銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色
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東方星蓮船 ⑩ 「風の目覚め」

 

 

 

 

 

「よぉし月見、歯を食いしばれ」

「待った、暴力はやめよう」

 

 ひと通りの話を聞き終わったところで、ナズーリンは満を持して月見の胸倉に掴みかかった。月見が両手でどうどうと宥めてくるがそんなのは無視だ。大変ステキでカンドウテキな話を聞かせてくれた狐野郎の顔面へ、下から抉り込ませるように、

 

「君は。君は、君はバカか。バカなのか。なんでそんなとんでもなく重要な話を、今になって話すんだ。なんで今になって思い出すんだ。このバカ。バッカ」

「ナズ、落ち着いてくださいーっ!」

 

 星が後ろから尻尾を引っ張ってくる。ええい鬱陶しい。ナズーリンの感情を的確に読み取ったバスケットの仲間たちが、すかさず星の顔面に体当たりを仕掛ける。「はわあーっ!?」と珍妙な悲鳴を上げて星が後ろにひっくり返る。

 落ち着けという方が無理な話だ。というか月見が話をしている間は、むしろ星の方が落ち着いていなかったはずだ。ムラサや一輪と一緒になって大騒ぎして、諏訪子に「うるさぁい!!」と怒られたのを忘れたとは言わせない。

 ナズーリンは標的を目の前の狐に戻す。

 

「言い訳は」

「千年以上昔の、ほんの数日だけの出来事だったからね。お前だって、同じくらい昔に何日か知り合っただけの人間を思い出せなんて言われたら、難しいだろう?」

 

 もっともだ。月見の当時の生き方から考えて、人間と出会い、助け、助けられ、そして別れていくのはごくごくありふれた日常のひとつだったのだろう。記憶を失った命蓮はこの狐を父と呼んだが、月見にとっては所詮『人間の子どもを助けた数日間』であり、それ以上でもそれ以下でもなかった――いや、決して「それ以上」にはしないよう割り切っていたのかもしれない。

 月見という妖怪が歩んできた生涯からすれば、ほんの指先ひとつ分にも満たない小さな記憶の破片に過ぎない。千年の時を刻む中ですっかり泥の下に埋もれてしまっていたのだとしても、仕方のないことだとはナズーリンも思う。

 しかし、

 

「忘れていたのは仕方がないが、聖輦船に乗って気づかなかったのか。あの船を動かしているのは、正真正銘、弟殿の法力なんだぞ」

「……、」

 

 月見が、虚を衝かれてわずかに目を見開く。だからナズーリンはムラサに吠える。

 

「ムラサァ!」

「ふえいっ!?」

「弟殿のこと、聖輦船のこと、月見に話していなかったのか! 地底で何度か会っていたんだろう!?」

「あ、あー」

 

 痛いところを突かれたムラサは精一杯に目を逸らし、

 

「わ、忘れてたわけじゃないよっ? ただ、なんていうか……こう言っちゃなんだけど、弟さんって、私たちにとっては赤の他人だし……別に思い入れとかもなかったし……」

 

 月見の顔色を窺いながら、一輪が訥々(とつとつ)と付け加える。

 

「私たちが姐さんと出会った頃には、その、弟さんはすでに亡くなられていまして……。本当に大切な家族だったみたいで、結構引きずってたんです。だから……すみません。そもそも、話そうとも、思っていなかったというか……」

 

 ナズーリンは鼻から唸るようなため息をつく。確かに、二人の言うことに間違いはない。聖命蓮は、ナズーリンたちにとって赤の他人も同然だ。白蓮が時たまに話してくれる思い出話の中だけの存在であり、どんな顔なのかも、どんな性格なのかも、どんな言葉遣いをするのかもまるで知らない。はっきりとわかるのは、白蓮の大切な家族だったということくらい。

 月見は、ナズーリンたちの立派な知り合いだ。

 だが一方で、まだまだ出会って数ヶ月しか経っておらず、決して『深い間柄』といえるほどではない。

 そんな相手に、白蓮が最もその死を嘆き悲しんでいた大切な人の話まで、わざわざ語ろうなんて思わなかった。ムラサも一輪も明るい少女だから、不必要に暗い話題は無意識のうちに遠ざけてた――きっと、そんなところなのだろう。

 月見が、なにかを探すように曖昧にまなこを細めた。

 

「……参ったな、ぜんぜん気づかなかったよ。てっきり、毘沙門天の法力なんだろうと思ってた」

 

 ナズーリンに襟元を掴まれるまま、背を小さく曲げて深い吐息のように、

 

「そうか。あの小僧が……あの小僧がなあ……」

 

 あれほど巨大な船に千年以上も力を与え続ける法力など、到底尋常な人間業ではない。それこそ、毘沙門天の法力だと早合点してしまうもの仕方がないくらいに。……記憶に宿る少年の見違えるような大成に、月見はそれ以上言葉にもならない様子だった。

 

「まったく……」

 

 ナズーリンはようやく月見の胸倉から手を離し、そのまま正座で座り込む。多少頭も落ち着いてきたので、もうこれ以上しつこく問い質す真似はすまい。仮に彼がもっと早い段階で思い出していたとしても、それでなにかが変わっていたわけではないだろう。

 むしろ、忘れ去られたままにならなくて本当によかった。

 

「……月見。君は、大したことをしたわけじゃないと思ってるだろう?」

 

 それが月見という妖怪だと、ナズーリンは思う。命蓮を助けたのも無縁塚で少女の亡骸を荼毘(だび)に付したのも、彼にとっては里で人々の相談役となりつつあるのと同じ延長線上で、こんなことを言われたところで困り顔を浮かべるだけだろう。

 だが、だからこそ月見は知っておくべきだ。彼が命蓮という少年を助けた結果、とある少女の人生が大きく大きく変わることになったのだと。

 

「聖は、物心がついた当初から差別なき平和主義者だったわけじゃない。生まれも育ちもごくごく普通の里娘らしくてね、妖怪への認識は当時の世間一般とそう変わらなかったそうだ」

 

 妖怪は人間を誑かすもの、脅かすもの、襲うものであり、恐ろしい存在に他ならないのだと。幼い頃の白蓮はそう教えられ、そしてそう信じて疑っていなかったと聞いている。それが、当時の人々の妖怪に対する認識としてごくごく自然なものだったし、事実凶暴な妖怪が今よりも随分と多い時代だった。

 つまりは妖怪への認識が変わり、共存を夢見るようになっていくきっかけがあったのだ。

 

「弟殿から、ある日突然言われたそうだよ。妖怪に命を救われたと。ほんの数日だけだったけれど、なんだか父親ができたみたいだったと。そして……たとえ互いが争いを望んでいなくとも、人間と妖怪という種族の違いだけで、別れなければならないこともあるんだとね」

 

 まるで、ついさっき誰かさんから聞いた話と同じではないか。

 

「それが、聖が妖怪と向かい合うようになるきっかけだった。その妖怪がいなければ弟はもっと早くに命を落としていたかもしれないし、自分の人生だってきっと今とは違っていただろうと――聖は言っていた」

 

 だから。

 ナズーリンは手を伸ばし、もう一度、月見の服の心臓をつまんで。

 逃さぬように、強く笑みを剥いて。

 

「月見。――君のことだよ」

 

 妖怪を想う人間と、人間を想う妖怪、なんだか似た者同士だとは思っていたがそれどころではなかった。むしろ、似ているのが至極当然の話だったのだ。だって聖白蓮という少女を形作ったのは、ある意味で月見だったと言えなくもないのだから。

 ナズーリンは寺のご意見番めいた立場だったから、ムラサたちよりもほんの少しだけ白蓮の本心に触れる機会が多かった。たとえ顔も名前も知らない相手だって、白蓮の思想の根底には必ずその妖怪の存在があった。白蓮と月見は、聖命蓮という少年を隔ててとっくの昔に出会っていたのだ。

 無論白蓮が人間と妖怪の共存を理想としたのは、ただ弟を月見に救われたからではない。弟の言葉をきっかけに妖怪たちと向き合っていく中で、そういう世界が必要なのだと本気で考えるようになったからだ。

 でもいつか、本当にそんな世界を創れた暁には。

 弟の出会った妖怪が、遊びに来てくれたら嬉しいと――そう、言っていた。

 

「……まったく」

 

 月見が、噛むように呟いた。

 

「誰にも言わない方がいいって。忘れてしまえって、言ったのにね。……馬鹿なやつだよ」

 

 口振りには、一言などでは到底語り尽くせない複雑な感情がにじんでいた。聖白蓮という少女を形作ったのが、ある意味で月見だと言えなくもないのなら。それは言い方を変えれば、白蓮の運命を本来ありえない形に曲げたのもまた月見だと言えるだろう。

 曲がった結果として在る今が、白蓮にとって幸いだったのか、不幸だったのか。

 どちらかで答えろと言うならば、不幸だったのかもしれないとナズーリンは思う。人と妖怪の共存を夢見さえしなければ、白蓮は人々から拒絶されることも、千年以上も独りで封印されることもなかっただろう。彼女が歩こうと決めた道は、当時では険峻にそびえ立つ茨の道だったのだ。

 だからナズーリンは、なんとしてでも彼女を月見に会わせたい。今までの話を聞いて、会わせたがるなという方が無理な話だ。

 

「なるほどねえ。つまりその白蓮ってやつにとって、月見はちょっとばかり特別な妖怪になるってわけだ」

 

