銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色

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第110話 「けだものぶっとばすがーるず」

 

 

 

 

 

 月見が地霊殿で怪我の療養を始めて、三日が経った。

 月見があちこちを勝手に徘徊――本人は散歩だとかたくなに言い張っている――して回ったり、守矢の神々が映姫と藤千代の最恐コンビに油を搾られたりしてバタバタしていた日常も、四日目にもなればもうすっかり落ち着いていた。地霊殿の住人たちは異変が起こる以前の生活へと戻り、各々の仕事を全うしたり、思う存分趣味を満喫したり、なにもせずのんびり羽を伸ばしたりして平和な日々を謳歌している。

 そして今まで通りの日常に戻ったからこそ、地霊殿一地霊殿に詳しいと自負する古明地さとりの目には、異変の前と後で生まれた変化が鮮明に映し出されていた。

 気のせいではない。やっぱり、地霊殿は変わった。さとりがぼんやりと感じていた通り、それぞれにそれぞれの変化が生まれて、地霊殿の日常が鮮やかに彩られ始めていた。

 そんな一日を、地霊殿で過ごした時間なら誰にも負けない、ひきこもりなさとりの目線から見て行こうと思う。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 まず、なによりも目に見えて変わった人物としてこいしを挙げるべきだろう。

 今までと違って、外をぶらぶらと放浪しなくなったのだから当然だ。少なくとも異変が終わってからは勝手にいなくなったりせず、地霊殿でお燐やおくうと一緒に遊んだり、怪我が治りきらない月見の手助けをして回ったりしていた。

 本人は、気づいているのだろうか。

 

「お姉ちゃーん」

「なに?」

 

 こうしてこいしの方から、さとりの部屋を訪ねて来ることも多くなった。ノックふたつで部屋に入ってきたこいしは、両手にさとりの本を持っていて、

 

「月見が、本読み終わったってー。新しいのちょうだい」

「え、もう? 昨日貸したばっかりよね?」

「そうだけど……読み終わっちゃったんだって」

 

 早いなあ、とさとりは思う。月見には、簡単な散歩を除いて外出の許可を一切出していない。本人はもう出歩く分には問題ないと言っているし、実際腕や脚の軽い火傷は完治しているが、ともかく一番大きな背中の傷と尻尾が治らぬうちは外出なんて絶対にダメなのだ。月見は、この地霊殿で、最後までしっかり傷を癒やさなければならないのだから。

 そういう次第なので、月見が地霊殿でやることといえば、こいしたちの遊び相手をするか、静かに本を読むかのどちらかくらいなものだった。一日も経たぬうちに本を一冊読み終えたとしても、そう驚いた話ではないのかもしれないけれど。

 

「……この調子じゃあ、私の本はすぐ読破されちゃうわね」

 

 冗談めかして笑う。本当に冗談のつもりであり、さとりの本棚が読破される日はきっと来ないだろう、と思う。月見が本をすべて制覇するのと彼の傷が完治するのとでは、どう考えても後者の方が早い。そして月見は怪我が治り次第、元の地上の生活へ帰っていくだろうから。

 こいしに次の本を手渡し――そのついでで、さとりは問うてみた。

 

「ねえ、こいし」

「んー?」

「あなた最近、前みたいに外へ出て行かなくなったようだけど……」

 

 こいしがくるりと目を丸くした。どうやら自覚はまったくなかったようで、

 

「え、そうかな? ……うーん、そうかも?」

 

 首を右に左に傾げている。

 

「そうよ。……変な意味じゃないのよ。こいしがウチにいてくれて、私は嬉しいもの。お燐やおくうもそう思ってるわ」

「そ、そう?」

 

 えへへ……とこいしはこそばゆそうにうなじを掻いて、

 

「ええと……最近は、心の中がすごく晴れやか……っていうのかな? 無意識になってるときは、ぼやーって靄がかかってるような感じになるんだけど、そういうのはぜんぜんなくて」

 

 やっぱりそうなのか、とさとりは思う。仮面にも似た笑顔を張りつけ、さとりの力を以てしても掴み様のなかったこいしの心に、芯とも呼ぶべき確立した感情が芽生えた予感はしていたのだ。恐らくは、この前の異変が関係しているのだろうとは思うが。

 けれどあいかわらずこいしの心は読めないままだし、彼女の第三の目は深くまぶたを下ろしている。

 

「能力は……今まで通り使えるの?」

「うん、使えると思うよ」

 

 こいしが、さとりの本棚をごそごそと物色している。

 

「たぶんねー、前みたいに能力が暴発? っていうのかな。そういうのがなくなったんだと思うっ」

 

 もしもこいしの言葉が本当なら、彼女の能力はまさしく、『無意識を操る程度の能力』になったのかもしれない。暴発などなく彼女の意のまま、無意識の世界へ自由自在に出入りを行う能力に。

 

「ずっと一緒だって、約束したもんね。だから、もう勝手に出て行ったりしないよ!」

「……そう」

 

 さとりは、思わず小さくほころんだ。今までとは見違えるばかりな妹の言葉が、ついつい心の琴線に触れたのだ。

 或いは異変を乗り越えたこいし自身の心の変化が、能力をよい方向へ導いたのかもしれない。存在の比率が精神に偏っている分だけ、さとりたち妖怪は心の状態に人間よりも大きく影響を受ける。月見の地上の知人にも、心の力で『狂気』に打ち勝ったという吸血鬼の少女がいたはずだ。

 

「あ、でも、月見が地上に帰っちゃったらどうかなー。またこっそり遊びに行っちゃうかも」

 

 打って変わってさとりは嘆息。この自由奔放すぎる妹は今までも何度か、能力を悪用して勝手に地上へ遊びに行っていた。月見の屋敷にお邪魔したのはもちろん、温泉まで堪能したというのは実に羨ま――いや、けしからん話だと思う。

 

「もう……こいし? 映姫さんにバレたらまたお説教されるわよ?」

「ぶーっ!」

 

