銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色

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東方地霊殿 ⑫ 「神を超えろ ②」

 

 

 

 

 

「――そうか。霊夢と、魔理沙が」

 

 なるべく平静を意識したつもりだったが、その言葉には決して誤魔化しきれない動揺と後悔の色がにじんでいた。恰好つけているのは見た目だけで、内心では完全に取り乱してしまっている自分を未熟だと猛省したが、同時に無理もないと擁護もした。もしも紫が今の藍の立場なら、きっと上を下への大混乱で大暴走するだろうから。

 間欠泉の監視を橙に任せ、異変の様子を窺いに水月苑まで戻ってきた藍が聞かされたのは、霊夢と魔理沙が負け、月見たちが異変を止めに向かったという到底信じがたい事実だった。スペルカードルールならば凄腕の実力を持つ霊夢たちが、一体なぜ、誰に負けたのかについては、この話を聞かせてくれたわかさぎ姫も詳しくは知らなかった。ただ少なくとも、この異変に絡んでいる地底の妖怪は三人――『お燐』と『おくう』と『こいし』であると、わかさぎ姫は言った。

 いずれも、知らない名だ。

 

「……で、でもでも、霊夢さんと魔理沙さんの無事は確認できてるんです。『お燐』という妖怪さんが、助けてくれたみたいで。旦那様のお知り合いみたいだったので、嘘ではないと思うんです。旦那様も、『お燐』さんのことは信じていましたから……だ、だからその、心配は要らないと思うんです」

「……ありがとう」

 

 身振り手振りで一生懸命説明してくれるわかさぎ姫を見るに、だいぶ気を遣われたようだった。どうやら、心の動揺を律しきれないばかりか、顔に出てしまっていたらしい。改めて己の未熟を痛感し――同時に、心優しいわかさぎ姫のお陰でいくらか余裕を取り戻した。

 吐息。

 

「まさか、こんなことになるとは……」

「……はい」

 

 藍は思考を回転させる。真っ先に考えたのは、当然ながら主人を起こすべきかどうかだった。一度冬眠に入った紫は雷が鳴ったって地震が来たっていぎたなく爆睡を続けるが、もちろんそれなりに手を尽くせば起こすのも可能ではある。霊夢と魔理沙が負け、そして大妖怪である月見に助けが求められたとなれば、これはどう考えても普通の異変ではない。主人を涙目にしてでも叩き起こし、対処に当たらせるべきではないか。

 しかし一方で、そこまでする必要はないと考える自分もいる。月見ならなんとかしてくれるはずだという信頼があるし、第一地底には、紫ですら顔面真っ青で白旗を挙げる鬼子母神という化け物がいるのだ。月見と藤千代。この二人が合わさって解決できない事態があるとするならば、それは世界の終焉くらいなのではないか。せっかく叩き起こしたとしても、結局月見たちが解決してくれたので意味ありませんでした、では主人に対して少々立つ瀬がなくなる。

 藍は、視線をわかさぎ姫のいる池から庭へと転じる。目に入ってきたのは、

 

「――というわけでわかった? お庭っていうのはね、やってきたお客さんがはじめに通る、言ってしまえばその家の『顔』なのよ。ここが手入れされてなかったり殺風景だったりすると、ああここに住んでる人はそういうやつなんだなって見くびられることになるの。……まあこれは、あの庭師の受け売りだけどね。ともかくあなたたちがメチャメチャにしたのは水月苑のお庭であり、同時に水月苑の『顔』でもあるの。私の友達が『そういうやつなんだな』ってお客さんから見くびられたら、あなたたちどうやって責任取るつもり? ねえ?」

「「「……ぐすっ」」」

 

 冬の寒さがしんしんと染みる水月苑の縁側に横一列で正座させられているのは、地底からやってきた妖精たちと、彼女らを子守りしていたはずのにとりと響子である。

 そして横一列で正座した彼女たちをくどくどとお説教しているのは、フラワーマスターこと風見幽香である。

 こちらの経緯も、わかさぎ姫が大雑把に説明してくれた。――月見たちが地底に向かってからしばし、とりあえず庭の片づけをしようかという話をしていたところで、突如としてフラワーマスターが襲来した。妖精たちの雪遊びですっかりぐちゃぐちゃになった庭をひと目見るなり彼女は一発でブチ切れ、わかさぎ姫以外を縁側に正座させて説教を始めてしまった。当初はわかさぎ姫も標的に入っていたが、「わ、私は旦那様に留守を任されましたので、ここを動くわけにはいきませんっ!」とダメ元で言ってみたところ、「あらそうなの、お勤めご苦労様。頑張って月見の期待に応えるのよ」とすんなり納得されて事なきを得た。にとりたちから裏切り者を見る目をされた。今では正直ごめんなさいと思っている。

 もうかれこれ、三十分くらいやっているらしい。我慢というものを知らない妖精たちも、幽香の全身から迸る恐ろしい妖気の前には、涙目で縮こまることしかできないのだった。

 藍は、また吐息。

 幽香と目が合った。彼女はにっこりと微笑んで、

 

「あら? あなたも植物とお庭のありがたいお話に興味があるの?」

「い、いや、別にそういうわけじゃ」

「――え? 別にそういうわけじゃない?」

「いっいやいや実に興味はあるけど残念ながらそれどころではなくて」

 

 にっこり笑顔を微動だにもさせないのが逆に恐ろしい。

 幽香はふんと小鼻を鳴らし、

 

「どうせ月見のことでも考えてるんでしょ。バレバレよ」

「ま、まあ……月見様が地底に向かったとはいえ、紫様を叩き起こすべきかどうかとね」

「あなたはあいかわらず真面目ねえ。そんなの、ほっといたって月見がなんとかするわよ」

 

 あまりに当然のように言うので、反ってどうでもよさそうに聞こえた。一応問うてみる、

 

「……根拠は?」

 

 幽香はやはり平然と、

 

「友達を信じるのは当然のことよ」

 

 風見幽香は大変な友達想いである。そして、彼女が心の底から友と認めたのは月見だけであり――いや、そういえば最近、魂魄妖夢が記念すべき友達第二号に名誉認定されたのだったか。ともかく風見幽香の中で友達という概念は半ば神格化されているので、「友達を信じるのは当然」という妖怪らしからぬ発言も平然と飛び出してくるのだ。

 むう、と藍は腕組みをした。ここまではっきり言い返されてしまうと、なんだか自分の方が月見を信用していないみたいで負けた気分になってくる。いやいや、もちろん、当然、信じてはいるのだ。その点は幽香にだって負けるつもりは毛頭ない。しかし今の藍は紫に幻想郷を任されている立場なので、あまり希望的観測で物事を判断するわけにはいかないのである。

 でも、いやしかし、いやいやいや。

 

「……また難しいこと考えてる」

「……むう」

「そういうときはガーデニングに限るわよっ。植物たちと触れ合えば自ずと答えは見えてくるって、相場が決まってるの!」

 

 藍は苦笑した。こいつは毎日が幸せそうだなあ、と思った。幽香ほど単純に、かつ純粋に物事を考えられれば世界も優しかろうが、これが藍の性分なので仕方がない。

 

「いや、悪いけど遠慮する。とりあえず、月見様のところに式神を飛ばしてみるとするよ」

 

 勝手ながら、屋敷にある月見の私物をひとつ拝借する。畳に尻尾の毛が落ちていればそれでもよい。人が身につけていた物を使って、式神に持ち主の居場所まで縁を辿らせる術――式神を操る藍には造作もないことだ。

 幽香が呆れた素振りで肩を竦めた。

 

「あなたって、ほんと真面目」

 

 性分なもので。

 それはそうと、幽香が藍との会話に気を取られている隙に、にとりたちがそろそろと忍び足で逃げ出そうとしているのだが、

 

「――さて、あなたたち?」

 

 幽香が稲妻のように振り向いた。にとりたちが「ぴえ」と変な声をあげて固まった。幽香は、どさくさに紛れて逃げ出そうとしていた彼女らをまるで歯牙にも掛けず、

 

「少し話が逸れちゃったけど、お庭の大切さはこれでわかってくれたわよね? だから、ありがたい話はひとまずおしまい」

 

 にとりたちがぱああっと救われたように明るくなり、

 

「――というわけで次は実践よ。遊ぶ前より綺麗にさせるから、覚悟しなさい」

「「「……ひっく」」」

 

 上げてから叩き落とす。さすがフラワーマスター、植物のことになるとまるで容赦がない。

 にとりたちが救いを求めてこちらを見つめてきたが、こればっかりは藍にだってどうしようもない。というか藍も内心では、ぐちゃぐちゃになった庭があまりにひどいので、できればどうにかしてほしいと思っていたりする。元凶の妖精たちはさておき、にとりと響子にとっては不幸以外の何物でもないが、その分だけあとで月見が労ってくれるであろう。

 なので藍は笑顔で、

 

「頼んだよ、みんな」

 

 途端に噴出したブーイングの嵐を聞き流して、藍はさっさと屋敷の中に退散した。いつまでもあそこにいては、そのうち自分まで巻き込まれるんじゃないかと怖くて怖くて仕方がない。紫の屋敷の家事全般を任される者として、ある程度の庭仕事には覚えがあるものの、それでもフラワーマスターの一方的すぎる情熱についていけるほどではないのだ。

 さて、式神に埋め込んで月見までの縁を辿るなら、やはり髪か尻尾あたりの毛が一番使いやすい。茶の間を探せば一本くらいは見つかるだろうか――いや待て、例えば茶の間に銀色の毛が落ちていたとして、それが月見のものだとは必ずしも断言できない。この屋敷に立ち入る銀髪の何者かといえば、なにも主人の月見だけとは限らないからだ。

 まずは十六夜咲夜、彼女は藍と並んで最も水月苑の家事を手伝っている少女だから、畳の上に髪の毛の一本が落ちていたところでなにもおかしくはない。次に魂魄妖夢、彼女もしばしば水月苑の庭を手入れしに訪れている。更には藤原妹紅だって、時折ふらりとやってきては月見の傍をごろごろして帰っていく。輝夜のお供でやってきた永琳、水月苑に遊びに来た操を監視するためについてきた椛、という可能性だって否定はできない。もしかしたら森近霖之助だって、時には自分の方から友人の家を訪ねたりするのかもしれない。ああそういえば、レミリア・スカーレットの髪も、多少青みがかってはいるが銀髪と呼べる範囲ではないか。

 茶の間ではダメだ。もっと確実に、月見の髪の毛を入手できる場所でなければ。銀色の毛が落ちていれば、間違いなく月見のものだと一発で確定できるところ――そう例えば、日頃から月見以外はまず立ち入らないであろう場所が理想的であり、

 

「……!」

 

 そのとき、八雲藍に電流が走る。

 

「――月見様の、寝室」

 

 より具体的には、月見の寝室の布団。

 あそこなら月見以外の毛が落ちているはずもない。というか、落ちていたら八雲藍の総力を挙げて犯人を暴き出し、誰にも邪魔されない二人きりの空間で心ゆくまで尋問させていただく。拒否権はない。

 ――まさかな?