 神奈子が愉快げに喉を震わせた通り。人も妖怪も分け隔てなく、争いを望まないすべての者たちの橋渡しとなれる――そんな存在に、白蓮はずっと憧れ続けていたのだから。

 白蓮がこの幻想郷で、月見とともに歩んでいく光景を。

 望むなという方が、無理な話なのだ。

 

「ムラサ。今夜はきっちり早寝して、船の修理なんて朝のうちに終わらせてくれたまえよ」

「らじゃーっ!」

 

 ムラサは元気に敬礼を決め、

 

「なんだか上手く言えないけど、これってすごくすごいことだよね! 私、なんだかわくわくしてきたよっ」

 

 テーブルをビシビシ叩くそのやかましさに引っ張られて、静まっていた部屋に段々と賑やかな空気が戻ってくる。

 

「一輪、船の修理手伝ってね! 星も……まあできれば手伝ってね!」

「はいはい」

「な、なんで私だけ条件付きなんですかあっ」

 

 早苗は両手を合わせてうっとりと感慨に耽り、寝ていると見せかけてしっかり話を聞いていた諏訪子は意地の悪い笑みで月見を茶化している。

 

「こんなことってあるんですねえ……なんだか素敵です」

「月見ったら、また新しい女増やそうとして。紫に怒られても知らないんだー」

「……人聞きの悪いことを言わないでくれ」

 

 さてそうこうしているうちに、油揚げをメインに据えた八雲藍特製のお夕飯が完成し、ぬえを起こしてみんなでわいわいと舌鼓を打つことになるのであるが。

 そんな中でナズーリンはひとり、今なお眠る白蓮へそっと思いを馳せる。

 ――もうすぐだよ、聖。

 当時の人間たちは皆その生命を全うし、今や白蓮を悪魔と呼ぶ者は誰一人としていない。自分たちはまたはじめから歩み始めるのだ。すべての種族が同じ時間を笑いながら共有できる、この幻想郷という名の世界で。そんな世界を優しく見守る、月見という名の妖怪とともに。

 決して、楽なことばかりではなかったけれど。辛いこともあったけれど。それを考えれば神古しづくが白蓮を封じたのも、ひょっとすると運命だったのではないかと思えてくるのだ。

 神古しづくに封じられていなければ、白蓮は生きてこの時代を迎えられていたかもわからなかった。妖怪に(くみ)する人間の敵として、討伐されていたっておかしくはなかった。だからあたかも神古しづくが、白蓮と月見を導き合わせてくれたかのようで――。

 

「あれナズ、箸が進んでないですね。あ、もしかしてもうお腹いっぱいなんですかっ? じゃあ勿体ないのでナズの分は私が」

「しゃ――――――――っ!!」

「ぅひいいいっ!?」

 

 まあそんな思考はあいもかわらずあいかわらずなご主人サマのせいで、ぷっつりと打ち切りになったのである。

 うん、うまー。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 翌朝、月見と藍に次いで三番目の早起きはナズーリンだった。彼女は朝も早いしっかり者なのだろうという月見の勝手な想像を寸分も裏切らず、身繕いを整え、顔もすっきりさせて、まったくお手本のように礼儀正しい起き抜けの姿だった。

 

「おはよう」

「おはよう。……なんだ、すでにおくつろぎじゃないか。これでも早起きしたつもりなんだが」

「年寄りの朝は早いんだ」

 

 月見は彼女より一時間ほど早く起床し、霜の降りる庭を散歩したり、同じく早起きな藍と一緒に朝食の支度をしたりしていた。今はそれもあらかた済んだので、こたつで二人ぬくまってお茶を飲みつつ、「文々。新聞」を広げて、不在にしていた一週間の出来事を教えてもらっていたところだ。

 話を聞く限りでは、特筆することもなく平和な日々だったようである。月見がいるときと同じように、輝夜がなにをするでもなくゴロゴロしていったり、咲夜が掃除をしていったり、妖夢と幽香が庭の手入れをしていったり、レミリアとフランがなにをするでもなくゴロゴロしていったり、橙とルーミアが釣りで遊んだり、わかさぎ姫が釣られたり、妹紅がなにをするでもなくゴロゴロしていったり、操が椛から逃げてきたり、草の根妖怪ネットワークが集会を開いたり、天子がなにをするでもなくゴロゴロしていったり、チルノたち妖精が遊びに来たり、小町がサボって温泉に入りに来たり、萃香がなにをするでもなくゴロゴロしていったり、幽々子がなにをするでもなくゴロゴロしていったり。たとえ家主がいなくても、この屋敷が少女たちの集会所扱いなのは変わらないのだ。

 ナズーリンは、月見と藍をしばし見つめてふっと笑った。

 

「そうしていると、まるで夫婦だね」

 

 ありふれたお決まりの冗談を、藍は眉ひとつ動かさず冷静に受け流す。

 

「からかうんじゃないよ」

「その割には尻尾が満更でもなさそうだが」

 

 湯呑みを倒してお茶をこぼした。文の新聞が犠牲になった。

 

「あー、」

「もももっ申し訳ありません!?」

 

 目にも留まらぬ早業で布巾を走らせ、藍は犬歯を剥いてナズーリンを睨みつける。ナズーリンは尻尾をくるくる回しながらどこ吹く風で、

 

「はっはっは、やはり尻尾は嘘をつけないね」

「ぐっ……そ、そんなはずは……!」

「もちろん嘘だよ」

 

 藍の瞳が暗黒で潰れた。

 

「月見様……このあたりの鼠を一匹残らず捕まえて、橙のおもちゃにしましょう」

「待った、それは本気で勘弁してくれすまなかっ……待て待て式を飛ばすな、悪かったって後生だからぁ!」

 

 このあたりを住処にしている妖怪鼠が、ときたま橙に見つかってハンティングされているのは余談である。やはり弱肉強食のヒエラルキーを覆すことはできないということか、狐と鼠の勝負は藍の逆転勝利で収束した。

 落ち着いたところで、今度は水蜜が起きてきた。

 

「あー、おはようございまーふ」

「ああ、おはよう」

 

 水蜜についても、寝起きの姿はおよそ月見が思い描いていた通りだった。髪はボサボサとはいわないまでも少し寝癖で飛び跳ね、寝惚け眼をこすって半分あくびをし、服はよれよれになった寝間着のまま。まこと、気さくで砕けた性格の水蜜らしい。

 ナズーリンががっくり項垂れて呆れた。

 

「ムラサ……一応私たちは客の立場なんだから、もう少ししゃんとしたらどうなんだい」

「えー、月見さんはそんなの気にしないよぉ。ねー月見さん」

「ああ。楽な恰好でいいんだよ」

「ほらー」

 

 水蜜がにへーと締まりなく笑い、ナズーリンは今度は月見に呆れる。

 

「まったく、本当に君は甘やかしてばかり……」

「甘やかしちゃいないさ。本当にそう思ってるだけだ」

「君らしいが、度し難いね」

「私は、いちいち口うるさいよりぜんぜんステキだと思いまーす」

 

 そそくさとこたつに入るなり、水蜜はテーブルに顎を乗せただらしのない恰好でふにゃふにゃにとろける。そのままあっという間に二度寝を始めそうだったので、

 

「よく眠れたかい」

「もうバッチリですよー。よく眠れすぎて、逆にまだスイッチ入ってないでーす。このままいつでも二度寝できまーす」

「さすがに二度寝はダメだよ」

「ふあーい」

 

 ナズーリンはもはや呆れ果てて、小言を言うのも諦めたようだった。

 

「地底にいる頃から話には聞いてましたが、月見さんのお屋敷がここまで素敵だとは思いませんでしたー」

「ありがとう。……他のみんなは?」

「よだれ垂らして爆睡してまーす」

 

 よだれ。

 

「一輪も星もぬえも、基本的にだらしがないのでー」

 

 布団を顎の先まで被って丸くなり、すやすやと幸せいっぱいに爆睡している三人の姿を想像する。一輪は髪が寝癖だらけで、星は枕によだれを垂らしていて、ぬえは寝相が悪すぎて頭と足の位置が逆転している。

 とてもしっくり来た。

 

「あいつららしいね」

「……片棒担いでおいてなんだが、自分の主人が一日でこんな扱いになってるのはちょっと複雑だね」

「いいじゃないか。どこもかしこも非の打ち所がないと反って窮屈なものだよ」

 

 そう感じてしまうのは、昔からなにかと非の打ち所ばかりな少女たちと縁があるからなのだろう。

 

「まったく君は……」

 

 途中まで言いかけたナズーリンは口を噤み、肩を竦めて、

 

「……まあ、しかし、だからこそ君と聖を会わせたいと思うんだけどね」

「……私も、早く会ってみたいよ」

 

 昨夜は寝付くまでの間、布団の中でたくさんのことを考えていた。それは挨拶らしい挨拶もできないまま別れてしまった地霊殿のみんなであったり、眠ってしまった志弦であったり、『神古』であったり、もしくは霖之助はちゃんとご飯を食べたかなとか、はたてはあのあとどうなったんだろうとか、或いは命蓮との思い出や、未だ顔を知らないそのお姉さんのことであったりした。

 慧音の「歴史を創る程度の能力」は、埋もれてしまった過去に再び光を当てる力だが、逆を言えば、そもそも埋もれてすらいない――歴史になっていない過去はどうやっても解き明かすことができない。

 一輪と水蜜は、白蓮を封じた『神古』を恨んでいた。

 なら、白蓮は――。

 彼女は、自分たちの生活をめちゃくちゃにした『神古』を恨んでいるのだろうか。封印から解かれ、その子孫である志弦と出会ったとき、彼女は一体どんな感情を心に刻むのだろう。

