逃げたい。
穴があったら飛び込みたい。大声をあげてそのへんを飛び回りたい。冷たい水を頭から被りたい。適当な枕かぬいぐるみに正拳突きを百発叩き込みたい。あー! あーっ! ああーっ!!
と。
月見と二人きりにされてしまったおくうは、心が半狂乱に陥る一方で、体は腰掛けに座ったまま、指の一本も動かせずカチンコチンに固まってしまっていた。
この男の前で一体どんな顔をすればいいのか、おくうは未だに答えを出せないでいる。昨日の異変で、おくうはこの狐に助けられた。命を救われた、と表現しても、決して大袈裟ではないのだろう。あのとき彼が助けてくれていなければ、恐らくおくうの精神は、荒御魂の炎に焼かれて燃え尽きてしまっていたはずだから。
――私はお前を無理やり連れ帰る。だから、もしそれでお前が後悔する羽目になったなら、すべてを私のせいにしろ。
あのとき月見から掛けられた言葉は、今でもはっきりと頭の中で反芻できる。
もちろん、この期に及んで、すべてが彼のせいだったなんて言うつもりはこれっぽっちもない。彼はただ、さとりたちと仲良くしてくれていただけ。それは、地霊殿でともに暮らす家族として喜ぶべきことだったはずなのに、おくうは喜べず、それどころか嫉妬して、いじけて、殻に閉じこもって――そして、昨日の異変へとつながっていった。
寂しかったのなら、「寂しい」と一言でも言えばよかったのに。
あの狐だけじゃなくて、私にも構ってくださいと、訴えればよかったのに。
いじけた自分はそれすらも放棄して、間違ったやり方でみんなを振り向かせようとした。今になって思えば、本当に馬鹿なことをしてしまったと思う。彼がいなければ、今日という日をさとりたちと一緒に迎えることはできなかった。たくさんのひどいことをしてしまったおくうを、彼は最後まで見捨てないでいてくれた。それどころか、おくうの力が二度と暴走したりしないよう、式神
「っ……!」
顔面が、火をつけたように一気に熱くなったのを感じた。少し前の会話がありありと甦ってくる。今のおくうは月見の『式神』という立場であるらしく、では式神が一体どういうものなのかといえば、さとり曰く、月見がおくうの新しいご主人様であるらしい。
ごしゅじんさま。
だれが。
つくみが。
「さて、空」
「にゅい!?」
いきなり月見に話しかけられたので、おくうは文字通り跳び上がって驚いた。ベッドの上の月見が薄く苦笑し、
「本当に、楽にしてくれていいんだよ?」
「う、うん……」
一応頷きはしたものの、さとりのご主人様発言のせいで心臓のバクバクはちっとも収まらない。珍しく覚妖怪らしかった主人をちょっぴり恨む。
月見はそれっきり笑みを消し、まっすぐな瞳でおくうを見据えた。
「――まず、もう一度確認させてくれ。本当に、体になにも違和感はないか? 体の奥の方が勝手に疼いたり、くすぶったりするような感覚は?」
戸惑う。どうして月見は、そんなにも真剣な目でおくうの心配をしてくれるのだろう。
「だ、大丈夫。ほんとに、ぜんぜん平気」
本当に本当だ。体の感覚は八咫烏と出会う以前の具合に戻っていて、あの力は実は失われてしまったのではないかと感じるくらいなのだから。胸の位置にあった赤い瞳だって、綺麗さっぱり消えている。
おくうの答えを聞いた途端、月見の頬がひどく無防備に緩んだ。
「そうか。……よかった」
「っ……」
ズルいと、思う。そんな、心の底から安心したみたいに笑うのは。わけもなく、おくうの翼がパタパタと揺れ動く。
「お、大袈裟すぎ。お前が、自分でやったことでしょ……」
「それは、そうなんだけどね。さすがにはじめての術だったから、上手く行ってるかどうしても不安で」
どうして不安に思ってくれるのか、とか。
自分の恥ずかしい勘違いでなければ、月見は今、真剣におくうのことを心配してくれているはずで。それが、つい翼がパタパタ動いてしまうくらいにくすぐったくて。でも、決して、嫌な気分ではなくて。
などと悶々としているうちに、月見がなぜか、おくうに向けて深く頭を下げていた。
「すまなかった、空」
「え、……え?」
予期せぬ月見の行動におくうは面食らう。月見は顔も上げぬまま、
「私はお前を、ずっと苦しめていたんだね」
「あ……」
「すまなかった」
――確かに、そうだ。月見はおくうを苦しめていた。自分の日常になんの前触れもなく入り込んできた月見という異物に、おくうはずっと苦しめられていた。寂しいと、おくうが感じてしまうようになった根本的な元凶。月見さえいなければ、ひょっとすると昨日の悲劇は起こっていなかったのかもしれない。なにも変わることのない、平和な日常が続いていたのかもしれない。
少し前のおくうなら、心の底からその通りだと考えたはずだ。
「――なんで、謝るの?」
そして今のおくうは、なぜ月見が謝るのか理解できないでいる。
「なんで、私を責めないの?」
だって、月見に苦しめられたおくうは、もう散々彼を責めたのに。なのに、おくうのせいで体中が包帯まみれになってしまうほどの傷を負い、今だって痛みは続いているであろう彼が、どうしておくうを責めず、それどころか謝罪までするのか、本当にわからなかったのだ。
「どうして? どうしてお前は、そんなに、私のこと……」
「自分で自分を許せなくなるからだよ」
月見が、顔を上げた。
「本当に馬鹿なことをしたと思ってるよ。時を遡れるなら、お前から目を逸らして、さとりたちと呑気に世間話をしていた過去の自分を殴り飛ばしたいくらいだ」
「……」
「罪滅ぼしなんて、偉そうなことを言えた立場じゃないのはわかってる。でも、だからって、またお前から目を逸らして、なにもしなかったあの頃の自分に戻るわけにはいかない。……それだけだよ」
心が、揺れる。
それは、極めて危険な感覚だった。月見に対してかたくなにまとい続けていた心の鎧が、ボロボロと剥がれ落ちていくような。昨日の異変はおくうにとってトラウマ以外の何物でもなく、ぜんぶが終わった今でも、ふとした拍子にまた力が暴走してしまうのではないかと恐怖を覚えるときがある。そのせいで、昨夜は一人では寝られなかったくらいだった。
けれど、月見は言っていた――暴走なんて、させるわけがないと。
そして、今、こう言ってくれた――また、お前から目を逸らすわけにはいかないと。
わかっている、おくうの考えすぎだ。この狐はあくまで額面通りの意味でそう言っているだけで、それ以上の深い意図なんて込めていないし、込めようなんて夢にも考えていない。わかっている。わかっているとも。
でも。
でも、たとえ額面通りの意味で考えたとしても、だ。
――この狐の台詞、『これからはずっとお前を守る』と言っているように聞こえないか?
