銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色

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東方星蓮船 ⑨ 「REMINISCENCE ②」

 

 

 

 

 

 しばらくの間は、自分が目を覚ましているのだということすら気づかなかった。

 このとき己はまだ、目の前の景色を現実とも夢とも認識していなかった。形と色がある、という理解すらなかった。脳が眠りから覚めておらず、意識などあってないようなもので、単に「目を開ける」という動作だけを行っていた状態に過ぎなかったのだと思う。

 少しずつ、水が染み込むように、脳が己の状況を認識し始める。

 木、だった。目の前にあったもの。目の前といっても、手を伸ばしても到底届かない高い位置。枝葉はなく、切り落とされ、削られ、組み合わされて骨組みとなって、視界を覆う木目の格子を成している。

 木の天井。

 ようやく、自分が仰向けに倒れていると気づいた。とはいえ、気づいたところでどうという話でもない。氷が溶けていくような思考は、体を動かすという選択肢までは未だ到達できていない。ただ、意識したわけではないけれど、胸元が浅く動いて、音もなくそっと空気を取り込んだ。

 なんだか眠かった――し、眠気に抗おうという気も、起きなかった。

 いつの間にか、まぶたが下りていた。目覚めかけていた頭がまた動きを止めていく。意識が水底に沈んでいく。自分という存在が崩れ落ちていくような感覚の中、もう一度ゆっくりと、息を吸おうとした。

 

 ――ぎ、

 

 と。軋む物音が聞こえて、視界に再び光が戻ってきた。

 今度は、体を動かすという選択肢まで奇跡的に思考が到達した。それで動かせたのは、首だけだったけれど。立ち上がるのと大差ないほどの労力でようやく首を横に傾け、音の出所に目を凝らした。

 夕日。

 人影。

 声が出た。

 

「――誰?」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――誰?」

「……!」

 

 月見の反応は早かった。小屋の整理整頓(・・・・・・・)の手を止め、思考を一足飛びで省略し、振り向く頃には完全に人への変化を完了させていた。

 ということはつまり、月見は妖怪の姿だったのだ。術を行使する(・・・・・・)なら元の姿でいた方がやりやすいし、どうせまだ目を覚ましはしないだろうと高を括ってしまっていた。

 己の油断も無理からぬものだと言い訳をしたい。

 まさか、拾ったその日の夕方にもう目を覚ますなんて。

 

「……やあ。目が覚めたかい」

 

 平静は、問題なく装えたと思う。向こうから見れば、月見の位置はちょうど逆光だ。燃える夕日にやられてそう細かな姿まではわからなかったはずだし、最悪は目覚めたばかりの夢現(ゆめうつつ)で押し通せる。

 小屋の隅に、寝転がる小さな人影がひとつある。

 少年である。恐らく成人は迎えておらず、けれど着々と近づいてくる親離れの時に備え、少しずつ独り立ちを覚え始める齢だろう。若さが抜け切らないせいで中性的な顔立ちに見えるが、男で間違いはない。怪我の手当てをする中で、月見は実際に確認している。衣を着られたままでは満足に手当てできないし、そもそも怪我人をずぶ濡れのままにしておく道理もないので、人命救助のための不可抗力だったと釈明しておく。

 今は、ひと回り以上身の丈に合っていない直垂(ひたたれ)を着ている。衣が乾くまでの間、まさかなにも着せないで放置するわけにはいかないから、ひとまず月見の予備を充てたのだ。無論、大人と子どもの身長差である。袖も裾もあちこちがブカブカなせいで、ともすれば布団を被って寝ているようにも見える。

 板敷きを軋ませ少年の枕元に座り、足元へ問う。

 

「喋れそうか?」

「……」

 

 まだ、意識がはっきりしていないのだろう。瞳の焦点は定まりきっておらず、意識して月見を見ているというより、動くものをただ無意識に追っているだけにも思える。

 少年の口が緩慢に動き、うわ言のような言葉をこぼした。

 

「ここ、は……?」

「山小屋だよ」

「や、ま……?」

 

 掠れた声音でも、そこには強い困惑の色が浮かんでいた。

 月見は少し考え、

 

「自分のことは? なにがあったか、覚えているか?」

「……、」

 

 少年が答えるまでには、長い間があった。ひと呼吸が過ぎ、ふた呼吸が過ぎ、もしもこれ以上沈黙が長ければ、月見は聞こえなかったのだと思って問い直していただろう。

 

「……わから、ないです」

 

 虚ろに天井を見上げ、少年はもう一度、

 

「……思い、出せません」

「……そうか」

 

 怪我による一時的な記憶の混乱か、或いは事故の記憶そのものが抜け落ちてしまったのかもしれない。もし山の斜面から滑落し、濁流に流され、あわや死にかけたのだとすれば。まだ若い彼は相当な恐怖に襲われたはずだし、脳が本能で記憶を閉ざしてしまった可能性も否定はできない。

 

「まあ、無理に思い出そうとすることもないさ。今は体を休」

「思い、出せないんです」

 

 月見の言葉を遮り、少年が繰り返した。今度は、少しだけ強く。

 

「ここ、は、どこですか」

 

 縋るように、月見へ。

 

「ぼく、は」

 

 或いは自分自身へ、彼はこう問いかけた。

 

 

「――ぼくの名は、なんですか」

 

 

 ――もしかするとこれは、思っていたより事かもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 結局少年は、名前を含め、自分自身に関する一切の記憶を思い出せなかった。

 人間には、ごくまれにそういうことがあるのだ。脳への物理的な衝撃や外傷が原因となって、一時的ないし恒久的に記憶の欠落を起こす場合がある。知識としては知っていたが、目の前でまさにその瞬間を目撃したのはさしもの月見もはじめてだった。

 

「……そうですか。ぼくは、川辺に倒れていたんですね」

「ああ」

 

 月見が今に至るまでの経緯を説明しても、少年は赤の他人の話を聞くようだった。月見が急拵え(・・・)で用意したござを背に引き、仰向けで眠る体勢のまま、彼はゆっくりと首を振った。

 

「やっぱり、なにも思い出せません」

「無理もない。よく、その程度の怪我で済んだものだ」

 

 右脚は恐らく折れており、大事をとって月見お手製の添え木で固定している。ひと目ではっきりとわかる外傷はそれくらいだが、服を脱げば体の至る箇所に打撲や擦り傷の跡が刻まれており、少年を襲った不運が如何なものであったかを物語るのだ。

 少年が、目の前に掲げた右手をそっと閉じ、開く。

 

「……助けていただき、ありがとうございます。このような手当てまで」

「付け焼刃の応急処置だけれどね。右脚はできるだけ動かさないように」

「……」

 

 月見の言葉を、果たしてどこまで聞いているのか。少年はもやのかかった眼差しで横の月見を見上げ、ひとつ、息をする間を置いてから、

 

「ところで、あなたは……?」

「ん?」

「あなたは、何者で……いえ、その。ええと」

 

 ああ、と月見は察し、

 

「ただのしがない、まあ、世捨て人みたいなものさ。お前とは、今日はじめて出会ったばかりだ」

「……そうですか。申し訳ありません、名前も思い出せず」

「いいんだよ。……ああ、名前といえば」

 

 月見は立ち上がり、部屋のもう片方の隅にまとめていた荷物から巾着を手に取った。差し出されたそれを、少年は未知の物体に触るような手つきで受け取った。

 

「お前の持ち物だよ。他の物はみんな流されてしまったんだろうけど、それだけ辛うじて残ってた。名前が書いてあるだろう」

「なまえ……」

「お前の名前かどうかはわからないし、それどころか人の名前でもないかもしれないけど。呼び名がないのも不便だから、記憶が戻るまでの間、それをお前の仮の名前としよう」

 

 これで「思い出しました、これはぼくの名前です」となれば楽だったろうが、そんな都合のよい話もなく、少年は刺繍された文字を見つめてきょとんとしている。

 記憶が戻るまでか、怪我が治るまでか。どちらにせよ、この子とは少しばかりの付き合いになるのかもしれないなと思いながら。

 

「――『命蓮』。私はお前を、そう呼ぶよ」

 

 ここから、始まったのだ。人を偽った月見と、記憶を失った「命蓮」の、ほんの六日間だけの山小屋生活。

 もちろん当時の月見は、命蓮に姉がいて、その名が「白蓮」であることも。

 その姉に、千年以上経った後の世で出会う運命にあることも。

 どれもこれも、知る由もなかったのである。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 今度は、目を覚ました瞬間にそうだとわかった。

 赤く薄暗かった一度目とは違って、屋根の骨組みに走る木目もはっきり判別できるほど明るかった。視界の根元にある突き上げの窓が開いており、背の低い朝日が枠の形に切り取られて存分に差し込んできている。葉擦れとともに流れる爽涼とした空気は肌寒いくらいで、深く取り込むと体が澄み渡るように目覚めていくのを感じた。

 どこか近くの木で、鳥が鳴いていた。

 

「……」

 

 目覚めてみるとすべて元通りだった、なんて都合のいい話はもちろんなく、やはり己の過去の記憶は黒に潰され途絶していた。どうして川辺に倒れていたのか、なぜ山を歩いていたのか、それより以前はどこでなにをしていたのか、そして己の名前も、掻き消せない闇の奥に沈んで輪郭すら掴めない。

 唯一記憶にあるのは、昨晩のこと。

 

「……命蓮」

 

 己の右手首に紐を通して巾着が掛かっており、素人仕事とは思えない流麗な刺繍でその名が刻まれている。

 流されず残った数少ない自分の持ち物らしいが、これが本当に自身の名前なのかはわからない。或いは、人の名前ですらないのかもしれない。しかしなんにせよ、記憶を失った自分にとっては考えたところで詮のないことだった。

 瞳の焦点を手元から奥へ伸ばし、命蓮は小屋の風景を意識に取り込む。昨晩はとてもそこまで気が回らなかったが、こうして澄んだ朝日が差し込んでみると、山の中とは思えぬほど人の息遣いがある空間だった。出入り口となる引き戸は年季が入った歴戦のツワモノで、入って横手にはかまどや水甕(みずがめ)が置かれている他、桶や薪を無造作に積んだ山があるから、土間になっていると窺える。そこで履物を脱いで床に上がれば、中心には囲炉裏が鎮座し、四辺の壁には縄や竿、魚籠(びく)、鎌、鉈などの生活の道具が引っ掛けられている。或いは木材を組んで作った簡素な棚があり、漆器や焼き物、布の類が統一感もなく収められている。正面の壁は一部が引き戸となっていて、どうやら奥にはまた別の部屋が続いているらしい。

 ほんの羽休めや雨風凌ぎ、もしくは一晩を明かすためにこしらえられた休憩所とは明らかに違う。

 そんな大層立派な小屋の片隅に、自分は寝かされているようだった。

 

(……あの人は)

 