 それだけが、眠りに落ちる最後まで気掛かりだった。

 

「……お互い、昨夜はいろいろと考えていたみたいだね」

「ということは、ナズーリンも?」

「まあ……ちょっと、ね」

 

 いつも快刀乱麻を断つナズーリンにしては、珍しく要領を得ない返事だった。話だけでもしてみるつもりだったが、本当にいいのだろうか、もしかすると大変なわがままなのではないか――そう決めあぐねているように見えた。

 

「言い辛いことかい?」

「いや……」

 

 無理に聞くつもりはなかったが、ナズーリンは腹を括ったようだった。

 

「魔界へ行く方法についてだ。聖輦船には法力を消費して転移を行う機能があって、そして昨日も言った通り、船に宿っているのは弟殿の法力だ。つまり、魔界へ転移する際にはその法力を使うことになるんだが……」

「……んー?」

 

 水蜜が気の抜けた声で、

 

「……うん。えっと、それがどうかしたの?」

 

 月見にも話が見えない。元より聖輦船の転移機能を完全に復活させ、かつ必要な法力を確保するために昨日一日掛けて破片を捜し回ったのだ。当然、修理が完了次第命蓮の法力を使って魔界へ行くのだと思っていたし、昨夜の時点ではナズーリンもそのつもりだったはず。

 ナズーリンは、まだ若干歯切れが悪い。

 

「……一度転移してしまったら、弟殿の法力が尽きてしまうんじゃないかと思ってね。こことは違う世界に転移するわけだし」

「法力が尽きたらこっちに帰ってこれなくなるってこと? 聖を復活させるんだから、聖に込め直してもらえばいいじゃん。私はそのつもりだったけど」

「まあ、そうなんだが……」

 

 月見も水蜜も、余計な口は挟まずナズーリンの考えがまとまるのを待つ。

 ナズーリンは一度無理に話すのをやめ、ゆっくりと息を吸って、吐いた。

 

「私もそう考えていた。……だが昨晩、月見と弟殿の話を聞いて、少し考えが変わったんだ」

 

 そこまで口にしてしまえば迷いも晴れたのか、目線を上げたときにはいつも通りの彼女が戻ってきていた。

 

「可能であれば、弟殿の法力を使わずに魔界へ行けないかと思うんだ。……上手くは、言えないけれど。月見――君の存在と、弟殿の力を遺した聖輦船。この二つがあれば、本当の意味で聖を救うことができるような気がしてね」

「……あー、」

 

 まだ眠気が残っていた水蜜の面持ちに、急速に理解の色が広がった。ゆるゆる脱力し、またテーブルの上にだらしなく伸びて、肺の空気を静かに入れ替えるため息をついた。

 

「あー、そっかー……。それは、んー……言われてみれば、そうかもなー……」

 

 月見にも、わかった。

 聖輦船は、それ自体がひとつの巨大な忘れ形見なのだ。世にも珍しい空飛ぶ船であると同時に、そこには命蓮の法力が、すなわち彼の生きた証が、千年以上経った今でもなお色濃く遺されている。だからもしも、あの船の立派な姿を白蓮に見せてやれたなら。

 

「弟さんの恩人が、弟さんの船で迎えに――か。そうだね。私も上手く言えないけど……もし本当にそうなったら、聖、すごく嬉しいだろうね」

「……ああ。だから、どうにか弟殿の法力を使わない方法はないかとね。ちょっとだけ気になったんだ」

 

 月見は口元だけでふっと笑った。人を散々甘いだのお人好しだのたしなめるくせに、ナズーリンだって大概世話焼きではあるまいか。それは、白蓮を想う真摯な心がなければ思いつきもしない考えだろう。「ちょっとだけ」なんて澄ました顔で言っているが、昨夜は寝付くまでずっと頭を悩ませていたに違いない。

 ジト目で睨まれた。

 

「……なにか言いたげだね、月見」

「いや、なんでも」

 

 しかし、なにもおかしいことはない。だってナズーリンは人々を加護する毘沙門天の遣いであり、志弦という人間を二度に渡って助けてくれた、素っ気ないふりをしていても心優しい妖怪なのだから。

 確かに、ナズーリンの言う通りだった。月見も、できることなら今の聖輦船を白蓮に見せてやりたいと思う。お前の弟が生きた証は、千年以上が経った今もなお立派に刻まれ続けているのだと。

 だがそのためには、別の新たな問題が浮上する。

 

「でも……そしたら、弟さんの代わりになる法力をどっかから持ってこないとだよ。別世界に行くんだから半端な量じゃないし……そんな当てあるの? 星に頼むとか?」

 

 ナズーリンは苦々しく首肯する。

 

「現状、それしかないね。ただ毘沙門天様には、宝塔含めてすでにいろいろと力を貸していただいているから、これ以上は……心苦しいけれど」

「……」

 

 言っていることはわかる――そんな顔をしつつも、水蜜の反応は芳しくない。

 

「……できるなら、もちろん私も賛成だよ」

 

 横目でナズーリンを見遣って、そっと釘を刺すように、

 

「でも……聖を一日でも早く助け出したい。その気持ちは、私たち、おんなじでしょ?」

「……ああ。わかっているさ」

 

 結局のところ水蜜にとって、命蓮は白蓮の大切な家族でありつつも、同時に顔も知らない他人でしかないのだ。彼女が敬い慕う相手は白蓮であり、決して命蓮ではない。

 代わりとなる法力が見つからず、そもそも魔界に行くこともできなくなるくらいなら。

 

「もちろん、代わりの法力が確保できるまで待ってくれなんて言わないよ。船を修理している間に、毘沙門天様に話だけでもしてみるつもりさ。どの道、当ては毘沙門天様以外にない。駄目だったら、そのときはすっぱり諦めるよ」

 

 月見を見て苦笑し、

 

「……というわけで、今日は一度毘沙門天様のところに戻ろうと思う。その間……申し訳ないんだが、ご主人の面倒を見てもらって構わないかな」

 

 幻想郷ではだいたい部下の方が優秀なので、そんな彼女たちから主人の世話を頼まれるのも珍しくないのだ。特に紫とか輝夜とか。

 わざとらしく微笑んで答える。

 

「星がいつ優秀な姿を見せてくれるのか、私は楽しみだよ」

「……うん。まあ、その、あまり期待しないで気長に待ってくれると嬉しいかな」

 

 果たして、星が毘沙門天の代理として名誉挽回できる日はやってくるのだろうか。彼女のことだから、やっとの思いで挽回してもすぐまた汚名まで挽回してしまうのかもしれない。月見はちょっと楽しみになってきた。

 吐息。

 

「……さて。じゃあそろそろ、ご主人たちを起こすとするか……」

 

 でもご主人のことだからどうせ、とぶつぶつ言いながらナズーリンがのっそり立ち上がる。早くも頭痛に呻くような足取りで茶の間を出ていく彼女の背には、言葉にならない滋味あふれる哀愁が漂っている気がした。

 襖が閉まり、藍がぽつりと、

 

「……彼女とは、なんだか気が合いそうです」

「……うん。だろうね」

 

 主人に手を焼かされる苦労人同士、酒でも入れば夜を日に継ぐ勢いで語り合えることだろう。ナズーリンが幻想郷苦労人同盟の会合に招かれる日は、もしかするとそう遠くはないのかもしれない。

 藍も腰を上げた。

 

「では、みんな起きてくるでしょうから朝食にしましょう」

「ああ。手伝うよ」

「ごちそうになりまーす」

 

 藍とともに台所へ向かう途中の廊下で、三階から予想通り怒声と悲鳴が響く。

 

『――なァにが「あと五十分~」ださっさと起きろッ!!』

『ふみゅ――――――――っ!?』

 

 星がバタバタのたうち回る喧騒を聞きながら、月見は天井を見上げて苦笑し、藍は心の底からしみじみと頷く。

 

「もはや他人とは思えません」

「紫も『あと五時間~』って言うもんなあ……」

「冬眠から起きるときは『あと五日~』になりますよ。そこを問答無用で叩き起こすのがまた楽しいんです」

 

 頭を使わせれば非の打ち所のないナズーリンに、唯一足りないものを挙げるならば。永遠亭の胃薬の常連客となってしまう前に、彼女は一刻も早く藍と同じ境地へ辿り着く必要があるだろう。

 幻想郷の従者に必要なのは主人の欠点を矯正しようという気概ではなく、ダメなところもぜんぶまとめて可愛がる悟りの精神なのである。

 

 ――あとになってナズーリンからこっそり謝罪されて曰く、星は本当によだれを垂らして爆睡だったらしい。

 そして一輪は髪がイソギンチャクになっていて、ぬえは枕に足を乗せて寝ていたとか。まったく、つくづく月見の期待を裏切らない少女たちである。

 

「ふみゃみゃみゃみゃみゃみゃ!?」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 すっかり失念していたが、今日も今日とて温泉を開けなければならないのだった。正真正銘、今年最後の日帰り温泉『水月苑』の営業日である。

 状況が状況なので、はじめは臨時休業も考えた。また藍を頼りきってしまうのは心苦しいし、今日の相手はどうせ野郎どもなのでそこまで優先してやることもない。間違いなく多くの男衆が温泉納めを狙っているはずで、一度店を開けてしまえば、奴らは夜が更けるまで宴会気分で騒ぎ散らすだろう。

 しかし月見がなにかを言う前に、目を輝かせてやる気満々張り切った藍が、

 

「月見様、お屋敷の方は今日も私にお任せください!」

「いや、しかし」

「お任せください!」

「藍、」

「お任せを!」

 

