洞穴を抜ける。
およそ一週間振りとなる空の下に飛び出すと、記憶とほとんど変わらない銀の世界に月見は思わず目を覆った。空を見ずとも、雲がほとんどない呆れるほどの快晴なのだとわかった。降り注ぐ陽光を雪が鏡のように照り返していて、今までの地底生活が祟ったせいもあって目がすっかり驚いている。切らせた呼吸で大きく息をすると、砕氷を飲むような冬の冷気が肺を満たした。
まぶたを上げる。降り積もった雪はあいかわらず大地を深く覆い閉ざしていて、あの日以降も手足のかじかむ毎日が続いていたと窺える。きっと、今日が久し振りの快晴なのだろう。木の葉の代わりに雪を乗せた木々の姿も記憶のままで、唯一大きく変わっていたのは、足元に満遍なく散らばった少女たちの足跡くらいなものだった。
みんながパーティーをしに来たときの足跡だろうな、とうっすら思い、すぐに首を振る。
一週間振りの地上の景色に、今は見惚れている場合ではない。折良く月見の意識へ活を入れるように、空から降ってくる声があった。
「月見様!」
「! ……椛か」
恐らく、近くで月見の到着を待ってくれていたのだろう。翼を打ち鳴らす天狗の姿とは裏腹に、忠犬も尻尾を巻く素早い反応で馳せ参じた椛は、月見の前で両足を揃え行儀よく一礼した。
「お帰りなさいませ、月見様」
「ああ、ただいま」
たった一週間――されどそれは、幻想郷の濃密な日々の中での一週間である。冬を迎えて一層ふかふかになった耳と尻尾、そしてその毛並みに決して劣らぬ柔らかな笑顔は、今の月見には間違いなく久し振りだと感じられた。
「お怪我をされたと聞いて、ずっと心配していました。ご快癒おめでとうございます」
「心配を掛けたね。ありがとう」
「いいえ、とんでもないです」
両手を振って恐縮した椛が、すぐに表情を改める。無論月見とて、彼女がただ挨拶をしに来てくれたわけではないとわかっている。
今は、挨拶に費やす時間すら惜しいのだ。
「月見様。私の能力で、志弦さんの行方を追っていました」
千里先を見通す程度の能力――要するに千里眼。普段から逃げ出した操を捜すくらいにしか役立っていないという不遇の能力が、今の月見にとってはなによりも心強い味方となる。
椛の力があれば、すぐにでも志弦を助けに向かうことができると思っていた。
「まず……志弦さんは、もう大丈夫です。ご安心ください」
いきなり予想外の言葉が来た。月見は反応するまで大きく一拍掛かり、
「……そうなのか?」
「はい。事情はわかりませんが……志弦さんを攫った妖怪たちが、自分から水月苑に戻ってきまして。今は、諏訪子さんや藍さんが対応しています」
「……それで?」
「あとは特に何事も……争う様子もなく、みんなで話をしているようです。なので、もう大丈夫だと思いますよ」
現実的に考えれば。
一輪たちが、自らの行動を悔いて志弦を解放した線はないと思う。志弦が攫われてから、恐らくはまだ半刻も経っていない。その程度の時間で考えを改めるほど、一輪たちが抱いていた想いは浅くなどなかったはずだ。
答えを聞いてしまえば、簡単なことだった。
「恐らく……ナズーリンさんが、上手く仲裁してくれたんだと思います。どうやら、志弦さんを攫った妖怪と面識があったみたいで」
「――ああ」
そうか、と。月見の心の中に、深く重く、染み入るようなひとつの理解が落ちた。
脳裏を過ぎるのは、月見が『神古』と白蓮の因縁をはじめて突きつけられたあの秋の日。嫌な思考を止められず不安がる月見に、ナズーリンが、優しく微笑んで掛けてくれた言葉。
――私はたぶん、君の味方だ。
あの言葉を、ナズーリンは守ってくれたのだ。
「申し訳ありません、私の能力ではそれくらいしかわからなくて。何分、『見る』だけの能力なので……」
「……いや。充分だよ」
肩が随分と軽くなった、気がした。
「ありがとう、助かったよ」
「い、いえいえとんでもないですっ」
月見が心からの礼を言うと、椛は途端に耳と尻尾をパタパタ動かし、それからかわいらしくふんすっと意気込んで、
「他にお力になれそうなことがあったら、なんなりと仰ってくださいね。今はもう年末で、天魔様の仕事もほとんどなくて、結構暇してるのでっ」
「いいことじゃないか。いつも頑張ってるんだから、年の終わりくらいゆっくり羽を伸ばすべきだ」
「いやぁ……いざ暇になってみると、なにをしたらいいか結構わからなくって。心のどこかで、天魔様がなにかやらかさないかなーと期待してる自分が……」
