銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色
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東方星蓮船 ① 「未来と過去の交差点」

 

 

 

 

 

『やあ』

「んぇ」

 

 変な夢を見た。

 神古志弦にとって、夢の中でこれは夢だと認識できたのは人生初の経験である。ひょっとするとすでに何度かはあったかもしれないが、自分は起きるとすぐ夢の内容を忘れてしまうタイプなので、記憶の限りで生涯初の快挙なのは間違いない。

 そこは、天と地の境すら存在しないどこまでも真っ暗な空間だった。いや、「真っ暗」ではなく「真っ黒」と表現するべきなのかもしれない。立っているのか浮いているのかもわからない自分の姿が、志弦の目にははっきりと映っている。これが本当に真っ暗闇の中であるなら、己の体だって闇にまかれて見えないはずだから。

 人らしきなにかに、声を掛けられていた。

 

「……えーと、」

 

 人、と断言しなかったのは、黒っぽいもやが掛かって顔も姿も判別できなかったからだ。胡座でもかいて座っているのだろうか、背丈は極端に低く見える。ただ声の調子から、それがどうやら女らしいということだけはわかった。

 で。

 誰だこいつ。

 

「……どちら様でしょう?」

『どちら様だと思う?』

 

 問うなり問いが返ってきた。わからないから訊いているのですが。

 しかしなんとなく、声が自分と似てるな、と思った。女としては少し低めで、その分張りを感じる声音。自分がもっと年を取って大人になったら、こんな感じの声変わりをしそうだ。

 あてずっぽうで答える。これは夢なのだから、現実ではありえない相手だとしてもなんら不思議ではない。

 

「未来の私」

『ぜんぜん違うねー』

 

 ですよねー。

 

「んん……若い頃のばっちゃん?」

『お、方向性は合ってるかも』

 

 なんですと。

 

「ええと、じゃあ」

『まあそれはどうでもよくってね』

「おい」

『あっははは。でもほら、あんま時間もないからさ』

 

 ――時間?

 なにがなんだかさっぱりわからないが、とりあえず志弦は黙ってみた。黒い人影は頷くような仕草をして、それから少し真面目ぶった声音に切り替えた。

 

『まあ、あれだよ。近いうちになんかいろいろあると思うけど、とりあえず大丈夫なので、安心して巻き込まれちゃってください』

「えっ私の身に一体なにが」

『頑張れ!』

 

 なにそれ怖い。

 

『んじゃーそういうわけで、またね』

「ちょ、ちょっと待って意味わかんないんだけど!?」

 

 志弦は咄嗟に人影へ手を伸ばした。しかしどういうわけか、どんなに前へ進んでも人影との距離が一向に縮まらない。ああマンガとかでよくあるやつだなーチクショウ、と唇を噛む。

 人影が、からからと愉快げに笑う。

 

『ほんと大丈夫だよ。痛い目は……あんま見ないはずだし』

「ちょっとは見るの!?」

『それに言ったでしょ、「またね」って。今度はそっちから会いに来てよ。そしたら、次はぜんぶ話すからさ』

 

 いや夢の中に会いに来てって意味がわからないし、そもそもアナタがどこの誰かもわからないし、もうワケがわからなくてなにがなんだか、

 

『志弦ー?』

 

 そのとき、天から響き渡るように聞き慣れた声が降ってきた。志弦はつられて上を見る。なにかの楽器めいて高く透き通った、志弦とは比べ物にならないほど美しい女の子の声は。

 

「……早苗?」

『志弦ー、そろそろ起きないとダメだよー』

『……ほら、お友達が呼んでるよ』

 

 人影が、微笑んだ、気がした。

 

『もう行きなさい。……心配しなくても、ほんとのほんとに大丈夫さ。君の傍にいる、あの妖怪が、力になってくれるから』

「……それって、」

 

 ――月見さん?

 体を、揺すられる感覚。否応なしに意識が浮上を始める。煙のように黒が晴れ、夢の世界に白が広がっていく。

 人影の姿が、もう少しで見えそうで。

 けれどわかったのは、ほんの一瞬、どうやら和服を着ているということだけ。

 

『志弦ー! 起きてーっ!』

 

 そして目が覚める、その、間際に。

 

『待ってるよ』

 

 人影が、にじむような言葉をこぼした。

 

『――果たさなきゃなんないからね。白蓮との、最初で最後の約束』

 

 暗転。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――志弦ーっ! 起きなさーい!」

「…………んぐぅ……」

 

 人は、目を覚ましてわずか五分で夢の記憶の半分を失うという。

 ちなみに志弦は五秒でほぼすべてを失う。

 

「うぇ」

 

 早苗に揺すられて目を覚ました志弦は、その瞬間にはもうなんの夢を見ていたのかほとんど覚えていなかった。

 

「……ぁぁ゛ー」

 

 呻いた。なんだろう。なんだか、忘れてはいけない大切な夢を見ていた気がするのだけれど。思い出せそうなのに思い出せなくて、ほんの何秒か前の記憶すら煙に巻かれている感覚が、とても気持ち悪かった。

 天井を見上げる視界の端で、早苗の怪訝な表情が見えた。あいかわらずの美少女っぷりである。まだ半分寝ている頭の片隅で、心配する顔まで綺麗って反則だよなー、とそんなことを考える。

 