 

「――そうだな、緊急事態だものな。仕方ない仕方ない」

 

 そう、これは仕方のないことなのだ。今は緊急事態のため地底の月見と一度連絡を取り合う必要があり、そのためには月見の髪なり尻尾なりの毛がなくてはならない。そして茶の間に月見の毛が落ちているとは限らないから、確実を期すために月見の寝室、より具体的には彼の布団を僭越ながら拝借せざるを得ないのだ。至って論理的で合理的な結論である。

 女の毛が落ちてたらどうしよう……! なんて、ぜんぜんちっとも考えていない。

 これは、仕方のないことなのだ。

 

「うん。仕方ない、仕方ない」

 

 自分で自分に四回くらい頷いて、八雲藍は静かに出撃する。

 庭の方で幽香が「そんな乱暴に雪掻きしたら下の植物が可哀想でしょ――――ッ!!」と裂帛し、不幸な妖精が一匹、みぎゃーぴちゅーんと弾けて消えた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 戦いを始めてから、何分が経っただろう。

 そう思考で余所見をした瞬間、大蛇に喰われていた。

 

「――ッ!!」

 

 勇儀は脊髄反射で全身から妖気を発し、迫り来る炎の群れを木っ端微塵に吹き飛ばした。邪魔な思考をコンマ一秒ですべて頭の中から蒸発させる。怪鳥の如き形状に燃え盛る炎が、上空から数十の大群を成して殺到してきている。拳の妖力を衝撃波に変えて撃ち出し、一匹残らず粉砕する。立て続けに正面から飛んでくる超速の光弾に対しては、違う、更に足下から二匹目の大蛇、いや待て空からもまた

 

「っ……!」

 

 しかし勇儀が動き出すより一瞬早く、突如周囲に展開された結界がなにもかもを弾き飛ばした。

 ひゅう、と勇儀は口笛をひとつ、

 

「やるねえ! 助かったよ!」

「礼はいいですから、戦うならもっと集中なさい! 私とて、常に援護できるわけではありませんからね!」

 

 灼熱地獄の外縁に近い空から、閻魔様の鋭い叱咤激励が飛んできた。横目で一瞥すると、術の構築を続ける月見を結界で守りながら、四季映姫がこちらに悔悟棒の先端を向けている。薄々感づいてはいたが、どうやら彼女は、ただ悔悟棒を振る動きだけで自由自在に結界を展開してしまえるらしい。

 閻魔の名は伊達ではないということだ。勇儀は呪術や妖術の類に疎いけれど、札も使わず即席で、しかも複数の空間に同時に結界を展開する技術が、決して並大抵のものでないことくらいは簡単にわかった。

 どんなに少なく見積もっても、戦闘を始めてから一分は経過したはずである。

 勇儀としては、そろそろ二分近くだと思っているが――どうあれその一分か二分で、勇儀は月見や藤千代を笑えないほどボロボロの有様になってしまっていた。幸いまだ外傷こそ少ないものの、服はあちこちが焼け落ちてしまって恥ずかしいくらいだ。

 鬼の四天王の名に懸けて断っておくが、決して相手を侮ってこうなったわけではない。事情があったとはいえ、相手は月見すら墜とした神の荒御魂。もちろん、はじめから油断などなく戦闘に臨んでいる。

 油断などなく戦っても押されるほどの相手、ということだ。

 いくらなんでも反則過ぎる――空からは炎の鳥、灼熱地獄からは炎の大蛇、正面からは超速超熱の光弾と、ほぼ三百六十度縦横無尽に襲い掛かってくるのだから。いくら鬼の四天王と呼ばれる大妖怪とて、目は正面に二つしかついてないし、腕と脚は左右に一本ずつしかない。肉体の構造上決して克服できないその制約がある限り、どうやったって捌ける量には限界が生まれる。そして、向こうの攻撃はその限界を上回っている。つまりは、そういう話なのだった。

 ため息が出た。

 

(……はあ、惜しかったなあ。せっかくこんな強いやつが相手なのに、倒しちゃいけないだなんて)

 

 無論、こうして月見の命を預かって神の荒御魂と相対できることを、勇儀は生涯最高の誉れだと思っている。しかしやはり、戦好きの性と言わなければならないのか、湧き上がってくる『こいつを倒したい』という欲は片時も抑えることができなかった。そして、それが叶わないとわかっているからこそのため息だった。

 勇儀が好きな言葉のひとつに、『やられる前にやる』というものがある。とりわけ拳と拳のケンカにおいて、勇儀はこの言葉のような存在で在りたいと常々思っている。たとえ相手が神だろうが、どんなに強かろうが、やられる前にやってしまえば等しく塵芥の如し。憧れる。めちゃくちゃ恰好いいと思う。――ただし相手が藤千代の場合を除く。

 鬼という種族の戦闘スタイルは、大雑把にいえば二つの系統に大別される。ひとつは藤千代のように、とにかく己の肉体ひとつで相手をねじ伏せることに特化し、呪術や妖術は総じて苦手とするタイプ。もうひとつが萃香のように、己の腕っ節に重きを置くのは同じながらも、同時に妖術をも駆使してみせるタイプ。

 勇儀の戦闘スタイルは圧倒的に前者だ。そして前者のタイプは、この手の遠距離から火力で圧倒してくる輩と相性が悪い。相性が悪いからこそ余計に、『やられる前にやりたい』という欲を抑えられなくなってしまう。

 本来なら、こういう相手の足止めは萃香みたいなやつの方が向いているのだ。

 正真正銘、全力の戦いでこの神を打ち倒せたなら、一体どれほど愉しいだろうか――。

 

「……我慢しなよ、私。月見と約束しただろ」

 

 勇儀は、武者震いが止まらない右腕を左手で押さえる。己の心を律し切れず、本能に負け、友との約束を反故にしたなど鬼の名が泣く。

 

「……でも、ま」

 

 勇儀は、笑う。

 

「足止めっていっても、受け身になってちゃ面白くないしね」

 

 月見も、存分に戦って足止めしろと言っていた。ならばやはり、その通りにしなければ損というもの。

 

「――最後まで楽しませてもらうよ、八咫烏ッ!!」

 

 映姫の結界が消えるのと同時に、勇儀は翔る。足止めという目的を果たす範囲で、しかし、存分にこの戦いを楽しむために。

 ――月見の術が完成するまで、あと一分弱。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「天子さんっ! 天子さん、もうやめてください!?」

「絶ッ対やだ!!」

 

 天子のか細い腕に、次々と裂傷が走っていく。ひとつひとつの傷は極めて小さいけれど、指の先から肩に至るまでを埋め尽くし、天子の両腕を赤く染め上げていく。なのに天子はさとりの言葉にまったく耳を傾けず、能力の使用を片時たりともやめようとしない。

 お燐は、それを傍らからただ見ているだけしかできない。お燐には理解できなかった。後悔したくないから、未来の自分に誇れないから――実にわかりやすくて最もな理由だと思う。でもだからって、どうして天子は、月見は、こんなにも死力を尽くして立ち向かえるのだろう。災害と呼ぶに相応しい神の暴走を前に、どうして折れてしまわないのだろう。諦めたときにやってくる後悔よりも、いま全身を襲っている痛みの方が辛くはないのか。苦しくはないのか。

 どうして、そんなにも。

 さとりも、同じ疑問を抱いていた。

 

「おかしいですよ……!? だって天子さんは、なにもしてない! ううん、大事な人を傷つけられた、被害者じゃないですか! なのにどうして、そんなにも自分を犠牲にできるんですか……!? そこまでしないと、一体なにに後悔するっていうんですか!?」

「っ……」

 

 天子は歯を食いしばって肌を裂かれる痛みに耐え、地底の崩壊を抑え続ける。結界で、飛んでくる火の粉を防ぎ続ける。玉の汗が浮かんでいる。傷は次から次へと天子の肌を侵食し、両腕をいよいよ血まみれ同然に染め上げていく。

 そのとき天子が、表情を変えた。

 笑っていた。

 

「私……私、ね。私も前に、力の使い方を間違って、人を傷つけたの。その人の、大切なものを奪っちゃったの」

「――、」

「自分はとんでもない間違いをしたんだって気づくんだけど、どんどん取り返しのつかないことになっちゃって……自分一人じゃどうしようもなくて」

「……それ、って」

 

 こいしが、静かに息を呑んだ。その理由は、お燐にもさとりにも簡単に見当がついた。

 

「でも、助けてくれた人がいた」

 

 天子は、続ける。

 

「バカな私のために、どうしてそこまでしてくれるのって思っちゃうくらい、力になってくれた人がいたの」

 

 月見を、見ている。

 

「そのお陰で、私、やり直せて。今、とっても幸せで」

 

 両腕の傷がまるで嘘みたいに、脂汗がにじむ顔でも、照れくさそうにはにかんでいる。

 

「だから、なのかな。あなたたちのこと、ぜんぜん、他人事に思えなくて。きっと、今度は自分の番なんだって思うの。一度間違えたこの力で、今度は、奪うんじゃなくて……なにかをつなごうって」

 

 汗だらけなのに。

 傷だらけなのに。

 

「……えっと、つまり、要するに、なんていうのかな」

 

 それでも。

 それでも、

 

「――大丈夫。あなたたちも、絶対にやり直せるから」

 

 そう言って微笑む天子を、お燐は切なくなるほどに綺麗だと思った。霊夢を傷つけられて。魔理沙を傷つけられて。月見を傷つけられて。お燐たちを恨む権利だって彼女にはあったはずなのに、それでも天子は笑いかけてくれる。お燐たちの、力になろうとしてくれている。

 だからこそ、思い知らされる。天子ですら、傷だらけになってまでお燐たちのために動いてくれているのに。

 どうして自分は、なにもしていないのだろう。どうして怪我のひとつもない体で、地べたに座り込んで見ているだけなのだろう。

 本来なら、逆じゃないのか。おくうを助けようと死力を尽くしているのはお燐たちの方で、それを天子から止められているべきではないのか。なのに、そこまでわかっているのに、自分がなにをするべきなのか、自分になにができるのか、お燐の頭はまるで答えを出してくれない。

 

「……バカだよ、おねーさん」

「あはは……月見の変なトコロが伝染(うつ)っちゃったかなあ……」

 

 ――どうしてあたいは、家族一人のためにバカになることすらできないのだろう。

 今なら少しだけ、力に憧れたこいしの気持ちが理解できるような気がした。

 

「えっと……そういうわけなので、好き勝手やらせてください。あとで、いっぱい叱られるから」

「……」

 

 お燐も、さとりも、こいしも、なにも言えない。圧倒されていた。静かな言葉でも、微笑んでいても、天子の姿は強かった。迷いがなくて、まっすぐだった。

 お燐は、人知れず唇を噛み締めた――本当にこのままでいいのだろうか。まっさきに月見を頼ったお前がなにを今更、と言われるかもしれない。けれど月見を抜きにしても、天子に勇儀に映姫――今おくうを助けてくれようとしているのは、みんなおくうと関わりのなかった他人ばかりで。

 なのに昔からずっと友達の、家族同然の自分がなにもしないなんて、それでお燐は、未来の自分に自分を誇れるのだろうか。

 天子はすでに笑みを消し、能力の制御に戻っている。

 

「――ここは、私と藤千代が守る。だからあなたたちは、月見を見ていてあげて。信じてあげて」

 

 見ているだけで。信じているだけで、本当にいいのか。

 

「っ……」

 

 お燐は。

 お燐は――。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――ありがとう、映姫」

 

 月見が思わずこぼした一言に、目の前の映姫の背がぴくりと震えた。彼女は振り向かぬまま、

 

「……な、なんですか、急に」

「いや。閻魔様のありがたさを、身を以て痛感していたところだ」

 

