銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色

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東方星蓮船 ⑫ 「神の銀の方舟」

 

 

 

 

 

 実のところ志弦は、このお守りがいつ祖母から贈られた物なのかもう正確には覚えていない。

 なにかのプレゼントと一緒だったのは間違いないはずだが、果たしてそれがいつだったか。誕生日かもしれないしクリスマスかもしれないし、或いはなんの記念日でもない普通の日だったかもしれない。小学校に入って間もなくの頃だったかもしれないし、入学前だったかもしれない。一緒に贈られたプレゼントの中身がなんだったかも、今となっては記憶の闇に巻かれてしまった。

 けれどはっきりと覚えているのは、このお守りがはじめて首に掛けられて以来ずっと自分の一部だったことだ。

 先祖代々伝わるというありがたいお札の切れ端を手製の巾着に入れ、チェーンで首から掛けられるようにした、なんのセンスもないチャチで野暮ったいお守り。昔から霊媒体質だった志弦のために、祖母が得意のお裁縫で手作りしてくれたもの。

 普通に考えれば、小学生かそれ以前か、ともかくそれほど幼い子どもがお守りなんぞもらったところで、よくわからないうちになくしてしまうのがオチのはずだ。或いは思春期を迎えて、手作りのお守りとか恥ずかしいしーと押入れに突っ込んでしまうとか。しかし不思議なことに、小学校も中学校も高校に入ってからも、このお守りとは常に一心同体だった記憶しかないのだ。

 確かはじめはチェーンではなく紐で首に掛けていて、長さも短かったせいでいかにも手作り感満載だった。それが中学生にもなればダサくて気に入らなくなったから、ちょっとはマシになるよう自分でチェーンに付け替え、長さも伸ばしていくらかアクセサリーらしく改造した。そんな手間を掛けてまで身につけ続けた。お守り自体を外そうと思ったことはなく、首から下がっているのが志弦にとってごくごく当たり前のことだった。

 なぜか。

 お守りとして著しい効果があったわけではない。今となっては早苗から、ありがたい力はとっくに失われているとお墨付きももらっている。思い返せば多少なりとも守ってもらえていた気はするが、そんなものは所詮記憶の美化であり、霊媒体質は何歳になっても志弦を困らせたし、そのせいで人間関係が上手くいかないのもあいかわらずだった。

 でも、それでも、精神的には何度も何度も助けてもらっていたと思うのだ。このお守りの存在を意識するだけで、苦しいときは不思議と気持ちが落ち着くし、挫けそうなときはどういうわけか元気が湧いてくる。なにかと厄介者だった志弦が性格まで問題児に育たなかったのは、このお守りのお陰という部分もあるのではないかと感じるほどだった。

 なんの力もないお札の切れ端なのに。

 

 今だから言える。

 カッコつけた言い方をすれば、運命というやつなのだろう。理屈ではない。幼い自分が不思議となくさなかったのも、思春期真っ只中の自分がどういうわけか肌身離さず身につけ続けたのも。無意識や本能よりももっともっと深いところにある、それこそ『運命』としか表現の仕様がない心の奥底で、志弦はこの札のことを理解していたのかもしれない。

 このお札に、一体、誰の、どんな想いが込められているのか。

 きっとおばあちゃんもおじいちゃんも、ひいおばあちゃんもひいおじいちゃんも、そのまたご先祖様たちも同じだったのではあるまいか。そうでなければ、誰がこんな札の切れ端をわざわざ受け継ぎなどするものか。普通ならばどう見たってただのゴミであり、なんじゃこりゃとそのへんに捨てられ、風でどこかに飛ばされてしまって終わりだ。

 しかし、現実はそうならなかった。単なる偶然ではなく、神古の家系にとってありがたいものとして、確かに親から子へと受け継がれ続けてきた。

 だから『運命』という言葉くらい、使ったっていいんじゃないか。

 

 ――ねえ、月見さん。そう思わない?

