銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色
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東方星蓮船 ⑤ 「REMINISCENCE ①」

 

 

 

 

 

 幻想郷には、『程度の能力』なるものがある。

 早い話が、その人に備わった性質や技術、ないし物理法則を超えた特殊能力を総称する概念である。志弦の身近で例を挙げれば、早苗は『奇跡を起こす程度の能力』を持っている。神奈子と諏訪子に祈祷を捧げることで摩訶不思議な奇跡を引き起こす能力であり、風祝――すなわち巫女としての技術、ないしは洩矢の血筋に受け継がれた秘術の体現であると言える。また、大地の神である諏訪子なら『坤を創造する程度の能力』、雨風の神である神奈子なら『乾を創造する程度の能力』であり、彼女らの神としての性質が具現化されたものと考えることができる。

 そんな『程度の能力』は、自己申告制であるという――と書くと妙な誤解を招きそうだが、要は自分自身で気づくものなのだと早苗は言っていた。ある日、ふとしたきっかけで。もしくは前触れなどなく、降って湧いたように。「ああそうなんだ」と、神のお告げが如く、理解できるようになるのだと。

 そして、その通りだった。まさしく早苗の言葉通りに志弦は能力に目覚めた。『過去を夢見る程度の能力』――名前はもちろん、どんな能力なのかも、どうやって使うものなのかも、埋もれていた記憶が甦るようにすべてはっきりと理解したし、その事実になんの違和感も抱かなかった。ただ一言、「ああそうなんだ」、と。

 もっとも、よしんば違和感があったとしても、志弦は喜んでこの能力を受け入れていただろう。

 この能力は、夢という媒体を用いて、他人の過去を知る(・・・・・・・・)ことができる。

 いや、「知る」などと行儀のいいものではない。まるで己の魂だけが過去へ飛び、その人へ憑依したかのような、あまりに色鮮やかで強烈な追体験だった。

 まったく都合がよすぎて笑ってしまう、願ったり叶ったりの能力だった。

 

 だから、使った。自分とよく似たあの不思議な声に導かれるまま。もしも白蓮を封じた『神古』が、志弦と同じ『神古』なら、ご先祖様の過去を遡っていけば必ず真実に辿り着けるはずだった。

 そして、やがて志弦は知るのだ。

 そもそもの事の発端として。遥か昔の、人の都で。

 ご先祖様と月見が、唯一無二の親友同士だったのだと。

 

 とにかく志弦としては、月見を一発思いっきりぶん殴りたいのである。

 だって月見は、わかっていたはずなのだ。なんてことのない顔をして。はじめて志弦の名を聞いたときからずっとその可能性(・・・・・)を疑って、大なり小なり困惑していたはずなのだ。

 なのに月見は、なにも言ってくれなかった。なんてことのない顔をして。たまたま『神古』の名を恨む妖怪がいて、たまたま志弦がこの能力に目覚めたからよかったものを、そうでなかったら一生なにも教えてもらえなかったのかもしれない。

 こんな、こんな、大切なことを。

 

 なにも教えてくれないまま、勝手に秀友の前から消える真似をして。

 なにも教えてくれないまま、今までずっと何食わぬ顔をして。

 ぶん殴ってやる。

 秀友だって、同じ気持ちだ。

 

 ……けれどそれは、夢が覚めてからでいい。

 今は、とにかく知ることだ。『神古』と月見。『神古』と白蓮。すべての(えにし)をこの能力で知って、知り尽くして、なにもかもを明らかにして――それから、みんなに会いに行くのだ。

 

 神古志弦は、夢を見ている。

 ご先祖様が月見と出会い、助け、助けられ、笑い、笑われ、感謝し、感謝され、別れた記憶。

 そして、月見ですら知らない記憶。

 すべての発端となった――残されたあとの、神古秀友(ごせんぞさま)の話。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 その当時、神古志弦は――否。

 神古秀友は、太陽が天高く昇りきらないうちから外で酒を飲んでいた。

 

「「「いえーいっ!!」」」

 

 仕事がないのである。誤解がないよう正確に書けば、今日はたまたま陰陽師絡みの依頼がなくて暇だったので、これ幸いとばかりに朝から酒を呑んでいるのである。

 都の隅の隅、人目を上手く外れた通りの隅っこで、石やら木材やらを寄り集めて即席の座席を作り、都合のついた知人友人を三人ばかり集めてきて。仕事をしなくていい開放感に包まれながら、晴れ渡る大空の下で呑む酒は、なんだか駄目な人間になってしまいそうなほど(うま)かった。

 

「いやー、やっぱり酒は旨いっすねー」

 

 集まった面子の中では一番年下になる丸顔の青年が、ため息をつきながらそう言った。続け様に、秀友とはほぼ同い年になる細顔の男が、

 

「そうですねえ。普通であれば僕たちの手が届くようなものではないからこそ、余計にそう感じます」

「やっぱ、日頃から貴族相手にも仕事してるやつは違うね」

 

 秀友よりひとつ年上になる角顔の大男が、体当たりかと思うほど豪快に肩を組んできた。お陰で貴重な酒が少しこぼれる。

 

「秀友サマがすっかり有名人になったお陰で、俺らはこうしておこぼれに(あずか)って酒が呑める。いや、まったく感謝感謝だな」

「やめろって。そんなつもりでお前ら誘ってんじゃないっつの」

「だが実際、有名人だろうがよ」

 

 まあ、まったくの無名というわけではない、のかもしれない。この都で生活を始めて十年以上、陰陽師の端くれとして今やそこそこ名が通り、こうして仕事のない日が珍しくなる程度には、人々から頼りにされることも多くなった。貴族とも、少なからず縁ができるようになった。同業者の中では、充分に上手くやっている方ではあるのだろうと思う。

 しかしそれでも、自ら有名人だと自惚れるほど秀友は馬鹿ではない。

 記憶の海へ沈みかける秀友をよそに、丸顔が無邪気に笑って賛同する。

 

「そうっすよ。特に町のみんなからの人気じゃ、間違いなく秀友さんが一番ですって!」

 

 胸の奥の方が、じくりと痛んだ。

 秀友の口から、湿った笑みがこぼれた。

 自嘲だったのだと思う。

 

「……オレは、一番じゃねえよ」

 

 言葉はまっすぐ、地面に落ちる。語りかける相手すら、見失っているように。

 

あいつ(・・・)が、一番だったはずなんだ」

「――あ、」

 