「志弦? ……もしかして、どこか具合悪いの?」

「あー、違うよー」

 

 さておき。

 まあ、思い出せないものは仕方ない。夢の内容をすぐ忘れるのはいつものことだ。志弦は心のもやもやをなかったことにし、寝惚け眼をこすって早苗に笑みを返した。

 

「早苗みたいな美少女が朝起こしに来てくれるって、ゲームみたいだよなーって」

「またそんなこと言って……。あのね、志弦だって充分」

「はいはい、何度も言ってるけどそれ以上に中身がダメダメなのでーす」

 

 起きた。途端に冬の朝の冷気が肌を刺してくるが、今となっては今年も終わりの終わり、この程度の寒さにもすっかり慣れたものだ。幻想郷で暮らし始めてからというもの、巫女として早寝早起きが絶対条件になったので、志弦の生活リズムは目覚ましく改善された。おまけに神社の手伝いや日頃の家事で適度な運動をし、化学物質とは無縁な大自然の恵みを日々食事として頂けば、若い志弦の体は北風小僧にも負けない健康街道まっしぐらなのだった。

 

「おはよう」

「おはよう。……具合、大丈夫なんだよね? 水月苑のお手伝い、行くんでしょ?」

「おう、もちもち」

 

 そう。普段であればこのあとすぐに着替えて神社の朝の仕事なのだが、本日ばかりは事情が違う。

 ついこの間にクリスマスが終わり、今年も残すところあと五日。

 月見不在のままで迎える、今年最後の温泉開放日である。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 ――お願いします! もう今年も終わりということで、『温泉納め』をさせてくださいっ!

 と、要するにそんな要望が、山の女妖怪を中心に噴出したのである。先週末は、地底で起こった異変が終結して間もないタイミングで、また月見が不在だったため温泉が開放されなかった。そのときは、まあ仕方ないということでみんな渋々納得していたのだ。

 しかし今回ばかりはそうも行かない。なぜなら今年の最後の週末であり、これを逃せばもう来年までは水月苑の温泉に入れなくなってしまうのだから。手足もかじかむ真冬の季節に、そんなご無体を温泉大好き少女たちが許容できるはずもなく。

 そこで已むなく藍が動き、月見に許可を取った上で温泉を代理開放する運びとなった。ただし少しばかり人手が要るので、志弦と早苗がお手伝いに立候補してみた――というのが、現在に至るまでの事の顛末である。

 とは、いえ。

 

「ひめちゃーん、暇になっちゃったー」

「あらー」

 

 温泉宿の準備というからそこそこの重労働を想像していたが、やってみるとそうでもなかった。温泉宿は温泉宿でも日帰り温泉宿であり、加えて月見の私生活を圧迫しないよう、タオル類の入浴道具は持参するのが鉄則だ。なのでやることといえば、浴場を始め屋敷の随所を簡単に掃除し、温泉あがりのお客用に飲み物を準備しておくくらいだった。源泉の温度調整とか、小難しいところはぜんぶ藍がやってくれた。

 よって暇人となった志弦は外に出て、池のへりでわかさぎ姫とのんびりとダベっているのだった。

 水月苑の池は、とかく大きい。諏訪子が「私が頑張って作ったんだよ!」とえばっている通りで、日本庭園とともに屋敷の周囲を囲む壮大な規模は、池というよりもはや堀にも近い。八雲紫によって魚が突っ込まれているので釣りが楽しめる上、深いところはそんじょそこらのプール以上の深さがあり、夏には泳いで遊ぶ河童の姿が見られることもあった。

 更に言えば、水質もバッチリ綺麗に保たれている。その立役者が、いま志弦が見下ろす人魚姫ことわかさぎ姫であった。

 

「お屋敷のお掃除、お疲れ様ですー」

「ひめちゃんも、お掃除お疲れー」

 

 水月苑の池を住処にしている彼女が、「日頃からお世話になっているのでこれくらいは!」と掃除の手を行き届かせているのだ。志弦にはよくわからないけれど、なんでも人魚には水質を綺麗に保つ秘術のようなものが伝わっているらしく、山の清流が絶え間なく流れ込んでいるのも相まって、まるで鏡のように空の景色を映し出している。

 夜にもなれば、そこには朧に輝く幻想郷の月が映り込むのだ。水月苑という名は、本当にこのお屋敷にはぴったりだと思う。

 そして陽光照り返す雪解けの日本庭園を背景に、ちゃぷちゃぷと池の落ち葉集めを頑張っているわかさぎ姫の姿は、もはやため息すら無粋なほどに美しいのだった。

 

「はあ……ひめはほんと綺麗だなー。天使」

「も、もぉー、志弦さんったらぁ」

 

 天使。

 わかさぎ姫のようなふわふわ天然少女が生息しているのも、幻想郷の奥深さのひとつであろう。外の世界にはこんな女なんて存在しない。いや、外の世界に存在しないからこそ、幻想郷に存在するというべきなのだろうか。

 

「それより、お屋敷のお掃除、手伝えなくてごめんなさい」

「ああ、いいよそんなん」

 

 一応わかさぎ姫も、少しくらいなら飛べるらしいが。どうあれ半人半魚な彼女に、地上に足をつけるのが前提の仕事は荷が重い。

 

「それに、ちゃんと池の掃除してるじゃん。庭を綺麗にするのも、立派なお屋敷の掃除のひとつだって」

「そ、そうですか? えへへ、そう言ってもらえると嬉しいですー」

 