 断ったらめちゃくちゃしょんぼりされるやつだな、と思ったので好きにやらせることにした。まったく藍をはじめ、好きでお手伝いをしてくれる少女たちには頭が上がらない。

 もふんもふんと弾む金毛九尾を見送って、月見は外に出た。お日柄は昨日に続いての快晴だが、ほどよく降り注ぐ陽の光があっても肌寒い朝に変わりはなく、大きく息を吐くと視界が束の間真っ白に染まる。一方で雪は少しずつ解け始めているようで、一面銀世界だった庭の景観には木々の緑が戻りつつある。耳を澄ませば山がしんしんと呼吸する静寂と、そして、どこかから小さな水の雫の音がした。

 聖輦船の修理はすでに始まっている。内部の作業なので地上からは見えないが、水蜜と一輪が役割分担して指示を出す声と、河童たちの掛け声のように威勢のよい返事が聞こえてくる。船の周りではそんな賑やかな修理の風景を天狗たちが写真に収め、或いはメモ帳にペンを走らせ書き残したりしている。

 月見たちが朝食を終えて間もないあたりで勝手に集まってきて、修理を手伝わせてほしい、見学させてほしいと志願してきたのだ。元々は飛倉の破片をより多く集めるのが条件という話だったが、あんなのは所詮彼女たちを焚きつけるための方便に過ぎなかったわけなので、そこまで言うならと意気を買わせてもらうことにした。水蜜たちの今後の生活を見据えて、こういうところから交流を始めていければと期待もしている。

 もちろん、変な真似をしないできちんと手伝うことと、作業の邪魔にならないよう気をつけることの二つが絶対厳守だ。もし破ればそのときは、雲山のいかつい拳骨か妖怪鼠たちのガジガジ攻撃が待っている。面子が面子なので若干不安だが、率先して手伝いを申し出てくれる気持ち自体はありがたいものなので、まったく朝っぱらからこたつむりなぬえに爪の垢を煎じてやりたくなってくるのだった。

 池のほとりでは星が、わかさぎ姫や早苗と集まって井戸端会議を開いている。月見の記憶が正しければ、当初は彼女も修理のお手伝いをしようとしていたはずだが――まあ、あまり触れない方が星のためであろう。

 ところで、早苗は一体いつの間にやってきていたのだろうか。少女たちからおおむね集会所扱いされている水月苑において、気がつけば一人二人が増えている程度は日常茶飯事である。

 わかさぎ姫と早苗が手を振ってきたので、月見はひとまずそちらへ向かった。

 

「あー、旦那様ー」

「おはようございまーす」

「おはよう。……いつの間に来たんだ?」

「ついさっきですよ。志弦の様子を見に行こうと思いまして、ついででご挨拶に」

 

 志弦が謎の眠りに落ちてから、もうすぐ丸一日が経とうとしている。今のところ永遠亭から、彼女の目覚めを知らせる遣いは一人も来ていない。

 

「まだ朝早いので、向こうもご迷惑かもですけど……でも、やっぱりどうしても心配なので」

「大丈夫だろう。輝夜のやつも、いつでも様子を見に来ていいって言ってたし」

 

 不便がないよう、竹林の入口付近に道案内のイナバチームを増員してくれると聞いている。ついでに、てゐが傍迷惑な悪戯を働かないよう言い含めてくれる、とも。

 

「なにかあったら、すぐお知らせしますね」

「ありがとう。今の時期、神社は大忙しだろうに」

 

 神職にとって、年末年始は一年最大の書き入れ時だ。この時期ほど神社の存在が人々から意識される日は他にない。正月事始め、煤払い、歳の市などお決まりの行事も、月見たち一般人とはその重要性がまるで違う。本当なら、月見たちの方が手助けをしなければならないくらいなのだ。

 けれど、早苗はあっさりと首を振った。

 

「実は去年、幻想郷に来てはじめての年だったので勝手がわからなくて、いろいろ失敗しちゃいまして。今年はその反省を活かして、志弦にも手伝ってもらいながら早めに作業を進めてたんです。去年と違って人脈も増えましたしね。なので問題ありません」

「それは大したものだ。こっちはまだなにも終わってないから、大変な年末になりそうだよ」

「あー。でも、月見さんの事情はみんな知ってますからね。藍さんとか咲夜さんとか輝夜さんとか、たくさん集まって手伝ってくれるんじゃないですか?」

 

 むしろ、だからこそ大変な年末になりそうだとも言う。

 

「あ、正月飾りのお求めは是非守矢神社で! 注連縄とか破魔矢とか御神酒とか、諏訪子様と神奈子様の御加護がバッチリなので縁起がいいですよっ!」

「そうだね。そうさせてもらうよ」

「お願いしますねっ。『あの月見さんも買った!』って箔がつけば、人里に持ってったときも売れると思うんです! 月見さん、あそこだとお稲荷様に勘違いされてますからねー」

 

 自分は妖怪だと何度説明しても聞く耳を持ってもらえないので、たぶん連中はわざとやっている。

 

「それじゃあ、行ってきますね!」

「ああ。いってらっしゃい」

「「いってらっしゃーい」」

 

 わかさぎ姫と星の二人に仲良く手を振って見送られ、早苗は冬の寒空をまっすぐ南へ飛び立っていった。月見が知らないうちに、この三人はすっかり打ち解けて仲良くなったようだ。

 月見の視線に気づいて、星はなぜか慌てて両手を振った。

 

「あ、月見さん……いえあのっ、これは決してサボっていたわけではなく! 船の修理を手伝おうとしたけど足手まといで追い払われたわけではなくってですね! ええとその、幻想郷についてひめさんや早苗さんに教えていただいてましてっ。私、ここにはまだ来たばかりなので……」

 

 盛大に自爆しているが、月見は聞き流してやることにした。昨日一日と今日の朝で散々醜態を晒したせいで、星はすっかり肩身を狭くしてしまっている。

 

「星、そんなにビクビクすることはないよ。私はナズーリンじゃないんだ」

「うう……月見さんには、ご迷惑ばかりお掛けしています……」

「大袈裟だねえ。ここが普段からどれだけ騒がしい屋敷だと思う?」

 

 星の失態程度で迷惑になるのなら、輝夜やフランをはじめとするはっちゃけ少女たちが日頃から跳ね回る水月苑は、まさしく幻想郷の混沌を煮詰めた伏魔殿であろう。

 星の表情が和らぐ。

 

「ああ、お話はひめさんから伺いました。昨日もたくさんの方が息抜きにいらしてましたし……ここは、本当に素晴らしい場所なのですね」

 

 水月苑を見上げ、雪も欺くその真っ白い外壁に目を細め、

 

「聖に、早く教えてあげたいです」

「もうすぐ、助けに行けるさ」

「ええ、船の修理も順調そうですし……あとは、私がしっかり聖の封印を解かないとですよね。うう、緊張します……」

 

 また縮こまり、

 

「これでもしダメだったら、ナズからなんと言われることか……宝塔をなくした件も含めてぜんぶ毘沙門天様に報告されて、代理人失格になっちゃうかも……いや、私なんてはじめから相応しくないんですけど……ああ、やっぱり私はダメっ虎なんですー……」

 

 はっきり具現化したどんより雲を背中にまとって、一人で勝手にズブズブ沈んでいってしまった。いい加減哀れなのでなんとか慰めたいと思うのだが、今のところ星のダメな姿しか知らない月見には如何せんフォローが難しい。本当にこの子は仕事をさせると優秀なのか、と疑問に思うのも果たしてこれで何度目になるのか。

 

「星さん、ねがてぃぶになってはいけませんっ」

 

 悩む月見の代わりに、力強く口を切ったのはわかさぎ姫だった。両手で拳を作って前のめりになると、

 

「ナズーリンさんがとても要領の良い方なので、そーたい的に自分のことが悪く見えてしまうのだと思います……! ですが大丈夫です! ここから毎日水月苑を見ている私が保証します――」

 

 息を吸い、

 

「――星さんは普通ですっ!」

 

 普通。

 

「星さんで毘沙門天様の代理人失格になってしまうのだったら……ええと、ここに普段から集まってらっしゃるだいたいの大妖怪さんが大妖怪失格ですっ!」

「ひめ。そんな大妖怪が誰も来てなくてよかったね」

「…………と、とにかくっ!」

 

 もしかすると、なんとか星を慰めようとして自分でもよくわからないことを口走っているのではないか。

 

「でも、水月苑を見ていて気づきました。そんな方々は、嫌なことがあっても決してへこたれないんです。いつも前向きで、明るくて元気なんです。だからきっと、楽しく毎日を生きていれば、大抵のことはなんとかなってしまうんだと思うんです」

「ひめさん……」

「落ち込みそうになったときは、水月苑にいらしてください! 旦那様はいつでも優しく歓迎してくれます、私も愚痴くらいはお聞きします! それに、ここで元気いっぱいな皆さんの笑顔を見れば、こっちまで元気になれちゃうんですからっ。笑う門には福来る、ですよ!」

 

 しかし、最後まで聞いてみれば、まあ。

 そうなのだ。月見の周りで日頃から跳ね回っているあの少女たちと比べれば、星の欠点などまさに特筆することもなく普通なのだ。大切な物をなくしてしまった? 普通。よだれを垂らして爆睡してしまった? 普通普通。月見もそんな環境に今となっては慣れているので、ちょっとやそっと情けない姿を見せられた程度で目くじらは立てないし、むしろそれくらいの方がかわいげがあってちょうどよいのだとすら感じてしまう。繰り返すが、個性的な少女たちであふれる幻想郷ライフに必要なのは、相手のダメなところもぜんぶまとめてかわいがる悟りの精神なのだ。