 自分以外に、人の姿はない。すなわち、命蓮を助けてくれたあの男が見当たらない。

 外に出ているのだろう、と思ったが、少ししたところでふと、あれ(・・)は本当に現実だったのかという疑念に囚われた。昨日の記憶はすべて怪我にうなされて見た幻で、あの人は、はじめからいなかったのではないかと。

 そう考えた途端、怖くなった。自分の記憶がどこまで正確かはわからないけれど、少なくとも昨晩の出来事すら曖昧な手負いであり、そしてここがどこか見知らぬ場所であることだけは間違いない。

 もしも自分が、本当に独りだったら。

 まこと情けない話ではあったけれど、このときの己はまだ、成人すら迎えていない一介の子どもだったのだ。

 

「っ……」

 

 咄嗟に起き上がろうとし、その瞬間駆け抜けた想像以上の痛みに命蓮は呼吸を見失った。だが、安静にして寝ているべきだとは思わなかった。歯を食いしばって痛みを押し殺し、腕を杖にして懸命の力で、

 

「――こらこら、なにやってるんだ。安静にしてろと言っただろう」

 

 脱力した。視界が一気に下へずり落ち、床に這いつくばった恰好で命蓮は頭上の方向を見遣った。戸が開いていて、部屋の中により充分な朝日が差し込んでいる。

 あの男だった。

 

「あ、」

「やあ。起きたかい」

 

 昨晩の曖昧な記憶に、一気に色が甦った。改めて見てもそう年を取った男ではない。外見の印象なら、命蓮よりひと回り半程度の差であろう。場違いなほど暖かい顔立ちである。確か昨晩、彼は己を世捨て人だと言っていたはずだが、これが山にこもって体ひとつで命をつないでいる猛者の顔とは到底思えなかった。しかし一方で、仙人のようといえば語弊はあるが、柔和な面持ちと耳に優しい声音が反って妙な説得力となって己の胸に落ちてくる。

 樹のような人だ、と思った。深く根を張り長い時代を見つめ続けてきた、大きな樹のよう。年齢ひと回り程度とは思えない自分との差が、世を捨てた人間の風格なのだと言われれば、そうなのかもしれないなと命蓮は漠然と思う。

 至ってありふれた若葉色の直垂を身にまとい、脚に脛巾(はばき)を当てた姿で戻ってきた彼は、右手に杖を携え背に背負籠(しょいこ)を載せていた。

 

「気分はどうだい」

「あ、ええと……気分は、悪くないです」

「そうか。『百病生於気(ひゃくびょうはきよりしょうず)』。気分が悪くないのはいいことだ」

 

 どこかで聞いた覚えのある言葉だが、それがどこだったかは思い出せない。

 男が背負籠を床に置き、脛巾を解き始める。

 

「それで、どうかしたのか?」

「え?」

「さっき、無理に立ち上がろうとしてただろう。なにをしようとしてたんだ? 水でもほしいか」

 

 命蓮は言葉に窮した。昨晩の記憶が本当だったのか怖くなって、あなたを捜そうとしていた――正直に答えるには大変情けなくて恥ずかしい。

 束の間だけ上手い言い訳を考え、結局なにも思い浮かばなかったので、

 

「――ええと、そんなところです、ね」

 

 まあ、言われてみれば喉が渇いているのは事実だ。

 了解、と男は棚に手を伸ばして手頃な器を取り、水甕の蓋を開けて水を汲んだ。履物を脱いで命蓮の傍までやってくると、一度器を置いて、

 

「どれ、手を貸すよ」

「へ、」

 

 いきなり手を回されたので、命蓮は面食らった。

 

「あ、いや、いいですよそんな」

「起き上がれもしなかったのによく言う」

 

 うぐ、と呻く。しかも気が動転したせいか体が固まって、結果として命蓮はされるがまま男に抱き起こされる羽目となってしまった。自分一人で起き上がろうとしたときはあれだけ大変だったのに、痛みをほとんど感じさせない、母も白旗を揚げるほど繊細で優しい手つきだった。

 

「ほら」

「……ありがとうございます」

 

 面目ない思いだったが、終わってしまったことは仕方がない。命蓮は潔く諦めて器を受け取り、胃を驚かせないようゆっくりと口へ傾ける。常温の水が、起き抜けの身にとっては反ってちょうどよく喉に馴染む。

 

「なにか、思い出したことはあるかい」

「……いえ。特には、ないです」

 

 男はこれといって表情を変えず、

 

「そうか。……これは気休めだが、体の方は心配しなくていい。少なくとも歩けるようになるまでは、ここでゆっくり休んでいくといいさ」

「……」

 

 命蓮は男を見る。世捨て人みたいなものだ、という言葉。しかし俗世を断つ年齢にはいくらなんでも早すぎるし、昨日の話では、ここは山をそれなりに登った奥地だという。加えて、僧が日頃から修行のため足を踏み入れる霊山でもある――事実として、己がその最中に怪我をしたのだろうし。そんな場所にわざわざ居を構えているのも妙だと思ってしまうのは、命蓮が世を知らない若造だからなのか。

 なにより、「みたいなもの」とは一体どういう意味なのか。

 

「訊いても、いいですか」

「うん?」

「あなたはどうして、このような場所で……」

 

 男はやはり表情を変えず、ただ視線を横にずらし、やや黙考する素振りを見せた。腕を組み、

 

「どうして、ねえ……どうしてだろうね。なんとなく?」

「……はあ」

「こういう暮らしも、面白いかと思ってね。飽きたら麓に降りるさ」

 

 変なの。ってか、「みたいなもの」ってそういう意味か。要するに興味本位の遊びみたいなものか。

 ひどい肩透かしを食らった気分だが、けれどそういう奇妙な感性の持ち主こそが、老いてから本当に世捨て人となったりするのかもしれないと思った。

 

「では、お名前はなんというのです?」

「ああ、好きに呼んでくれていいよ」

「は、」

「世を捨てた人間に名前なんてないさ。好きに呼んでくれ、もちろん常識の範囲内でね」

 

 三拍掛けて男の言葉の意図を察した命蓮は、巾着の刺繍を掲げて叩くように指差し、眼前の自称名無しの世捨て人を半目で睨みつけた。

 

「ぼくの記憶が正しければ、『呼び名がないのは不便だ』とは、あなたの言葉でしたよね」

「さて、そんなことも言ったかな」

「世を捨てたのも、ただの興味本位ですよね。飽きたら麓に戻るって。戻ったとき名前がないのでは、それはさぞかし不便でしょうね」

「さぁてね」

 

 男は喉でくつくつと笑い、やおら立ち上がると、置きっぱなしにしていた背負籠の方へ行ってしまった。中を覗き込み、この話は終わりだと言わんばかりに、

 

「食欲はあるか? 食べられる物、いろいろ取ってきたよ」

「……」

 

 ――本当に、変な人だ。

 もう少し食い下がるかどうか悩んだが、なにをどう訊いてもはぐらかされるだけに思えたので命蓮は諦めた。人には言えない後ろめたい事情があるわけではなく、単に素性を明かさない状況を楽しんでいるような、そんなある種の子どもらしさが彼からは感じられた。

 奇妙で、不思議で、謎めいていて――でも、悪い人では、ないのだと思う。

 吐息。

 

「……食欲は、あります」

「そうか、それもいいことだ。じゃあ今から囲炉裏で、」

「ですが」

 

 男の言葉を、はっきりと遮る。

 尖らせた目つきを、緩めはしない。命蓮は見たのだ。つい今しがた、背負籠が内側から小さく揺さぶられたのを。

 なにか、生き物が入っている。

 

「ぼくは、仏僧です」

「? そうだね、裳付衣(もつけごろも)を着ていたから。ああ、衣は外に干してるから乾いたら」

「仏教では、戒律で肉食(にくじき)を禁じています」

 

 今の命蓮は『思い出』をほぼすべて失ってしまったが、『知識』だけは残されている。特に己が信仰していたと思われる、仏教に関する知識が。

 振り向いた男は一瞬、「なんだそりゃ」みたいな顔をした。一瞬だ。次の瞬間には腑に落ちた様子で頷き、

 

「ああ、そういえばそんなものもあったね」

「なにを取ってきたんですか?」

 

 男は、笑顔で答えた。

 

「魚だよ」

「そうですか」

 

 命蓮も、笑顔で答えた。

 

「なら、いいです」

 

 命蓮の知識にある戒律で日頃から禁じられている肉食は、牛や鶏など、主に地上に足をつけて生きる動物たち。

 魚は、禁じられていない。

 

 

 

 

 

「――ところで仏教は、元々は肉食を禁じていなかったそうだね」

「?」

 

 囲炉裏で魚が焼けるのを待つ間、男が出し抜けにそんなことを言った。

 命蓮は首を傾げるように、頭を男の方へ傾けた。

 

「なんですか、突然」

「おや、違ったかな。元々の比丘(びく)は食べ物をすべて托鉢(たくはつ)で得ていたから、肉でもなんでも、いただいた物はありがたく食べていたって」

「いえ、違っては……」

 

 命蓮は眉間にやや皺を寄せ、頭の中をひっくり返す。

 

「違っては、いないです。『三種浄肉(さんしゅのじょうにく)』、ですよね」

「ああ、そんな名前だったかな」

 

 そう教えられたはずだ。もちろん、いつどこで誰から教わった知識なのかは、まったく思い出せないけれど。

 三種浄肉とは、果てしない大海原を越えて長い長い大地を踏破した遥か彼方、仏教という教えが興った国に伝わる『食べてもよい肉』の条件だったはずだ。見・聞・疑――すなわち「殺されるところを見ていない」、「自分が食べるために殺されたと聞いていない」、「自分のために殺された疑いがない」。この三つを満たす肉を托鉢で受けたならば、不殺生には当たらないから食べてよいと考えたのである。その国では僧侶が托鉢によって日々の食べ物を得るのはごく自然な風習で、仏教の創始者である釈迦も例外ではなかったらしい。

 ということを素直に答えたところ、

 

「へえ……小さいのによく知ってるね」

 

 命蓮はむっとした。

 

「子ども扱いしないでください。これでも真面目に修行して……たのかは、わかりませんけど」

 

 笑われるかと思ったが男は真っ当に頷き、

 

「きっとそうだと思うよ。お前くらいの子どもが山修行なんて普通はしない。案外、将来を期待されてる天才児だったりするんじゃないかい」

「はあ……そうなんですかね」

 

 実感と呼べるものはさっぱりなくて、なんだか見ず知らずの他人の話を聞いているみたいだった。むしろ天才児どころか不信心な問題児で、見かねた仏様がバチをお与えになったのでこんな怪我をしたのだ、と考えた方がしっくり来る気がする。

 自分は、一体どんな人間だったのだろう。

 

「……それで、三種浄肉がどうかしましたか?」

「ああ。その考え方だと、この魚は食べられないと思ってね。私がお前のために捕ってきたものだから」

「……確かに、そうですね」

 