 やっちまった――そう丸顔が息を詰めたのが、顔を見ずともこれ以上なくよくわかった。すぐに細顔が躊躇いのない張り手を喰らわせ、角顔が容赦のない裏拳を叩き込んだ。げぼろ、と低く下品な呻き声が聞こえた。

 

「……あ、あー。その、なんだ」

 

 角顔が、腫れ物を怖々指先でつつくように、

 

「わりぃな、あいかわらず気配りってのができねえやつで。こんなだから女の一人もできねえんだ、ハハハ」

 

 丸顔は、地面にひっくり返ってピクピク痙攣している。

 

「まったくですね。……それより、さあ呑んでください。これはあなたの酒なんですから、あなたが呑んでくれないと僕たちだって呑みづらいじゃないですか」

 

 細顔はいつも通り涼しい顔をしていたが、苦し紛れの話題転換だったのは言うまでもない。秀友は肺の空気を悪い思考とまとめてすべて吐き出し、首を振って、一気に吸った。

 

「あー……すまん。悪いのはこっちの方だ」

 

 空を見上げ、肩から力を抜いて、女々しい自分自身へ噛んで含めるように、

 

「……ほんと、いつまで引きずってんだって話だよな」

 

 もう、十年も昔の記憶であるのに。

 秀友には、友がいた。ここに集まっている面子とは比べ物にもならない、唯一無二、至上という賛辞すら惜しみないほどの友がいた。

 今は、もういない。

 人間、いつかは別れが来るものだと頭ではわかっていたけれど。どうしてあいつだけがあんなにも、理不尽なほど早く旅立たなければならなかったのかと、秀友は今でも(ほぞ)を噛み千切るほどの思いに駆られる。

 本当は、あいつが一番だったはずなのだ。あいつが間違いなく、同じ年代の中では並ぶ者のいない陰陽師だった。もしも今でも生きていれば、秀友の師(・・・・)すらも超える都随一の存在となっていたはずだった。

 それが、あの日、あのとき、すべて断たれた。

 

「……無理もねえよ」

 

 角顔が、言葉を探して口端をまごつかせている。

 

「俺だって……未だに、なにかの間違いだったんじゃねえかって思うさ。信じられるわけがねえ」

「……」

 

 あいつと角顔は、大して親交のあった者同士ではなかったけれど。そんな相手であっても未だに惜しんでもらえるあいつが、秀友は誇らしい。

 

「ちょっとは、あいつの背中に近づけてるといいんだけどな」

 

 人を助ける陰陽師になると。消えゆくあいつの前で誓ってからはひたすら研鑽に打ち込み、遠すぎる理想へ少しでも近づこうと足掻いてきた。そのために、自分のような男とは一生相容れないとすら思っていた、あの老人(・・・・)に頭を下げまでした。

 少しくらいは、あいつに胸を張れる男になっただろうか。

 

「……あの人が今のあなたを見たら、きっと誇りに思うはずですよ」

「……そうだといいな」

「そうだろうよ。おめえは本当によくやってるさ。人の努力を認めないような性悪じゃあなかったろ、あいつは」

 

 秀友は、噛むように笑った。独りよがりかもしれないけれど。へえ、お前にしては上出来じゃないか――頭の裏から、あいつがそんな風に声を掛けてくれたような気がしたから。

 

「違いねえ。……うし! とりあえず今日はのんびり英気を養って、明日からまた頑張るとすっか!」

「おうよ! そのために今日はぱーっと酒を呑んで……あっ」

 

 秀友の肩を叩こうとした角顔の動きが、縫いつけられてぴたりと固まった。

 

「? どうしたよ」

「あ……いや、」

 

 先ほどまでの腫れ物を扱う空気とはまた違う。彼の躊躇いがちな目線にこめられているのは同情ではなく、ひとつは憐れみであり、またひとつは諦めであり、死に逝く者を見送る静かな悟りの眼差しだった。細顔とともに面差しを陰らせ、

 

「秀友……お前はいいやつだったよ」

「惜しい人を亡くしましたね」

「は? いやいやお前らいきなりなに言」

「――秀友さぁーん?」

 

 あ、なるほどわかりました。

 背後。

 

「コソコソ出掛けて行ったからなんか怪しいと思えば……そうですか、朝っぱらからお酒ですかあ。ふふふ」

 

 陽光朗らかな過ごしやすい日和のはずなのに、冷や汗と寒気と鳥肌と体の震えが次から次へと止まらない。

 小気味よく砂を踏む音が近づいてくるが、一向に振り向けない。角顔と細顔は打って変わって、秀友の背後へ爽やかな笑顔を向けて、

 

「やあ、雪さん。薄々勘づいてたけど、やっぱりこいつは黙って出てきやがったんだな」

「まったくひどい亭主もいたものですね」

「いやー、そうとわかってれば俺らも注意したんだけどなー」

 

 こいつら。

 

「秀友さぁーん?」

「う、ういっす!?」

 

 振り返った。もちろん間違いなどなく、そこでは我が妻――雪が、とってもステキな微笑みで佇んでいた。

 今となっては彼女も秀友と同じで、人生の折り返し地点を回りきった大人の中の大人である。出会った頃より拳ひとつも背が伸び、髪はそれ以上に長くなって、けれど日差しが照る肌だけは未だ成熟を知らず、身にまとう着物さえ上物ならば貴族も欺く(あで)な女になった。怒らない限りはまさに天女のような、秀友の自慢の妻であった。

 怒らない限りは。

 そして目の前の雪は、明らかに怒っているのだった。秀友は表情筋が震え上がるのを感じながら、

 

「……や、やー、雪さん。これはその、こいつらから誘われて」

「嘘」

 

 泣きそう。

 秀友は助けを求めて首で後ろを振り返る。角顔と細顔が、「我らが友の冥福を祈って……乾杯」とかやっている。丸顔は死んだフリをしている。こいつら絶対あとで殴る。

 響きだけなら至って優しい笑みの声、

 

「まったくもう。どうして秀友さんは、何回言ってもわかってくれないんですかねえ」

「……お、」

 

 頭の中がぐるぐる回っている秀友は、自分でもなにを考えているのかわからなくなりながら、とりあえずなにかを言わねばとつい生き急ぎ、

 

「お、落ちちまったのさ……酒との禁断の恋にな」

「ん、今日の言い訳はつまんないですね」

 

 死刑宣告いただきました。

 

 

 

 

 

 ――笑顔の妻に襟首を掴まれ、ズリズリ引きずられて連行されていく友人のしかばねを、角顔と細顔は酒を呷りながらやれやれ心地で見送る。

 