 まさに、映姫様々というべきなのだろう。月見が術を構築する間、幾度炎が襲い掛かってきても、何度流れ弾が飛んできても、映姫の結界はただの一度も歪むことなく月見を守り続けてくれていた。肌で感じる、この淡い光の中にいる限り自分は絶対に安全なのだと。ひょっとすると映姫は、その気になれば藤千代の攻撃すら何食わぬ顔で防ぎきってしまうのかもしれない。

 映姫が、ぱっと振り向いた。

 

「な、なるほど。ようやくそこに思い至ったのですね」

「ああ、まったく身に沁みたよ」

「そ、そうですか、そうですかっ……」

 

 映姫がふにゃっとだらしない笑顔になる。あいかわらずチョロい閻魔様だが、そんな中でも結界は強固に展開されたままで、逆巻く炎の嵐をまったく寄せつけないのだから末恐ろしい。あんなに小さな地蔵だった少女が、本当に立派に成長したものだと思う。

 映姫はむくむくと湧き上がる達成感を隠し切れない声音で、

 

「わ、わかればよいのです。では、私を子ども扱いするのも金輪際やめにしてくださいよ」

「というか、最近はもうしてないはずだぞ」

 

 性格はいかんせんチョロくて面倒くさいが、掃除は上手だし料理は美味しいしで、小さかった頃とは違うのだととっくの昔に認めている。

 しかし映姫はなにが気に喰わないのやら、

 

「黙りなさい! 私が黒と言えば黒なのですっ!」

 

 と怒鳴るなり吐息して、悔悟棒で口元を隠しながらぽそぽそと、

 

「……しかし、なんでしょう。こんなにあっさり上手く行ってしまうと、それはそれでなんだか……」

「映姫?」

「げふんげふん!?」

 

 盛大な咳払い、

 

「と、ともかくっ! そうやって無駄口を叩くということは、準備は整ったのでしょうね!?」

 

 月見は笑みを返した。

 

「ああ、もちろんだとも」

 

 緋想の剣を、今一度強く握り直す。本来であれば鮮やかな緋色の刀身が、今はがらりと様変わりし、刀身はもちろん柄まで曇りない白銀の剣と化している。術の構築は終わった。あとはこの剣に宿った宇迦之御魂神の力を借りて、八咫烏の怒りを鎮めるだけだ。

 言葉にするのは簡単だが、間違いなく最大の正念場となろう。

 

「体の具合は?」

 

 いいわけがない。怪我に強い妖怪の体とて、痛みは感じる。体の半分近くを焼かれて平気なやつなどいない。ふと気を緩めれば、その瞬間に意識が吹っ飛んでしまいそうだ。

 だがそれでも、決して倒れるわけにはいかない。少なくとも、すべてが終わるまでは。

 

「ぜんぶ終わったらぶっ倒れるかもしれないから、悪いけどよろしく頼むよ」

「……まあ、いいでしょう。そのあとの面倒は私が見ますから、終わらせてきなさい。それが、今のあなたに積める善行です」

「……ああ」

 

 ――だからもってくれよ、私の体。

 これは、月見が自分自身につけるけじめだ。たとえ自己満足でも、独りよがりでも。この異変の根本的な引鉄となってしまった元凶として、それすらもできぬ体たらくでは自分で自分を許せない。

 はっきり言って、月見は怒っているのだ。不甲斐なかった自分自身に。もしも目の前に自分がいるのなら、間違いなく全力で殴り飛ばしているだろうほどに。

 だからおくうは、なにがなんでも助け出す。

 

「――……」

 

 まぶたを下ろし、月見は深く息を吸った。妖力の開放量を少しずつ上げていく。途端に全身が悲鳴を上げるが、知ったこっちゃない。なおも開放を続ける。十一尾を形作る銀の炎が、結界の内部を埋め尽くすほどまで燃え上がっていく。

 全力にはほど遠い。月見の体は、もう到底全力を出せるような状態ではない。されども全開の半分にしか満たない力を極限まで圧縮し、研ぎ澄ませ、月見は自身を一振りの刃と成す。

 神の荒御魂を切り裂く、一振りに。

 

「……私が合図をしたら、結界を解いてくれ」

「わかっています」

 

 燦然たる銀の炎をまとい、曇りない白銀の剣を携えて。

 月見は、吼えた。

 

「――――勇儀ッ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 月見に、名を呼ばれた。

 その瞬間勇儀は、ずっと戦っていたい願望と、この神を自分こそが倒したい欲望を、すべて咆吼ひとつで封殺した。

 

「――応ッ!!」

 

 約束を果たすときが来た。

 最高のタイミングだった。服の半分近くが焼かれ、肌に火傷の痕も目立ち始めていた。これ以上事が長引けば、八咫烏だけではなく、暴れ出す寸前の己の本能とすら戦わねばならなくなっていたであろう頃合い。崖下へ吸い込まれそうになる、ほんの一歩手前。

 だからこそこの刹那に、ありったけの全力を注ぎ込める。

 

「――あア゛ッ!!」

 

 その場で振り下ろした拳とともに、勇儀は妖力の枷をすべて解き放った。桁外れの物量で放出された力は、風をまとい色をまとい、可視の波動となって豪火の舞う空を切り裂いていく。

 勇儀の眼の色と同じ、赤い妖力の奔流。地上のさとりたちからすれば、恐らくは勇儀もまた、赤く燃え盛る炎をまとったように見えたであろう。

 どこまでも厚く。

 どこまでも強固に。

 炎が如き、赤い妖気の鎧。

 

「……名残惜しいけど、これで終わりだってさ」

 

 笑む。

 

「観念した方がいいよ。こういうときの月見って、とんでもなく諦めが悪くてしつこいからね」

 

 そのときにはすでに、勇儀の視界は血のような炎一色で埋め尽くされている。灼熱地獄の暴走はいよいよもって極限状態に達し、空を飛び狂う炎の怪鳥が、地を蠢き回る炎の大蛇が、めちゃくちゃに寄り集まって呆れ返るほど巨大な顎門の形を作り上げていく。勇儀はもちろん、遠い背後の月見と映姫はおろか、地上のさとりたちまで呑み込んだって、この魔物にとっては腹の一分目にも届くまい。間近でまざまざと見せつけられる分だけ、月見の銀火に勝るとも劣らない、本能を揺さぶられる強烈な畏れを感じた。

 右腕一本で薙ぎ払った。

 

「  !」

 

 散り散りになって砕けた炎の向こう側に、瞠目する八咫烏の姿が見えた。

 勇儀は、笑みを深めた。

 

「なに驚いてんのさ。力でぜんぶ捻じ伏せるのは、鬼の専売特許だろ」

 

 見た目自体は圧倒的だが、所詮はそのへんで燃えている炎を寄せ集めただけの張り子の虎だ。

 無論、単なる強がりと見る意見もあるだろう。勇儀の一振りは確かに炎の八割近くを薙ぎ払ったが、言ってしまえばただそれだけ。火種を絶たれぬ限り、風に吹かれようが水を巻かれようが、何度でも再生してみせる不死性こそが炎の魔力。灼熱地獄という無限の火種から力を吸収し、炎の魔物は瞬く間に再生を始める。

 その『瞬く間』さえあれば、今の勇儀には充分。

 再生する炎の隙間を翔け抜け、八咫烏を目と鼻の先に捉えている。

 

「 ――  !」

 

 八咫烏が目覚ましい速度で光弾の群れを展開し、それを盾にして背後へ跳躍する。

 

「どこに行こうってのさ――」

 

 遅すぎてあくびが出る。光弾が掃射されたとき、そこにもう勇儀の姿はない。

 

「――鬼ごっこで、鬼に勝つつもりかい?」

 

 八咫烏の、背後。

 ――八咫烏をどうやって月見の前に引きずり出すか、いろいろと方法を考えてはいた。八咫烏は周囲に灼熱の結界を展開し、おまけに体から無尽蔵の炎まで噴いているという有様で、迂闊に触れば勇儀とて只では済まない。かといって妖術の扱いには自信がないし、その場凌ぎ程度の術が八咫烏ほどの神に通用するとも思えない。

 どうしよう。

 悩む勇儀は八咫烏と戦うさなかでうんうんと考え、やがて途轍もない名案を閃いていた。

 

 迂闊に触るのが駄目なら、ちゃんと準備をしてから触ればいいのだ。

 

 そのための、妖気の鎧だ。拳骨一発で灼熱の結界をブチ抜き、八咫烏の手首を掴み取った。

 

「ッ !?」

 

 だが、もちろん、妖気を盾にし体を頑強にした程度で、神が生み出す炎を完全に防げる道理はない。右腕にすぐさま熱い痛みが走る。このまま月見のところまで引きずっていこうとすれば、勇儀の右腕は途中で焼け爛れて使い物にならなくなるだろう。

 だから勇儀は、

 左手で結界をこじ開け、

 腕のみならず全身で内部に突っ込んで、

 八咫烏の体を肩に背負い、月見めがけて一直線に、

 

「そぉ――――――――いっ!!」

 

 ぶん投げた。

 唯一藤千代を除けば、鬼の中でも随一の馬鹿力を持つ勇儀である。八咫烏の体は面白い勢いで吹っ飛び、結果として無事灼熱の結界から脱出した勇儀は、ふいーと息を吐きながら火傷寸前の腕を払った。

 方向、角度、ともに申し分ない。ならばあとは、月見はなんとかしてくれるであろう。

 妖気の鎧を解く。時間にしてみれば、恐らく三分そこら。やや戦い足りない感は残るものの、しかし、それでも、

 

「あー、」

 

 やりきった勇儀は額の汗を拭い、近年稀に覚える充実感に満たされながら、

 

「――ゴリ押し、ちょう楽しい」

 

 そのとき真下から火柱が、

 

「あっヤバこのあとのこと考えてなかったっ! あばばばばば!?」

 

 灼熱地獄の真っ只中、一層激しく襲いかかってくる炎の渦から、わたわた慌てて逃げ惑う鬼がいたが。

 悲しいかな、誰も気づいていなかったらしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 月見は喉で低く笑った。勇儀のことだからどうせ強引な手段を取るだろうと思ってはいたが、まさか炎の中に突っ込んで直接投げ飛ばしてくるなんて。

 慣性に踊らされる八咫烏の体が、月見めがけてまっすぐに吹っ飛んでくる。身の丈以上に巨大化した双翼が仇となって、完全に制御を失っている。

 充分だ。

 

「……映姫ッ!!」

「言われなくても!」

 

 映姫が悔悟棒を一振りし、結界を解く。遮断されていた灼熱地獄の熱気が、真下から暴風と化して突き上がってくる。しかし月見の精神は、それを単なるそよ風としか感じないまでに研ぎ澄まされている。

 狙うは、おくうの胸元で炯々と輝く赤い瞳。あれが八咫烏の御魂の核であり、底のない力と熱の無限機関。剣を媒介にし、あの瞳へ直接術式を打ち込み、同時に宇迦之御魂神の御魂を送り込んで、八咫烏を封印する。

 映姫が後方へ距離を取り、自身の周囲に再度結界を展開する。月見は静かに、剣を刺突の型で構える。刻一刻と迫ってくる八咫烏を、ただその場で待ち続ける。

 そのとき八咫烏が苦し紛れに体勢を整え、赤と黒の瞳で月見を捉えた。

 

「――――――――!!」

 

 その言葉なき咆吼には、果たしてどのような意味が込められていたのだろう。真実を知る術などないけれど、月見はその叫びの裏に、かすかなおくうの声を聞いたような気がした。

 

 お前なんか。

 お前なんか!!

