きっかけは、おくうから突拍子もなく尋ねられたこんな質問だった。
「さとり様……」
「どうしたの?」
――私って、あいつのこと、なんて呼べばいいんでしょう?
「……どういうこと?」
さとりの人生で一番賑やかだったクリスマスが終わり、今年も残すところ数日となったある日の朝だった。神妙な顔でさとりの部屋までやってきて何事かと思えば、月見をなんと呼べばいいのかわからない、などという。質問の意図がわからない。なんと呼ぶもなにも、おくうは普通に彼を「月見」と呼んで
「……いえ、待って。そういえばあなた、月見さんのことまだ一度も名前で……」
「ぅ……」
おくうが後ろめたげに肩をすぼめる。さとりは記憶を遡る。おくうが日頃月見をどう呼んでいたかといえば、彼がいる場では「お前」。いない場では「あいつ」とか、「あの狐」。
得心が行った。
「――それはいけないわね、おくう」
やっぱり、とおくうの表情がショックで曇る。
迂闊だったとしか言い様がない、まさかおくうが未だ月見を名前で呼んだことがなかったとは。月見が彼女を「おくう」と呼ぶようになってしばらく経つが、そっちに気を取られてついうっかりしてしまっていた。
おくうはもう、月見に対してかつてのような敵意や嫉妬は抱いていない。さとりやこいし、お燐に対して抱くのと同じ想いを芽生えさせてきている。だから、いつまでも「あいつ」だの「あの狐」だの生意気な呼び方でいいのか疑問に思って、こうしてさとりの部屋を訪ねてきたのだろう。
小さくなりながら、おくうは心で言う。
――あいつが言ってました。シキガミは、普通は、主人に当たる人のお手伝いとかをするものだって。
「そうね」
――私のご主人様は、さとり様とこいし様ですけど。私はあいつの式神だから、あいつも「主人」になるんですよね。
「……そうね」
――でも私、さとり様やこいし様のこと、「お前」って呼んだりしないです。だから、あいつを「お前」って呼んでるのは、すごく変なことなのかなって……。この前パーティーやったときも、みんな、あいつのこと名前で呼んでて。あいつの式神は私だけなのに、私だけ、名前で呼んでなくて……。
「……よくそこに気がついたわね。偉いわ」
さとりは己の表情が和らぐのを感じた。
「月見さんのこと、ちゃんと考えてあげてるのね」
「う、うにゅ……」
おくうの羽がそわそわと落ち着きなく揺れ動く。このところ――具体的にはクリスマスのとき、式神の先輩である藍と話をしてから――おくうはおくうなりにたくさんのことを考えて、式神という役目を頑張って果たそうとしている。月見の喉が渇いたときは、飲み物を持って行ってあげる。月見が本を読み終わったときは、新しい本と交換してあげる。困ったことがあったときすぐ助けになれるよう、夜はこいしと一緒に月見の部屋で眠る。今までこいしがやっていたお世話係は、もうすべておくうが引き継いだ。
もっとも生来ぶきっちょな性格なので、しばしば失敗して苦笑いされているけれど。それも含めて、頑張るおくうを影から応援するのがさとりのささやかな心の保養だった。
閑話休題。
「それじゃあおくうはこれから、月見さんのことを名前で呼ぶのね」
「え?」
「え?」
間、
「……えっ、あのっ、な、名前は恥ずかしいので、ちょっと……!」
「……おくう? 名前で呼ばなかったらどうやって呼ぶの?」
「あう……」
さとりは眉間を押さえてため息をついた。逆に訊きたい。おくうは、名前以外にどんな選択肢があると思っているのだろう。
「な、名前以外で、なにかいいのありませんかっ?」
「うーん……」
普通、相手のことをちゃんと呼ぼうとするなら名前以外にないだろうに。名前ではなく、かつ「お前」「あいつ」のように生意気ではない呼び方といえば、「あなた」くらいしか思い浮かばない。しかしさとりとしては、せっかくなのだから名前で呼んであげてほしいと思うのだ。今やおくうは月見の式神、月見はおくうのご主人様なのだから、
「……」
そのとき、さとりの脳裏に雷撃が走る。
「――おくう、いい考えが浮かんだわ」
「ほ、本当ですか?」
「ええ」
さとりは
さとりはおくうの肩に両手を置き、至って大真面目な雰囲気を醸し出して答えた。
「それはね――」
○
「――あ、あの……ご、ご主人様っ」
「…………」
式神という存在を極めて客観的に概説するならば、「術者の生活や仕事の助けとなるもの」である。一方で術者の視点から主観的に説明すれば、「お手伝い」「部下」「家来」「従者」などの言葉が当てはまる。事実、幻想郷最高の式神である藍は紫の従者として様々な仕事を任されているし、そんな藍の式神である橙だって、かわいらしいお手伝いさんとして一生懸命サポートに奔走している。