(う、うにゅ……)
頭の中がぐーるぐると回る。ばばばっバカじゃないのそんなわけないでしょ!? と否定する自分と、でもでもだったらどういう意味なのどういう風に受け取ればいいの!? と否定できない自分が、おくうの思考世界で血みどろの殴り合いを繰り広げている。ここまで来ると、月見がおくうを式神にしたのだって、なにか意味深な裏があってもおかしくないような気がしてくる。それこそ、暗にお前を守るという一種の――
「――お前は、昨日のような暴走は二度と繰り返したくない。それは間違いないな?」
「はっ」
月見の問いに救われた。おくうは慌てて頷き、
「う、うん。あんなの、もう二度と嫌」
「そうか。……なら、少なくとも今のうちは、思う存分私を利用するといい。たとえ、誰かが望んだとしても。あんな暴走、もう二度とさせてやらないからね」
「……、」
そのとき胸の奥に感じたものは、きっと、気のせいではないのだろう。
八咫烏とは明らかに違う、もっと暖かくて優しい力が、おくうの体の奥底に宿っている。おくうの心を、そっと包み込んでくれている。
月見がおくうに降ろした、もう一柱の神様。おくうは胸を押さえた。余計な言葉がなくともわかった。この力が、おくうを守ってくれているのだと。そしてこれからは、おくうのことを助けてくれるのだと。
おくうの同意もなく勝手に新しい神様を降ろしたり、あまつさえ勝手におくうを式神にしたり、いくらなんでも勝手過ぎると思う。
でもその『勝手』が、今のおくうにとって、胸に収まり切らなくなるほど暖かくて。
「……ね、ねえ」
「うん?」
「た、例えばの、話なんだけど……」
こんなことを考えてしまう自分の正気を疑った。でも、どうしても気になってしまって、こうして口を切ったらもうおくうの意思では止められなかった。
「も、もし、私が。……ヤタガラスの力を、手放したくないって、言ったら。ど、どうするの……?」
月見は言っていた。八咫烏の力がもう必要のないものなら、手放してしまえばいいと。そうすれば、月見がおくうを式神にする理由もなくなるのだと。
だから、つまり、逆を言えば。
八咫烏の力を手放さないでいる限り、おくうは、ずっと――。
「……それはつまり、八咫烏の力が自分には必要だと?」
「あ……え、えと、そうじゃなくて、その」
まさか正直に言えるはずもない。でも、ちゃんと言わないと変な誤解をされてしまうかもしれない。なんとか上手い言い訳を探そうとするものの、口から出てくるのは「あの、その」と意味のない言葉ばかり。
結局、そうこうしているうちに月見が一人で納得してしまった。
「……そうか。そうだな。昨日はあんな風になってしまったけど、ちゃんと正しく使えば、その力はきっとお前たちを助けてくれると思う。無理に手放す必要は、ないのかもしれないね」
「う、うん」
おくうはほっとした。そういう風に勘違いしてくれるなら、別にそれでいいや。
「しかしそうなると、私の式神でい続けてもらうことになるよ。あんな暴走はもう二度と嫌、なんだろう?」
「……う、うん」
「私の式神なんて、嫌じゃないのか?」
答えられるわけがない。
「空?」
「……べ、別に、なんでもない! 訊いてみただけっ」
月見に怪訝な顔をされた。当然だと思う。おくう自身、自分でも自分をおかしいと思っている。確かにおくうは、元々身内以外を強く警戒する性格だけれど、かといって決して恥ずかしがりなわけではない。なのに今はどういうわけか、月見の前にいるのが並々ならぬほど恥ずかしくて、さっきからぜんぜん上手く会話ができていない。
……いや。『どういうわけか』なんて、嘘っぱちだ。
本当は、ちゃんとわかっているのだ。
「……あ、あの。もうひとつ、だけ」
「うん?」
「私の、こと。『空』じゃ、なくて」
おくうは、少しだけ躊躇った。けれど一度喉でせき止めた言葉は、やがて重力に引かれてこぼれ落ちるように、
「その……お、『おくう』で、いい。おくうって、呼んで」
もう後には引けない、と思う。この名を月見に許せば最後、おくうの気持ちはもう誤魔化しの利かないものとなってしまう。きっと、さとりたちにもいっぱい茶化されてしまうだろう。
「今まで、ごめんなさい」
迷いがないと言えば、嘘になる。
恥ずかしい気持ちだって、たっぷりとある。
「助けてくれて、ありがとう……」
しかし、やっぱり、今おくうの心を突き動かしているこの感情こそが、嘘偽りのない真実なのだ。
「そ、それで、あの……その……」
つまり、おくうは、
「――い、異変のとき、お前なんかキライだって言ったけど! あれ、嘘だから! ぜ、ぜんぜん、嘘だからっ!」
おくうは、月見を許したい。
そして、月見に許されたい。許されるのならば、守られたい。体の奥に宿った暖かな力を、このまま感じていたい。月見の式神になったって、ぜんぜん構わない。
浅ましいかもしれない。
愚かかもしれない。
でも、やっぱり。
やっぱりおくうは、根本的に依存したがりなのだ。
この狐は、全身傷だらけになってまでおくうを助けてくれた。
そのお陰で、おくうはまた家族たちの中に帰ることができた。
あんな暴走は二度とさせないと――お前を守ると、本気で約束してくれた。
おくうは今、守られているのだ。胸の奥に宿った、この暖かな力で。
ズルい。
ズルすぎる。
だって、だってそんなことをされてしまったら、おくうは、
おくうは、
「――ありがとう」
「へぁ、」
そのとき月見が、月明かりのようにそっと柔らかく微笑んで、
「お燐が言っていた通りだ。優しいんだね、おくうは」
「――……、」
それはおくうにとって、家族たちからもう何度も掛けられてきた言葉であるはずだった。おくうは、優しいのね。おくうは、優しいね。言われるたびに、ちょっぴり気恥ずかしくて、「う」と「ん」の中間みたいな声でそっぽを向くのが定番の流れだった。
呻くことすらできない。月見の口からその言葉を聞いた瞬間、おくうは頭の中が真っ白になって、陸に上がった魚も笑えぬ有様でパクパクと唇を痙攣させるだけだった。
あれ。
なんだろうこれ。