 

 今だからこそ、言えるのだ。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 ――どこから話そっかな。

 うんと、まずは今まで寝ててごめんね。でもこの通り、もうなんともないしピンピンしてるから心配要らないよ。どうもご迷惑お掛けしました。

 それで、寝てた間のことなんだけど。

 船で意識飛んだあとに、どーも私、「程度の能力」ってやつに目覚めたみたいで。……うん。早苗が教えてくれた通り、「ああ、そうなんだ」って感じだったよ。「過去を夢見る程度の能力」とかいうらしくてさ……言葉の通り過去を夢で知る力なんだけど、これがただ『知る』ってだけじゃなくてね。

 なんだっけ。『追体験』っていうんだっけ? 誰かの体験を、自分の体験として取り込むこと。上手く言えないんだけど……過去にタイムスリップして、魂だけ誰かに宿って、その人のことを自分のこととして知るっていうか……うーん、表現難しいなあ。

 まあとにかく、昔の人のことを知る力ってわけ。いやー、ほんと都合がいい能力だよね。願ったり叶ったりっていうか。

 

 ……で、ここからがすごく大切なんだけど。

 ねえ、月見さん。

 ――私が誰の過去を見てきたか、なんとなく想像できるでしょ?

 

 

 

 秀友はね。

 立派に、月見さんとの約束を果たしたよ。

 あの都で、最期まで、人のために生きた。頑張って修行して、ああそうそう、大部齋爾(おおべのさいじ)っていたでしょ。月見さんが「御老体」って呼んでた。その人に弟子入りまでして、ほんとに頑張ってたんだよ。

 お前に胸を張れるように、なりたかったからね。

 ほんとほんと。ほんとに弟子入りしたの。ってか、弟子入りさせてもらえたのよ。駄目で元々と思ってたけど、いやー頭は下げてみるもんだね。

 ……うーん、どうだろう。私が見てきたのは秀友の記憶だから、齋爾サンがなに考えてたのかはね。わからないけど。どうして弟子に取ってくれたのか、結局最期まで教えてくれなかったし。

 でも、月見さんが思ってるほど、あの人は、月見さんのことを悪く思ってなかったんじゃないかな。そんな気がするよ。

 んでいろいろ頑張って、才能も無事開花して、秀友は都でも有名な陰陽師になったわけ。雪さんとの間に子どももできてねー。お前にゃちょっとは胸を張れるようになったかなって、実感を持ち始めてきた頃かな。

 齋爾サンが、死んだ。

 月見さんがいなくなって、十年くらいかな。あの時代じゃ馬鹿みたいに長生きでさ。すっかり老いぼれになって目は見えないわ自分一人じゃ立てもしないわだったのに、暇潰しだって言って、地獄の遣いを何回も何回も追い返したりしてた。でも最期は、やっぱり、疲れたって。

 ……でね。齋爾サン、そのときに、月見さんが妖怪だってことを秀友と雪に教えたんだ。

 そう。月見さんが最期に秀友たちにやった『アレ』が、完全に芝居だったって種明かししたの。ったくほんと一杯食わされたよ。つーか人の涙返せよ。思い出したらだんだん腹立ってきたんだけど、もう一発殴っていいかな?

 あ、ごめん。えーっと、うつほちゃんだよね。月見さんの式神になったっていう。うん、もう殴らない殴らない。あはは、ご主人様想いだねいだだだだだだだだ

 

 ……ふう、助かった。ごめんごめん、からかったわけじゃないって。

 どこまで話したっけ。

 ああそうそう、月見さんが妖怪だったってとこだね。

 うん。

 秀友はね。月見さんが妖怪だって知っても、なんていうかな。悪い感情は、持たなかったよ。

 ただ、安心した。無事でよかったって。生きててよかったって。ずっと、ずっと、なにもできなかったことを、後悔してたから。

 そりゃあ、また会いたいとか、捜してやろうとか、そういう気持ちがまったくなかったわけじゃない。でも、まあまあの付き合いだったしさ。月見さんがわざわざあんなことをしていなくなった理由も、想像できたんだ。

 秀友と雪が、人の中で、人として生きていくようにでしょ。

 そういう風に、生きてってほしかったんでしょ。

 本当、お前らしいよ。

 