術者にとっての式神が「従者」であるなら、式神にとっての術者は「主人」だ。そして「主人」という言葉を敢えて仰々しく言い換えるなら、「ご主人様」となる。よって、已むを得ない事情があったとはいえ月見がおくうという少女を式神にした以上、彼女から突然「ご主人様」と呼ばれるのはなんら不思議ではない理に適った現象なわけがあるかおいちょっと待て、
「おくう、正直に答えてくれ。――誰の入れ知恵だ?」
「う、うにゅ?」
「その『ご主人様』という呼び方を、お前に教えたやつがいるだろう。誰だ?」
「んと、……さとり様だけど」
さとりィ、と月見は頭を抱えた。今この場にはいない少女へ猛烈な抗議の意を飛ばす――絶対面白がって教えただろお前。
おくうが妙にそわそわしながら部屋を訪ねてきたものだから、一体どうしたのかと思えば。
あのさとりという少女、月見たち客人に対しては常識的で礼儀正しいが、ペットたちに対しては意外と容赦がなかったり、いたずら好きであったりする一面がある。とりわけ月見とおくうの関係が改善してからは、事あるたびに茶々を入れて一人愉悦に浸っているのが、不自由のない地霊殿生活で唯一月見の頭を悩ませる種だった。
この「ご主人様」なんて、まさしくまさしく、である。他に誰もいない二人きりの状況で本当によかったと思う。声なき声で呻く月見に、おくうがぎこちなく首を傾げて、
「あ、あの……なにか、変……だった?」
「変もなにも、」
月見は一度口を噤む。あくまで客観的には、決して変とも言い切れないのかもしれない。契約を結んだ目的がなんであれ、月見がおくうという式神の主人に当たるのは事実だ。
しかし、だからと言ってよしわかったと許容できたものでもない。この地霊殿には、おくうを
そう易々と、さとりの術中に嵌まるわけにはいかない。
言い直す。
「ともかく、その呼び方はやめよう」
「え……」
おくうが悲しそうな顔をした。
「もしかして……い、嫌、だった?」
「嫌もなにも、」
月見はまた口を噤んだ。――おくうのこの反応、月見は一体どのように捉えるべきなのだろう。
月見はてっきり、さとりにあれこれ吹き込まれてそそのかされているものと思っていた。だからおくう自身、決して、月見を「ご主人様」と呼びたくて呼んだわけではないのだと。さとりに言われてしまった以上断り切れず、嫌々というか、仕方なくというか、ともかくそれ故の「ご主人様」だったのだと。
ならばなぜ、おくうは悲しそうな顔をするのだろう。
さとりからあれこれ吹き込まれたのは、間違いないだろうけれど。
ただ騙されているのではなく、まるでおくう自身もまた望んで、
「……そもそも、どうして急に私の呼び方を変えたりなんて? それもさとりから言われたのか?」
その考えを振り払って、月見はおくうに質問を返した。おくうは月見を名前で呼ばない。面と向かっては「お前」で、それ以外では「あいつ」とか「あの狐」だったりする。いつまでそんな呼び方してるの、もっとちゃんと呼んであげなさい――とでもさとりがおくうを叱ったというのは、いかにもありえそうな話だと思う。その結果が「ご主人様」なのだとしたら、さとりとは少し本腰を入れて話し合わなければならないだろうが。
けれどおくうは、首を振った。
「ち、違う……わ、私が……その」
なにやら恥ずかしいものがあるらしく、おくうの頬がうっすらと赤く染まっていく。伏し目がちになりながら、歯切れの悪い口振りで、
「だ、だって、私はお前のシキガミで、お前は私のご主人様なんでしょ? ……お前にそのつもりがなくても、シキガミって、そういうものなんでしょっ? 私、さとり様とこいし様のことは、ちゃんと名前で呼んでて……それで……」
なんとなく、わかった。
おくうなりに、自分の今の境遇を真摯に考えた結果なのだろう。たとえ事情がどのようなものであろうとも、月見がおくうの主人に当たる立場であるのは先に述べた通り。その前提で考えれば、さとりやこいしのことはちゃんと名前で呼んでいるのに、月見ばかりをいつまでも「お前」呼ばわりするのはおかしいのではないか、とおくうは疑問に思ったわけだ。
悩んだおくうは、最も信頼できるご主人様であるさとりに相談を持ちかけた。そして結果として、「ご主人様」という呼び方を吹き込まれるに至った――とまあ、そんなところであろう。