なんでこんなに恥ずかしいんだろう。そりゃあさとり様たちに言われるときも恥ずかしいけどそれとはぜんぜん比べ物に、あっなんか一気に沸騰してきたどうしようどうしよう早くなにか言わなきゃってかなんでこんなに恥ずかしがってるのただ「優しいね」って言われただけじゃない落ち着いて霊烏路空よーしまずはシントーメッキャクして深呼吸
「――つっくーみさ――――――――ん!!」
「!?」
後ろのドアが突然けたたましく開いたので、おくうは腰掛けから転げ落ちかけた。慌てて踏ん張って振り向くと、駆け足の助走から見事な踏み切りで跳躍した霊夢が、両腕を翼のように広げた人間砲弾と化したところだった。
月見が伸ばしていた脚を素早く折り畳む。着弾した霊夢はベッドの上でぼふんと弾み、その滞空時間を利用して膝立ちになって、月見の目と鼻の先まで前のめりで爛々と、
「やったわ、月見さん! 勝った! 私、今度はちゃんと勝ったわよっ!」
「霊夢、近い近い」
「ふふふ、そんなに褒めないでっ」
褒めてない気がするけど、とおくうは思う。
「……うー、負けたー。悔しいよぅ……」
遅れて部屋に入ってきたのは、ボロボロでちょっぴり涙目になっているこいしだった。弾幕ごっこで、ハクレイの巫女にやられたのだ――そう理解した瞬間、おくうの頭の中が条件反射で白熱し、怒りが灼熱地獄が如く炎を噴き上げそうになる。
「……、」
しかしおくうはまぶたを下ろし、静かな呼吸でその感情をコントロールした。落ち着いて、と自分に優しく言い聞かせる。昨日の異変でおくうが暴走してしまうひとつのきっかけとなったのは、主人を想うあまりすぐ周りが見えなくなってしまう浅はかな自分だった。だから、おくうは変わらなければならない。
これは、こいしと霊夢が互いに望んで闘った結果だ。故におくうがすべきなのは、怒りに任せて霊夢に噛みつくことではなく、
「こいし様、大丈夫ですかっ……?」
こいしに、駆け寄る。こいしはえへへと頭を掻いて、気が抜けたように相好を崩した。
「負けちゃったー。結構自信あったんだけどなー」
「……強かったわね、霊夢さん」
更に遅れる形で、さとりや藤千代たちも続々と部屋に戻ってきた。さとりのまったく感服しきった表情に、こいしはぷっくりふくれ面だ。
「今回は、たまたま負けただけだもん」
「こら。勝っても負けても恨みっこなし、でしょう?」
「そうだけどぉー……」
「あっ、こら霊夢ーっ」
部屋に入るなり、天子が月見のベッドに駆け寄っていく。ベッドの方では、エキサイトする霊夢がいよいよ月見を押し倒しそうになっていて、
「さあこれではっきりしたと思うのっ、今回の異変も天子のときと同じでちょっとした例外ってやつで、普通だったら私たちの完全勝利だったはずなのよ! だから断じて、月見さんとの修行の成果が出てないとか、そんなのは一切ないの!」
「わかったわかった」
「霊夢、月見が困ってるってば!」
天子にベッドから引きずり下ろされても、霊夢は一向に止まらない。
「というわけで、月見さんが地上に戻ってきたらいつも通り宴会よっ。美味しいお料理いっぱい作ってね!」
「私なんかの料理でいいのかい」
「私は月見さんの料理大好きだからいいの! あっ、それと温泉と、あったかお布団もね!」
「はいはい」
「えーっとそれからそれから」
「れーいむー! いい加減にしなさーいっ!」
むぅ……と、おくうはなんとなく面白くない気分になった。改めて見てみると、月見はあのハクレイの巫女や天人と随分仲が良さそうだ。そりゃあ月見は地上の妖怪だから、地上の人間と仲が良かったとしてもそうおかしい話ではないのかもしれない。
それが、もやもやする。
おくうは生まれも育ちも生粋の地底っ子で、地上がどんな場所かなんてまるで知らない。月見がさとりたちにたびたび語っていた地上の話だって、今まで一度も聞こうとしてこなかった。だからわからない。月見は、地上で一体どんな生活をしているのだろうか。仲がいいやつらは、他にもいるのだろうか。どれくらいいるのだろう。どれくらい仲がいいのだろう。想像してみる、地上の知人友人に囲まれて、おくうたち地霊殿のみんながいなくてもまるで寂しがった様子もなく、楽しそうに生活している月見の姿を――。
(……)
やっぱり、もやもやした。
迂闊だったとしか言い様がない。
だってここには、古明地さとりがいるのだから。
「――おくう」
肩に手を置かれた。おくうはびくっとして振り向いた。案の定、そこには愉悦の表情を浮かべたさとりがいて、
「月見さんはしばらくここにいるんだから、今のうちに仲良くなっちゃえばいいのよ。だから、そんなに嫉妬」
「うに゛ゃあああああぁぁぁぁぁ――――――――ッ!!」
「ガッ」
耐えられるわけがなかった。さとりを体当たりで撥ね飛ばして部屋を出たおくうは、湯気を噴くヤカンみたいになって廊下を手当たり次第に爆走した。一階をほぼ走り尽くし、階段を駆け上がって二階を走り尽くし、一階に降りてきて中庭に飛び出すと、隅っこの植木に隠れて体育座りをしながら半分泣いた。
わかっている。
頭では、わかっているのだ。要するに、ついこの間まで、おくうが月見に嫉妬していたのと同じだ。みんなとどんどん打ち解けていってしまう月見の存在にもやもやしたように、月見と仲がいいハクレイの巫女や天人、果ては顔も名前も知らない地上のやつらにももやもやした。それだけのことだ。
それだけ。
「う、う゛ぅ……」
膝を丸めて、顔を押しつけて、ぜんぶあいつのせいだ、とおくうは思う。
おくうが今ここにいるのは、あの狐のせいだ。すべてを私のせいにしろと、あいつは確かに言ったのだ。つまりは今のおくうがこうも己の感情に翻弄されているのだって、みんなみんなあいつのせいなのだ。
責任取ってよ、と思う。
人の話も聞かず勝手におくうを助けたのだから、あいつにはおくうを後悔させないよう尽くさねばならない義務がある。人の許しもなく勝手におくうを式神にしたのだから、あいつにはおくうの理想の『ご主人様』たる義務があるのだ。
だから。
もっと。
私を、
見て。
なんて。
「う゛う゛う゛う゛う゛~…………!!」