 そして、そんなときどき情けないこともある少女たちは、とかく元気いっぱいでへこたれない。出処不明な無限のエネルギーに満ち満ちて、いつでも月見に笑顔を見せてくれる。我が道突き進む彼女たちの天真爛漫な姿は、いつでも月見に元気を与えてくれる。

 笑顔、は、力だ。

 笑う門には福来る。

 きっと、そうなのだろう。

 星の頬が、緩んだ。

 

「……ひめさんはそれを、この場所から学んだんですね」

「はいっ。今日も温泉の日ですから、これからどんどん人が集まって賑やかになるはずです。あ、ほら、早速お客さん……が…………」

 

 空を指差したわかさぎ姫が、そのまま尻すぼみで沈黙した。頬が笑みの形を描いたままみるみる引きつり、走り抜けた緊張で綺麗に石化する。

 その反応だけで、月見は指先の方向を見ずとも誰がやってきたのか理解した。あのわかさぎ姫が思わず笑顔を引きつらせる相手となれば、該当者は月見が知る限り一人しかいない。

 わかさぎ姫の反応を訝しんだ星が空を見上げる。月見もまた同じ方向を追うと、そこにはやはり思った通りの少女の姿が

 

「……、」

 

 月見は目を丸くして沈黙した。降りてくる人影はふたつあり、ひとつは月見が予想した通りの少女であり、しかしもう片方はまったく夢にも思っていない相手だった。

 大きな鳥の、羽音が聞こえる。

 

「……少し見ない間に、ここはまた様変わりしましたね。あの船は一体なんですか?」

 

 まず降り立ったのは、わかさぎ姫の頬を引きつらせる張本人である映姫だ。それはいい。彼女は元より、遠路はるばる水月苑を訪れる馴染みの客の一人である。月見が地霊殿から地上へ帰ったのを、その地獄耳で早速聞きつけてきたらしい。

 それより問題は、映姫に一拍遅れてやってきた少女の方。見覚えのある風呂敷を両手で危なっかしく抱えている。背負えば運ぶのも楽だろうに、そうしないのは羽ばたく邪魔になるからだろうか。月見と目が合った途端縮こまり、あいもかわらず小動物のように、遮蔽物を求めて映姫の背中にちょっぴりだけ隠れる。

 どうやら、月見が置きっぱなしにした荷物を持ってきてくれたらしいけれど。

 

「……お前、どうして」

 

 ようやく、声が出た。少女は伏し目がちになってもじもじしながら、月見を見ては逸らし、見ては逸らし、三回目にしてようやく、

 

「…………お、おはよう……」

 

 ややツンとした意地っ張りな挨拶は、やはり間違いなく。

 霊烏路空が、そこにいた。

 

 

 

 ○

 

「ぶー、私も月見のとこに行きたかったー。お姉ちゃんのいじわるぅー」

「わがまま言わないの。おくうは遊びに行ったんじゃないのよ。式神として月見さんのお手伝いをする、大切なお仕事をしに行ったの」

「私も行っちゃおっかなー。能力使えば誰にもバレないしなぁー」

「閻魔様に言いつけるわよ」

「きちく!」

 

 

 

 ○

 

 予想外だった理由はふたつある。ひとつはおくうが、地霊殿から一人で地上までやってきたこと。おくうは地上に対し未だ強い警戒心や恐怖心があり、ここは謂わば怖いやつらだらけの魔窟にも等しい。妖夢が独りぼっちでお化け屋敷に入ろうとするようなものだ。依存したがりなおくうの性格を考えれば、せめてこいしやお燐と一緒でなければ絶対に行きたがらないはずではないか。

 もうひとつが、おくうを案内してきたのが映姫であること。不可侵の約定は一応今でも有効であり、地上と地底の行き来は原則として御法度のままだ。そして閻魔の四季映姫は、ご想像の通りそういった決まり事に大変敏感で口うるさい。規律と秩序を重んじる彼女の性格を考えれば、地底の妖怪を地上まで案内するなど言語道断のはずではないか。

 しかし事実としておくうは月見の目の前にいるし、彼女を連れてきたのは映姫である。だから夢にも思わぬ予想外中の予想外で、月見は返事も忘れてぼけっと突っ立ってしまっているのだ。

 映姫に悔悟棒で小突かれた。

 

「こら、なにをぼーっとしているのですか。挨拶されたのだから無視はダメでしょう?」

「……ああ、悪い。おはよう、おくう」

「ん……」

 

 鼻から出したような素っ気ない返事だが、おくうの翼が二回、満更でもなさそうにぱたぱたと動いた。

 さて、これはどこからどう話を切り出したものか。悩んでいたら池のほとりからわかさぎ姫が、

 

「お、おおおっおはようございますっ!」

 

 水面にヘッドバットをかますような勢いで、映姫に向けてものすごく頭を下げた。いきなりの大声にびっくりしたおくうが、映姫の後ろから飛び出して今度は月見の後ろに隠れた。

 お説教大好きな閻魔様が幻想郷中の住人から恐れられているのは世の常で、それはわかさぎ姫も例外ではない。彼女がこの池に引っ越してきて間もなかった頃、映姫から同棲だのなんだのといろいろ勘違いされて理不尽なお説教を叩き込まれて以来、わかさぎ姫はすっかり厳しい先輩に怯える下級生の有様であり、映姫もどことなく年上風を吹かせているのだった。

 

「ええ、おはようございます。この狐が留守にしていた間、変わりはありませんでしたか?」

「はひ!」

 

 教科書に載せたくなるような見事な敬礼が炸裂する。

 

「頑張ってお留守番してましたし、お池のお掃除も毎日やっていました! ちゃんといい子にしてましたっ!」

「うむ、よいですね」

 

 わかさぎ姫の突然の豹変に、星が目を白黒させてきょろきょろしている。映姫が気づく。

 

「おや……? あなたは妖怪ではありませんね」

「あ、ええと、毘沙門天の代理を務めさせていただいております、寅丸星と申します」

「……なるほど、毘沙門天。そういうことですか」

 

 静かに納得する映姫へ星はおずおずと、

 

「あ、あの、貴女は……」

「ああ、失礼。私は四季映姫、是非曲直庁の閻魔です」

「閻」

 

 一秒、

 

「魔」

「……なにか?」

「い、いえいえなんでもありませんっ!?」

 

 星が目を剥き出しにして月見を見る。月見は黙ってひとつ頷く。わかさぎ姫も五回くらい必死に頷いている。

 星の顔中にぶわっと冷や汗が吹き出し、

 

「……あ、あのっ、わたし悪い妖怪じゃありません!」

「はあ、それはわかっていますが。毘沙門天の代理なのでしょう?」

「なにも悪いことしてません!」

「……自分から言うとは少々怪しいですね」

「みいっ!?」

 

 あいかわらずこの毘沙門天代理、月見もびっくりの速度で自爆していくスタイルである。仏様の宝物を紛失しただけでなく、誤解とはいえ人攫いの片棒まで担いでしまった上、それらを隠して「悪いことはしていない」と虚偽の申告まで――閻魔様にとって、ここまで説教し甲斐のある逸材もなかなか巡り会えないだろう。

 しかし星はすでにナズーリンから嫌というほど怒られ、反省を通り越して自己嫌悪の世界に飛んでいってしまった身。閻魔様のお説教という血も涙もない追い打ちまで炸裂したら、彼女はいよいよもって砂と化して消滅を始めてしまう。

 さすがに可哀想なので、ここは話を逸らしてあげる――というより、もっと大事な確認事項があるわけで。

 

「映姫、それより教えてくれないか。お前がおくうを連れてきたように見えたんだけど」

「む……そうでした。その話をしなければなりませんね」

 

 星が阿弥陀の来迎を目の当たりにしたように月見を見つめる。だから仏は他でもないお前のはずだろうに。

 さておき。

 

「ほらおくう、隠れてないで顔を見せてくれないか」

「う、うー……」

 

 背中に隠れるおくうを尻尾で叩くが、彼女は抱えた風呂敷もろとも密着して一センチも離れようとしない。見知らぬ赤の他人であるわかさぎ姫と星に、おくうの警戒心は早くも最大レベルで警報を鳴らしている。

 一方でわかさぎ姫は、新しいお友達を見つけて嬉しそうだった。おくうの無言の威嚇を物ともせず、わざとらしさのない自然な笑顔で、

 

「はじめましてー。旦那様のお友達ですか?」

「……」

「怖くないですよー、食べたりしないですよー。むしろ私が食べられちゃう側ですよー、なんちゃって」

「……あなた、その冗談はあまり笑えませんよ」

「そ、そんなあっ」

 

 自信あったのに……としょんぼりするわかさぎ姫に、なんだか変なやつだと好奇心を惹かれたか、おくうがそろりそろりと顔を出そうとする。その隙を逃さず、月見は尻尾で彼女を前に押し出した。

 

「うにゅっ……!」

 

 びっくりしてまた隠れようとするおくうの肩に手を置き、

 

「逃げない逃げない。大丈夫、この間パーティーに来た連中と同じでいい妖怪だよ」

「う、うー」

 

 映姫からも、叱責めいた激励が飛んでくる。

 

「なにを恥ずかしがっているのですか、霊烏路空。あなたの緊張は察しますが、それを覚悟でここまでやってきたのでしょう。己の務めを果たしなさい」

 

 ――己の務め?