 ほんっと天使。

 

「ところで、早苗さんは?」

「早苗なら、藍さんを襲ってるよー」

「えっ」

「藍さんの尻尾を」

 

 あー……という顔をわかさぎ姫はした。耳を澄ませば屋敷の方から、「お願いですっちょっとだけ! ちょっとだけでいいんです!」「ま、待て待て目が怖いぞ、あっちょっそこは、ひゃっ」とかすかな攻防の声が聞こえる。東風谷早苗は、遠く遠く諏訪子の血を引く現人神である。ならば早苗の呆れるほどのケモ好きも、きっと諏訪子のもふもふ好きが遺伝し変異したものなのだろう。

 

「じゃあ、もう温泉の準備はバッチリなんですねー」

「そだよー。あとは、玄関に『ゆ』を掛けるだけだね」

 

 もっとも藍が早苗に襲われているので、開店まではもう少し時間が掛かるかもしれない。

 そのときわかさぎ姫が、不意に端麗な顔立ちを曇らせた。つぶやくように、

 

「……旦那様、結局帰ってきませんでしたね」

「まあ、向こうも大変だったみたいだからねー」

 

 志弦も、過日地底で起こったという異変の真実を知ったときは驚いた。諏訪子と神奈子が藤千代に拉致されたことからなんとなく想像はしていたものの、現実は遥かに上を行った。解決に向かった月見が全身に大火傷を負ったというのだから、そりゃあ諏訪子と神奈子が血も涙もない強制労働を言い渡されたのも納得の大事件だったのだと思う。

 とはいえ、なにも心配は要らない。

 

「でもほら、この前藍さんたちがお見舞い行ったみたいだけど、もうすっかり治って元気だったって話だし」

 

 異変は無事に終結したし、事後処理も(つつが)なく終わった。月見が未だ帰ってこない理由だって、向こうの妖怪少女たちに懐かれてしまってなかなか身動きが取れないでいるからだ。まこと月見らしい、人の心配を返せと蹴っ飛ばしたくなるほどしょうもない理由だと思う。

 

「もう年末だし。さすがに、そろそろ帰ってくるっしょ」

「そう……ですね」

 

 わかさぎ姫の表情は晴れない。志弦はちょっといたずらする気持ちで、

 

「やっぱ、寂しい?」

「はい」

 

 意外にも、即答が返ってきた。

 

「旦那様がいなくなって、わかったんです」

 

 志弦の向こう――水月苑へ視線を転じ、わかさぎ姫はその声音に思慕の情を忍ばせて言う。

 

「私、旦那様がいて。旦那様の周りに、いろんな妖怪さんや人間さんがいて。みんな元気で、仲良しで」

 

 胸を押さえて見つめる水月苑の縁側に、在るべき誰かの姿を思い描くように、

 

「そんな景色をここから見つめるのが。いつの間にか、こんなにも、好きになってたんだって」

「……」

 

 志弦は、わかさぎ姫と同じ方向へ目を向ける。水月苑の縁側をのんびりと歩く月見がいて、彼の背中をちょこちょこ追いかける少女たちがいる。それはぽんこつ気味なスキマ妖怪であったり、月見至上主義なお姫様であったり、乙女なメイドであったり、天使な天人であったり、かわいらしい吸血鬼の姉妹であったり、もふもふ九尾のお狐さんであったり、その式神のにゃん()であったり、青と緑の妖精コンビであったり、ツンデレ風味な鴉天狗であったり、ぽやぽやな亡霊少女であったり、ドジっ娘な庭師であったり、くーるびゅーてぃーなふらわーますたーであったり、説教好きな閻魔様であったり、いつもふらふら酔っ払っている鬼であったり、自称月見の教え子であったり、釣りに目覚めた闇の妖怪であったり、ウチの神社の神様たちであったり、ご飯大好きな巫女さんであったり、盗みから足を洗った魔法使いであったりする。そんな光景を思い描く。

 この場所がなければ、出会うことも話すこともなかった少女だって、きっといただろう。

 緩く息をつき、わかさぎ姫へ視線を戻す。

 

「……そうだね」

 

 志弦だって、好きだ。

 

「月見さん、早く帰ってくるといいね」

「……はい」

 

 まったく、月見という妖怪はひどいやつだ。わかさぎ姫だけに限らず、ここには月見の帰りを今か今かと待ち侘びている少女がたくさんいる。月見だってまさか知らないはずはないのに、未だ地底でぐーたらな生活を送り続けている。向こうの妖怪に懐かれているからとか、そんな理由は言い訳にすらならない。わかさぎ姫たちの気持ちに応えて早く帰ってこようという気概が、ぜんぜんまったく感じられない有様である。

 帰ってきたらこっぴどく文句を言って、自分がどれほど無責任なことをしていたのか思い知らせてやらねばなるまい。味方には、フランや橙などなるべく小さな女の子を集めよう。きっと、大弱りで困り果てる情けない月見の姿が拝めるであろう。

 と、

 

「……?」

 

 そこでふと志弦は、自分の周りに巨大な楕円の影が差していると気づいた。

 もちろん、だからどうしたという話ではある。太陽が雲に隠れただけの、普段であれば間違いなく気にも留めない小さすぎる変化。気づいたのはきっと、今日がたまたま雲のほとんどない快晴日和だったからだろう。

