銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色
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東方地霊殿 ⑪ 「神を超えろ ①」

 

 

 

 

 

 霊夢が顔に妙な違和感を覚えて目を覚ますと、上海人形にほっぺたをむいーっむいーっと引っ張られていた。

 ブン投げた。

 

「そおーい!」

「シャバッ」

「上海ーッ!?」

 

 むくりと起き上がる。そこは見知らぬ民家の畳の上で、隣で魔理沙が寝ていて、なぜか自分は全身びしょ濡れになっていた。

 んん? と首を傾げる。起きたばかりだからか上手く頭が働かない。一体なにがあったんだっけ。

 

「ちょっと霊夢、いきなりなにするのよ……!」

 

 上海人形を回収したアリスが、服についた埃を指でテシテシと払っている。霊夢はその背中に半目で、

 

「そういうあんたは、寝てる人間に一体なにをしていたのかしら」

 

 アリスの肩がぴくりと震え、

 

「うぐっ……そ、それは、その……早く起きろー、みたいな……」

「ねえあんた、人形使わないと人に触れないの?」

「はう!?」

 

 思わぬクリティカルヒットになった。胸を押さえたアリスはゆるゆると崩れ落ち、「やっぱり私なんて……おうちかえりたい……」とぶつぶつ独り言を言っていた。アリスの頭の上に跳び乗った上海人形が、「やれやれだぜ……」とニヒルに肩を竦めた。

 さて、変なやつはほっといて。

 霊夢は格子窓から外を望む。人里に似た町並みと、太陽も雲もない薄暗い岩盤で覆われた空が見える。なにかが引っ掛かる。なんだっけ、この景色はつい最近も見たばかりのような

 

「――おおおおおもいだしたああああああああああ!!」

 

 そして霊夢は完全に覚醒した。霊夢の突然の咆吼に、「ぴい!?」と悲鳴を上げたアリスが座ったままの姿勢で前につんのめり、魔理沙は何事かむにゃむにゃと寝言を言った。

 

「な、なによ突然!」

「アリスゥ!」

 

 霊夢はアリスに目と鼻の先まで詰め寄って、

 

「教えなさい、なにがどうなったの」

「え? えっと」

「だからっ、私が、その……やられたあと! 今はどういう状況なの!?」

 

 ぼんやりと覚えている。あの地獄鴉を見事打ち倒すはずの寸前で、突如現れた謎の少女に不意打ちを喰らってしまったこと。天子や魔理沙が辛うじて助けてくれたものの、完全に形勢が逆転してしまったこと。

 そして、朦朧とする意識の最後で、天から自分たちへ向けて砲撃を放つ地獄鴉を見たこと。

 気がついたら今の状況だ。結果として霊夢と魔理沙がこうして生きているのなら、どうにかしてあの戦闘を切り抜けたと思われる。だが一体どうやって。まさか、あの状況から魔理沙が奇跡の大逆転を演じてみせたとでもいうのだろうか。

 もし本当にそうだったら、ちょっと魔理沙にまで負けた気がして鼻持ちならない。霊夢はアリスを激しく揺さぶって問い質す。

 

「答えなさいアリスっ、キリキリ答えなさいっ」

「あばばばばば」

「なにがあばばばよ、さっさと答え――あう、」

 

 そのとき、霊夢の視界がぐらりと歪曲した。立ちくらみ――と思ったときには、霊夢は体の姿勢を維持することも敵わず、アリスに半分もたれかかってしまっていた。

 

「……ああもう、起きたばかりで暴れるからよ。ほら、落ち着いてこれでも飲んで」

 

 上海人形が、テーブルの上から大きな湯呑みを抱きかかえて飛んできた。中身は一見するとただの水に見えるが、

 

「相当汗掻いたでしょ? 塩分とか、いろいろ混ぜてあるから」

 

 どうやら、アリス特製のスポーツドリンクの類らしい。随分準備がいいなと思いつつも、ありがたく頂戴する。

 慌てずゆっくり飲んでみると、霊夢が思っていた以上に体は水分を欲していたようで、五臓六腑ことごとくに染み渡る感覚が実に効いた。

 

「くいいっ……はー、生き返るわー。こんなのよく作ったわね」

「ほんと、手間掛けたんだからね。だってこの空き家、塩もなにも置いてないんだもの」

「はあ? それでどうやって、」

「水以外の材料はぜんぶ、一から魔法で作ったの。あなたが目を覚ますまで、結構時間はあったから」

 

 ……もしかしなくてもこの人見知り少女、かなりすごい魔法使いなんじゃなかろうか。調味料類を一からすべて魔法で生成し、一人で配合してスポーツドリンクを作るって、地味ながらもすごい芸当のような気が。

 素直に感心した。

 

「あんたって結構すごいのね。一人で引きこもって本ばっかり読んでるからかしら」

「……ねえ霊夢、それ褒めてるの? 貶してるの?」

 

 アリスと上海人形の、二人分の半目からふいと目を逸らす。特製ドリンク美味しいです。

 というか、

 

「そういえば、なんであんたがここにいるのよ」

「い、今更その質問!? 霊夢、あなた普段からなに考えて生きてるのよ!」

 

 主にお金とご飯のことかしら。

 まったくもう……と悄然とするアリスに、とりあえず状況を聞かされてみれば。

 結局自分たちは、あのあと負けたらしい。けれど霊夢たちが灼熱地獄に焼かれることもなく事なきを得たのは、お燐というあの黒猫が助けてくれたからのようだった。ついでに、全身びしょ濡れなのもお燐の仕業らしい。たぶん、軽い熱中症になってたらしいから応急処置なんだと思う、とアリスは自信なさげに言った。

 

「そう。……それで? あの地獄鴉は? 異変はどうなったの?」

「えっと……」

 

 アリスはなんとも辿々しく、自分が地底にやってくるまでの経緯と、今現在の状況を説明してくれた。短く簡潔にまとめるのが苦手なのか、アリスの話は「そんなことまで聞いてない」と思わず口を挟みたくなるくらい要領が悪かったが、どうあれ最後まで辛抱強く聞いてみれば、霊夢の感想は以下の単純明快な一言に集約された。

 

「……あーあ。結局また、月見さん任せになっちゃったかあ……」

 

 ため息が出た。腹の底から。夏の異変は月見任せになってしまったから、今回こそ自分たちの力で解決するのだと意気込んでいたのに、結局はあの黒猫が心配していた通りのザマになってしまった。霊夢にとっては最悪ともいえる結果だった。

 今までの異変はなんの問題もなく解決できていたし、それが当然だと思っていたのに。なのに夏に続いて今回までも、また上手く行かなかった。

 なんというか。

 当然だと思っていたことが急にできなくなるというのは、こうして直面してみると結構、キツかった。

 

「……私、ぜんぜん成長できてないのかなあ」

 

 夏のような失敗は繰り返したくなくて、月見に修行を手伝ってもらったりして、ちょっとくらいは強くなれたつもりだったのに。けれど結果は、情けなく、虚しいほどにまるで変わらない。

 自分は今まで、一体どうやって異変を解決してきたのだろう。夏の異変に負けずとも劣らぬ自己嫌悪で沈む霊夢に、アリスがわたわた慌てて、

 

「し、仕方ないわよっ。だってあんな、突然出てきて不意打ちなんて卑怯だもの。しかもスペルカードルール無視してるし、普通だったら霊夢たちが圧勝してたはずで」

「――そうよね」

 

 へ? とアリスの目が点になる。霊夢は俯いたまま低い声音で言う、

 

「そうよ、あんなの絶対おかしいわよ。なによあの不意打ち。能力なのか知らないけどぜんぜん気配感じなかったし、あんなのやられたら誰だって勝てないわよ。しかも地獄鴉も地獄鴉で、神様の力をスペルカードルール無視して使うとかバカじゃないの? しぬの?」

「……あ、あの、霊」

「おまけに灼熱地獄は熱すぎて頭は働かないわ体はダルいわ、ふざけんじゃないわよ。反則よ、不公平よ、なにからなにまで向こうに有利すぎよ。いくら私でも勝てるわけないじゃない」

「で、でも、それでも行くって言ったのは霊夢で」

「あんたどっちの味方なのよアリスゥゥゥッ!!」

「ごめんなさい!?」

 