――霊烏路空。寂しがり屋でヤキモチ焼きで、構ってほしい地獄鴉。
彼女がこの感情を乗り越えるには、どうやらまだまだ時間が掛かりそうである。
○
「……さとり、生きてるか?」
「ゴフッ……え、ええ、なんとか」
突如暴走したおくうに撥ね飛ばされ、さとりは漫画のように宙を舞った。月見の目には、三回くらい激しくひねっていたように映った。壁にぶつかって床に落下し、今は「ふふふ、あの子も強くなったわね……」みたいな訳知り顔でピクピク痙攣していた。
手を貸す者は誰もいない。霊夢と天子は目をパチクリさせて固まっていて、藤千代はふわふわと意味深な微笑みを浮かべていて、お燐とこいしはじとーっと手厳しい半目で、
「さとり様……あたい、今のはさとり様が悪いと思います」
「どうかーん」
「ケホッ……そ、そうね。さすがにいたずらが過ぎたかしら」
目の前で霊夢と天子が騒いでいたせいで、なにがあったのか見逃してしまった月見である。ただ、遠くの方でおくうが「うに゛ゃあああああ……」と叫びながら走り回っているのはわかる。
「……お前、なにやったんだ?」
「た、大したことではないので、気にしないでください。ケフ」
ぷるぷるしながら立ち上がるさとりは、生まれたての子鹿みたいだった。
「ところで、おくうと話はできましたか? コフ」
「ああ。……お前たちが言った通りだよ。本当に優しい子だね、おくうは」
にゃ? とお燐が目ざとく眉を上げた。
「おにーさん、今おくうのこと……」
「『おくう』って呼ぶようになったんだね!」
目を輝かせたこいしは腕を組み、しみじみとした顔つきで大きく三回も頷いて、
「そっかー、おくうも遂にかーっ」
「じゃあおにーさんとおくうは、完全に仲直りしたんだねっ」
「仲直りというより、今ようやくスタート地点に立ったようなものだけどね」
おくうははじめて出会った当初からずっとずっと、月見を拒絶し続けてきたのだから。
「ふふ。これで月見さんも、立派な地霊殿の一員ですね。エフ」
「ねえねえ、もうここで私たちと一緒に暮らしちゃおうよ!」
天子と霊夢が脊髄反射で反応した。
「だだだっダメだよそんなの!?」
「そうよ! 月見さんは怪我が治り次第地上に戻って、私に美味しい料理を振る舞う義務があるのよ!」
「ズルい! 地上の人たちばっかり月見を独り占めして!」
「負け犬は引っ込んでなさい!」
「それとこれとは話が別だもん! さっきはたまたま負けただけだもんっ!」
ぶーぶー唇を尖らすこいしに、霊夢は「はン」と小鼻を鳴らして返し、
「じゃあ、月見さんを賭けてもっかい勝負してみる? まあ同じ結果になるに決まってるけどっ」
「むかっ――いいよ、今度こそ絶対勝つもん! 私が勝ったら、月見はここで暮らすんだからね!」
「じょーとーよ小娘がぁっ!! もっかいケチョンケチョンにしてやるわ!!」
「うるさいうるさいっ、そっちだってチンチクリンのくせにーっ!!」
「誰がチンチクリンよよっしゃ表出ろ――――――――ッ!!」
と。
売り言葉に買い言葉。少し前のおくうに負けず劣らずの勢いで、ドッタンバッタンと騒がしく外に走り出して行
「あなたたち、なにを騒いで――ひゃっ!?」
「「うわぁっ!?」」
く、直前。奇しくも廊下側からぬっと現れた少女と、ど派手に正面衝突した。
三者、尻餅。
「いたぁ……っ」
「「ひっ」」
自分が誰にぶつかってしまったのかを理解して、霊夢とこいしが頭の先から首の下まで青ざめた。ついでに、部屋のさとりや天子たちまで「ひいっ」と真っ青になった。
涙目でお尻のあたりをさすっているのは、見紛うことなく――
「なんなんですか、もぉ……」
――四季映姫・ヤマザナドゥ。
部屋中に少女たちの、心臓が鼓動を止めたような緊張が駆け抜ける。間違いなく、昨日のお説教地獄の記憶が甦っているはずだ。誰しもが、あの鬼子母神ですら、指の先まで凍りついて微動だにもできないでいた。
そのとき更に、「あーほら言わんこっちゃないー」と別の少女の声がして、
「なにやってるのさまったく。みっともないねえ」
「こ、この二人がいきなり飛び出してくるからですっ!」
「あんただっていきなり飛び込んでったでしょ」
「ぐ、ぐう……っ」
ひょこりと顔を出したのは、トレードマークの角がぽっきり折れている勇儀だ。映姫を片腕で軽々引き起こし、恐れも知らぬ呆れ顔を向けて、
「そもそも、勝手に人の家にあがっちゃダメでしょうが」
「なにを言いますか。ちゃんと、お庭にいたペットが案内してくれたでしょう」
「いや、あれは一目散で逃げたっていうんじゃないかな……」
この閻魔、あいかわらずである。
とはいえ無視するわけにもいかないので、月見は控えめに声を掛けてみる。
「映姫」
「!」
そこからの映姫の反応は、まさに百面相の如しだった。
まず月見の方を見て驚き、
次にぱっと笑顔になりかけ、
すぐさま慌てたように首を振って、
真顔でこほんと咳払い、
そして最後にはいつもの澄ました雰囲気で、
「――目を覚ましたのですね。なによりです」
「……素直に喜べばいいのに」
鋭い空気の破裂音が響き渡り、うずくまってぷるぷる脳天を押さえる星熊勇儀ができあがった。
映姫はフルスイングした悔悟棒を胸の前の位置に戻して、
「ですが、今はそれよりも――博麗霊夢、古明地こいし」
「「は、はひっ」」
氷の眼差しで見下ろされ、霊夢とこいしが尻餅をついた恰好のまま後ずさる。
映姫は薄い不穏な微笑みで、
「なにやら口喧嘩らしきものが聞こえましたが……まさかとは思いますが、昨日の私のお説教、理解してもらえていないのでしょうか」
「そそそっそんなことないわよ! 私たちもぉーメチャクチャ仲良しだしっ!」
「そうだよ、もう友達だよっ」
胸の前で互いの手と手を合わせ、「ねーっ!」とかわいらしく声を揃える二人。笑顔が完璧に引きつっている。
「……まあ、いいでしょう。ともかく、昨日の異変を受けてなお争うような真似はこの私が許しませんからね。ゆめゆめ忘れないように」
「頑張った月見のためだもんね」
また破裂音。愚かな勇儀はうずくまるどころか膝を床について、土下座するような恰好でびくんびくんと痙攣していた。