 唇を尖らせたこいしは走り出し、扉の前でふっとさとりの方を振り返った。やけに神妙な顔つきで、さとりが手渡した本ともう一冊、薄いノートを両腕で抱えていて、

 

「……やっぱり能力、今まで通り使えるみたいだね」

「? どういう――って、」

 

 気づいた。おいちょっと待てあのノートってまさか

 

「――お姉ちゃんの小説、月見と一緒に読もーっと!」

「こいしいいいいいいいいいいっ!!」

 

 古明地さとりは、修羅となった。

 なるほど――思い返してみればなるほど、確かにこいしはさとりの本棚を物色していた。さとりは気づいていながらも、無意識のうちに見逃してしまっていたのだ。それこそが、こいしが今まで通りに能力を使えるこの上ない証明であろう。

 が。

 

「こおおおおおいしいいいいいいいいいいっ!!」

「あははははは♪」

 

 もちろん、楽しそうに逃げるこいしをさとりは全力疾走で追いかけた。これはさとりの持論だが、小説を書いているなんて趣味は、その道を本気で志している者だけが、志を本気で理解してくれる人だけに話すべきものだと思っている。(いたずら)に他言し、させていいようなものでは断じてない。

 あまつさえ作品を読まれるなんて、以ての外である。特に、月見に読まれるようなことだけは絶対にあってはならない。もしも彼に読まれてしまったら、たぶん、さとりは挫けてちょっと生きていけなくなってしまう。

 さて。さとりは、自他ともに認める筋金入りのひきこもりだ。異性の友人なんて、月見を除けばまさに皆無と言って差し支えない。今までは、本の中に登場する『男』だけが、さとりが日頃の生活で触れる異性の姿だった。

 しかしある日、さとりの前に月見が現れた。読心の能力をまるで恐れる素振りもなく、今や地霊殿の一員と呼んだって構わないほどかけがえのない存在となってしまった。それはすなわち、さとりにとって最も身近な異性になったということを意味している。

 であれば当然、参考(・・)にする。目に映る月見の姿から、『男』のなんたるかを読み解こうとする。

 今のさとりにとっては、月見こそが『男』という存在の一般項である。そしてこいしが持って行ったのは、ここ最近のさとりの作品を収めた一番新しいノートである。

 つまるところさとりは、

 最近自分が書いている小説の中で、

 月見をモデルにしたキャラクターを登場

 

「ふにゃあああああああああああああああっ!!」

「えっちょっと待ってお姉ちゃん怖むぎゅっ!?」

 

 半狂乱に陥ったさとりはひきこもりにあるまじき野獣の疾駆でこいしを捕らえ、脳天幹竹割りを叩き込んでノートを奪い返し、部屋に戻るなり鍵を掛けて用意周到に隠し場所を変更した。

 それから、ベッドで丸くなってちょっぴり泣いた。妹の存在を、無意識を操る能力を、今日ほど恐ろしいと感じたのは生まれてはじめてだった。これでは、気がついたときにはこいしにぜんぶバラさせているなんて可能性も大袈裟ではない。

 

「……ぐすっ」

 

 最近書いている作品は誰にも見せていないし、決して見られてはならない。

 ペットたちに頼んで、金庫でも買ってこさせようかと。朝っぱらから悶々と悩む、いろいろとフクザツな趣味の少女なのだった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 とはいえ、それでいじけて一日を終えるわけにも行かない。気を取り直したさとりはノートの隠し場所を再確認してから部屋を出て、月見のところまで足を運んでみた。ノックで許可をもらってから彼の部屋に入ると、そこではお燐とおくうが、持ち込んだ布団の上にトランプを広げて遊んでいた。

 裏返しで散らばっているところを見るに、神経衰弱でもしていたらしい。二人の真剣勝負を月見がベッドから見守り、更に隣ではこいしが、彼の腕にひっついてなんともご機嫌に座っていた。さとりに気づくなりぱっと顔を上げ、

 

「あ、お姉ちゃん。いいところに来たね!」

「……いいところ?」

「とにかく見てってよ!」

 

 こいしが元気に手招きをしてくる。さとりとしては先ほどの件について心ゆくまで話し合いがしたい気分なのだけれど、月見がいる前でそれはあまりに危険なので、とりあえず素直に招かれておく。

 よほど真剣な勝負をしているようで、お燐もおくうも手元のトランプを見下ろしたまま一心不乱の形相で黙り込んでいる。二十枚程度のトランプが裏返しで無造作に散らばっているから、やはり神経衰弱で間違いはなさそうだが。

 つい、小声ながら口に出してしまっていた。

 

「でもおくう、神経衰弱は……」

 

 大の苦手だったはずではなかったか。おくうは鳥頭で、細かいことを覚えるのがとにかく下手で、つまりはどの数字のカードがどこにあるかなんて覚えられるはずもなく、神経衰弱などもはや勝負にもならないのだ。というか神経衰弱に限らず、ババ抜きや七並べなどトランプを使うゲーム自体が苦手で、大富豪あたりまで行くとそもそもルールを覚えられないという有様だったはず。こいしとお燐にコテンパンにされ、涙目でさとりの部屋に飛び込んできたのは一体いつの話だっただろうか。

 月見が同じく小声で、

 

「私もはじめはそう思ったんだけどね。でも、結構面白いことになってるよ」

「……これっ!」

 

 そのとき、おくうが動いた。残り二十枚程度のカードの中で一枚だけ、『7』のカードが表になっている。これでもう一枚『7』を引き当てられればいいわけだが、まあおくうのことだし十中八九ハズレで

 

「……や、やった! こいし様っ、またやりました!」

「うにゃあああああまたやられたあああああっ!!」

「おくうすごーい!」

 

 ――なん……ですって……?