 思い出したら腹の底からムカムカしてきた。なんだあいつら。なんなんだあいつら。地獄鴉はまだいいが、一番許せないのはいきなり不意打ちを仕掛けてきたあの小娘だ。あいつさえいなければ今頃霊夢は無事異変を解決し、月見に褒めてもらえてご馳走をたらふく食べさせてもらえていたはずなのに、あいつのせいでぜんぶが狂ってしまった。どうせあいつは、卑怯極まりない不意打ちで勝った気分になり、今頃はさぞかし有頂天に浸っていることだろう。そう考えると霊夢は、

 

「ふ、ふふふ、くくくくくくくく…………」

 

 俯いたままひくひく笑う霊夢の奇行に、アリスが「ひええ……」と涙目で後ずさっていく。

 霊夢は野獣みたいな勢いでドリンクを飲み干し、湯呑みを畳に叩きつけて吠えた。

 

「ゥアリィィィスッ!!」

「は、はいぃぃっ!? ごめんなさいごめんなさいごめんなさいっ!」

「あんた言ってたわよね、月見さんが異変を止めに行ったって」

「い、言いました! ごめんなさい!」

「行くわよ」

「はいごめんなさいっ! ……え?」

「あのこむすめぜったいなかす」

 

 幽鬼が如く霊夢は立ち上がる。アリス特製のドリンクが効いたのか、それともあの小娘への胸を焦がす壮絶な想い故か、なんだか異変解決に動く前よりもむしろ体の調子が上がっている気がした。今なら割となんでもできる。神様にだって勝てる。ならばこの果てしなく湧き上がる力を総動員して、あの小娘絶対に泣かす。

 リベンジだ。

 

「ちょ、ちょっと待って!? 行くって、また戦う気なの!? いくらなんでもそれは」

「なぁぁぁにか文句でもあるのかしらあああぁぁ!?」

「なっ、なんでもないですごめんなさぁい!?」

 

 上海人形と一緒に縮こまって震えるアリスを無視し、霊夢はズンズンと魔理沙の枕元に立って、

 

「こら魔理沙っ、起きなさい!! いつまで寝てんのさっさと行くわよッ!!」

 

 魔理沙はむにゃむにゃ寝返りを打って、それから以下のような寝言を言った。

 

「う~ん……こ、香霖のバカっ……もうちょっと優しく」

「魔あああぁぁ理沙アアアアアァァァァァッ!!」

「優しくしてええええええええええ!?」

 

 相棒へ容赦なく、かつ華麗に腕ひしぎ十字固めをキメる阿修羅――その一部始終を目撃していたアリス・マーガトロイドは、後に天狗の取材でこう語っている。

 ――この世で本当に恐ろしいのは、妖怪でも幽霊でも神様でもなく、生きた人間(はくれいのみこ)です。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 時を同じくして。

 

「――降ろせ、勇儀」

「ひょ!?」

 

 腕の中の月見がいきなり口を利いたので、勇儀はらしくもない頓狂な声をあげてびっくりした。

 さとりたちと別れ、天子と愉快な追いかけっこを繰り広げ、間もなく旧都の町並みも見えてこようかという頃合いだった。

 びっくりしすぎて、実は月見を「そおい!?」とぶん投げそうになったのはヒミツだ。

 

「……つ、月見!? 起きてたの!?」

「……ああ、たった今ね」

 

 気だるげな声音で答えて、月見がゆっくりとまぶたを上げた。

 

「どこだ、ここは」

「へ? ……旧都に戻る途中だけど」

 

 口をあんぐり開けて固まっていた天子がようやく再起動した。突進にも近い派手な勢いで寄ってきて勇儀の飛行を妨害すると、月見を真上から覗き込んで、

 

「…………つっ、つつつつつっ月見!? 目が覚めたの!? 大丈夫!?」

 

 月見は口端を曲げて、極めて不自由そうに笑った。

 

「天子、お前の目には私が大丈夫そうに見えるか?」

「見えないから訊いてるのっ!」

「いやまったく大丈夫じゃなくてね」

「大丈夫じゃないの!? どどどどどっどうしようどうしよう!? とりあえずもう一回気絶する!? 気絶すれば痛みなんてわからないし!?」

「落ち着きなよあんた」

 

 やはり愉快な人間である。妖怪はこの程度で死にはしないと説明したはずなのに、あわわわわわとぐるぐるおめめで混乱しまくっている。そんな天子を半分呆れながら落ち着かせつつ、ひとまず地上に下りた勇儀は手頃な岩に月見を座らせる。たったそれだけのことに、月見は隠し切れない苦悶の表情を浮かべた。勇儀がそっと手を離すと、細く長いため息とともに全身から険を抜いて、

 

「ふう……。ありがとう、面倒を掛けたね」

「やあ、いいよ。なかなか貴重な体験もできたしね」

 

 月見を抱いて運ぶなんて役得、もう二度と経験できるかもわからない。月見の男らしく固めな体の感触は、末永くよく覚えておこうと思う。いつか萃香に自慢してやろう。

 と勇儀が脱線している隙に、月見は己らが飛んできた方角を――炎に呑まれ灼熱地獄へと変わりゆく彼方の姿を、睨むような目つきで見晴るかしていた。

 

「……私が寝てる間に、なにがあった」

 

 決して大きくはないが、心の臓までビリビリと響いてくる重苦しい声音。ああこれは月見が機嫌悪いときの声だな、と勇儀は思う。さすがの彼といえども、意識が飛ぶほどの大怪我を負わされれば虫の居所も悪くなるらしい。

 月見のこういう声を聞くのははじめてだったのか、天子が少し萎縮しながら、

 

「えっと、その……月見が気を失ったあとに、おくう――っていうんだよね。その子の力が、暴走しちゃって……」

「八咫烏の荒御魂が荒ぶるまま、地底を灼熱地獄に変えてくれちゃってるってワケさ」

 

 月見は瞑目し、胸の奥でくすぶる感情を耐え忍ぶように、そうか、とだけ言った。

 

「でも心配要らないよ、藤千代が止めに行ったからね。だからほら、あんたは旧都に戻って傷の手当を」

「何分前だ」

 

 は? と声が裏返った。

 月見が、有無を言わさぬ鋭い眼光で勇儀を見据えている。

 

「千代が行ったのは、今から何分前だ」

 

 勇儀は天子と顔を見合わせ、

 

「えーっと……十……いや、二十分? そんくらいだと思うけど」

「っ……」

 

 月見が、眉を歪めた。

 話が見えない。

 

「……ねえ、それが一体どうし」

 

 ――いや、待て。おかしくないか。

 勇儀が違和感に気づいて口を噤むのと同時に、月見が答えた。

 

「あいつが止めに行って、二十分も掛かるわけがあるか」

 

 彼方では未だ巨大な火柱の噴き上がる様がはっきりと見て取れ、かすかな地響きが勇儀の足元を震わせている。

 藤千代があの地獄鴉を止めたのなら、この崩壊はとっくに治まって然るべきのはずだ。だが現実は、およそ二十分が経とうとする今になっても崩壊が止まっていない。すなわち、地獄鴉の暴走が未だに続いているということで――。

 

「……ちょ、ちょっと待ちなよ。まさか、藤千代までやられたとでも言うつもりかい?」

「いや、あいつがやられるのは想像できない」

 

 勇儀も心底同意する。しかしだとすればどうして、

 

「だから、止めたくても止められない状況になってしまったのかもしれない」

「止めたくても止められない……?」

 

 まったくピンと来ない。戦闘、ことに『相手を倒す』という一点に限れば、藤千代にできないことなどないとしか勇儀には思えないからだ。天子も眉根を寄せて考え込んでいる。

 背中の傷が痛むのか、月見がゆっくりとした呼吸を繰り返しながら、細い声で言う。

 

「例えば――すでに空に自我がなく、八咫烏の力を世に顕現させるためだけの器と化しているか」

「……まさか、あの地獄鴉」

 

 暴走する八咫烏の荒御魂を制御しきれないでいるのではなく、そもそもの話、制御どうこうの問題ですらなく、

 

「――八咫烏の荒御魂に、体を乗っ取られたとでもいうつもりかい?」

「……その表現が正しいのかどうかはわからない。ただ、八咫烏のような神話クラスの神の荒御魂となれば、それはまさに災害だ。疲弊や気絶といった私たちの常識は通用しない。怒りが鎮まるまでひたすら暴れ回る。それが今のおくうを支配しているのだとすれば――」

 

 月見は、唇を噛み、

 

「――物理的に止める手段としては、八咫烏の御魂を直接破壊する他ない。だがそれは当然、依代となっているおくうの体をも破壊することを意味する。だから藤千代には、止めたくても止められない」