「あいかわらず、あいかわらずですね。あの二人は」

「あそこまで仲いい夫婦も珍しいよなあ」

 

 今のご時世、女は男に付き従うもの、所謂男尊女卑の考えが一般的であるのに。互いが対等、いやむしろ見事なまで尻に敷かれているのは本当に珍しい。

 そしてだからこそ、神古夫妻は界隈で知らぬ者などいない、お手本のような鴛鴦(おしどり)夫婦なのだった。

 

「おい、もう起きても平気だぞ」

「……ふ、ふぅー。やっぱ、怒ったときの雪さんはめっちゃ怖いっすねえ……」

 

 角顔が爪先で小突くと、死んだフリをしていた丸顔がゆるゆる起き上がった。服についた砂を払い、ついでに額の冷や汗も拭って、

 

「ああでも、そこがまた素敵っすわあ。いいなあ秀友さん」

「そうかお前そういう趣味か」

「近寄らないでくれます?」

「誤解っす! ただこう、俺もいっぺんああやって引きずられてみたいってだけでぼぐろ」

 

 裏拳一発で丸顔を再び沈め、角顔は盃の酒を一息で空にし、

 

「……そういやこの酒、どうするか」

 

 足下には、置きっぱなしになった秀友の酒。

 細顔と顔を見合わせ、無言の議論は三秒で決した。

 

「――ありがたく呑み干しましょう。秀友さんの形見です」

「だなー」

 

 持ち主に返すなんて、勿体ない勿体ない。

 どこからか友人によく似た声で呪詛が響いてきたが、空耳であろう、そうであろう。

 

 

 

 

 

「――秀友さん。私、お酒を呑んではいけないと言ってるわけじゃないんですよ。仕事がないからって朝から呑んだくれて、ぐうたらな一日を過ごすのがいけないと言ってるんです。秀友さん、お酒を呑んだあとはすぐ寝ちゃうじゃないですか。しかもなかなか起きないし」

「うぐー……それは、そうだけどよぅ。でもよぅ……」

「グズグズ言わない。みっともないですよ」

 

 雪に襟首を掴まれ引きずられながら、秀友は雲もまばらな青い空を見上げている。天下の都の往来で、朝っぱらから女が男を引きずって歩いている――普通であれば間違いなく奇異の目を引く光景のはずだが、道行く町人から注がれるのはむしろ秀友への呆れと雪への同情である。「ああまたか」というやつだ。秀友もこうやって引きずられるのにすっかり慣れてしまって、今となっては恥ずかしくもなんともなくなってしまった。

 

「銀山さんに呆れられますよ」

「別にいいよあいつにだったら呆れられても」

「またそんなこと言って」

 

 雪の声音が、少し笑った。

 

「ちょっとは銀山さん離れしなさい」

 

 秀友も口端を曲げて呼気ひとつで笑った。銀山離れ、というと語弊はあるだろうけれど。己の心にまとわりつく呪いのようなあいつの幻影と、折り合いをつけられる時は来るのだろうか。

 お前みたいな立派な陰陽師になると、消え行く銀の光に誓った。あれが呪いだったのだと思う。十年が経っても、どれだけ研鑽を重ねてもなお秀友の心を縛りつける、呪詛のような約束だった。

 けれど、誓ったことを後悔してはいない。なにもできなかった自分にはこれくらいがちょうどいい。それどころか、今の秀友にとっては呪いすらひとつの拠り所なのだ。この呪いがあるお陰で、自分はあいつの背中を追いかけるために、ひたすら前を向けているのだから。

 

「とにかく久し振りの休みなんですから、あの子(・・・)と一緒にいてあげてください」

「うーい」

 

 秀友は気の抜けた返事をした。子どもの相手は嫌いではないのだが、何分年を取ってきたせいか最近体力が右肩下がりで、元気いっぱいなやんちゃ者の面倒を見るのも重労働になってきた。年中無休で日がな一日、疲れた顔ひとつも見せない我が妻は本当にすごいと感服する。

 骨の折れる休みになりそうだと、秀友は脱力し――そのときふと、風が吹いた。

 なんてことのない、普通であれば誰も気にも留めないような、ほんの束の間のそよ風だった。

 

「――、」

 

 しかしこの都に住む人間で、秀友だけがわかった。

 この風は。

 

「――雪さん」

「なんですか?」

「ちょっと急用だわ」

 

 声色が変わった秀友に、雪が足を止めて振り向く。秀友は緩んだ彼女の手から抜け出し、立ち上がって、音もなく流れる風の行き先を目で追いかける。

 間違いない。

 怪訝な雪の瞳に、一言で返した。

 

「師匠が呼んでる」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 銀山が雪たちの前から消えて、数日もしないうちの出来事だったと記憶している。秀友が、大部齋爾(おおべのさいじ)に頭を下げて師事を乞うたのは。

 学のない雪に、秀友の仕事の詳しいところまではわからないけれど。それでも大部齋爾という老翁が、銀山を以てして「半分は人間をやめてる」と言わしめた超人であることは知っていたので、立派な陰陽師になると消え行く友へ誓った秀友が、師事を縋ったのは必然だったのかもしれない。

 意外だったのはただ、齋爾が本当に、乞われるまま秀友を弟子に取ったことだけ。

 

「――どうぞ」

 

 秀友に連れられて雪が訪れたのは、とある貴族の邸宅だった。雪一人であれば、まず立ち入ることも面会すらも許されない高貴な人の住む場所だった。陰陽師はただ妖怪を退けるだけにあらず、しきたりに則った穢れ祓いや吉凶占いも司る。貴族はとりわけそういった縁起担ぎを重要視するので、陰陽師にとっては所謂お得意様であり、故に秀友は貴族相手でもそこそこ顔が利くのだった。

 雪の家を三巻きも四巻きのしそうな長い廊下を越え、呆れるほど広大な庭園を横切って、使用人の案内で通された離れはいっそ不気味なほど静まり返っていた。人の息遣いがまるでなく、雪の家と比べても小さいくらいで、こんなところに本当に人が――あの人がいるのかと、雪は今でも信じがたい思いに駆られる。

 自然と足運びが重くなる。ひび割れた氷の上を、渡るように。

 部屋の中央では梅を描いた屏風がひとつ、心もとなく雪の視界を遮っていた。その向こう側に向けて使用人が、

 

「齋爾様。秀友様がいらっしゃいました」

 