藤千代が半泣きになっている。四季映姫・ヤマザナドゥ――鬼子母神を本気で泣かす、世界で唯一の生命体である。
「月見くん……逃げていいですか?」
「……少し待っててくれ。私がなんとかするから」
あいかわらず、面倒くさい閻魔様である――が、そんな彼女も根は優しく面倒見のいいお姉さんなのだと、月見は或いは幻想郷の誰よりも身を以て知っている。そう、根は優しい少女なのだ。根は。
「おはよう、映姫。昨日はすまなかったね、医者まで呼んでもらったとか」
映姫はあくまでフラットな表情のまま、
「怪我人への対応として、当然のことをしたまでです。それより、やけにピンピンしていますが体の具合は大丈夫なのですか?」
「ああ、ぜんぶ話すよ」
予想通りの反応だ。ここで月見は冷や汗ダラダラな少女たちを見回し、努めて自然で、さりげない風を装って言った。
「というわけで、私は映姫と話をするから。お前たちは、少し席を外してくれないか?」
「「「……っ!!」」」
そのとき少女たちが一様に浮かべた表情を、月見はしばらくの間忘れられそうにない。
地獄で仏を見たような。
なので月見は、つくづくこう思う。
――もしかすると、世界最強は閻魔様なのかもしれない。
「……まさかとは思いますが、起きていきなり外を歩き回ったりはしていないでしょうね」
「………………ああ、もちろんだとも」
「なんですか今の間は。こら、こっちを見なさい。こら」
しかし、この判断は少々迂闊だったかもしれない。勇儀がいるとはいえ映姫とほぼ一対一の状況になってしまっては、今度は月見がお説教地獄に堕とされてしまうのではないか。月見とて、異変の根本的な引鉄を引いてしまった罪のある身。説教大好きな閻魔様にしてみれば、まさに恰好の獲物というやつだろう。
ほのかに身構える月見の先で、映姫はやはりいかめしく椅子に腰を下ろした。
「まったく……改めて言いますが、あなたは己の危機管理がまるでなっていません。妖怪だから大したことないとでも思っていますか。そもそも、」
「ちょいと閻魔サマー、この期に及んで説教なんてやめとくれよー」
そういえば勇儀は、昨日のお説教地獄に巻き込まれたのだろうか。
早速くどくど語り始めようとした映姫の腰を折り、勇儀がテーブルの上にどかんと置いたのは、伊吹瓢の三倍くらいはありそうな巨大な瓢箪であり、
「月見、お酒持ってきたよっ。さあ一緒に呑もうか!」
「馬鹿者」
映姫が勇儀の頭をぺちんと叩いた。
「あいた。……ちょっと、さっきから私ばっかり叩かれすぎじゃない!?」
「自業自得です! 今日目覚めたばかりの大怪我人に、いきなり酒を呑ませる者がありますかっ! 傷に響いたらどうするつもりです!」
「なにをぅ!? 酒は百薬の長っていうじゃないか!」
「適切なときに適度な量で嗜むならばの話です! 起きていきなり鬼のあなたと一緒に呑むなど、適切も適度もあったものではありませんっ!」
「つまんな――――――――いっ!!」
頬を膨らませて激しいブーイングを飛ばす勇儀に、映姫は頭を押さえて重いため息をついた。きっと脳裏では、このお調子者な鬼に某サボり魔の姿が重なっているのだろう。
半目で月見を睨んで、
「……一応言っておきますけど、ダメですからね。許しませんよ」
「わかってるよ。……勇儀。酒は傷が治ってから、ゆっくりとね」
「ぶー!」
あちこち包帯だらけな今の状態で酒なぞ呷ったら、体にどんな悪影響があるかわかったもんじゃない。少なくとも外の人間の世界では、入院患者に飲酒は御法度が常識だ。
ちょうど話が区切れたので、今のうちに言いたいことを――映姫の気を説教から逸らす意味でも――言ってしまおうと思う。
「それより二人とも、礼を言わせてくれ。昨日は助かったよ」
頭を下げ、
「特に、映姫。私が倒れたあとのこと、ぜんぶ面倒見てくれたみたいだね。……本当にありがとう」
心の底から、助けられたと言わざるを得ないだろう。みんなが精神崩壊を起こすまでひらすら説教しまくったという、血も涙もなく残忍なやり方はさておき。
む、と映姫がほんのかすかに肩を揺らした。
「……礼には及びません。閻魔としての職務を果たしただけのことです。ここは、元々地獄の一部だった場所なのですから」
「それでもだよ」
月見はまぶたを下ろし、今となっては遠い昔の、かつて幼かった映姫の姿を想起しながら、
「……お前と出会えてよかった。心から、そう思うよ」
「へゃ、」
変な声が聞こえた。月見が前を見ると、そこにはちょうど耳の先まで真っ赤になっていく途中の、半分赤で半分白な映姫の顔があった。
二秒後、耳の先までぜんぶ真っ赤になった彼女は、
「え、えっほん!!」
と大きく咳払いとして、それから急にしおらしくなってぽそぽそと、
「お、己の過ちを認め、感謝の心を忘れないのは、殊勝なことですね……。で、ですが、私はほんの少し手助けをしただけで……あの異変を終わらせたのは、他でもない、あなた自身の力であって……そこは、私も、まあ……認めてあげないでも、ないといいますか」
「映姫?」
「つまりですね!?」
突然大声で叫び、またぽそぽそぽそぽそ、
「あ、あなたは、ちゃんと己の罪を自覚していて……それで、罪を少しでも償おうと、そんな姿になるまで力を尽くしたわけですし……今回は、まあ、その、特別に、特別にっ、大目に見てあげないことも」
「ねーねーさとりー、ちょっとこっち来てくれないかなー! 今ならめっちゃ面白い心が読」
映姫が獣の動きで弾幕を撃った。
悲鳴すら上がらない。
「――ともかく、今は安静にして傷を癒やすことに専念してください。不必要に動き回るなど、怪我人にあるまじき行動をしているようでしたら、そのときこそお説教ですからね」
「……ああ。肝に銘じておくよ」
部屋の隅でぷすぷすと香ばしい煙をあげる勇儀に合掌しながら、月見は改めて、満場一致でしみじみと思うのだった。
やっぱり、世界最強は閻魔様だろう。
○
地霊殿始まって以来最もドタバタだった一日が、ようやく終わりを迎えようとしている。月見以外の客が皆自分たちの場所へと帰り、時間の上では疾うに夜が更けた地霊殿で、さとりは二人分のココアを携えて、ランプとステンドグラスの明かりが照らす廊下をひっそりと歩いていた。
