この幻想郷には、現代社会からは失われてしまった古き佳き日本の原風景がある。
幻想郷に移り住んで早数ヶ月、神古志弦がその事実を改めて強く噛み締めたのは、幼女を愛でても犯罪者扱いされないと気づいたときだった。
故に、こう、口が動く。
「はあ、幼女最高」
「ぬくー……」
ちなみに真面目な話である。
過日、地底を未曾有の異変が襲い、月見らが死力を尽くして戦っていたとは――まさか露も知らず。
志弦は膝の上に諏訪子を乗せ、神社母屋にてこたつでぬくぬくと暖を取っていた。
「平和だねえー……」
「ぬくぬくー……」
守矢神社は妖怪の山の頂近くという高所に位置しており、窓からの景色には、遠く人里であがる煙の揺らめきがうっすらと映り込んでいる。今年一番の大雪が積もった幻想郷は白一色だが、だからこそ人里では、今日も子どもたちがあちこちを跳ね回って遊んでいるだろう。冬の寒さも吹き飛ばす持ち前の元気で、大人たちからお菓子をもらったり、遊び相手をしてもらったり、或いははしゃぎすぎて叱られていたりしているであろう。
それは現代社会から消えようとしている、かつてあった日本の姿なのかもしれない。
自分も昔――幼すぎてまだ普通の子どもとして生きていた頃――は、里の子どもたちのように、近所のお兄ちゃんやお姉ちゃん、おじさんおばさんに遊んでもらっていた気がする。単車に乗せてもらってそのへんを走り回ったり、お下がりのおもちゃをもらったり、家でご飯をご馳走してもらったり。いま振り返ってみると信じられない。『友達のご両親』ならまだしも、『名前も知らない近所の大人』だったのだから。名前も知らない大人を遊び相手にするなんて図々しいにもほどがあるし、よくわからない子どもの遊び相手をするなんて、大人たちはみんなお人好しだった。
でもあの頃は、楽しかった、と思う。
今の外は、道を尋ねようと子どもに声を掛けただけで不審者扱いされた、なんてニュースがまことしやかに囁かれる時代。かつて存在した『大人と子どものつながり』と呼べるものが、外の社会では次第に失われてきているのではないか。未成年を犯罪から守ろうと敏感になるあまり、大人が子どもを信用しない時代になってはいまいか。今の子どもたちは、親戚でもなんでもない近所の人に遊んでもらったりなんて、果たしてするのだろうか。
人々から忘れられたものが最後に行き着く楽園――幻想郷。
ならば外で忘れられつつある『人と人のつながり』は幻想入りし、里人たちの中に息づいている――のかも、しれない。
志弦の目からしてみれば、現代人よりもここの人々の方がよっぽど豊かな生活をしているように見える。ならば、郷に入っては郷に従え。志弦もその豊かさを存分に享受し、存分に幼女を愛でるのである。
以上、大変大真面目な話である。
「諏訪子の髪はサラふわだねー。女として羨ましいぞチクショー」
「あーうー、くすぐったいよー」
「わしゃわしゃ」
「あー」
天使。
諏訪子のサラサラでふわふわな髪を手櫛で堪能すると、人間離れした極上の手触りに、志弦はだらしのない恍惚の表情になった。そして実際、諏訪子は人間ではない。志弦の膝の上にすっぽりと収まっているこの、外の世界であればピカピカのランドセルを背負って小学校に通っているであろう幼女が、何千年という悠久の時を生きてきた由緒ある神様だというのだから、幻想もここに極まれりである。ねえ志弦、お前は近い将来、神様を膝の上に乗せて一緒にこたつでぬくぬくするんだよ――なんて幻想入りする前の自分に言っても、生暖かい眼差しで頭の神経を疑われるだけだったに違いない。
幻想郷には、諏訪子のように見た目幼女でも何百歳、何千歳という合法幼女がゴロゴロ転がっている。そして、みんな天使である。というか幼女でなくとも、幻想郷の女は皆一様にかわいらしく、美しく、天使であり、志弦の雀の涙みたいな女のプライドを、もう百回くらいは木っ端微塵に粉砕している。みんなの迸る女子力に比べたら志弦などいっそ男に分類すべき有様であり、しかしそんな志弦の顔を見に参拝客がやってきたりするのだから、幻想郷の男にはつくづく物好きが多いらしい。
とは、いえ。雪がもりもりと降り積もった銀世界の中、まさか守矢神社まで山登りしてくる奇人変人がいるはずもなく。
「平和ですねぇー……」
同じくこたつでぬくぬくしている早苗は、リラックスしすぎて半分溶けた餅みたいになっていた。しかしそんなだらしのない姿がまた志弦の頬を緩ませるのだから、かわいければなんだって許されるのだ。