 おくうが、見事『7』のカードを引き当てていた。おくうが興奮気味に喜んで、お燐が布団をぼふぼふ叩いて悔しがっている。そこでさとりはふと気づく。おくうが取ったカードとお燐が取ったカードの山を見比べると、ほぼ互角――否、おくうの方がわずかだが多い。

 さとりは目の前の光景が信じられない。神経衰弱で、おくうがお燐に勝っている? あのおくうが? 自分が一回前に引いたカードの絵柄すら忘れてしまうようなおくうが? 単なる偶然という言葉で片付けるには、少しばかり出来過ぎてはいないか。

 しかも、これで終わりではなかった。その後おくうは更に三組のカードを連続で引き当て、お燐との差を一気に広げ始めてしまった。おくうは興奮でふんすふんすと鼻息が荒く、お燐はおくうに負けるかもしれない危機感でふぬぬと体を震わせていた。

 さとりは目を丸くするばかりである。

 

「……い、一体、これは?」

「おくうね、すごいんだよ! さっき、ババ抜きでもお燐に勝ったの!」

 

 もうなにがなんだかわからない。ババ抜きなら偶然勝つこともあるかもしれないが、神経衰弱を運ひとつで切り抜けるのはいくらなんでも無理だろう。これではまるで、おくうの頭が突然よくなったみたいではないか。

 

「もしかすると、私がおくうに降ろした神――宇迦之御魂神の影響かもしれないね」

 

 月見が言う。

 

「八咫烏を宿したおくうが、熱を操る力を得たように。これは、宇迦の力なのかもしれない」

「それで、おくうの頭がよくなったということですか?」

「頭がよくなった……とは、少し違うんじゃないかな。宇迦の力は、災いを福に転じる力だ」

 

 さとりはおぼろげに思い出す。宇迦之御魂神は五穀豊穣から家内安全、果ては病気平癒や芸能上達など、非常に幅広いご神徳を持つ神様だと。それはすなわち、他の神には類を見ないほど多くの災いから人々を守る、と言い換えることができる。

 

「簡単にいえば、神通力の類いだね。それを、おくうに少しだけ貸し与えてくれているのかもしれない」

 

 つまりおくうは、決して頭がよくなったわけではなく、

 

「どのカードを引けばいいのか、なんとなくわかっている……ということですか?」

「たぶんね」

 

 本人も無意識のうちに、自分にとって災いとなる――つまりはハズレのカードを直感的に察知している。だからこそ本来対等に闘えるはずのない神経衰弱で、おくうがお燐相手に接戦を繰り広げている。

 月見は、音もなく笑った。

 

「そこまでやってくれなんて頼んじゃいないから……もしかすると宇迦も、おくうのことが気に入ったのかもしれないね」

「勝ったあああああっ!!」

「負けたあああああっ!?」

 

 おくうが歓声を上げて万歳をし、お燐が悲鳴を上げて崩れ落ちた。神経衰弱勝負はまさかまさかの、中盤で差をつけたおくうの大勝利という結果に終わった。

 

「さとり様っ、こいし様! 勝ちました! なんかよくわからないけど勝ちましたあっ!」

 

 いつぞや涙目にされた雪辱を見事果たしたおくうは、それはもう満点の笑顔で大喜びだった。これほど諸手を挙げて喜ぶおくうもそうそう見られたものではない。興奮のあまり顔が赤くなっていて、翼はぴこぴこと忙しなく動いている。「よくわからないけど」と自分で言っているあたり、本当に直感だけで勝ってしまったらしい。

 

「見てたよー! おくうすごーい!」

「ありがとうございますっ」

 

 こいしがすぐさまおくうにジャンプし、お互いの両手を合わせてきゃいきゃいと喜びを分かち合う。そして負け犬ならぬ負け猫なお燐は、えぐえぐと鼻をすすりながらさとりに飛びついた。

 

「さ、さとり様あっ! おくうに負けたってことは、も、もしかしてこれ、あたいがペットの中で一番ばかってことですか!?」

「そ、そんなことないわよ。……たぶん」

「うにゃあああああ――――ん!!」

 

 もしもおくうが本当に神通力に目覚めてしまったのなら、地霊殿ペットにおける知力のヒエラルキーは激動の時代を迎えるのかもしれない。

 

「だ、だいたいなんで、おくうは突然こんなに強くなったの!? 前なんて、自分が一回前に引いたカードすら忘れてたのにっ!」

「それはねー」

 

 かくかくしかじか、こいしが先ほど月見から聞かされた説明を繰り返す。もちろん、真実を知ったお燐は尻尾を針みたいに逆立てた。

 

「ず、ズルい! つまりおくうには、どれを引けばいいかわかってたってこと!?」

「……うーん」

 

 おくうは疑問符とともに首を傾げ、

 

「どれを引けばというか……これは引かない方がいいかな? って、なんとなく……嫌な予感っていうか」

「うにゃーん!!」

「これが、月見の式神になったおくうの新しい力なのですっ」

「おにーさん! あたいもおにーさんの式神になりたいっ!」

 

 月見は苦笑、

 

「よしてくれ。おくうだけでいろいろと手一杯なんだ」

「むぅ……っ」

 

 適当なことを言って受け流したわけではなく、本当に無理なのだ。だって月見は、おくう一人を助けるためだけに、妖力の半分以上を対価として捧げているのだから。

 おくうが、なにかを確かめようとして胸に手を当てている。八咫烏の力が宇迦之御魂神によって鎮められ、胸元の赤い瞳も、無骨に変わっていた脚も、今やすべてが消えて元のおくうの姿に戻っている。見た目はごくごく普通の鴉の少女であり、その身に神を二柱も宿しているようには絶対に見えないし、さとりだって未だ半信半疑に思っている部分がある。けれどどうやらおくうだけは、そうすることで宇迦之御魂神の存在をはっきりと感じ取れるようだった。

 

「そっか……これが……」

「月見っ、おくうすごかったでしょ! 月見も褒めてあげてっ」

「はぇ!?」

 