 

 ようやく、わかった。

 藤千代には、殴ることしかできない。つまりは信じがたい話だが、妖術や呪術の類を彼女はまったく使えない。まったく使えない以上は必然、なんらかの術でおくうの肉体から八咫烏の御魂を抜いたり、封じたりするような芸当だってできない。

 止めようと思えば止められるのだ。ただしその場合、恐らくはあの地獄鴉を――殺めることになってしまう。

 だから、止められない。

 おくうがまだおくうのままであったなら、力ずくで押さえつけて、意識を奪ってしまえばひとまずは落ち着く話だった。だがおくうが荒御魂に支配されてしまった今の状態では、暴走する力を物理的に封じる手段は皆無に等しい。――勇儀たちこの世の生命体が、体ひとつでは地震や嵐といった災害を抑えられないのと同じように。

 ――今ならまだ、間に合うかもしれませんから。

 藤千代があのとき言った言葉は、こういう意味だったのだ。

 

「……じゃあ、もう、あの地獄鴉を止めることはできないってのかい?」

「いや、あくまで物理的にはという話だ。やりようはあるはずだよ」

 

 そう言って、月見が傷を押して(おもむろ)に立ち上がろうとした。

 もちろん、天子がまっさきに反応した。慌てて月見の肩を押さえつけ、

 

「ちょ、ちょっと待って! まさか戻るつもりじゃないのよね!?」

「いてて。天子、傷に響くからもうちょっと優しく……」

「あ、ごめん……――ってそうじゃなくてっ! ねえ、まさか戻るなんて言うつもりじゃ」

「言うつもりだよ」

 

 絶句、

 

「千代が早まる前に、急がないといけない」

「――だ、ダメに決まってるでしょそんなのッ!?」

 

 月見を怒鳴り飛ばすような大声だった。勇儀も月見も目を丸くしたが、なにより天子本人が一番驚いた顔をしていた。

 意識して出した声ではなかったのだろう。それっきり彼女は急にしどろもどろになって、

 

「あ、ち、違うの。だ、だって月見、そんな、そんなに、傷だらけなのに」

 

 あっという間に目元が潤んで、

 

「わ、私のせいで、そんな大怪我したのに。これ以上なにかあったら、わ、わたし、」

 

 実のところ勇儀は、月見がなぜここまでの大怪我を負うことになったのか詳しくは知らない。ただ月見のことなので、どうせ天子を庇ったとかそんなところに違いない。その瞬間を見てはいないのに、まるで目の前で起こったようにはっきりと想像できる。身を挺して誰かを守るということを、深く考えもしないで反射的にやってしまうやつなのだ。

 一見すれば美談だが、それは時に人の心をひどく傷つける。現に天子は、自分のせいで月見が怪我をしたと思い込み、苦しんでいる。これ以上月見が無理をして、もしも万が一のことが起こってしまえば、きっと彼女の心は粉々に砕け散るだろう。

 月見は、ぜんぶわかっているはずだ。

 

「――いいや、行かせてくれ」

 

 そしてぜんぶわかった上でこう言うのだから、やはりこの狐は根本的には自分勝手なのだ。

 

「だって、わかりきってるからね」

 

 我が身を犠牲にしてでも誰かを助ける。それはまるで、聖人君子のように聞こえるけれど。

 

「――ここで行かなかったら、絶対に後悔するって」

 

 そも、善意とはひどく自分勝手なものだ。助けたいという感情に、実際問題相手が助けを求めているかどうかは関係ない。『誰か』を助けたいという想いは、裏を返せば『誰か』を助けられない己への罪悪感である。助けたいのは『誰か』であり、それ以上に『誰か』の姿を見て苦しむ自分自身でもあるのだ。昔の偉い人だって、『情けは人の為ならず』と――人の為である以上に自分の為であるのだと――言っている。ならば善意とは根本的に利己の行動であり、善意の塊みたいな妖怪である月見は、同時に自分勝手の塊でもあるのだろう。

 自分が、後悔したくないから。自分が、目覚めの悪い思いをするのは嫌だから。だから、助けたいと思ったやつはまず素直に助ける。細かいことや面倒なことは、ぜんぶ助けたあとで考える。

 そういうやつなのだ、こいつは。

 気がつけば、勇儀の口端には笑みの影があった。

 

「止めないよ」

 

 言葉を失っている天子を差し置き、勇儀は言う。

 

「だってそう言うってことは、行けば後悔しないんでしょ?」

 

 腕力バカの藤千代とは違い、月見の実力の源は妖術や呪術の怪力乱神にある。怒れる神を鎮める方法のひとつやふたつ、知らない方がおかしいくらいだ。

 あれを止められるのは、きっと、月見だけ。

 だから彼は、目覚めたのだろう。

 

「ああ。私が、止める」

「なら、いいんじゃない。あれを止めてもらわないと、旧都に住んでるウチらだって困っちゃうしね」

 

 そして、誰の命も奪われずに終わらせられるのなら、それより幸いなことなどない。

 天子はまだ、俯き、唇を引き結んだままなにも言わない。握り込んだ拳が、夏の雲より真っ白な服に深い皺を刻んでいる。

 月見が体の感覚を確かめるように、右手をゆっくり、力いっぱい開いて、閉じる。

 

「……ところで、勇儀」

「うん?」

「ひとつ頼みがあるんだが、」

 

 なんの前触れもなかった。

 

「――やぁぁっと見つけましたよこの狐えええっ!!」

「ひょい!?」

 

 空から突然、本当に突然、そんな怒声とともに少女が降ってきた。しかも、墜落してきたんじゃないかと見紛うほどの勢いで。

 めちゃくちゃびっくりした。勇儀はなんとか変な声をあげてたたらを踏む程度で耐えたが、天子は完全にひっくり返って、今までとはまったく別の感情でじわりと涙目になっていた。いきなり降って出た少女は目が点になっている月見に詰め寄って、

 

「こんなところにいましたか……! さあ今日という今日こそは神妙になさいっ、あなたは地上と地底が不干渉の約定を結んでいると知らないのですかなぜこんなところにいるのですかまったくまた罪を重ねるつもりなんですか本当に呆れた狐でってちょちょちょっ待ちなさいなんですかこの怪我はあっ!?」

 

 また愉快なやつが出てきたなあ。

 

「え? ……う、嘘、なんでこんな」

 

 はじめの勢いはどこへやら、少女はすっかり真っ青になって、

 

「――!?」

 

 月見の背中を見るなり強く息を呑み、そこからまた嵐のように、

 

「……あなたっ、なにをこんなところで突っ立っているのですか!? は、早く応急処置っ! い、急いで旧都に、いえ一度彼岸に来なさい腕のいい医者を知ってますからッ!!」

「いでっ、ま、待て映姫、落ち着け」

 

 そう、勇儀がめちゃくちゃびっくりしたもうひとつの理由なのだが、この少女、見紛うことなき閻魔様――四季映姫・ヤマザナドゥその人なのだ。こいつこんなのとまで知り合いなのか、と勇儀は改めて月見の人脈の広さに舌を巻いた。

 

「これが落ち着いている場合ですかっ! むしろなぜあなたがそんなに落ち着いているのですかっ、自分がどれほどひどい怪我をしているのかわかっていないのですか!? 危機管理がまるでなってないッ!!」

「あだだだだだ」

 

 ともかく。

 このままでは月見が彼岸まで引きずられていきそうだったので、勇儀は急いで助け舟を出した。後ろから映姫を羽交い締めにして、

 

「はいはい、月見がめっちゃ心配なのはわかったから落ち着きなって」

「なななななっなにを馬鹿なことを言っているのですか私がこの狐の心配なんてするわけがないじゃないですかそう論理的結論として怪我人を放っておくわけにはいかないという単なる一般論であり断じて心配などしていませんっ!!」

 

 閻魔様って、こんなに愉快な人だったんだなあ。

 天子がようやっと立ち上がり、

 

「あ、あの、月見の怪我はそうなんだけど、これは事情が事情で」

「むっ……あなたはこの狐の屋敷で会ったことがありますね。確か、比那名居天子でしたか」

「あ、えっと、はい」

「なんであなたまでこんなところにいるのですか! あなたは天人じゃないですかっ! あなたまで約定を破るとは、お説教をお望みなのですか!?」

「ひい!?」

「あーもー落ち着いてってばもぉー」

 

 映姫はなおも暴れる、

 