「ほんとにねー……定年退職後は田舎でのんびり暮らしたいって人の気持ち、なんだかわかるような気がするなー」
もちろん、不便といえば不便だ。正直に言えば、ネットも最先端の家電製品もない幻想郷の生活を舐めていた。自分一人だったらご飯も満足に食べられなかった。早苗たちや月見に助けてもらえた自分は、本当に幸運だったのだと思う。
はじめは知らないことばかりで、大変だった、けれど。
知らなかったことが少しずつできるようになって、日々の生活に慣れてくると、ここで流れる時間は外よりもずっとゆるやかだった。きっと、学校のテストや大学受験、卒業論文や就職活動といった、人を生き急がせるものが幻想郷にはほとんどないからなのだと思う。将来への漠然とした不安から解き放たれ、天使な女の子たちと一緒にのんびり気ままな田舎暮らし。幻想入りして本当によかった。
早苗のみならず、諏訪子も段々ととろけてきた。
「でもこの前は、ちょっと麓の方が騒がしかったっけねえ……」
「月見さんが、またなんかやってたんじゃなーい?」
本人の前で言うとまこと遺憾な顔をされるだろうが、月見は幻想郷屈指のトラブルメーカーである――月見の周りに集まる少女たちがいつも騒動を巻き起こす、という意味で。八雲紫が春までの長い眠りに就いた分、今は少しだけ落ち着いているけれど。
「あっはは、そうかもねー。……月見といえば、尻尾モフりたくなってきたなあ」
諏訪子の呟きに、東風谷早苗という名の半分溶けた餅がぴくりと反応した。
「あー、いいですねー。こういう寒い日に、月見さんの尻尾で優しく包んでもらえたら……そのまま死んでもいいですよねぇー……」
「早苗ー、私を置いて逝かないでよーぅ……」
「じゃあ……志弦も一緒に死のう?」
「わーい早苗ったらヤンデレラー」
「そういう志弦はツンデレラー」
「べ、べつにあんたのためじゃないんだからねっ」
ほう、とため息。こたつの恐るべき魔力で神経中枢をやられて、志弦も早苗も諏訪子も次第になにも考えられなくなってくる。確か時間はそろそろお昼時で、お腹もそこそこ空いてきているはずなのに、昼食の準備をしようという気がまったく湧いてこない。動きたくない。諏訪子の頭に顎を載せる。緑豊かな森の香りがする。そのまま誰がなにを言うでもなく、満場一致でお昼寝タイムに、
襖が開いた。
「――うーさむさむ、ただいまー……うわあ、みんな溶けてる」
「こたつの魔力っスよー」
志弦は半分まどろみながら答えた。
帰ってきたのは、朝からお出掛けしていた八坂神奈子だった。マフラーを巻いて、鼻とほっぺたをほんのりと赤くして、冬の味わいあるなんとも艶めかしい出で立ちをしている。本人は「私にそういうのは似合わないってえ」と自虐しているが、素材の良さはどう足掻いてもわかってしまうものなのだ。
「ああ、今日は寒いからねえ。やっぱ日本に生まれたなら、冬はこたつに限るよねえ」
そう言って神奈子は、マフラーも脱がずにこたつにもぞもぞと入り込む。その途端、ほああ……と実に幸せそうなため息が口から広がる。こたつが秘める強大な魔力は、数千年の歴史を背負う偉大な神々をも骨抜きにするのだ。
諏訪子が半分とろけたまま問うた。
「どうだったの、例の話の方はー」
「ん、もうめっちゃいい感じさ」
例の話とは、神奈子が河童たちと共同で進めている新技術の開発計画のことだ。なんでも、とある神様のありがたーい御力を利用して、今の幻想郷にはない新エネルギーを生み出し、技術革命によって生活水準を飛躍的に向上させるのだ――と、やたら壮大なサクセスストーリーを描いているらしい。もちろん、最終学歴が事実上の高校中退な志弦に口を挟める道理もないので、計画が持ち上がった当初からずっと傍観させてもらっているけれど。
「河童との話もかなり煮詰まってきたし、地底のあいつも、そろそろいい感じに力に慣れてきただろうし。頃合いは近いよ」
「ふーん。じゃあ、あとは藤千代をどうするかってことか」
「ふふん、ここまで外堀を固めたんだ。さすがのあいつだって、そう簡単に断ったりはできないはずだよ」
「へー。そのお話、是非とも詳しく聞かせてほしいですねー」
神奈子の赤ら顔から、一瞬ですべての血の気が失せた。
一体いつからだったのか、神奈子のすぐ真横に座って、件の藤千代がこたつでぬくぬくと暖まっていた。
体の芯まで氷結していた神奈子が、こたつの熱でゆっくりと再起動を始める。青い顔でぷるぷる震え、テーブルに突っ伏し、ぐすっと大きく鼻をすすって、