椛、お前もか。
月見の脳裏に、記念すべき人生初の休日を水月苑の庭仕事で潰そうとした、
「あ、こんなときで非常に恐縮なんですけど……あとで温泉に入りに行っても……」
「ああ、どうぞ。もてなしはできないだろうから、好きに使ってくれ」
「ありがとうございます!」
地上に戻ってきた実感をしみじみと覚えつつ、しかし月見は呼気ひとつで思考を切り替える。
たとえば紅魔館と永遠亭、白玉楼や人里や香霖堂、その他異変のときに手伝ってくれた響子とにとり、霊夢に魔理沙に天子にアリスなど、足を運びたい場所や相手はちらほらといるけれど。
今はすべて後回しだ。どうやら事態はすでに落ち着きつつあるようだが、なんにせよ、このままではおちおち晦日だって迎えられやしない。
洞穴の暗闇の奥で、長年の封印生活が祟ってすっかり運動不足なぬえが、文にグイグイ引っ張られて情けなく弱音を上げていた。
文と椛に礼を言って別れ、月見はぬえと二人で妖怪の山を下る。
封印から解き放たれ、実に千余年振りとなる地上の姿を目の当たりにしたぬえは、すっかり魂を抜かれてあちこちをきょろきょろしてばかりだった。透き通る蒼天、泳ぐ雲、深い大気、一直線に伸びる地平線、しんしんと息づく山の自然、まばゆく輝く雪化粧、瞳に飛び込むありとあらゆる景色が迫るように胸を打ったのだと思う。できるならゆっくり楽しませてやりたかったけれど、状況が状況なので、已むなく水月苑まで腕を引っ張っていくことになった。
水月苑の上空には、椛の言葉通り空飛ぶ船が止まっていた。間違いなく聖輦船だった。水月苑の屋根に寄り添うその船体を見た途端、正気に返ったぬえが、羽と両手をぶんぶん振り回して暴れ出した。
「あっ、ほんとだほんとだほんとに聖輦船があるっ! うわーんムラサも一輪も私を置いてくなんてひどいよーっ!!」
あとはもう、逆に月見を引っ張りかねない勢いだった。転がり込むように庭の上空までやってくると、すぐにわかさぎ姫が気づいてくれた。
「あー、旦那様ぁーっ!」
「……なにあれ。ペット?」
さらっと危険なことを言うぬえに月見は苦笑、
「ここの池を気に入って、よそから引っ越してきた人魚だよ」
「ペットでしょ。ふ~ん、なるほどねえ~、あんな女の子をペットにするなんてやっぱりあんたも根はケモノ」
「ところで封印を解けるってことは、その気になれば再封印もできるってことでね」
「ごめんなさい!」
わかればよろしい。
庭に降り立つ。わかさぎ姫はぱしゃぱしゃ波紋を広げながらほとりまでやってきて、変わらない笑顔で迎えてくれた。
「旦那様、おかえりなさいませっ」
「ただいま、ひめ。しばらく留守をありがとう」
「いえいえ。こんな素敵な場所に住まわせていただいてるので、お留守番くらいは朝ご飯前ですー」
ふわふわのわたあめみたいな彼女の姿に、月見は心の底からしみじみと、ああ私は家に帰ってきたんだなあと実感した。やはり、今や一番近くで互いの生活を見つめる隣人だからだろうか。己の中で、わかさぎ姫という少女の存在がどんどん大きくなってきているのを感じる。
吐息がこぼれる。
「まったく驚いたよ。志弦が突然さらわれたなんて言うから」
「あ……」
椛に心配は要らないと言われ、ナズーリンが助けてくれたとわかって、そしてわかさぎ姫に笑顔で迎えられて。それ故の油断だったのかもしれない。
「あ、あの……旦那様、」
そこにもう、笑顔のわかさぎ姫はいなかった。
月見が気づいた瞬間水面まで目を伏せて、叱られるのを怖がる子どものように。
「志弦、さん……なんですけど……」
不意を衝かれた気がした。どうしてわかさぎ姫がそんな表情をするのかわからなかった。もう大丈夫ですよーと、ふんわり言ってもらえるものと思っていたのだ。そうであって然るべきだった。だって、志弦はもう解放されて水月苑に戻ってきているはずで。水蜜と一輪は、藍たちと争うこともなく話をしているはずで。そこには、ナズーリンがいてくれているはずで。
わかさぎ姫がきつく胸を押さえる理由なんて、なにひとつとしてないはずなのに。
「実は、その……」
指先が、かすかに震えている。
「どうしてかは、わからないんです。わからないんですけど――」
わかさぎ姫はかじかむような声を振り絞り、束の間躊躇って。
或いは縋るように月見を見つめ、そう告げた。
「――志弦さん、突然気を失って。目を、覚まさないそうなんです」
○
眠り姫は、水月苑の客間にいた。