およその経緯を察した月見はひとつ頷き、それから改めて、
「しかし、なにも『ご主人様』なんて仰々しい呼び方しなくても。普通に名前でいいじゃないか」
「う……」
おくうがたじろぐ。
「な、名前が……いいの?」
「『ご主人様』なんて畏まった呼び方されるよりかは、断然いいね」
「……」
おくうは沈黙し、唇をへの字にして、随分と長い間何事か真剣に考え込んでいた。しかしあるタイミングを迎えると突然、
「っ……!」
「あ、おい」
機敏な動きで回れ右をして、一目散に部屋を飛び出していってしまった。
一人ぽつんと取り残された月見は、宙に伸ばしかけた手をどうするべきかわからぬまま、
「……なんだったんだ」
暗に、名前で呼ぶのは嫌、ということだろうか。気難しいおくうなら、まあありえそうな話ではあるけれど。しかし、名前よりも「ご主人様」なんて呼び方をする方がよっぽど恥ずかしいのではなかろうか。それとも、そう考えてしまう月見の心が汚れているのだろうか。なんにせよ、「ご主人様」呼びは是非とも思い留まってほしい。
心底思う。
さとり。頼むから、ペットの教育はちゃんと真面目にしてくれ。
○
「――さとりさまあっ!!」
「はいはい」
部屋に転がり込んできたおくうを、さとりは眉ひとつ動かさず平常心で迎えた。そろそろ来る頃だろうと思っていたし、バタバタと忙しない足音が近づいてくるのもわかっていた。おくうはブチ抜いたドアを閉めるのも忘れて、全力疾走の赤い顔で叫ぶ、
「さとり様っ! 『ご主人様』って呼び方、やめてくれって言われたんですけど! ひょっとしてこれ、変な呼び方なんですか!?」
おくうの記憶を読み取ったさとりは、とても満足しながら親指を立てた。
「ナイスよ、おくう」
「うわあああああん!?」
おくうは一発で癇癪を起こし、翼を振り乱しながらさとりにぽかぽか殴りかかった。
「やっぱり、やっぱりハズカシイ呼び方だったんですか!? さとりさまのばかあああああっ!!」
「いたた。ま、待っておくう。ごめんなさい、羽根が飛ぶから落ち着いて、あいたたた」
おくうは結構背が高い方なので、錯乱のまま振り下ろされるぽかぽか攻撃はそれなりの威力である。やりすぎたと思う反面、一方ではそんな彼女の包み隠さない反応が嬉しくもあった。異変の前のおくうなら、主人に殴りかかるなんて大胆な真似は冗談でもできなかったはずだ。
二十秒ほど掛けて、ようやくおくうを落ち着かせる。
「ふう。えっと、ごめんなさい。ちょっとした悪ふざけだったのは事実よ」
「う゛――――――――……」
涙目で睨みつけてくるおくうを、かわいいなあと微笑ましく思いながら、
「でもね、おくう。あなたから頼まれたのは、『名前以外の呼び方はないか』だったわよね。私、間違ったことは教えてないわよ」
「そ、そうですけどぉ……っ」
「なんだったら、お燐と同じように『おにーさん』って呼んでみる?」
「……うー」
「月見さんのことをちゃんと呼びたいなら、名前を呼んであげるべきだわ。それをあなたに気づいてほしかったのよ」
「……」
おくうの
「それに、おくうもわかってるとは思うけど」
敢えて一旦言葉を区切り、声音をフラットに切り替えた。
「月見さん、そろそろ――たぶん、明日の朝にでも地上に帰るわよ」
「……!」
クリスマスが過ぎ去り、もう年末といって差し支えない時期だ。さすがに、これ以上彼を地霊殿に引き留めることはできない。地上には、彼の帰りを待ち続けているたくさんの少女たちがいる。それを、さとりたちは先日のパーティーで思い知らされたのだ。
「月見さんも、地上に戻ったら年末年始の準備で忙しいでしょうから、次に会えるのはきっと来年だわ。……だから、今年最後くらいは、ね?」
「…………」
おくうの頭の中が、ぐるぐると回転を始める。さとりでも一言では表現しきれないたくさんのことを、彼女は一生懸命に考えていた。異変の前のこと、異変のこと、異変のあとのこと、素直になりたい気持ち、なれない気持ち、名前、置いていかれる寂しさ、地上への嫉妬、お別れしたくない、でも引き留められない、名前で呼ぶ、ついて行きたい、行きたくない、ずっとここにいればいいのに、いなくたって平気だもん、「月見」って呼ぶ、「お前」じゃなくて「月見」って呼ぶ、
そしてパーティーのとき、八雲藍から掛けられた言葉。
「……つくみ」
ぽつり、と、
「つくみ……」
舌足らずみたいな拙い声音で、その名を、確かめるように、
「つくみ」
「……呼んであげて。月見さんの前で」
さとりは、微笑んで、