行き先はもちろん、月見の部屋――正確にいえば、月見に貸して休んでもらっている部屋――だ。こいしがもうここに住んじゃえばいいのにとせがんでいたが、なにがどう転んだとしても、月見は怪我が治り次第地上へ戻るだろう。月見の居場所は地底ではなく、地上には月見の帰りを待っているたくさんの人たちがいるはずだから。
こうして月見と一緒の賑やかな一日を送れるのは、長くても一週間程度だろうか。それが終われば今までと同じように、月見がやってきてくれる日をただ地霊殿で待つしかない生活に戻るのだ。
少し、名残惜しい。
物思いに耽るうちに目的地へ着いたので、控えめにノックをする。
「……月見さん、起きてますか?」
『ああ、起きてるよ。どうぞ』
トレーの上のカップを落とさないよう気をつけながら、慎重にドアを開ける。ランプの明かりで朧に照らされた薄暗い部屋。ベッドに座る月見が読んでいた本を畳み、枕元に置いた。
「待っていてくれ。今、明かりをつけるよ」
月見が左の掌を軽く開くと、そこに青白く燃える小さな炎が灯った。月見の手を離れた炎は人魂のようにふよふよと宙を漂って、さとりの足下を明るく照らしあげてくれた。
狐火。ただしこれは熱を持たない陰火であり、火事や火傷の心配はまったくないらしい。
「……便利ですね」
そういえばお燐も似た術が使えたっけな、とさとりはふっと思い出した。青白く幻想的に照らし出された部屋の姿は、なんだか地霊殿ではないみたいだ。
ベッドの傍の丸テーブルに、トレーを置く。
「ココアをいれてみました。よければ、どうぞ」
「ありがとう」
今朝目を覚ましたばかりだから当然だが、月見はまだ包帯だらけの痛々しい姿をしている。彼の包帯を誰が取り替えるかで、藤千代を中心として激しい議論が飛び交ったのは数時間前の話だ。結局、月見が自力でできるところは自分でやって、背中や腕の難しい部分だけを藤千代とこいしが手伝う、という形で落ち着いた。おくうも手伝えばよかったのに、とさとりは今でも残念に思っている。月見の怪我が完治するまでの間に、一度でもいいからおくうに手伝わせてやるのがさとりの目標だ。
傍の椅子に腰を下ろす。こいしたちは? と心の声で訊かれたので、答える。
「みんな一緒にお風呂に入ってますよ」
――おくうも?
「ええ」
――そうか。仲がいいようで、なにより。
さとりはクスリと片笑む。
「月見さんが、助けてくださったお陰ですね」
――よしてくれ。私が助けたのは私自身だ。諦めの悪い変人、くらいに思ってもらった方が気が楽だよ。
「……月見さんらしいですね」
心からそう思う。交友関係の広さ故か、なにかと間接的なトラブルメーカーになりやすく、困っている人がいればつい世話を焼いてしまい、泣いている人はどうも後味が悪くて見過ごせない。それがたとえ月見を嫌う相手でも、助けなんて求めていなくても、勝手に手を差し伸べて、勝手に助けて、しかしその迷いのない姿で、いつしか人間からも妖怪からも認められてしまう。かつてそうやって打ち解けた鴉天狗の少女がいて、そして今回だって、かたくなだったおくうの心に雪解けをもたらそうとしている。
「ありがとうございます、月見さん。私、いま、なんだか明日がすごく楽しみなんです。きっと、素敵な一日になるような気がして」
目に浮かぶようだ。こいしが元気に月見のお世話をしていて、おくうが、私だってと思いつつもやっぱり素直になれなくて。そんなおくうを横からお燐がからかっていて、時折やってきた藤千代が、月見のお世話をこいしと取り合って。そしてその喧騒を、さとりは月見と一緒に苦笑いで見守っている。
悲しんでいる人なんて、一人もいない。みんな、みんな、笑っている。
そんな日がもうすぐやってくるのだと、本気で信じることができる。
だからさとりは、言わずにはおれない。
「早く傷を治そうなんて、思わないでください。この地霊殿で、ゆっくり傷を癒やしてください。時間が許す限り、ずっとここにいてください」
少し恥ずかしかったけれど、それが、さとりの嘘偽りのない素直な気持ち。
なので最後は、せめて茶目っ気たっぷりに微笑んで、
「……じゃないと、拗ねちゃいますからね?」
よほど予想外の言葉だったのか、月見は目をまん丸にして呆然としていて、心の中もポカンと空白になっていた。沈黙が部屋の隅々まで広がっていく。だからさとりは遅蒔きながら、考えようによってはものすごく恥ずかしいことを言ってしまった気分になってきて、えっと違うんです今のはちょっと言葉不足で拗ねちゃうのはこいしやおくうであって決して私が拗ねるという意味ではいやちょっとは拗ねるかもしれませんけどともかく
「――つーくみーっ!!」
「!」
そのとき部屋のドアが勢いよく開いて、不意を衝かれたさとりは心臓が口から飛び出す思いで振り返った。飛び込んできていたのは、パジャマ姿で枕を抱き締めているこいしだ。更に後ろから、マットを抱えたお燐と敷き布団を担いだおくうも続いてくる。二人ともやはりパジャマ姿で、お燐は三つ編みを解いている。
見ればわかる通り、お風呂上がり――だが、しかし。
さとりは目をしばたたかせ、
「……えっと、あなたたちなにして」
「今日は、ここでみんな一緒に寝るの!」
「は、」
「お布団敷くよ!」
「さとり様、どいてくださーい!」
「うわわっ」
さとりを腰掛けごと脇に押しやって、お燐がテキパキとマットを敷き始めた。月見のベッドにぴったり寄り添うように位置を調整し、続け様におくうが敷き布団を、
「……い、言っておくけど、こいし様の命令で仕方なくだからっ。私は、別に、こんなところで寝たいなんて思ってないし……」
もちろんただの照れ隠しであり、ぜんぶわかっているこいしとお燐はにこにこしている。
さて、いい加減に頭の理解も追いついてきた。どうやらこいしたちは、
さとりはため息をついた。
「こいし、あなたはまた勝手なことを……」
「月見、いいでしょっ? みんなで一緒に寝れば、疲れも消し飛ぶよ!」
