくなって、それが小さな、本当に小さな笑みの吐息となってお燐の口からこぼれた。

 まったくもって、勇儀の言う通りだった。自分たちは、なにを勝手に諦めていたのだろう。受け入れがたい過酷な現実ばかりが立て続けに起こったせいで、正常な思考と判断を失っていたのかもしれない。

 ――こんなところになんか来ないで、地霊殿で仲良くお話してればいいじゃないですか。

 ――私を見てくれるのは、こいし様だけなんだ。

 そう、おくうはやつれた顔で言っていた。あのときおくうが一体どんな気持ちでいたのかは想像する他ないが、どうあれ、裏を返せば彼女はこう言ったのだ。

 お燐とさとりは、もう自分を見てはくれないのだと。

 人の気も知らないで。お燐が、さとりが、一体どれほどおくうを心配していたのか知ろうともしないで。なのにおくうは「私を見てくれるのはこいし様だけ」と勝手にも思い込み、いじけて、ヘソを曲げて、お燐はおろかさとりまでをも拒絶した。

 このままでいいはずがない。

 お燐たちは、教えてやらなければならない。自分たちがどれだけおくうのことを考え、心配して、ここまでやってきたのかを。月見の味方だからじゃない。おくうの味方だからこそ、おくうを止めに来たのだということを。

 あの頭でっかちで、わからず屋な地獄鴉に。

 

「……そうね」

 

 さとりが、頷いた。

 

「勇儀さん」

 

 そう言って、彼女はゆっくりと飛行を滞空へ切り替えた。お燐もそれに倣って立ち止まる。勇儀は、まるではじめからわかっていたように悠然と。天子は少し遅れてから気づいて、慌てながら振り返る。

 さとりの瞳に、「おくうを止める」と旧都で誓ったときの光が戻っている。

 

「……私たち、ここに残ります。残って、おくうの帰りを待ちます」

 

 こいしが顔を上げた。

 

「お姉ちゃん……?」

「こいし、お燐。あなたたちに話しておきたいことがあるの。おくうの、こと。ほんの少しだけど……おくうの心を、聞いたから」

 

 八咫烏の荒御魂を抑えきれず、暴走するきっかけとなってしまった、おくうの心の闇。

 答えなど、迷うはずもなかった。

 

「わかりました。教えてください。さとり様」

「ええ。……こいしも、ね?」

 

 こいしはぐじっと鼻をすすり、目元を甲で乱暴に拭って頷いた。涙を懸命にこらえるその顔は、少し不格好だったけれど。彼女の瞳にもまた、姉と同じ色の光が宿っていた。

 勇儀がうむうむと満足げに、

 

「よろしい。ま、月見のことは私に任せといてよ。責任持って旧都まで連れて帰るから」

「はい。どうか、お願いします」

 

 深く頭を下げたさとりは、それから、

 

「天子さんも、ついていってあげてください」

「……でも」

「私たちは、大丈夫です。……大切な方、なんですよね?」

 

 天子は言葉にならない声で呻いて、縮こまり、伏し目がちになりながら、やがて観念したようにこくんと首を動かした。

 もちろんお燐も、なんとなく気づいてはいた。そりゃあ、気を失った月見を見守る視線にただ一人、お燐たちとは明らかに違う感情がこもっているのだから誰だって気づく。旧都でさとりに心を読まれ、ふにゃあああああと顔を真っ赤にして錯乱していたのは、やっぱりそういう意味だったのだろう。

 そんな天子を微笑ましく感じるよりも、人間からそんな風に想われる月見を、月見らしいと思う気持ちの方が勝った。今までも、主にさとりと月見が世間話をするのを横から聞く形で、彼が地上でどんな生活をしているのかは教えられてきた。月見ほど人間妖怪問わず――特に人間と友誼を結ぶ妖怪というのは、恐らく幻想郷でも地底でも二人といるまい。

 たとえ人間でも、さとりやこいしのように厄介な能力を持つ妖怪でも。誰であろうとも受け入れ、また受け入れられてしまうのが、月見という妖怪の持つ不思議な能力なのだ。

 だからきっと、おくうだってわかってくれる。月見は決して、おくうから家族を奪おうとなんてしていない。お燐たちは決して、おくうから離れようとなんてしていない。ぜんぶ、おくうの悪い思い過ごしなのだと。

 この自慢の爪で顔を引っ掻いてでも思い知らせてやるのが、お燐たち家族の果たすべき役目なのだ。

 

「……わかった。その……あ、ありがとう」

「月見さんを、お願いしますね」

 

 だから、おくう。

 早くあたいたちのところまで、帰ってきてよ。

 さとり様とこいし様だって、待ってるよ。

 未だ止まらない崩壊の光景を見据えながら、お燐はそう静かに祈る。

 

「言っとくけど、危ないことしちゃダメだよ。あとで月見に怒られるからね」

「……あはは。そうですね、肝に銘じます」

 

 このときのお燐は、まだ気づいていなかった。

 藤千代がおくうを止めに行ってから、およそ十分。

 それでもなお崩壊が止まっていないという事実が、一体なにを意味していたのか。

 お燐のみならず、この場にいる誰しもが、気づいていなかったのだ。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 そして、勇儀がさとりたちと別れてから一分、

 

「――で、あんたって月見とどういう関係? 月見のこと、どう思ってるの?」

「ぶ!?」

 

 勇儀が満を持してそう問うた瞬間、隣を飛んでいた天子は盛大に吹き出した。

 

「え!? なななななっにゃによ突然!」

「いや、ぜんぜん突然なんかじゃないでしょ。さっきさとりが言ってたじゃん、『大切な方なんですよね?』って。あんたも否定してなかったどころか頷いてたし」

「うぐぅっ……!」

「あ、そうだ。名前、天子で合ってるよね? 私は星熊勇儀ってんだ」

 

 天子はいろいろと物言いたそうな顔をしばらくしたが、やがて咳払いで気を取り直し、

 

「……う、うん。比那名居天子よ。その、よろしく」

「おうさ。で、月見との関係なんだけど」

「げほげほげほ!?」

 

 愉快な人間だなあと勇儀は思う。

 天子は痛快なほどに狼狽えて、

 

「い、いやあのっ! あれは決して、深い意味があったわけではなくて!」

「またまた、隠さなくてもいいって。あんたが月見とただの知り合いじゃないのは、ひと目見た瞬間になんとなくわかったしね」

 

 勇儀が藤千代に連れられるまま、崩壊の中心地まで足を踏み入れたとき。天子は大火傷を負い気絶した月見を、泣きながら抱き締めていた。ただの知り合いなのだったら、抱き締めるのはもちろん涙を流すのだって怪しい。つまりはそれだけ、天子が月見を想う気持ちの表れだったわけだ。

 

「別にからかってるわけじゃないさ。ただ月見って、女の知人友人も多いだろうし、結構大変なんじゃない?」

「それは……まあ……」

「おっ、否定しないんだ」

「げっふげっふ!!」

 

 ほんと愉快なやつだなあ。

 

「こ、こういうときにそんな話するのはどうかと思いますっ!」

「お堅いこと言っちゃってー。いいじゃないか、私は暗い雰囲気ってのがキライなんだ。辛いことがあったからって、それで気持ちまで落ち込んでたら泥沼だよ。笑う門にはなんとやらっていうだろ?」