 頷きつつも、じゃあ食べるのやめます、とは思わなかった。だってそれは遥か遠くの異国の話で、この国では違うのだし。兎は鳥の仲間だから大丈夫だ、と屁理屈をこねて肉食している僧侶だっているのだし。第一少し前からだんだんといい匂いが漂い始めてきており、命蓮の腹の虫は居ても立ってもいられなくなりつつあるのだ。

 やっぱり自分は、不信心な問題児だったのかもしれない。しかし男は、むしろ命蓮を褒めるように笑みを返してきた。

 

「それでいいのさ。どこの寺院にも、より厳しい戒律を課してこそ徳が高まる風に考えるやつがいるだろう。信仰心を見失わないために戒律を課すはずが、いつの間にか厳しい戒律を課すこと自体が目的になってるんだな。仏様もそこまでしなくていいのにって呆れているから、お前もほどほどにね」

 

 命蓮は目を丸くした。

 

「……詳しいの、ですね。仏道を学んだ経験があるのですか?」

「いいや。なに、これでも結構長生――」

 

 一瞬の間、

 

「――いや、なんでもない。多少書物を読んだり、説法を聞いたりした程度だよ」

「……そうですか」

 

 当然、納得はしなかった。今のはまるで、実際に仏と話したことがあるかのような口振りだった。もちろん偶々そういう言い方になってしまっただけなのだろうが、それにしたって、多少説法を聞いただけの人間がここまでの話をできるようになるものなのだろうか。

 本当に、一体何者なんだろう。

 

「あなたはここで暮らし始めるより前、一体なにを……?」

「旅人、かな。多少陰陽術をかじっただけの。だから仏教は本当に門外漢だよ」

 

 ――陰陽術。

 それは貴族を中心として、仏教に勝るとも劣らぬ隆盛を極める呪術体系の名。日常のしがない占いから火難水難に始まる数多の厄除け、果ては妖怪への対抗術や『式神』と呼ばれる超常的な使役術まで、広大に構築された知識の網は仏教にも通ずるものがあるといわれる。

 心を叩かれた、気がした。ここは人の足もほとんど入り込まない山の奥地で、おまけに命蓮は荷物のほとんどを川に流され、怪我で起き上がるのもままならない。よって傷が癒えるまでひたすら安静にする他ないが、座禅も組めず読む書物もなく握る数珠もなく、できることといえばひたすら瞑想に耽って、知識として頭に残っている経を口ずさむくらいだろう。

 さぞかし退屈な療養生活になる、はずだったのだ。

 

「でも、多少話し相手くらいにはなれるだろうからね。怪我が治るまでは退屈だろうし、要望があればなんでも言ってご覧」

「じゃあ」

 

 願ってもないことだった。

 自力で起き上がれもしなかった体の具合から考えるに、怪我が充分なまで癒えるのは当分先の話になるだろう。瞑想と読経だけで過ごすのはいくらなんでも味気ないし、そんなものは体が動くようになってから思う存分座禅を組んでやればいい。

 今は、今しかできないことをやる。

 そう考えると、目の前の男に頼む要望も自然と見えてくる。つい今しがた彼が言った通り、とことん話し相手になってもらえばいいのだ。それは、彼に面倒を見てもらう今しかできないことだから。

 もっとも話をするのは、命蓮の方ではなく。

 

「――ぼくを、教育してくれませんか」

「……うん?」

 

 ここから、始まったのだ。記憶を失った自分と、名前すら知れない謎めいた男の、ほんの六日間の山小屋生活。

 命蓮の、たった六日間だけの――『父』の、話。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 初日は、陰陽術のいろはを教わるだけであっという間に終わった。

 正直なところ、ちょっとした話だけでも聞ければ御の字だと思っていたのだが、男の執る教鞭は一周回って拍子抜けするほどまともだった。熱心とは言わないまでも、命蓮としっかり向き合って真摯に語ってくれるものだから、こちらもついついのめり込んですっかり時間を忘れてしまっていた。

 途中、昼前と夕暮れ前、彼が食料を取りに外へ出て行ってしまう半刻程度の時間が、なんとももどかしくなってしまうくらいには楽しかった。待っている間は瞑想や読経をして過ごしたが、早く続きを教わりたい気持ちの方が強いせいでほとんど身が入らなかった。記憶が戻るきっかけにも、これといってならなかった。

 とはいえ、悲嘆はない。むしろ明日を迎えるのが楽しみだとすら思う。もしかすると自分は仏僧ではなく、陰陽師の方が向いているのかもしれないと感じるくらいだった。

 

「命蓮、こいつを飲んでおけ」

「……?」

 

 夕飯を終え、もうほどなくして日が尾根に沈み切る頃合い。薄暗くなりつつある夕暮れの小屋で、命蓮は男から一枚の葉と水を差し出された。葉の上では、飲もうと思えばほんの一口で飲める量の粉末が、指先大の小さな山を築いていた。

 

「薬だよ。脚の怪我にも効くだろう」

「これは、あなたが?」

 

 こんなものまで出てくるとは思っていなかった命蓮は目を丸くする。とはいえ、彼が薬草の類を煎じて作り置きしていたものだとしても、そう突飛な話ではないなとも思う。この男なら、やりかねない。

 男は首を振り、

 

「いや、これは貰い物だよ。まあ割となんにでもよく効く薬、らしい」

「……大丈夫なんでしょうね、それ」

「効き目のほどはさておき、毒でないことだけは保証しよう」

 

 それからふと、口端を曲げてクスリと笑い、

 

「ああでも、かなり苦いからな。そういうのが嫌いなら、無理にとは言わないよ」

「……むっ」

 

 命蓮は口をへの字にした。目の前の男と背丈で比べてしまえば、確かに自分が子どもみたいなものなのは否定できない。一人では満足に動くこともできず、なにからなにまで手を貸してもらいっぱなしなところも、この人からすればまさしく子ども同然なのだろう。

 故に、面白くなかった。

 

「子ども扱いしないでください。薬程度、飲めます」

「ふふ、そうか」

 

 仮に子どもだとしても、苦い薬を嫌がるほど情けない幼子ではない、はずだ。怪我の経緯からして、自分が山を行脚していた修行僧なのは間違いないのだ。僧が薬如きに負けてなるものか。

 木の葉を傾けて薬を含み、余裕の澄まし顔をしながら水で一気に流し込む、

 

「――げほ!? うえ、げほ、げほごほっ!?」

 

 むせた。自分でびっくりするほど盛大にむせた。間一髪で飲み込んだので、幸い場を汚すことこそなかったが、

 

「に、苦!? こ、これ、なん、げほ!?」

「だから言っただろう、苦いって」

「い、いや、苦すぎっ……!? み、水をもう一杯……!」

 

 舌がのたうち回ってひん曲がるような、七転八倒のとんでもない苦さだった。苦すぎて、こいつ本当は毒盛ったんじゃないか、と一瞬本気で信じられなくなった。

 男が水甕から汲んできた二杯目で、口内を念入りに洗浄する。しかしそれでも、舌の上に強烈な邪悪が残り続けている。舌が馬鹿になった。

 

「うえええ……」

「そんなに苦かったか」

「苦すぎですよ!?」

 

 命蓮は椀を床に叩きつける。乱暴な扱いをされた体が抗議の痛みを上げるが、そんなの知ったことではない。

 

「ど、毒じゃないでしょうねほんとに!?」

「大丈夫だって。苦いだけで、それ以上はなんともないだろう? 『良薬は口に苦し』だよ」

「……これで効かなかったらもう二度と飲みませんから」

 

 命蓮の抗議の半目を躱すように、男はくつくつと笑って立ち上がり、

 

「さて、もうすぐ日も落ちる。今のうちに湯を沸かすから、体でも拭いておけ」

「……はぁい」

 

 部屋を満たす夕日の色が、徐々に暗く黒く淀んできている。もう少しもすれば完全に日が落ち、この山すべてを等しく底知れぬ闇が包むだろう。火を灯せば光はできるが、貴重な燃料を使ってまで夜を更かすくらいなら、潔く早寝してその分早起きするのが常識だ。

 沸いた湯で体を拭き、寝支度を整え終わる頃には、ちょうど日も落ちて互いの顔も見づらいほどになった。囲炉裏の明かりはあるものの、やはり闇の中では足元をほのかに照らす程度で、あってもなくても大差ないような心もとない光だった。

 

「命蓮、これ」

「?」

 

 体を拭き終えた命蓮が悪戦苦闘しながら直垂を着込んでいると、男が外からなにかを持って戻ってきた。薄暗くてよく見えないが、受け取ってみると自分が元々来ていた裳付衣らしかった。

 そういえば、外で乾かしてるって言ってたっけ。

 

「忘れるところだった。乾いたみたいだから返すよ」

「……ぼくもすっかり忘れてました。すみません、すぐ着替えますから、」

「そんなのは明日でいいさ。今だって、着るのも一苦労だっただろう?」

 

 ぐうの音も出ず命蓮は舌を巻いた。この宵闇の中、つい先ほどまで外で衣を取り込んでいたというのに、どうしてそんなことまでぴたりと言い当てられるのだろう。山で自然に囲まれ生活していると、そういう感覚も自ずと磨かれるものなのだろうか。

 

「その直垂も、ここにいる間は貸すよ。下に引くなり上に掛けるなり、好きに使ってくれ」

「……なにからなにまで、本当にありがとうございます」

 

 今の自分では居住まいを正すこともできないけれど、命蓮は男に向けて精一杯頭を下げた。

 もしも、この人に助けられていなかったら。人を拒む山でたった一人、身動きを取ることもできず、なにもできないまま野垂れ死んでいたかもしれない。山で修行をする僧の中には、命蓮のように怪我をし、しかし命蓮とは違って誰の助けも得られず、そのまま死出の旅に逝く者もいると。知識としては、残されている。

 男はまるで事もなげだった。

 

「なあに。ゆっくり休んで、でも早く怪我を治すこと。それが私にとって一番の礼だよ」

「……はい」

 

 命蓮の口元に、為す術もなくよじれた笑みがにじむ。

 ――本当に、この人は。

 

「さあ、さっさと寝た寝た」

「わかりました」

 

 体に痛みが走らないよう、命蓮は両腕を使って慎重に横になる。思っていたほど苦労しなかったのでほっとした一方、ふと疑問にも思った。

 なんだか、痛みが軽くなっている気がする。

 ただの偶然か、それとも命蓮の体が痛みに慣れたのか、或いは少し前に飲んだあの劇物が――。

 ――まさか、ね。

 いくらなんでも早すぎる。これが本当に薬の効き目だというのなら、まさに仙人の秘薬みたいな話だ。たまたまだろうと自己完結し、命蓮はゆっくりとまぶたを、

 

「――って、あなたは寝ないんですか?」

「ん?」

 

 気づいた。男が、囲炉裏の手前に陣取ったまま動く気配がない。囲炉裏の心もとない火で、男の輪郭だけがちょっぴり不気味に浮かび上がっている。顔はもはや見えないが、代わりに一笑の息遣いが返ってきた。