 

「あれ? もしかして曇ってきちゃっ――」

 

 空を見る。

 見て、志弦は呆然とした。

 

「へ、」

 

 志弦から太陽の光を遮っているのは、雲ではなかった。

 船。

 

「……へっ」

 

 本来であれば海に浮かんでいるべき木造の帆船が、あろうことか空に浮かんで、志弦たちの斜め上空に堂々と覆い被さっていた。

 

「…………ぅへー」

 

 志弦はそれしか言えない。

 

「え? な、なんですか、あれ?」

 

 わかさぎ姫も目を白黒させている。いくら非常識が常識の幻想郷といえど、さすがに船が空を飛んでいる光景は珍しいようだ。

 そしてその船から、志弦たちに向かって降りてくるふたつの人影がある。

 二人の少女である。片方は長袖のセーラー服――女子校生が着る制服ではなく、本来の意味での水兵服――にマフラーを巻き、もう片方は素肌をぴっちり覆った尼さんの出で立ちをしている。やはり美人である。幻想郷の少女が美人なのはこの世の理なので、もはや凹む女子のプライドもない。

 

「……早速お客さんかな?」

 

 空飛ぶ船でやってくるなんて、随分と大仰な。

 それにしても、少し妙な感じがする。志弦は、幻想郷に空飛ぶ船が存在するなんてはじめて知った。どうして、はじめてなのだろう。志弦は新参者の外来人だけれど、それでも幻想郷で生活を始めてひとつの季節を越えている。たったひと季節、されどひと季節、天狗たちのゴシップ飛び交う妖怪の山で生活していれば、幻想郷の面白おかしい情報は自然と耳に入ってくる。

 噂くらいは耳にしていたって、然るべきなのに。百歩譲ってそれはいいとしても、幻想郷での暮らしが長いわかさぎ姫まで驚いているのはやっぱり妙だ。まさかあの船、つい最近になって出現したばかりだとでもいうだろうか。一体どこから、どうやって。

 ――でも、まあいいか。

 実際に話を聞いてみればわかることだ。

 

「――あのー、すみませーん」

 

 志弦の目の前に降り立ったセーラー服の少女が、顔見知りみたいに明るく声を掛けてきた。一方で尼さんの方は固く口を閉ざしており、

 

「……えっと、なにか御用ですかー? あ、温泉はもうちょっと待っててくださいね」

 

 答えながら、志弦は内心動揺した。

 なんだろう。尼さんから向けられる視線に、やけに重苦しい圧力を感じる。顔に不自然なほど感情が伴っておらず、まるで能面を被っているように見える。

 尼さんがどうしてそんな顔をしているのかは、当然わからない。

 そしてそんな尼さんの横で、少女がどうしてたんぽぽのように笑っているのかもわからない。

 気のせいでは済まされない隔絶した温度差が、言い知れぬ不安となって志弦を襲った。

 

「へー。温泉に入れるんですか、ここ」

「はい、一応……あれ? ってことは、温泉に入りに来たわけじゃ……」

「あ、はい。ちょっとお尋ねしたいことがありまして」

 

 その時点で、志弦はもっと警戒するべきだった。少なくともわかさぎ姫は異様な空気を機敏に察し、首から下を完全に水の中へ戻して身構えていたのだ。

 それすらも、志弦は気づかなかった。

 

「……えっと、なんでしょ?」

「お名前を訊いてもよろしいですか? ちょっと、あなたが昔の知人にそっくり(・・・・・・・・・)だったもので、懐かしくなっちゃって……」

「はあ」

 

 生返事を置いた志弦は、さほど深くも考えずに答えた。

 答えて、しまった。

 

「神古ですけど。神古志づ」

 

 なにが起こったのか、わからなかった。実際志弦の体を襲った順序としては逆なのだろうが、まず視界全体が気でも違ったような勢いで撥ね跳び、それから肺を叩き潰されたかというほどめちゃくちゃな衝撃を感じた。

 

「……けほっ」

 

 まだ、なにが起こったのかわからない。体が正常な機能を失っている。視界は白く濁ってなんの情報も伝えてくれず、あらゆる音が壁を隔てたように遠い。

 

「し、志づ」

「動かないで。あなた見たところ人魚みたいだけど――水の中の勝負で、船幽霊の私に勝ち目があるなんて思わないでよね」

 

 セーラー服の少女の、声。だが、はじめ志弦に声を掛けてきたときのぬくもりは欠片も存在していない。まるで、暗く冷たい、夜の海のよう。

 

「――そう。神古。神古っていうの」

 

 きっと、あの尼の少女だったのだと思う。体が震え、頬が引きつり、脳髄が哄笑し――そうしてこぼれ落ちた、狂い咲く寸前の、ドス黒い歓喜の声音。

 ようやく、視界が帰ってきた。

 志弦は、宙に浮いていた。より正確に言うなら、尼さんの背後――一体どこにどう隠れていたのか、突如として出現していた煙状の巨人に、たった右手ひとつで鷲掴みにされていた。人が、小さな人形を掴むように。

 

(……うわ)

 

 意識が朦朧としているお陰で、反って冷静に目の前の状況を理解できた。疑問も困惑もすべて一足で飛び越えて、事実は極めて端的に志弦の前に突きつけられていた。

 丸太にも等しい巨人の指先が、苦痛を生むほどではないにせよ、確かな意志を以て志弦の体を圧迫している。それだけでまず、己が体の自由だけでなく、生殺与奪の権利までもこの巨人に鷲掴みにされているのだとわかる。