手厚く引かれた布団の中で、今が夜のように眠っていた。
少なくとも、月見の目にはそう見えた。本当に、ただ、眠っているだけなのではないかと。安らかに下ろされたまぶたも、撫でるように優しく続く呼吸も、ちょっと揺すればその途端に目を覚ましそうで、諏訪子がどんなに手を尽くしても、早苗がどんなに呼びかけても、反応ひとつ返ってこなかったとは到底信じられなかった。
裾の擦れる音とともに、月見は志弦の枕上に腰を下ろす。今は今年最後となる温泉の開放日で、少しずつお客さんの姿も見え始めているが、この客間だけは切り離された静寂で支配されている。なにも言えない早苗がただかたくなに志弦の手を握り、なにも言わない諏訪子が自分自身を抑え込むように瞑目し、部屋の入口では聖輦船の少女たちが、敷居を越えることすらできずに立ち尽くしている。
志弦のかすかな呼吸すら、耳に届くくらいで。
「――本当に、なにもわからないんです」
早苗のよじれた声音が、可哀想なほどよく通った。
「怪我をしてるわけじゃないですし、なにか術を掛けられているわけでもない。諏訪子様と何度も何度も確かめたんです。でも、わかったのは、なにもされていないのに、なにをやっても目を覚ましてくれないことだけでした」
「……」
座敷の外の賑わいが、まるで別世界の出来事に感じる。客間を覆う見慣れぬ妖怪たちの姿を見て、なにも知らずやってきたお客さんがふと足を止める。ある者は月見の姿に気づき声をあげようとするが、その前に藍がそっと呼び止め、首を振って、風呂場の方へと誘導していく。
早苗の横で胡坐を掻く諏訪子が、荒々しく息を吐いた。神の力すら及ばない現実への、憤りがにじんでいた。
「呼吸は穏やかなもんだし、別に危険な状態ってわけじゃないから、今は様子を見てるけどさ。場合によっては、永遠亭に担ぎ込んだ方がいいかもしれない。私らの力で原因がわからないんだったら、そいつはもう医学の世界だ」
畳を躊躇いがちに踏んで、ナズーリンが月見の肩の後ろに立った。横に並ばなかったのは、或いは目の前の光景に対する自責めいた後悔があったからかもしれない。
「……信じてくれなんて、言えた立場じゃないのはわかってる。けれど誓って言う――ムラサたちはなにもしていない。私が、志弦に聖の話をしようとしたんだ。だが、突然様子がおかしくなって……そのまま……」
「信じるもなにも、はじめからお前たちを疑っちゃいないよ」
しぼんでいくナズーリンの声音へ、月見は努めて穏やかに被せた。顔を見ればひと目でわかる。ナズーリンはもちろん、未だ座敷に一歩も入れないでいる、水蜜も、一輪も、雲山も、まだ自己紹介すらできていない金髪の少女も。
疑われるのではないかと、怯えるような。
本当に彼女たちの仕業なら、そういう顔はできないと、月見は思う。
ナズーリンの、曖昧に笑った息遣いが聞こえた。
「……本当に君は、人が良すぎるよ。志弦を攫った相手なんだよ?」
「……それについては、私にだって非があるさ」
半分腰を上げ、裾を擦りながら振り返る。座敷の入口で、水蜜と一輪がびくりと肩を震わせる。
頭を下げた。
「すまなかった、水蜜。一輪。雲山も。……志弦のことを、ずっと隠していて」
まだ聖輦船が地底を飛んでいた頃から、足だけは何度も運んでいたのだ。もしも月見が、前以て志弦の存在を打ち明け、理解を募っていたならば。志弦は怖い思いをしないで済んだかもしれないし、ナズーリンに余計な罪悪感を背負わせることもなかったかもしれない。
まさか聖輦船が、こんなにも早く地上へ出てしまうとは思っていなかった――そんなものは、単なる言い訳でしかない。告げるタイミングならいくらでもあった。けれど告げなかった。結局はただ、月見に勇気がなかっただけなのだ。
「そう……ですね」
一輪の口元が、噛むように動いた。
「正直、教えてほしかったとは、思ってます」
だが、口振りに反してそこに月見を責める色はない。あるとすれば、他でもない自分自身への、遣る瀬ない思い。
「でも……教えてもらえなくて、当然だったと思います。だって私たちは、月見さんの目の前で。恨んでいると、言ってしまったんですから」
水蜜が、赤子のように拙く頷く。
「……だよね。あんな言い方しちゃったら、教えてもらえる方がおかしいもん」
「だから私たちには、月見さんを責められません」
そして一輪は、ほんの少し、唇の端を緩めるだけではあったけれど。
月見に向けて、微笑んでくれた。