 

 八咫烏のまとう緋色の結界が数段深みを増し、爆ぜたかの如き勢いで豪炎を噴き上げる。結界の正面に、際限なく湧き上がる力と熱がすべて集約されていく。勇儀に投げ飛ばされた勢いを逆手に取り、空を切り裂く紅蓮の流星となって、今度こそ月見を焼き尽くそうとしている。

 月見は、逃げない。逃げるだけの力なんてとっくに残されていない。今の月見に絞り出せる力はすべて、この剣に乗せたのだから。

 背後から、誰かがなにかを叫んだ声が聞こえた。さとりだったような気がするし、こいしだったとも感じられたし、或いはお燐か天子だったのかもしれない。単なる悲鳴だったのかもしれないし、名前を呼ばれたのかもしれないし、月見に祈る言葉だったのかもしれない。

 

 ――それを最後に、ほんの束の間、世界から音が消えた。

 

 銀と赤が、激突した。世界に再び音が戻ったとき、月見は銀と赤が狂い飛ぶ炎の嵐の中にいた。

 赤の向こうに、八咫烏の姿が見える。咆吼している。太陽の化身。次から次へと瀑布のように無限のエネルギーを放出し、すべてを力に変え、炎に変え、途方もなく膨れあがって銀を根こそぎ呑み込もうとしている。

 そう。

 

 月見が己のすべてを乗せた剣は、結界に阻まれて実に呆気なく止まっていた。

 

「……!!」

 

 噛み締めた歯が、砕けたかと思った。

 無論、全力でなかったからと言ってしまえばそれまでだ。『すべて』を乗せたといってもそれは所詮、体中に怪我を負い、立っているのもやっとな今の状態での『すべて』であり、百パーセント完全な『すべて』に比べれば遥か遠く及ばない。普通に考えれば、文字通り無限の力を持つ八咫烏の荒御魂相手に勝ち目などない。頭ではわかっていた。だから今できる己のすべてを賭して、ほんの一時だけ相手を上回り、ほんの刹那だけの時間で封印を施すつもりだった。

 甘かった。

 まさか今の自分が、こんな結界ひとつ破ることすらできないほど限界だったとは、思ってもいなかったのだ。

 

「ぐっ……!!」

 

 月見がいくら力を振り絞っても、止められた切っ先はまるで先に進んでくれない。それどころか、膨れあがる結界に押し返されて後退していく。刃だけではない。月見の体をまとう銀の炎までもが押し負け、赤の火の粉が頬に、脚に新たな痕を刻み込んでいく。

 

「――……」

 

 月見は瞑目し、敢えてゆっくりと深く、息を吐いた。

 考え得る限り最悪の展開だが、まだ終わりではない。徐々に押し返されてはいるものの、この結界さえ超えれば届くのは事実なのだ。終わらせない。終わっていいはずがない。月見の世界から八咫烏以外の万象一切が消失し、音が途絶え、全身を這いずり回っていた痛みが消し飛ぶ。脳のありとあらゆるリソースを、この刹那のためだけに根こそぎ掻き集める。銀の炎が、赤の炎を押し返す。怪我なんて知ったこっちゃない。『限界』なんてなんの役にも立たないものは、灼熱地獄の底に捨ててしまえばいい。命を燃やせ。燃やし尽くせ。この体を刃と成し、炎と成し、月見は限界を超え、八咫烏を超え、

 そして、

 

「――――――――は、」

 

 なにが起こったのか、わからなかった。

 

 

 両手から剣がすっぽ抜け、天高くへ弾け飛んでいた。

 

 

 そこでようやく、月見は気づいた。

 ――指先の感覚が、ない。

 畢竟、もはや精神論でねじ伏せられる次元ではなかったのだ。本来であれば旧都に運ばれる途中で覚醒し、ここまで戻ってきたことからして奇跡だった。にもかかわらず限界ギリギリの力を開放して神を降ろし、こうして八咫烏と激突した上、限界を超えて更なる力を搾り出そうとした。月見は、あまりに短時間の中で、あまりに己の体を酷使しすぎた。

 奇跡は、二度続けては起きない。月見の想像を超えて、月見の体は遥かに限界だった。

 目の前の結界ひとつすら破れず。

 ただ剣を握り続けることすら、できなくなるほどに。

 

 それが、現実だった。

 銀が、赤に呑まれていく。

 月見の視界がすべて押し潰される、ほんの刹那。

 こぼれ落ちた己の声が、嫌に鮮明に、耳に残った。

 

「――――――――くそ」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 赤の炎が銀を呑み込み、爆ぜた。

 

「――――――――!!」

 

 さとりの悲鳴は、もはや言葉にならなかった。爆風を受けた月見の体が、地底の大地めがけて一直線に吹き飛んでいく。映姫が何事か叫び、咄嗟に追い縋ったが間に合わない。すべてを置き去りにし、月見の体は血も涙もなく地面を打ち転がるはずだった。

 すでに、藤千代の姿が消えていた。

 

「んっ……!」

 

 一体いつ、天子の結界を突き破って走り出したのか。月見が地面に激突する一歩手前で、両腕を広げて彼の体を受け止めていた。だがさしもの彼女でも間一髪の差だったのか、明らかに体勢が悪く、衝撃を殺し切れなかった藤千代は結果として月見諸共地面を転がった。水切り石のように、何度も何度も。巻き上がった土煙に巻かれ、二人の姿はそれっきり見えなくなってしまった。

 八咫烏が、咆吼する。月見の追撃に出る――のではない。月見にはもう用などないと言うように、まるで見当違いの方向へ目線を転じ、ほとんど真上に向けて飛翔する。

 その先には、弾き飛ばされ未だ宙を舞う月見の剣がある。頭をすり潰すノイズとなって、さとりの脳内に八咫烏の激情が流れ込んでくる。

 あの剣を、破壊しようとしている。

 あれは、自分の存在を脅かす危険なものだから。

 

「あ……あああっ……!!」

 

 最悪、だった。さとりは妖術の類に決して明るくないが、それでもあの剣が、悲劇の行く末を決める最大の鍵であることくらいはわかっている。あの剣には、月見が死力を尽くして搾り出した、文字通りのすべてが乗っているのだ。

 それを破壊されてしまえば、つまり。

 もう、打つ手がなくなる。少なくともおくうを楽にしてあげる方法以外では、もう彼女を助けられなくなるという明確な終わりを意味している。

 最悪の結末が、さとりの喉元に冷たく両手を掛けようとしていた。

 

 ――ところで、さとりの『心を読む程度の能力』は決して万能ではない。

 格の差や言語の違いに囚われず、妖怪だろうが人間だろうが神だろうが、それどころか言葉を持たない小さな動物や植物であろうとも、あらゆる生物の思考をさとりは超感覚的に読み取る。しかし、当然ながら、状況によってはその能力に制限が掛かることもある。

 耳で音を聞く場合、例えば焦燥や恐怖で精神が極限状態にあると、『聞こえているのに聞こえていない』という状況に陥る。そうでなくともなにかひとつの物事に気を取られているだけで、余所の音が聞き取れなくなったり、意識の外に弾き出されてしまったりする。

 それと同じことがさとりの能力でも起こる。心の声を拾う『第三の目』という器官を持っていても、さとり自身が声を聞き分けられる状態になければ意味がない。目の前の現実に恐怖し、八咫烏のノイズで頭の中を埋め尽くされるさとりには、それ以外の声を悠長に聞く余裕など残されてはいなかった。

 すなわち、その刹那に『彼女』がなにを考えていたのか、さとりは遂に気づかないままだったのだ。

 さとりは――いや、なにもさとりだけに限った話ではなく、こいしも、天子も、とっくに周りなんて見えなくなってしまっていた。

 

 自分たちの傍らから消えたのが、藤千代だけではなかったのだと。

 

 八咫烏が伸ばした手よりほんの一瞬だけ早く、横から剣を掠め取っていったその影を見て、はじめて思い知らされたのだ。

 

「な、」

 

 ようやく、声が出せた。

 

「――お燐ッ!?」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 お燐に、難しいことなんてなにひとつもわからない。さとりたちのペットとなってからある程度の一般常識こそ学んだが、灼熱地獄育ち故に学らしい学などないに等しく、実はおくうを笑えないくらいのバカなのだ。今回の異変でも自分の行動がことごとく裏目に出てしまって、月見たちに申し訳ないほどの迷惑を掛けた。だから、自分もなにか力になりたいと願いつつも、なにもしない方が反って足手まといにならずに済むのではないかと思っていた。

 でも。

 でも、どうしようもないほどバカなお燐にだって、これだけははっきりとわかった。

 月見のピンチだ。

 月見のことは、きっとみんなが助けてくれる。けれどそれだけではダメで、恐らくはあの剣も、絶対に奪われてはならない重要な物のはずだ。月見とあの剣、どちらが欠けたっておくうは助けられないはずなのだ。

 だから、お燐は翔けた。周囲の景色をすべて置き去りにする全力で。自分がどのように翔けたのか、記憶に残らず消えてしまうほど無我夢中で。八咫烏の背に追い縋り、並び、追い越して、わずかな腕一本分の差で落ちてきた剣を掠め取った。

 だが、お燐はそこで止まらずなおも翔け続ける。自分のすぐ後ろで、途轍もなく巨大な神の気配がとぐろを巻いている。月見が飛ばされた方向へ自分も向かえばよかったのに、怖くて頭がそこまで働かなくて、方向転換もできぬままがむしゃらに距離を取っていた。

 八咫烏は、追ってこなかった。

 お燐は、振り返った。

 目が合った。

 

「っ……」

 

 八咫烏が、その場に留まってじぃっとお燐を見つめている。こうして正面から対峙したからこそ、おくうの体がどれほど変わってしまっているのかがまざまざと見て取れた。

 瞳は深い赤と黒の色で沈み、そこに光は一切映っていない。胸元の赤目から木の根が如く這う紋様はいよいよ全身に及び、足は靴を突き破って鳥の鉤爪に変容している。翼は今や倍以上にまで膨れあがり、両腕からはかすかながら黒い羽根が生え始めている。

 人から、獣の姿に戻りかけている。けれどそうして完全な獣へと戻ったとき、そこにおくうという少女はもういないのだろう。

 この剣を一刻も早く月見へ届けなければならないのに、お燐の脚は縫いつけられたように動かない。

 怖い。

 確かめるまでもなく感じる、あれはお燐如きが立ち向かっていい存在ではないのだと。向こうがちょっとその気になれば、お燐なんてただ蹂躙されるだけの矮小な一生命でしかないのだと。

 八咫烏が、低く唸る。大翼を打ち鳴らし、お燐めがけて一直線に飛び込んでくる。お燐の全身から生気が抜け落ちる。

 本当に、怖かった。

 だからこそ一方で、いろいろなものに腹が立った。

 この期に及んでもまだおくうを救ってくれない、森羅万象を司る神とやら。神様なのにおくうを苦しめる、八咫烏の荒御魂。おくうがこんなになってしまうまでなにもできなかった、自分自身。

 そして、なにより。

 寂しかったのに、その気持ちを一言も打ち明けてくれなかったおくうに、はらわたが千切れるほどの悔しさを感じた。

 お燐たちは、家族なのに。寂しいと言ってくれれば、お燐だって、さとりだってこいしだって一緒にいてあげることができたはずなのに。

 なのにおくうはなにも言ってくれず、敢えて危険な力に手を出して、お燐たちの気を引くような真似をして。

 そして、誰も自分を見てくれないと勝手に思い詰め、勝手に暴走した。

 『寂しい』。そのたった一言すら怖くて伝えられなくなるほどに、自分たちはおくうに信じられていなかったのかと――そう思うと、悔しくて悔しくて、お燐の体は張り裂けてしまいそうだった。