 身をよじり、志弦は視線を足元へ動かす。セーラー服の少女が背負っていた錨を片手で軽々と持ち上げ、わかさぎ姫の目と鼻の先に突きつけている。わかさぎ姫の、ひび割れていくような、張り詰めた瞳と交差する。志弦と同じく、わかさぎ姫もまた一切の抵抗を許されぬ状況にあるのは論にも及ばず。

 要するに、これはとんでもなく不味い。

 

「まさか――まさか、生きていた(・・・・・)とでもいうの?」

 

 尼の少女が言う。誰かに問うているというよりも、敢えて言葉にして思考することで、決壊する寸前の感情を抑え込もうとしているように見えた。

 

「姐さんと同じ、不老長寿の秘術にでも手を出した? いえ、でも、それにしたって」

「な、に」

 

 ――姐、さん?

 わからない。こいつは一体なにを言っている。志弦を、誰かと勘違いしているのではないか。でも、こいつは間違いなく『神古』の名に反応した。こいつは『神古』の名を知っている。同姓の別人? いやでも、昔の知人にそっくり(・・・・・・・・・)だって。

 わからない。

 一体、

 一体、なにが、

 

「――志弦!? 志弦、どうしたの!?」

「……ッ!」

 

 早苗の声――と志弦が認識するや否や、また視界が目まぐるしく動いた。

 

「一輪!」

「わかってる!」

 

 空に落ちるかの如く、地面が恐ろしい勢いで遠ざかっていく。わかさぎ姫がなにかを叫んでいる。殴りつけられるような風の音だけで耳が満たされている。

 なんとなく――ああこいつらは船に帰る気なんだな、と思った。視界に広がっているのは地上の景色だけだけれど。強盗や人攫いが、人に見つかりそうになって車で逃げようとするのと同じだ。

 人攫い。

 

 要するに、志弦はこれから攫われるらしい。

 

 平和ボケというやつだったのかもしれない。かつて無縁塚に幻想入りした志弦は、この世界には人を襲う危険な妖怪がいると身を以て知ったはずだった。だが月見に助けられ、早苗に受け入れられ、守矢神社の巫女として平和な日々を謳歌する中で、それをすっかり忘れてしまっていた。

 なにも無縁塚だけに限った話ではない。この幻想郷でほぼ百パーセントの安全が保障されているのは、紫や慧音が守る人里か、霊夢が守る博麗神社か、二柱の神々が守る守矢神社か、月見が守る水月苑くらいなもの。

 そして今の水月苑に、月見はいない。

 忘れていた。もちろん――忘れていなかったとしても、なにかができたわけではない。守矢神社で修行を始めて数ヶ月、少しずつ巫女として実力をつけてはいるけれど。

 それでも志弦は未だ、人智を超えた妖怪の力に対して、あまりに無力なのだ。

 

 

 ――少し話を替えよう。

 

 

 志弦は未だ無力な人間だが、かといって妖怪たちにとってみれば、「志弦に危害を加えるのは命知らずのすること」というのがある程度の共通認識だった。

 なぜか。

 志弦を守る存在があるからだ。

 それは例えば、同じ外来人の早苗であったり、或いは友人の月見であったり、その他志弦に友好的な者たちであったりする。しかし一介の人間や妖怪とは比べ物にならない、もっと、遥か超越的な存在の加護を――本人は気づいていないだろうが、志弦は常日頃からその身に与えられているのだ。

 

 神古志弦は、守矢神社の巫女(・・・・・・・)である。

 

 守矢神社には、二柱の神が祀られている。表向きにはかつて軍神として名を馳せた風と雨の神であるが、本当の祭神は、信仰が衰えた現代でもなお強大な祟り神の王である。

 神古志弦に手を出せば、祟り神を敵に回す(・・・・・・・・)

 にもかかわらず敢えて、或いは知らず志弦に危害を加える者があるのなら。それは蛮勇よりも遥かに愚かな、単なる命知らずの所業なのだろう――。

 

 

「――待ちなよ」

 

 

 そのたった一言で、一輪と水蜜は容易く心の臓まで氷結した。

 待てと言われて待つ馬鹿はいない――そのはずだった。なにをされても止まるつもりなどなかった。なのに天から降りてきたたった一言で、一輪と水蜜の意志は呆気なく捻り潰されてしまっていた。

 聖輦船への道を遮る、影があった。

 

「ったく。そろそろ温泉に入れるかなーと思ってやってきてみれば――」

 

 童女、だった。そのあたりの農村から着の身着のまま飛び出してきたような、ナズーリンにも匹敵する小さな女の子だった。しかしその華奢な体から放たれるのは、到底女の子とは――否、人とも(あやかし)とも評することのできない、闇に包まれた深淵が煮え立つかの如き異質な波濤。

 ああこいつはヤバいやつだなと、一輪も水蜜も一発でわかった。

 

「で? あんたら、ウチの大事な巫女で、ウチの早苗の大事な友達に、なーにしてくれちゃってんのかな」

 

 ――そうか。こいつが着ている巫女服は、そういう。

 

「……志弦を、帰してくださいっ!」

 