 

「私は、お前が寝たら寝るよ」

「……そうですか」

 

 本当に、不思議な人だ。そう年を取った見た目でもないのに、こんな山の中で一人で生活していて、まるで何十年も生きてきたような佇まいで、一方ではわざと名前を隠す子どもらしさも併せ持ち、陰陽術に精通し、海の向こうの仏教のことだって知っている。普通の人間のようであり、仙人といえば仙人のようでもある。

 けれど命蓮は、もう彼の素性をさほど疑ってはいなかった。

 今日一日の生活を通して、呆れるほどよくわかった。

 この人は、悪人ではない。

 この人といるのは、嫌ではない。

 だから、いいのだ。彼が本当は、何者であったとしても。

 揺れる囲炉裏の火に誘われたか、命蓮のまぶたが次第に重くなっていく。

 命蓮は最後まで、彼を見ていた。闇の中で浮かび上がる、不思議な男の輪郭を見つめていた。

 表情は、見えないけれど。その場を動かず、そっと自分を見守ってくれている男の姿を。

 

 父のようだと、命蓮は思った。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 命蓮よりあとに寝たくせして、翌朝命蓮が目を覚ますとすでに男はいなかった。起き上がり、床を這ってどうにかこうにか突き上げの窓を開けてみると、朝日はまだ昇りきっておらず、繁る枝葉の狭間で空がぼんやりと白んでいる程度の時間帯だった。こんなうちからもう食べ物を取りに出ているなんて、まるで貴族みたいな早起きだな、と命蓮は思う。

 そこではっとした。

 

「あれ? 体……」

 

 違和感を覚え、命蓮は己の体を見下ろす。そういえば昨日の自分は、確か一人で体を起こすのもままならない有様ではなかったか。それなのに自力で起き上がったのみならず、壁にもたれかかって外を眺めている今の状況は一体どうしたことか。

 

「まさか……」

 

 窓の格子を支えにして、命蓮は物は試しに立ち上がろうとしてみる。本当にできると踏んだわけではない。どうせすぐに体のあちこちから抗議の叫びが上がって、為す術もなく尻餅をつくのだろうと思っていた。

 痛めた右脚を庇いながらふんっと両腕に力を込めて、ああ片脚が動かせないだけでただ立つのもここまで重労働なのかと、

 歯を食いしばっているうちに、いつの間にか立ち上がってしまっていた。

 

「……、」

 

 これは本当にぼくの体かと、命蓮は他人の手足を動かしているような錯覚に囚われた。起き上がれもしなかった昨日の状態から、いくらなんでも治りが早すぎる。ひょっとすると右脚の傷もすでに癒えていて、実は庇う必要などまったくなくて、このまま普通に歩けてしまうのではないか――

 

「いっ」

 

 とは、さすがにいかなかった。右脚を恐る恐る前に出して体重を預けた瞬間、鈍い痛みが駆け抜ける直前の、全身の産毛が逆立つような寒気が頭の先へ駆け抜けて、命蓮は今度こそ尻餅でへたりこんだ。

 

「はは、やっぱりまだ無理か……」

 

 そりゃあそうだよなと肩を落とし、同時にちゃんと自分の体だとわかって安心もした。ともかく命蓮の体は、自分の想像よりも段違いの速さで回復を始めているらしい。

 どうしてだろうと考え、すぐに、昨日の殺人的に苦い薬が脳裏を過ぎった。

 まさか本当に、あの憎っくき劇物の効き目だとでもいうのだろうか。本当に秘薬の類だったとでもいうのだろうか。今の命蓮に残されている知識だけでは、どうすればここまでの薬が作れるのかまるで想像ができない。ただのしがない世捨て人が、どうしてそんな貴重なものを持っているのか。

 貰い物だと言っていたけれど、一体、誰から。

 

「……おや。なにやってるんだお前。また無理に動こうとしてたんじゃないだろうね」

 

 昨日と同じく背負籠を背負った恰好で戻ってきた男に、命蓮は目を眇めて、

 

「あなたは、本当に何者なんですか?」

 

 男は束の間虚を衝かれた顔をして、それから面白がるように微笑んで答えた。

 

「ただのしがない世捨て人だよ」

 

 もちろん、命蓮はため息を返した。

 

 

 

 

 

 この日も昨日と同じく陰陽術について講義してもらい、ついででもうひとつ、男が旅人だった頃の話も聞かせてもらった。陰陽術に詳しい点から予想はしていたが、当時はやはり妖怪退治で路銀を稼ぐこともあったらしい。もしかすると己の素性をポロッとこぼしてくれるのではないかと期待したものの、結局期待しただけで終わり、この日も気がつけば夕暮れになってしまった。

 

「苦ああああ」

「ははははは」

 

 夕食後、また例の劇物を飲まされながら命蓮は堅く心に誓う。

 この男、いつか一杯食わせてやるコンニャロウ。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 三日目は、これを抜きにして陰陽術を語ることはできぬといっても過言ではない、『式神』について教えてもらえることになった。主人の手足となって働く下級の精霊のことであり、密教でいう『護法童子』と似たようなものである。

 実演として男は桶と柄杓に式神を憑け、命蓮の目の前に座ったまま手も足も使わず水甕から水を汲んでみせた。決して飛ぶはずのない道具たちが宙を舞う摩訶不思議な光景に、命蓮はいとも容易く心を奪われた。

 

「へえ……! すごいですね。ぼくにもできるでしょうか」

「できないことはないさ。やってごらん」

 

 男の手解きを受けながら、命蓮は同じように桶と柄杓を動かしてみようとする。もちろん最初はまったく上手く行かず、陰陽術自体昨一昨日からはじめて触れ始めたばかりというのもあって、午前中のうちはロクに式神を降ろすことすらできなかった。

 

「くうう……っ」

「最初はそんなものだよ」

 

 男が昼の食料を取りに行っている間は例によって瞑想と読経で精神統一を図り、食事を摂ってから再度挑戦する。上手く行かないたび男は「失敗は成功のもとだよ」とか「はじめから上手くできたらただの天才だ」とか声を掛けてくれるのだが、その気遣いが逆に命蓮には癪だった。どうやら自分には、少なからず負けず嫌いな一面というものがあるらしい。

 なにくそ精神でがむしゃらに打ち込み、日も暮れ始める頃になってようやく、

 

「……や、やった! 見てください、やりましたよ!」

 

 男が手本で見せてくれた通り、桶と柄杓に式神を降ろして宙に浮かべることに成功した。

 命蓮は思わず両手を拳にして喜んだ。本来であれば手に持たなければ使えないはずの道具を、触れることもなく意のままに制御する――なんだか役小角みたいな超人になれた気がして、率直に言ってむくむくと興奮した。もしも体が動く状態なら、そのへんを走り回って雀よろしく小躍りしていたかもしれない。

 

「どれ、あそこの甕から水を汲んでご覧」

「任せてくださいっ」

 

 命蓮はやや鼻息を荒くしながら、水甕のところまで飛んでいくよう式神に命じる。命蓮の命に応え、桶と柄杓がふよふよと宙を横切っていく。すごい。何度見ても感動的である。これはもしかして、自分にはちょっとばかし陰陽術の才能があるのではなかろうか。僧よりも陰陽師になった方がいいのではなかろうか。ふんかふんか。

 恥ずかしながら、このときの自分はもう完全完璧に舞い上がってしまっていたのだ。

 なので桶と柄杓が途中で方向を変え、向かいの窓から外へ飛び出してそのまま戻ってこなくなったとき、なにが起こったのかしばらくの間本気でわからなかった。

 

「…………え、」

「あー……」

 

 男は途端に、慈しみで満ちた嫌に暖かな目をして、

 

「まあ、はじめのうちはね。式が甘いと精霊を制御しきれなくて、今みたいに逃げられちゃうことも、ままあるよ」

「え。じゃあ、あの柄杓と桶は」

「戻ってこないだろうから、あとで捜しに行かないとねえ」

「……、」

 

 最高の気分で天を舞っていたのが、地面にべしゃっと叩きつけられた気分だった。命蓮は恥ずかしさと申し訳なさで体がぷるぷるするのを感じながら、

 

「ご、ごめんなさい、せっかくの道具が……」

 

 大したことじゃないさ、とでも言いたげな男の穏やかな表情が、反って容赦なく心に刺さった。

 

「とりあえず、なくなっても大丈夫なやつで練習するとしようか」

「……はい」

 

 その後枝と葉っぱでしばらく練習を重ねるも、片っ端から逃げられたので。

 

「むうー!」

「はいはい、落ち着いて。苛立って上手く行くんだったら誰も苦労しないよ」

「ぐむうーっ!!」

 

 いかにも子供を宥めるかの扱いが気に入らず、命蓮は途中から完全にヘソを曲げた。自分が負けず嫌いで意地っ張り人間なのはもはや疑いようもない。男に鋭く何度も指を突きつけ、

 

「一日です! 絶ッ対、一日でできるようになってみせますからね!!」

「ふふ、そうか。頑張るんだよ」

「ぐむうううううっ!!」

 

 両腕を振り回しながら、男の肩をゲシゲシと叩く。まだ自由に歩くまでは至らないが、上半身だけならもうすっかり元気いっぱいなのだった。

 そして夕食を終えれば、今日も今日とてあの劇物が出てきやがるのである。

 

「はい、今日の分」

「……」

 

 憎っくき宿敵から命蓮はさっと目を逸らし、

 

「……いや、その。段々と体の具合もよくなってきましたし、もうそろそろ」

「そうか。まあ苦いからな、やっぱり子どもには無理」

「もうそろそろ慣れてきましたよ楽勝ですねこれくらい!!」

 

 なんだか次第に、自分の扱い方を把握されてきてしまっている気がする。

 

「あががががが」

「はっはっは」

 

 このおとこぜったいゆるさない。

 ……ああ、でも。

 

「偉い偉い。よく飲んだね」

「……子ども扱いしないでください」

 

 口振りに反して、内心そこまで嫌ではない自分がいた。

 自分は、記憶を失っている。父の顔も母の名も、それ以外の家族がいたのかどうかも今はまだ思い出せない。どこで生活していたのかも、どこからやってきたのかも、どうやってこの歳まで生きてきたのかもまるでわからない。

 思い出せない記憶は、存在していないのと同じだ。たとえ本当は違っているとしても、帰るべき家も会うべき家族も、「今」の自分にとっては存在しないも同然だった。

 だからそんな自分にとっては、この手狭な山小屋こそが「家」であり。

 そして素性の知れない、けれど世話焼きで心優しいこの男こそが――。

 

「さあ、今日はもうおしまいだ。子どもはさっさと寝る準備だよ」

「子ども扱いしないでくださいってば!」

 