「……死んだかと、思ったっ……!」
「むー、どういう意味ですかあ」
「死ぬほどびっくりしたって意味だよこのバカぁっ!!」
「でも私、神奈子さんが河童の里を出たあたりからずっと後ろにくっついてたんですよ?」
「ひいいいいいっ!?」
あいかわらずだなー、と志弦は苦笑した。巷では鬼子母神の名で――あくまで二つ名であり、本物の鬼子母神様とは一切関係ないらしい――、あらゆる妖怪からいろいろな意味で畏れられている少女、藤千代。神出鬼没が服を着て歩いているような彼女にとって、気がついたら真横にいたなんてのは日常茶飯事である。
そして涙目で震えあがる神奈子が、この世で最も苦手としている相手でもある。
「やっほー、藤千代ー」
「やっほーです、志弦さんっ」
しかし新参者の志弦にとっては、なんてことはない、幻想郷に数多くいるかわいい女の子の一人だった。小柄な体にお淑やかな着物姿と、しゃらしゃら小気味よく揺れる藤の髪飾りという雅な出で立ちの中で、額からすらりと伸びた二本角が胸を射抜くような魅力となって志弦に迫る。加えて誰にでも敬語を欠かさない親しみやすい性格でありながら、ひとたび
こたつの魔力で神経を麻痺させられている影響もあってか、早苗も諏訪子もまったく驚いていない。
「いやー……藤千代さんはあいかわらず、突然ひょっこりと出てきますねー」
「もう慣れたよね。まあ藤千代だしって感じで」
月見だって言っていた――「あいつは私たちとは生きている世界が違うから、やること為すことをいちいち気にしてたら疲れるよ」と。冬眠前の八雲紫だって言っていた――「あれを幻想郷の基準にしたりしないでね。ぜんぶぶっ飛んでるから」と。天魔様だって言っていた――「どうして天はあのような生命体を創りたもうたのか……」と。
そういう扱いなのだ、彼女は。頭の先から足の指先まですべてが『非常識』『規格外』『破天荒』という概念で構成され、幻想郷屈指の大妖怪たちから揃って匙を投げられる。それが神も涙目で震えて恐れをなす、鬼子母神こと藤千代という少女なのである。
「まあ、私なんかのことは置いておきましてっ。それより神奈子さん、さっきのお話なんですけど」
藤千代に笑顔で覗き込まれて、神奈子が真逆の方向に顔を背けた。当てもなく泳ぐ目線、ダラダラ流れる冷や汗、引きつる頬の筋肉、落ち着きなく揺れ動く体、「え、えーっと、それはね!」とやたら明るくも歯切れの悪い口振り――どこからどう見ても完璧な数え役満だった。
「なんというか、その……まだちょっと心の準備ができてないというか! 時期尚早って感じで!」
「ところで私も、今日は神奈子さんに用があってきたんですよ」
藤千代がこたつを出て、小動物みたいなかわいらしい動きで神奈子の目線の先に回り込む。また顔を背けようとした神奈子の肩をぐわしっと掴み、打って変わって、なにかオソロシイ魔物めいた不穏なオーラに神奈子は、
「旧都」
ぴく。
「地獄鴉」
ビクッ。
「八咫烏」
ビクンビクン。
スリーアウト。
「――というわけで、連行しまーっす!」
「ちょっと待ってえええええ!? それであんたがここに来るってことは……まさかっ!?」
「はい、暴走して大変なことになりました」
「んぎゃああああああああああ!?」
「さあさあ、れっつごーっ!」
「ひいいいいいいいいいい!!」
藤千代が片手で、いとも簡単に神奈子をこたつから引きずり出した。なんだかよくわからないが、『旧都』とは確か地底にある妖怪たちの住処だったはずだから、どうやら地底でなんらかのトラブルがあったらしい。
志弦は、神奈子と藤千代の会話の断片から更に推測する。『地獄鴉』は、文字通りに地獄の鴉という意味であれば、地底は元々地獄の一部だったというから、『地底にいる鴉』くらいの意味だろうか。『八咫烏』は、神奈子が今回の計画で活用しようとしていた神様が、確かそんな名前だった気がする。そして、『暴走』――この言葉を使う以上、どう楽観的に考えても大変な事件があったのは間違いあるまい。
極めつけに、藤千代が神奈子を重要参考人として連行しようとしていることから――。
あ、なんとなくわかりました。
「姐御……ご愁傷様」
「し、志弦が早くも見捨てる眼差しに!? 幻想郷の生活に慣れてきてるみたいで私は嬉しいよチクショウ!」
あらゆるものを受け入れる幻想郷で大切なのは、あらゆるものを受け入れる広く深い心なのです。