 突然こいしに月見の前まで押し出されて、おくうはあっという間に平常心を失った。どうすればよいかわからずおろおろするおくうに、月見はやんわりと微笑んで、

 

「私も見ていたよ。すごいじゃないか、おくう」

「う、うにゅ……」

 

 ちなみに月見からの褒め言葉は、いろいろとフクザツな心理状態のおくうにとって、いろいろと効果抜群である。さとりが予想した通り、一歩後ずさったおくうはじわじわと赤くなって、込み上がってくる嬉しさと恥ずかしさをもじもじと耐え忍び、苦し紛れのようにぷいとそっぽを向くと、

 

「お、お前のために勝ったわけじゃ……ないもんっ……」

 

 当然ながら、さとりもこいしもお燐も、みんなにこにこした。

 口ではまだ素っ気ない態度を崩してはいないものの、このところのおくうは少しずつ、少しずつ月見に対して心を開き始めている。はじめは本当に飲み物を運ぶ程度だったが、今はなにかできることがないか自分から訊きに行ったり、なにもなくとも彼が散歩のときなどは後ろをついて行ったりしている。

 そういえば、とさとりはふと考える。月見の怪我は順調に快方へと向かっており、さとりたちがどんなにせがんだとしても、あと数日もすれば月見は地上へ帰っていくだろう。十二月ももう半ば過ぎ、地上で年越しの準備だってしなければならないはずだし。

 そのとき、おくうは一体どうするのだろう。

 打ち明けた話さとりは――月見の式神として地上についていくという選択肢も、あるのではないかと思っている。

 もちろんおくうは、さとりとこいしが地底へ下る原因となった地上の者たちを、今でも快く思っていない。行きたいと、自分から言い出すような真似は絶対にしないだろう。

 そして同時に、なんの未練もなくすんなりと月見を見送る真似だって、絶対にしない。おくうにとっての月見は、さとりとこいしに次ぐ三人目のご主人様なのだから。

 もしもおくうが、ほんの少しでも、彼とともに行きたいと願うなら。

 さすがに来年まで留守にされてしまうと困るが、年の瀬あたりまでなら、行かせてもいいかもなとさとりは思う。なにもおくうだけに限った話ではない。暗く寂れた地底で生まれ育ったペットたちは、太陽の眩しさも緑豊かな自然の美しさも本の中でしか知らない。みんなが一度は地上の世界を経験できたなら、それはどれほど素晴らしいことだろうか。

 今までの地霊殿は、さとりが閉じこもるための箱のようなものだった。月見や藤千代を除いては近づこうとする者もおらず、旧都の中にありながらも、旧都からはどちらからともなく切り離された空間だった。

 それもこれからは、変わっていくかもしれない。

 なぜなら今の地霊殿には、毎日誰かしら必ず、外からお客さんがやってくるのだから。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「うわあああああ――――ん!! 月見ーっ疲れたよおおおおお!!」

「疲れたよおおおおおおおおっ!!」

「ごふっ」

 

 その代表が、洩矢諏訪子と八坂神奈子である。二人は月見の部屋に通されるなり砲弾みたいな勢いで突撃し、勢いそのままで彼をベッドに押し倒した。男相手に恥も外聞もなく全身で覆い被さり、子どもみたいに足をバタバタさせながら叫んだ。

 

「もうやだよおおおおお!! 神社でのんびり暮らしたいよおおおおおっ!!」

「こんなの無理だよおおおおお!! うわあああああ――――ん!!」

「……げっほげっほ」

 

 咳き込む月見が頑張って起き上がろうとする。しかし、諏訪子と神奈子がグイグイのしかかって泣いているせいで上手く行かない。いくらか試行錯誤したのち結局一度諦め、

 

「……諏訪子、神奈子。とりあえず離れてくれ、これじゃあ話も聞いてやれない」

「「……ぐすっ」」

 

 二人が鼻をすすりながら月見から離れる。月見はのそりと起き上がり、気を持ち直すように首の裏を掻いて、そこでどうすればいいかわからず突っ立っているさとりに気づいた。

 

「すまないねさとり、騒がしくして」

「あ、いえ……事情はわかってますから……」

 

 さとりは小さく手を振って返した。諏訪子と神奈子の二人とて、なんの理由もなく嫌がらせで騒いだりしているわけではない。神としての威厳を失いぴーぴー泣き喚いてしまうだけのれっきとした事情が、今の彼女たちには課せられているのだ。

 月見は諏訪子と神奈子に目を戻し、

 

「……それで? どうだい、仕事の方は」

「終わるわけないよあんなの!!」

「絶対無理だよおおおおおお!!」

 

 びえええ!! とまた泣き出す二人に、月見は重く深いため息をつき、さとりは曖昧に口端を歪めて笑った。

 なにが、『終わるわけない』のか。

 過日の異変で崩壊した大地の修復である。

 修復なのである。あの、どれだけの規模が崩壊してしまったのか目測も利かないくらいの。

 さとりだって十二分に承知している、過日の異変は諏訪子と神奈子ばかりが悪いわけではなかった、さとりたちや月見にも原因の一端はあったのだ――が、まあ細かいことはいいのでとりあえず直してくださいね? と藤千代と映姫の最恐コンビに言われてしまえば泣くしかない。以来この神らは毎日地上から地底にやってきて、朝から晩までさめざめと大地の修復に勤しんでいるわけなのである。

 ぶっちゃけ非常に同情している。

 そしてそんな神々唯一の癒やしが、ここで月見に苦労を慰めてもらうことなのだった。今回は二人とも完全に幼児退行しているので、ここに来ていろいろと限界がやってきたのかもしれない。神奈子に至ってはなんだか背が縮んでいるような気さえするし。

 

「泣くなって。外の世界でも人里でも、人間たちはそうやって朝から晩まで働きながら生きてるじゃないか。神様のお前たちがたった二日三日で根を上げてどうするんだい」

「ううっ……それはそうかもだけどぉ……っ!」

「でも、いくらなんでも無茶苦茶すぎるよぉ……!」

 