 歯が、軋んだ。もう、これ以上は我慢ならなかった。

 息を吸い、突っ込んでくる八咫烏に――いや、おくうに。

 お燐は、叫んだ。

 

 

「――いい加減にしてよッ、おくうのバカああああああああああぁぁぁぁぁッ!!」

 

 

 信じられないことが起こった。

 八咫烏の動きが、ピタリと止まった。お燐に激突する、ほんの二メートルも手前で。

 まるで言い足りない。

 

「おくうのバカッ、分からず屋!! なんなのさッ、一人で勝手に思い詰めて! 一人で勝手に暴走して!!」

 

 叫び出したら、もう止まらなかった。

 

「ねえ、おくう言ってたよね、あたいたちがみんな月見の味方なんだって。それって、あたいたちがおくうの味方じゃないって言ってるの? ……どうしてそんなこと言うの!?」

 

 この言葉がおくうに届いている保証なんて、どこにもありはしないのに。

 

「あたいたちが、どれだけおくうのこと心配したと思ってるの!? おくうを止めに来た? そうだよ止めに来たよ、だってこんなことする必要なんてないでしょ!? あたいたち友達でしょ、家族でしょ、月見の味方だからじゃない、家族だからおくうを止めに来たんだよッ!!」

 

 けれどお燐は、叫ばずにはおれない。吐き出さずにはおれない。

 

そんなに(・・・・)寂しかったなら、言ってよ!! あたいたちのことが信じられなかったのなら、怒ってよ!! そうしないと伝わらないんだよ、自分で伝えないとダメなんだよ!? さとり様が心を読む力を持ってたって、やっぱり最後は、言葉にしないとダメなんだよ……!!」

 

 喉が、震えてきた。

 これは、自分自身への戒めでもある。だって、自分の気持ちを言葉にできなかったのはお燐も同じなのだから。言葉にする勇気がなかったから、こいしとおくうを止められなかった。さとりに相談もできなかった。回りくどい方法で月見に助けを求めようとして、結果としてここまで取り返しのつかない悲劇が引き起こされてしまった。

 

「だ、だから、あたいははっきり言うよ」

 

 これで終わりだ。たとえ、目の前が涙でにじんでいても。声が情けないほど震えていても。

 

「帰ろうよ、おくう……!!」

 

 お燐は。

 もう、逃げない。

 

「一緒に、地霊殿に帰ろう……!? さとり様も、こいし様も! みんな待ってるよ、おくうっ……!!」

 

 言い切った。喉の奥から涙のようにあふれ出てきていた、最後の一言の終わりまで。

 おくうの体が、揺れた。それ以上の、目で見てわかる変化があったわけではない。

 けれどおくうの瞳に、ほんのかすかな光が戻ったような気がした。

 唇が、動いた。

 

「―― ……お、  り」

「……!!」

 

 おくうの、声。

 

「おくう!? おくうなの!?」

「   、 」

 

 なにかを言っている。居ても立ってもいられなくて、お燐はおくうのすぐ目の前まで駆け寄った。

 気づかなかったのだ。

 

「、 ――て」

 

 おくうの体から、赤い光の粒子が再び散り始めていたのだと。

 おくうの奥底で、動きを止めていた荒御魂が再び蠢き出していたのだと。

 だからおくうは、こう言ったのだ。

 

「にげ、て」

「――、」

 

 今更気づいたところで、手遅れだった。

 おくうの全身から炎があふれ、お燐を、

 

 

「――つかまえた」

 

 

 されどお燐の視界を埋め尽くしたのは、すべてを見境なく焼き尽くす赤ではなく。

 銀。

 

 

 

 

 

 

 

 

 おくうを焼く赤い炎の世界が、目も眩む一色の銀で染まった。

 その途端、あれだけ苦しかったのがまるで嘘だったみたいに、おくうの全身が楽になった。

 

「……え?」

 

 そこはおくうの心の中ともいうべき、天地の区別がない、水の中を漂うかのような世界。八咫烏の荒御魂に侵食され、灼熱地獄以上の業火で焼かれていた世界に、突如として銀の色が満ちて。

 あの狐が、目の前にいた。

 

「……え、」

 

 意味が、わからなかった。

 なんでここに、お前が。

 

「――やっと見つけた」

 

 月見は、言う。

 

「お前を、連れ戻しに来たよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

「いやはや……みっともない恰好ばかりを晒してすまないね、お燐」

 

 お燐の肩に、後ろから静かに手を添える者があった。一体誰かなんて、振り向かなくたって、声を聞けば一発だった。

 

「……おにー、さん」

「ありがとう、剣を取ってくれて。それを奪われてたら終わりだったよ」

 

 銀の炎に包まれている。月見が生み出す妖術の炎。けれどぜんぜん熱くなくて、それどころか朽ち果てそうなお燐の心へ寄り添うように暖かい。

 こんなときでも穏やかな月見の声音は、しかしよく注意すると、誤魔化しきれない疲弊と苦痛でわずかに掠れていた。そう思うと改めて、月見の掌はお燐の肩に添えられているというより、半ばもたれかかっている状態に近いと気づいた。

 月見は低く自嘲する。

 

「あれで終わらせるつもりだったんだけど……指の感覚がまるでなくて、剣がすっぽ抜けてしまってね」

「……!」

 

 肩に掛かる月見の指先が目に入り、お燐は呼吸を失う。――もう、彼の体で傷ついていない場所なんて、ないのではないか。いくら怪我に強い妖怪だからって、こんなのは疾うに常軌を逸していた。彼の体が一体どれほどの苦痛に襲われているのか、お燐にはもはや想像すらつかなかった。

 なぜ彼がお燐に半ばもたれかかっているのか、完全に納得が行った。限界なのだ。もう、一人では立つことすらできないほどに。

 けれど、けれど、

 

「お燐、悪いが力を貸してくれ」

 

 彼は、それでも諦めていない。

 

「空は今、私の妖術で押さえ込んでる。……お前の言葉に、少なからず揺さぶられたようだ。簡単に入り込めたよ」

 

 お燐と同じく銀の炎で包まれるおくうは、心ここにあらずに漫然と翼だけを動かしている。恐らくは月見の幻術で、一時的に心を囚われている状態にあるのだと思う。

 とっくに限界なんて超えているはずなのに、これ以上は命だって削りかねないのに、月見はまだ戦っている。

 

「だがご覧の通り、私はもう剣も握れない有様だ」

 

 だから、お燐は。

 

「お燐。――その剣を、お前に託す」

 

 月見が剣を握れないなら、お燐が握ればいい。

 今この場で、自分が月見の腕になろうと思った。

 自分に一体なにができるのか、ずっとずっと考え続けていた。バカな自分にはその答えなんてわからないけれど、もしも誰かがお燐の力を必要としてくれるなら、それがおくうを助けることにつながるのなら、ただ見ているだけではなく、信じているだけではなく、自分だって、自分だってと願い続けていた。

 これが、その、答えなのだろうか。

 

「私が合図を出したら、その剣を空の胸元――あの赤い瞳めがけて、思いっきり突き立ててほしい」

 

 少し、体が強張った。

 けれど、

 

「大丈夫、心配しなくても剣は寸前で勝手に止まる。むしろ下手に躊躇って、その前に止められてしまう方が不味い」

 

 こんな状況で嘘を言う男ではない。

 頷いた。

 

「……わかった」

「術の制御は私がやるから、とにかく力いっぱい頼むよ。間違いなく、相当抵抗されるはずだからね」

 

 それから月見は、全身から力を抜くように長く静かな息を吐いて、

 

「……ありがとう。助かったよ、お燐」

 

 お燐は、首を振った。

 

「ううん。……こっちこそ、ありがとう。おくうのために、そんなに一生懸命になってくれて」

 

 背後に立つ月見の表情は見えないけれど、彼はそっと微笑んでくれたような気がした。

 ほんの束の間だ。肩に掛かる彼の指先へ、弱々しくも迷いない力が巡り、

 

「――空と話をつけてくる。少し、待っていてくれ」

「……うん」

「お前からも、呼んであげてくれ。あの子のことを」

 

 お燐が見つめる先で、おくうは未だ、翼以外になにも動かさず沈黙を続けている。

 だから、お燐は呼んだ。

 

「おくう……! 聞こえる……!? おくうっ……!」

 

 お燐が世界で誰よりも見慣れた、この女の子の体に。

 再びおくうの心が戻ってくる瞬間を、切に、切に祈りながら。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 灼熱地獄の蠢きが、みるみるうちに治まっていく。

 無論それは、灼熱地獄の完全な沈静化を意味しているわけではない。そこかしこで火柱が雄叫びを上げているのはあいかわらずだし、容赦なく突き上がってくる熱気のせいで、勇儀の肌からは片時も玉の汗が消えない。しかし少なくとも、勇儀らを灼熱地獄へ取り込もうと、大蛇を成して鳥を成して襲い掛かってくることはなくなっていた。

 大地の崩壊も、止まっているようだ。天では、月見の生み出す妖術の炎が燦然と燃えている。煌めき揺れる銀の奥には、月見と八咫烏、そしてお燐の姿がある。その光景を、勇儀は今すぐにでも駆けつけたい気持ちをぐっと耐え忍んで見守っている。

 

「終わった……わけじゃ、まだ、ないよね」

「……そうですね」

 

 傍らの映姫が、険のある面持ちで頷いた。

 

「ですが、恐らくはあともう一歩まで来ています。それにあの狐は今、八咫烏になんらかの術を行使しているようですから……余計なことはせず、信じて待ちましょう」

「……はあ」

 

 勇儀はため息をついた。安堵のため息だった。

 

「もー、さっきはほんとどうなるかと思ったよ。まさか月見が押し負けちゃうなんてなー」

 

 あのときは本当に肝が潰れた。『平静』なんてものは一発で消し飛んだ。映姫が咄嗟に止めてくれていなければ、今頃勇儀は全身全霊で八咫烏を殴り飛ばしてしまっていたはずだ。

 映姫も静かに吐息する。ただしこちらには、安堵ではなく苛立ちの感情が込められている。

 

「……仕方ありません。本来であれば、絶対安静にするべき傷なのです」

「まあ、だよね。あれだけの大火傷じゃあ、さすがにね」

 

 勇儀も体にちらほらと火傷を負ったが、月見の怪我はこんなものとは規模も深さも比べ物にならない。なのに月見は決して倒れず、どんなに傷を負っても不死のように立ち上がり、そして今でも戦い続けている。単なる正義感や同情心では到底成し得ない、今の月見からは、ある種の『執念』とも呼ぶべき泥くさい想いを感じた。

 その想いが、今度こそ届くのか――それとも。

 首を振った。

 

「……ところでさ、閻魔様」

「なんでしょう」

「折れた私の角なんだけど」

 

 映姫がさっと顔を背けた。

 そう――なにを隠そう星熊勇儀、額の角が四分の一ほどポッキリ折れている。爆ぜ飛ばされた月見の姿に平静を失い、流星と化して八咫烏へ肉薄する勇儀を止めるため、ここのエンマサマはあろうことか、勇儀の目の前にいきなり結界の壁を展開してくれやがったのだ。当然勇儀は感動的な勢いで激突し、額からスラリと伸びる自慢の角をポッキリやられる羽目になった。必然、折れた角の先は灼熱地獄に落ちて回収不能である。