 足を止められたのが災いして、後ろから人間に追いつかれた。だがそれよりも問題なのは、人間と一緒に駆けつけてきた九尾の狐の方だ。

 一輪と水蜜の額に、同時に焦燥の脂汗が浮かぶ。前門にどこからどう見ても危険な神が一柱、後門に妖獣最強の九尾の狐が一匹。全盛期の状態ならいざ知らず、長年の地底生活ですっかり鈍ってしまった自分たちでは、どう足掻いても間違いなく勝てない。

 

「早苗、下がってなさい。こいつらの相手は私がするよ」

「諏訪子様っ……ですけど、」

「早苗」

 

 諏訪子と呼ばれた神が、強く、言い直した。

 

「下がってな。――これは、弾幕ごっこじゃないんだよ」

 

 それは言外に、弾幕ごっこ程度で済ますつもりなどないという、明らかな宣戦布告だった。

 怯えるように震えた人間を庇い、九尾の狐が一歩前に出た。

 

「――さて。どこの誰かは知らないが、志弦は帰してもらおうか。彼女は、月見様の大切な友人(・・・・・・・・・)だ」

 

 ――ああ、わかっていたさ。わかっていたとも。

 一輪たちだって気づいていた。眼下の屋敷が『水月苑』という名で、月見が暮らしている家だということくらい、はじめて見たその時点で気づいていた。だって一輪たちは、その月見本人と何度も出会い、何度も地上の話を聞かせてもらってきたのだから。早苗という名にも諏訪子という名にも聞き覚えがあるし、九尾の少女はさしずめ八雲藍だろう。

 しかし月見は、いま雲山が捕らえている『神古』の少女については、ただの一言も話してくれていなかった。

 無理もないかもしれない。知らなかったとはいえ、恨んでいると、一輪たちは彼の前ではっきりと口にしたのだ。そう言われてほいほいと友人の情報を売る馬鹿はいない。だから、月見を責めるつもりは毛頭ない。

 だが、ここで『神古』をむざむざ見逃すかどうかは別だ。

 単なる偶然だとは思えない。白蓮を封じた『あいつ』と同じ『神古』の名を持ち、瓜二つの姿(・・・・・)までしているなんて、深読みするなという方が無理な話だ。ひょっとしたら、あいつが白蓮と同じ若返りの秘術に手を出して、現代まで生き永らえていたのではないかと考えたくらいだった。なにがなんだかわからない顔をしているのも、一輪たちのことなどとっくの昔に忘れたからなのだと。

 だがこの少女からは、あいつほど強力な陰陽師の力は感じない。雑魚といってもいい。なんらかの理由で力を失ったのか、それともなんの関係もない赤の他人なのか。なんの関係もない赤の他人が、同じ『神古』の名で瓜二つの姿をしているなどありえるのか。

 知らなければならない。白蓮へとつながる可能性がわずかでも存在するのなら、すべて、根こそぎ、ありとあらゆる真実を一輪らは知り尽くさねばならない。

 そのためには――こいつらは、邪魔だ。

 その結果として、月見に(いと)われてしまうとしても。

 白蓮を助ける――それ以上に、一輪らが望むものなどありはしないのだから。

 

「……ムラサ」

「うん。大丈夫、わかってるよ」

 

 心が、決まった。

 一輪が、答えた。

 

「――それは、できないわね」

「へえ」

 

 諏訪子が、口端をつり上げて笑う。

 

「威勢がいいね。まあ確かに、そっちが三人でこっちは二人だけど? 一人多いからって調子に乗ってるのかな」

 

 一輪も、笑った。

 

「三対二じゃないわ。

 

 

 ――四対二よ」

 

 

 聖輦船から放たれた光の矢が、諏訪子の右肩に直撃した。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「にょわっ!?」

「……!?」

 

 突如の悲鳴に藍は目を見張った。右肩を押さえ体勢を崩す諏訪子と、光の粒子となって消えていく矢の残滓を見てはじめて、敵が目の前の三人だけでないのだと気づいた。

 一瞬思考が余所に逸れた、それが隙だった。

 入道を操る尼僧姿の少女が動く。入道の左腕を瞬く間に巨大化させ、藍めがけて神速の薙ぎ払いを掛ける。

 

「っ……!」

 

 藍は早苗を抱えて背後に跳躍し、紙一重で躱す。直後に再度の悲鳴、

 

「むぎゅ!?」

 

 諏訪子が、船幽霊の少女に錨の一撃で叩き落とされた。諏訪子の小さな体は為す術もなく水月苑の池まで落下し、荒々しい水柱とともに藍の視界から消える。

 

「諏訪子様っ!?」

「くっ……!」

 

 藍は強く唇を噛む。――船にまだ仲間がいたのだ。諏訪子が右肩を撃たれるそのときになるまで、まったく気がつかなかった。それが藍の油断だったのか、それとも向こうの穏形(おんぎょう)を見事と褒めるべきだったのか、今となっては確かめる術もない。

 

「皆さん、早くこっちにっ!」

 

 船の手前に、少女の姿があった。金に煌く髪をたなびかせ、肩に羽衣、弓手(ゆんで)に鉾、馬手(めて)に宝塔――

 

「……!?」

 

 まさか、と思う。だが、もし本当にそうだとしたら非常に不味い。

 

「ナイス、星ッ!」

 