「おくうも、月見さんにはじめて『おくう』って呼んでもらえたとき、嬉しかったでしょ? 月見さんも、喜んでくれるわよ」
「……」
渦を巻いていたおくうの心が、ゆっくりと透き通っていく。八雲藍から言われた言葉。月見の式神としておくうが果たさなければならない役目は、彼の盾と矛に、或いは手足になって働くことではなく――。
「っ……!」
弾かれたように振り返り、おくうが部屋を飛び出していくその直前、垣間見えたのは勇気を振り絞る凛とした顔つきで。
強く、迷いなく遠ざかっていく足音に耳を傾けながら、さとりは笑みの息とともに独り
「……もうすぐ、暖かくなりそうね」
そのとき、さとりの脳裏に電流走る。
「むむ、ビビっと来たかも……今ならいいお話が書けそうっ」
趣味でやっている小説の話である。たまにあるのだ。何気ない日常の風景からふとインスピレーションを刺激されて、どうにも我慢ならない創作意欲に襲われることが。
おくうが開けっ放しにしていったドアを閉じ、鍵を掛けて、ヒミツの隠し場所からノートを引っ張り出す。机の上に広げて、少し考え、それから一心不乱にペンを走らせ始める。出だしはいい感じだ。水が流れるように書ける。小説というよりは詩に近いかもしれないが、まあたまにはこういうのも悪くはな
「お姉ちゃんなにしてるのー♪」
「邪魔しないでこいし、今すごくいいトコでってふわひゃああああああああああ!?」
「!?」
いつの間にか真横に立っていた妹へ、さとりは手当たり次第に机の上の物を投げつけた。筆記用具、ペン立て、コースター、参考書、ぬいぐるみ、お菓子、参考書、辞書、ノート、小物入れ、辞書、辞書、辞書、そして、
「……きゅう」
「ふーっ、ふーっ、ふーっ……」
およそ十秒後、さとりは肩で荒く息をしながら、すっかり目を回してノビてしまった妹を見下ろしていた。たぶん、辞書がクリティカルヒットになったのだと思う。ちょっとやりすぎたような気もするが、今はそんなのどうだっていい。
涙声でぼやく。
「いつ入ってきたのよ、もぉ~……っ」
ドアに鍵を掛けるより前なのは、間違いないだろうけど。例によって無意識のせいでまったく気がつかなかったし、もしかしたらいるんじゃないかと疑うこともできなかった。
これが、無意識を操る程度の能力。
こいしが外を放浪しなくなったのは嬉しいけれど、いつも屋敷にいる分だけ、なんというか、とても心臓に悪いのだと改めて思い知ったので。さとりはベッドに飛び込み、枕を力いっぱい抱き締めて、
「うううぅぅ~……!?」
古明地さとりは最近、妹が怖い。
「つ!」
「?」
さとりの素っ頓狂な悲鳴が聞こえた。
ので、様子を見に行こうと廊下を歩いていたところ、おくうの思い切った声に突然背を叩かれた。
「つ……つくみっ!」
「ん?」
月見は振り返る。なぜかこちらに背を向け、廊下の彼方に全力疾走で走り去っていくおくうが見える。おくうはそのまま逃げ込むように突き当たりを右に消え、
「っ……」
角の向こうから頭とリボンをちょこっとだけ出して、妙な眼力で月見を凝視し始めた。
さて、何事であろうか。
今のは間違いなくおくうの声であり、月見を呼び止めたのはおくうであるはずだった。しかし、だとすればなぜ彼女は逃げたのか。何故隠れているのか。なにか用があって声を掛けてきたのではないのだろうか。
とりあえず、問うてみる。
「おくう、どうかしたのか?」
「!」
するとおくうの頭が素早く引っ込み、今度こそバタバタと騒がしく走り去っていってしまった。
一体なにがなんだったのやら、月見はたくさんの疑問符とともに首をひねる他ない。しかし、しばらく考えてみてふと気づく。
「ああ……そういえば、名前で呼んでくれてたな」
ご主人様、ではなく。もしかすると、月見に「ご主人様」が不評だったのを気にして、ちゃんと名前で呼ぶためだけに声を掛けてきてくれたのかもしれない。
おくうは、本当に優しい女の子なのだ。
さとりの部屋に着き、ノックをすると、返事が返ってくるまでやや間があった。なぜか恐る恐るとした手つきで鍵が開いて、
「……月見さん」
「悲鳴が聞こえたけど。大丈夫か?」
「ああ……すみません。大したことじゃないんです」
そう言う割に、ドアの隙間から見えたさとりの部屋はひどい有様だった。筆記用具やらぬいぐるみやら本やらが床に散乱していて、その中心ではなぜかこいしがぐるぐるおめめで大の字になっている。一体なにがあったのやら。
「ええと、その。こいしに、おどかされて……それで、つい」
「……なるほど」