 荷物を届けに来てくれたことだろうか。しかし、高々忘れ物を届けるためだけにおくうを遣わせるのは大袈裟ではないか、と思う。藤千代に頼めばわざわざ映姫が案内をする手間も掛からないし、余計な問題が起こる心配だってないのに。

 わかさぎ姫が「私、怖いんでしょうか……笑顔が不気味とか……」と落ち込んでいて、星が「だ、大丈夫ですよ、私なんて元虎ですもん。がおー」と微笑ましいことをやっている。そしておくうが、意を決したように鋭く月見へ振り向いた。抱えた風呂敷をずいと差し出し、

 

「こ、これっ……置いてった荷物、持ってきたっ」

 

 疑問はあるが、事実こうして持ってきてくれたのならきちんと受け取るべきだろう。今はじめてわかったふりをして微笑み、

 

「ありがとう。助かったよ」

 

 おくうは鼻から「う」と「ん」の中間の音を出し、ふんふんと二回興奮の鼻息を吐いた。

 

「役に立てたっ?」

「ああ、もちろんだとも。本当に大助かりさ」

 

 ふんかふんか。

 折り畳まれた翼が犬の尻尾みたいに揺れている。どうやら、月見の役に立てたのが嬉しいらしい。

 本当に、最初の頃からは想像もできないくらいいじらしい子になったものだ。思えば先ほどのわかさぎ姫への反応も、おくうにしては随分と物腰が柔らかくなった方だった。月見が出会った当時のおくうなら、人の後ろに隠れてうーうー威嚇するどころか、「なにわけわかんないこと言ってるの?」と絶対零度の目をして喧嘩腰だったろう。

 先日のパーティーで、フランたちと仲良くなった影響なのだろうか。筋金入りだったおくうの地上アレルギーは、ほんのちょっとずつではあるが克服されつつあるらしい。

 

「でも、まさかこれだけのために来てくれたのか?」

「もちろん違います。本来、荷物は私が届けるつもりだったのですが、」

 

 そこまで素早く答えたところで映姫はハッとし、そっぽを向くとますます口早に、

 

「い、いえ、別に他意はありません。そもそも、事情があったとはいえ、人の家に荷物を置きっぱなしで帰るなどあるまじきことなのです。なので閻魔としてあなたに一言物申さねばならないと思った次第で、荷物の方はついで、あくまでついでであってですねっ」

「? でも閻魔様、今年最後につくみの顔を見に行くんだって」

「ひゃあぅっ!?」

 

 流れるような暴露に、映姫は素っ頓狂な悲鳴でおくうを黙らせる。

 

「あ、あなた、なにを言って……! ど、どこでそれを!」

「さとり様……」

「あ、あの覚妖怪ぃ……ッ!!」

 

 月見は地霊殿の愉悦妖怪にそっと念を飛ばす――さとり。このあとお前のところに怒りの閻魔様が突撃するだろうから、これを機に少し反省してくれ。

 しかし、今年最後に、ということは。

 

「やっぱり、彼岸はこれから忙しくなるのか」

「ぅ……え、ええ、まあ……」

 

 映姫が苦々しくも肯定する。神が定めた輪廻転生の営みに年末年始休暇があるわけはないから、当然といえば当然なのかもしれない。むしろ、年の変わり目という特別な時期だからこそ余計に忙しくなる部分もあるのだろう。本当に大変な仕事だ。月見だったら間違いなく、一週間を待たずに辞表だけを残して失踪する。

 映姫が、悔悟棒の持ち手を両手でそわそわといじっている。

 

「年が替わって、少しして落ち着くまでは……ここには来られないと、思います、ので……」

「それで、挨拶に来てくれたんだね」

「……いや、あの、ええと、…………そうついで! ついでです! ついでだと言っているでしょう!」

 

 さんざ考え通してやっと逃げ道を見つけたか、勢いを取り戻した映姫はんんっと咳払いをし、いかにも努力して作った澄まし顔で、

 

「いいですか。以前のいじわるなあなたと比べれば、最近は少しずつ、善行を積むようにもなってきているようですが。しかしまだまだ足りません。よって、来年も監視は続けますからね」

「まだそんなこと言ってるのか」

「黙りなさい! 監視といったら監視なのです!」

 

 月見の脳天へ連打を叩き込むように、悔悟棒を何度も何度も突きつけて、

 

「言っておきますが、年末年始だからといって自堕落な生活を送ることなどないように! 浄玻璃の鏡でぜんぶわかるんですからね! 怠けていたらお説教ですからね!?」

「わかったわかった」

 

 両手でどうどうと映姫を宥めつつ、思いの外、「来年も監視」と言われて嫌ではない自分がいた。というか、監視なんてもうほとんど名ばかりなのだ。はじめこそ月見の私生活隅々にまで目を光らせる勢いだったが、今となっては時折小言が飛んでくる程度で、そういえば説教らしい説教はしばらく喰らった記憶がない。四季映姫は、間違いなく丸くなってきている。

 出会った頃こそ、再会したときこそ、いろいろあったけれど。

 

「ありがとう、映姫。今年は本当に世話になったよ」

 

 家事の手伝いはもちろん、地底の異変では閻魔の実力を存分に発揮してくれただけでなく、厄介な後始末までぜんぶすっかり引き受けてもらったことを思い出す。そのあとだって、あれやこれやとそれらしい理由をつけて地霊殿までやってきて、月見の怪我の経過を、そして異変のあとの地霊殿を常に気に掛けてくれていた――と、思う。本人は全力で否定するだろうが。

 説教癖のせいでみんなから怖がられているものの、なんだかんだで面倒見がよくて、優しくて、でもちょっぴり意地っ張りなごくごく普通の女の子――今や彼女も、月見の賑やかな日々を彩ってくれる大切な友人なのだ。

 だから、月見は。

 

「来年もよろしくね」

「むっ……」

 

 映姫はわずかによろめくと、むくむくとつり上がってきた口端を悔悟棒で素早く隠し、あとはもう年上ぶっておくうを叱れないような有様で、

 

「ま、まあ……そこまで言うのなら、仕方ないですねっ。仕方がないので、よろしくされないことも、まあありません。まったく、これだから大人の女性は大変ですっ」

 

 星とわかさぎ姫が「閻魔様まで訪ねてこられるなんて……ほ、本当にすごい場所ですね、ここは」「うう、来年もちゃんといい子にしてないと……」と震え上がっているが、ルンルン鼻歌状態へ突入した映姫にはちっともさっぱり聞こえていないのだった。

 そのときおくうが月見の横に来て、指先でちょこっとだけ着物の袖を引っ張った。「私にも訊くことあるでしょ」とでも言いたげに頬を膨らませているのを見て、月見はすっかり話が逸れてしまっていたのを思い出す。

 

「で、挨拶が先になってしまったけど……ええと、結局私の荷物を届けるために来てくれたのか?」

「ち、違う。それもあるけど、それだけじゃないもん」

 

 なら、一体なんのために。

 

「ええと……その……」

 

 恐らくおくうの心象世界では、緊張という名の宿敵と激しい肉弾戦が繰り広げられていたことだろう。しばし落ち着きなく葛藤し、やがて意を決して顔を上げた彼女は、邪魔なものをすべて空の彼方まで殴り飛ばすように答えた。

 

「て、手伝いに来たっ」

「ん?」

「手伝いに、来たの!」

「……手伝い?」

「だ、だから……お手伝いなのっ!」

 

 なんの。

 反射的に年末年始の準備が脳裏を過ぎるも、それもさすがに大袈裟すぎるだろうと否定した。だって、おくうをここまで案内してきたのは映姫なのだ。藤千代ではない。恐らくは映姫とさとりの間でそれなりの話し合いがあって、映姫が半ば妥協するような形で、おくうの地上行きを例外的に許可したはずである。高々年末年始の手伝いごときで、大切なペットにたった一人で地上までお遣いさせる――そんな軽率な判断をさとりがするとは思えないし、映姫だって断固として許可などしないだろう。

 おくうが、頑張って答えてくれた。

 

「だ、だって……私、よくわかんないけど、なにか大変なことがあったんでしょ? 私、お前の式神だから……さとり様も、お手伝いしてこいって……」

「……なるほど、そういうことか」

 

 おくうからしてみれば。

 文が地霊殿に駆け込んできたあの出来事は、見知らぬ妖怪がいきなり家に侵入してきて、問答無用で月見を連れ去っていってしまったに等しい。どこからどう見ても尋常な雰囲気ではなく、挨拶らしい挨拶もしてもらえず、なにがなんだかわからないおくうは大層困惑したことだろう。

 さとりがどんな説明をしてくれたのかは、わからないけれど。それを聞いておくうは、見向きもされず置いていかれてしまったことを複雑に思ったのかもしれない。まるで、はじめから式神として期待されていないみたいで。そしてその心を読んださとりが、またお節介を焼こうと決めたのかもしれない。

 

「ああ、そうでした。地霊殿の方々から手紙を預かっていますよ」

 

 いつの間にか正気に返っていた映姫が、月見に三枚の便箋を差し出した。名前はそれぞれ、さとり、こいし、お燐とある。順番に、止めと払いがしっかり利いた行儀のよい字、丸く崩れたかわいらしい字、ちょっと読みづらい金釘文字である。

 

「ロクに挨拶もしないで慌しく出て行ったと聞いていますよ。今年は本当にお世話になりましたと、古明地さとりからの伝言です」

「ああ……そうか」

 

 どうやら、満足にできなかった挨拶を手紙という形に変えてくれたらしい。こぼれる微笑とともに、心が温かくなるのを感じつつ。

 

「ありがとう。大切に読ませてもらうよ」

「まったく。この間異変があったばかりだというのに、年の最後まで落ち着きがないんですから」

 