「笑うのはあなただけだと思うんだけど……」

 

 よくおわかりで。

 

「ほらほら、どうして月見なわけさ? あんた、人間でしょ?」

 

 天子は少しの間答えず、勇儀が抱きかかえる月見を一心に見つめていた。恐らくは、自分が月見と出会った頃を思い返していたはずである。そうに決まっている。だって今まさに勇儀の目の前で、彼女は嘘みたいに柔らかく微笑んでみせたのだから。

 早速笑ってんじゃん、なんて一言は、もちろん心だけに留めておく。

 

「……私は人間でも、普通の人間とはちょっと違くて、天人っていう種族なんだけど」

 

 勇儀は目を丸くした。

 

「天人? 天人って、天界に住んでるっていうあの?」

 

 天子が頷いたので、勇儀ははあ~っと口を半開きにして驚き呆れた。夏の青空みたいに大層な出で立ちから、ただの人間ではないだろうと思ってはいたが、まさか天人だったなんて。俗世を捨て雲の上で享楽的に暮らしているという、勇儀からしてみれば得体の知れない怪しい種族である。

 しかし、目の前の天子という少女はそれとはだいぶ印象が違った。月見とともにこんな地底くんだりまでやってくる時点でさっぱり俗世を捨てられていないし、頬をほのかに染める様はいかにも俗まみれではないか。正直、実は普通の人間ですと言われた方がまだ納得できたくらいだ。

 昔から変わり者な妖怪に好かれやすい月見の体質は、近年その効果範囲を人間にまで広げているらしい。

 

「私は……その、天人の中でもかなり変わり者というか」

 

 それは見ればわかります。

 

「ぜんぜん、修行とかして天人になったわけじゃなくて。昔はかなり自分勝手な性格だったから、他の天人ともさっぱり上手くやれてなくて。……まあ、荒んでた、っていうのかな」

「へー……」

「それで毎日、すごく退屈な生活をしてたんだけど。でもある日、地上で月見を見つけて……ええと、なんというか、月見のすごく賑やかで楽しそうな生き方に、衝撃を受けた次第で」

「ふむふむ」

「それから、いろいろあって……たくさんよくしてもらったり、助けてもらったりして……」

「すっかり骨抜きにされちゃったと」

「げふげほごほ!?」

 

 この人間面白い。

 勇儀はニヤニヤしながら、

 

「いやー、あんた勇気あるねえ。だってつまり、藤千代とライバルだってことだもんね。私ら鬼の中じゃあ、藤千代と勝負するのなんて真っ平御免だってんで、月見を特別好いてるやつなんて一人もいないよ」

「……へえ」

 

 とても重要な情報を聞いた、という顔を天子はした。

 

「一人も? 藤千代以外?」

「おうさ。仮にいたとしても、名乗りを上げる度胸なんて誰にもないだろうね」

 

 それだけ鬼子母神の名は、同族から深く畏怖されているのだ――いろんな意味で。

 だって仮に名乗りを上げたとして、藤千代から「じゃあどっちが月見くんに相応しいか決闘しましょうかーうふふ」なんてなったら地獄を見る羽目になる。恋などという一時の酔狂よりも、自分の命の方がよっぽど大事なのである。

 

「あなたも?」

「いい呑み友達してもらってるよ」

 

 自分は恋をするよりも、人の好いた好かれたの話を肴に酒を呑む方が性に合っているので。地底にやってきた月見が聞かせてくれる地上の暮らし――要するに月見の周りに集まる少女たちの話――は、いつも勇儀の心を楽しませてくれる。

 ふむふむと相槌を打った天子は、そこでいきなりハッとして、

 

「……あっ! でも、萃香っていう鬼はよく月見にひっついてる!」

「ああ、それは大丈夫だよ。妹がお兄ちゃんに甘えてるようなもんさ。あいつは元々、自分が気に入った相手にはスキンシップ激しいからね」

 

 それに萃香は、どちらかといえば紫応援派なのだが――これは、敢えて言う必要もなかろう。

 

「そう……なの?」

「安心した?」

「げっふんげっふん!!」

 

 ほんと面白い。

 

「でもほんとどうするの? 藤千代が『どっちが月見くんに相応しいか決闘ですよ!』なんて言い出したら、あんたに勝ち目なんてないよ?」

「え? ……それは大丈夫だと思うけど」

「おや、どうして?」

 

 まさか人間の彼女が、「藤千代なんかに負けないから!」などと啖呵を切れるはずもあるまい。

 しかして天子はその予想通りに、しかし予想以上の一言を言ってのけたのだった。

 

「だって月見は、そうやってなんでも力で解決しようとする女は選ばないと思うし……」

「…………、」

 

 勇儀ははじめの三秒間をぽかんと呆け、次の三秒間でじわじわと口角を吊り上げ、一秒で大きく息を吸って、合計七秒後に呵々大笑した。

 

「――あっははははは!! そうかそうか、いやー確かにそうだ! あんた、育ちよさそうな顔してなかなか言うねえ!」

「な、なんでそんなに笑うの!? だって……月見はそうでしょ!?」

「そうだけど。そうだけどさあ……」

 

 勇儀はなおも喉でくひひと笑い、

 

「いやー……藤千代に聞かせてやりたいよ。今のセリフ、ぜえったい効くって。もしかしたらあんた、あいつを倒したはじめての人間になれるかもよ」

「わ、私は……別にそんなつもりで言ったんじゃ……」

 

 まったくもって、本当に面白い人間だった。昔は自分勝手な性格だったというものの今は見る影もなく、いかにも育ちがよさそうで、ともすれば気弱そうな女にも見える。けれど先ほどのセリフを聞けばわかる通り、さりげなくしたたかで、実に油断ならない一面も持っている。

 人間相手に興味が湧くのは、一体何百年振りの話なのだろう。

 

「よーし気に入った! 萃香は紫派みたいだけど、私はあんたを応援しようかなーっ」

「えっ……な、なに突然? それに紫派って」

「しょうがないなあ、そんじゃあ月見の手当もあんたに譲ってやろう! 合法的に月見の体触るチャンスだしね!」

「ぶーっ!?」

「まあ嫌ならいいけど」

「いや別に嫌とは一言も――ハッ」

「あひゃひゃひゃひゃひゃ!」

「もお――――――――っ!!」

 

 ――ああやっぱり、人の好いた好かれたの話は面白いなあ。

 顔面真っ赤な天子に追いかけられながら、大笑いする勇儀はぴゅーんと旧都まで飛んでいく。そんな天子いじりが、いかんせんどうも面白かったので。

 月見の眉と指先がほんの一瞬、やかましそうにピクリと震えたのには、まったくもって気がつかなかった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――おくうは、ずっと寂しかったみたいなの」

 

 さとりから聞かされた、おくうの心は。

 お燐にとって――そしてこいしにとって、血の気が失せるほどの刃となって喉元に迫り来るものだった。

 

「今年の夏頃、地霊殿に月見さんがやってきて」

 

 彼方には、崩壊し、灼熱地獄に呑まれていく地底の姿が見える。なにもない地底の端の端――けれど数分後には炎とともに消えてしまうであろうその場所で、お燐たちはおくうの帰りを待ち続ける。

 

「以来、たびたび地霊殿まで遊びに来てくださるようになって」

 