こいしは能力の性質上、月見たちが意識しない場所からしばしば突拍子もなく現れる。異変が終わってからは上手く能力を制御できるようになったらしいが、それでも面白がって人の無意識に入り込んでくるところは変わっていない。
ひょっとすると、小説を書いているところでも覗かれたのかもしれない。
「…………」
上目遣いで睨まれた。あまり触れない方がよさそうだ。
「そうしてください。……それで、様子を見に来てくださったんですか?」
それもあるが、もうひとつ。月見の心を読んで、さとりの表情が寂しげに沈んだ。
「……そうですか。そうですよね、もう今年も終わりですもの」
「ああ」
要するに、いい加減明日には地上へ帰ろうと思うのである。今年もいよいよ、残すところあと数日しかない。年末には必ず帰ると、この前のパーティーでみんなに約束していた月見であった。
「……寂しくなりますね」
「そんなこと言ってもダメだよ」
さとりは苦笑、
「ええ、わかってます。……冗談では、ないですけどね」
「……ありがとう」
それは、月見も同じだ。地上へ戻りたい気持ちの方が圧倒的に大きいとはいえ、ここを離れたくない思いだって確かに存在している。幻想郷に戻って以来、誰かの家で一週間以上も世話になったのははじめてだった。今の月見にとって地霊殿は、まさに第二の我が家のような場所だった。
少し、長居しすぎてしまったのだと。そう思う。
「年末年始のゴタゴタが終わったら、必ずまた来るよ。……そのときは、もしかしたら、誰かが一緒についてくるかもしれないね」
パーティーの記憶が甦る。必ず遊びに来てねと、地霊殿のみんなを笑顔で受け入れてくれた少女たち。月見が地霊殿に行くと知れば、とりわけフランあたりなら喜色満面でついてこようとするだろう。幽々子と操なら、今度こそ妖夢と文を無理やりにでも連れてくるかもしれない。
「……今でもまだ、夢みたいです。あのときのこと」
「もう一回、パンクさせられてみるかい」
「あはは、それはちょっと勘弁ですねー……」
言葉とは裏腹に、さとりの口振りは焦がれるようで。
「……月見さん」
「ん?」
澄んだ目をしていた。視線こそ、まっすぐ月見に向いていたけれど。その瞳に映っているのは月見より彼方の、いつかと願う未来の光景だったのだと思う。
「今は、まだちょっとだけ、時間がほしいですけど。……でも、いつか必ず、私たちの方から会いに行きます」
不安だって、恐怖だってある。遠い昔のこととはいえ、一度は自分たちが拒絶された世界。でも、それでもいつかはと願ってしまう。
だってそこには、必ず会いに来てねと笑顔で言ってくれた、『友達』がいるから。
「……会いに行っても、いいですよね?」
言われるまでもない。
月見はただ、笑みだけを返し。そしてさとりも、珍しく外見相応のあどけなさで頬が和らぎ、
「つ、つくみっ」
「ん?」
また、おくうであった。
月見とさとりが振り向けば、やはりと言うべきなのか、廊下の向こうへ全力疾走で走り去っていくおくうの背中。突き当たりを曲がり、壁に隠れて妙な眼力でこちらを凝視するところまで、完全に先ほどの繰り返し映像だった。
であれば当然、
「おくう、さっきから一体」
「!」
月見が名前を呼べば頭が引っ込み、興奮を隠せない激しい駆け足でまたどこかへ消えてしまうのである。
肩を竦めた月見が視線を戻すと、さとりは極めてご満悦な様子だった。
「名前、呼んでもらえるようになったんですね」
「そうらしいけど」
その代わりご覧の通り逃げられるようになってしまったので、なんだか少し前の距離感に逆戻りしてしまった気もする。
さとりは、楽しそうな微笑みを崩しもしない。
「よかったです。これで、月見さんが帰る前にやっておきたい心残り、ひとつ消えました」
「……なあ、さとり」
「む、失礼ですね。ペットに変な教育なんてしませんよ、私は」
どの口が。
「あれだって、おくうに『名前以外でいい呼び方はないか』って訊かれたからですよ」
「いい呼び方、ねえ……」
「素敵じゃないですか。私は別に、そっちでもよかったんですけど。ちょっと残念です」
さとりは目尻にからかうような色をにじませ、
「『ご主人様』、嫌でしたか? 男の方は、ああいうのが好きだと思ってたんですけど」
面倒な騒ぎの種は御免である。
それにしても、能力を悪用せず良識的で礼儀正しかった少女が、今では随分と小悪魔めいた一面を見せるようになったものだ。もっとも、これが古明地さとりという少女の本当の顔なのかもしれない。