月見がこういうお願いは断らないとわかっていて、甘えているのだ。案の定、月見は迷った風もなく朗らかな一笑で、
「好きにするといいよ。ただし、夜更かしはさせないからね」
「わーい! というわけでお燐、おくう、じゃんじゃん持ってきて!」
「らじゃー!」
「わ、私は、こいし様たちと一緒に寝たいだけなんだからあっ」
お燐がノリノリで、おくうが捨て台詞を吐いて部屋を飛び出していく。少し経ってからお燐の「おくうはほんっと素直じゃないよねー!」とやけに大きめな声が響いてきて、おくうが「うにゃあああああ!?」と錯乱している。
こいしが、枕を抱えたまま月見のベッドにダイブした。ごろんと仰向けに寝転がって、なんともあざとい仕草で月見を見上げ、
「月見ー、私ここで寝てもいい?」
さとりは速やかにこいしを引きずり下ろした。
「お姉ちゃんのいじわる!!」
「こいし、調子に乗るのもいい加減にしなさい」
こいしに甘い月見も、さすがにこればかりは苦笑いだ。
「勘弁してくれ、またおくうに嫉妬されちゃうよ」
「……」
こいしは曰くありげな沈黙のあと、「……そっか。それもそうだね」とあっさり引き下がった。たった今、さとりをいじわる呼ばわりしたのが嘘みたいだ。この瞬間だけはさとりの頭の中に、こいしの心の声がはっきりと聞こえたような気がした。
――確かに、嫉妬しちゃうもんね。……月見じゃなくて、私に。
お燐たちが戻ってきた。おくうは掛け布団で、お燐はまたマットを抱えている。布団一組でみんなが寝るのはさすがに狭いから、二組並べて敷くつもりらしい。
その後二人が更にもう一往復して、ようやくお引っ越しは完了した。二組ぴっちり並んで敷かれた布団の上を、早速こいしがゴロゴロと転がった。
「なんだか、お泊まり会みたいだね!」
「みんなで一緒に寝たりなんて、ほとんどしたことなかったですからねー」
お燐の言う通りかもしれない。お燐はよく猫の姿で誰かのベッドに潜り込んだりしているが、おくうはそこまで甘え上手ではないし、こいしは外を放浪してばかりで地霊殿にいる時間の方が短いくらいだった。こいしたち三人が一緒に寝るなんて、本当に一体いつ以来の話になるのだろう。
「まだ寝るにはちょっと早いねー。なにかゲームでもする?」
「……みんな、夜更かししないでちゃんと静かに寝るのよ? 月見さんも、うるさかったら遠慮なく叱ってくれちゃっていいですから」
「ああ、そうさせてもらうよ」
本当かなあ、とさとりは怪しく思う。一応嘘は言っていないようだが、彼の言う『叱る』が果たしてどれほどのものやら。叱ると言いながら甘やかしていたっておかしくない気がする。
ぶー、とこいしがふくれ面でバタ足をし、
「じゃあ早寝するから、お姉ちゃんも早くお風呂入ってきてよー。先に寝ちゃうよー?」
「え?」
「え?」
さとりは首を傾げた。こいしはもちろん、お燐におくう、果ては月見の視線までもが揃ってさとりへ向けられ沈黙している。あれなんだろうこの空気、と思いながら心を読んだところによれば、
「……え、私もここで寝るの?」
「え、当たり前でしょ?」
「え?」
「え?」
こいし。私はそんな話、一言も聞いていないのだけれど。
「みんな一緒に寝るって言ったでしょ! だからお姉ちゃんも一緒だよ!」
なるほど確かに、こいしの言い分は一応理に適っている。しかし、まさか『みんな』の中に自分まで含まれていようとは予想外だった。このあとゆっくりお風呂に入って、こいしたちがちゃんと寝静まったのを確認してから、自室で本でも読みながら眠りに就くつもりだったのだ。さとりは一人で寝るのが好き――というより、能力が邪魔になってしまって、誰かと一緒に寝るのが難しい身の上なのだから。
そんなのはこいしだってわかっているだろうに、彼女は一目散で月見に飛びついて、
「月見ーっ! お姉ちゃんが、私たちと一緒に寝るのなんて嫌だって! はくじょーものっ!」
「ち、違うわよ!?」
いや安眠の妨げになるという意味ではなかなか否定もしづらいのだけれど、お燐とおくうが並々ならぬ寂しさでしょぼんとしていて、こいしのジト目も近年稀に見る破壊力でさとりの良心に突き刺さってきており、更に月見の前ではなるべくいい女ぶりたい個人的な心情もあって、
「わ、わかったわ! 急いで入ってくるから、ちょっと待ってて!?」
と慌てて答えた結果、およそ三十分後には、四人並んで仲良く布団の中に収まってしまっていた。
「えへへ。お姉ちゃんと一緒に寝るのなんて、久し振りかもー」
「……そうね」
月見に近い側から、おくう、さとり、こいし、お燐の順番である。おくうとこいしに左右を挟まれながら、私も大概甘いなあとさとりは静かに嘆息した。
布団二組に四人並んで入り込むと、さすがに狭い。左ではさとりとお燐に挟まれたこいしが嬉しそうにはしゃいでいて、右ではおくうがさとりの腕にぴったりとくっついている。単純に羽が邪魔なせいもあるが、それ以上に月見に一番近いところで寝ているのが恥ずかしくて、さっきからずっと彼に背を向けてばかりなおくうである。
月見と二人きりで話をして、いろいろと心境の変化もあったようだが、今なお素直になるまでは至れていない。とりあえず明日からは、二人の距離が早く縮まるようにいっぱいちょっかいを出していこうと心に決めるさとりだった。
「それじゃあ、明かりを消すよ」
「「はーいっ」」
こいしとお燐が幼さたっぷりに返事をする。宙を漂っていた狐火の明かりが消えて、部屋に夜の闇がやってくる。
「おやすみ月見ーっ! 明日もいっぱいお世話するからね!」
やる気満々で言うこいしに、月見はやんわりと笑って、
「はっはっは、お手柔らかに頼むよ」
「明日からは、おくうもいろいろとお手伝いするんじゃないかなー? なんたってほら、おにーさんの式神なんだし」
「にゅ!?」
まだ闇に目が慣れていないせいで顔は見えないが、今のお燐はニヨニヨと意地悪に笑っていて、おくうはボフンと一気に赤くなったはずだ。
「い、いや……私は、別に、そんな」
「あらおくう、一体なにを考え」
「うにゃあああああ――――――――っ!?」
「ぶっ」