 

「まあ、この程度なら三日もあれば治るからいいんだけどさ? でも、ああいうのにはやり方ってもんがあると私は思うわけ」

「うぐっ……し、仕方がなかったのです。あのときは、私も焦っていたものですから……」

「――へえ。やっぱりさすがの閻魔様も、月見のピンチとなれば焦るんだ」

「ばばばっバカなことを言わないでください違います断じて違いますこれは単に不測の事態への動揺という意味であり決してあの狐を心配して慌てたなどということはありません当然じゃないですか私は閻魔なんですからっ!!」

「てかさー、あんたさっきから月見のこと『あの狐』『あの狐』って、まさか名前で呼んでないの? 閻魔様ともあろう方が、そいつはちょいと不公平なんじゃない?」

「ぐ、ぬ、ぬ……! わ、私はまだ、名前で呼ぶほどあの狐を認めたわけではありませんからね!」

 

 そこまで勢いで叫んだ映姫は、急にしおらしくなってぽそぽそと、

 

「ま、まあ……今回の件で、少しは男らしいところもあるのだと見直しましたけど……でも、さすがに名前で呼ぶのは恥ずかし」

「あ、ごめんバッチリ聞こえてる」

「忘れなさあ――――――――いッ!!」

「いったー!?」

 

 映姫に悔悟棒でビシバシぶっ叩かれながら、けれど勇儀は喉を震わせて笑った。閻魔様然り天子然り、月見の周りに集まる少女というのは、やっぱりどいつもこいつも面白い。

 だからこそ勇儀は、今度こそ月見の執念が届いてほしいと切に祈る。この理屈でいけば、古明地さとりを始めとする地霊殿の住人もまた、面白い連中の集まりだと思われるからだ。

 心を読む相手とどう付き合えばいいものなのかよくわからず、今までは特に近づかないでいたけれど。

 この異変を無事に乗り越えれば、案外、いい友達にでもなれそうな気がする。今までまったく関わりのなかった相手でも、たったひとつ、『月見』という要素が加わるだけで仲良くなれると思える。まだ異変はなにも解決していないのに、みんな揃って騒がしく宴会をしている光景が、かつてあったかのようにはっきりと脳裏に思い浮かぶ。

 だから、勇儀は信じる。大丈夫だ。さっきはほんの少し失敗してしまっただけで、今度こそ必ず上手く行く。傷だらけで、血を流して、死力を絞り尽くして、それでも駄目だったなんて結末は、星熊勇儀は絶対に認めない。

 

(もう充分焦らしたろ。だから、今度こそ決めちゃいなよ、月見)

 

 勇儀は、信じる。絶対に疑わない。

 辛い異変だけれど、辛い異変だからこそ。

 脳裏に描かれる宴会の光景が、いつか必ず訪れる、約束された未来の欠片なのだと。

 

 

 

 

 

 

 

「――止めるべきだったと、思いますか?」

 

 帰ってきた藤千代に、天子は言葉を返せなかった。本当に止めるべきだったのかもしれないと考えている自分がいて、どうしたらいいのかわからなくなっていた。

 月見なら、絶対になんとかしてくれる。だから、月見を信じる――その想いが、ここに来て激しく揺らいでいた。

 自分は本当に、月見を信じていたのだろうか。

 自分が信じていたのは、自分の心の中にいる理想像としての月見だったのではないか。かつて自分を助けてくれた、過去の月見の姿だったのではないか。

 月見を信じる。そんな美しい言葉で飾り立てて、自分が理想とする月見を投影していただけではなかったか。傷だらけの月見に、自分の理想を押しつけていたのではなかったか。

 その可能性に気づかされてしまって、天子は己自身に恐怖していた。

 

「私は――止めるべきだったんだと、思ってます」

 

 そう。今の月見は、もはや精神論では覆せない限界の淵まで追い詰められている。月見がすべてを乗せた一撃は、八咫烏の結界の前に呆気なく弾き飛ばされてしまった。月見がすべてを振り絞っても駄目だったのだ、もうどうしようもないではないか。これ以上無理を続ければ、今度こそ取り返しのつかないことになってしまうかもしれない。もう、藤千代でも助けられないかもしれない。その可能性を考えれば、本当に月見を想うのならば、止めるべきだったというのが当然の結論だと言わざるを得なかった。

 

「でも……止めてはいけなかったのだとも、思ってます」

 

 天子は、顔を上げた。

 天子の目の前で膝を折った藤千代が、ボロ布のように焼けた着物の端を破いて、包帯代わりにして天子の腕に巻き始めた。そこでようやく天子は、自分の両腕に走る決して小さくない痛みの濁流を思い出した。

 

「藤千代……」

「……惚れた弱み、ですかね」

 

 藤千代が、かすかにほころんだ。

 彼女には珍しく、打ち負かされたような、白旗を挙げるような、ほんのひとつまみの辛さと苦さを感じる笑みだった。

 

「あんな目をされたら……行かせてあげなきゃなあ、って」

 

 そのとき藤千代の脳裏に描かれた月見が、一体どんな目をしていたのか――天子には、なんとなくわかるような気がした。

 かつて自分が、紫に斬られてしまったとき。月見の腕の中で、悔しいと、涙を流したとき。

 ――こんな世界、私がどうとだって変えてやる。

 きっと、そう言ってくれたあのときと、同じ目をしていたのだろう。

 

「……そっか」

「……ええ」

 

 藤千代の手当はちょっぴり乱暴で、正直に言うとだいぶ痛かったのだけれど、それでも天子は自然と笑っていた。

 藤千代と同じ顔で。でも、混じっている感情は、藤千代よりもひとつだけ多い。

 なぜ月見が、死力を尽くしてまでおくうを助けようとするのか。その疑問を深読みしたって意味がないのはわかっている。たぶん月見は、面識のある相手なら誰だって同じ目をして助けようとする。相手が天子であろうとおくうであろうと、助けられなかったときに後悔するのは同じなのだから。

 わかっている。

 わかっている、けれど。

 月見があんな目をするのは、自分だけであってほしかった。そう思ってしまうのは――きっと藤千代の言う通り、惚れた弱み、というやつなのだろう。

 

「……藤千代、さん」

 

 ずっと言葉を失ったままだったさとりが、ようやく口を開けた。唇がかすかに震えている。こいしの体を、服が皺くちゃになるほど強く抱き寄せている。こいしが苦しそうに身じろぎしても、まるでお構いなしだった。

 名を呼んだだけの言葉なき問いに、藤千代ははっきりと答えた。

 

「泣いても笑っても、次が最後です」

 

 さとりとこいしの体が、揺れた。

 

「ここまで来たら、こっちだって意地ですよ」

 

 空。銀の炎の奥に見える、三人の人影を見上げて。

 

「最後まで、信じ抜いてやりましょう。――月見くんは、負けません。絶対に」

 

 もしも月見が本当に、天子の思い描く通りの目をしていたのなら。

 天子は、信じたい。それがたとえ、自分の心の中にいる理想像であったとしても。理想を押しつけるような行為であったとしても。

 最悪の結果なんて、絶対に嫌だ。さとりたちは、家族のために泣くことができる少女なのだ。だからかつての自分がそうだったように、もう一度やり直すことができればいいと心から思う。今は泣いていても、どうか未来では笑えるようになればいいと切に願う。

 泣いても笑っても、ではない。

 笑うのだ。

 だから天子は、最後まで信じ抜こうと思う。

 

 月見がまた、みんなが心から笑える未来を、手繰り寄せてくれるのだと。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 おくうは、差し伸べられた月見の手を払いのけた。

 言った。

 

「帰って」

 

 紛れもない、本心だった。

 

「帰ってよ。勝手に、人の心に入ってこないで。ほっといてよ」

 

 うんざりした。この期に及んで、まだこいつは私の前に出てくるのかと思った。

 こんなヤツ、嫌いだ。

 もちろん、わかっている、今のおくうに月見を悪く言う権利などない。むしろ礼を言わなければならない。彼は、暴走したおくうの力からこいしを守ってくれた。身を挺して庇ってくれた。目の前の彼は怪我ひとつない綺麗な姿をしているけれど、現実ではもう痛ましいほど傷ついてしまっているのだ。彼がそこまで自分を犠牲にしてくれたお陰で、おくうは主人に大怪我をさせるという最低最悪の過ちを犯さずに済んだ。

 本当に、感謝している。

 けれど今のおくうは、その心すら押し潰されるほどに疲れてしまっていた。

 

「もう、放っておいてっ……」

 

 自分が、なんのために存在しているのかわからなかった。なんのために存在すればいいのかわからなかった。かつて自分の手の中にあった、さとりとこいしの家族としての存在意義は、みんなこの狐に奪われてしまった。今更おくう一人が消えたところで、これからは彼がさとりたちを笑顔にしてくれるだろう。もはやおくうにとっては、「神の力を使ってこいしの願いを叶える」ことだけが、天から与えられたたったひとつの存在意義だったのだ。

 だがそれもとうとう、こいしの口から否定されてしまった。

 おくうには、もうなにも残されていない。神の力に、意味などなかった。力を使いこなせるようになるため、涙を耐え忍んで頑張ったのも。こいしの願いを叶えるために、人を二人、殺めたのも。まったくの無意味だった。

 空っぽだ。

 真っ暗だ。

 もう、どうだっていい。天と地の区別がない世界で、おくうは座り込み、膝を丸めた。そうやってすべてを拒絶した。

 だが、

 

「空、帰るぞ」

 

 月見が、そう繰り返した。当然、おくうは膝に額を押しつけたまま答えない。するとまた、

 

「帰るぞ、立て」

「……うるさい」

「手を出せ。行くぞ」

「ッ――うるさいって、言ってるでしょ!?」

 

 おくうは顔を上げ、目の前にあった彼の掌をもう一度払いのけた。

 叫んだ。

 

「私の言葉、聞いてなかったの!? 帰ってって言」

「ああ、聞いてない」

 

 絶句、

 

「空、どうやら勘違いをされているようだからはっきり言うよ。――お前の意見は聞いてない」

「――、」

「私はお前を説得しに来たんじゃない。引きずってでも連れて帰るために来たんだ」

 

 しばらくの間、なにも言えなかった。しばらくしてからようやくおくうは、痙攣したような乾いた笑みをこぼした。

 

「なに、それ」

 

 俯く。

 

「そんなの、勝手すぎるよ……」

 

 おくうにはもう、向こうに戻ったところで、なにもないのに。それでも帰れと、この狐は言うのか。

 

「ああ、勝手だ。私は、なにより私自身の気を晴らすためにお前を連れ帰るに過ぎない」

 

 彼はそこで一度言葉を区切り、ゆっくりと、ひとつ息を吸った。

 おくうの目の前で、膝を折った。

 

「――故に、すべての責任は私にある」

 

 おくうの胸倉に、拳で掴みかかってくるような。

 おくうが今まで聞いたことのない、強くてまっすぐな、声をしていた。

 

「私はお前を無理やり連れ帰る。だから、もしそれでお前が後悔する羽目になったなら、すべてを私のせいにしろ。思う存分私を詰って、憎んで、蔑んで、そのときこそお前の好きにするといい。

 向こうに戻ったら、さとりたちはお前にいろいろ言うだろう。私のせいだ。

 もしかしたら、怒られるかもしれない。喧嘩になるかもしれない。それも私のせいだ。

 けど、もしそうやって互いの気持ちを打ち明けて、また、やり直すことができたなら――」

 