 返事はない。その代わりなのか、部屋の奥から外に向けて少し風が吹いた。あの老翁は、風の術を己が代名詞とする陰陽師だった。

 使用人が屏風の向こうに消える。「さ、ゆっくり、ゆっくり、起き上がってください」と深い気遣いの声音が聞こえ、それからかすかな衣擦れの音。あの人を床から起き上がらせる、たったそれだけの動作に、使用人はたっぷりと十五を数える時間を掛けた。

 

「――お待たせいたしました」

 

 やがて戻ってきた使用人は、雪と秀友に(こうべ)を垂れて、

 

「わたくしは、外におります。御用がありましたら、なんなりと」

 

 雪と秀友は無言の礼を返す。使用人は最後にもう一度だけ会釈して、それ以上は衣を擦る音すら躊躇うように、音もなくそっと離れをあとにした。

 前を見る。屏風の向こうには、無音だけがある。そこに人など、いないのではないか思えるほどに。

 

「雪さん」

 

 秀友が雪の手を取る。雪は唇を結び、頷いて、秀友とともに屏風の裏へ足を踏み入れた。

 朽ち果てた枯れ木のような、老爺がいた。

 

「…………齋爾サン」

 

 名を呼ぶ秀友の声が、わずかに詰まって歪んだ。その横で雪は息を殺し、咄嗟に挨拶をすることもできず呆然と立ち尽くしていた。

 ――老いてなお盛んな女好き。

 そう誰からも評されていた頃の面影は、まるで見る影もない。為す術もなく床に伏し、その大半が抜け落ちた髪に生気はなく、瞳は暗く濁り、肌は血の巡りを失ってひび割れている。かつて『風神』の異名をほしいままにした都随一の陰陽師は、今や無惨とすら思えるまでに痛ましく老いていた。

 以前見舞いをしたときはまだ、こんなにもひどくはなかったはずなのに。

 声を掛けるだけで、崩れ落ちてしまいそうな、朽ち果てた姿。

 齋爾は、今の時代では考えられないほどの長命だった。だから雪は、ここまで長く生きた人間というものを未だかつて見たことがなかった。すでに体は言うことを聞かなくなり、顔見知りにあたる貴族の厚意で居を移してからは、こうして必要な世話を受けなければ一人で起き上がることもままならなくなっていた。人は老いると、こうなってしまうのかと。神と呼ばれた男ですら、こうなってしまうのかと。人である限り決して抗いきれない残酷な運命の姿に、雪の心臓が押し潰されるように軋む。

 齋爾が、顔を上げた。

 かすかに、口端を曲げた。

 

「……おお、雪殿。こんなみすぼらしい姿で申し訳ありませんなあ」

 

 ――もう、目だって見えていないはずなのに。

 ボロボロと崩れる砂のような言葉に、雪はなにも返せず、ただ曖昧な笑みを浮かべるだけで答えとした。

 

「おい、人の嫁に色目使ってんじゃねえよ」

 

 いきなり喧嘩腰を取る秀友に、齋爾もまた笑みを消し、臆面もなく舌打ちをして、

 

「なにをしに来た、小童」

「てめえが呼んだんだろクソジジイ」

 

 秀友が更に舌打ちを返す。だがそれは、目の前の現実を直視しきれずに出る強がりな振る舞いだった。こうやって威勢のいい言葉で話していれば、齋爾にかつての闘志が戻るのではないかと縋るようでもあった。

 男を前にしたときだけは、沸々と(たぎ)(ほむら)の如き老翁であるはずだった。積み重ねすぎた齢でその熱こそ失っても、取りつく島もなく無愛想で偏屈なところだけで変わらない。

 齋爾は、生気あふれる目下の男が嫌いなのだ。昔から。

 

「ふん。あの風が読めたということは、鈍ってはいないようだな」

「……ま、どっかの誰かさんに骨の髄まで叩き込まれましたんでね」

「呆れ果てるほど才のない愚鈍だったからな」

 

 けれど齋爾は事実として秀友を弟子に取ったし、まるで彼を己の跡継ぎとするかのようにすべての技を叩き込み、こうして一人前の陰陽師に育て上げてくれた。今まで数多くの同胞に教えを乞われながら、その一切を素気なく一刀両断してきたはずの男が、一体どういう風の吹き回しだったのか。

 その答えを教えてもらったことはないけれど、もしかすると銀山さんが関係してたのかもな、と雪は思っている。

 

「で、今日は一体どんな御用で?」

 

 秀友の問いに齋爾は即答せず、錆びついた仕草で部屋の片隅に目を遣った。なにも置かれていないがらんどうの空間に、けれど普通では捉えることのできないこの世ならざる影を見るように、

 

「……光を失い、体も動かなくなってからは、夜な夜なやって来おる地獄の遣いを捻り潰すことだけが楽しみだったが」

 

 細い息で、

 

「それも、今宵が最後だろう。――もう、疲れた」

「……!」

 

 秀友は瞠目し、雪は息を呑んだ。それは、つまり、明日の朝を迎える頃には――

 

「ふと、思い出したことがあってな。一応、死ぬ前に、伝えておこうかと思ったまでのことだ」

「……」

 

 齋爾の表情には、なんの感情も浮かんでいない。嘆くのではなく、憤るのでもなく、焦るのでも恐れるのでもなく、ただ透き通る静謐だけが彼の面差しを満たしている。

 己の死を悟り、受け入れた、人間の顔だった。

 信じられないという思いと、そうなのかもしれないという真逆の思いが、半分ずつ雪の心を支配している。あんなにも強かった男が死ぬなど信じられなかったし、けれど今の朽ち果てた齋爾を見れば、確かに、もう最期なのかもしれないと予感する自分がいた。

 秀友も同じだったはずだ。固く握り締めていた拳を、ゆっくりと解く。掛けたい言葉は、きっと違っていただろう。けれど秀友はそれを呑み込み、押さえつけ、静かに先を促すことを選んだ。

 

「……なにを、思い出したんすか?」

「――小童」

 

 齋爾が、秀友を見た。

 濁りきり、もう光が差すこともない瞳に、けれど今だけははっきりと秀友の姿が映り込んでいた。

 

「門倉銀山は生きている」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――――――――――――は、」

 

 束の間、意識が飛んでいたようにすら感じた。

 そしてはっきりとした意識が戻ってきても、雪は指の一本も動かすことができなかった。肉体への認識が消失し、精神と思考だけの存在となって、齋爾の言葉の意味をなんとか理解しようと懸命にもがいていた。

 かどくらぎんざんは、いきている。

 それだけ。

 たったそれだけなのに、

 