 さとりは、昔話をするように語っている。

 

「それが、おくうには気に入らなかったみたいなの。私たちを、月見さんに取られちゃうんじゃないかって」

 

 未だにさとりの傍を離れようとしないこいしが、縋りつく両手ににじむような力を込めた。もしかすると、心を読めない彼女ははじめて知ったのかもしれない。だからこそさとりの言葉は、ひどく残酷な響きとなってこいしの心を穿ったはずだ。

 月見を一番受け入れていたのは、他でもないこいしだったのだから。

 次に月見が来てくれる日を待ちきれず、こっそり地上まで迎えに行ってしまうほどに。

 

「おくうは、月見さんに嫉妬していたのよ。地上の妖怪なのに、男なのに。自分の方がずっとずっと、私たちと一緒に暮らしてきたのにって」

 

 こいしがさとりの肩に顔を埋め、何事かか細く声をあげる。泣いていたのだと思う。もうとっくに、涙だって枯れるほど泣いたはずなのに。

 

「お燐は、知っていたのね」

「……はい。おくうから、直接聞きました」

 

 けれどあのときは、こんなことになってしまうだなんて夢にも思っていなかった。

 

「……そうね」

 

 悔いるように、さとりは緩く首を振った。

 おくうは月見に嫉妬していた――それは、お燐も前々からわかっていた。だからお燐は、改めてさとりの口から聞くのは少し辛かったけれど、平静を崩さず耳を傾けることができていた。

 故に血の気を失ったのは、ここから先の方。

 

「おくうは、寂しかった。……だから、神様の力を受け入れると決めたの」

「……え?」

 

 耳を疑った。

 

「私たちの気を、引こうとして」

「ま、待ってください。おくうが神様の力を受け入れたのは、こいし様の力になりたかったからですよね?」

 

 そのはずだ。おくうに直接確かめたわけではない。けれどあの心優しいおくうが、誰も傷つけたくないという己を殺してでも力に縋る理由なんて、それ以外にはないはずなのだ。

 だがさとりは、首を振った。

 

「たぶん、はじめのうちはそうだったんでしょう。でも、おくうは気づいてしまったのよ。――この力があれば、こいしが自分を見てくれる(・・・・・)んだって」

「――、」

 

 こいしの嗚咽が止まり、お燐は時を失った。

 

「毎日食べ物や着替えを運んで、調子はどう? って気に掛けてくれる。それが……それだけのことが、すごく、嬉しかったみたい。だから、こいしの言う通りにしていた」

 

 一体どれほどの間、言葉を失っていたのだろう。そう長い間ではなかったと思うがあまり自信がない。崩れ行く大地の震動、火柱を上げる大気の鳴動、こいしがしゃっくりをする、さとりが顔を俯ける、そしてようやくお燐は、

 

 

「――それだけ(・・・・)の、ために?」

 

 

 こいしに見ていてほしかった――つまり、構ってほしかった。

 それだけ。

 たったそれだけのためにおくうは、欲しくもない神の力を受け入れ、共感できないこいしの理想に賛同し、傷つけたくもない誰かを傷つけようとした。

 それは、一体。

 一体、どんな想いがあれば。

 

「そんな、ことって」

 

 まともな判断だとは到底思えなかった。だって、見てほしかったのなら、構ってほしかったのなら、素直にそう言えばいいだけの話なのだから。おくうが一言そう言えば、こいしだってさとりだって、お燐だってきっと喜んで願いを叶えてあげただろう。

 なのにおくうはなにも言わず、誰も傷つけたくないという己の心を殺して、ただこいしに構ってもらうためだけに力を振るった。

 そして、暴走した。

 一体おくうは、どれほどまでに自分を追い詰めていたというのだろう。

 

「私の、せいだ……!」

 

 いつしかまた、こいしが止められない涙で体を震わせた。

 

「私、あのとき(・・・・)、おくうにひどいこと言っちゃった……! もうやめようって……! そんな力、求めちゃダメだったんだって……っ!」

 

 ――ようやく、ぜんぶ納得が行った。

 おくうは寂しくて、構ってほしくて、お燐たちの気を引くために神の力を手にして。

 けれどお燐とさとりが、月見と一緒に(・・・・・・)、自分のことを止めに来て。

 そしてとどめに、たった一人の味方だったはずのこいしから――否定された。

 神の力に、意味などなかった。

 なら自分は一体なんのために、辛い思いをして、苦しんで、頑張ってきたのか。

 これが、おくうの抱えていた本当の闇。心を折られ、神の荒御魂に押し潰されてしまうには、あまりに充分だったのだろう。

 

「わたし、わたし……っ!」

「こいしは、間違ってないわ」

 

 壊れそうなこいしの背中に、さとりがそっと両手を回した。

 

「こんな力、求めてはいけなかったのよ。仕返しなんて、しなくていいの」

 

 まるで母のように、こいしの背を撫ぜ、

 

「だって、私は。あなたたちとのんびり毎日を過ごせるなら、それだけで充分幸せなんだもの」

 

 ――お燐は本当に、強い主人を持ったと思う。

 こんな妖怪が、世界に果たして二人といるだろうか。地底に下るより昔から、お燐が知らないずっと昔から、心を読む能力のせいで辛い思いをし、悩み、苦しんで。地底に下りてきてからも、仲間であったはずの旧都の妖怪たちから爪弾きにされ、気軽に外を歩くこともできない。そんな中であってもさとりは決して、妹のように第三の目を閉じる真似はしなかった。誰も恨まず、誰も憎まず、言葉を持たぬ者たちと心を通わすために力を役立てようとした。復讐を虚しく疲れることだと考え、常に前を向こうとしていた。

 そしていま彼女は、家族がいればそれだけで幸せなのだと、心からの言葉で言ってのけた。

 本当に、強くて優しい、お燐の自慢の主人だった。

 だからこそ、思う。おくうはひとつ、決定的に誤解をしている。さとりが自分を見てくれていないだなんて、そんな馬鹿げたことがあるわけがない。さとりがおくうへ注ぐ愛情は、はじめからなにも変わってなどいない。月見と知り合う前も、月見と知り合った今も、変わらずにおくうを愛し続けてくれている。

 だがおくうは、恐らくは自分から目を逸らしたのだろう。月見に対する異常なまでの嫉妬心が、おくうから正常な判断を奪ったのだろう。さとりが自分を見てくれているかどうかはその実まったく問題ではなく、さとりと月見が仲良くしているという、その事実自体が憎かったから。

 本当に、バカで、やきもち焼きで、それ故に愛おしい、お燐たちの大切な家族だ。

 

「だから、おくうが戻ってきたら思い知らせてあげましょう。神様の力なんて要らない。そんなものがなくたって、私たちは、みんな。おくうのことが、大好きなんだって」

 

 言われるまでもなかった。だってお燐は、はじめからそのつもりでここに残ったのだから。

 

「そうですね。……絶対に、わからせてやります」

 

 一度は、怖くて、おくうの前から逃げ出してしまった。本当に後悔している。あのときお燐にほんの少しの勇気があれば、こんな惨劇はきっと起こっていないはずだった。目の前の現実を、逃げ出した自分への罰のように感じてしまうほどだった。