「私たちを疑わないでいてくれるあなたを、責めるなんて。きっと、姐さんに怒られちゃいますから」
「だったら君たち、志弦を攫った件について彼に謝罪したまえよ。
「「はうっ」」
ナズーリンの冷ややかな発言に、二人は射抜かれた胸を押さえて縮こまった。
「その……も、申し訳ありませんでした……」
「ごめんなさい……」
「……ああ」
雲山も深く目礼をしている。だから月見は心の底から噛み締める。心優しい妖怪たちで、本当によかったと。
そして、彼女たちをそんなまっすぐな妖怪へ導いたのが、聖白蓮という人間なのだ。
(聖白蓮……か)
月見がよく知るどこぞの古馴染のように、人間と妖怪が共存できる世界を夢見た少女。一輪たちは、理由はどうあれこうして地上へ出られた以上、文字通りの血眼になって主人を助け出そうとするのだろう。
許されるのであれば、月見も力を貸したいと願う。
志弦が心配だというのも、あるけれど。それ以上に、もっと単純に、聖白蓮という人間へ今まで以上の興味が湧いていた。妖怪からかくも慕われ、きっと昔は荒れていたであろう一輪と水蜜を、かくもまっすぐな存在へと導いた人間。なぜ妖怪へ心を許すのか。なぜ妖怪とともに生きたいと願うのか。この目で会って、一度でもいい、言葉を交わしてみたいと思う。
いきなりだった。
「ぎゃおーっ!」
「!?」
一輪たちの後ろに隠れてずっと黙っていたぬえが、両手を突き上げて怪獣みたいに裂帛した。突然の奇行に一輪も水蜜もつんのめり、
「な、なによいきなり!」
「黙らっしゃい!」
ぬえはだいぶヤケクソな感じで、
「い、いつまで辛気くさい空気してんのよ! 月見が謝って、ムラサたちも謝って、じゃあこの話はもうおしまいでしょ!? 仲直りでしょ!? はい切り替え切り替えっ! ってか私こういう雰囲気めちゃくちゃ苦手なんだからもっと前向きに行こうよお願いしますっ!」
「……わ、私も同感です!」
自分もなにかを言わなければならないと思ったのだろうか。金髪の少女まで便乗し、こちらも当たって砕けろとばかりに、
「こ、このようなことを言える立場でないのは百も承知ですがっ……これからどうするかを考えましょう! 志弦さんのことも、聖のことも、みんなで力を合わせれば必じゅ光が見えるはずでっ、とととっところでナじゅからお話は伺っておりましたちゅく見さんはじめまして私はとりゃ丸」
「噛みすぎだろご主人」
「今のナシでお願いしまああああああああす!?」
顔面真っ赤で絶叫した少女が、涙を振りまきながら床に崩れ落ちた。
当たって砕けろな勢いの少女は、それはもう木っ端微塵に砕け散った。
なんとも表現し難い沈黙が座敷中に広がっていく中、ぬえが半目で、
「……私がせっかく勇気振り絞ったのに、噛むとかないわー」
「ふええええええええん!!」
なぜだろう。まだ名前すら知らないこの少女と、はじめて会った気がしないのは。
まぶたを覆ったナズーリンが、首を振って嘆息した。
「まったく……月見、私から紹介するよ。以前話だけはしていたと思うがね。普段はいかにも頼りなくて情けなくて、けれど仕事をさせたときだけは不思議と――ほんっとに不思議と優秀な、寅丸星だよ」
「あのナズ、そんな話を月見さんにしてたんですか!?」
「不本意ではあるが今の私のご主人だ」
「ふえええん!!」
一輪と水蜜も、遠い眼差しで明後日の空を仰いでいる。
「毘沙門天様のところで修行し直して、力はかなり上がったみたいだけど……やっぱり星は星よね」
「懐かしいなーこの空気……」
「き、消えてなくなりたいよぅぅぅ……!」
恥辱と屈辱で震える星に、ふと妖夢の姿が重なる。そういえば妖夢も、普段はいかにも頼りなくて情けなくて、けれど仕事をさせたときだけは不思議と優秀な庭師だった。ひょっとして、はじめて会った気がしないのはそういうことだからなのだろうか。
なにはともあれ、名乗る。
「よろしく、星。私は月見。ただのしがない狐だよ」
「ううっ……」
体を起こした星は気を取り直し、すんすんと鼻をすすって、
「い、いきなり見苦しいところを……。ええと、ナズからお話は聞いておりました。ナズがあんなにも楽しそうに誰かのことを話すのは珍しくて、どんな方だろうってずっと気になってたんです」
「……ご主人、そういうところまで話さなくていいから」
ナズーリンが、ほんのり恥ずかしそうにそっぽを向いた。月見は苦笑、
「曰く、けったいな変人らしいからね」