 そして、最後だけは。

 いつも通りの優しい声音で、こう、言うのだ。

 

「――それは、お前たち家族の絆の賜物だ。私は、関係ない」

「っ……」

 

 わけが、わからなかった。おくうは唇を噛み締めて、よくわからない感情で暴れそうになる心を懸命に抑えつけた。

 どうして、彼は。

 おくうに、こんなにも構おうとするのだろう。おくうはずっと、彼にひどいことをしてきたのに。現実の彼が正視に耐えないひどい怪我をしているのだって、みんなおくうのせいなのに。

 なのにどうして、こいしたちに向けるのと同じ顔で、笑えるのだろう。

 正直、かなり効いた。心を揺さぶられた。さとりが、こいしが、お燐が、笑った顔が、怒った顔が、元気な顔が、いじけた顔が、優しい顔が、次々と脳裏に甦っては消えていく。かつて幸せだったあの場所へ、帰れるのならば、許されるのならば、帰りたくなってくる。しかし、それでも、おくうに月見の手は取れなかった。

 

「今更、どんな顔で帰ればいいのっ……?」

 

 もうたくさんのものを傷つけてしまった、おくうが。

 

「どんな顔だっていいさ」

 

 月見の答えは、迷いない。

 

「さとりたちと会って、そのときお前の心に浮かんだ気持ちでそのままぶつかっていけばいい。けど、『放っておいて』なんて嘘はもうつくなよ」

「でも……! でもっ……!」

 

 さとりたちの元へ戻るのが、怖くないといえば嘘になる。けれどそれ以上に、おくうが怖れているのは、

 

「私は! わた、し、はッ……!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

「わたし、は。ひとを、ふたり、ころして」

「……!!」

 

 ――ああ、そうか。そういうことだったんだ。

 おくうの口から、譫言のように紡がれる言葉。それを聞いてお燐は、頭の裏でなにかがカチリと噛み合ったのを感じた。

 当然、まっさきに声を上げた。

 

「ち、違うよおくう! おくうは、誰も殺してなんかない!」

 

 無論、お燐が姿を隠していたからと言ってしまえばそれまでだ。灼熱地獄へ下りていった霊夢と魔理沙を結局見捨てられず、こっそりと後を()けていって、物陰から戦いの一部始終を窺っていた。そして、おくうの砲撃が当たるより先に灼熱地獄へ落下した二人を、あわやという間一髪のタイミングで助け出した。

 気づかれたかもしれないと、思ってはいた。けれど確かめる勇気はなかった。自分のペットが博麗の巫女を勝手に助けたと知ったとき、果たしてこいしはどう思うのか――そう考えると、どうしても恐怖で足が竦んだ。

 おくうは、気づいていなかったのだ。だから、他でもない自分が、人を二人も殺めてしまったのだと思い込んだ。虫の一匹も殺せなかったおくうなら、襲い掛かってくる恐怖は並大抵のものでは済まなかったはずだ。

 現に今だって、彼女は苦しんでいた。

 

「あそこまで、やるつもりなんて。なかった、のに」

「おくう、違うの! あの人間は、あたいが助けた! だから大丈夫だよ!?」

 

 虚ろなおくうが、口の端をほんのかすかに曲げた気がした。

 

「いい、の。わかってるもん。おぼえてる、もん」

「おくう……!」

 

 お燐は、血が噴き出すほどに己の唇を噛み締めた。どうして、どうして自分は、逃げてばかりで、勇気がなくて。今しか、おくうを助けるにはもう今しかないのに、なのにどうして、自分の言葉を届けてあげることすらできないのだろう。

 

「おくう、聞いてっ……!? おくう……ッ!!」

「おぼえてる、もん。わたし、は――」

 

 お燐の声は、届かない。震えるおくうの唇が、まるで呪いのように、

 

 

「わたしは、あいつらを、殺」

「――あら、誰が誰をどうしたって?」

 

 

 時が、止まった。

 おくうの真横、煌めく銀の炎を威風堂々踏み越えて。

 博麗霊夢が、そこにいた。

 

「――え、」

 

 なにが起きたのかわからず言葉を失うおくうに、霊夢はにっこりと微笑んで、

 三秒、

 

「――こォンのバカ鴉があああああああああぁぁぁぁぁっ!!」

「うみゅみゅみゅみゅみゅみゅみゅみゅ!?」

 

 おくうのほっぺたを両側から、むいーん!! と全力全開で引っ張った。

 おくうのほっぺたが、ちょっと見たことないレベルで伸びた。霊夢はのっけからブチキレモードで、

 

「あんたァ、よくもやってくれたわね!? あんたのせいで私の計画が台無しよ! せっかく華麗に異変解決して、月見さんに褒めてもらって、美味しいご飯たらふく食べて温泉入ってぐっすり寝るハズだったのにいいいいいぃぃぃ!!」

「にゅにゅにゅにゅにゅにゅにゅにゅ」

「しかもなによその恰好、もしかして荒御魂を制御し切れなくなったの!? 修行が足りないのよその程度で神様の力を借りようなんておこがましいわ今すぐ手放しなさいそんで私ともっかい勝負しなさい今度こそ叩きのめして完全勝利してやるんだからあああああぁぁぁ!!」

「にょにょにょにょにょにょにょにょ」

 

 お燐は目が点である。

 そのとき炎の向こうからもう一人の人影が、

 

「霊夢のアホおおおおおおおお!!」

「ガッ」

 

 霧雨魔理沙が怒濤の勢いで霊夢の頭をぶっ叩き、

 

「なにやってんだお前空気読めよ!? 今そういうことやっていい雰囲気じゃなかっただろ!?」

「知るかァ!! 私はいま怒髪天なのよ、あっこらやめなさい放せコンニャロ――――――――ッ!!」

「はいはいれーむちゃんあっち行ってようね――――――――!!」

 

 霊夢を羽交い締めにしてズルズル降下していき、そこに更にもう一人、

 

「霊夢のバカッ! いま絶対、霊夢のせいで空気ブチ壊しだったわよ!?」

「だから知るかって言ってんでしょうがあああああぁぁぁ!! あっそこのちっこいの、あんた私に不意打ちしてくれやがったヤツね!? あんたもあとでギッタンギッタンのケチョンケチョンにしてやるんだからああああああああああッ!!」

「れーむちゃんいい加減にしようね――――――――!!」

 

 アリスと人形たちまで加わって、あんぎゃあ!! と怒り狂う霊夢を岩の陰まで引きずっていき、

 

「さすがの魔理沙ちゃんもびっくり仰天だよ! お前、あそこからなにするつもりだったんだ!?」

「ふくしゅう」

「みんな縄でふん縛って今の霊夢を野に放っちゃダメよ!?」

「放せええええええええ!! 今度こそ私が勝つんだからああああああああ!! コンニャロオオオオオ――あっ叫びすぎて目眩が」

「心の底からバカだろお前!?」

「そうよっ、魔理沙に言われるなんて相当よ!?」

「よし、お前ちょっとそこに直れ」「アリス、ちょっとそこに直りなさい」

「ごめんなさい!?」

「「……」」

 

 お燐はますます目が点であり、おくうは赤くなったほっぺたを涙目で呆然とさすっている。

 

 えっと。

 なんの話だったっけ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 おくうの心の中の世界で、月見はくつくつと喉を震わせて笑う。今し方現実で起こった小さな嵐に頭が追いつかず、ぽかんと呆けているおくうに向けて、

 

「――それで? お前が、誰をどうしたって? よく聞こえなかったな」

「――――――――ぁ、」

 

 おくうが、揺らめいた。

 それは恐らく、冷たく凍りついてしまっていた彼女の鼓動が、確かな熱とともに動き出した瞬間だったはずだ。

 だから月見は、もう一度手を伸ばした。

 

「ほら。行くよ」

「っ……!」

 

 おくうの瞳に、為す術もなく涙がこみあげる。彼女の心を閉ざしていた最後の蓋が破壊され、ずっとずっと抑えつけられていた本当の想いがあふれだしてきていた。

 

 一体どれだけの間、彼女は独りで耐え続けていたのだろう。

 

 「放っておいて」なんて、嘘っぱち。本当は、ずっとずっと傍にいたい。寂しいと言いたい。一人にしないでと伝えたい。だから、こんな自分だけれど、みんなに迷惑を掛けた自分だけれど、もし許されるなら、許されるのならば、

 

「――私、いいの(・・・)っ……!?」

 

 考えるまでもない。

 月見の答えなんて、ここに来るより前から決まっているのだから。

 

「言ったはずだよ。――引きずってでも連れて帰る、ってね」

「っ……ぅ、ぁ……!!」

 

 決壊した涙は次々と流れ、それでもどんどんあふれ、目を開けているのも辛かったはずだった。

 けれどおくうは、決して俯かないで。震える手でも、それでも、それでも。

 

 月見に、

 手を、

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、お燐は確かに見た。確かに聞いた。見間違いではない。聞き間違いではない。

 血と闇の色で潰れていた瞳に、光が戻り、

 伝う一筋の涙とともに、おくうが、

 

 

「お願い……!! 私を、助けてぇ……っ!!」

 

 

 そのときお燐の中で駆け巡った感情を、どんな言葉で言い表すことができただろう。隅の隅という血液の流れが爆発的に加速し、心臓の鼓動に内側から胸を殴られ、息が詰まる感覚とともに全身に力が満ちる。単なる興奮とはワケが違う。嵐と化す体とは対照的に、頭の中は不可解なまでに澄み切っている。

 助けるさ。

 助けるともさ。

 だって、お燐は独りじゃないから。お燐の背を支えてくれる月見がいて、帰りを待ってくれている家族がいるから。お燐は、おくうは、決して独りなんかじゃない。

 ――だから、一緒に帰ろう。おくう。

 やっと、ふさわしい言葉が見つかった。

 これは、逃げ続けてきた自分自身への『決別』であり。

 計算や理屈を超越した、純然たる『決意』だ。

 月見が、吼えた。

 

「――やれ!! お燐!!」

 

 この瞬間にすべてを捧げるため、自分はずっと間違い続けてきたのだ。

 おくうの胸元めがけて振り下ろした切っ先は、月見の言葉通り、赤い瞳に届く寸前で勝手に止まった。お燐が今まで見たこともない、複雑な幾何学の陣が切っ先から起動し、おくうの体を捕捉する。

 そこから一瞬は、なにも起こらないように見えた。

 一瞬だけ。

 陣に月見の妖力が満ちた瞬間、おくうの全身から再び灼熱の業火が噴き上がった。

 

「 ――――――――   !! 」

 

 けたたましいまでに、おくうの中に宿る鴉が哭いた。翼をめちゃくちゃに打ち鳴らし、お燐の眼前を黒い羽根と深紅の炎で埋め尽くす。月見の銀が守ってくれているにもかかわらず、灼熱地獄育ちのお燐が無意識のうちに手を緩めかねないほどの熱量だった。

 だが、お生憎だ。今更そんな抵抗をしたところでなんの意味もない。

 お燐はおくうを救えるのなら、このまま指が使い物にならなくなったって構わないのだから。

 月見の、声が聞こえた。

 

 ―― 掛巻も 恐き稲荷大神の大前に 恐み恐みも白さく

 

 おくうを捕らえる陣が、銀の光を帯びる。

 

 ―― 祓い給へ

 

 おくうの体を、銀の光が包んでいく。

 