絶叫したおくうに、ビンタをするような勢いで口を塞がれた。彼女がなにを考えていたのかは、例によって個人情報保護というやつだが――敢えて言うなら、この子って意外とオマセさんだったんだなあとだけ。一体どこで覚えてきたのやら。
突然のおくうの絶叫に、月見がベッドの上で驚いている。
「お、おくう?」
「なんでもない! ……ま、まあ、ちょっと飲み物を持ってくるくらいなら、してあげてもいいけどっ」
本当に素直じゃない。
しかし月見は、優しく息をついた音で、
「……そっか。じゃあ、そのときはお願いしようかな。ありがとう」
「……う、うにゅ……」
まさか普通に礼を言われると思っていなかったおくうは、二の句を失ってもじもじと沈黙した。さとりもこいしもお燐も、みんなほっこりした。
「さて、騒ぐのはおしまいだ。自分で言うのもなんだが、私は朝が早いからね。朝寝坊はさせてやらないよ」
「はーいっ」
こいしが布団の中をもぞもぞ動いて、さとりの腕に絡みついてくる。
「……こいし?」
「えへへー」
暗闇に未だ目が慣れず、こいしが一体どんな顔で笑っているのかさとりにはわからない。それが、なんだか無性に残念だった。きっと、見た目通りの女の子らしく、子どもらしく、ひどく無邪気で幼気な笑顔だったことだろう。
昨日の異変を通して一番変わったのは、もしかするとおくうよりもこいしなのかもしれないとさとりは思っている。今日一日だけだから、気のせいかもしれないけれど。しかし地底のあちこちを当てもなく
勝手に徘徊していた月見を見つけては、びっくりして。
博麗の巫女と口喧嘩をしては、ぷんすかと怒って。
閻魔様と遭遇しては、冷や汗ダラダラで慌てたりして。
いつもにこにこ笑ってばかりいたような少女が、随分と表情豊かになったものだと思うのは、果たしてさとりだけだろうか。もう長らく耳にしていないこいしの心の声が、ふとした拍子に聞こえてくるように感じるのは、さとりの独りよがりな勘違いだろうか。
そのとき、
「……お姉ちゃん。お燐、おくう」
「……?」
一日中あちこち動き回ったせいで早くも睡魔がやってきたらしく、こいしが半分ほど
しかし、間違いなく、こう言った。
「ずっと。……ずっと、一緒だよ」
……きっと、気のせいではない。そう思いたい。
辛い異変だった。さとりたちの心に、永劫消えることのない深い爪痕を残していった。たとえこの先の未来がどんなに平穏無事であろうとも、消せない記憶は呪いが如く甦り、さとりたちを幾度となく苦しめ続けるだろう。
でも、怖くなんてない。
そんな記憶に押し潰されてしまうほど、さとりたちは弱くなんてない。
みんなと一緒なら、何度だって、なんだって乗り越えていけると――本気で、信じることができたから。
これといって示し合わせたわけではない。明かりひとつない暗闇の中では互いの顔すらほとんど見えないのに、けれど自然と通じ合って、さとりは、お燐は、おくうは、今よりももっと近く、おしくらまんじゅうをするみたいにこいしの方へ体を寄せた。
いつ眠ってしまったのかは、覚えていない。でも、これだけははっきりと言える。
悪夢は、見なかった。
そして、今まで生きてきた中でいちばん、安らかに過ぎていった夜だったのだと。
○
翌朝、月見は今まで通りの時間に目を覚ました――と、思う。地底には太陽がないので、日差しの角度でおよその時間を見当づけることができない。異変が終わり、元の明るさを取り戻した地底の朝は大層薄暗く、闇の好む妖怪には心地よかろうが、月見にとってはなんとも落ち着かない不慣れな目覚めだった。日の光がないと落ち着かない――改めて、自分が如何に人間としての生活に毒されているのかを実感する。
ともあれ、起きた。両腕の包帯が緩んでいて、未だ火傷の痕の残る不恰好な肌が目に入った。とはいえ、順調に快方へと向かっているのは一目瞭然で、この程度ならもう包帯は外してしまって大丈夫かもしれない。あまり傷が深くなかった顔や脚を含め、明日にもなればほとんど完治していよう。
もっとも、傷が一番深い背中は、まだしばらく掛かるだろうが。昨日、包帯の交換を藤千代とこいしに手伝ってもらったときは、傷を見たこいしがその場で泣き出してしまって大変だった。
――こいし。
月見は、床を見下ろした。月見のベッドの脇につける形で、二組の布団が隙間なく敷かれていて、
「……ふふ」
思わず、目尻が緩んだ。四人並ぶには少々手狭な布団の中で、ともすれば寝苦しそうにも見えるほどぴったり寄り添って。
さとりが、こいしが、お燐が、おくうが、眠っている。それはもう、『安眠』のお手本として写真に撮って辞書に載せたくなるほど、すやすやと気持ちよさそうに眠っている。
辛い異変ではあった。月見が負った怪我なんてまさに道端の小さな石ころみたいなもので、彼女たちの心は想像も及ばぬほど傷つき、打ちひしがれ、苦しめられたはずだった。
だが、この、揃いも揃って能天気な寝顔を見て確信した。
この子たちなら、大丈夫だ。時には異変の記憶が甦り、震えてしまう夜もあるだろう。けれどそのとき、決して独りではない。大丈夫だよと言って、傍にいてくれる家族がいる。
辛い異変だったけれど、辛い異変だったからこそ。
また、今度はみんな一緒に、手をつないで歩き出していく。強く、強く、乗り越えていく。
だから月見はその背中を見守って、時に少し手を添えるだけでいい。
「……朝寝坊は、させてやらないって言ったけど」
小声で、呟く。余計な音を立てぬよう細心の注意でベッドから抜け出し、軽く伸びをして、床を見下ろしてはまたほころぶ。
「……もう少し、寝かせておいてやるとするか」
――みんな仲良く、幸せな夢を見ているだろうから。
散歩でも、してこようと思う。地底の朝は薄暗くて陰気だけれど、きっと快いひとときとなるだろう。
二組並べた布団の上で、四人ぴったり、割り込む隙間もないほど寄り添って。
すやすやと眠る、それはかけがえのない――とある幸せな、家族の形。
東方地霊殿――了。
○
「――月見さんっ、あなたはまた勝手に徘徊してえっ!! そろそろベッドに縛りつけますよ!?」
「つけるよー!?」
「……悪かったよ」
了。