 だから、せめて、これ以上は間違ってはならないのだ。

 お燐たちは待ち続ける。だがいくら時を耐え忍んでも、お燐の瞳には同じ光景ばかりが映り続けている。おくうの姿も藤千代の姿も見当たらない。見えるのはただ、鳴動とともに崩れ落ちる大地と、地下深くから噴き上がる深紅の火柱――かつて以上の猛々しさを取り戻した故郷の姿が、今は身も竦むほど恐ろしい世界であるように思える。

 俄に、お燐は不安を覚えた。

 自分たちが、この期に及んでなにかを見落としているような――そんな居心地の悪い感覚に囚われた。

 

「……お燐? どうかしたの?」

「あ……いえ……」

 

 正体を探ろうとしても、霧を掴もうとするようにまるで手応えがない。だから心を読めるさとりにも、お燐が抱く不安の答えを知る術はない。

 お燐は慌てて、

 

「な、なんでもないです。気のせいですよね、きっと……」

 

 そう思おうとした。壮絶な姿へと変わってしまった故郷に対する、戸惑いや恐怖心の類いなのだろうと。主人まで不安がらせるようなことではない。

 

「き、気にしないでください。それより、」

 

 おくうと藤千代、なかなか戻ってこないですね――そう苦し紛れに話を逸らそうとしたとき、

 お燐は、鴉の(つんざ)く声を聞いた。

 

「……!」

 

 弾かれるように前を見た。いつしか、地底の崩壊はもう決して遠くない距離まで迫ってきていた。噴き上がる火柱の熱気が、お燐たちの体まで届き始めつつある。足下を揺らす大地の鳴動が、少しずつ大きくなってきている。

 じきに、ここも危ない。

 そんな思考が脳裏を掠めつつもお燐は、眼前の光景に目を奪われたまま、足を縫われたように身じろぎひとつすることができないでいた。

 灼熱地獄の姿が、変わっていた。

 燃え盛る火が地を走る姿は大蛇が如く。天高く駆け上がる姿は龍が如く。地上を地獄に変える一方で、天へ昇った炎は幾万への火の粉へ姿を変え、空を紅に染め上げる様は群鳥が如く。

 ただ轟々と炎を噴き上げるだけではない、まるで炎そのものが意思を持ったかのような――おぞましくも美しく、破壊的でありながら幻想的なその崩壊に、恐ろしいことだがお燐は心を奪われてしまっていた。

 ほんの一瞬であっても、綺麗だと感じてしまった自分に、ぞっとした。

 流星が煌めいている。舞い散る火の粉とは明らかに違う白い一筋の閃光は、地に落ちた瞬間に激しい光となって炸裂し、大地を容赦なく揺り動かした。そこでようやくお燐は、火の粉で覆われた天にぽつんと、赤めいた色をした星がひとつ浮かんでいるのに気づいた。煌めく流星は、すべてあの星から大地へ向けて放たれている。まるで、獲物を撃ち落とそうとする射手のように。

 近づいてくる。

 正気に返ったお燐は、慌ててさとりの袖を引いた。

 

「さ、さとり様。危ないです、そろそろ離れましょう」

 

 返事はない。

 

「……さとり様?」

 

 さとりは返事をしないどころか、じっと天を見つめたまま微動だにもしない。瞬きを忘れたその瞳には、あの赤い星が炯々と映り込んでいる。

 

「さとり様? ……さとり様っ!」

 

 お燐はさとりを揺すった。だがやはりさとりはお燐を見向きもせず、赤い星から片時も目を離そうとしない。

 異変を感じたこいしもまた、お燐とともにさとりの腕を引いた。

 

「お姉ちゃん、どうしたの? 早く離れないと……!」

「――、」

 

 ようやくさとりが、うわ言を言うように小さく唇を動かした。

 

 

「――おくう?」

 

 

 お燐は天を見上げた。赤い星。今度は気づいた。

 星じゃない。

 全身から緋色の炎を噴き上げる、有翼の少女。胸元で燦然と輝く真紅の瞳。

 

「あ……!」

 

 一瞬は、正気に戻ったおくうが帰ってきてくれたのではないかと期待した。しかしその淡い希望も、次の瞬間には呆気なく打ち砕かれて崩れ去ったのだけれど。

 おくうが、咆吼した。

 そしてそれは、おくうの声ではなかった。

 あの、布を裂くような、鴉の哭き声だった。

 

「……お、くう」

 

 突きつけられた現実に、お燐は足の指先まで為す術もなく凍りついた。

 おくうの周囲に数多の光弾が出現する。おくうは少女とは思えぬほど獰猛に腕を振り抜き、光弾はすべてが流星と変わって火の空を翔け抜ける。

 お燐が立つのとは、九十度以上のまるで見当違いな方向。

 そこに、藤千代がいた。大蛇と化して襲い来る業火を腕一本で払い飛ばし、降り注ぐ光弾を縦横無尽に掻いくぐっていた。

 さとりが、叫んだ。

 

「藤千代さん……!!」

 

 決して、彼女の名を呼ぼうとして呼んだわけではなかったと思う。なぜおくうが藤千代を襲っているのか。おくうはどうなってしまったのか。あれ(・・)は、本当におくうなのか――胸を焼く様々な困惑が、動揺が、『藤千代の名を呼ぶ』という形で吐き出されたに違いない。

 藤千代が、気づいた。

 さしもの彼女も目を剥いた。

 

「――さとりさん!? どうしてここ」

 

 爆発した。

 

「――あ、」

 

 藤千代の小さな体が爆ぜ飛び、立ち上がった黒煙に塗り潰されて消えた。

 鴉が、咆吼する。

 その声に応じるように、天高く鎌首をもたげた二匹の大蛇が黒煙ごと藤千代を喰らい尽くし、灼熱地獄の底へと押し潰した。

 それで、終わりだった。

 

「――……」

 

 さとりが、膝から(くずお)れた。

 たった三秒。あまりに呆気なさすぎて、さとりに気を取られた一瞬が仇になったのだと、お燐はしばらくの間理解できなかった。

 月見のみならず。

 藤千代まで。

 それだけでも目の前が真っ暗になりかけたというのに、更に信じられないことが起きた。

 おくうが目も眩む無数の光弾を再び展開し、そのすべてを、藤千代が消えた灼熱地獄の底めがけて叩き込んだのだ。

 何度も。

 何度も。

 何度も。

 なにが起こっているのかわからなかった。おくうがなにをしているのか、脳が条件反射で理解を拒んだ。そうしなければお燐もまたさとりと同じで、壊れた人形のようになって崩れ落ちてしまっていたはずだ。

 違う。

 あんなのはおくうじゃない。おくうであっていいはずがない。おくうは、まだ暴走しているのだ。

 なぜ。

 おくうを止めに行くと、藤千代は言っていた。今ならまだ、間に合うかもしれないからと。

 間に合ったのなら、おくうの暴走は止まっているはずだ。

 なら、目の前の光景が意味しているのは――。

 

「――おくう!!」

 

 お燐がその恐ろしい結論へ辿り着く寸前に、こいしが身を捩るようにおくうの名を叫んだ。

 おくうが、ぴたりと、砲撃の手を止めた。

 

「おくう、私だよ。こいしだよ。聞こえるっ……?」

 