「――それって、どういう」

 

 ようやく動いた喉は、うわ言にも近かった。

 

「雪殿、そのままの意味で捉えていただければ結構」

 

 翻って齋爾の声音は、枯れ果てていても淀みない。なんてことのない簡単な事実を、告げるだけのように。

 

「門倉銀山は――正確に言えば門倉銀山と名乗っていた男は、今もこの世のどこかで生きている」

「……………………はっ、」

 

 秀友が、一度だけ震えた。

 失笑だった。

 

「……いやいや、齋爾サン。いくらなんでもそんな見え透いた」

あやつが死んだと(・・・・・・・・)都に報告を出したのは(・・・・・・・・・・)儂だったな(・・・・・)

「――!」

 

 確かに、そうだ。奇跡でも起きていない限り生きてはいまいと――すなわち死んだと報告を出したのは、他でもない齋爾だった。都屈指の陰陽師が言うのならばと、当時は誰しもが銀山の死を受け入れるしかなかったのだ。

 しかし齋爾は今になって、銀山は生きていると真逆のことを言う。

 ならば、あの報告は。

 そして、雪と秀友に別れを告げてくれたあれ(・・)は、

 

「――そんなわけあるか!!」

 

 秀友が、力いっぱい振り下ろした拳で板敷きを打った。肩を震わし、歯を剥き出しにして、

 

「あんたは知らねえだろうけどな、あいつは! あいつは、最期に、オレたちに別れを」

あれ(・・)はただの幻術だ」

 

 絶句、

 

「そうして門倉銀山は死に、しかしその名を名乗っていた男は、今もこの世のどこかで生きているわけだ」

 

 なにも、言えなかった。

 なにを言えばいいのかもわからなかった。齋爾の言葉を闇雲に信用するのなら、銀山は今も生きていて、彼が最期の別れを告げに来てくれたはずのあの光景は幻で、彼の名前すらも偽りで――すべて、嘘だったと、いうことだ。

 もしも、もしも本当にそうだというのなら。

 どうして銀山は、そんなことをしたのだろう。どうして彼は、帰ってきてくれなかったのだろう。どうして嘘をついたのだろう。同じ自問の羅列が、雪の頭の中で幾度となく堂々巡りを始める。

 一方で、齋爾の老い故の狂言なのかもしれないと思ったし、そう考えた方が遥かに自然でもあった。信じたくなかったのだ。あの人が、誰からも信じられる存在だったあの人が、雪たちに嘘をついて、勝手に都から消えたなんて。

 だって、だってそうでなければ、

 

「――なんですか、それ」

 

 ――私たちが、捨てられたみたいじゃないか。

 あの人は(・・・・)嘘だったのか(・・・・・・)と。そう、怖くなった。

 

今際(いまわ)(きわ)の狂言と取るかは自由だ。儂はただ、思い出しただけだからな」

 

 齋爾の口振りはどこまでも淡々としていて、信じてもらおうとするでもなく、雪たちを惑わそうとするでもない。だからこそ、この人はただ事実を口にしているだけなのだとわかってしまう。

 雪ですら、そう思ったのだ。ならば、秀友は、

 

「……齋爾サン」

 

 感情を抑えた、静かな問いだった。

 

「齋爾サンは、あいつと、話したんすか」

 

 齋爾は、変わらず淡々と答える。

 

「ああ」

「……なにか、言ってましたか」

「ああ」

「なんて、」

 

 途切れた。そこから先はもう声にならず、秀友は深く俯いて、顔を覆い、容赦なくこみあがってくる熱を必死に制御しようと足掻いていた。

 だから雪は、ああそうか、と思った。

 秀友は、

 

「そう、すか」

 

 掠れた声音で、揺らめく体で、秀友は、

 

 

「――あいつは、無事だったんすね……!」

 

 

 かわいそうなまでに、安堵していた。

 ずっと後悔し続けていたはずだった。雪よりもずっとずっと、深く、重く、最果てなどなく。どうして彼だったのか、どうして自分はなにもできなかったのかと、考えぬ日など、考えずに済む日など一日たりともなかったはずなのだ。

 血がにじむほど背負い続けていた呪いから、解放された瞬間だったのだと思う。

 雪は、一瞬でも銀山を疑った自分が恥ずかしくなった。

 

「……秀友さん」

 

 そっと、心優しい夫の隣へ寄り添う。震える彼の手を取るこの体温が、少しでも伝わればいいと願って。

 どうして銀山が己の死を偽ったのか、都に帰ってきてくれなかったのかは、わからないけれど。でも、あの人のことだ。なにかそうするだけの理由や事情があったはずで、決して雪たちを騙して(わら)っていたわけではないのだと。たとえその名が偽りだったとしても、記憶の中にいる『門倉銀山』は、あのとき、間違いなく雪たちの隣にいたのだと。

 そう、信じたかった。

 

「……でも、齋爾様は、どうして」

 

 ――銀山が生きていると知って、今までずっと隠していたのか。

 そしてどうして、今になって話そうと思ったのか。

 

「――ときに、小童」

 

 齋爾から返ってきたのは雪への回答ではなく、秀友への問いかけだった。

 

「貴様、『銀毛十一尾』という名を聞いたことはあるか」

「……?」

 

 秀友は拳で目元を拭い、堰き止められていた息を大きく吐いて、

 

「……どっかで、聞き覚えは。でも、噂話、御伽噺の妖怪っすよね」

「そうだな」

 

 それで終わりだった。簡潔にそれだけ言って齋爾は瞑目し、あとはなにも言ってくれなくなってしまう。『銀毛十一尾』など聞いたこともない雪は、わけがわからず夫の反応を見つめる他ない。

 秀友もはじめは、理解が及ばず眉をひそめていた。

 はじめは。

 

「……!」

 

 目を、見開いた。

 

「まさか――いや、待ってくださいよ。本気で言ってんすか」

「確かにな。儂とて、直接問い質したわけではない」

 

 秀友がかすかに緩み、

 

「だが、妖怪だったのは間違いない。銀の妖狐だ」

「……!?」

 

 雪には、齋爾がなにを言っているのかわからない。頭が理解を拒否している。耳から入ってきた情報が喉の位置でつかえて、どうしてもそこから先に落ちていってくれない。

 妖怪、は、雪でも知っている。

 人に危害を加える者。人に恐れを抱かせる者。秀友が、人々を守るために必要ならば戦うこともある、文字通りの人間の「敵」。

 ――銀山が、妖怪だった。

 人間のふりをして、名前まで偽って、都にもぐりこんで生活していた。

 雪たちの恩人は、人ではなかった。

 そんなの、一体どうやって理解しろと、

 