 ああ、でもやっぱり、あんまり子ども扱いはしないでほしいと思う。

 ――こういうのも、まあ、悪くないかもしれないと。

 そう焦がれてしまう自分を今はまだ、首を振って誤魔化しておいた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 四日目ともなれば、朝起きたときに男がいないのにもすっかり慣れてしまった。どうせ食料を取りに行っているに決まっているので、構うことなく昨日の続きを始めることとする。枝や葉っぱの余りを引っ張り出し、式を降ろしては逃げられ、降ろしては逃げられを朝っぱらから繰り返す。ここまで来ればもはや意地のヤケクソだった。お陰様で、戻ってきた男からは負けず嫌いなことだと笑われた。誰のせいだと思ってるんですか、と睨みつけておいた。

 そして男に微笑ましく見守られながら、段々と昼も近くなった頃。

 

「できた――――――――っ!!」

 

 遂に、命蓮は歓喜の絶叫を上げた。

 命蓮の手の中に、水を半分ほどまで満たした木製の椀がひとつある。つい今しがた命蓮が、手足を使わず、式神だけを遣って水甕から汲ませてきた水である。

 要するに、昨日の汚名をとうとう返上してみせたのである。命蓮は今度こそ心の底から舞い上がり、

 

「どうですか! やりました、やりましたよ!」

「ああ、見ていたよ。すごいじゃないか」

 

 はじめこそ苦戦してしまったがそれでも宣言通り一日でできるようになったわけで、男からは素直に感心した様子で称賛と拍手が飛んできた。それがますます命蓮の有頂天に拍車を掛ける。

 

「お前、僧侶より陰陽師の方が向いてるんじゃないか?」

「ふふん、もっと褒めてくれてもいいんですよ!」

「偉い偉い」

「ふふふん!」

 

 これが若さということか。まったくもって恥ずかしながらこのときの自分は、褒められればぐんぐんと鼻を伸ばしてしまうお年頃だったのだ。

 命蓮の天狗具体は遂に頂点へ到達し、仕方ないからこの人のこともちょっとは(ねぎら)ってあげようと考えてついうっかり、

 

「まあ、父上の指導も悪くはなかったですよ! 一番はぼくの才能でしょうけどっ!」

「父上?」

 

 全身の血の気が落ちた。

 

「――あ。いや、今のは、その」

 

 とんでもないドジを踏んだ。頭の中がぐるんぐるんと気でも狂ったような暴走を始める。いや違うのだ、今のはなんというか完全な無意識であり確かに記憶のない今の命蓮にとっては父親めいた存在ではあるけれど本当に父だと思っているわけではないしそういう関係も悪くないかもと考えたことがあるのは否定しないがもちろん単なる冗談だしそうこれはただのうっかりでいやいや自分でも気づかないうちに無意識でそんな関係を望んでいたなんてまさかまさか

 

「おい命蓮、今」

「――――……、」

 

 しかして、暴走に暴走を極めてぼふんと爆発した命蓮は、

 

「な、」

 

 もはや自分でもさっぱりわけがわからなくなりながら、

 

「……な、なにか問題でもありましたか!?」

 

 開き直った。

 もうめちゃくちゃ開き直った。

 

「好きなように呼べと言ったのはあなたですよね!? 散々ぼくのことを子ども扱いして、そんな大人には『父上』とでも呼ばれるのがお似合いだと思いますよ! はははははざまあみろですっ!」

 

 頭の片隅の片隅で塵ひとつ分ほど残っていた命蓮の理性が、あれぼくなんかすごく馬鹿なこと言ってない? と首を傾げる。しかし今更止まれるはずもなく、

 

「仕方ないですよね、名前を教えてくれない方が悪いんですから! どんな風に呼ばれても文句は言えませんね! 自業自得ですね! ほらなにも問題ないじゃないですか文句ありますか!?」

 

 静寂。

 目を白黒させてぽかんとしている男のあほ面が見える。いつか一杯食わせてやりたいと思っていた命蓮としては実に痛快である。やったやった、本当にざまあみろだ。それみたことか。あはは。

 しにたい。

 

「――ふふ」

 

 命蓮が興奮やら恥ずかしさやらで顔面真っ赤だったというのに、男の反応は穏やかなものだった。ただ優しく一笑し、

 

「確かにそうだな。好きに呼べと言ったのは私だし、いいんじゃないか」

「……、」

 

 ――嫌じゃ、ないんですか。

 常識の範囲内で好きに呼べ、と男は言った。そして世紀の大失言をやらかしてしまった命蓮に、いいんじゃないか、とも。ではまだ出会って日が浅い、なんの血縁もない、名前すら知らない他人を「父上」と呼ぶのは、果たして常識の範囲内なのだろうか。

 どうして、嫌ではないのか。

 まさかこの男も、命蓮のことを――。

 

「さて、午前はここまでだ。私は食べ物を取りに行ってくるよ」

「……、……はい」

 

 手早く支度を済ませ出掛けていく男の背に、結局命蓮はなにも問いかけられなかった。

 本人が「父上」と、呼んでもいいと言うのなら。問わなくてもいいのではないかと、思ってしまった。

 

(……「父上」)

 

 記憶が戻ったとき、本当の父には誠心誠意謝らねばならないかもしれない。

 でも、どうか。

 どうか記憶が戻らない、今だけは――。

 

 

 

 

 

「――ところでお前、麓に戻りたいか?」

「え?」

 

 午後。陰陽術の授業は一旦お休みし、添え木を外して壁伝いに歩く練習をしていたところ、男から出し抜けにそんなことを訊かれた。

 この頃にはもう、ゆっくりと歩くだけならほぼ問題ないほどまで怪我が回復していた。

 

「歩けもしないうちは無理だと思ってたけど、だいぶよくなったようだ。私が先導すれば問題なく麓に戻れるだろう」

「――、」

 

 命蓮は返す言葉に詰まった。

 胸を突かれた、気がした。無論、この生活がいつまでも続くものではないと頭ではわかっていた。男はこの山で生活している世捨て人であり、自分は恐らく、こことは違う遠い場所から行脚の一環でやってきただけの修行僧。いつかは必ず別れるときがやってきてしまうのだろうと、ぼんやりとした予感だけは抱いていた。

 でもまさか、こんなにも早く話を振られるなんて。

 

「お前のような子どもが一人でやってきたとは思えない。きっと仲間が麓に宿を取って、お前のことを捜し回っているはずだ」

「……」

「戻りたいのなら、案内はするよ」

 

 命蓮は開かれた窓枠に体重を掛けたまま立ち尽くす。ということはつまり、命蓮は戻りたいとは思わなかったのだ。

 はっきり言って、ここは貧相な生活である。道具はみんな古ぼけているし、書物の類はひとつもないし、食べ物は毎回いちいち取りに行かなければならない。魚にもいい加減飽き始めており、なんとも米が食べたくて仕方がない。

 しかしそれでも、麓に戻りたいとは思わないのだ。

 だってそれは、この場所から――この人の傍から、去るということなのだから。

 男の言う通り、怪我の具合だけを見るなら手を貸してもらえれば戻れるだろう。だから命蓮は、まだ戻れない理由を探した。

 

「ええと……ですけど、まだ記憶が戻りませんし、こんな状態で仲間に会うのも」

「仲間に会えば、記憶が戻るきっかけになるかもしれないだろう?」

 

 言い返せない。

 

「ま、まだ怪我が治りきっていませんし、あまりご迷惑をお掛けするのも」

「完治しようがしまいが、お前を麓まで案内するのは一緒だ。そう大した違いはないよ」

 

 ……言い返せない。

 しかし、まさか「ここにいたい」と正直に言えるはずはない。結局、上手い言い訳なんてなにも思い浮かばないまま、

 

「……ぼくがここにいると、迷惑ですか?」

 

 自分はきっと、卑怯者だ。

 だって、こういう言い方をすれば。

 

「いいや? 戻ったら戻ったで面倒もあるだろうし、もう少しのんびりしていきたいならここにいるといい」

 

 この男は優しく否定してくれると、わかっているのだから。

 けれど、

 

「でも、ほどほどにね」

 

 男は少し、吐息ほどの間を空けて。

 

「……お前を捜している人たちは、必ずいるはずだよ」

「……」

 

 ――運動のあとはまた陰陽術について教えてもらったが、あまり身が入らなかった。

 岐路に立たされたのだと、感じた。

 ぼくはいつまで、この場所に、この人と一緒にいられるのだろう。

 記憶が戻ったら。いまぼくの心にあるこの感情は、すべて塗り潰されてしまうのだろうか。

 

 四日目の夜は、長かった。

 命蓮が眠りに就いたのは、男よりもあとのことだった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 言うまでもなく、月見は命蓮を騙している。妖怪であることを隠し世捨て人を名乗っているのみならず、他にも、もっとたくさん、命蓮という少年を騙してしまっている。あまり深入りすべきではないとわかっているのに、ついつい気になって仕方がないのは――あいつ(・・・)の友人をやる中ですっかり染みついてしまった悪癖みたいなものだった。

 お陰様で、食料の確保に掛ける時間も随分と短くなった。命蓮に陰陽術を教え始めてから五日目――すなわち彼を拾ってから六日目の、朝日が顔を出してまだ間もなく、今となっては見慣れてしまった山道を登って月見は仮初の我が家まで登ってきた。

 戸を出てすぐの場所に、命蓮が立っていた。

 

「おや? 命蓮」

「……、」

 

 焦点の合っていない目をしていた。目線と唇だけを動かし、幽霊のように、

 

「――父上」

 

 月見は喉で苦笑した。その呼び名は昨日、彼がつい勢い余って口走ってしまった失言の類ではなかったか。

 

「どうした。歩く練習か?」

「……」

 

 目の前までやってきた月見を、命蓮はやはりぼんやりとした瞳で見返した。けれど一方で、瞳の奥では様々な感情が激しく渦を巻いているようにも見えた。うわ言めいて唇が動く。

 

「父上、」

 

 もう一度、今度は少しだけ強く、

 

「――父上」

「……どうした?」

 

 具合が悪いのかとも思ったが、毎晩河童の秘薬(・・・・・)を飲んでいる彼が風邪など引くだろうかと疑問が浮かぶ。確かあれは、体の内外問わず怪我にも病に効果を示す万能薬だったはずだ。

 命蓮が、ゆっくりと首を振った。

 

「……すみません。ちょっと寝呆けていたみたいです」

 

 下手くそに微笑み、

 

「今日も陰陽術のこと、教えてください」

 

 また、己の心へ刻むように、

 

「お願いします、――父上」

「……」

 

 もちろん、確証はない。それなりに長い時を生きてきた年寄りの、或いは人ならざる物の怪特有の、虫の知らせというやつだったのだろう。

 

「ああ。もちろん」

 

 笑みを以て応えながら、月見は。

 今日が、最後になるのかもしれないと。そう、静かに直感した。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――じゃあ、私はまた食べ物を取ってくるから。適当に待っていてくれ」

「はい。わかりました」

 