「そして後ろのあなたっ、放してください放しなさいッ! さては私を子ども扱いしていますね!? 説教しますよ!?」

 

 訂正、やっぱり面倒くさいなこいつ。

 体は大人、でも頭はいかんせん子どもっぽいと鬼たちの間ではもっぱら話題な閻魔様である。勇儀たちが旧地獄の地霊をキチンと管理しているかどうか、日頃からなにかとチェックしてくる仕事真面目なやつである。お陰様で、彼女の顔と名前と面倒くさい性格の三拍子を知らない鬼は一人としていないのである。

 出会えば誰しもが眉根を寄せる相手であり、実際勇儀と天子は渋い顔をしていたが、月見だけは表情が違った。

 

「映姫、いいところに来た」

「なるほど、お説教をしてほしいと!」

 

 面倒くせえ。

 月見はまるで意に介さず、

 

「悪いが差し迫った話だ。――地獄の頂点におわす閻魔殿は、果たして荒事がお得意か?」

 

 映姫のじたばたが、嘘みたいにピタリと収まった。怒るわ喚くわの子どもっぽい表情は跡形もなく消え去り、正真正銘、地獄の頂点に立つ統治者としての顔だった。

 

「放しなさい、星熊勇儀」

 

 逆らおうとも思えなかった。

 

「まあ、荒事がどういった内容かにもよりますが――」

 

 天子なんて、生唾を呑んで完全に固まっている。そんな中で、月見だけがそよ風を思わせる佇まいのまま、

 

「冗談抜きの戦闘だね。油断したら私みたいになる」

 

 映姫は眉を動かしもしない。動かしもしないまままるで事もなげに、至ってありふれた道理を説くような口振りで言ってのけた。

 

「まったく問題ありません。あなた、私を誰だと思っているのですか?」

「――上等だ」

 

 月見が、歯を見せて笑った。

 

「勇儀、さっき言いかけた話と絡むんだけど」

「え? あ、うん」

 

 そういえばそんな話だったなあと勇儀はぼんやり思う。

 

「二人とも、私に力を貸してくれ」

 

 ぼうっとしていた頭の中が、一発でクリアになった。

 

「映姫。詳しい説明は省くが、私はあれ(・・)を止めに行く」

 

 月見が指差した先では、やはり、今なお地底の崩壊が片時も止まらずに続いている。

 

「だがご覧の通り体がこの有様でね、だいぶ思うように動いてくれない。正直言って、自分で自分の身を守れるかどうかも怪しい。突っ込んでもまた墜とされるだけだ。――だから、お前たちの力を借りたい」

「……なるほどね」

 

 考えてみれば、確かに当たり前の話だった。月見は誰がどう見たって満身創痍で、今にもぶっ倒れたっておかしくなくて、いくら大妖怪といえども百パーセントの全力で戦うのは不可能な状態なのだ。きっと八咫烏を鎮めるために力を注ぐのが精一杯で、自分の身を守る余裕なんて皆無に違いない。

 だから、

 

「――私を、守ってくれ」

 

 そのとき勇儀は、不覚にも震えてしまったと思う。武者震いだった。口の端が、糸で引かれるように吊り上がっていくのを感じた。は、と、痙攣した喉から呼気がこぼれた。

 無理もない、――ああ、勇み立つなと言う方が無理な話だ。

 

「ッハハハ。――あんたからそんな風に頼られるなんて、こりゃまた格別だね」

 

 どうにも我慢が利かなくて、奮い立つ全身から妖気がもれてしまった。それくらい興奮していた。

 私を、守ってくれ――そんな真摯な言葉で月見から頼られたことのあるやつが、果たしてこの世に何人いる? それを考えれば、どう足掻いたって興奮するに決まっていた。

 その奮える心のままで、勇儀は高らかに吠えた。

 

「――よっしゃ任せろッ!! 星熊勇儀の名に懸けて、全身全霊で守ってやるよ!!」

 

 一方の映姫は、あくまで莞爾(かんじ)と微笑む。

 

「この私に手伝わせるなんて、高くつきますよ?」

「素直じゃないねえ。誠心誠意守らせてくださいって言えばいいのに」

「だだっだだだ誰がそんなことっ!!」

 

 新発見。閻魔様は月見でからかうと面白い。

 月見が、心の底から安堵したようにため息をついた。

 

「ありがとう。……助かるよ」

 

 勇儀は右の拳を握り、それで左の掌を打った。こんなにも燃えるシチュエーションは久し振りだった。あの地獄鴉を救えるかどうかは月見に懸かっており、同時に月見を守る自分たちにも懸かっているわけだ。しかも自分たちが失敗すれば、あの地獄鴉を救えないばかりではなく、いよいよ月見が命の危険に晒される可能性をも示唆している。背負われた責任の大きさと重さが、このところ平和ボケしていた勇儀の心に燃え盛る火をつけた。

 しかし一人だけ、面持ちの晴れない少女がいた。

 

「……月見」

 

 天子だった。握り込んだ両手が震えている。そこに言葉はなかったけれど、言葉がなくとも、両の目元から抑えられない想いがあふれて顔中ににじんでいた。

 自分だって、ついていきたい。

 だが天子はそれを言葉にできない。八咫烏の暴走がもはや人間に太刀打ちできるものではなく、ついていっても足手まといにしかならないと理解していたからだ。同時に、自責の念というのもあったのだろう。自分は一度月見に守られ、彼にひどい怪我をさせてしまった身で。だからこの期に及んでわがままを言う権利なんて、ありはしないのだと。

 なにもできない己の無力に、引き結んだ彼女の唇は白く色を失っていた。

 

「行かせてやりなよ、天子。たぶん、もう、なんとかできるのは月見だけなんだ」

「……」

 

 握り込めた拳で、天子の服はもはや皺くちゃになっている。月見はなにも言わず、天子からの言葉を待ち続けている。

 天子が、息を吸った。そして吐き出す息遣いとともに、

 

「……ばか」

 

 また、吸って、

 

「私を助けたときも、似たようなこと言ってたよね。自分が嫌な思いをしたくないから、やるんだって」

「……そうだったかな」

「そんなにひどい怪我してるのに、それでも無理して。絶対、すごく痛いはずなのに。もっと怪我するかもしれないのに。それは、『嫌な思い』じゃないの?」

 

 月見には、考えたような素振りもなかった。かすかな笑みすら見せて、

 

「私が体を痛める程度で済むなら、安いものだよ。幸い、妖怪はそういうのに強いからね」

「ぜんぜん安くない。幸いじゃない」

 

 天子が、顔を上げた。その目元は少しの涙で湿っていて、けれど限りなくまっすぐで、強い表情をしていた。

 

「行ってもいいけど、約束して」

「……なにかな」

「私がこんなに心配してるのに、それでも行くって言うんだから、中途半端なんて許さない」

 

 一拍、想いを溜める間があった。

 

「――行くんだったら、ちゃんと戻ってきて!! 助けるんだったら、みんな笑顔になれるように、徹底的に助けてきて!! ――それができるなら行って良しッ!!」

 

 それはなんとも強がりな仁王立ちで、お世辞にも凛とはいえない決壊寸前の声だったけれど。

 でもきっと、月見の心に、これ以上ないくらいの力を分け与えたはずだ。事実月見は痛みから解き放たれたように立ち上がり、大胆不敵に口端を曲げて、

 

「ああ。――承った」

 

 本当に、不思議な話だと勇儀は思う。今の月見は、誰がどう見たってボロボロの満身創痍なのに。今にもぶっ倒れたっておかしくないのに。まともに戦えるのかどうかすら怪しいくらいなのに。

 なのにそれでも、月見ならなんとかしてくれると信じたくなってしまう自分がいる。だから天子だって、本当は心配で心配で胸が張り裂けそうなのに、どうしても「行かないで」の一言を口にすることができないのだ。

 そんな月見のために、自分だってなにかをしたいのに――。

 

「天子。お前にも頼みたいことがある」

 

 その天子の心を読んだように、月見が言った。

 

「緋想の剣を貸してくれ」

「……え?」

 

 天子の面持ちに、疑問と困惑の色が広がる。

 

「で、でも……緋想の剣の力は、私たち天人じゃないと」

「わかってる。けど、妖怪にも持つことくらいはできるだろう?」

「それは、できる……けど」

「それでいい。別に、武器として使うわけじゃない」

 