「いえいえ、そんな。月見さんのこと、とっても信頼しているんだなあと」
「こらっ、話さなくていいと言ってるだろうっ」
星を無理やり黙らせ、しかし自分でも予想外の大声が出てしまったらしく、ナズーリンはんんっと誤魔化すような咳払いで、
「な、なにか問題でもあるかい。君を聖に会わせたいと、前々から言っていたはずだがね」
「……光栄だよ」
否定はしないでくれるんだな、と思う。もちろん、月見だってナズーリンのことは最大限に信頼している。一度のみならず、二度も志弦を助けてくれた。そして救われたのは、決して志弦だけではないのだから。
ナズーリンの尻尾がぴこぴこと右へ左へ動き、バスケットの中の妖怪鼠たちが慌てている。水蜜が面白そうな空気を感じてにやつき始めたので、さっさと話を逸らすことにした。
「星は、毘沙門天の代理なんだってね」
「あ、はい。まだまだ未熟者ですが……」
「恰好だけは一丁前でね。特に今回なんて、毘沙門天様から宝塔までお借りして、」
そこでナズーリンはふと疑問顔で、
「……ところでご主人、宝塔を持っていないようだけど船に置いているのかい? ものすごく大切な物だから、肌身離さず持っているように言っただろう」
「………………………………あ゛」
星の表情に、ピシリとひびが入ったのが見えた。
充分すぎる反応だった。月見でさえ、星が『宝塔』とやらをどうしてしまったのか一発で悟った。ナズーリンは貧血を起こしたようにふらつき、月見の腕にもたれかかってなんとか耐えて、
「……………………いや、いやいやいや。確かにご主人は、仕事以外がてんでダメな女さ。だがしかし、いくらなんでも、大切な物だから絶対なくすなと口酸っぱく言ったのにもうなくすほど度し難いダメっ虎じゃあないだろう? さあご主人、早く宝塔を持ってきて私を安心させてくれないか。じゃないと貧血で気を失ってしまいそうなんだ」
星は唇をきつく結び、泣きそうになりながらぷるぷる震えている。一輪と水蜜は、我関せずとばかりにあらぬ方向へ口笛を飛ばしている。
ナズーリンは段々痙攣してきた。
「は、ははは、ははははは。いや、まさか。まさかね。まさかだろう? いやいや。いやいやいやいや」
さしものナズーリンも脳が爆発の危機を迎えている。毘沙門天の代理だという星が毘沙門天本人からお借りしてきた宝塔となれば、間違いなく文字通り『毘沙門天の宝塔』だろう。人間界で作られる毘沙門天の仏像や書画は、その多くが片手に宝塔を携えた勇壮厳格な姿で描かれる。要するに、毘沙門天の姿を、引いては神を象徴する宝物の類だ。
それをなくされたとなれば、そりゃあ毘沙門天の遣いであるナズーリンが貧血だって起こすわけで。
もはや涙目になっている星へ、ナズーリンは一転、嘘みたいに微笑んで、
「いま正直に話せば怒らないから。嘘だけど」
「ごごごっごめんなさいなくしましたぁっ!! …………ゑ?」
ブチ、といっそ清々しい音、
「こォんのダメっ虎がああああああああああッ!!」
『チュ――――――――――――ッ!!』
「ごめんなさああああああああああいっ!?」
ナズーリンのバスケットに乗っていた妖怪鼠が、水月苑床下に潜んでいた妖怪鼠までもが、一斉に飛び出して星にガジガジと襲い掛かる。
床をのた打ち回る毘沙門天代理の姿に、月見はやはりはじめて会ったとは思えぬ親近感を覚え、早苗はどう反応すればよいかわからずただ苦笑、諏訪子は自慢するようにえへんと胸を張って、
「まったく、神としての自覚と威厳が足りないね。もっと私みたいにならなきゃっ」
いろいろ言いたいことはあったがとりあえず飲み込み、月見は自称威厳ある神様へ生暖かな眼差しだけを送っておいた。
「ふみぇみぇみぇみぇみぇみぇみぇ!!」
ともかく、志弦が危険な状態でないことを幸いに、一度腰を据えて情報整理をする運びとなった。
まず、一輪たちは一体全体どうやって聖輦船ごと地上に出てきたのか。これは、当事者である彼女たちもよくわかっていなかった。いつも通りのんびり地底の空を漂っていたところ、突然聖輦船の軌道が真上に狂って、岩盤にぶつかるわあちこちから熱湯が浸水してくるわ、天と地の区別もないめちゃくちゃの阿鼻叫喚に陥り、気がついたら粉々の船諸共地上で死にかけていたらしい。比喩ではなく、人間だったら間違いなく死んでいたほどだったのだと。
近くで間欠泉が噴き上がっていたので、たぶんそのせいだろうと彼女たちはニラんでいた。もし本当にそうだとすれば、地底の異変が思わぬところにまで被害を及ぼしていたということになる。