 こいしの声音は、体は、傍目でもわかるほど明らかに震えていた。きっとこいしも、お燐と同じ結論に辿り着いてしまっていたのだと思う。けれど、それでも、こいしは決して諦めずに呼びかけようとしていた。

 おくうが、振り向く。

 そしてお燐は、それを見た。

 ああ、やっぱりそうだったんだ――お燐の心の中でずっと途切れずに続いていたなにかが、その瞬間にぷつりと途絶した。

 闇と血の色でおぞましく潰れた、異形の瞳。

 胸元の瞳から木の根が這うように全身を蝕む、真紅の紋様。

 おくうが、口を開いた。

 

「 ――   、 ?」

 

 

 

 そして、さとりは聞いた。聞いてしまった。

 荒れ狂う神の御魂が生み出す、灼熱の炎の嵐。

 その奥に紛れて、かすかに、けれど間違いなく聞こえる。

 おくうの。

 助けを求める。

 泣き叫ぶ、心の声を。

 

 

 

「おくう……! おくうっ……! 私のこと、わからないの……!?」

 

 その瞳を涙で潤ませ、こいしは懸命におくうの名を呼び続ける。けれどこいしが何度言葉を振り絞っても、おくうがこいしを呼び返してくれることはない。

 

「 、  。   」

 

 おくうの声ではない。それどころか人の言葉ですらない。

 おくうとしての声を失い、そして、おくうとしての姿すら、失い始めている彼女が。

 もはや『おくう』と呼ぶべき存在でなくなっているのは、お燐たちの目にだって明らかだった。

 だからこそ、

 

「――あ、」

 

 心を読む力を持つさとりがなにを聞いてしまったのか、お燐はすぐにでも思い至るべきだったのだ。

 さとりの肩が揺れた。あまりに小さく一瞬だったので、傍のお燐もはじめは気がつかなかった。しかしその『揺れ』は、次第に、気のせいなどではとても誤魔化しきれない強い『震え』へと変わり始める。

 

「あ、ああ……!!」

「……さ、さとり様? どうし――」

 

 言葉を失った。

 これほどまで生気を失い怯える少女を、お燐は間違いなくはじめて見たからだ。

 混じりけのない純然たる恐怖。焦点の狂った瞳があちこちを彷徨い、痙攣する歯がカチカチと音を鳴らし、青を通し越して真っ白に色褪せた体を、折れてしまいそうな細腕で抱いてさとりは、

 

「――いやあああああああああああああああっ!!」

 

 お燐が生まれてはじめて耳朶を打たれる、さとりの絶叫だった。

 

「さ……とり、様?」

 

 情けない話だが。頭の中が真っ白になってしまって、体を丸め、耳を押さえながら蹲るさとりを、しばらくの間茫然自失となって眺めてしまった。

 

「お、お姉ちゃん!? どうしたの、大丈夫!?」

 

 こいしの反応の方が、よっぽど早くてしっかりしていた。振り返り、蹲るさとりに一目散で駆け寄って、

 

「お姉ちゃん! お姉ちゃん!?」

「あああ……!! あああああっ……!!」

 

 たとえばお燐とさとりが、この地底の端と呼べる場所へはじめておくうを止めに来たとき。あのときもさとりは、月見へ激昂するおくうの心をダイレクトに聞いてしまい、頭を押さえて苦しんでいた。

 だが、今は程度がまるで違う。今まで何千回何万回と人の心を読み続けてきたさとりが、幼子のように体を丸め、こいしの呼びかけすら届かなくなるほどに怯えている。めちゃくちゃだった。一体どんなに恐ろしい心を聞けばこうなってしまうのか、お燐にはまるで想像もできなかった。

 

「さ、さとり様! しっかりしてくださいっ!」

 

 ようやく我に返ったお燐はさとりの肩を揺すった。だがやはり返事は返ってこず、代わりに掠れた声で、

 

「こ、こんなの……!! いや……いやあああっ……!!」

「お姉ちゃん!! どうしたの!? おくうがなにか言ってるの!?」

 

 少なくとも見た目だけなら、おくうはなにも苦しんでいないように見える。身の丈以上の大翼を悠然と羽ばたかせ、黒と赤で潰れた感情なき瞳で、けれどなにかを訴えるようにお燐たちを見下ろしている。

 

「   。 ――    、」

 

 その言葉なき声を理解できるだけの力が、お燐とこいしには、ない。見上げるだけならなんてことはない距離が、どんなに手を伸ばしても指先すら届かぬほど、遠い。

 そして、

 

「こら――――――――――――ッ!!」

 

 いきなり鼓膜を突き刺す大喝が響いたと思った瞬間、目の前の景色が瞬きも許さぬ勢いで遠ざかっていった。

 いや違う、遠ざかっているのは自分の方だ――と理解した頃には、お燐はさとりとこいし共々、崩壊から遠く離れた大地に呆然とへたり込んでいた。

 目の前で、藤千代がぷんぷんと頬を膨らませていた。

 

「あなたたち、こんなところでなにしてるんですかっ。遠くに離れていてくださいって、私言ったはずなんですけど!」

 

 藤の着物が無残に焼けたボロ布と化している以外は、見紛うことなくいつもの藤千代だった。灼熱地獄の底に叩き込まれたというのに、出血の類はもちろん、火傷の痕だってまるで見当たらない。彼女が最強の妖怪と恐れられる所以を改めて垣間見た思いだったが、彼女の無事に胸を撫で下ろす余裕も、こうして助けられた礼を言う余力も、今のお燐たちには残されていなかった。

 あれ(・・)は、おくうじゃない。

 胸の内に巣喰っていた不安の正体が、ようやくわかった。藤千代が行ったはずなのに、なぜいつまで経っても、大地の崩壊も灼熱地獄の拡大も収まらないのか。

 今ならまだ、間に合うかもしれませんから――そう、藤千代は言っていた。そして間に合ったのなら、おくうの暴走は止まっているはずなのだ。

 目の前の現実が、その答えだった。

 おくうが――否、八咫烏が劈く。翼を叩きつけるように打ち鳴らし、自身が吹き荒ぶ一迅の暴風となって、恐ろしい速度でお燐の下へ迫ってくる。

 その頃にはもう、藤千代の右腕が振り抜かれていた。

 拳から放たれた妖気の波動が、八咫烏を真正面から打ち飛ばした。

 

「 っ   、!?」

 

 八咫烏の体は、単に「打ち飛ばされた」とは表現しがたい非常識な速度で空を舞った。全身から撒き散らされる炎を彗星のように引いて、絶えず火柱が入り乱れる灼熱地獄の彼方に一瞬で消えてしまった。

 

「――少し遠くに飛ばしました。ちょっとは時間を稼げるでしょう」

 

 藤千代の言葉が、まるで頭に入ってこない。

 おくうの帰りを待ち続けていた。そして、お燐たちがどれほどおくうを思っているのか、おくうがどれほど馬鹿な勘違いをしているのか、爪で引っ掻いてでもわからせてやるつもりだった。もう逃げないと、心に強く誓っていたはずだった。

 なのに、なんだ、これは。

 ぜんぜん、それどころの話ではないじゃないか。

 わからせてやるもなにも――おくうが、おくうじゃなくなっているだなんて。藤千代の力でも、止められなくなっているだなんて。

 さとりが深く俯いたまま、掠れた声を絞り出した。

 