 天子が、一層強く眉根を寄せて黙り込んだ。月見の意図を理解しようと懸命に考え、けれどまるで見当がつかずに反応を返せないでいた。

 緋想の剣とやらがなんであるかを勇儀は知らないが、『剣』というからにはやはり剣であろう。であれば、それを武器として使わないのは勇儀としても妙な話に思える。第一八咫烏の暴走は、剣が武器として役に立つ次元をとっくに超越してしまっている。なのにわざわざ、天人しか扱えないらしい剣を借り受けようとする意図とはなんなのか。

 

「……詳しいところは飛びながら話すけど、要は神を降ろす媒体として使うだけだ。私が持てるならそれでいい」

 

 月見のこの発言で、それが氷解した。そして月見が、八咫烏の暴走をどうやって止めるつもりでいるのかも。

 なんてことはない。何千年も昔から、人間たちだって使ってきたやり方だ。

 神の怒りを治めるためには、より高位の神を勧請し、その御力を以て鎮めてもらえばいい。高位の神を招き寄せる依代として、なるほど天人が持つ剣ならばまさにうってつけだといえるだろう。

 やっと、わかった。

 

 月見はあの地獄鴉に、更にもう一柱の神を降ろすつもりだ。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 ――目の前でなにが起こったのか、しばらくの間理解できなかった。

 もう駄目だと思っていたのだ。さとりがつい口走ってしまった刃の言葉でこいしは錯乱し、無意識の塊と化して灼熱地獄に飛び込もうとした。完全にタガ(・・)が外れてしまっていて、止めようとしたお燐とさとりを、妖気の放出だけで弾き飛ばしてしまうほどだった。お燐とさとりにはもはや止められず、藤千代はどういうわけか止めようともしてくれず、こいしまでもがお燐たちの手の届かないところまで離れていってしまうはずだったのだ。

 だが、現実はそうならなかった。

 こいしが、泣いている。こいしの精神はもうとっくにボロボロで、そのせいか彼女が自らの心に課した封印が壊れかけていて、あんなにも感情を露わにして泣きじゃくるこいしをお燐は生まれてはじめて見た。そしてその涙は、もう、決して冷たく悲しい涙などではなかった。

 救われたからだ。取り返しのつかないところまで行ってしまう、ギリギリの一歩手前で。

 彼に。

 月見という名の、銀の狐に。

 

「――あ、」

 

 お燐は腰が抜けた。すぐ真後ろまで迫ってきていた悪寒が退散するように引いていって、あっという間に足腰が立たなくなった。それから言葉にもならない安堵の感情がめちゃくちゃに押し寄せていて、為す術もなく目の前の景色が潤んだ。

 見間違いなどではなかった。間違いなく月見はそこにいた。尻尾が焼け落ちてしまうほどの大火傷を負い、もう当分は目を覚まさないと思われたのに。いつもとなんら変わりない穏やかな顔をして、泣きじゃくるこいしを優しく慰めてやっていた。

 どうして彼がここにいるのかなんて、問うまでもない。

 だって、こいしは叫んだのだから――おくうを助けて、と。

 そして、月見は答えたのだから――当たり前だ、と。

 彼は、戻ってきたのだ。この悪夢みたいな現実を、変えるために。

 

「――はい、失礼しますねー」

「にゃっ」

 

 いつの間にか真横にいた藤千代が、お燐を抱え上げて跳躍した。次にお燐が降ろされたのはさとりの隣だったが、やっぱり足腰は立たないままだったので、またへなへなと情けなく座り込んでしまった。

 さとりも、お燐とまったく同じ恰好をしていた。

 

「ごめんなさい、さとりさん、お燐さん。怖がらせるようなことをしてしまって」

 

 さとりが、笑った。泣き笑いだった。

 

「もうっ……! 藤千代さんは、はじめからわかってたんですね……!?」

「ええ。私が止めるよりも、これがこいしさんにとって一番だと思いましたから」

「ばかぁ……っ!」

 

 ようやくわかった。藤千代は月見が戻ってきたとはじめから気づいていて、だからこいしを止めようとしなかったのだ。月見が止めると、信じていたから。そうならそうと一言言ってほしかった。お陰でお燐は本当に寿命が縮む思いだったし、冗談抜きでさっぱり立てなくなってしまったのだから。

 完全に、気が抜けてしまっていた。

 こいしが救われたとはいえ、おくうが暴走し続けている事実はなにも変わっていないというのに。

 灼熱地獄が、蠢いた。

 

「……!」

 

 それはもはや、『炎が噴き上がる』などと容易に言い表せる次元を超越していた。少なくともお燐の目には、蠢く炎の海原から突如として蛇が顕現したように見えた。

 炎の、大蛇。

 藤千代を襲っていた大蛇とは更に大きさの桁が違う。この場にいる全員を呑み込んだって、恐らくは呆れるほどのお釣りが来るのだろう。もしかすると、おくうの抱いていたかつての想いが、八咫烏の荒御魂に少なからず作用していたのかもしれない。

 月見を憎み、消してしまいたいと願う、悲しい嫉妬の想いが。

 炎の大蛇は天を喰らうかの如く空を駆け上がり、勢いをそのままに急降下を始める。落ち行く先は月見以外にあるはずもなく、そして月見の腕の中には、まだこいしが、

 

「――刮目なさい」

 

 ――ぱしん、と。

 大地まで喰らい尽くすかと思われた炎の大蛇が、まるで嘘のように、あまりに呆気なく、散り散りの火の粉と化して消し飛んだ。

 蛇の道を遮ったのは、なんてことはない、指で突けば破けそうな薄っぺらい霊力の壁だった。お燐にだって簡単に同じ真似ができる。そしてお燐が同じ真似をすれば、蛇の牙を一瞬足りとも止められずに体ごと喰い破られるだろう。

 要するにいまお燐の目の前で、さらりととんでもないことが起こった。砕けた蛇の残火が花びらのように散る中を、凜と翔け抜けていくひとつの影があった。

 

「――まったく、あなたは一人で先行しすぎです! こういうときばかり無茶が過ぎるっ!」

 

 目を疑った。そりゃあそうだ――灼熱地獄へ背を向ける月見を守るように、四季映姫・ヤマザナドゥが降り立ったのだから。

 もっとも、決してありえない相手ではない。絵に描いたように仕事真面目な閻魔である映姫は、鬼たちがしっかり地霊を管理しているかしばしば旧都まで調査にやってくる。その延長線上で灼熱地獄跡の管理状況もチェックしていくため、地霊殿の住人ともある程度の関わりがあるのだ。

 だがまさか、このタイミングで彼岸から遥々駆けつけてくるとは誰に予想できよう。おにーさんって閻魔様とも知り合いだったんだとか、あれちょっと待ってこれって閻魔様のお説教コース確定の流れ? とかお燐がぼんやり考えている隙に、目の前の状況がまさに急転直下で変化していく。

 映姫に続いて、お燐の真上を更にふたつの人影が翔け抜けていく。片や星熊勇儀、片や比那名居天子、灼熱地獄が再度蠢き次は左右から二匹の蛇、だがこれを、

 

「――せぇいやあああああっ!!」

 

 勇儀が拳に妖力を集中、裂帛の気合ともに衝撃波と変えて放つ。二匹の蛇がまたも呆気なく消し飛び、その頃には比那名居天子が月見の前にいて、

 

「月見! これ、緋想の剣!」

「ああ。……この子を頼む」

「うん!」

 

 手にしていた緋色の剣を地面に突き立て、こいしを抱えてすぐさま飛翔。頭がまるで追いつかないお燐の目の前にこいしを降ろすなり、霊力を開放して叫ぶ、

 

「ここから動かないで! ここは、私が! ……私が、守るから!」

 

 鴉が啼く。大気を振るわす羽音が聞こえる。噴き上がる炎の密林を越え、おくうの――八咫烏の気配が猛烈な勢いで迫ってくる。

 頭の片隅で誰かの声が聞こえる――いつまでぼけっとしているつもりだ、いい加減に正気に返れと。無論、頭ではわかっているのだ。だが、目まぐるしく変化するこの状況を前にして体が完全に硬直している。どうすればいいのかが一向に思い浮かばない。そもそもの話、月見たちがなにをしようとしているのかすらまだほとんど理解できていない。

 闇を払ったのは、お燐の耳朶を凜と打つ天子の声だった。大切な人が傷ついた現実に打ちひしがれていた少女は、もう目の前にはいなかった。

 

「大丈夫。今度こそ――今度こそ、月見が助けてくれるから!!」

 