 脚の怪我は、もうほとんど完治していた。恐らく走るのはまだ辛いだろうが、一人で歩き、山を下りる程度なら、きっとなんの問題もないのだろうと思えるほどになった。

 だが命蓮は、山を下りなかった。

 陰陽術を、教えてくださいと。そう無理に頼み込んで、日が昇り続ける間はずっと教鞭を振るってもらっていた。男から知らない知識を教わるそのひとときが、本当に楽しくて――だからこそ、寂しかった。

 

「歩く練習をしておけよ。体力が戻らないと、山を下りるのは辛いぞ」

「……そうですね」

 

 脚に脛巾を当て、背負籠を背負って立ち上がった男の背に、命蓮は堪らず、

 

「いってらっしゃい、――父上」

 

 つい昨日は、顔から火が出るほど恥ずかしかったはずなのに。

 なにも言わず一笑した男が、背中越しに手を振って山を下っていく。後ろ姿が斜面に隠れて消えるまで見送り、それから命蓮は、深い迷いに満ちたため息をこぼした。

 

「……僕は」

 

 一体、どうするべきなのだろう。

 懐から巾着を取り出す。今となっては命蓮の唯一の持ち物である、流麗な刺繍で己の名が刻まれたそれを一心に見下ろす。

 

「……」

 

 握る指先に、知らず識らずのうちに力がこもった。

 一体、どれほどの間立ち尽くしていただろう。顔を上げ、

 

「……少し、歩いてこようかな」

 

 思考が泥沼の渦に沈んでいる。幸い、今日も呆れるほど天気がいい。陽光が満ちる澄んだ森の中を歩けば、なにか見えてくることもあるかもしれない。

 

「迷わないようにだけ、気をつけないと……」

 

 口にはしたが、その実頭はほとんどまともに動いていない。進むべき先に見当をつけたわけでもなく、命蓮はただ足が赴くままに歩き始める。彷徨う己の心そのまま、行く当てのない迷子のように。

 

 ――この選択は、正しかったのだろうか。

 

 はじめは、小鳥のさえずりかなにかと勘違いするほどかすかな声だった。さして気にも留めないまま歩き続け、やがてそれが自分の名を呼ぶ声だと気づいた。

 

「……!」

 

 ――お前を捜している仲間は、必ずいるはずだよ。

 男の言葉が瞬く間に甦り、稲雷が如く痛烈に命蓮の脳裏を打った。足が地面に縫いつけられ、為す術もなくその場で動きを奪われる。思考を叩き起こされ、目の前の景色が急に意識の隅々まで飛び込んできて、道なき斜面を蛇行していった先の獣道を、亀のように登る禿頭(とくとう)があることに気づく。

 

「――あ、」

 

 人。

 心臓が凍るほど驚き――いつの間にかこの山には自分と父上しかいないのだと思い込んでいた――わずかに体の重心がずれた瞬間、足を滑らせた。

 

「うわ!」

 

 みっともなく尻餅をついてはじめて、自分の立っていた場所が地面ではなく、いびつに隆起した太い木の根の真上だったと知る。いや、そんなのはどうだっていい。それよりもいま口を衝いて出てしまった声、

 

「……命蓮、殿?」

 

 目が合った。

 斜面の下から命蓮を見上げるのは、剃髪していなければ頭に霜を置くであろう齢の老僧であり。

 命蓮とともに各地で修行を重ねていた、同じ寺の仲間の一人だった。

 

「――命蓮殿! 命蓮殿か!?」

 

 全身を緊張させた老僧が獣道を外れ、杖を地面に容赦なく突き刺して支えとし、木の根がうねる道なき斜面を凄まじい剣幕で突撃してくる。命蓮は思わず悲鳴を上げかけた。老人故に決して速くはないが、顔が怖すぎてまるで熊にでも見つかった気分だった。

 

「命蓮殿ぉ!!」

「ひえっ」

 

 食べられる、と一瞬本気で思った。

 だがもちろん食べられるはずもなく、息を切らせて命蓮の目の前まで駆け上がってきた老僧は、

 

「おお、命蓮殿……! 命蓮殿……!!」

 

 途端に喉を震わせ、命蓮の想像を絶するであろう計り知れない安堵に打ちひしがれ、その場でほろほろと崩れ落ちてしまった。

 

「よくぞ……よくぞ、ご無事で……っ!!」

「……、」

 

 その光景に命蓮はしばし呆気に取られ、ゆっくりと己の状況を咀嚼し――緩く首を振って、心を切り替えた。

 時が来たのだと、思った。

 言う。

 

「……お久し振りですね」

「はい……! 取り返しのつかぬことが起こってしまったと身も心も擦り切れ果て、まさに無間地獄の責め苦を味わうが如しでありました……!」

 

 命蓮が、崖から落ちて流されたときのことを言っているのだろう。

 

「心配を掛けてすみません。……実は、この先で暮らしている隠者の方に助けてもらいまして。ここ数日で怪我もよくなり、こうして体を慣らしていたところです」

「おお……そうでございましたか……」

 

 老僧はしきりに頷きを落として感嘆し、また一方で過去の暗い記憶に眉を曇らせた。

 

「……儂も仏道に入って長くなりますが、山修行の途中で怪我を負い、仲間とはぐれ、自分一人ではどうすることもできず、そのまま不帰の客となった仏を数多く見てきました。人の訪れを拒むこの深山で、人の助けに行き逢えるのはまさしく僥倖。信心深い命蓮殿に、天が加護を与えてくださったに違いありませぬ」

 

 命蓮は苦笑する。仲間たちの中でも最年長に近い齢でありながら、この老僧は誰にでもこういう口の利き方をする。決して他者を見下さず、孫ほど歳が離れた命蓮にすら敬意を払い礼を欠かさない。はらはらとこぼれ落ちる男涙も嘘ではあるまい。きっと仲間の中で一番、命蓮を心配して来る日も来る日も捜し続けてくれていたのだろう。

 手を合わせ深く祈る老僧に、命蓮も合掌を返した。

 

「ありがとうございます……」

姉君様(・・・)を悲しませることにならず、本当によかった……!」

 

 懐にしまったあの巾着が、少しだけ熱を持ったような気がした。

 老僧が袖でしつこく目元を拭い、それっきり柔和な好々爺の顔に切り替えた。

 

「命蓮殿。差し支えなければ、この先に住むという隠者の下へ案内してはくれませぬか。同胞として、儂からも礼を伝えたく思います」

「大丈夫ですよ。ただ、ち――その方は、食料を探しに出ているので、少し待っていただくことになりますが」

「構いませぬ。むしろ、好都合ですな」

 

 老僧は噛むように苦笑し、

 

「朝日が顔を出す頃より歩きづめで、そろそろ小休止を入れたいと思っていたところです。儂も、もう老いました」

「本当に、ありがとうございます。僕のために……」

「なぁに、よい修行になりました」

 

 老僧を案内し、獣道同然の山道を登っていく。幸い、来た道はぼんやりとだが覚えていた。記憶を辿って歩くその傍らで、命蓮は老僧と話をするのも忘れて一心に思考を巡らせる。

 打ち明けてしまえば、まだ戻りたくはなかった。もう少しだけで構わないから、あの人と一緒に不自由な生活を続けていたかった。もっとたくさんのことを教わりたかった。だが、こうして仲間と再会してしまったからには叶わぬ夢だろう。

 だから小屋に戻って、ちゃんと話をしようと思う。助けてもらったことに感謝し、ここまで世話をしてくれたことに頭を下げ、己の正直な気持ちを伝えよう。もう嘘をつく(・・・・)のはやめて、ぜんぶを正直に打ち明けよう。

 そして、もし、もしも願いが叶うのならば。

 山を下りたあとも、命蓮と一緒に――

 

「あれです」

 

 命蓮は思考を中断して正面を指差す。耽っているうちに山道を登りきっており、木々の間からくぐり抜けてくるように、今となっては見慣れた小さな山小屋が見えた。

 

「おお、あれが、」

 

 背後の老僧が、斜面を登りきる最後の一歩を踏み出したところで突然動きを止めた。

 

「……どうされました?」

「……いや、」

 

 どこか戸惑った横目で命蓮を見て、何事か言い淀み、

 

「……なんでもありませぬ」

「?」

 

 一体なにがあったのかわからないが、話は小屋に戻ってからすればいいと命蓮は判断した。命蓮が改めて小屋に向かうと、老僧も今度こそ斜面を登りきって後ろについてくる。

 けれど、気のせいだろうか。

 その足取りが、まるでなにかを警戒しているような。

 

「……本当に、この小屋なのですか。ここで本当に命蓮殿は、その隠者とかいう者に助けられて、今まで傷を癒やしていたのですか」

「そうですけど……」

 

 いや、気のせいではないはずだ。老僧の問い詰めるような低い口振りに、命蓮は胸の奥がざわつき始めるのを感じた。

 老僧の言わんとしているところがわからない。彼がなにを警戒しているのかわからない。別に、古めかしい以外はなんてことはない普通の山小屋だ。黒ずみが目立ち始めたくたびれた戸口、骨組みの上から木の皮を引いた簡素な屋根、開けっ放しになっている突き上げ窓。確かに小屋というには少々贅沢な大きさだが、だからこそ、人が住居として使ってもなんらおかしいことはないはずだった。

 小屋の戸口まで、あと十歩も歩こうという距離だった。

 

「――お待ちくだされ」

 

 老僧に手首を掴まれた。振り返ると、彼は眉間に険しい皺を刻み込み、唸るような目つきで正面の小屋を睨みつけていた。

 

「命蓮殿には、わかりませぬか」

「……ええと、なにがですか?」

「この山小屋を見て、なにか思うことはありませぬか」

 

 それは、問いでありながら問いではなかった。はじめから答えありきの問いであり、要するにこの小屋は明らかにおかしいのであり、命蓮が「ない」と答えればその瞬間に老僧はひとつの決断を下すだろう。

 しかしそこまでわかっていながらも、命蓮には「ない」以外の答えがなかった。本当に、この小屋のどこがおかしいのか欠片もわからなかった。老僧がなぜそうも差し迫った表情で命蓮を引き留めるのか、まったく想像ができなかった。

 結局、己の困惑と沈黙が言い逃れのない回答となった。

 

「……そうですか。わからぬのですな」

 

 諦念の吐息。それから老僧はいきなり両手でこちらの肩を掴み、逃げなど断じて許さない、静かながら強い声音で、命蓮にその現実を突きつけた。

 

「命蓮殿は、妖怪に(たぶら)かされています」

「――は、」

「妖怪の術に掛かり、ありもしない幻を見ているのです」

 

 幻、という言葉の意味を、数拍の間真剣に考えた。

 その上で、意味がわからなかった。

 

「命蓮殿を助けたという隠者も、恐らくは妖怪が化けたものでありましょう」

「――なにを、」

 

 正直、先に立ったのは困惑よりも苛立ちの方だった。さっきからなにを言っているのかさっぱりわからないし、なにより命蓮を助けてくれたあの人を、会いもしないうちから妖怪――化物扱いするなんて、非常識にも程があるではないか。