 尼僧と船幽霊が船に向けて飛ぶ。入道を操り、志弦を鷲掴みにしたままで。藍は早苗をその場に捨て置き、疾風をまとって全力で(くう)を蹴った。

 

「――毘沙門天様、御力をっ!」

 

 遅かった。

 視界が白い閃光で潰れ、藍は一切の身動きを封じられた。

 

「ぐっ……!」

 

 最悪としか言い様がない。よりにもよって、毘沙門天の力を使う敵がいるなんて。

 毘沙門天が持つ数多くの神徳のひとつに、『破魔』がある。神と呼ばれる存在は概ね魔を退け人々を守護するものであるが、毘沙門天はとりわけその信仰が篤い。古来より武神として崇敬され、四天王として北方の守護を担い、その仏像はしばしば二体の鬼を踏みつけ調伏する姿で描かれる。人の世に伝わる逸話の中には、毘沙門天がその剣で鬼を三つに斬り捨て、信心深い仏僧を守護したのだと説くものもある。要は、妖怪の身としては絶対に敵に回したくない神であり、実際敵として立ちはだかってしまったから最悪としか言い様がないのだ。

 宝塔より放たれた閃光、すなわち毘沙門天の威光――光で視界を奪われ、式神を抜くはずだった腕は凍りつき、脚は宙に縫いつけられ微動だにできない。

 逃げられる。

 

「……そこっ!」

 

 正統な巫女故に毘沙門天の威光を受けない早苗が、なにかをした。式を放ったのかもしれないし、弾幕を撃ったのかもしれない。しかしどうあれ、たとえ視界を奪われる中であっても、毘沙門天という強大な力が反って仇となり、その出処は目で見るより容易に感じ取ることができた。

 

「きゃっ……!?」

 

 力の出処は、少女の右手――すなわち宝塔。向こうも、まさかこの閃光の中で反撃されるとは思わなかったのだろう。藍の感覚から判断しても、手応えはあった。当たったはずだ。

 だが、閃光が消えない。力の核たる宝塔を失ってもなお、毘沙門天の威光はそう易々とは途切れない。

 

「星、早くっ!!」

「ま、待ってください、宝塔が……!」

「星ッ!!」

「っ……!」

 

 ほんの十秒程度のわずかな時間が、三十秒にも一分にも感じられた。

 光が、消えていく。ようやく手足の痺れから解き放たれた藍は、まだ視界が戻りきらない中で、記憶だけを頼りに前へ飛んだ。

 遅すぎた。

 

「――……」

 

 光が完全に消え、色のある世界が戻ってきたとき――そこにもう、船はない。

 ただなにもない、空があるだけ。

 神古志弦の姿は。

 どこにも、なかった。

 

「――そんな、」

 

 早苗が、戦慄いた。力を失い、ふらりと傾いた彼女の体を、藍は咄嗟に戻って支えた。袖に皺をつける早苗の指先は、押し潰されそうなまでに震えていた。

 志弦が、妖怪に攫われた。

 なぜ。なんのために。

 もしもやつらの狙いが、志弦の命であったなら――。

 

「――ぶぱあっ!? ちべたあ――――――――っい!?」

「だ、大丈夫ですか諏訪子さん!?」

 

 眼下に広がる水月苑の池を見た。真冬の寒中水泳でばしゃばしゃのたうち回る諏訪子を、わかさぎ姫が慌てて救助しているところだった。

 

「す、諏訪子、様……っ!」

「……」

 

 早苗が、親を捜す迷子のような声音で身をよじる。藍は首を振り、冷たく押し寄せてくる後悔を一時振り払って、池の畔にゆっくりと早苗を降ろした。

 わかさぎ姫に押されてようやく水から上がった諏訪子が、蛙みたいな座り方で、犬のように体を振って水気を飛ばした。船幽霊の少女から強烈な一撃を喰らったはずだが、見たところ怪我をした様子もなくケロリとしている。四方八方へ散る飛沫にまるで構わず、早苗が諏訪子に縋りつく。

 

「諏訪子様っ……!」

「わっ! そ、そんなくっついちゃダメだよ早苗! あんたまで濡れちゃうよっ」

 

 早苗はまるで聞こうとしない。縋りつく力を一層強め、

 

「諏訪子様っ……! 志弦が! 志弦が……っ!」

「……」

 

 すべてを察した諏訪子は緩く息をつき、真っ白な早苗の甲にそっと己の手を重ねた。

 

「……そっか。連れてかれちゃったか」

「っ……」

「でも、心配は要らないよ」

 

 強く、微笑む。

 だが、その微笑みは。

 

「大丈夫。すぐに、向こうの方から戻ってくることになるさ」

 

 早苗を安心させるためのものではなく、

 

「諏訪子……様?」

こっちの力(・・・・・)を使うのなんて、随分と久し振りだなあ」

 

 胎動を始めた彼女の御魂が生み出した、牙を剥くような、煮えたぎる笑みだった。

 

「これ以上好き勝手な真似なんて、絶対にさせない」

「――、」

「だから、大丈夫だよ」

 

 洩矢諏訪子は大地の神であり、同時にミシャグジという祟り神を統べる存在として祀られている。それはすなわち洩矢諏訪子自身が、祟り神そのものとしての性質を帯び、信仰されていることを意味する。