 ようやく、わかった。遠目でもはっきりと見て取れる、月見はなぜ立っていられるのか不思議なほどの満身創痍だったのに。ただ立っているだけでも、きっと想像を絶するほどの激痛に襲われていたはずなのに。

 それでも彼がここに戻ってきたのは、ただこいしを止めるだけではなく。

 ――あの人は、本当に行くつもりなんだ。すべてを灼熱地獄に呑み込む、途方もない炎の災害を相手に。荒御魂に押し潰され、泣いているおくうを、助けるために。

 神を、超えるために。

 

「……どうして」

 

 はじめは、聞き間違いかと思うほど小さく短い一言だった。お燐が主人に目を向けたとき、さとりはその瞳に涙すらにじませて天子を見上げたところだった。

 

「どうして月見さんは、あそこまでしてくれるんですか……!? 今度こそ! 今度こそ、もう怪我じゃ済まないかもしれないのに……!」

「このままじゃあよくないからよ」

 

 即答、

 

「あなたはこのままでいいの? よくないでしょ? だってこのままじゃあなにひとつもいいことがないし、誰も笑えない。絶対に後悔する。……だから、月見はやるの」

「――、」

 

 それは、なにも特別なものなどないごくごく当たり前の理屈だった。「このままでは後悔するからやる」。月見だけの考え方、月見だけの信念というものではなく、至って誰にでも当てはまるありふれた本能の話だった。

 こいしに助けてと言われたから、ではなく。

 おくうが苦しんでいるから、でもなく。

 そういう義理人情よりひとつ手前の次元で、月見がおくうを助けるのは当たり前の話なのだ。

 藤千代が、ふっと微笑んだ。

 

「やっぱり月見くんは、泣いている誰かを放っておいたりはしないですよね」

「うん。……だから月見は、もう、絶対に負けない」

 

 でも。

 でも、だからって。

 お燐には理解できない。どうしてこの二人は、こうも掛け値なしに月見を信じられるのだろう。どうして満身創痍の彼を、この期に及んで止めないのだろう。

 

「あ……!」

 

 気がつけば、月見はもう行ってしまっていた。勇儀と映姫を連れて、灼熱の火の粉が舞い散る紅蓮の空へ。気づいた瞬間無意識に突き動かされ、お燐はその傷だらけの背中を呼び止めていた。

 

「おにーさんっ!」「月見さんっ!」

 

 奇しくも、それはさとりとまったく同じだった。お燐とさとりは一瞬驚いて顔を見合わせ、けれど構わずにまた月見の背へ向けて叫んだ。

 月見を呼び止める理由なんて。

 彼の背中に掛ける言葉なんて、これ以外にありはしないのだと、確信していたから。

 

「「おくうを、お願いしますっ……!」」

 

 月見は答えなかったし、振り返りもしなかった。

 けれど代わりに、尻尾が動いた。真っ黒に燃え尽き、どうやら一尾ではないらしいが、かといって何尾あるのかもわからない無惨な姿となった尾が。

 炎を、噴き上げた。

 その光景を、きっとお燐は未来永劫忘れることなどないであろう。望む望まざるにかかわらず、あまりにも鮮烈に網膜へと刻み込まれた。

 言葉にすればどちらも同じなのに、彼の炎は、灼熱地獄で荒れ狂う紅蓮の炎とはまるで根底から違っていた。色だってそうだし、なによりちっとも怖くなかった。それどころか、見るだけで心が奮わされるような心地さえした。

 こんな炎が、この世に存在するのだと。そう、心を奪われた。

 

 銀。

 この世のどんな銀よりも美しく、

 この世のどんな炎よりも気高く燃える、

 銀の炎の、十一尾だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 緋想の剣を手に取る。

 広がり続ける灼熱地獄を、迫り来る八咫烏の気配を前にして、月見はひとつ、ゆっくりと長く息を吐く。

 言う。

 

「――三人とも、頼んだよ」

 

 

 

 星熊勇儀は、月見の言葉を思い出す。この灼熱地獄へ戻ってくるまでの空の道で、彼は勇儀にかく語った。

 

『――向こうに着いたら、状況次第だが私はすぐに術の構築を始める。勇儀、お前に頼みたいのは八咫烏の相手だ。

 怒り狂っているとて相手も神。私が術を使おうとすれば、まず迂闊に近づいてきてくれるとは思えない。もしかすると、私たちを無視して旧都に向かっていくとも限らない。いろんな可能性が考えられる――そこでお前だ。

 ただ見ているだけなんて、お前の性に合わないだろう? 私が術を構築するまでの間、存分に戦って八咫烏を足止めしてくれ。ただし、絶対に墜とされるなよ。術の構築が完了したら、私の目の前に八咫烏を引きずり出してもらう――こっちがお前に頼みたい本命だ。依代の命を脅かさない範囲で、手段は問わない』

 

 面白い。

 月見が付け加えた情報によれば、八咫烏は遠距離からの砲撃を攻めの主体とし、かつその威力は岩をも容易く石塊に変えるという。つまりは、肉弾戦を得意とする勇儀にとってお世辞にもやりやすい相手とはいえない。しかも、ただ戦えばいいというものでもない。向こうは強力無比な神の力を操るが、依代となっているのはあくまで、地獄鴉という妖怪の中でも脆弱な肉体でしかないのだ。勇儀ほどの妖怪が迂闊に攻撃すれば、それだけで『依代の命を脅かさない範囲』を容易く外れてしまうかもしれない。

 こちらは依代を必要以上に傷つけぬよう心を砕かねばならない一方で、向こうは容赦なく勇儀を灼熱地獄に取り込まんとするだろう。そんな状況下でひたすら時間を稼ぎ、時が満ちるや否や、打って変わって地獄鴉を月見の前に引きずり出さなければならない――あまりのしち面倒くささに笑いが込み上げてくる。

 しかし、だからこそ滾る。

 

「――来た」

 

 はじめは、炎と同じ色で輝く星のように見えた。

 一瞬だけ。

 もはや鴉とも表現し難い、凶悪な妖魔の如き咆吼。放たれた轟音は衝撃波となり、禍々しい神気は波動となり、勇儀の全身に暴風と化して襲いかかってくる。

 思わず腕で顔を庇い、一歩後ずさった――その一瞬で八咫烏は、もう互いの相貌も容易く見て取れるほどの距離にいた。

 

「  。 、  ―― ?」

 

 己の身の丈すら上回る、巨大すぎる大翼を羽ばたかせ。

 胸元の瞳が、目も眩む深紅で燦然と光り輝き。

 全身を、木の根が這うような赤い紋様で侵食され。

 絶えず炎を噴き。

 その双眸は、血と闇の色で潰れ。

 人の言葉など、疾うの昔に失っている。

 なまじっか依代となった少女の形を留めているからこそ、それはおぞましく、そして哀れな異形の化物の姿だった。

 

「……」

 

 ここまで荒御魂に侵食された依代を見るのは、さしもの勇儀も生まれてはじめてだった。間違いなく、肉体には勇儀の想像も絶する負荷が掛かっていよう。もしも依代となった少女の意識がまだどこかに残っているのなら、きっと地獄へ落とされたような苦しみの渦中にいるに違いない。

 首を振った。

 

「――さて。あんたが用があるのは月見だろうけど、あいつは今ちょっと支度中でね」

「  ?    、」

「準備が整うまで、まずは私に付き合ってもらうよ」

 

 両脚を、肩より少し広く開く。浅く広げた両腕の、爪の先をも突き破って、全身に力が迸るイメージ。武者震いする掌を拳に変え、一息、胸の前で甲を打ち合わせ、

 ――数百年振りに、星熊勇儀は『鬼の四天王』となる。

 地底へ下り、争いの少ない穏やかな日々を過ごすようになってからは、『四天王』という肩書きなどあってないに等しいものだった。とりわけ弾幕ごっこが普及してからは鬼として力を振るう機会すらまるでなくなり、己の中に巡る鬼の血は、このまま次第に錆びついていくのだろうかと思っていた。

 随分と久し振りに、鬼に戻ったような気がした。

 ケンカしたいなあ――あのとき旧都の空を仰いで呟いた一言が、まさかこうも簡単に叶ってしまうだなんて。無論、勇儀の役目は時間稼ぎである。これは倒すためではなく、守るための戦いだ。しかしそれでも、神話クラスの荒御魂と戦える機会なんてもう二度と巡っては来るまい。