 神様の奇跡だって万能ではない。彼女らは中でもとりわけ強い力を持つ由緒正しい神様だというが、それでも難しいものは難しいのだ。さとりも、あれだけ大規模に崩壊してしまった大地が易々と修復される光景は逆立ちしたって想像できないわけで。

 諏訪子が涙ながらに訴える。

 

「ただでさえたくさん力を使わなきゃいけなくてキツいのに、神奈子がほとんど役に立たなくてっ……! 私一人でやってるようなもんだよ!」

「し、仕方ないでしょ!? 大地創造は専門外だって何度も言ってるじゃない! それでも、私なりに精一杯やってるんだからね!?」

 

 おくうを暴走させてしまった原因の一端として、諏訪子と神奈子の苦労については責任を感じないわけでもない。さとりはぎこちない愛想笑いを自覚しながら、

 

「え、えっと……とりあえず、休憩も兼ねてなにかお菓子でもいかがですか? お茶もありますから……」

「「さ、さとりっ……!」」

 

 二人から返ってくる視線は、地獄の中で仏を見たかのようだった。

 

「ううっ。さとり、あんた本当にいいやつだねっ……!」

「覚妖怪は性格悪いって言い伝わってるけど……やっぱり噂話なんて当てにならないね……!」

「あ、あははは……」

 

 感涙に咽ぶ二人の顔を、さとりはちょっと直視できなかった。

 ともかくお燐を呼ぼうと、さとりは逃げるように後ろを振り向いて、

 

「――さとり様っ!」

「きゃっ」

「うにゃっ」

 

 ドアが目の前で突然開いた。勢いよく飛び込んでこようとしたのはお燐で、まさか入っていきなりさとりがいるとは思わず仰け反って驚きつつも、

 

「さ、さとり様っ。よかった、ここにいたんですね」

 

 やけに慌てた風である。

 

「……ええと、なにかあったの?」

 

 問いかけた途端、お燐の心に浮かんだ記憶でさとりはすべてを察した。

 

「ああ、映姫さんが来たのね」

「「ひっ」」

 

 諏訪子と神奈子が、哀れなほど青い顔でびくりと縮こまった。

 地獄の閻魔様こと四季映姫も、最近になってよく地霊殿を訪ねてくるお客さんの一人だった。月見から聞いた話によれば、彼女は今までも仕事の合間を縫って、しばしば水月苑まで足を運んでは几帳面に月見の世話を焼いていたという。今は月見が地霊殿で生活しているので、必然、映姫が訪ねる先もここに変わったというわけだ。

 まあそのお陰で、諏訪子と神奈子のみならず地霊殿のペットまでもが、いつ降りかかるとも知れないお説教の恐怖に戦慄していたりするのだけれど。

 

「映姫さん……よっぽど月見さんのことが心配なんですね」

 

 冗談めかして言う。迂闊に失礼な真似さえしなければ、映姫は極めて常識的で話のしやすい少女だった。地霊殿までわざわざ足を運んでくるのも、ひとえに月見の経過を気遣ってのことだとさとりは知っているので、恐れるどころか意外と可愛げのある少女だと思ったりしている。

 月見も、それは重々承知していた。苦笑混じりに、

 

「何回大丈夫だって言っても、ぜんぜん納得してくれないんだから」

 

 やっぱり閻魔様は、説教好きなのが玉に瑕だけれど、それさえ目を瞑れば普通にいい人なのだ。

 とはいえ、説教されるようなやましさを抱えている者にとっては、純粋な恐怖の象徴であるのは変わりない。諏訪子が月見の袖に縋りついて、

 

「ど、どどどっどうしよう月見!? こんなところでサボってるんじゃないかって疑われたら、またお説教!?」

 

 神奈子も涙目でぷるぷるしている。月見はゆるやかな吐息を以て、

 

「ちゃんと訳を話せば大丈夫だよ。あいつもそこまで頭でっかちじゃないさ」

「そ、そうですよ。私からも説明しますから……」

「「月見っ……さとりっ……!」」

 

 ああ、二人からまた仏を見る眼差しが。

 やっぱり私は、人から極端な好意を向けられるのが苦手なんだなあと痛感しながら。

 

「お燐。私はお茶となにかお菓子を用意してくるから、映姫さんをここまで案内してあげて」

「わ、わかりました……」

「ほら、そんなにビクビクしないの。根は面倒見がよくていい人なのよ、映姫さんは」

「そ、それはあたいもわかってますけど……やっぱり、どうしても身構えちゃうというか……」

 

 スリッパをぺたぺたと鳴らして、さとりは小走りでお茶の支度に向かう。こんな具合で今の地霊殿では、突然の来客にばたばたするのも珍しい光景ではなくなった。映姫や諏訪子たち以外にも、藤千代や勇儀、果ては町で有名な居酒屋の看板娘まで。お遣い担当のペットたちによれば、さとりを恐れて地霊殿までは近づかないが、月見の心配をしている妖怪はなかなか多いらしい。鬼の古い知り合いという来歴、そして地底をあわやの危機から救ったという結果で、月見は旧都の妖怪たちからも認められ始めている。

 もしかすると地霊殿のみならず旧都も、これから少しずつ変わっていくのだろうか。

 

 ちなみに映姫だが、はじめは諏訪子と神奈子がいることを大層訝しんだものの、月見が丁寧に説明したところ「あなたがそこまで言うのなら……と、特別ですからねっ」と納得してくれた。

 やっぱり閻魔様は、よく見てみるとちょっぴりかわいい。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「さとり様っ! あたい、勉強します!」

「はい?」

 