「とはいえ、なんということはない。あやつは妖怪であっても、あの通りの男だった。――人とともに、生きてみたかっただけだと。そう、言っていた」

「――……」

「だから、もしも『銀毛十一尾』が本当に存在するのなら。きっとあのような姿で、あのように生きているのだろうと」

 

 一息、区切って、

 

「……儂は、そう、思っているよ」

 

 そう言い切って齋爾は、細くくたびれた息をついた。

 

「……話は終わりだ。これ以上は儂もなにも知らん。寝るから帰れ」

「……、」

 

 言葉では集約できないほど、たくさんのことを考えたと思う。銀山の無事を喜び、しかし銀山が妖怪だった事実に動揺し、言い尽くせない疑問が波濤となって押し寄せて、しばらくの間は呼吸すらままならず床に俯くだけだった。

 

「……ひとつだけ、訊いていいすか」

 

 立ち直りは、秀友の方がよっぽど早かった。不快げに顔をしかめ、けれども決して「断る」とは言わない齋爾に、秀友は正面から、

 

「どうして、話してくれたんすか」

「……」

「あんたのことだ。今までずっと黙ってたのは、話そうとも思わなかったからでしょう。墓場まで持ってくつもりだったはずっすよね」

「さあな……」

 

 齋爾は雪たちから大きく顔を背けて、ぽつりと短く、

 

「……ただの、気まぐれだ」

 

 なんとなく、嘘ではないのだと思った。特別に教えてやろうという気持ちはまったくなくて、本当にただの気まぐれで、でも齋爾自身、どうしてそんな気まぐれを起こしたのかはわかっていない。

 死期を悟った人間の、心の綻びだったのかもしれない。

 

「……言うまでもないだろうが、この話、決して他言はせぬことだな。この都で平穏無事に生きていたいならば」

「わかってますって。……ちゃんとこの部屋に結界張って、声が漏れないようにしてくれてるっすもんね?」

 

 秀友が悪戯っぽく返すや否や、齋爾は隠しもせず露骨な舌打ちをした。

 

「さっさと帰れ」

「はいはい」

 

 秀友があっさり腰を上げたので、雪は驚いた。

 

「いいん……ですか?」

 

 ――これ以上、なにも訊かなくて。

 銀山のことを。「これ以上はなにも知らない」と齋爾は言ったが、でも、それでも――今この時を逃してしまったら、もう訊くことすらもできないはずなのだ。

 だって、齋爾自身が言っていたのだから。今宵が、この時が、最期になると。

 銀山は、どこに消えたのか。

 銀山の本当の名前は、なんなのか。

 どうして雪たちには真実を教えてくれず、死を偽るような真似をしたのか。

 けれど秀友の瞳は、澄んでいた。

 

「おう。もう大丈夫だ」

 

 人間としては少なからずバカな一面があるけれど、陰陽師という仕事を立派に全うしている通り、頭脳の話をすれば彼は雪よりずっと聡明だった。雪では考えも及ばないたくさんのことを考えて、自分なりの答えを見つけ出して、だからこうもまっすぐな目をしているのだと思った。

 ならば雪は、信じるだけだ。

 

「……わかりました」

 

 立ち上がり、齋爾に、深く深く頭を下げた。

 

「齋爾様。長らく、主人がお世話になりました」

「まったくですな。儂でなければ見放しておったでしょう」

「てめえ最期くらい可愛い弟子に花を持たせようとか思わねえのか」

「やかましいわ愚弟子が」

 

 雪は小さく吹き出す。本当にこの二人は、師弟関係のくせして口喧嘩ばかりで。しかしそれこそが信頼の証というように、どちらもなんだか楽しそうな顔もしているのだった。

 

「さっさと帰れと言っているだろう」

「へーへー、帰りますよー」

 

 雪の手を取り、秀友は最期のやり取りにあるまじきほど素っ気なく踵を返す。

 けれど、齋爾の姿が衝立の向こうに消える――その、間際。秀友は突然齋爾へ向き直り、その場に胡座を掻いて座って、深く叩頭しながら両の拳をまっすぐ床に置いた。

 決して、品のいい恰好ではないけれど。それは粗野な育ちの彼が、彼なりに嘘偽りない恩義と敬意を示すときだけ見せる、最上級の感謝の姿だった。

 

「……今まで、お世話ンなりました」

 

 口を開けば、年甲斐のない罵り合いばかりでも。それでも秀友にとって、齋爾は間違いなく立派な師匠だった。要領の悪い自分を、ぶつくさ文句を言いながらも決して見捨てることなく育て上げてくれた。かつて銀山の下で陰陽術の基礎を磨いた秀友は、齋爾の下で才を花開かせ大成した。

 この老翁がいなければ、今の自分はなかったはずだから。

 

「ありがとうございました。――師匠」

 

 光を失った齋爾にも、きっとはっきりと見えていただろう。齋爾は鹿爪らしい顔で秀友を一瞥し、憎々しげに小鼻を鳴らす。肌を撫でる束の間の風が吹く。その流れが運んできたように、遠くから外の賑わいがゆっくりと戻ってくる。

 もう言葉を交わすことはない。けれど、彼らにはそれだけで充分。

 

 別れの挨拶だった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 しばらく、帰り道での会話はなかった。十年以上歩き慣れた道を行く道中、秀友はなにも言わず、雪は彼の背になにも声を掛けられないでいた。

 行きと帰りでは、あまりに状況が違いすぎていた。秀友の師に当たる老翁が、自ら今宵で最期の命だと語った。そして、何年も昔に死に別れた雪たちの大切な人が、本当は生きていて、けれど正体は妖怪だったのだと告げた。そうだったのですかとすんなり受け入れられるはずもない。今際の置き土産と呼ぶには大きすぎる真実に、雪は銀山のことで、秀友のことで頭がぎゅうぎゅうになってしまっていた。

 だからだろうか。前を行く秀友が歩き慣れた通りを外れ、人目がつかない狭い路地を進んでいるのだと、しばらくの間本気で気づかなかった。

 

「……秀友さん?」

 

 奥へ進むに連れ、都の喧騒が引くように消えていく。一度気づいてしまえば、理解は早かった。曲がりなりにも陰陽師の妻として、「人払い」なる術が存在することを雪は知っている。