ひと通り一輪たちの事情を聞いたぬえが、引きつる頬でぶるりと震えた。
「……私、留守にしててよかったかも」
「いいよねぬえは、月見さんに封印解いてもらって出てきたんだもん。ほんと死ぬかと思ったんだよこっちは」
「地上に出られたのは嬉しかったけどねえ……あんなの、もう二度と御免だわ」
結果的に封印から解き放たれたのが不幸中の幸いとはいえ、およそ千年振りの地上で右も左もわからぬ上に、誰かに見つかったらまた封じられてしまう可能性も否定はできない。なので一輪らはひとまず山奥に身を隠し、聖輦船の修理に専念。化け猫の女の子がちょくちょく間欠泉の様子を見に来ていたため、気づかれないよう相当神経をすり減らしたという。もしかすると、藍に手伝いを頼まれた橙だったのかもしれない。
もっとも、一度粉々に砕けてしまった聖輦船である。行方のわからなくなってしまったパーツがいくつもあり、完全な形で修復することはできなかった。月見の目にはいつも通りの聖輦船に見えるが、それはあくまで外面だけで、中はだいぶ残念な有様になっているらしい。
そして、妖怪鼠のネットワークで事態を知ったナズーリンが合流し、彼女から連絡を受けて星も幻想郷にやってきたのが数日前――だいたい、クリスマスパーティーと称して輝夜たちが地霊殿を強襲したのと同じ頃。以降は雲に紛れて幻想郷を回遊し、船の飛行能力を確かめつつ細々とパーツの捜索を行っていたそうだ。
ありがたい仏の力を秘めた木の欠片。それを、ナズーリンたちは『飛倉の破片』と呼んでいた。聖輦船は、白蓮の手によって作り変えられるより以前は、飛倉という名の穀倉だったのだ。
「つ、つまり変形したということですか……! ゴクリ」
「あー、早苗ってそういうのも結構好きだよねえ」
「ケモ耳は正義、変形は浪漫ですよっ。水月苑にも、はじめは変形機能がつく予定だったらしくて……私、実はちょっぴり残念に思ってるんですよね」
東風谷早苗は、一体どこへ向かおうとしているのだろう。
志弦を見つけたのはただの偶然だった。瓜二つの出で立ちも、その『神古』の名も、どこからどう見ても白蓮を封じたあの人間と関係があるとしか思えず、ちょうどナズーリンが留守だったのもあって、突発的に志弦を攫ってしまった。そのとき諏訪子や藍と戦闘になり、星が咄嗟に毘沙門天の力で援護したものの、思わぬ反撃に遭って宝塔が弾き飛ばされてしまう。もちろん星はすぐ捜そうとしたが、一輪と水蜜に怒鳴られて、已むなく聖輦船で水月苑から離脱した。
「ちょっと、私たちが悪いみたいに言わないでよ!?」
「だ、だって、ムラサたちが急かしたりしなければちゃんと宝塔を捜してましたもん!」
「あ、あの……すみません、それたぶん私が投げたお札のせいで……」
「早苗は悪くないさ、友達を守ろうとしたんだろう? 私の言いつけを忘れて、誘拐の手助けなんかやってたご主人が悪いんだ。自業自得だよ」
「ふえええん!」
「それでご主人、どこに落としたんだい。鼠たちに捜させるから」
「え、あ、えと……ど、どこに飛んでっちゃったんでしょうねっ」
「……………………」
「ごめんなさい許してくださいいいいっ!?」
その後出掛けていたナズーリンが船に戻ってみると、志弦が椅子に縛られているわ水蜜が諏訪子に祟られているわ、呆れ果てる有様になっていたのでとりあえず仲裁。そして水月苑に引き返すさなか、白蓮について少し語って聞かせようとしたところで、志弦の様子が突然おかしくなりそのまま気を失ってしまった。
かくして、今に至る。
「――おおまかには、こんなところかな。……ところで月見、先ほどからずっと黙っているが大丈夫かい?」
「……ん? ああ、すまない。少し考え事をね」
ナズーリンに呼び掛けられて、月見は思考の海から帰ってきた。正直、途中の話があまりに荒唐無稽だったせいで、後半はほとんど耳に入ってこなかった。
ナズーリンは緩く呼吸し、
「……まあ、無理もないね。私もはじめ聞いたときは驚いたよ。まさか志弦が、聖を封じた人間と瓜二つだなんて」
「お前には、なんでもお見通しなんだね」
「ある意味、わかりやすいからね。君は」
月見はただ、喉で笑った。当たり前だ。『神古』の名だけでなく、姿までもというのだから。