「おくう、は」

 

 藤千代は、わずかだけ言いづらそうにして答えた。

 

「……あれはもう、おくうさんではありません」

 

 ――ああ、やっぱり。

 

「八咫烏の荒御魂が、暴走のあまりおくうさんの魂を押し潰してしまったものです。敵味方の区別などなく、その御魂が鎮まるまですべてを炎で塗り潰そうとする、生きた災害です」

 

 そして、お燐たちの心を読んだように、

 

「……私にはもう、おくうさんを助けてあげることはできません。腕っ節の強さだけで、どうにかできる問題ではありませんから」

「なにか、手はないの!?」

 

 こいしが、総身を震わせて叫んだ。

 

「私、手伝うから……! どんなことでも手伝うから……っ!!」

「……」

 

 藤千代は、すぐには答えなかった。真実を告げなければならない胸の痛みに瞑目し、やがて小さく、か細く言った。

 

「……月見くんが、無事だったなら。月見くんなら、なんとかできたかもしれませんが」

「…………!!」

 

 こいしが、絶句した。すべてが自分のせいだと思っているこいしは、間違いなくこう考えてしまったはずだ。

 自分のせいで、おくうが暴走し。

 自分のせいで、月見が傷ついて。

 そして自分のせいで、おくうを助けることができないのだと。

 顔を両手で覆い、背を丸めて、こいしは咳き込むような嗚咽を吐き出した。お燐も、もう限界だった。顔を上げていられなくて俯いた途端、両の目元から小さな雫が二つ、重力に引かれて膝の上に流れ落ちた。

 どうして。

 どうして、おくうは。こいしは、こんなにも理不尽で残酷な罰を受けなければならないのだろう。

 確かに二人は、悪いことをしようとしたのかもしれない。たとえ姉のためであっても、人を傷つけるために力を使おうとしたのかもしれない。「元はと言えば向こうがぜんぶ悪い」であっても、それは、誰かの生活を私利私欲に脅かしていい理由にはならない。

 けれどこいしは己の過ちに気づき、涙だって枯れるほどに後悔している。自分を責めている。たとえ誰かから頼まれたとしても、彼女は絶対に同じことを繰り返そうとは思わないはずなのだ。

 だったら、もう。

 もう、許してあげていいじゃないか。

 なのにどうして、どこにも希望がないのか。時が経てば経つだけ、救いようもなく追い詰められていくだけなのか。

 ひどい。

 ひどすぎる。

 生まれてはじめて、この世の森羅万象を司る神とやらを、憎いと思った。

 

「……藤千代、さん」

 

 いや。

 包み隠さず言ってしまえば、殺してやりたいとすら思った。

 ああ、そうだ。

 本気で、そう思ったのだ。

 

 

「――藤千代さんなら。おくうを、楽にしてあげられますか」

 

 

 さとりにこんなことを言わせる神なんて、この世から消え去ってしまえばいい。

 心の臓まで凍りつくお燐とこいしに対し、藤千代の反応は静かだった。

 

「……やっぱり、それがおくうさんの望みなのですか」

 

 さとりは頷く。こぼれ落ちる涙とともに、

 

「もう……楽にして、あげてください」

 

 その言葉がなにを意味しているのかわからぬほど、お燐とこいしは馬鹿ではない。

 

「……お、お姉ちゃん、なに言ってるの?」

 

 ようやく再起動したこいしは、理解不能ともいえるさとりの嘆願に笑みすら浮かべていた。それはひび割れていくような、崩れていくような、壊れゆく笑みだった。

 

「こ、こんなときに、変な冗談言わないでよ。お姉ちゃんのばか……」

「……」

 

 さとりは、俯いたままなにも言わない。

 

「ね、ねえ、冗談でしょ? そうだよね?」

「……」

「そうだって。そうだって言ってよ、お姉ちゃん」

「…………」

「――なにか言ってよッ!!」

 

 はじめてだった。

 怒声を張り上げ、眦を決し、歯を剥き出しにして、本気で怒るこいしの姿を、この目で見たのは。

 さとりの胸倉を、力任せに掴み上げた。

 

「本気で言ってるの!? 楽にしてってなに!? おくうを、見捨てる気なの!? 馬鹿なこと言わないでよッ!!」

 

 あまりの剣幕に見ているお燐すら呼吸を失ったのに、この期に及んでもさとりはなにも言わない。それどこか、胸倉を揺さぶるこいしにされるがまま、抵抗らしい抵抗もしていない。

 まるで、魂を失った抜け殻のように。

 

「ねえ、……ねえ、なんでなにも言わないの? ふざけないでよ。そんなふざけたこと、嘘でも言わないでよ」

 

 無言、

 

「無視しないでよ。なにか言ってよ」

 

 無言、

 

「ねえ。ねえ、お姉ちゃん」

 

 無言、

 

「――どうしてそんなことが言えるの!? お姉ちゃんは、おくうのことが大事じゃないの!? 大切な家族じゃなかったの!? いなくなったっていいの!? ふざけないでよッ!!」

 

 そのときようやく、さとりが反応らしい反応を見せた。唇がぼそぼそと動き、

 

「……のよ」

「――なに? 聞こえない。もう一回言ってよ」

 

 こいしは毅然と言い返した。面持ちこそ静かだったが、その表面下にはさとりに対する壮絶な怒りがにじんでいた。家族を見捨てようとしているやつなんかに、負けてたまるか。諦めてたまるか、おくうは絶対に助けるのだと――そんな、家族を強く想う気持ちに満ちあふれた怒りだった。

 けれど。

 

「あなた、に」

 

 胸倉を掴むこいしに、さとりは結局最後まで抵抗しなかった。強引に掴み上げられ地に膝をついた、そのなんの意思も力も通っていない体勢のままで。

 さとりが、虚ろに紡いだ言葉は。

 

 

「――誰の心も読めないあなたに、おくうのなにがわかるのよ」

「――――……」

 

 

 こいしの心を、この世のなによりも残酷に、抉っていったはずだ。

 だってお燐の心すら、音を立てて抉られたように感じたのだから。

 

「あなたに、おくうの声が聞こえたの? 聞こえたわけないわよね。だったらそんなに平然としていられるはずがないもの」

 

 こいしは、自ら望んで覚妖怪としての能力を捨てた。人の心なんか読んでもなにもいいことなんてないと、そう言って。こいしにとって、読心の力は不要なものだった。捨ててしまって当然の、なんの意味もないものだったのだ。

 だからこそさとりの言葉は、今のこいしを全否定するにも等しい凶器だった。

 攻勢は、一瞬で逆転していた。

 

「おくうは、苦しんでた」

 

 見開かれていたこいしの瞳が、殴られたように揺れる。

 

「いいえ――今も、苦しんでる。神様の力が、おくうを苦しめてる」

 

 こいしの唇が、喘ぐように震える。

 

「おくうは、泣いていたわ。痛いって。苦しいって。――もういやだって、叫んでいたのよ。聞こえたはずがないわよね、能力を捨てたあなたに」

「――ぅ、あ」

 

 こいしの指先から、一切の力が消滅する。さとりは重力に引かれるまま地面にへたり込んで、顔を両手で覆った。

 

「私は! ……私は、あんなの、耐えられない……っ! ひどすぎる! ひどすぎるわよ……! あんなに苦しむおくうを、もう見ていたくないの!」

 