 私? 私は、志弦だよ。……あ、そっか。うーん、ちょっと前まで夢の中で秀友やってたから、まだごっちゃになってるのかも。いやいや、別に生まれ変わりとか、そんな大それたもんじゃないって。

 でも秀友の記憶は、ちゃあんと頭の中に入ってる。

 だからほら、これ。月見さんはわかると思うけど、この風、齋爾サンの術でしょ。秀友が齋爾サンから教わって血肉にした、あの人の風。秀友の記憶を継いだから、秀友の術だって使えるのさ。ま、さすがに師匠ほどじゃあねえけどな。

 覚醒イベントってやつだねえ。

 

 そんなこんなで神古の血はしぶとく千年以上の時を超えて、その中のひとつが、こうしていま月見さんの目の前にいるのです。

 そして私は「過去を夢見る程度の能力」で、秀友の記憶を『継承』したのです。

 うん。

 こんなとこかな。

 

 ……なにか、他に質問ある?

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「……なにか、他に質問ある?」

 

 志弦の静かな問いを受けながら、月見は。

 こんなことが。

 こんなことが、起こりえるものなのかと。目まぐるしく暴れ狂う想いの渦に絡み捕られて、指一本動かすこともできずに立ち尽くしていた。

 だって、そうだろう。

 なにかを言えという方が無理な話だろう。

 こんな――本当に、こんなことが。

 月見だけではない。ナズーリンも星も、志弦を追いかけてきた輝夜と早苗も、いつの間にか集まってきていた水蜜も、一輪も、雲山も、そしてわかさぎ姫も、おくうも、小傘すらも。誰も彼も呻くこともできぬまま、水月苑の真冬の庭には、河童たちが聖輦船の修理を進める音だけが響いている。

 志弦だけが、あっけらかんと笑っている。

 

「やだなあ、そんなお固い空気になることないって。もっとこう、心配かけやがってコンニャローって感じでさ……あ、そもそも心配なんてしてなかったパターン? そっかーちくしょー凹むなー、ショックだなー」

 

 目の前の志弦は、間違いなく志弦だ。今時の若者らしい剽軽な口振りも、明るく変化に富んだ顔つきも、ちょっぴりズボラな巫女服姿も。けれどその瞳は眠る前と見違えるほど深みを増し、少女らしからぬ達観した風格を宿しつつある。それだけで、今しがた志弦の語った話が決して出鱈目ではないのだと理解させられる。

 そして志弦を中心にゆっくりと巡っている、ひどく懐かしい匂いのする風。

 

「……志弦、」

 

 はじめに束縛から開放されたのは、輝夜だった。

 

「あなた、本当に……秀友のこと」

「うんうん。えっと、秀友は姫様とあんま接点なかったからなあ……あっでも、雪さんからいろいろ話は聞いてたよ。今日は姫様がこんなに可愛かったんだって、もー夫として嫉妬しちまうくらいでー」

 

 うははと男みたいに笑った志弦は、それからすぐはっとして、

 

「あ、また秀友の気分になってた。いやほら、夢の中で私、ほんと完全に秀友になってたからさ。そういう能力みたいなんだよね。だから、感覚がちょっとごっちゃになってるっぽい」

「……そう、なのね」

 

 むしろ納得したと言うように、輝夜は静かに吐息した。きっと、月見も同じ反応をしただろう。月見だってわかっている。認めざるを得ないと理解している。「ギン」という呼び名が、単なる輝夜の物真似ではないことくらい。

 だがそれでも、すべてを受け入れるあとほんの一歩手前で、自分でもよくわからないなにかが歯止めとなって抗っている。

 

「やっぱ、そう簡単には信じられないよねえ」

 

 月見が考えていることなど、ぜんぶ見透かしているような口振りだった。志弦は顎を撫でながらしかめっ面で考え、ほどなくいきなり両手を打って、

 

「そうだ、これならどうかな」

 