 閻魔様直々の監視の下、諏訪子と神奈子が泣く泣く仕事に戻ったあとの地霊殿で、お燐が突然そんなことを言った。

 いきなり部屋に飛び込んできて、何事かと思えば。

 さとりはお燐の心の声を聞き、すぐに納得した。お燐は、神経衰弱でおくうに負け、もしかしたらペットの中で一番ばかかもしれない疑惑に並々ならぬ危機感を抱いたのだ。

 さとりは基本的に、放任主義でのびのびとペットを育成している。お燐やおくうをはじめとする妖怪化したペットについては、最低限の一般常識と、地霊殿の仕事をする上で必要な規律程度の教育はするが、それだけ。お燐は生まれも育ちも灼熱地獄な元野生少女なので、当然、『学』と呼べるだけの素養は皆無に等しい。

 それで、勉強、らしい。

 

「そういうわけなので、なにか勉強できるやつを用意してもらいたくてっ」

「勉強できるやつって」

 

 さとりは少し思案して、

 

「……『さんすうドリル』とか?」

「はいっ」

 

 そんなんでいいんだ。

 なにか方向性がズレているように感じつつも、しかしまあ、いいかと思った。お燐がせっかくやる気になっているのだから、いろいろとやってみるといいのだ。さとりとしても、ペットが賢くなって困ることはいないのだし。

 

「……じゃあ、明日までになにか用意しておくわね」

「お願いします!」

 

 やるぞーっ! とお燐が元気いっぱいさとりの部屋を飛び出していく。ぱたぱた遠ざかっていく軽快な足音を聞きながら、さとりはそっと笑みの息をつく。

 勉強をしたいだなんてペットから言われたのは、はじめてだろうか。お燐もまた、今までの自分から一歩前へ進んで、新しい場所に手を伸ばそうとしているのだ。……伸ばす先が決定的にズレているような気がするのはさておいて。

 

「……」

 

 それにしても。

 無事に平和な日常が戻ってきて、こいしにもおくうにもお燐にも、大なり小なりなんらかの心の変化が生まれた。

 では、自分はどうだろう。

 

 さとりはあの異変を経て、なにかが変わったのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 というわけで、さとりも新しいなにかに挑戦してみようと思った。

 具体的には――今までずっとペットに任せきりだった買い出しを、自分でやってみようと決意した。

 ちょうどお燐と、勉強道具の用意を約束したからというのもある。押し入れの奥で眠っていたバッグを何十年振りかに引っ張り出し、慣れない手つきで身嗜みを整えて、さとりは地霊殿のエントランスまでやってきていた。

 

「……」

 

 外に出るのは、異変のとき以来だ。とはいえあのときは、幸いにも旧都の妖怪とほとんどすれ違わなかったし、一瞬すれ違った相手もなにより驚きが勝って、それ以上なにかを考える余裕もない有様だった。

 けれど今回、『買い出し』という目的で外に出てしまえば、間違いなく多くの妖怪と顔を合わせることになるだろう。もはや驚かれるだけでは済まない。ひょっとすると、さとりが地霊殿にひきこもるきっかけとなったあのときと、また同じ思いをする羽目になってしまうかもしれない。

 足が、止まった。

 どうしてそんな真似をする必要があるのかと、脳裏から問うてくる自分がいた。外に出なければ、傷つかないで済むのに。『みんなが変わっているから』なんて熱に浮かされたような理由で軽々しく外を歩いて、もしもなにかがあったら、こいしたちだってまた嫌な思いをするだろうに。こいしがなぜ力を願ったのか。それはさとりが、旧都の妖怪たちに遠ざけられた過去があったからだ。

 

「…………」

 

 違う。違うのだ。

 旧都の妖怪が、さとりを遠ざけたのではない。

 遠ざけたのは、むしろ――

 

「――こーんにーちはーっ!」

「……!」

 

 さながらスキップを踏むような挨拶とともに、目の前のドアが高く軋む音をあげて開いた。こうも気さくで元気いっぱいなお客さんは一人しかいない。旧都で最も古いさとりの友人――藤千代は、一歩入ってすぐさとりと鉢合わせしたことに目を丸くした。

 

「おや、さとりさん?」

「あ……いえ、その、これは」

 

 さとりは慌ててバッグを背中に隠した。だが明らかに遅すぎたし、そもそも、大きめのバッグを持ってきたせいでさとりの背中では隠しきれていない。

 

「え? さとりさん、まさかお買い物……」

「あ、あの、」

 

 しかも、悪いタイミングというのは重なるものであるらしい。

 

「あれ、お姉ちゃん?」

「……!?」

 

 さとりが色を失って振り向くと、廊下の方からぴょこりとこいしが出てきたところだった。更に追い打ちを掛けるとするならば、こいしの位置からはちょうど背中に隠したバッグが丸見えであり、

 

「……どうしたのお姉ちゃん、バッグなんか持って」

「こ、これは、その……」

 

 胡乱な視線の挟み撃ちに、さとりは静かなパニックに陥った。いくらなんでもタイミングが悪すぎだった。ああ、どうせ悩むならエントランスではなく自分の部屋で悩むべきだったのだ。行くと決めたはずだったのに、いざ外へ出ようとすると足が止まってしまった意志薄弱な己を恨む。

 そうこう煩悶しているうちに、藤千代がさとりのバッグを指差しながら、

 

「なんだか、お買い物に行こうとしていたように見えましたけど……」

「え!? お姉ちゃん、それ本当なの!?」

「あ、あう……」

 

 白旗をあげる他ない。

 当然、こいしに血相を変えて怒られた。

 

「急になにしてるの!? 外に出てったら、また旧都のヤツらにひどいこと言われちゃうかもしれないんだよ!?」

「そ、その……私もちょっと、新しい自分を探してみようかなって……」

「なにそれ!」

 

 大変もっともなお言葉でございます。

 

「とにかくダメだよっ! 今まで通り、ペットたちにお願いすればいいじゃん!」

「そ、それはそうなんだけど……」

 

 ううっ、とさとりは答えに窮する。やっぱり、少し思いつきで行動しすぎただろうか。一度落ち着いてゆっくり考え直してみろと、遠回しに神様が警告してくれているのかもしれない。