 それはもはや、慟哭であったのかもしれない。震える指先が覆う顔に爪を立て、隙間からは粒のような涙が嘘みたいに溢れ出てきていた。さとりだって、言いたくてこんなことを言っているわけでは断じてないのだ。だがこの中でただ一人、おくうの本当の声を聞いてしまった彼女は、もうそうするしかないのだと理解せざるを得なかったのだろう。もはや藤千代におくうは救えず、月見だってここにはいない。どう見たって打つ手などない。なのに「まだなにか手があるはずだ」と足掻けば足掻くだけ、おくうの苦しみは長く続くことになる。ならばいっそ楽にしてやることこそが、命は救えずとも、彼女を苦しみから解放してあげられるたったひとつの方法なのではないか。

 それが心を読めてしまうが故に、さとりに叩きつけられた現実だった。

 

「それとも、こいしは。これ以上、おくうのことを苦しめ続けるつもりなの?」

「ち、違……わ、たし……は、」

 

 こいしが、よろめいた。

 こいしにとって、それはなにより恐ろしい言葉だったはずだ。事実彼女の表情は、砕け散ってしまうまでの恐怖で凍りついていた。極寒の中にいるように震え、どう見たって立っているのがやっとの有様だった。

 そしてさとりには、もう立ち上がれるだけの力も気力もない。地に両膝と両手をつき、まるで許しを請うように、

 

「もう……楽にして、あげましょう。こんなの、可哀想よ」

 

 お燐は、もう涙で前に見ることもできなかった。お燐にはおくうを助けたいこいしの気持ちが痛いほどよくわかったし、おくうを救いたいさとりの心だって悲しいほどよくわかった。かけがえのない親友を、家族を、こんな形で失いたくなんて絶対にない。けれどおくうが本当に、痛いと、もういやだと泣いているのなら、これ以上辛い思いはさせたくないと思ってしまうのも事実だった。

 失いたくない。けれど、助けてあげられる方法がない。

 楽にしてあげたい。けれど、やっぱり、失いたくなんてない。

 なにもできない。

 どうして自分は、こんなにも無力なのだろう。泣いている家族の一人すら、助けてあげることができないのだろう。どんなに頭を振り絞っても、どんなに歯を食いしばっても、自分にすべきことがなにひとつとして思い浮かばない自分に反吐が出た。

 もう、みんなが笑える未来なんて、望んではいけないのかと――そう思うと、狂おしいほど悲しくて、悔しくて、頭がどうにかなってしまいそうだったのだ。

 

「ぁ……たし、は」

 

 こいしの声は震えていて、擦り切れていて、ほとんど言葉にもなっていなかった。

 

「わ……わた、し……」

 

 お燐がよく知っている、いつも笑顔で元気なこいしは見る影もない。恐らくは、残酷で理不尽ばかりな現実に襲われたせいで、彼女の心の封印が綻びかけていたのだと思う。怒りも哀しみも、後悔も恐怖も絶望も、封じ込められていたあらゆる負の感情が檻から放たれ、こいしという小さな少女を内側から血も涙もなく破壊していた。

 

「わたし――が」

 

 そう。

 そのことに、もっと早く気がつくべきだったのだ。

 

「わたしが、――きゃ」

 

 けれど目の前の現実に打ちひしがれるお燐は、さとりは、致命的すぎるほどに反応が遅れた。

 

わたしが(・・・・)助けなきゃ(・・・・・)

「――え?」

 

 お燐とさとりは、思わず顔を上げた。

 いま、なんて?

 

「わたしが、おくうを――助けなきゃ」

 

 聞き間違いではない。

 振り返ったこいしが、ふらふらと歩き出した。

 灼熱地獄に向けて。

 

「わたしが――わたしが、」

「……!?」

 

 ぞっとした。こいしがなにをしようとしているのか、ようやくわかった。

 行くつもりだ。灼熱地獄を、燃え盛る業火の世界を越えて。

 おくうの、ところまで。

 その瞬間、お燐は絶望するのも忘れて飛び出していた。今まさに駆け出そうとしたこいしの腕を掴み、強引に振り向かせた。

 

「っ……は、放して! 私がっ! 私が行かなきゃあっ!!」

「だ、だめっ!! 駄目ですよ、そんなの!?」

 

 今なお広がり続ける灼熱地獄では、大蛇の如き業火がそこかしこを蠢き回り地を焼くばかりでなく、噴き上がった火柱が無数の火の粉と散って空をも焼き尽くしているのだ。灼熱地獄育ちのお燐ならまだしも、大妖怪の藤千代ならまだしも、そうでないこいしが飛び込むなんて自殺行為も同然の暴挙に過ぎない。

 彼女の『無意識を操る程度の能力』だって、今ばかりは意味を成さない。向こうは意識も無意識も関係なくすべてを平等に呑み込む、文字通りの災害なのだから。

 しかし、

 

「――放してって、言ってるでしょ!!」

「――!?」

 

 こいしが裂帛した瞬間、お燐は目に見えない衝撃を全身に受けて弾き飛ばされた。あまりに突然だったためか受身らしい受身も取れず、お燐の体は三度ほど地面を打ち転がって、それからようやく止まった。

 

「なっ――」

 

 なにが、という言葉は、上手く呼吸ができなくて音にならない。灼熱地獄の熱が伝わっているのか、嫌に生温かい地面の温度を感じながら体を起こすと、どうやら自分は十メートル近くも転がされたようだった。

 殴られたり、投げ飛ばされたりしたわけではなかった。あれは単に、こいしが身の内で眠る妖力を波動に変えて爆発させただけだった。

 そして、単なる妖力の放出だけでここまで吹き飛ばされた事実に、お燐の思考が凍る。

 立ち上がれない。

 

「だ、だって、みんな……だ、だから、わ、わたし、が」

 

 こいしが肩で息をしている。その言葉はもはや言葉として意味を成さず、ぐらぐらと揺れ動く瞳は散大しきっていて、その焦点はお燐にもさとりにも合っていない。頬の筋肉が痙攣してつり上がり、傍目にはまるで笑っているようにも見える。誰がどう見たって、目の前のこいしが危険な状態にあるのは一目瞭然だった。

 また駆け出そうとしたこいしを、今度はさとりが羽交い締めにした。

 こいしが、叫んだ。

 

「いやあああああっ!! 放して、放してぇっ!! 私が! 私が、行かなきゃあああああッ!!」

「こいし!! 落ち着いて、こいしっ!?」

 

 こいしは、完全に錯乱していた。心の封印が綻びあふれだしてきた、家族を失うかもしれない恐怖と絶望に、彼女の精神は遂に耐え切れなかったのだ。

 

「ご、ごめんなさいこいし!? 私が、私が言い過ぎたわ! だから落ち着いて!?」

「私が、私がなんとかする!! なんとかするからっ!! だからお願い、お願い、おくうを殺さないでええええええええっ!!」

 

 両手両足を振り乱し、こいしは金切り声をあげてめちゃくちゃに暴れていた。あんなに小さな体の一体どこから力を振り絞っているのか、羽交い締めするさとりごと全身を引きずって、一歩、また一歩と確実に灼熱地獄へと近づいていく。