二人の『神古』の間にある同一性を、一体どのように考えればよいのだろう。どこまで本気で受け止めればいいのだろう。一輪と水蜜は瓜二つだと主張しているが、千年以上前の、敵としてほんの一時期出会っただけの相手に対して、記憶がどれほど形を保っているかは微妙なところだ。実は白蓮を封じた『神古』と志弦の容姿はあまり似ておらず、それどころかなんの関係もなく、『神古』という名が都合のいい先入観を生み、一輪たちの記憶を書き換えてしまった可能性は充分にある。
しかし、
「そうだとすると……志弦が目を覚まさないのにも、なにか意味があるんですかね」
「……」
早苗のその呟きを、月見は突飛な妄想だと切って捨てられない。
ここまで来て、ただの偶然だということがあるのか――そう問いかけてくる自分がいた。根拠はなんだと問われれば、勘だとしか、答えようがないけれど。
白蓮だけではない。志弦は、月見が知る『神古』とも、きっと――。
「……志弦は、私が永遠亭に運ぼう。永琳なら、なにかしら答えを出してくれるだろうからね」
月見は首を振った。この手の話題になるといつもそうだ。自分一人がいくら考えたところで真実がわかるわけではないのに、つい物思いに耽って沈み込んでしまう。
それよりも、行動することだ。霧が晴れるのを待つのではなく、足を動かして越えていかなければならない。
「月見さん、私も連れて行ってください」
まるで、待ち構えていたかのように迷いない言葉だった。こうして月見たちが情報の整理をしている間も、早苗は握った志弦の手を片時も放さないでいた。
「行って、なにかができるというわけでもないですけど……離れたく、ないので」
「……ああ。一緒に行こう」
月見は、口元だけに淡い笑みを忍ばせて答えた。家族のような、ではない。早苗にとっての志弦は、もう立派な家族の一人なのだ。天涯孤独だった志弦が幻想郷でそんな誰かに出会えたことを、月見は心から幸いだと思う。
ナズーリンらに問う。
「お前たちはどうする?」
「……目下の課題は、二つだね」
ナズーリンは、人差し指を立てて応じた。
「まずは、ご主人が迂闊にも、大変迂闊にもなくしてしまった宝塔を捜さないとね。あれは毘沙門天様の物だし、魔界の結界を越えるために欠かせない道具でもあるから、なんとしても見つけ出す必要がある」
「う、ううっ……」
肩身が狭そうにしている星を無視し、次に中指を立て、
「それと、聖輦船。あの船には転移機能が備わっていて、」
「て、転移機能……!?」
そのときナズーリンの説明をいきなりぶった切り、早苗が稲妻のような衝撃を受けてよろめいた。目を皿になるまで見開き、ここではじめて志弦から手を離すと、興奮のあまり逆に血の気を失ってわなわなと戦慄した。
「空を飛ぶし変形するし、その上転移――ワープまでできるなんて! な、なんて浪漫の塊なんですかあの船はっ!」
ナズーリンは目をしばたたかせ、
「……あ、ああ、気に入ってもらえてなによりだよ?」
「素晴らしいです……! やはり、幻想郷では外の常識なんて通用しないのですね!」
早苗。それは間違っていないし幻想郷の空気に馴染むのも大事だけど、かといって外の常識をポイするような間違った成長はしないでくれよ。
守矢神社の行く末が、ほんのちょっぴり不安になってくる月見である。
「……話を続けていいかな?」
「あ、はい。失礼しました」
ナズーリンは気を取り直し、
「で、聖輦船には転移機能が備わっていて、法力を使用して魔界に行くことができる。つまり、聖を救出するためには必要不可欠な力なんだが……」
ナズーリンのあとを、水蜜が引き継ぐ。
「説明した通り、今の聖輦船はいろいろパーツが欠けちゃってまして。そのお陰で転移機能がまだ不完全ですし、そもそも魔界へ行くための法力が足りないんです。なので見つかってない破片を早く捜して、船を完全な状態に戻さないとですね」
「あとは、聖の封印を私たちでちゃんと解けるかだね。人間も、ちょっとやそっとで簡単に解けるほどお優しい封印はしていないだろうから。……もっとも、このときのためにご主人は修行をやり直していたわけだから、大いに期待させてもらうけれど」
「が、頑張りますっ」
拳でかわいらしく気合を入れる星に、しかし宝塔を紛失されてご機嫌ナナメなナズーリンは冷ややかに、
「というか、汚名返上できなかったそのときは……わかっているね?」
「ふ、ふえええん……」
縮こまりすぎて、星はもうそろそろ消滅しそうだった。この星とナズーリンの場合といい、紫といい輝夜といいレミリアといい幽々子といい操といい、幻想郷の主従はどうしてこうも極端なのだろう。上下関係が割かし正常に機能している地霊殿を見習ってほしい。