おくうを変な方向でそそのかされるのは困るが、こういうさとりも憎めない愛らしさがあって悪くはない。本当の顔を見せてもらえるほど信頼されているのだとすれば、誠に光栄な話でもあるし。
ほんのり色づいた半目で睨まれた。
「月見さん、あなたはまたそうやって……」
「私の馬鹿な思い込みなら、訂正してくれ」
「……うー」
好意的な心を読むのが苦手なところは、あいかわらずなようだった。
そこでふと月見は、こいしがいつの間にか目を覚ましているのに気づいた。こいしはあたりに散乱しているあれやこれを物色していて、その中から一冊のノートを手に取ると、
「ねー月見ー、これお姉ちゃんの小説ノート」
「うひゃああああああああああ!?」
「むぎゅ!!」
さとりの砲弾タックルが炸裂する。妹をベッドまで吹っ飛ばし、涙目でペチペチ平手を落とすさとりの姿を見て、月見はうむと確信する。
やはりさとりは、からかうよりも、からかわれる方がよくお似合いだ。
「いじわる!!」
○
さて。その日も地霊殿で夜を明かせば、いよいよ年末もたけなわである。
なので朝食を終えてすぐ、部屋に戻った月見はぼちぼち帰り支度を始めた。
当然こいしが、ベッドの上でバウンドしながらぶーたれた。
「えーっ。月見、もう帰っちゃうのー……?」
「もうって。一週間以上いたじゃないか」
「もうはもうなの!」
地底生活が長く続いた分、持ち帰らなければならない着替えや日用品も少しばかり増えていた。地霊殿の予備をいただいた物、地底で新しく調達した物、前回のパーティーで藍が持ってきてくれた物。整理していたら風呂敷と袋が出てきたので、これ幸いにちゃっちゃと荷作りを進めていく。
「なんだか、あっという間だったわねえ」
「むー……」
「つまんなーい!」
月見の邪魔にならないよう、さとりとおくうは部屋の隅で大人しく椅子に座っている。こいしは月見の背中にひっついて、現在進行形で作業の邪魔をしてばかりいる。
月見も、あっという間だったと思う。地霊殿での生活ではなく、幻想郷での毎日そのものが。幻想郷に戻ってきてから半年以上が過ぎ去り、今年もあと四日ばかりで終わりなのだ。光陰矢の如しを味わうのは毎年の恒例みたいなものだが、今回は特にあっという間だった気がする。
一体どうしてなのかは――わざわざ考察するまでもないなと、月見は地上のみんなを脳裏に描きながら思う。
というか、こいしが本当に邪魔だ。先っぽにかけて広がるお洒落な袖で、月見の目隠しをしてくる有様である。
「ええいこいし、邪魔をするな。お前を風呂敷に詰めるぞ」
「いいよ、詰めて! 地上にお持ち帰りしてよ!」
「はいはい、こいしはこっちねー」
「あー!」
調子に乗るこいしを、さとりがすかさず襟首掴んで連行していく。ようやく肩が軽くなった月見は一息つき、
「これ以上はさすがに勘弁してくれ。年末年始が落ち着いたらまた来るからさ」
「わかってますよ。……こいしも、本当はわかってるんでしょう? いつまでもわがまま言わないの」
「ぶーぶー」
無理やり椅子に座らされたこいしが、頬を膨らませながら足をバタバタさせている。無論、別れを惜しんでくれる気持ちは素直に嬉しいのだ。しかしそんなこいしを見れば見るほど、地上のみんなのことを考えてしまうとでも言おうか。
不思議なものだ。ほんの前までは、何百年も外ばかりを歩いていたって平気だったのに。たった一週間そこらで、ホームシックになってしまっているのか。
「……ふふふ」
さとりにほんのりと笑われた。月見は頭を振って邪念を払い、作業に集中することにした。
ドアがノックされたのは、もう少しで荷作りも終わろうという頃合いだった。
「おにーさーん」
「どうした?」
入ってきたのは、姿が見えなかったお燐である。猫らしくさっぱりとした性格の彼女は、帰り支度に入った月見を特別惜しむこともなく、屋敷の見回りという名目の散歩をマイペースに楽しんでいたのだ。その中でなにかを見つけて報告に来てくれたらしく、廊下の方をそわそわと気にしながら、
「あの、おにーさんの知り合いって妖怪が」
「つううううくみいいいいいいいいいいっ!!」
「ぎょあー!?」
お燐を情け容赦なく吹っ飛ばし、怪鳥の如き咆吼で小柄な人影が飛び込んできた。両足で勢いよく床を踏み切り、猛烈なフライングボディアタックの体勢に入る。幾度となくフランの砲弾タックルを受け止めてきた月見の危険本能が、理解の領域を超えて人影の正体を直感する。
赤と青の、幾何学模様めいた不思議な形の翼。
月見は、少女――封獣ぬえのアタックを、一歩右に動いて躱した。