 襟元に手を突っ込み、巫女服の下からなにかを掴んで引っ張り出す。チェーンを通して首に掛けられた、お守りのように小さな巾着。彼女が肌身離さずいつも身につけているもので、月見は思い入れのあるアクセサリーかなにかだろうと思っていたけれど。

 巾着の口を解き、四苦八苦しながらやっとのことで取り出したのは。

 

「ウチの家に代々伝わってた、ありがたーいお札……の、切れ端なんだけど」

 

 月見の目の前にずいと差し出し、

 

「これ、見覚えあるでしょ。わからないとは言わせないよ」

「……、」

 

 正直、ひと目ではまったくわからなかった。切手ほどの大きさしかない、風で飛ばされればその瞬間消えてなくなりそうな小さな紙片を受け取って、ほんのかすかな、本当にかすかな術の残滓があると気づいてようやくわかった。

 呑まれるような思いがした。

 

「…………ああ――」

 

 この術を、月見は知っている。誰よりも一番よく知っている。

 そうに決まっていた。

 だってこの札を作ったのは、他でもない自分なのだから。

 

 こんな小さな小さな切れ端になって、術などとうの昔に力を失って、それでも。

 これは、間違いなどない。

 月見が最後に、形見代わりのつもりで秀友に贈った――

 

「今なら、わかる。ここにやってきたとき、どうして月見さんと、はじめて会った気がしなかったのか」

 

 切れ端をつまむ月見の指先を、志弦が両側からそっと包み込む。

 

「ありがとう、月見さん」

 

 息もかかるほどの距離。思えば志弦の顔を、こんな近くで見つめたのははじめてだったかもしれない。

 にへら、と。

 あいつそっくりの、人懐こい笑顔だった。

 

 

「月見さんはずっと、私たちの傍にいたんだね」

 

 

 ――きっと、正しくはなかったのだろうと思っていた。

 妖怪の身でありながら興味本位で人となり、人々を騙しながら都で何年も生活をした。そして神古秀友という人間の生に深く干渉しておきながら、最後は勝手に目の前から消えるという選択をした。

 あいつらに、人の中で人として生きてほしかった。それは紛れもない本心だし、当時の自分も間違いなくそう願っていて――けれど実際は、己の中にあった恐怖の裏返しでもあったのだと思う。

 秀友たちの世界を、いつかは壊してしまうかもしれないという恐怖の。

 だから最後まで妖怪であることをひた隠し、人のまま終わらせた。結局月見はただ自分勝手な理由で都に入り込んで、自分勝手な理由で消えただけだった。お前に胸を張れるようになりたかったと秀友は言うが、月見はなにも、秀友に胸を張れることをしたわけではなかったのだ。騙していた。悲しませた。背負わずともよい罪の意識を背負わせた。自分がやっていたことはきっと、正しくなんてなかった。

 でも、それでも。

 

「――ッハハハハハハハハハハ!!」

 

 笑い飛ばそう。こうして天を仰いで、腹の底から大きな声で、心から。

 騙していても。

 正しくなんてなくても。

 ――私たちは、最上の友だった。

 目の前の少女が、その証明だ。

 

「いやあ、やられた。本当にやられた。参ったよ、降参だ」

 

 未だ笑いが尾を引く中で、ふと輝夜と目が合った。輝夜はこれ見よがしに腕を組み、「だから言ったでしょ」と鼻から抜くようなため息をついた。

 ――ギンと「神古」は、あのときだけで終わるような陳腐な縁じゃなかったってこと。

 結局なにもかも、輝夜の言う通りだったのだ。

 

「こんなになっても、まだ持っていてくれたんだね」

 

 札の切れ端を志弦へ返す。もうなんの効力も価値も持っていない正真正銘ただの紙切れで、肌身離さず持っていたところでなにひとつ意味はない。流れた時の長さを考えれば、とっくの昔に捨てられていて然るべきはずだった。

 なのに志弦は、胸を張って答えてくれる。

 

「私の、大切なお守りだよ」

「……ふふ。ありがとう」

 