 こいしは、本気だ。ここでお燐たちが止めなければ、こいしは本気で灼熱地獄に飛び込み、本気でおくうをなんとかしようとするに違いない。彼女はもうそれしか考えていない。狂ったように突き動かされている。

 いや。

 

「放して!! 放してよぉっ!! お姉ちゃんのばかッ、ばかああああああああああっ!!」

 

 狂っていたのだろう。こいしは、疾うに。

 悠長に考えている場合ではなかった。とにかく止めなければ、自分はまた取り返しのつかない過ちを繰り返してしまう。大切な家族を、一人のみならず二人も失ってしまうかもしれない。もう、これ以上の悪夢なんて絶対に嫌だった。

 立ち上がり、地を蹴った、

 

「――放せええええええええええッ!!」

 

 その刹那、こいしが絶叫した。

 少し前のお燐がそうだったように、今度はさとりの体が宙へ弾き飛ばされた。

 ――あくまで、目の前の状況から優先順位をつけるなら。

 お燐は、吹き飛ばされたさとりなど無視してこいしを止めに行くべきだった。さとりとて妖怪なのだから、この程度ならいくら打ち所が悪くても深刻な怪我は負わない。さとりを助けるよりも、こいしを止める方が比較にならぬほど重大な問題だったはずなのだ。

 だが、考えるより先に体が反応してしまった。お燐は反射的に駆ける脚を止め、飛んできたさとりを全身を広げて受け止めた。咄嗟の行動だったのが災いし、踏ん張り切れず後ろへ倒れ込んだ。

 その頃にはもう、こいしは灼熱地獄に向けて走り出していた。

 もはや、生きた心地もしなかった。

 

「こいし様!! こいし様ぁっ!?」

「っ……! こいし、やめて!! 戻ってきてッ!!」

 

 さとりとともに叫ぶが、こいしは駆ける脚を一瞬足りとも緩めてくれない。恐ろしい速度で遠ざかっていく。さとりがなおも叫ぶ、

 

「藤千代さん!! こいしを止めてくださいっ!! 藤千代さんッ!!」

 

 最後の望みに縋って藤千代の名を呼ぶ。しかし藤千代は返事をせず、灼熱地獄へ向かっていくこいしを追うどころか振り向きもせず、ただ棒立ちで突っ立っているだけだった。

 目の前の光景に理解が追いつかず動けないでいる――いや、藤千代に限ってそんなのはありえない。ならなぜ、藤千代はなにもしてくれないのか。

 考えている暇はなかった。藤千代が動いてくれないのなら、お燐が行くしかない。さとりでは、まるで矢のように走るこいしには追いつけない。自分が行くしかない。でないとこいしまでもが、お燐の手の届かないところへ遠ざかっていってしまうかもしれない。

 

「こいし様……!」

 

 お燐は走った。脇目も振らず、全力で、ただこいしの背中だけを見て。その中で、すぐに飛ぶための準備を整えた。

 

「こいし様ッ……!!」

 

 藤千代の隣を駆け抜け、お燐は全力で地を蹴り飛ばし、

 空へ、

 

 

「――まったくもう」

 

 

 飛ぶ、その、間際に。

 お燐は、藤千代が微笑む声を聞いた。

 

「随分と、遅かったじゃないですか」

 

 お燐に掛ける言葉ではない。それどころかさとりでもこいしでもない。

 彼女は一体、なにを言っているのか。

 誰に向けて、その言葉を言っているのか。

 

「でも、信じてましたよ」

 

 まさか、

 まさか、

 

「――あなたなら絶対に、戻ってきてくれるって」

 

 そして、お燐はそれを見た。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ふぎゅ」

「おっと」

 

 正真正銘の全力でひた走り、地を蹴って灼熱地獄の空を飛び込もうとする刹那、突如目の前に現れた何者かのお腹にぶつかった。

 こいしの顔がすっぽり埋もれてしまう、大きな、大人の人のお腹だった。さとりやお燐ではないし、おくうや藤千代でもありえない。反射的に怪しいやつだと思い、驚いて離れようとして、

 

「――こらこらこいし、どうしたんだい。そんなに慌てて」

「――――……」

 

 ああ。

 この声は。

 この、声は。

 

「こんなところにいちゃあ危ないよ。なにかあったのか?」

 

 こいしの肩を優しく包み込んでくれている、この温かくて優しい、掌は。

 

「っ……!! ぅ、く……っ!!」

 

 その途端こいしの瞳から、どうしようもなく、本当にどうしようもなく涙があふれた。もう散々泣いたはずなのにまだ泣くのかと、自分で自分に呆れてしまった。

 けれど、この涙は決して、嫌な涙じゃない。

 彼の掌がゆっくりと背中に動いて、ぽんぽんと、あやすように柔らかく撫ででくれた。

 

「大丈夫か、こいし?」

「うん……!! うん……っ!!」

 

 こいしは、顔を上げた。

 こうして間近で見てみると、彼の体はこいしが思っていた以上に傷だらけだった。藤千代と同じくらいに服がボロボロで、けれど藤千代とは比べ物にならないくらいに痛々しい姿をしていた。火傷の痕は背中のみならず、両腕の広範囲や肩、顔の一部にまで及んでいて、こいしの目から見たって安静にしていなければならない重傷なのは明らかだった。

 きっと、こいしの想像を絶するくらいに、全身が悲鳴を上げていたはずなのに。

 それなのに彼は、いつもとなんら変わりなく、優しく微笑んでくれていて。

 

「こいし、教えてくれ」

 

 こう、言うのだ。

 

「私は、どうすればいい? 私はお前のために、一体なにができる?」

 

 こいしのせいで、こんなにひどい怪我をしたのに。おくうはずっと、彼に辛く当たり続けてきたのに。これ以上自分を犠牲にしてまで戻ってくる理由なんて、彼にはなかったはずなのに。

 それでも彼は、諦めていない。

 誰よりも怪我をしている彼が、誰よりも諦めていない。

 それが、本当に。

 言葉も出なくなるほどに、嬉しかったのだ。

 

「教えてくれ、こいし。お前の願いを」

 

 もう涙で前も見えなかったので、こいしは彼のお腹に顔を押しつけて、精一杯に絞り出した。

 

「お願い……!! もう二度と、こんなこと、しないからっ! あとで、た、たくさん、謝るからっ……!!」

 

 かっこわるい涙声で、嗚咽で何度も言葉が途切れて。

 それでも、それでも。

 

「お願い、だからっ……!!」

 

 こいしは、吐き出さずにはおれなかった。

 

 

「――おくうを、助けて!! 月見ッ……!!」

 

 

 叫んだ途端、バシバシと、ちょっぴりだけ乱暴に頭を叩かれた。

 それがあまりにもいきなりだったから、驚いて嗚咽も引っ込んでしまったけれど。

 返ってきた言葉を、決して聞き逃したりはしなかった。

 

「ああ。――当たり前だ」

 

 限界だった。頭の中が、心の中が一気にぐしゃぐしゃになって、こいしは少しの間だけ、本気になって泣いてしまった。

 そんなかっこわるい自分を彼はなにも言わず、けれど、今度はそっと抱き締めてくれた。

 

 今にも倒れたっておかしくない、ボロボロで満身創痍の、銀の狐を。

 しかしこいしは、この世のどんなものよりも、頼もしいと思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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