 掴まれた肩を、振り払った。

 

「なにを、言っているんですか。意味がわかりません」

「――そうですか」

 

 そうでありましょうな、と老僧は呟く。沈黙が広がる。そよ風が吹き抜ける長閑(のどか)な昼の山の音色が、時間とともに命蓮の心を侵食してくる。

 ダメだ。疑うな。毅然として()ね退けろ。

 この老僧は決して他者を見下さず、孫ほど歳が離れた命蓮にすら敬意を払い礼を欠かさない。仲間の命を救ってくれた恩人を、会いもしないうちから化物と断ずるなどありえない。ありえないことが起こっている。

 その理由を、これ以上疑っては絶対にいけない。

 対峙は、さほど長くは続かなかった。

 

「命蓮殿、これを」

「っ――?」

 

 いきなり手渡されたのは、老僧の杖だった。なんてことはない樫を使ったわさ角で、唯一奇異なところがあるとすれば、一面にびっしりと経文が書かれているくらい。

 ますますわけがわからない命蓮へ、老僧は静かに告げる。

 

「尊勝陀羅尼の真言を刻んであります。あやかしの術を払う力がある」

 

 大きく深い、吐息を以て、

 

「さあ、今一度、その(まなこ)を開いてご覧になってください」

 

 小屋を指差し、こう、声を張った。

 

 

 

「――このような朽ち果てた廃屋で、人が生活などできるものか!!」

 

 

 

 そこに、命蓮の知っている山小屋はなかった。

 戸口が外れ、壁は朽ち、屋根には穴が空き、茂った草花にまみれて自然の一部へと回帰した――文字通りの、『廃屋』があった。

 

「…………………………………………え?」

 

 その一言をこぼすのに、気が遠くなるほど時間が掛かった。

 目の前の光景が信じられなくて目をこするということを、生まれてはじめてやった。そうしたところで、このありもしない幻は少しも消えてくれなかったけれど。

 何度見ても、幾度頭で拒絶しても、目の前にあるのは、人の息遣いなどとうの昔に途絶えた廃屋で。

 命蓮が今まで寝泊りしてきた小屋は。

 あの人がいた場所は。

 どこにもなかった。

 

「…………なん、で」

「……これでおわかりでしょう。今一度申します――命蓮殿は、妖怪に誑かされていたのです。妖しい術に掛かり、ありもしない幻を見ていたのです」

 

 老僧の言う意味はわかる。妖怪はしばしば僧や陰陽師も(あざむ)く高等な術を駆使し、人間に幻を見せては誑かす。同じ道を堂々巡りさせる者、恐ろしい化物を見せる者、ガラクタの山を金銀財宝に化かす者――そして、人の姿を偽りありもしない家を構えることで、旅人を誘い込もうとする者。

 己の心臓の鼓動だけが、意識の奥から命蓮の耳を満たしている。

 目の前が暗くなることこそ、なかったけれど。己の思考が自分自身にも知覚できなくなり、しばらくの間はちゃんと立てているのかどうかもわからなかった。

 正気に返ったのは、老僧に手首を掴まれたからだった。

 

「さあ、一刻も早くここを離れましょう」

「え、」

 

 なぜと命蓮が問うより先に、老僧は声をひそめて口早に、

 

「命蓮殿を助けたという隠者です。もはや命蓮殿を狙う妖怪であることに疑いようはありませぬ」

「……!」

「儂の力で命蓮殿をお守りできるかはわかりませぬ。逃げるなら今しか」

 

 問答無用だった。老僧は立ちすくむ命蓮を力ずくで引っ張り、足元の草花を蹴り飛ばしながら山道を下り始める。命蓮の病み上がりの脚が痛むほどの勢いだった。

 本気なのだと、思った。

 この老僧は、本気であの人を妖怪だと判断していて、

 本気で、命蓮を連れて逃げようとしていて、

 

 それはつまり、このまま老僧に連れて行かれたら、もう二度とあの人に会えないということで

 

「――っ!」

 

 老僧の腕を、振り払った。刀で斬り捨てるように。

 たたらを踏んだ老僧が、信じがたい形相で振り返る。

 

「っ……どうされました! 一体なにを迷うことが!?」

「――そんなわけ、ないじゃないですかっ!!」

 

 濁るほどの声量で、命蓮は怒鳴った。

 そう――自分は、怒っていたのだと思う。心も、体も、煮え立っていた。

 

「僕は――僕は、あの人に助けられたんです! 命を救われたんです! 僕を狙う妖怪が、どうして僕の命を救うのですか!?」

 

 老僧は怯むこともなく、首を振って嘆いた。

 

「命蓮殿を狙うからこそ救ったのです。喰らうのならば傷を負い衰弱した人間よりも、心身ともに健康な人間。……儂ら人間が、傷んで質の落ちた食べ物より、取られて間もない新鮮なものを選ぶのと同じです」

「……!」

「同時に、命蓮殿を手元に留めておくためでもあったことでしょう。命蓮殿は今まで、そやつの下を離れようと思ったことが一度でもありましたか? ……獲物を絶対に逃がさぬためにはどうすればよいか。簡単なことです。信頼を騙し取り、そもそも獲物に逃げようと思わせなければよい」

 

 なるほど。なるほど、腹立たしいが荒唐無稽なこじつけではない。事実、歴史を遡ればそういった手口で人間を喰らった妖怪もいるのだろう。高々十余年生きただけの命蓮が、知識と思惟(しゆい)でこの老僧に勝てるとは思わない。

 けれど、そんな命蓮でも自信を持って負けないと断言できるものがひとつだけある。

 命蓮は、ずっとあの人を見てきた。

 たとえほんのいっときだけでも、名前すら知らない相手であっても、この六日間だけはずっと傍であの人を見てきたのだ。

 だから、命蓮は知っている。

 あの人は、人間だ。

 それでも妖怪だというのなら、人間のような妖怪だ。

 老僧にはわかるまい。

 会ったことすらないこの男には、天地がひっくり返ったところでわかるまい。

 命蓮は杖を投げ捨て、老僧に背を向けて駆け出した。

 

「……! お待ちくだされ、どこに行くつもりですか!?」

 

 決まっている。あの人に、もう一度。もう一度会う以外に、なにがあるというのか。

 あの人は人間なのか、妖怪なのか。妖怪だというのなら、どうして命蓮を助けたのか。どうして命蓮を、六日間も世話し続けたのか。

 ――あなたは、一体何者なのか。

 何度もはぐらかされてきたその答えを、もう一度あの人に会って問わねばならない。そして老僧の馬鹿げた妄想を、違うと否定してほしかった。喰らうためではなく、救うために救ったのだと言ってほしかった。命蓮の見てきたあの人が、嘘ではなかったのだと証明してほしかった。

 

「なりませぬ……! 妖の道に堕ちるつもりなのですか……!?」

 

 老僧が追いかけてくる。だがたとえ病み上がりであっても、決して体が本調子ではなくとも、若い命蓮が脚で老人に負ける道理はない。

 

(父上……ッ!)

 

 叫び出したい心を懸命に抑え、命蓮はただ駆けることだけにすべてを注ぎ込む。右脚で前へ踏み込むたび、頭の裏まで誤魔化せない痛みが突き上がってくる。だがそんなものなど、命蓮が足を止める理由をチリのひとつ分も満たしはしない。

 朽ちて砕けた扉から廃屋の中を覗き込む。あの人の姿がないことを一瞬で確認し、命蓮は老僧から逃げる方向へ再び駆け出す。地面を這う木の根に足をとられて転ぶ。すぐに立ち上がってまた走り出す。止まってしまえば、そのときが、すべての終わりであるかのように。

 

(父上っ……!!)

 

 喉が焼ける。呼吸をするたび肺が裂けていく。どれほどの距離をどう走ったのかなど疾うにわかるはずもなく、草花を踏み躙り、枝をへし折り、木の根を蹴り飛ばし、命蓮は意識の限りに走り続けた。それしか、もう今の自分には残されていなかった。

 この六日間が。あの人のぬくもりが。本当にすべて、ありもしない夢だったと言うのなら。

 ――僕は夢から、覚めたくはなかった。

 

「父上……!」

 

 こぼれた言葉もまた、焼けていた。

 頭の中が熱で白く染まっていく。父を捜すために走っているのかも、老僧から逃げるために走っているのかもわからなくなっていく。限界を超えた両脚が硬直を始め、もはや歩くのと大差ない無様な有様と化し、それでも命蓮は少しでも前に、前に、

 

 踏み外した。

 

「、」

 

 もうなにもかもわからなくて、足を踏み出した先が道でないことすら気づかなかったのだ。

 涸れ果てた喉では声も上がらない。硬直した両脚が遂に一切の動きを放棄した。肩から落下する衝撃、落ち葉で滑って体が転がる、かなり急な斜面、咄嗟に両腕で頭を守る、投げ出された足が木の幹を叩く、突き出した岩に脇腹を打たれ呼吸が死ぬ、それでも回転は止まらずむしろ加速する、首筋が凍りつく、滑落する斜面の先がぽっかりと途切れている、水の音、誰かが言う、これは自分が記憶を失う原因になったのと同じ、

 

 崖、

 

 

 

 

 

 

 

 

「――まったく。せっかく怪我が治ったのになにをやってるんだお前は」

 

 捜し求めていた声が、聞こえた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 命蓮はゆっくりとまぶたを上げた。目の前の視界いっぱいに見覚えのある直垂が映り、ふっとあの人の匂いが広がった。

 足が地面についていない。かといって、落ちているわけでもない。

 命蓮はあの人の腕の中に抱えられ、空を、飛んでいた。

 

(――ああ)

 

 命蓮の心に、染みのようにひとつの理解が落ちる。結局、老僧が言っていた通りだった。

 父上は、人ではなかった。

 なのに彼は、命蓮の記憶にあるままいつも通りの彼だった。自分の正体が妖怪だと露見したのに、なんてことのない穏やかな顔をして。老僧に見つかればその場で滅せられるかもしれないのに、まるで大したことのない風をして。まったく動じるつもりもないその姿が恨めしくて、命蓮は彼の胸元へ手を伸ばし、その襟元に怒りとも悲しみともつかない真新しい皺を刻んだ。

 笑みの息遣いが、そっと命蓮の前髪に掛かる。

 

「ごめんな、騙してて」

 

 謝る気などさらさらないのがひと目でわかる声色だった。そこに宿っているのは命蓮への罪悪感などではなく、正体を知られ、別れることもまた、ひとつの世の一興なのだと受け入れた諦観だった。

 きっとこの人は、ぜんぶわかっていたのだ。

 

「――父、上」

 

 涸れ果てた喉では、か細く掠れた声でそう呼ぶのが精一杯で。

 山と山を断つ急峻な渓谷だ。崖はほぼ垂直に近くそそり立ち、落ちた先には巨大な岩の群れを懐に抱く渓流がある。一度目も、自分はきっとこういう場所から滑落したのだろう。

 二度も、命を助けられた。一度目は人として、二度目は妖怪として。それがすべて、命蓮の信頼を騙し取り、喰らうためだったというのなら。

 正体が露見した今でもなお、命蓮を優しく抱き締めてくれるのは、一体なぜ。

 