的外れではあるまい。恐らくは神奈子の進めていた計画が知らず識らずのうちに狂ってしまっていて、地底でなにか事件が起こったのだ。例えば、神奈子が新エネルギーの供給元として活用しようとしていた『なにか』が暴走し、地底に大きな被害を与えたとか。それで地底世界の代表である藤千代が、責任を持って神奈子を連行するため自ら出陣した。たっぷりと雪が降り積もった冬真っ盛りの日に、地底から遥々山登りしてくる理由となればそれくらいしかないはずだ。我ながら名推理な気がする。
諏訪子が、テーブルの上に伸びたままからからと笑う。
「あっははは、だから言ったでしょ神奈子ぉ。もしものことがあっても私知らないよって」
「なに言ってるんですか、諏訪子さんも連行ですよ」
「嘘でしょお!?」
「ガッ」
跳ね起きた諏訪子の脳天に顎をカチ上げられ、志弦は後ろに引っくり返った。
「ああっ、ごめん志弦……大丈夫っ?」
「ふ、ふふふ、だいじょーぶだよぜんぜん」
志弦は震える親指をまっすぐに立てて、精一杯の笑顔を返した。なにも問題はない。痛みの代償として志弦は今、幼女に馬乗りで心配されるという大変貴重な経験をしているのだから。お腹のあたりに感じるこの確かな重みとほのかな柔らかさは、そのテの連中を一発で仏に変える驚異の殺戮兵器であろう。
「……と、ともかくちょっと待ってよなんで私まで!? 私、無関係だよ! あれこれやってたのはぜんぶ神奈子だよっ!」
藤千代は表情を微動だにもさせない。ただ首を少し横に傾けて、
「でも、神奈子さんがやってること、ぜんぶ知ってたんですよね?」
「そ、それは、そうだけど」
「知った上で止めなかったのなら――それはもう、賛同していたのと同じですよね?」
「……あ、あの、」
「そうだよ諏訪子のやつ『へーいいじゃん面白そうだし』って言ってたもん!!」
「ちょっと神奈子おおおおおおおおおお!?」
「はーい連行でーっす!」
「神奈子のバカああああああああっ!?」
「私一人だけ連れ去られて堪るかああああああああっ!!」
神奈子を引きずり諏訪子を志弦の上から引きずり下ろし、藤千代はまるで、仲のいい友達を連れて遊びに行くかのようだった。
「それでは、ちょっと二人をお借りしますねっ」
「あはは……ほどほどにしてあげてくださいねー」
早苗はこたつでぬくぬくしながら苦笑いを浮かべるだけで、引き留める素振りはまったくない。『幻想郷では常識に囚われてはいけない』。外来人として一年ばかり先輩である早苗が、かつて志弦に贈った至言である。
「心配しないでください、ちゃんと生かして帰しますからっ」
「「そんなの当たり前だよ!?」」
「知ってますか? 旧都って……元々地獄だった場所なんですよね」
「「知ってるけどなんでそれを今言うの!?」」
「ではでは、れっつごーっ!」
「「いやああああああああああ!?」」
あっという間だった。藤千代は少女二人を軽々引きずって外に飛び出し、スキップをするように白い空の向こうへ飛んでいってしまった。フェードアウトで遠ざかっていく神二柱の悲鳴が、冬の木枯らしと一緒に寒々と山に響き渡っていった。
それが完全に聞こえなくなってから、志弦はむくりと起き上がって、じんじんと痛む顎をさすった。
「顎、大丈夫?」
「ん。いやーしかし、あいかわらず藤千代が来るとあれだね。なんかすごいね」
八雲紫とはまた別のベクトルで、嵐みたいな少女だと思う。
早苗はまったりと頬杖で頷いて、
「今日のお夕飯、私と志弦の二人分でいいかもねー」
「あ、やっぱそういう流れだったの?」
「まあ藤千代さんだから、本当にひどいことはしないはずだよ。ただ……」
そこで早苗は遠い目つきになり、ふっと静かな吐息を以て、
「トラウマのひとつやふたつくらいは、抱えて戻ってくると思うけど……」
「……そっかー」
それって充分『ひどいこと』な気もするけど――と感じてしまうのはきっと、志弦がまだ幻想郷に馴染みきれていないからなのだろう。私もまだまだ修行が足りないなあ、と思う。
お腹が鳴った。
「……それじゃあ、そろそろお昼にしよっかぁ」
「ういーっす」
諏訪子に顎をカチ上げられた痛みのお陰で、こたつの呪縛から解き放たれていた。また神経を骨抜きにされてしまわないうちに抜け出し、志弦は早苗と一緒に昼食の支度へ向かう。
ちょっとは心配してよバカああああああああああ!! と。
そんな神様の悲鳴が、遠い冬の空の彼方で木霊したような気がした。
○
「――みーなさーん! 連れてきましたよーっ!」