 風以外の音が消え、静まり返った路地の一角で、秀友がようやく足を止めた。胸の中で暴れるばかりだった感情を根こそぎため息に変え、からりと晴れた青い天を仰いだ。

 

「……なんか、上手く言葉が出てこねえや」

「……そう、ですね」

 

 齋爾に先立たれる悲しみ、銀山が生きていた喜び、けれど人ではなかった戸惑い。三種三様の感情がせめぎ合って、今すぐ秀友となにかを話したいと思うのに、なにをどう言葉にすればいいのかいくら考えてもわからない。ひとしきり迷って、悩んで、結局口から出てきたのは、

 

「……びっくり、でしたね。まさか、銀山さんが」

 

 そんな、当たり障りのない一言だった。秀友がこちらを振り返り、

 

「そーだよなー、まさかあれが幻術だったなんてなあ。ハハ、人の涙返せコノヤロウって感じだ」

「……あの。秀友さんは、その」

 

 秀友の口調はあくまで軽い。強がっている、わけではないと思う。だから雪には不思議だった。

 

「銀山さんが。妖怪、だったこと……」

 

 彼は、どう思っているのだろう。妖怪は人間の敵で、陰陽師は、そんな敵から人々を守る役目を持つ者で、決して相容れることのできない対極の存在で。

 かけがえのない友だと思っていた男が。

 敵、だったということ。

 

「……ああ」

 

 ため息をつくような仕草で、秀友は頷いた。

 

「でも今になって思えば、ありえない話でもねーなって思うよ。あいつ、オレと同年代とは思えないくらい……なんてーか、達観してたっていうかさ。オレらより何倍も長生きしてた妖怪だったとしても、そんな不思議じゃねえなって」

「……」

「ぜんぜん気づかなかったけどなー。都のやつら全員騙して何年もちゃっかり生活してたとか、ほんとバカだわあいつ」

 

 雪にはよくわからない。どうして秀友はそうやって、楽しそうに、懐かしそうに、あっけらかんと笑えるのだろう。雪はまだ、銀山が妖怪だった事実を受け止めきれないでいるのに。一体彼は、この短い時間の中でどんな答えを見つけ出したのだろう。

 雪の迷いと葛藤を、秀友は表情から察したようだった。笑みを消し、

 

「……やっぱ雪さんとしちゃ、いろいろ複雑か?」

「……、」

 

 雪は正直に頷くか逡巡し、しかし今更誤魔化したところで意味はないと判断した。

 

「……はい」

「まあ、そりゃあそうだよな。妖怪っていえば、『人間の敵』って認識だもんな」

 

 無論、雪たちを騙していた銀山に失望しているわけではない。銀山は間違いなくあのとき、雪たちの記憶通りの姿で隣にいた。だからこそ、彼が妖怪だった事実とどう向き合えばよいのか迷うのだ。

 秀友が、上手い言葉を探るように頭を掻く。

 

「……齋爾サンが、『銀毛十一尾』って言ってたろ」

 

 雪は頷く。

 

「オレら陰陽師の間で、噂話だけで語られてる妖怪でさ。十一本の尾を持ってる、銀色の妖狐らしい。なんでか不思議と人間に肩入れしてて、人知れず、人の姿で人の世界に紛れて生きてるって。まあほとんどの陰陽師は、そんな妖怪いるわけないだろって笑い飛ばすけどな。オレも御伽噺だと思ってた」

「……それが、銀山さんだった?」

「齋爾サンは、そう思ってるみたいだったな。……そうだったらいいなって、オレも思うよ」

 

 苦笑、

 

「『人とともに生きてみたかっただけ』。あいつは、たったそれだけの理由で本気で都に住んで、本気で人助けしながら暮らしちまう、お人好しでバカな野郎だったって」

「……」

 

 秀友の言葉が、すっと雪の胸の中に落ちてくる。蓋を開けたように思い出が甦る。相手を選ばず仕事を選ばず、貴族相手でも庶民相手でも、妖怪退治でも迷子捜しでも快く引き受けて、老若男女問わず信じられていたあの人。妖怪だったなんて今でもまったく信じられない、下手な人間よりも人間らしかったあの人のこと。

 ――ああ、そっか。

 雪も、自然と笑えていた。

 

「……そう、ですよね。銀山さんならきっと、そうですよね」

「ああ。だろうよ」

 

 特別な理由や目的があったわけではない。それ以上の望みなどまるでなく、ただ人とともに生きてみたかっただけの、心優しい妖怪だったのだと。

 きっと、そうだったのだと、信じたかった。

 

「そうだとすりゃあ、あいつがいなくなったのにも……まあ、ちょっとは納得が行くさ」

 

 秀友は続ける。

 

「あいつは違ったけど、でもやっぱほとんどの妖怪は人間の敵で、人間はみんな妖怪を恐れてる。妖怪の仲間だっつー人間がいるなら、周りのやつらにとっちゃあそいつはもう人じゃなくて、化物とか悪魔とか、そういう類さ」

「……」

「人間と妖怪は、一緒には生きられない。だからあいつは最後まで人のまま、ぜんぶ終止符を打とうとしたんじゃねえかな。自分一人だけが、ここから消えていくように」

 

 今となっては遠い昔、まだ都に銀山とかぐや姫がいた頃。竹取翁から銀山へ仕事の依頼があり、その日の黄昏時に翁の屋敷を何者かが襲った。それは、あやかしに魂を売り渡し人道を捨てた、とある貴族の仕業だったという。

 そして、もちろん。あの貴族の血筋は、今はもう都にはいない。

 いられるはずもなかった。

 

「銀山さんのような優しい妖怪でも……一緒には、暮らせないんですね」

「……ああ」

 

 銀山はみんなから慕われていたが、もしも正体が露見していたら世間からどんな掌返しがあったかわからない。少なくとも彼と縁遠い陰陽師や公家は、人々を騙した悪の妖怪と断じて討滅しようとしたかもしれない。

 そうなれば銀山と特別親しかった雪たちにも、なにもなかったとはいえない。

 だからすべてを知られる前に、彼は消えることを選んだのかもしれなかった。

 

「案外あいつは、あの日、本当に死にかけてたのかもしれない」

 

 かぐや姫がいなくなった日のことを、言っているのだと思った。

 

「なにと戦ったのかは、わからねえけど。怪我してしばらく動けなくなって、なんとかかんとか傷を癒やして戻ってこようとしてみたら、自分がもう死んだ扱いになってて。……だから、引き際だって考えたのかもしれない。あいつにとっちゃあ理想の潮時だったろうさ」