 まさしく映姫の言う通りになるんだろうな、と月見は思う。年越しの宴会をこの屋敷で大々的にやろうと目論んでいる連中がいるから、まさしく年が替わる最後の一瞬まで馬鹿騒ぎをすることになるのだろう。

 

「手紙を読めばわかると思いますが、みな心配していましたよ。なので今回、古明地さとりから相談があって、例外的に、例外的にっ、霊烏路空の地上行きを許可したのです。余計な心配事を抱えたままの年越しも、どうかと思いましたから」

 

 月見は内心腕組みをして唸った。今の発言から考えると映姫は、個人の感情を優先して規律に目を瞑ったということではないか。白黒をはっきりつけなかったということだ。この閻魔様、やはり間違いなく丸くなってきている。

 

「よって霊烏路空の役目は、あなたのサポートを務め、事態が解決次第地底に戻って、主人にきちんと報告を……なんですかその顔は」

 

 睨まれた。

 

「いや、お前も丸くなったなと思って。もちろん、いい意味でだよ」

「む……」

 

 映姫はまたわずかによろめき、

 

「い、言っておきますが、あくまで例外! 例外ですからね! 大人な私の大海原が如く寛大な処置です! あなたのように甘やかしているわけではありませんからっ!」

 

 勢いでそこまでまくし立てると、急に大人しくなって吐息し、

 

「……もちろん不可侵の約定がある以上、地底の妖怪が地上に出るのは問題です。ですが、」

 

 そっぽを向き、ほんの少し――本当にほんの少しだけ、歩み寄るような声音だった。

 

「……問題など、あなたが起こさせないのでしょう?」

「……、」

 

 月見が呆気に取られてなにも言えないでいるうちに、また勢いを取り戻して悔悟棒を振り回し、

 

「要するに、なにか問題が起こったらお説教ですからね!! 絶対に許しませんから!! くれぐれも肝に銘じておくようにっ!」

 

 ようやく、反応を返せた。笑みという形で。

 

「ああ、わかったよ」

「まったくもうっ、手間が掛かるんですから……」

 

 地底の異変を経て上方修正した映姫の評価を、月見は更に一段階引き上げる。

 四季映姫は、本当に心優しい閻魔様である。

 

「――しかし、そうか。実を言えば、だいたいのところは昨日のうちに解決してしまってね」

「えっ……」

 

 おくうがショックを受けた。

 

「じゃ、じゃあ、手伝うこと……ないの?」

「……まあ、そうなるね」

 

 宝塔は取り戻し破片はほとんど集め終わり、聖輦船の修理もこの調子なら直に終わる。正直、月見だって手持ち無沙汰なくらいなのだ。あとは温泉宿の方だが、やる気満々の藍一人がいれば充分だろうし、地上の連中相手に接客なんておくうでは天地がひっくり返っても無理だろう。

 要するに、

 

「おや、そうなのですか。……であれば、霊烏路空。地底に戻りましょうか」

「!?」

 

 おくうが脱兎の如く月見の後ろに逃げ込んだ。

 

「な、なんで!?」

「なんでもなにも、あなたの役目はこの狐の助けとなること。私も、それを条件に特例としてあなたを案内したのです。この狐が助けを必要としていないのならば、大人しく地底へ戻るのが筋でしょう?」

「う……うーっ!」

 

 おくうは駄々をこねるようにいやいやする。背中から月見を揺さぶり、

 

「ほ、ほんとになにもないの!? なにかひとつくらいあるでしょ!?」

「うーん……」

「往生際が悪いですね。私との約束を破るのですか?」

「う、ううう~っ……!?」

 

 背中越しでも、おくうがぷるぷる震えて半泣きになっているのがわかった。手伝おうとしてくれる気持ちはありがたいのだが、本当になにもないのだ。さてどうしたものか、なんでもいいから適当に仕事をでっちあげるべきか――。

 

「――月見? 取り込み中かい?」

 

 ナズーリンだった。玄関の方から歩いてくる彼女を見て、おくうが素早く警戒モードに入る。ナズーリンは自分を威嚇する見知らぬ妖怪に気づいて立ち止まると、次の瞬間にはすべてを悟ったように吐息した。

 

「やれやれ、また新しい妖怪を増やしたのか。この屋敷はどこまで賑やかになるのかな」

「お前なら、耳にはしてるんじゃないか? この前の異変で、いろいろあって私の式神になった」

「あぁーっ!!」

 

 わかさぎ姫がいきなり大声を出した。尾ひれと両手で水面をばしゃばしゃ波立たせ、

 

「わたし知ってます! 輝夜さんから聞きましたっ! 旦那様の式神になった――霊烏路うにゅほさん!」

「れーうじうつほっ!!」

 

 おくうが同じくらいの大声で叫ぶが、わかさぎ姫は聞いちゃいない。

 

「なるほど、どこかで聞いたことのあるお名前だと思ってましたがようやくわかりましたっ!! だから旦那様のお手伝いに来たんですね!」

「うつほだってば!」

「地底から遥々お手伝いなんて、ご主人様想いなんですねっ」

「うにゃあああああぁぁぁーっ!?」

「ひいいい!?」

 

 迂闊なことを。

 一発で暴走したおくうが翼をけたたましく鳴らし、弾幕とともにわかさぎ姫へ襲いかかる。わかさぎ姫は水の中に逃げ、おくうは空から追跡し、そのまま池のあっちこっちで水飛沫を上げながら追いかけっこを始める。

 

「な、なんでー!? なんで怒るんですかあーっ!?」

「うるさいうるさいうるさい! ばかばかばかばかばかあああああっ!!」

「ひえええ!? ふわ、ひゃっ、はえ、……や、やややっやっぱり私って食べられちゃう側なんですねー、なんちゃって! へぐ」

 

 わかさぎ姫の顔面に弾幕が直撃し、一際大きい水柱が上がって静かになった。おくうが肩で大きく息をしている。水面がある程度静まった頃になって、物言わぬわかさぎ姫がうつ伏せでぷかぷか浮かんでくる。月見もナズーリンも映姫も能面の眼差しをする中、星だけが「ひめさーん!?」と悲鳴をあげる。

 ナズーリンと映姫の吐息。

 

「本当に、どこまで賑やかになるのやら」

「あなたも見てばかりではなく、時にはきちんと叱るんですよ。優しくすることと甘やかすことはまるで違います」

「……善処はするよ」

 

 だが今の騒動を見ても「二人が仲良くなれそうでよかった」としか思わないあたり、幻想郷の日常で神経が麻痺してきているのを感じる。

 

「――それで? なにかあったか?」

「ああ、そうだった。準備ができたから、そろそろ毘沙門天様のところに戻ろうと思って。悪いけど、ご主人をよろしく頼むよ」

「あの皆さん、どうしてあれを見て無反応なんですか!?」

 

 ナズーリンは事もなげに、

 

「大丈夫、ご主人もすぐに見慣れるさ」

「げ、幻想郷って一体……」

 

 弾幕ごっこで少女一人二人が池に浮かぶ程度、幻想郷では日常茶飯事なのである。

 

「そういうわけだからご主人、あまり月見に迷惑を掛けるんじゃないよ」

「ど、どうして私だけ名指しなんですかっ」

「……説明が必要かい?」

「……ぐす」

 

 涙目な星を見て、映姫が月見に小声でささやく。

 

「……彼女、一体なにをしたんです?」

「いろいろあったんだ。すごく反省してるから、説教は勘弁してやってくれ」

「そうですか……」

 

 映姫はやや肩透かしな様子だったが、「反省しているなら大丈夫ですね」と呟いてあっさり引き下がった。なにかいいことでもあったのか、今日の閻魔様は一段と丸いようだ。

 

「じゃあ、行ってくるよ」

「ああ。上手く行くといいね」

 

 ナズーリンは苦笑、

 

「正直ダメ元だよ。毘沙門天様は厳格な御方だからね、部下だからといって特別扱いはしない。……まあ他に当てもないし、こればかりは仕方ないさ」

「他の当てねえ……」

 

 例えば月見の知人に、頼れる相手はいるだろうか。少なくとも、命蓮のような高僧の心当たりはないけれど。

 

「ああいや、君の力を借りたいと言っているわけじゃないんだ。こんなの、本当に私の自己満足みたいなものだから」

 

 しかし月見だって、可能ならば叶えたいと思うのだ。自分で代わりができるならいくらでも協力しようものだが、神聖な仏の力で動く船なら妖怪では駄目だろうし、そうでなくとも今の月見は力の大部分を

 

「……ナズーリン」

「なんだい?」

「例えばの話だけど。神様の力だったら、仏様じゃなくても代わりになるか?」

 

 ナズーリンが眉をひそめる。

 

「仏じゃない神って……神道の神ということかい? 一時期は本地垂迹(ほんじすいじゃく)なんて信仰が隆盛したし、大丈夫だとはと思うけど」

「……そうか」

「まさかとは思うが、諏訪子に頼むつもりかい? 毘沙門天様以上に高くつきそうだよ、彼女は」

 

 月見もそう思う。だから、諏訪子を頼るのではない。それどころか神奈子でもないし、ましてや幻想郷に住まうどの神でもなく、巫女である霊夢や早苗でもない。

 項垂れながらとぼとぼと戻ってきた彼女(・・)に、月見は言う。

 

「どうやらお前にも、できることがありそうだぞ」

 

 その身に八咫烏の――太陽の化身の御魂を宿す少女は、話がわからずただ一言、

 

「……うにゅ?」

 