「「あばばばばばばばばばば」」
藤千代が稲妻みたいな勢いで帰ってきた。エントランスの扉をブチ抜く音、地霊殿の廊下を駆け抜ける音、両足でブレーキを掛ける音の三段階を華麗に踏んで、月見の部屋の手前で彼女はぴたりと立ち止まった。馬手で神奈子、弓手で諏訪子を引きずっている。兎さながら跳躍し一息で月見の傍までやってきて、着地のさなか床に叩きつけられた二柱の神が、ゴフッと哀れな悲鳴をあげる。そんな彼女たちを、月見は緩いため息ひとつで歓迎する。
地霊殿の、月見に貸し与えられた空き部屋である。ベッドに腰掛ける月見の他に、面子はさとり、こいし、お燐、おくう、更には映姫までが集まっている。みんな揃って藤千代の帰りを待っていたのだ。
なぜか。こいしが早速、びくんびくんと痙攣している神奈子を指差して言った。
「あ、そうそう! この神様だよ!」
異変が終わり、地底はすっかり冬の気候に戻っていた。窓から望む旧都の町並みは、薄暗い中でもはっきりとわかる純白の雪化粧で染まっている。部屋の窓を開ければ、もしくは地霊殿を一歩外に出れば、厳しい真冬の冷気が肌を刺すだろう。着流し一枚の雑な恰好でも月見が快適な生活を送れているのは、元の落ち着きを取り戻した灼熱地獄跡が、床暖房の役目を果たしてくれているからだ。
なにもかもが元通りとは、さすがに行かないけれど。
おくうは再び家族の輪の中へと帰り、こいしと『博麗』の因縁もひとまずの決着を見た。辛い異変だったけれど、だからこそその過去を乗り越えて、地霊殿は新しい日常へと歩み出してゆくだろう。
たったひとつ、残されたままになっていた最後の問題を除いては。
その解答を、こいしが口にした。
「この神様が、いきなり私に声を掛けてきて……神様の力に興味はないかって!」
そもそもの話、すべての根本的なきっかけ――おくうに八咫烏の力を与えたのが、一体誰だったのか。異変が無事に終わった安堵からか、月見もすっかり忘れてしまっていたのだが、少し前にふと思い出してこいしに尋ねてみたところ、一発で犯人がわかったのだ。
――えっとね、私も名前は聞いてなかったんだけど……背中におっきな注連縄を背負ってたよ!
そりゃあ、もちろん。というか打ち明けた話、あいつなんじゃないかと月見は薄々感づいていた。
そんなわけで今、月見の目の前で、おっきな注連縄を背負った神様こと八坂神奈子がびくんびくんと痙攣しているのだった。
「おくうは覚えてる?」
こいしに問われたおくうは膝を折り、ぐるぐるおめめな神奈子をじーっと観察した。首をひねり、ほどなくして頷き、
「ぼんやりとですけど……確かに、こんな感じの注連縄だったような?」
幻想郷の中でもとりわけ個性的な恰好をしているせいで、神奈子は注連縄でしか他人から識別されていないフシがある。かく言う月見も、頭の中では『神奈子=注連縄』の図式が成立している。だからこそ、こいしの話を聞いて一発で犯人がわかったわけで。
神奈子は間違いなく黒。では、その横でばたんきゅーな諏訪子はどうだろうか。
「こっちの小さい方の神様は知ってるか?」
「んーん、こっちは知らないよ。へー、こういう神様もいるんだー」
こいしが諏訪子の横腹を面白そうに指でつついた。おくうもふるふると首を振っている。二人が諏訪子を知らないのなら、おくうに力を与えたのは神奈子一人の仕業と見るのが妥当だろうか。
だが、同じ守矢神社で生活していて神奈子の動向を知らなかったはずはあるまい。藤千代も、そう考えたからこそ諏訪子まで漏れなく引きずってきたのだろう。
諏訪子が起きた。
「――はっ!? あれっここどこ!?」
「やあ、諏訪子」
目を白黒させ困惑したのなどほんの一瞬で、彼女は月見に気づくなり太陽の笑顔で、
「あっ月見だー! わーい尻尾モフらせグエ」
「ふふふ。諏訪子さんったら、はしゃいじゃダメですよぉ」
藤千代にホールドされた。お腹をミシミシと圧迫する不吉な圧力に、諏訪子はいま自分が置かれている状況を思い出したようだった。顔面蒼白で慌てふためき、
「ち、ちちちっ違うんだよ私なにもしてないっ! 確かに神奈子がなにやってるかは知ってたけどそれだけで、ってかそういえばなんで月見がここにいるの!? ぎゃー閻魔様までいるうううううッ!?」
諏訪子の大声で神奈子も起きた。
「う~ん……あれ、ここは――ひいいいっ!? 閻魔様あッ!?」
仰け反る二人に映姫は目を眇め、
「あなたたち、揃いも揃って人の顔を見るなり悲鳴をあげるとは……失礼極まりますね」