「……」

 

 誰にも疑われず、誰にもあとを追われず、『門倉銀山』に完全な幕を下ろす必然の別れ方。

 

「でもオレらがあんまりにもあんまりな状態だったんで、別れだけは言いに来てくれた。――人を救えよ、って」

 

 秀友が追憶とともに目を細める。よく覚えている。忘れるわけにはいかないことだった。結局は幻術だったとはいえ、当時の雪たちにとっては間違いなく、銀山が最期に遺してくれた言葉だったから。

 ――人を救えよ秀友。人を救って、人に囲まれて、そして幸福に生きろよ。

 いつまでも、人じゃない私にくっついてないで。

 お前が人であるのなら。ここで、人として、人のために生きてみせろ――。

 そういうことなのかも、しれなかった。

 

「いかにも、あいつが望みそうなことじゃねえか」

「……そうですね。本当に」

 

 本当に、そう思う。

 

「笑っちまうよな。妖怪のくせして妖怪退治してたやつが、なーに偉そうなこと言ってんだか」

「ええ、まったくです」

 

 でも雪にも秀友にも、笑いこそすれ銀山をなじる色はない。

 雪たちは、銀山がいなくなって悲しかった。今だって悲しい。そしてたったいま銀山が妖怪だったと知って、戸惑ったし、まったく辛くなかったといえば嘘になろう。

 けれど、雪はこう思うのだ。

 ――こんな思いをするくらいなら、自分たちははじめから出会わない方がよかったか?

 否だ。この答えだけは未来永劫絶対に変わらない。悪魔から何度しつこく問い掛けられても、何度でも、何度でも、雪たちは胸を張って答えよう。

 

 あの人と出会えて、本当によかったと。

 

「っとに、あいつらしいよ」

 

 空を見上げ、陽光に目を細める秀友の面差しに、迷いなどほんの一片足りとも浮かんではいない。

 

「だから、無事だったってんならそれでいいさ。会いたくないかっつえば……嘘にはなるけど」

「いいんですか? 秀友さん、銀山さん離れできてませんよね?」

 

 うぐ、と秀友は呻き、それでもすぐ持ち直して、

 

「今更捜しになんていけねえよ。オレたちの生活がめちゃくちゃになっちまうし……それで仮にあいつを見つけたとしても、ぶん殴られるだけだろうさ。子ども放っといて(・・・・・・・・)捜し回ってたってんなら、尚更な」

 

 光の先に、あの人の姿を見るように。

 

「ここで生きてやるさ。……あいつに約束した通り、立派な陰陽師として」

 

 ――ねえ、銀山さん。

 雪は心の中で、この世界のどこかにいるあの人を想う。

 秀友さんは、立派になりましたよ。まだちょっぴりだけ、銀山さん離れできてませんけど。

 でも、本当に、立派なひとになったんですよ。

 あなたはどこかから、見ていますか――?

 

「……もしかしたら、秀友さんが立派になったら会いに来てくれるかもしれませんね。歳を取ったふりをして」

「いやーどうかなあ。それやったら芝居がばれちまうし。まあもうばれてんだけどさ」

 

 雪も、あの人がもう一度会いに来てくれることはないのだろうと思う。けれど一方で、あの人がどこかで生きているのなら、ある日ひょっこりと何食わぬ顔で雪たちの前に現れそうだとも思うのだ。

 

「……けど、そうだな。もしもそんなことがあったら――」

 

 そのとき、秀友がおもむろに雪へ背を向けた。故に表情は見えないが、背中から感じる雰囲気が傍目でもわかるほど明らかに変質する。

 なんだろう、今までの透明な感じと違って、やや悪どいというか。両手を胸の位置くらいまで上げ、猫が爪を立てるように指を曲げて、ひひひと肩を薄気味悪く震わせながら、

 

「そんときは、一発ぶん殴ってやりたいけどなぁ……! オレだけならまだしも、雪さんまで本気で泣かせてくれやがったわけだしぃ……!」

 

 ひえ、と雪はひきつった。ごめんなさい銀山さん、やっぱりこの人ぜんぜん吹っ切れてません。

 でも、仕方がないのかもしれない。それだけ秀友にとって、あの人はかけがえのない友だったということだ。あの人が行ってしまった理由には納得しているし、捜すつもりがないのも本当だけれど、どこまで突き詰めても悔しいものは悔しい。せめてもう少しだけ、この世界が今よりも違う形であったなら――。

 吐息。

 

「……」

 

 秀友が、懐から一枚の札を取り出す。それはたぶん秀友が、雪の次に大切にしている宝物。十年の歳月でやや擦り切れ、くたびれてしまった古めかしい――けれど今なお、あの人の確かな想いが宿った御札。

 もう、恨み言は終わりだった。

 

「……お前こそ、妖怪らしく生きるなよ」

 

 呟く。

 

「お前が本当に、『銀毛十一尾』だってんなら。人なんか襲わねえで、人に寄り添って生きてみろよ。また好き勝手に余計な世話焼いて、人にも妖怪にも囲まれて、精々幸福に生きやがれってんだ」

 

 空へ、笑う。

 

「なあ、ギンよぉ。――オレがお前に望むのは、そういうことだ」

 

 風が吹く。今日は日の出の頃からずっと穏やかな天気だったのに、雪が思わず髪を押さえるほどのつむじ風は、まるで秀友の言葉を、あの人の下へ届けに行くかのようで。

 だから雪も、風が行く先に想いを乗せる。

 

 ――どうかこの風を、世界の何処かで、あの人も感じていますように。

 

 

 

 

 

 翌朝、雪たちの下に齋爾の訃報が届いた。

 風が止むような、静かな最期だったと。

 そう、聞いている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 月見は、知るまい。

 あの気難しい御老体が、まさか自分たち(・・・・)にそこまで偉大な影響を与えていたとは露も知るまい。

 

 御老体の気まぐれは、良くも悪くも未来の形を大きく変えた。

 秀友に己の術を授けたこと。

 月見の正体を明かしたこと。

 もたらされた二つの置き土産は、神古の血筋だけの秘伝として子から子へと受け継がれ――数百年を下った後の世で、一人の少女と出会うのだ。

 

 月見は、知るまい。

 だから夢から覚めたら、自分がぜんぶを教えに行こう。骨の髄まで、わからせてやろう。

 

(首洗って待ってろよ――ギン(・・)

 

 夢の中の世界で、志弦は。

 首から下げた小さな巾着――その中にしまわれた大切なお守りを、そっと両手で包み込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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