 と、首を傾げていた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「おはよう、早苗」

「あ、輝夜さん。おはようございます」

 

 イナバの案内でやってきた早苗を、輝夜は直々に玄関まで出向いてお迎えした。

 自分で言うのもなんだが、これは非常に珍しい出来事である。この世で輝夜が直々に来訪を迎える相手といえば、他でもない月見と、あとはまあ時々妹紅くらいなもので、他の来客はみんな鈴仙に任せて顔も見せやしない。一昔前はほとんど毎日貴族の相手をしていた頃もあったが、それだって渋々であり、蓬莱山輝夜は基本的に――月見が絡まない限りは――自他共に認める出不精で面倒くさがりな女なのだ。こうして早苗をお迎えしたのだって、たぶん今日がはじめてではなかろうか。

 つまりは今の早苗には、月見が大きく絡んでいるということ。加えて志弦にとっては家族のような存在でもあるから、輝夜としても無下にできる相手ではないのだ。

 輝夜の気まぐれな行動に、早苗はすっかり目を丸くしていた。

 

「いやー、まさかかぐや姫様直々にお出迎えしてもらえるなんて」

「私だってやるときはやるの。……志弦の様子を見に来たんでしょ?」

「はい。朝早くからお騒がせします」

 

 式台で脱いだ履物を揃える早苗の背へ、輝夜は単刀直入に言う。

 

「志弦は、まだ寝たままよ」

 

 早苗の指先が束の間止まる。すぐにまた動き出し、履物を寸分の乱れもなく整えると、緩慢に立ち上がって輝夜へ振り向く。

 無理に作った笑みだった。

 

「……そうですか。やっぱり」

「顔、見ていくでしょ?」

「はい」

 

 早苗を案内し、永遠亭の廊下を進む。患者用の寝室は離れにあるので、ここからは少し歩かなければならない。竹林を全面に臨む縁側は内も外もすべて戸を閉じきっているが、迫り来る冬の冷気を完全に防げるわけではなく、床板は雪が降ったように冷え込んでいて、ついつい足取りも急ぎがちになる。

 最初の突き当たりを曲がったところで、背中に迷いのある声が来た。

 

「……月見さんから、教えてもらいました。志弦は、月見さんの古いご友人の、子孫なんだって」

 

 足が止まった。一拍遅れて、早苗も静かに足を止めた。

 振り返る。早苗はガラス戸を通して、雪のかかる竹林を見ている。

 

「それに月見さん、白蓮さんの弟さんを知っていたみたいなんです。昔、山で怪我しているところを助けて、少しだけ一緒に生活したことがあったって。結局、妖怪だってバレちゃって、離ればなれになったみたいですけど……」

「ギンが、」

 

 早鐘を打つ心の臓に押されて、半ば早苗の言葉を遮るようになってしまった。

 

「ギンが、そう言ったの? 志弦が、子孫だって」

「はい。慧音さんの能力で、調べてもらったみたいです」

 

 ――ああ、そうか。

 そのとき輝夜は、笑ったと思う。志弦が、本当に雪たちの子孫だった――そんなのはまったくもって重要ではない。だって、輝夜はずっと信じていたのだから。わかりきっていたことを今更改めて聞かされたところで、驚くにも慌てるにも値しない。

 それよりも大事なのは、月見が、告げたということ。ずっと決心をつけられず、輝夜以外の誰にも打ち明けられないまま彷徨い続けていたはずの彼が。

 ――やっと、前に進めたのね。ギン。

 それがわかって、嬉しかった。

 

「……輝夜さんは、どこまで知ってるんですか?」

「ん?」

 

 早苗が竹林の景色から目を離し、輝夜を見つめた。

 

「志弦のこと。驚かないってことは、前から知っていたんですよね」

「まあ、そんな気はしてたって程度だけどね。本当にそうだったって話は、今はじめて聞いたわ」

「どうして、」

 

 口を噤み、言い換える。

 

「――輝夜さんは。『神古秀友』さんを、知っているんですか」

 

 おや、と輝夜は内心首を傾げた。ギンは、早苗に一体どこまで話したのだろう。そう尋ねてくるということは、早苗はそこまで(・・・・)はまだ聞かされていないらしい。

 まったくもう、と輝夜は思う。どうせ話すのなら、ぜんぶ包み隠さず打ち明けてしまえばいいのに。

 さてどう話したものかと、腕を組んで考え始めたときだった。

 

「――あ! ひ、姫様! 早苗もちょうどよ、ひゃわっ!?」

 

 廊下の奥から、鈴仙が居ても立ってもいられないような小走りでやってきた。慌てる余り、床板で足を滑らせかけている。なにやってるのよ、と輝夜はため息をついて呆れかけ、

 

 

「志弦が目を覚ましました! で、でも、なんだか様子が変なんです!」

 

 

 一発で覚醒した。駆けてくる鈴仙に、逆にこちら側から詰め寄った。

 

「なにがあったの!?」

「ふわっ、ええとその、」

 

 鈴仙はたたらを踏み、両手を振り回してなんとか立て直すと、

 

「す、すみません、なにか危ない状況になったとかじゃないんです。ただ、なんと言うか」

 

 どんな言葉で説明するべきか、鈴仙自身も迷うような間があった。

 

「雰囲気、が、すっかり変わってて。波長も、別人みたいで」

「……!?」

「ど、どういうことですか!?」

 

 鈴仙には、生物や事物が持つ固有の波長を認識し、操作する能力がある。彼女曰く、人の波長には性格や感情によって特徴的な長さと揺れ幅があり、基本的には「この人はだいたいこういう形」とおおまかな分類ができるものらしい。

 その波長が、別人のように変わるということ。

 つまり、それは、

 

「――鈴仙、志弦はまだ部屋にいるわね!?」

「は、はい! 私は師匠を呼んできますので、お願いします!」

 

 すべてを了解して輝夜は駆け出す。早苗がついてきているかなどお構いなしだ。あとになってから思えば、一度外に飛び出し、最短距離で空を翔け抜けた方がよっぽど早かっただろうに。体に染みつくほど歩き慣れたはずの廊下で、角を迎えるたびに何度も足を滑らせかけた。

 それでも、一分は掛からなかったと思う。

 

「――志弦っ!!」

「うーい」

 

 襖をブチ抜いて飛び込むなり、場違い極まる呑気な返事が返ってきた。

 輝夜たちに背を向け、志弦はちょうど巫女服に着替え終えたところだった。早苗とも霊夢とも違う、小袖に袴の伝統的な巫女の出で立ち。布団の上に放り投げていたヘアゴムへ手を伸ばし、長い黒髪を大雑把な手つきでまとめ始める。

 

「おはよう、姫様。早苗も、そんな走ると危ないよ」

 

 こちらを振り向きもせず志弦はそんなことを言った。そのとき遅れていた早苗が、ちょうど息を切らせながら駆け込んできた。

 まるですべて、見ていたかのような。

 早苗が、名を呼ぶ。

 

「し、志弦?」

「うん」

 

 まとめ終えた髪を一度大きく払い、志弦が振り返る。

 そして輝夜は、息を呑んだ。

 

「……!」

 

 鈴仙が言っていた言葉を、ようやく本当の意味で理解した。

 志弦は、もちろん間違いなく志弦だった。そりゃあそうだ。別人みたいに変わったといっても、まさか本当に顔が別人になるわけはない。目にせよ鼻にせよ口にせよひとつひとつのパーツが大きめで、輝夜や早苗とはまた違うベクトルで充分魅力的な女の顔。ただ、髪のまとめ方が呆れるほど雑だったり、巫女服の着方が下手くそだったりするせいで全体的にはだらしなく、結果として女子力が低めのズボラに見えてしまう。間違いなく、出で立ちは輝夜が知る通りの志弦である。

 出で立ちは。

 変わっていたのは、瞳だ。

 深い(・・)。二十にも届かぬ人間の小娘にできる瞳ではない。月見や永琳と同じ――常人の枠を外れ、悠久の記憶を積み重ねてきた者だけに宿る、落ちゆくような深さがそこにはあった。

 故に、まとう雰囲気がまるで別人ほどに違う。か細い若木が、大樹となったように。

 なにも言えないでいる早苗は、一体どこまで気づいたのだろう。

 

「ごめんね、突然寝ちゃったりして。でも、もう大丈夫だよ」

 

 笑顔ひとつを取ってみても、高々十数年しか生きていない人間のものだとは到底思えなかった。

 

「ってか、月見さんもそうだけど姫様もひどいよね。はじめっからわかってたんでしょ? だったら教えてくれてもよかったのにさ」

「……志弦? あなた、一体」

「んー……詳しいとこは歩きながら話すよ。それより、ちょっと教えてくんないかな」

 

 風が、吹いている。

 

「月見さん――いや、」

 

 志弦の目の色が、変わった。

 

 

ギンはどこだ(・・・・・・)

 

 

 声音こそ、志弦のままでも。その口振りは、まるであの男(・・・)のようで。

 

「一発。思いっきり、ぶん殴ってやる」

 

 風が吹いている。どこの窓も開いていないはずなのに、志弦を取り巻くようにかすかな風が流れている。

 早苗は、気づかなかった。

 輝夜だけが、気づいた。

 輝夜は、この風を知っている。

 

 自分がまだ、「かぐや姫」と呼ばれていた頃。

 女にはだらしなく、男には無愛想で、なのに腕前だけは不思議と天下一品だった、いま思い出してもまったくもっていけ好かないクソ陰陽師。

 

 月見が「御老体」と呼んでいた、あの老翁がまとうのと、同じ風だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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