神の代理とは思えぬ哀れな少女の姿に、さすがに一輪と水蜜もバツの悪さを感じたらしく。
「……ナズーリン。宝塔捜し、私たちも手伝うわ」
「一応、なくなった責任はこっちにもあるだろうし……なんかごめんね、星」
「ふ、ふたりともぉ……っ!」
星が感極まって潤んでいる。ナズーリンの話を聞く限り、白蓮を救出するに当たってまず必要なのは人手だ。宝塔はさておき問題は飛倉の破片で、あれだけ大きな船のパーツとなれば数は百以上にもなりかねない。二人三人でちまちまと捜していたら、あっという間に年が明けてしまう。
ナズーリンたちも、来年まで持ち越すつもりなどないはずだ。
「ナズーリン。宝塔を捜すなら、私の名を出して天狗に協力を頼むといい。幻想郷中飛び回ってるあいつらならなにか知ってるかもしれないし、すでに拾われている可能性もあるだろう」
「む……それもそうだね。しかし、天狗とはあまり接点が……」
「んじゃあ、そっちは私が行くよ」
諏訪子がぴょこりと立ち上がった。
「操に頼めばいいでしょ? 月見がめちゃくちゃ頼りにしてたよーとか言って」
「ああ、そうしてくれ」
あのお調子者なら、「ふっふーんそこまで頼りにされちゃったら仕方ないねー、さすが儂!」とか調子に乗って、天狗はもちろん山の妖怪全体にお触れを出してくれるだろう。捜し物をするなら、人手は多ければ多いほどいい。
「あとで尻尾モフらせてね!」
「はいはい」
「……すまないね。私たちは、君たちに大きな迷惑を掛けたというのに」
ナズーリンの窺うような上目遣いを、諏訪子はあっさりと笑い飛ばした。
「あんたも固いねー。その話は、さっきみんな謝って終わったはずでしょ」
「そうですよ。困ったときはお互い様です」
「……ありがとう」
嫌味な含みなどまるでなく、わだかまりを感じさせない暖かな言葉だった。元々心優しい早苗は当然としても、諏訪子は志弦が危険な目に遭わされたことをきっと根に持っているだろう。しかし目先の感情に囚われず、人を案じ大局を見据える度量はまさしく神が如き
「――ま、白蓮だかが復活したら、あんたらがやったことはぜんぶキッチリ報告させてもらうけどね!」
そんなわけはなかった。やっぱり諏訪子は諏訪子だった。
とっておきの悪戯を仕掛けるような彼女の宣言に、一輪と水蜜と星が一瞬で青くなる。雲山ですら、彫りの深い面持ちにヒビが入ったような気がする。
ナズーリンがニヤリとして、
「ああ、是非そうしてくれたまえ。聖なら、
「へえー、そっかあー。どうなるのか楽しみだなーっ!」
「「「…………」」」
ぷるぷる震えている少女たちを尻目に、月見はふと不安になる。
妖怪を想う人間というナズーリンの言葉から、なんとなく、包容力のある優しい少女を想像していたけれど。
――情け容赦ないお説教で泣かせる映姫タイプか、血も涙もない鉄拳で泣かせる藤千代タイプか。それが問題だ。
○
その少女は、千年にも及ぶ
己の肉体すら映らない虚ろな世界で、眠るように待ち続けていた。
もしかすると、自分は騙されていたのだろうか――そう、何度も何度も考えてきた。考えるたびに怖くなって、けれど今の自分では、涙を流して震えることすらもできなかった。
そんなときは、いつも決まって昔のことを思い出した。自分を慕ってくれた妖怪たちのこと。自分を封じた少女のこと。そして、生きたくても生きられなかった、病弱で、けれどまっすぐだった弟のこと。
そうすれば、耐えられた。独りではないのだと思った。
自分はまだ、死ぬわけにはいかない。消えるわけにはいかない。
生きて、人の道を踏み外してでも生きて、果たさなければならない約束がある。
当時の世界からは理解されなかった、出鱈目で荒唐無稽な夢物語。
そんな約束を、自分を封じたあの少女は決して嗤わなかった。理解してくれた。私のご先祖様もね、妖怪に助けられたことがあるらしいんだよ――そう言って、自分のことを包み隠さずに打ち明けてくれた。
本当に、楽しかった。
あのかけがえのないひと時が、少女の楽しそうな語り言葉が、すべて嘘だったとはどうしても思えない。
だから、信じられた。騙されていたのだろうかと怖くなっても、泣きたくなっても、砕けずに悪夢を振り払うことができた。
――必ず、迎えに行くよ。
そう言って、笑ってくれた、少女のことを。
私はどうか、信じていたい。