 ―― 清め給へ

 

 赤の炎が、消えていく。

 おくうの体を蝕む紋様が、消えていく。

 おくうの体が、元の形へ戻っていく。

 

 ―― 守り給へ

 

 おくうが、目を開けた。

 血と闇の色ではない。おくう本来の、深く光を映す黒の瞳。

 声が、こぼれた。

 

「――おく、」

 

 銀が、満ちた。

 

 

「 ―― 神ながら 幸い給へ !! 」

 

 

 お燐の視界が、おくうの姿が、すべて銀の光で潰れ、

 

 

 そして、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 ――お燐の手を離れた緋想の剣が、重力に引かれ落ち、大地に刺さる。

 だがそれは、決して最悪の結末を意味しているのではない。

 

「おくう……! おくう……っ!!」

 

 お燐が、傾いたおくうの体を鷲掴みにするように抱き留めたから。

 そしておくうは、その大袈裟すぎる力に、なんとも渋い顔をして。

 

「……ぐるじい、おりん」

「っ……!!」

 

 ――この異変が始まってからというもの、誰かが涙を流すのは何度目になろう。

 けれど、悲しい涙は、もうおしまい。

 

「おぐう゛~~~~っ!! よがっだよおおおおお……!! ふみ゛ゃあああああ~~~~……!!」

「ま、まっておりんいたい、いたっ、……ぐええ」

 

 じょばーっ!! とマンガみたいな涙をまき散らし、お燐がおくうをぎゅうぎゅうと抱き締められる。おくうが背中を叩いても問答無用のお構いなしだ。困り果てたおくうが視線を彷徨わすと、ふと、月見とぱっちり目が合った。

 ボロボロで傷だらけの、本当に恰好悪い、銀の狐。でも、恰好悪くても、恰好悪くなんてない。それどころか、今のおくうの目にはむしろ――。

 その気持ちを認めるのが癪だったので、言ってやった。

 

「……カッコ悪い」

 

 月見は息で笑って、肩を竦めた。

 

「勘弁してくれ」

 

 決して意識したわけではない。けれど、月見のその物悲しそうな仕草が、なんだかとてもおかしかったので。

 おくうは、はじめて――はじめて月見に、自分の方から。

 

「……バカ」

 

 暖かな気持ちで、ほんのちょこっとだけ、笑いかけてみた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「おくう――――――――っ!!」

「うみ゛ゅっ!?」

 

 こいしの砲弾タックルを鳩尾に喰らい、おくうは吹っ飛ばされた。

 こいしもこの技が使えるのかー、と月見は脳裏にフランの姿を描きながら思った。

 ようやく――ようやく、終わった。八咫烏の荒御魂が(つつが)なく鎮まり、おくうは身も心も元の姿を取り戻した。大地の崩壊は完全に治まっていて、灼熱地獄の炎も沈静化を始めている。少しずつ、元の冬が戻ってくるであろう。

 月見は、薄氷の上で立つようにゆっくりと地に足をつけた。たったそれだけのことだが、体はご丁寧に鈍い痛みを訴える。額から流れ落ちる汗を拭い、ようやくそれが汗ではなく血だと気づいた。どうやら、爆発を受けて大地を転がされたときにでも切ったらしい。

 思わず、苦い笑みがこぼれた。ここまで手酷くやられたのは、一体何百年振りなのだろう。ひょっとすると、輝夜とはじめて出会ったあの頃まで遡るかもしれない。いやはや懐かしい――とでも昔を偲んで気を紛らわせておかないと、あっという間に意識が吹っ飛んでいってしまいそうだった。

 両膝に手をついて荒く息をしていると、大地の崩壊は治まったはずなのになぜかズドドドドドと地響きの音、

 

「月見く――――――――んっ!!」

「つーくみ――――――――っ!!」

 

 顔を上げれば満面の笑顔で突撃してくる藤千代と勇儀がいて、おいちょっと待て今お前らの砲弾タックル喰らったら冗談抜きで三途の川が

 

「やめなさいバカ者ッ!!」

「「むぎゅ!!」」

 

 映姫が月見の手前に結界を展開し、鬼二名は大変感動的な勢いで激突した。藤千代は例によって無傷で、勇儀は角が折れた。

 

「なにするんですか――――――――っ!!」

「また私の角―――――――――――っ!?」

 

 ぷんすか怒る藤千代と膝から崩れ落ちる勇儀を完全に無視して、映姫が素早く月見の前に降り立ち、

 

「まったく、随分と無茶をしましたね……! いくら妖怪とて限度というものがありますよ!?」

「……ああ、さすがに疲れたよ」

 

 生返事を返しながら、おや、と月見は眉を上げる。映姫の素振りを見るに、意外にも真っ当な心配をされているらしい。普段の彼女なら、まったく情けない、心のどこかに隙があるから云々と、ここぞとばかりに弁舌を振るいそうなものなのに。

 もっとも、怒られないならそれに越したことはないので、なにも言わないけれど。

 遅れて天子も駆けつけてきた。

 

「月見ッ!! け、怪我、大丈夫なの!?」

「……そういうお前こそ」

 

 天子は両腕に、藤千代の着物の切れ端と思われる布を巻いていた。黒地のためほとんど目立たないけれど、かすかに血の匂いがする。

 

「無理をさせたね」

「月見はもう少し自分の心配してよ!? あ、頭から、血……早く手当しないと!?」

「彼女の言う通りです! あなたはやはり、危機管理がまるでなってないっ!」

 

 否、月見だって、自分の怪我が到底やせ我慢で済ませていい範囲でないのは理解している。それでも月見が根を上げず立ち続けるのは、まだ成し遂げていないことがあるからだ。

 

「もう少しだけ」

 

 こちらを押し倒しかねない勢いでグイグイ来る二人の肩に、手を置いて。

 

「最後だけ、見届けさせてくれ」

 

 月見が見据えた先では、おくうがこいしとお燐に押し倒され、笑ったり泣いたりで揉みくちゃにされている。

 そして古明地さとり一人だけが、ひとつもうれしそうな顔をしないで無言のままに佇んでいる。

 おくうが、気づいた。

 

「――あ、」

「おくう」

 

 おくうの無事を喜ぶのではない。

 それどころか咎めるような、固く鋭い声音。

 

「こっちへ来なさい」

「……、」

「来なさい」

 

 怒っている。

 おくうは従うしかない。ただならぬ空気を感じてか、立ち上がり、さとりの方へ向かったおくうの背に、こいしもお燐も声ひとつ掛けられない。さとりの目の前まで至る頃には、おくうの相貌は恐怖で真っ白に色褪せていた。

 いつしか誰しもが、身じろぎひとつできないでさとりとおくうを見つめていた。

 さとりが俯いたまま、おくうの顔も見ずに口を切った。

 

「体の具合は?」

「え、」

 

 思わぬ問いにおくうは面食らい、

 

「……っと、もう、だ、大丈夫……です」

「……そう」

 

 さとりの声音は変わらない。おくうの答えに喜びも安堵も浮かべず、静かに長く、深呼吸をして。

 少しの間、無音があった。

 

 

 さとりが真後ろまで腕を振りかぶり、おくうの頬を張り飛ばした。

 

 

 たぶん、本気だったと思う。なにかが破裂したような鋭く甲高い音が上がり、おくうの体が真横に崩れ落ちる。こいしとお燐はもちろん、天子すら小さく悲鳴をあげた。おくうはなにが起こったのかわかっていない。さとりが、右腕を振り抜いた恰好のまま肩で荒く息をしている。

 

「許さない」

「……ぇ、あ」

 

 さとりに頬を打たれたとようやく理解したおくうが、信じられない顔つきでゆるゆると体を起こす。

 

「絶対に、許さないから」

 

 なにを許さないのかなど、問うまでもない。

 

こんな馬鹿なこと(・・・・・・・・)、もう二度としないで」

「……、」

 

 だってさとりは、紛れもなく本気で怒っているのだから。

 

「もう、二度と――」

 

 さとりがおくうに手を伸ばす。おくうが体を戦慄かせ、為す術もなくその場に凍りつく。お燐がさとりの名を叫び、こいしが駆け出そうとする。天子が息を呑み、映姫が眉をひそめる。

 その中で、月見は。

 ただ一人すべてを察して、笑みの息をついていた。

 

「――もう二度と!! 勝手に、私たちの傍からいなくなろうとしないでッ!!」

 

 おくうの胸倉を掴み上げ、別人かと思うほど怒鳴り散らして。

 けれどさとりは、泣いていた。

 瞳いっぱいの大粒の涙を、嘘みたいにボロボロ流して、泣いていた。

 古明地さとりは、おくうに本気で怒っている。

 八咫烏の荒御魂に呑まれたおくうが、地底を破壊したからではなく。

 月見たちに、怪我をさせたからでもなく。

 もう、放っておいてと。自分たちの傍から、勝手にいなくなろうとしたから。

 

「絶対に、許さない……!!」

 

 赤い瞳が消えたおくうの胸元に、額を押しつけて。

 

「絶対に、許さないんだからぁ……っ!!」

 

 ずっと、傍にいろと。

 その言葉なき願いは、きっとおくうの心を叩いたであろう。

 

「――ごめんなさい、」

 

 気がつけばおくうもまた、さとりに負けないくらいの涙とともに、

 

「ごめんなさい……!! ごめんなさい、さとりさまぁ……っ!!」

 

 本当は、おくうだってはじめからわかっていたのだ。

 さとりたちが、おくうを見なくなったのではない。

 目を逸らしたのは、おくうの方。月見の存在に怯え、嫉妬し、気に入らない現実を直視できずに背を向けた。

 そして、いじけて、なにかもが嫌になって、殻に閉じこもって。

 そんな自分を、怒鳴ってでも、叱ってでも、振り向かせてほしかったのだ。

 随分と遠回りをして、擦り傷だらけになってしまったけれど。

 

「お姉ちゃんずるい――――――――っ!! 私も泣く――――――――っ!!」

「あたいも泣く――――――――っ!!」

 

 恥も外聞も投げ捨てたこいしとお燐が、いっそ清々しい感じでおくうに突撃していく。四人揃って揉みくちゃになって、生まれた頃へ返ったようにわんわん泣いて。

 その光景を見届けて、ようやく――ようやく月見は、すべての重圧から解放され、楽になれたような気がした。

 崩れ落ちるように、その場にドカリと座り込んだ。

 

「つ、月見!?」

 

 天子が思っていた以上に大きな声を出したせいで、全員が一斉に月見を振り向く。

 しかし、ちょうどいい。せっかくなので、言っておこうと思う。

 

「ああ、まったく――」

 

 これ見よがしにわざとらしいため息をついて、主にこいしとおくうに向けて。

 上手く笑えたであろう。

 

「――こんなしんどいの、もう二度と御免だからな」

 

 およそこのあたりから、月見の記憶は少々曖昧になっている。やることをやって、言うことを言って、心残りなんてまるでないものだから完全に気が抜けてしまった。

 であればあとはもう、眠るだけ。

 天子に肩を揺さぶられた気がするし、映姫が「すぐに医者を……!」とかなんとか言っていた気がする。藤千代の「月見くんは私が運びまーっす!」と元気な声が聞こえたように思うし、勇儀は「私の角ぉ……」と半泣きだったかもしれない。

 

 そして、月見の容態を深読みしすぎて慌てふためく少女の中に――つと、おくうの姿が、見えたのは。

 

 きっとすでに、夢だったのだろうなと。

 そう、月見は思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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