「「ごめんなさいっ!?」」
「まったく……。ですが、まあいいです。今は、それよりも重要な話がありますからね」
咳払いひとつで声の調子を整える。閻魔が故の職業病ともいうべきか、彼女は早くもこの場を執り仕切るつもりらしい。
「さて、八坂神奈子、洩矢諏訪子。なぜこの場に連れて来られたか、言われずともわかっていますね?」
「「……、」」
閻魔様の途方もないプレッシャーに、神奈子も諏訪子も為す術なくその場に正座した。二人とも、早くも泣きそうだった。「藤千代だけならまだしも、閻魔様までなんて反則だよおおお……!?」と、彼女たちの表情は震える唇の代わりに甲高く悲鳴をあげていた。
「このたび、あなた方が霊烏路空に与えた八咫烏の」
「はい! やったのは神奈子で、私は無関係ですっ!」
「ちょっと諏訪子おおおおお!?」
諏訪子がいきなり保身に走ったが、映姫はまったく取り合わない。
「黙りなさい。あなたも八坂神奈子の計画を知った上で、反対しなかったのでしょう。それは賛同と同じです。つまり同罪です」
諏訪子が涙目で閉口し、神奈子は小さくガッツポーズをした。そのやりとりを見て、月見は神奈子と諏訪子のそれぞれの立ち位置を、おぼろげながら理解した。
こいしの話によれば、おくうに八咫烏の力が与えられたのは、灼熱地獄の熱をエネルギー源として『サンギョウカクメイ』を起こすためだったという。今の灼熱地獄はかつての役目を終えており、精々が地霊殿の床暖房としてひっそりと役立つ程度でしかない。だから手始めに八咫烏の力で、灼熱地獄を本来の猛々しい姿に戻してほしいという話だったわけだ。
そして、その計画を主導になって進めていたのは神奈子だ。諏訪子は恐らく、守矢神社から動かず机上で計画をサポートしたか、一人であれこれ暗躍する神奈子を傍観しているだけだった。だから諏訪子は己の潔白を切実に訴え、神奈子は死なば諸共で道連れにしようとしているのだろう。
映姫は話を続ける。
「その八咫烏の力が、今回暴走し、地底に大きな被害をもたらしました。地上にもある程度の影響が及び、博麗の巫女がこれを異変と認め、解決に動くほどでした」
「私もその流れで地底に来て、まあいろいろあって今も戻ってないんだよ」
神奈子と諏訪子が同時に目を剥いた。お燐によって送り込まれた妖精たちは妖怪の山を中心に騒ぎを起こしたが、守矢神社はその頂上付近に位置しており、ある意味で下界から切り離された秘境ともいえる場所。二人ともまったく気づいていなかったか、「今日も麓の方が賑やかだなあ」程度にしか考えていなかったのだろう。
「つきましてはあなた方から、詳しく話を聞かなければなりません」
「およそのところはこの子から聞いたけどね。灼熱地獄のエネルギーを使って、幻想郷の技術に革命を起こすつもりだったんだって?」
神奈子がカクカクと素早く頷く。
「そっそそそ、そうなんだよ。所謂自然エネルギーの有効活用ってやつで、決して悪いことを考えてたわけじゃなくてねっ?」
「ですが、結果としては異変の引鉄となり、大きな被害をもたらしました」
「……ぐ、具体的にはどれくらい?」
諏訪子の質問には、藤千代が答える。
「地底の大地が、かなり大規模に崩壊しちゃいましてー。幸い旧都からは離れていたので、私たちの生活に支障は出ていませんが……あ、あとで直してくださいね」
「直ッ……!? ちょっと待って、どんくらい崩壊しちゃったっての!?」
藤千代が両腕をいっぱいに広げ、体ぜんぶを使って大きな円を描いた。それから頬が引きつる諏訪子に笑顔で、
「でも、諏訪子さんの能力ならお茶の子サイサイですよね?」
「た、確かに大地を創るのは得意だけどっ……信仰使うから疲労が……それになんで私だけなのさ神奈子もやってよ! むしろ神奈子がやってよ!?」
「無理だよ!? 私、大地創造は専門外だって!」
「神奈子だって由緒正しい神の一柱でしょ! 大地創造くらいちょっとでもできないと恥ずかしいよ!?」
「うるさいですよ。誰が無駄口を叩いていいと言いましたか」
諏訪子は泣く泣く黙った。神奈子はほっと胸を撫で下ろし、
「安心なさい。あなた方二人の罪については、私がきっちり裁いてあげますから」
ひっく。
「……それに、被害があったのはここの土地ばかりではありません」
映姫はつと月見を一瞥し、
「……この狐も、少なからず、傷を負いました。順調に快方へ向かっていますから、心配は要りませんが」