「あっ、」
ぬえは月見のすぐ背後、ベッドの上で見事に弾み、しかしそれだけでは止まりきれず、
「ふぐうっ」
と、顔面から床に落下した。月見が振り返ると、ベッドの縁に半分引っ掛かったシャチホコみたいな体勢で、ぬえの両脚がピクピクと痙攣しているのが見えた。
沈黙。
「……やあ、ぬえ」
「躱さないでよぉっ!?」
跳ね起きたぬえは涙目で、
「いじわる! 月見が私の寂しさを受け止めてくれない!」
「はあ。なんなんだ一体」
こいつをすっかり忘れてたなあ、と月見はしみじみ思うのだ。はじめこそ一悶着あったものの、一度打ち解けてしまえばとても気さくで人懐こい、こんなザマでも一応名の知れた大妖怪少女である。
さとりもおくうも、突然の闖入者にすっかり目を丸くしている。吹っ飛ばされたお燐は目を回している。唯一こいしだけが、
「あ、ぬえだー!」
ぬえもこいしに気づき、指差しで吠えた。
「……あ! お前はいつぞやの不法侵入妖怪!」
「はーいっ!」
そういえば、こいしとぬえは知り合いなのだった。月見がこいしとはじめて出会ったのは、地霊殿ではなく聖輦船だったことを思い出す。
さとりがようやく我に返り、
「えっと……こいし、知り合いなの?」
「聖輦船にいた妖怪だよ!」
「私がはじめてここに来た日、聖輦船からこいしを連れ帰ってきたろう。まあ、いろいろイタズラしてたらしいよ」
「おばか!?」
「ふぎゅ!?」
さとりがこいしにチョップをした。
「なにするの!?」
「なにしてるの!? そういうことはしちゃダメだって言ってるでしょ!」
「今はもうしてないもん!」
さとりは聞く耳を持たず、ぬえの前に出て頭を下げ、
「申し訳ありませんでした、ウチの妹がとんだご迷惑を……」
「へ? あ、いや、もうされてないのはほんとだし別にいいけど……」
気勢を挫かれたぬえは、そこでさとりの胸の前に浮かぶ第三の目に気づいて、素早く月見の後ろへ隠れた。
「……覚妖怪」
「はい。……ふふ、もちろんわかりますよ。あなたが考えてること、つまりみんないなくなって寂しかったから月見さんにすごくすごく会」
「言わなくていいからっ!!」
「ごふ」
なぜか月見が背中から殴られた。理不尽。
ぬえはだいぶテンパった感じで、
「そ、それよりっ! あんたいつからこっち来てたの!? 来てたなら教えてよっ!」
さとりの愉悦の眼差しが注ぐ中、月見は背中をさすりながら、
「……悪いね。いろいろあって、すっかり忘れてた」
「変な騒ぎは起きるしムラサたちはいなくなっちゃうし、独りぼっちでほんと心細かったんだからね!」
「悪かったって。……ん?」
疑問、
「水蜜たちがいなくなった?」
「そうなのよ! 私がちょっと出掛けてる隙に、聖輦船ごといなくなっちゃったの! なにも言わないで! ひどいと思わない!?」
「……、」
そういえば、さとりはついさっきぬえの心を読んでこう言った――「みんないなくなって寂しかった」と。
みんなが、いなくなった。
聖輦船ごと、消えた。
どこに。
――血の巡りが凍る、強烈に嫌な予感。
もちろん、早合点に過ぎないと頭ではわかっている。水蜜たちはぬえと同じで、人間によって地底に封じられた妖怪なのだ。自力で外に出ることはできないし、だから彼女らは、何百年も地底で退屈な日々を過ごさざるを得なかった。
だが、
だがもしなんらかの拍子で、封印を超えて偶然地上に出てしまったら。
もしなんらかの拍子で、偶然志弦の名を耳にしてしまったら。
神古を、恨んでいると。月見の前でそう打ち明けた彼女たちが、取るべき行動なんて――。
悪い予感というのは、当たるものなのだ。
「……うー、なんなのさもぉー。おにーさんの知り合いってなんでこうみんな」
「――月見ッ!!」
「ぎにゃーっ!?」
目を覚ましたばかりのお燐を血も涙もなく吹き飛ばし、室内だというのに目を覆うほどの旋風が巻き上がる。
月見は、この風を知っている。
「――文、」
「さっさと地上に戻ってきなさい!!」
挨拶もなにもありはしなかった。勝手に地霊殿に侵入し、勝手にこの部屋まで入り込み、さとりたちなど見向きもせず突き進んだ射命丸文は、月見の胸倉を掴み取って声を張った。
「志弦が、妖怪に攫われたって!! 空飛ぶ船に乗った妖怪たちに!」
――ああ、本当に。
悪い予感ばかりが、よく当たるのだ。
「――わかった。行こう」
水蜜たちがどうやって地上に出たのか、事実として出てしまったのならばもはや問答の意味はない。すべてを了解した月見は余計な思考の一切を蒸発させ、文の手を振り解き、鋭い呼気ひとつで己のスイッチを切り替える。