「……まだ私を、そう呼んでくれるのか」

 

 男は笑みの表情を崩さずに吐息し、渓流が流れ行く先に目を細めた。渓谷で断ち切られた山と山が、彼方で緑の稜線を重ねるあわいの景色。空を飛べぬ限り決して知ることのできない、これが妖怪の見ている世界なのだと思った。

 

「――本当はね。仲間がお前を捜しているって、私は知っていたんだよ」

 

 ほんの思い出話でもするような、小気味よい口振りだった。

 

「だからお前に、麓に戻りたいかと訊いたんだ。はっきり『仲間が捜している』と言わなかったのは、ふふ、どうしてかな。思いの外私も、あの生活が楽しかったのかもしれない。お前がここにいたいと望むのなら、もう少しだけ嘘のままでいようって」

 

 一息、

 

「――そしてお前が仲間たちに見つけてもらえたときは、終わりにしなければならないんだろうって」

 

 腕の中の命蓮を、男はまっすぐに見下ろす。

 

「さあ。お互い、嘘をつくのはおしまいだ」

 

 鹿爪らしい顔をして。

 男が命蓮に嘘をついたように、命蓮が男についた嘘を、彼ははっきりと見破った。

 

 

「――お前、本当はもう記憶が戻ってるんだろう?」

 

 

 今朝のことだ。眠りから覚めたら、闇に潰れていたはずの記憶がいつの間にか甦っていると気づいた。己がここから遠い山村の出身であることも、高僧としての将来を期待される雛僧(すうそう)であることも、寺の仲間と山々を行脚する修行の途中であったことも、その中で雨後のぬかるみに足を取られて滑落したことも、巾着に刺繍された名が己のものであることも――その巾着が、旅のお守りとして大切な姉が持たせてくれたものであることも。

 一刻も早く麓へ戻り、仲間たちと合流せねばならないともわかっていた。

 わかった上で命蓮は、陰陽術を教えてくださいとこの男に請うたのだ。まだ、記憶が戻っていないふりをして。

 こんなことになってさえいなければ、今日も夜まで相手をしてもらっていただろう。次の日も、そのまた次の日も嘘をつき続けて――いつか勇気を振り絞って、彼を故郷に誘えるその日まで。

 命蓮は、親を知らない。

 物心がつく頃には、父も母もすでにこの世にいなかった。特に父は母以上の早世だったらしく、姉も名前以外はほとんどなにも覚えていないと言っていた。だからだろうか、記憶が甦り、しかしこの男を父と想う感情が消えないと気づいたとき、ともに故郷へ戻り、姉と三人で暮らす世界を思い描いてしまった自分がいたのだ。

 姉だってきっと、そういう存在を欲しているはずだった。昔から、自分が命蓮の姉であり母たらんと健気に振る舞い、誰かに甘えることなど露も知らぬ少女だった。この男は姉とも相性のよさそうな性格をしているから、自分たちは案外いい家族になれるのではないかと、まったく期待しなかったといえば嘘になるのだ。

 

「父、上、」

 

 突き動かされ、唇が動いていた。焦がれるように、縋るように、

 

「僕、と。僕と、一緒に、」

「命蓮」

 

 その先を、父は言わせてはくれなかった。

 

「お前は、まだ小さいからね。これからたくさん勉強して、たくさんの人と出会って、たくさんの世界を知るだろう。そうすればいずれ気づくはずだ」

 

 命蓮とは桁違いにたくさんの世界を見てきたであろう彼の、余計な感情など塵ひとつも挟まない真摯な言葉だった。

 

「――人と妖怪は、ともには暮らせない。私がそうしたように、どちらかが嘘をついた偽りの世界でしか」

 

 それのなにが悪い、と思った。嘘でなにが悪いのか。望み望まれて成立した嘘の世界ならば、それは真実といえるのではないか。

 父は、まるで命蓮の憤りを読んだように続ける。

 

「私たちがよかったとしても、周りがそれを許さない。人は、自分たちの価値観にそぐわないものを排斥したがるから。『あの寺の僧は妖怪と通じているらしい。妖怪の仲間なんだ』とでも噂が立とうものなら、もうお前たち僧は生きていけない」

 

 ――なりませぬ……! 妖の道に堕ちるつもりなのですか……!?

 老僧の叫びが耳朶の裏に甦る。老僧は、父を悪と決めつけて疑わなかった。本当に優しい老人であるはずなのに、まだ会いもしていないのに、すべて命蓮を喰らうためだったのだと、それ以外の可能性など微塵も考えてはくれなかった。

 人でありながら、望んで妖の道に堕ちるのなら。それはもう、人ではないのだと。

 

今はまだ(・・・・)、そういう時代なんだ。だから、一緒には行けない。行ってはいけないんだ」

 

 命蓮が滑落した山の斜面を、父は空を飛んでゆっくりと登っていく。

 

「本当は、こうなる前に別れてしまうべきだったんだろうけどね。尊勝陀羅尼の杖なんか持ってるとはなあ……あれを出されると妖怪はちとキツい」

 

 苦笑いをしながら斜面を登りきり、命蓮をそっと地面に降ろす。命蓮を包み込んでくれていたほのかなぬくもりが、すべての終わりを告げるように消えていく。

 

「さあ、ここでさよならだ」

「……!!」

 

 命蓮は、男の襟元から手を離さない。指が千切れても、腕を斬り落とされても、離すわけにはいかなかった。

 

「名、を。あなたの、名前を、」

「教えないよ」

 

 けれど父は、震える命蓮の手を決して取ろうとはしなくて。

 

「教えない。だって教えたら、お前は私を捜すだろう? お前が手を伸ばさなければならないのは、妖怪ではなく人だ。そのために、お前は仏の道に入ったはずだよ」

 

 それはつまり、もう二度と命蓮に会うつもりはないという宣告。

 

「だから、私のことは誰にも言わないように。忘れてしまうんだ。そうすればみんな勝手に、妖怪に誑かされていただけだと納得してくれる。なにも変わらず、今まで通りの生活に戻っていける」

「変わらないわけ、ないじゃないですか……!」

 

 もう、限界だった。これ以上、彼の言葉を聞きたくはなかった。

 拳にありったけの力を込めて、離れていこうとする彼へ全身で食らいつくように。

 

あなたがいない(・・・・・・・)! あなたが、いないのに。なにが、今まで通りなんですか……っ!!」

 

 なぜだろう、なぜかはわからないが命蓮はたまらないほど悔しかった。悲しみとも怒りとも違う、形のない、途方もなく巨大で漠然としたなにかを前にして、どうしようもなく立ち竦み、感情が行き場を失って氾濫していた。

 もっとたくさんのことを、ぼくは伝えなければならないはずなのに。

 なのにどうして、どうして、こんなにも言葉が出ないのだろう。

 命蓮一人だけが、ロクになにも言えなくて。だというのに彼だけが、静かで優しい表情を揺らがせもしないで。

 

「ちゃんと修業して、一人前のお坊さんになるんだぞ」

 

 指先の感覚なんて、とっくにわからなくなっていたはずなのに。それでも彼がそっと手を重ねてくれたのだけは、残酷なほどはっきりと感じて。

 

「それじゃあ、元気でな」

「……!」

 

 彼を掴んでいた命蓮の指が、不可解なくらいあっさりと解かれる。あらん限りの力を込めていたはずなのにどうしてと、疑問に思う余地もなかった。

 いけない。

 言わせてはいけない。

 終わってしまう。本当に、ぜんぶ終わってしまう。解かれてしまった指を、もう一度、もう一度父へ伸ばして、

 

 

「――さよなら。命蓮」

「命蓮殿ッ!!」

 

 

 夢の終わりを告げる、大喝だった。

 背中から老僧の大喝が轟いた瞬間、風が吹いた。目を開けてもいられない、体ごと後ろに吹き飛ばされそうになるほど強烈な疾風だった。

 ほんの、五つを数えるほどの時間だったはずである。そのわずかな時間で、次に命蓮が目を開けたとき。

 もう、父の姿は、どこにもなくなってしまっていた。

 自分が掴んでいるものは、父ではなく、なにもない、

 

「――――――――ああ…………」

 

 終わった。

 終わってしまったのだ。

 それが一体なんだったのか、明確な言葉で自覚はできなかったけれど。ただ、もう二度と巡ってくることのないなにか大切なものが、この瞬間に終わってしまったのだと思った。

 喪失感はなかったが、涙雨のような寂しさが残った。

 

「……」

 

 なにも掴むことのできなかった手には、なんのぬくもりも残っていなくて。指先が地に落ち、とても抉るとまではいえない力で浅く土を掻いた。

 

「命蓮殿、ご無事ですか!?」

 

 背後から駆け寄ってくる老僧の声を、認識はしたが、応えようとは思わなかった。

 

「命蓮殿!」

「っ……」

 

 爪を立てるように肩を揺すられても、命蓮は振り向かなかった。

 ただ、父の行ってしまった、森の彼方を見つめて。

 

「行って、しまいました」

 

 自然とこぼれ落ちていたその言葉に、老僧が眉間の皺をかすかに深める。

 

「命蓮殿、どうか正気に戻ってくだされ。己が妖怪に誑かされていたと、ご自分でももうわかっておられるはず」

 

 喉に物を詰まらせたように命蓮は笑う。父が言っていた通りだ。命蓮がなにも言わなければ、周りの人たちは勝手に妖怪のせいだと納得してくれる。

 

「さあ、一刻も早く皆と合流しましょう。いつまた、命蓮殿を狙って戻ってくるかも知れませぬ故」

 

 ――父が悪の妖怪なのだと、決めつけて疑わない。

 いくら話したところで、わかってもらえはすまい。命蓮が必死になって話せば話すだけ、妖怪に気を狂わされてしまったのだと嘆かれるだけなのだろう。妖怪に心を奪われた気狂いとされれば今までの平穏は間違いなく壊れるし、故郷の姉にも迷惑が掛かる。だから父は最後に、誰にも言うなと、忘れてしまえと言ったのだ。

 己ではなく、命蓮のために。

 それがわかってしまうのが、たまらなく悔しい。

 

「……っ」

 

 忘れてたまるか、と命蓮は思う。地に爪を立て、歯を軋らせる痛みとともに命蓮は刻み込む。

 優しいひとだった。

 妖怪だったのが今でも半信半疑なくらい、人間みたいに優しいひとだった。

 だから、魂に刻んで覚えていよう。そしていつの日か里帰りをしたとき、たとえ理解されないとしても、姉にだけはきっと包み隠さずすべてを話そう。

 命蓮の、大切な『思い出』。

 

(――さようなら。父上)

 

 命蓮の、たった六日間だけの――父のことを。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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