「えっ――月見、怪我したの!?」
神奈子が腰を浮かせた。今の月見は、治りの早かった顔や手足についてはすでに包帯を外していて、着流しである以外は至っていつも通りの恰好に見える。しかし傷の深かった背中にはまだぴっしりと包帯が巻かれているし、尻尾も治りきっていないため妖術で隠したままだ。
一拍遅れて、諏訪子も膝立ちになって叫んだ。
「待って! そういえば月見、尻尾どこ行ったの!? ……まさかっ!?」
月見はとりあえず、尻尾を一本だけ二人の前に出した。半分ほどが元の銀の毛並みを取り戻し、しかしまだ半分が黒く焼けたままとなっている中途半端な尻尾を見て、諏訪子の顔つきから一切の感情が消失した。
――ところで諏訪子は
諏訪子の小さい体から突如暗黒のオーラが噴き出し、さとりとこいしが「ひっ」と小さく悲鳴をあげて後ずさった。お燐とおくうが、獣の動きで部屋の隅っこまで逃げた。
たとえこの中で一、二を争うほど幼い見た目をしていても、洩矢諏訪子はかつて土着神の頂点を極めた神の中の神である。ぐゥるり――と、幽鬼、もしくは怨霊が如く神奈子へ振り向いて、月見も未だかつて聞いたことがないドス黒い声音で、
「神奈子ォ――第二次諏訪大戦、しようか……」
「まままっ待って待って落ち着いて!? 荒御魂出てる、荒御魂出てるって!?」
「祟り神を統べる私の恨みを買うってこと……思い知らせてあげるよ」
「ひいいい!?」
暗黒のオーラが蛇のようにうねってあたりへ散らばる。洩矢諏訪子が何百、或いは何千年か振りに見せた祟り神としての姿は、映姫ですらわずかに気圧され、咄嗟に口を挟めなくなるほどだった。
しかし荒ぶる諏訪子の怒りを鎮める方法は、八咫烏とは違って実に簡単だ。
「諏訪子。尻尾はもう数日もあれば治るし、治ったら思う存分触っていいから。だから落ち着」
「ほんとに!? わかった落ち着くっ」
月見が言い終えるよりも先に諏訪子はコロッと笑顔になり、暗黒のオーラは露と消え去った。
空気が一気に弛緩した。
「「「…………」」」
「あれ? なんだろこの空気」
「……なんでもないさ」
洩矢諏訪子の御魂を慰める最高の供物は、獣のモフ尻尾なのである。
軌道修正。
「それはそうと、あんまり神奈子ばかりを責めないでやってくれ。今回の異変については、私たちの方にも少なからず原因はあるからね」
そもそもの問として、『神奈子が妙な計画を企てたりしなければ異変は起こらなかったか』といえば、まあその通りではあるのだろう。しかしながら、『では異変が起こったのは神奈子が妙な計画を企てたせいか』と問われれば、それは少しばかり違うと月見は思うのだ。
なぜなら神奈子は、決して充分とはいえないまでも、八咫烏の力が暴走しないように一定の配慮を見せていたのだから。おくうが、正直に話してくれた。自分には本来、力をセーブするための『制御棒』なる道具が与えられていて、能力を使う際は必ず身につけるよう厳命されていた。しかし霊夢や魔理沙と戦う中で自分は、暴走の危険を承知の上で、自らそれを捨ててしまったのだと。
たとえその理由が、『こいしを守るため』という已むを得ないものだったとしても。わかった上でやったのなら、責任が問われるべきは約束を破ったおくうの方であり、神奈子ではない。
更に言えば、制御棒とやらを捨てて間もない時点で、おくうはまだ暴走してはいなかった。ギリギリの一歩手前で耐え忍んでいたのだ。そこから彼女を暴走まで追いやってしまったのは、他でもない自分たちだったのだと月見は思う。
「……あ、あのっ」
恐らくは、今までずっとタイミングを見計らっていたはずだ。
さとりが、神奈子に向けて深く頭を下げていた。
「本当に、申し訳ありませんでした……! 月見さんの言う通りで、その……暴走してしまった原因は、私たちにもありまして……!」
「……えーっと、」
いきなりの謝罪に面食らいつつ、神奈子がさとりとこいしを見比べる。こいしを指差し、
「……こっちのお姉さんかなんか?」
「はい。古明地さとりといいます……ほら、こいしも謝ってっ」
「う……」
さとりに問答無用で前に出され、こいしは今にも消えてなくなりそうなほど小さくなって、
「ご、ごめんなさい……私、神様の力を……その、勝手なことに、使おうとしちゃって。それで……」
見た目が非常に幼いこいしから、よくわからぬまま一方的に謝られて、反って神奈子の方がバツが悪そうにしていた。
「いや……別にちょっと好きに使うくらい、よかったんだけど……」