 そして、己を祀る神社の巫女を奪われ、怒らぬ神などいない。

 そのふたつの事実がなにを意味することとなるのか、早苗だって気づいたはずだ。

 

「へぷちっ!?」

「あ……だ、大丈夫ですか? とにかく着替えないと……」

「う゛ぅっ、温泉入りだいよぉ゛……」

 

 土着神は己の信仰が集まる圏内であれば強大な力を発揮するが、ひとたび外に出てしまうと無力にも等しく弱体化するという。しかし幻想入りを果たした今の諏訪子にとっては、この幻想郷こそが自分を祀ってくれる土地だ。住人たちから集まる信仰は、全盛期と比べれば口を糊するほど少ないけれど。

 それでも、妖怪の一匹や二匹を好きにする程度なら――。

 

「とにかく中に入ろうよ。早苗も風邪引いちゃうよ」

「は、はい……」

 

 従うしかない早苗を連れ、諏訪子が水月苑に引っ込んでいく。その嫌に軽い足取りが地を踏むたび、周囲の草花がざわざわと怯えるように揺れた。すぐ横を通り過ぎていった彼女たちに、藍はなにか声を掛けることすらできなかった。

 きっと諏訪子は、己が持つ力を存分に発揮して志弦を守ってくれるだろう。それは、藍としても願ってもないところであるはずだった。けれど頭のどこか片隅で、本当にこのままやらせてよいのかとせわしく問うてくる自分がいた。

 波紋が鎮まった水面から、目を逸らすことができない。

 

「藍……さん」

 

 わかさぎ姫は、泣きそうな顔をしていた。

 

「ごめんなさい。私、わたし。……なにも、できませんでした」

「……私だって同じだ」

 

 ――留守を任された身であるのに。

 なにもできなかった己が、拳に血がにじむほど恨めしかった。どんな言葉を重ねようがただの言い訳だ。結局のところ藍は油断していたのであり、そこを突かれて無様にも出し抜かれてしまったのだから。

 どうして、どうしてあの夏の異変でも、過日の冬の異変でも。自分たちが守るべきものはいつだってこちらを嘲笑うように、両手の隙間からするりと奈落へ抜け落ちていくのだろう。

 (ほぞ)()む藍の頭の隅を、鴉の羽音が掠めた。

 

「藍さん! 一体なにがあったんですか!?」

「……!」

 

 森をざわめかすつむじ風に乗って、射命丸文が空から急降下してきた。驚いたわかさぎ姫が「ぴっ」と悲鳴をあげて水の中に逃げる。文屋の血が騒いでいるのか、それともよからぬ空気を敏感に感じ取ったのか、文は彼女には珍しく血相を変えた様子で、

 

「いまさっき、こっちからすごい光が……それに、ここで船が空を飛んでましたよねっ?」

 

 藍は、一秒で決断した。

 

「文。お前の二つ名に縋って頼みがある」

「……え、えっ?」

 

 文の両肩を掴み、(こうべ)を垂れ、文字通り縋るように、

 

「志弦が妖怪に攫われた」

 

 文の表情から、困惑の色が一発で消し飛んだ。

 やつらがなぜ志弦を攫ったのか、理由は定かではない。だが、諏訪子や藍を敵に回してでも強引に攫ってみせたのだから、きっとそうしなければならない重大な理由だったに違いない。

 となれば藍には、月見が関わっているとしか思えない。

 いつもそうなのだ。夏の異変でも、地底の異変でも。月見が幻想郷に戻ってきてからというもの、日常を脅かす騒動があるたびに、いつも根っこの部分では彼が大きく関わっていた。

 だからきっと、今回だって。

 文にも、それがなんとなくわかったのだと思う。余計な問答など、一言も必要ではなかった。

 

「――なにをすればいいんですか? 教えてください」

 

 妖怪としてどれほど強大な力を持っていても、自分一人では太刀打ちできない現実というのは歯がゆくも存在する。月見ですらそうなのだ。藍一人ができることなんて、それこそ高が知れていると言っていい。己の腕が届く範囲は、自分が思っている以上に短くて狭い。

 だからそんなときは、助けてもらえばいい。一人でダメなら二人。二人でもダメなら三人。届かないのなら、届くまで仲間を増やせばいいだけのこと。

 

 だって、この幻想郷には。

 たった一人の人間のためであっても惜しみなく力を貸してくれる、どこかの誰かさんに似た人のいい妖怪が、意外とあちこちに転がっているのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 世界がある。

 ただ一色の黒だけで無限の彼方までを塗り潰された、光の差さない世界がある。

 天地の区別もないその空間を、『彼女』は音もなく漂い続けている。

 呟いている。

 

「……ようやく、なんだよね。きっと」

 

 ――夢を見ているだけの自分には、よくわからないけれど。

 自分とよく似た少女と出会った。かねてより夢で見ていた通りの少女だった。時間がなくて具体的な話はなにもできなかったが、きっかけは与えたから、今度はきっと向こうから会いに来てくれるだろう。

 あのとき止まってしまった時間を、もう一度動かすための欠片。

 ようやく、なのだと思う。

 

「待っててね」

 

 それが、夢を漂うだけの存在となってしまった己の、最後の役目だ。

 

「――もうすぐ。もうすぐだよ、白蓮」

 

 未来と過去の交差点。

 決して交わるはずのないその場所で、意識だけの彼女は待ち続ける。

 

 神古志弦を、待ち続けている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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