 

「……さとりさん」

 

 一方で、藤千代の表情は静かだった。だがその凪いだ眼差しが反って嵐の前の静けさを彷彿とさせて、さとりの胸の奥から言い知れぬ不安がせり上がってくる。思わず呼吸を止めて身構えるさとりに、藤千代はやはり静かなまま、

 

「無理にとは言いません。……でも、もしも許されるのであれば、教えてほしいんです」

 

 その時点でさとりは、藤千代から投げ掛けられる問いを漠然とながら察したというべきかもしれない。

 

「旧都のみんなは。さとりさんに、どんな『ひどいこと』をしたんですか?」

 

 ――ああ、やっぱり。

 それはさとりが、藤千代はおろか、こいしたち家族にすら隠し続けてきたことだった。大丈夫、大したことじゃないのと強がって。話すべきことではないと思ったのだ。その結果としてこいしは、さとりが旧都の妖怪たちにひどくいじめられたのだと誤解し、やがては過日の異変へとつながっていった。

 もしもさとりが、正直にすべてを打ち明けていたならば。

 そう考えたのが一度や二度でないのは、素直に認めるけれど。

 

「――お姉ちゃん。私も、知りたい。お願い、教えて」

「ぅ……」

 

 こいしのまっすぐな眼差しを、さとりは受け止められない。知りたいと言われて「わかったわ」と教えられるなら、誰もはじめから隠し続けたりなどしない。決して、いじめられたわけではないのだ。むしろあれは、仕方のないことだったのかもしれないと思っている。人気のない地上の山奥を離れ、地底へ下り、旧都という町の中で暮らし始めれば、遅かれ早かれ直面する運命にあった必然だったのかもしれない。

 

「お姉ちゃん」

 

 こいしが、さとりの袖を強く握った。打ち明けてもらえない辛さを、耐え忍ぶ表情で、

 

「もう、そういうの、やめようよ」

 

 きっと――きっと、甦るあの異変の記憶に、脳裏を襲われながら、

 

「話してくれなきゃ。私たち、支えられない。なにも、してあげられないよ……」

「……」

「仕返しとか、そんなの、しないから。だから……」

 

 あの異変は、或いは必要なことだったのかもしれないと考えてしまうときがある。さとりが、こいしが、おくうが、乗り越えなければならないものを乗り越えるための、試練だったのではないかと。

 こいしは、乗り越えた。

 今だって、乗り越えようとしている。

 そしてさとりだけが、逃げ続けている。一人で抱え込まず、打ち明けるということ。その大切さは、さとりだってあの異変で痛感したはずなのに。偉そうな口で、おくうを張り飛ばして、叱りつけたのに。

 

「……」

 

 もしかすると。

 自分も、前に進みたいと。そう願ってさとりがすべきなのは、恐怖を克服して強引にでも外を歩くことではなく。

 勇気を振り絞って、まずは、話すことなのではないか――。

 

「……そうね」

 

 目の前が、豁然(かつぜん)と開けていくような心地だった。

 

「……そうよね。もう、やめなきゃダメよね。こういうのは」

 

 みんな一緒だと。一緒に、乗り越えていくのだと。そう信じようとしていたのは、他でもない自分ではなかったか。

 妹に諭されてようやく気がつくなんて、姉の面目も形無しだ。さとりは静かな吐息とともに心を解し、こいしと藤千代を順番に見遣った。

 

「……お話しします。なにがあったのか、すべて」

「さとりさん……」

「ですが、ひとつだけ。条件、というか、お願いしたいことがあるんです」

 

 この期に及んで女々しいと言われるかもしれない。けれどさとりは、さとりであるが故に、これだけはどんなに頑張っても譲ることができないのだ。

 

「月見さんにだけは、内緒にしていてください。絶対に」

「……どうして?」

「……ど、どうしても」

 

 こいしの疑問はもっともであり、藤千代も口にはしないまでも、眉をひそめて訝しんでいる。

 

「話せばわかる、と思います。だから、お願いします」

 

 月見を仲間はずれにするわけではない。ただ、もしもこの話が月見の耳まで伝われば最悪、彼との関係が根底から破壊されてしまうかもしれないとさとりは恐れている。

 月見なら大丈夫だと、信じたいところなのだけれど――でも、月見だって、男なわけだし(・・・・・・)

 冗談や悪ふざけではないと伝わったのか、こいしも藤千代も半ば流されるように頷いた。お願いしますね、とさとりはもう一度だけ念押しをして。

 

「じゃ、じゃあ……ちょっと、こっちの隅の方で」

「……お姉ちゃん、別にそこまでしなくても」

「い、いいからっ」

 

 実は月見が近くにいて聞かれていた、なんて可能性も否定できない。憂いの芽は徹底的に摘み取るのだ。

 こいしと藤千代をエントランスの隅に集め、三人揃ってこそこそと丸くなって、

 

「……ちょ、ちょっと、誰もいないか確認してくるわね」

「……お姉ちゃーん?」

「い、いいからぁっ」

 

 それでもどうしても不安が拭いきれず、さとりは廊下の方まで走って行って、本当に誰もいないことをじっくり確認してからようやく、

 

「……ふう。そ、それでは……」

「「……」」

 

 こいしも藤千代もだいぶ怪訝な顔をしている。辛い記憶なのはわかっているけれど、そんなに月見に知られたくないのか――そう考えているに違いなかった。

 腹を括るしかない。

 

「じ、実は――」

 

 ぽそぽそぽそ、と。

 今度こそ三人で丸くなり、細心の注意を払った小声でさとりは真実を語って、そして、

 

「……ふふっ」

 

 藤千代が、微笑んだ。

 見る者の背筋も凍る、オソロシイ笑顔だった。

 

「なるほど、なーるほどー。そういうことだったんですねー」

「……あ、あの、」

「――ぶっ飛ばしますか。久し振りに」

 