「さとり。悪いけど、荷物は置いていく。取っておいてくれ」
「……わかりました。行ってあげてください」
邪魔な荷物を持っていく余裕はない。
心は読めずとも、尋常ならざる緊迫を感じてこいしとおくうが言葉を失っている。彼女たちには悪いけれど、変に口を挟まれるよりかはよっぽど都合がよかった。事情の説明は、きっと月見と文の心を読んださとりがしてくれる。文と頷き、動き出そうとするその間際、
「ま、待ってよ!」
ぬえの慌てた声に、背を叩かれた。
「船に乗った妖怪って……ムラサたちが地上にいるの!?」
月見は首だけで振り向き、手短に頷く。
「しかも、厄介な騒ぎを起こしてくれたらしい。私はすぐ地上に行って、」
「私も連れてって!!」
遮る彼女の声音は、縋りつくようでもあった。咄嗟に伸ばされた華奢な指先が、月見の着物に震える力で皺をつける。
震えているのは、指先だけではない。
「つ、連れてってよぅ……独りぼっちは、やだよぅ……」
封獣ぬえは、寂しがり屋だ。
無理もないのかもしれない。地底に旧都ができるよりずっと昔から、独りぼっちで封印されていた少女だから。マミゾウとはもう何百年も会えておらず、数少ない地底の友人だった水蜜たちとも離ればなれになってしまって、月見が想像する以上に心細い思いをしていたのだ。
きっと、今までずっと水蜜たちを捜し回っていたのだろう。寂しい思いを我慢して、地底中を一生懸命飛び回って。しかしそれでも聖輦船は見つからず、半分ベソをかきながら途方に暮れていたところで偶然、月見が地霊殿に滞在していることを知った。友達を見つけたその嬉しさ足るや、無我夢中の砲弾となって飛びつこうとしてしまうほどだった――。
説得するより、いっそ言う通りにしてしまった方が早いと判断した。
「ぬえ、少しじっとしてろよ」
「……へ?」
月見は札を抜き、手早い詠唱で術を込めると、それをぬえの額に貼りつけた。
五秒ほどは、なにも起きなかった。
「……ちょっと、いきなりなに」
火花が弾ける音、
「みぎゃっ!?」
ぬえの体が飛び跳ね、その拍子に札が剥がれ落ちて、火に包まれ一瞬で燃え尽きた。ぬえは赤くなった額を両手で押さえて涙目で、
「なななっなになになに!? 一体なんなのなにをどーしたの!?」
「お前の封印を解いた。もう外に出られるはずだよ」
「え? ……………………え!? なになになにそれどーいうこと!? 今ので解けたの!? あんなあっさり!? なんでどーして!?」
「あとは自分で確かめてくれ」
「まままっ待って待って待ってよぉ!?」
すっかり驚天動地のぬえは月見の前に回り込み、抱きつくように猛烈な勢いで、
「ほ、ほんとに!? ほんとにほんとにほんとに!? 嘘じゃないよね、どうしてあんたに解けるの!?」
「ただの年の功だよ。さあどいてくれ、私は行かなきゃならないんだ」
「……私も一緒に行く!」
もうなんだって構いやしない。大人しくなったぬえをひっぺがして、さとりたちに最低限の感謝を告げる。
「さとり、こいし、おくう。バタバタしてしまって悪いけど、世話になったね。ありがとう」
「お礼を言うのはこっちの方です。ありがとうございました」
「月見に会えなくなるのは、寂しいけど……月見が置いてく荷物で我慢するね!」
こいしの言葉の真意を確かめる暇すらないのが、心残りでならない。
「それじゃあ、またね。お燐によろしく」
部屋の隅っこまで吹っ飛ばされたお燐は、頭の上でお星様を回して完全に気を失っている。このところお燐は、紅魔館の美鈴然り、永遠亭の鈴仙然り、いい子なのにイマイチ恵まれない不憫な立ち位置を確立しつつある。
後ろ髪を引かれる思いを、月見は呼気ひとつで断ち切る。文に連れられぬえを連れ、月見はただ、一刻も早く地上へ向かうことだけにすべての意識を集中させる。
部屋から駆け出すその間際、おくうがなにかを言おうとして口を開きかけ、なにかを伝えようとして手を伸ばしたが。
もはや立ち止まれない月見はまるで気づかぬまま、一陣の風となって地霊殿を飛び立った。
――これが、最後の試練となろう。
今となっては、千年以上も昔の話。人を騙って生きたある狐がいて、人のために生きたある陰陽師がいて、妖怪のために生きようとしたある尼僧がいた。
これは、ある
妖怪故に人と相容れず、
人故に妖怪と相容れず、
人故に人と相容れず、
一度は途切れ、されど千年の時を超えて、いま再び語られる――
あるときある時代の、妖怪と人間の、
――東方星蓮船。