 ぜんぶが終わったら、思う存分萃香に自慢しようと思う。いい気味だ、あいつならきっと地団駄を踏んで悔しがるだろう。

 神の荒御魂と拳を交えたのも。

 月見という友から、命を託されたのも。

 そのすべてが、鬼の冥利に尽きる至上至高の誉れだ。

 

「――鬼の四天王が一、星熊勇儀」

 

 故に、勇儀は名乗る。相手へ聞かせるためではなく、自分自身の誇りへ誓うために。

 

「全身全霊、お相手仕る……ッ!!」

 

 その宣言を、八咫烏が理解したのかどうかはわからない。単純に、勇儀が放った桁外れの妖気に反応を返しただけだったのかもしれない。

 しかしどうあれ八咫烏は、咆吼を以て勇儀に応えた。

 噴き上がる火柱の群れが、再びその姿を変えていく。ある炎は大蛇に。ある炎は鳥に。また或いは灼熱地獄から炎を取り込み、巨大化し、まさに際限などなく増殖していく。

 それはさながら、赤い墨で描かれた深遠なる妖怪絵巻。

 炎の大蛇、ざっと数えて十以上。炎の鳥――まさしく無限。

 眼前を埋め尽くす文字通り桁違いの戦力差を前にして、勇儀は笑った。牙を剥いて笑った。

 

「上、等ォ……ッ!!」

 

 鬼が吼え、鴉が啼く。爆ぜるは豪炎、逆巻くは烈風。大妖怪と神の激突が、変わり果てた地底の姿を更に凄絶に変容させていく。

 人智を彼方へ置き去りにした、紅蓮の嵐が吹き荒れる。

 

 

 

 四季映姫は、月見の言葉を思い出す。

 

『――映姫、お前に頼みたいのは防御の方だ。一度術の構築に入ると、なにもできなくなるわけではないが、体がこの有様だからほとんど無防備に近くなる。向こうだって、そんな格好の的をわざわざ放っておいてはくれないだろう。

 勇儀が捌ける量にも限界がある。だから、術を構築し終えるまでの数分間、なにがなんでも私を守ってほしい。――頼めるか?』

 

 愚問だ。実際映姫はそう即答したし、八咫烏の力を目の前にした今でも答えを変えるつもりは毛頭なかった。

 これしきの炎から月見を守る程度、まったくもって造作もない。別に自信過剰なわけでも、八咫烏の力を侮っているわけでもない。ただ厳然たる事実として、四季映姫・ヤマザナドゥにとってはまさしく容易いことなのだ。

 立ち塞がるのは炎の大蛇が十余、炎の鳥が数える気も起きぬほど――なるほど、数と量だけならば一見無茶苦茶に思える。しかし数と量如きに左右されてしまう程度なら、映姫ははじめから閻魔の務めなど任されてはいない。

 

「――あなたには、言っていませんでしたが」

 

 緋想の剣を手に取り、術の構築に向け精神を研ぎ澄ませる月見へ、映姫は矢庭に声を掛ける。本来であれば術の妨げになるので避けるべきだが、まさかこれしきで集中を乱されるほどの愚鈍ではあるまい。

 

「私の能力は、『白黒はっきりつける程度の能力』といいます。これは主に、地獄の裁判で公平無私な判決を下すためのものですが――応用として、結界と非常によい相性を発揮します」

 

 映姫が見上げる先では、八咫烏が炎を生み、星熊勇儀が風を生み、敵味方の区別もない紅蓮の嵐が逆巻いている。この嵐が生み出す雨はすなわち火の粉だ。風に乗って荒れ狂い、吹雪が如き勢いで映姫と月見に肉薄する。

 映姫は、静かに悔悟棒を振った。否、振ったというよりも、ただ単に左から右へ動かしたと表現した方が近い。

 たったそれだけで、幾百の火の粉がすべてふわりと掻き消えた。

 

「外の如何なる危害をも退け、内を守る――結界の外と内で、白黒をはっきりつけるわけです」

 

 これが、映姫が月見を守り切れると自負する理由だ。自身の能力で強化した堅牢無比の防壁。結界という手段で対抗できるものであれば、この霊力の壁はありとあらゆる危害を問答無用で遮断する。

 例外はない。なぜならそれこそが、映姫の持つ能力なのだから。

 

「何人足りとも、私の結界を破ることなどできません。私がつける白黒は絶対です」

 

 はじめ、月見へ襲いかかった炎の大蛇を消し飛ばしたのも映姫の結界である。たとえ神話に名を刻んだ神の力であろうとも、映姫の前では一切が平等に扱われる。

 

「だからあなたはなにも気にせず、術に全神経を注ぎなさい。私がこの場にいる限り。あなたの命は、この私が守ります」

 

 ……とはいえ、まさか思ってもいなかった。半分以上が成り行きとはいえ、自分がこの狐から命を託されたりするなんて。それだけ頼りにされたのだろうかと思うと、映姫はむくむくと嬉しくなった。やはりこれは、日頃から時間を見つけては水月苑へ足を運び、家事の手伝いを通して自分が頼りになるお姉さんだと繰り返しアピールしてきた成果であろう。幻想郷で再会してからおよそ半年、映姫の計画はいよいよ結実の時を迎えつつある。

 しかし、これで早くも満足してしまってはダメだ。映姫が水月苑通いをやめた瞬間、この狐は映姫という存在のありがたみを忘れ、調子に乗って昔の態度に戻ってしまうかもしれない。そうさせないためにも、映姫は今後も水月苑に通い続けなければならない。そう、これは閻魔として重要な責務のひとつなのだ。

 断じて、最近ちょっとお手伝いが楽しくなってきているわけではない。

 八雲藍や十六夜咲夜に対抗意識を燃やしているなんて、ぜんぜんちっともそんなことはない。

 気がついたら今度作ってあげる献立を考えているだなんて、ありえないったらありえないのである。

 ともかく、映姫が言いたいことはただひとつだ。

 

「さっさと終わらせてしまいなさい。……そうしたらちょっぴり、見直してあげますから」

 

 八咫烏の荒御魂の暴走。一体なにがどうなってこれほどの尋常ならざる事態が引き起こされたのか、経緯はさっぱりわからないけれど。

 なんであれ、この男は必ず成し遂げるであろう。だから映姫は、求められた通りに力を貸すだけでいい。

 そう信じられる程度には、一応、映姫だってこの狐を認めているのだから。

 

 

 

 比那名居天子は、月見の言葉を思い出す。

 

『――天子、お前にもうひとつ頼みたい。さとりたちを、守ってやってくれないか』

 

 はじめは戸惑った。どうして自分なんかにそんな話をするのかと思った。自分は弱くて、足手まといで、今回だって月見に守られ、彼にひどい怪我をさせてしまった。なのにこの期に及んで、どうして彼が自分を頼ってくれるのかわからなかった。

 向こうに戻ったら、藤千代だっているのに。

 そう答えたら、彼はそっと薄く笑んで、

 

『じゃあ、このまま、なにもしないのか?』

 

 その言葉で、天子は目を覚ますことができたと思う。

 

『天子、私はね。今のさとりたちは、昔のお前と同じだと思ってる』

 

 この異変は、かつて天子が起こした緋想天の異変と同じだ。天子だって、こいしだって、おくうだって、誰も、なにも悪いことをしたいわけではなかった。なのにどういうわけか歯車が噛み合わなくて、ほんの小さな過ちが取り返しのつかない事態を招いてしまって。自分が間違っていたと身が千切れるほど後悔するのに、呼び覚まされてしまった未曾有の怒りを、どうやっても止めることができなかった。

 

『だから、千代にじゃない。お前に、守ってやってほしいんだ』

 

 そう言われたとき、天子は本当に嬉しかった。もしかすると、単なる詭弁だったのかもしれない。たとえどんな理由があろうとも、さとりたちを守る役目に最適なのは、天子ではなく藤千代だったのかもしれない。でも、詭弁だっていいのだ。

 月見だって、言っていた。

 このままなにもしなかったら、絶対に後悔する。

 だから天子は、戻ってきたのだ。

 迷いなど、もはやあるはずもなかった。今だけは邪魔な長い髪をまくり上げ、膝をつき、天子は両の掌を強く大地に押し当てた。

 傍らから、藤千代の疑問の声が降った。

 

「……なにを?」

「私の能力で、大地の崩壊を止められるかやってみる」

 

 天子が持つ能力は、『大地を操る程度の能力』である。神様のように大地の形を自由に作り替えたりはできないけれど、代わりに地震や土砂崩れなどの自然現象を制御する。地震を起こして大地を崩すことができるし、逆に大地の崩壊を食い止めることもできる。

 天子は、この能力が決して好きではなかった。天人である天子にとっては元々使い道が少なく役に立たないものだったし、なによりこんな力を持っていたせいで、天子は夏の異変で間違えてしまったのだから。天子にとっての『大地を操る程度の能力』とは、力というよりも『罪』と呼ばなければならない、呪いのような能力だった。

 その『罪』を、今度は誰かを傷つけるためではなく、守るために。

 果たして本当にできるのか、天子自身にも確証はない。大地の崩壊はすでに見渡しきれぬほど広大な範囲に及んでいるし、なにより相手は荒ぶる正真正銘の神なのだから。天子如きではまるで歯が立たないかもしれないし、できたところで途轍もない負荷に襲われるのは確実だろう。そもそも、こんなことをしてなんの意味があるのかだってわからない。今更ちょっと崩壊を食い止めたところで、すでに崩れ去ってしまった広大な規模から見れば、あってもなくても同じなのかもしれない。

 ――じゃあ、このまま、なにもしないの?