 うわああああああああ。

 顔で笑い、しかし声で一切笑わぬ鬼子母神の手を、こいしがひしっと握り締めて言った。

 

「鬼子母神様、私の分もお願いしますっ」

「まっかせてください!」

「こいし!?」

 

 こいしはふっと儚く吐息し、

 

「あのね、お姉ちゃん。私は仕返しなんてしないって言ったけど……」

 

 そして、藤千代がやる気満々で腕まくりをしながら、

 

「私もしないとは、一言も言ってないですよねっ」

 

 ああ。

 嗚呼。

 なんだろう。さとりの胸に去来するこの、天地すべてが空白に覆われた世界でぽつんと佇むような虚無の感情は。

 

「それに、これは仕返しじゃないですよ」

 

 藤千代がぶんぶんと腕を振り回す。かわいらしい小さな掌を何度か握って、開いて、最後にかすかな妖気とともに鉄拳へ変え、

 

「――制裁です。安心してください、根絶やしにしてきますから」

「ひ、ひええ……」

 

 助けてもらう立場であるはずのさとりが震え上がるとは、これ如何に。

 

「それでは、行ってきますねっ」

「いってらっしゃーい!」

「あ、あははははは……」

 

 一陣の風となって出撃していく藤千代を、こいしは無邪気に手を振って、さとりはひくひくと乾いた笑顔で見送った。

 思う。――なんかごめんなさい、旧都の皆さん。いや、あなたたちの自業自得なんですけど。

 藤千代を元気に送り終えたこいしが、打って変わって若干グレたような顔つきで床を蹴飛ばした。

 

「あーあ、なんで男ってそうなんだろ。単細胞っていうかさあ」

「し、仕方ないわよ。そういう生き物なんだもの……」

「まあ、納得したけど。そりゃあ、外に出たくもなくなっちゃうよね」

「……こいしも、そういうのはキラい?」

「だいっきらい!!」

 

 さとりはほっと吐息した。こいしも、さとりとはまた別の意味で吐息した。

 

「はあ。月見がそういうオトコじゃなくて、ほんとよかったー」

「……そうね」

 

 まああのお狐さんの場合は、単純に長生きしすぎたというのが一番大きいのだろうが。

 妖怪の中でも最年長クラスなので、周りの少女たちがみんな娘か孫のように見えているのだ。それがさとりにとっての幸運であり、同時に、一部の少女たちにとっての不幸でもあるのだろう。

 こいしが、さとりの腕を勢いよく引っ張った。

 

「みんなのとこに戻ろ! やっぱり、お姉ちゃんは外に出ちゃダメだよ!」

「う……で、でも」

「ぜ――――――――ったいダメッ!!」

 

 問答無用だった。まるで姉妹の立場が逆転したみたいにぴしゃりと叱られ、さとりの一念発起は呆気なく頓挫と相成った。

 今までは自分の意思で閉じこもってきたが、なんだかこれからは、家族たちによって地霊殿から出してもらえなくなるような気がする。

 外に出るのって、こんなに難しいことだったんだなあと。こいしにずりずり引きずられながら、さとりは今更のように実感するのだった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――すみませーん」

「あれ、藤千代サンじゃないっすか。どうしたんすか?」

「ちょっと訊きたいことがありましてー」

「俺にですか? いいですけど、一体なんで」

「『けしからんことを考えてさとりんにゴミを見る目で見られ隊』」

「……………………………………いやあのっ、そいつはなんというか一時の気の迷いというか若気の至りってやつでそう逆に考えるんですよ、心を読まれるのなら読まれちゃってもいいさって」

「そおーい!」

 

 鬼その一は星になった。

 

「さて、次はー……」

「まままっ待ってください藤千代サン俺は違いますよ俺にはそんなマゾっちくて卑しい嗜好なんて欠片もないってもんで」

「そうですか。じゃあ、『けしからんことを考えてさとりんを涙目にし隊』ですね」

「……………………………………ぶっちゃけ申し訳なかったと」

「そおーいっ!!」

 

 鬼その二は星になった。

 

「お前ら逃げろおおおおお!! つ、遂に藤千代さんにバレたぞおおおおおおおおっ!?」

「「「うわああああああああっ!!」」」

「――おや。あんたたち、そんなに急いでどこに行くんだい?」

「あ、ゆ、勇儀姐さん……。こいつはその、いろいろと緊急事態ってやつで」

「なんだい情けないねえ、こんなに浮き足立ったりして。男なんだからもっとどっしり構えなよ」

「い、いやあ、申し訳ないっス騒がしくって」

「ほんとだよ。――男らしく罪を認めれば、らくーに楽にしてやるよ?」

「」

 

 鬼その三が地面に埋まる。

 過日の異変で、なぜこいしが力を求めたのか。どうしてさとりの力になりたいと願ったのか。なにゆえ、さとりは地霊殿にひきこもってしまったのか――。

 その諸悪の根源ともいうべきものが、かつて地上の天狗たちと仲良く、逞しく、大いに間違った方向へと成長していったケダモノどもであり、

 

「さて――久し振りに、ブチ抜き組手と行きましょうか」

「藤千代ぉ、悪いけど私も交ぜてもらうよぉ」

「いいですよっ。一緒にひねり潰してあげましょう!」

「……あの藤千代サン、勇儀姐さん、マジで謝りますのでどうか御慈悲を」

 

 悪は滅びた。

 後に、この騒動を旧都の外から目撃していたある橋姫は語っている。

 みんながわいわい騒いでいるのを見て、ちっともさっぱり妬ましくなかったのははじめてだった――と。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「? ……なんだか、随分と外が騒がしいね。なにかあったのかな」

「知らなーい。なんだろうね、どうしたのかなっ」

「あは、あははははは……」

 

 月見が「ああ、千代と勇儀が騒いでるのか。じゃあ気にしなくていいね」と納得し、さとりが再び世の常識を問う十秒前。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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