首を振り、
「それよりも、なんで暴走なんかしちゃったのさ? まさか、制御棒を外したりしたわけじゃないでしょ? 外しちゃダメだって、ちゃんと言ったもんね、私」
部屋の隅っこで、おくうがびくりと体を震わせた。
神奈子が気づいた。
「……ねえ。いや、まさかね? まさかとは思うんだけど……」
「う、ううっ……」
おくうが、お燐の腕を掴んでその後ろに隠れようとする。しかしさとりに「ちゃんとしなさい」と鋭い目線を刺され、進退窮まったおくうは意を決して、
「ご、ごめんなさいっ……実は制御棒、捨てちゃ」
「なあああああんで捨てたのおおおおおおおおおお!?」
「「ごごごっごめんなさいごめんなさいごめんなさい!?」」
神速で詰め寄っていった神奈子の剣幕に、おくうとお燐が揃って腰を抜かした。
「捨てた!? 本気で言ってるの!? なんでどーして!? そりゃあ暴走するよ、制御できなくなるよ!! どこに捨てたのッ!?」
「あ、あの……しゃ、灼熱地獄」
「なああああああああんでえええええええええええええええ!?」
「「ごめんなさいいいいいいいいいいい!?」」
ああ、今度は神奈子の荒御魂が。
血の涙を流して荒ぶる神奈子の鬼神が如き形相に、おくうとお燐はお互いひしっと抱き合って、涙目でガタガタ震えていた。ぶっちゃけお燐はとばっちりだと思う。
「神奈子、落ち着いて。そういうわけだから、お前ばかりが悪いわけじゃないって、私はちゃんとわかってるよ」
「つ゛、つ゛ぐみ゛ぃ……!!」
神奈子が感極まって瞳を潤ませる。そう、月見はちゃんとわかっている。おくうをずっと苦しめ続けていた月見に、神奈子を悪し様に言う権利などありはしない。
神奈子だけが悪いわけではない。
つまりは――神奈子も、ある程度は悪い。よって月見は笑顔で、
「――まあ、千代にすら黙っていろいろ勝手なことやってた点については、フォローしないけどね」
「はう!?」
神奈子が胸を押さえてよろめき、
「それに、暴走を危惧して制御棒なる道具を与えておきながらも、その後監視もつけず、霊烏路空らを実質野放しにしていたのは浅慮と言わざるを得ません」
「ふぐうっ」
映姫の追撃で崩れ落ち、
「――というわけで、別室でもうちょっとお話しましょうね?」
「……………………ひっく、」
藤千代にガシリと肩を掴まれ、チェックメイトであった。
同じ神社で祀られる仲間を見向きもせず見捨てて、諏訪子が抜き足差し足忍び足の逃走を開始している。
「……じゃ、じゃあ私、とっても忙しいから先に帰るね。お疲れ様でし」
映姫に襟首を掴まれた。
「いやだあああああっ放してええええええええええ」
「ふふ、そんなに急ぐことはありません。あなた方には、たっぷりとお話したいことがありますからね」
映姫も藤千代も、身の毛もよだつ魅力あふれる大変ステキな笑顔だった。たぶん子どもが見たら泣くな、と月見は思う。実際神奈子と諏訪子は泣いていたし、おくうとお燐は抱き合ったまま真っ青に震え上がっていた。
「ではではさとりさん、ちょっと空き部屋をお借りしますね!」
「……はい。どうぞ」
さとりはもう、真顔でそれしか言えない。
映姫と藤千代に引きずられ、必死の抵抗空しく部屋から消えていった神々の姿は。
とにかくただ一言――哀れ、としか、言い様がなかった気がする。
「「「…………」」」
なにも言えないでいる少女たちを尻目に、月見は窓から空を見上げ、太陽があるわけでもないのに眩しく目を細めて呟いた。
「いやあ……改めて、平和な日常が戻ってきたって感じがするね」
「待ってください、今の光景を見てその感想なんですか!?」
さとりが驚愕している。地上を離れ長年地底暮らしをしている彼女なら、無理もない反応かもしれないけれど。
「慣れたもんだよ。地上じゃあ、あれくらいはぜんぜん珍しくないしね」
なんてったって、天狗の長である天魔が常日頃から
お燐にこの世ならざるモノを見る目をされた。
「おにーさん、地上で一体どんな生活してるの……?」
「普通の生活だとも」
「普通……? 今のが、普通……?」
「普通って……なに……?」と価値観が崩壊していく少女たちに、月見は是非ともこの言葉を贈りたい。
――幻想郷じゃあ、細かいことをいちいち気にしちゃいけません。
月見も幻想郷に戻ってきてからの約半年で、それを心底学んだのだ。
「「――たすけてええええええええええっ!!」」
幻想郷は、本日も平和の一言である。
平和ったら、平和なのだ。