 否だ。望む先では、勇儀が八咫烏の猛攻を食い止め、映姫が炎から月見を守り、月見が緋想の剣とともに術の構築を始めている。誰しもが、自分にできることに全力を尽くしている。だから天子だってやるのだ。

 

「――」

 

 深く息を吸い、あの夏の異変振りに天子は能力を発動する。己の両腕から注ぎ込む霊力が、大地の隅々まで巡り巡って浸透していくイメージ。崩壊する大地を包み込み、抑制し、そのまま神の領域まで触れる、

 途端、筋肉が裂けたかと思うほどの激痛が両腕を襲った。

 

「っ――!!」

 

 反射的に両手を大地から離す、その寸前で辛うじて天子はこらえた。耐えられたのは、こうなるとあらたかじめわかっていたからだ。やはり、ただの地震を抑え込むのとは次元が違う。

 恐らく、こちらが大地に力を注いで崩壊を止めようとするように、向こうもまた地脈を通じて天子を攻撃してきたのだと思う。次は容赦などしない――そんな警告の意味が込められていたはずだ。

 知ったこっちゃなかった。こんなの、月見が堪え忍ぶ痛みと比べればほんの掠り傷みたいなものだった。月見は尻尾がぜんぶ焼け落ちて、背中を中心とする体中に火傷を負って、立っているのもやっとなはずなのに、それでも諦めずに頑張っている。だから、天子だって頑張るのだ。

 再び大地に力を注ぐ。すぐさま跳ね返ってきた激痛を歯を食い縛って耐え、天子は能力を使い続ける。

 果たして本当に崩壊を抑え込めているのか、天子の場所からでは知りようもない。それでも、それでも。

 

「頑張って、月見……ッ!!」

 

 そうすれば天子だって、たとえ両腕が裂けたって無限に頑張れる。

 更に霊力を開放し、天子は周囲を囲む光の結界を展開する。閻魔様が操る結界とは比べるべくもないけれど、火の粉くらいは防げるはずだ。

 ただし、もしも灼熱地獄の空で荒れ狂う炎の大蛇が一度でも牙を剥けば、そのときはもう藤千代に頼るしかない。これが、今の天子にできる精一杯。まるで途方もない力の違いに、小さな自嘲が口からこぼれた。

 

「……ごめんね、藤千代。私なんかがこんなことしたって、高が知れてると思う。でも」

「――いいですよ」

 

 しかし天子の言葉を遮って、藤千代はそっと、可憐に微笑みかけてくれた。

 

「今の天子さん、すごく、素敵です」

「……、」

「きっと、月見くんにも届いてると思いますよ。……ほら」

 

 藤千代が見遣った先に、天子もつられて目を向けた。映姫の結界に守られる中で、一見すると、月見はただぼけっと突っ立っているように思える――けれど、天子は確かに見た。確かに、聞いた。

 

「 ―― 夫神は 唯一にして 御形なし 虚にして 霊有 」

 

 銀。

 それは、神に捧げるための(うた)。神に捧げるための炎。

 銀毛十一尾。

 銀火の尾を神楽のように棚引かせ、月見は蕩々と(うた)(うた)う。

 毒を以て毒を制す。神を以て神を制す(・・・・・・・・)

 

 日本全国三万二千社、神社の中でも最大勢力を誇る稲荷神社の主祭神。人々から集める信仰の篤さという一点に限れば、天照大神にも大国主命にも決して引けを取らない、まさに日本屈指と呼ぶに相応しい神の中の神。

 

 宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 ――誠に己は、つくづく頼もしい味方に恵まれたものだ。

 心の底から痛感する。生来戦好きの勇儀はもちろん、人間の天子や、成り行きで巻き込まれたも同然の映姫まで快く力を貸してくれるのだから。あいかわらず全身の痛みは最悪の一言だが、一方で心は嘘のように淀みなく静まり返っていた。

 

「 天地開闢て 此方 国常立尊を 拝し奉れば 天に次玉 地に次玉 人に次玉 」

 

 もちろん、月見は十一尾の妖狐という極めて特殊な存在なので、妖怪の賢者や鬼子母神、天魔らと同様に人外の世界では割と名が知れている。妖怪は当然ながら、洩矢諏訪子や八坂神奈子を始めとする神の知人友人というのもそこそこ多い。

 狐を眷属とする稲荷神――宇迦之御魂神とは、まあ、古くからたびたび酒を酌み交わしてきた仲とでも言おうか。だから妖怪の月見でも、即席の儀式ひとつで簡単に呼び出すことができるのだ。

 

「 豊受の神の流れを 宇賀之御魂命と 生出給ふ 」

 

 しかし即席の儀式とはいえ、どうしても数分の時間が掛かるのは事実。その数分を作り出すため力を貸してくれる味方に恵まれたのは、まさに僥倖というものなのだろう。

 己が身ひとつで八咫烏を引きつけてくれている、勇儀も。

 完全無欠の結界で月見を守ってくれている、映姫も。

 地底の崩壊を見事に食い止めてくれている、天子も。

 ここまでしてもらって、「ダメでした」なんてみっともない姿は晒せない。

 

「 永く 神納成就なさしめ給へば 天に次玉 地に次玉 人に次玉 」

 

 灼熱地獄の空では、炎の嵐が逆巻いている。鬼が吼え、鴉が啼く。勇儀と八咫烏が、互いに流星と化して幾重もの交錯を繰り返している。でたらめな速度で飛んできた流れ弾が、映姫の結界に弾かれて虚空へ消える。

 

(……空)

 

 交錯を重ねるたびに、おくうの体が更に異形の姿へと作り変えられていく。翼はなおも巨大化を続け、足が鳥の鉤爪へ歪な変化を遂げ、両腕から黒い羽根が生え始めている。荒御魂の侵食が、精神のみならず肉体にまで進んでいる。恐らくそう遠くないうちに、霊烏路空という少女は身も心も完全に八咫烏へと変わり、消滅するだろう。

 

「 御末を請 信ずれば 天狐 地狐 空狐 赤狐 白狐 」

 

 やらせない。やらせはしない。

 せっかく勢いづいているところ悪いが、八咫烏にはなにがなんでも引っ込んでもらう。宇迦之御魂神の力を借りて荒御魂を鎮め、その上で自力の封印を施し、おくうを式神にして(・・・・・・・・・)完全な制御下に置く。たとえおくうが望んだとしても、こんな暴走はもう二度とできないように。

 

「 稲荷の八霊 五狐の神の 光の玉なれば 誰も信ずべし 心願を以て 空界蓮來 」

 

 妖力の大半を持って行かれるだろうが、構いやしない。強大な妖力など所詮、今の世ではただ持て余すばかりの代物なのだ。半分だろうが全部だろうが、好きなだけ持って行くがいい。

 その代わりに、おくうは返してもらう。

 泣きながら、おくうを助けてと。そう(こいねが)う家族が、彼女にはまだいるのだから。

 

「 高空の玉 神狐の神 鏡位を改め 神賓を於て 七曜九星 二十八宿 當目星 有程の星 ―― 」

 

 緋想の剣に神気が満ちる。緋色の刀身が、少しずつ、少しずつ穢れない白へと染まっていく。

 

 五分。それより長いということは絶対にない。

 

 あと五分で、すべてが決着する。

 己の全を賭して、月見は。月見たちは。

 

 神を、超える。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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