 今はどうにも、それくらいしか言葉が出てきそうにない。無理に虚勢を張ろうとすれば、その瞬間に剥がれ落ちてボロが出てきてしまいそうだった。それなりに長いこと生きてきた身であるが、この感情を明確な言葉で言い表す術を、自分はどうやらまだ手に入れていないらしい。

 志弦が札の切れ端を受け取る。それを巾着へ注意深くしまい、ニッと歯を見せながら首に掛け直そうとして、

 ぐぐううう。

 

「……」

 

 なかなかに盛大な腹の音だった。

 うなじに両手を回した恰好で硬直した志弦は、ほどなく再起動して苦笑しながら腹をさすり、

 

「たはは……ごめん月見さん。なんかかるーくでも食事をいただけますと、恐悦至極でござる……」

 

 そういえば志弦は昨日の朝からずっと眠り続けていて、要するに丸一日なにも腹に入れていないのだった。

 

「わかった。藍になにか用意してもらおう」

「いやーあんがとお。腹ごしらえしたら、ちゃんと白蓮のとこまで案内するからさ」

「……っ?」

 

 ナズーリンの耳がぴくりと跳ねる。

 

「志弦、今……聖のところまで案内すると言ったかい?」

「うん。あれ、もしかして案内要らない?」

「いや、そんなことは……ないが」

 

 横目で、意見を求めるように月見を一瞥する。なぜなにも知らないはずの志弦が、白蓮の封印場所まで案内すると言い出すのか。

 いや、そもそも。志弦は本当に、今でもなにも知らないままの彼女なのか。

 

「聖が封じられた場所を、知っているのか?」

「うん。だって、見てきた(・・・・)から」

 

 そんなはずはなかった。

 志弦が額面通りの力を手にしたというのなら、秀友一人の記憶を知っただけで満足して戻ってくるはずはない。むしろ秀友など単なるついでにしか過ぎず、彼女が手を伸ばすべき記憶はもっと他にあるはずだった。

 すなわち白蓮を封じた張本人であり、この千年に渡る(えにし)の発端――

 

「――神古、しづくか」

「えっ……あれ、知ってたの?」

 

 驚いて月見を見た志弦は、途端に胡乱げな目つきで下から覗き込み、

 

「……まさか、それも知っててずっと黙ってたんじゃ……」

「い、いや、私もお前が寝ている間に知ったばかりだよ」

 

 正確には、白蓮を封じたのが『神古』であること自体は、およそ半年も前から知っていて黙っていたのだが――また殴られそうなので、これからも黙ったままでいようと思う。

 志弦は疑り深い半目を緩めず顔を引き、

 

「ふーん……まーいいけどさ」

 

 ゆっくりと深く瞬きをして、表情をフラットに戻すと、

 

「んじゃ、説明は要らないよね。神古しづくの記憶も、私の頭に入ってる。だから白蓮のとこまで案内できるし、封印の解き方だって知ってる」

 

 中空を見上げ、ここにはいない誰かへ語りかけるように、優しく静かな言葉だった。

 

「――約束したからね。必ず、迎えに行くって」

 

 水蜜と一輪が、咄嗟に喉を動かした。なにかを言おうとしたわけではないのに脊髄反射で体が動き、しかし当然言葉が出てくるはずもなくそこで硬直する。月見やナズーリンさえこの場にいなければ、志弦の胸倉に掴みかかるくらいはしていたかもしれなかった。

 神古しづくは、聖白蓮を封印した。

 至極単純に考えれば、それは白蓮としづくが敵同士だったことを意味している。しづくが先祖より陰陽師の術と役目を受け継いでいたならば、人々の願いに応えて妖怪を退けるのが仕事のひとつであり、妖怪こそを救おうとする白蓮とは相容れなかったはず――事実、封印は成されたのだから。白蓮がその理想を周囲に知られ、『悪魔』と呼ばれてしまったことを踏まえても、恐らくは人々からしづくへ依頼が行ったのではないかと月見は思う。あの『悪魔』を、なんとかしてくれと。

 しかしだとすれば、「迎えに行く」という約束は、一体。

 

「なるほど。これはつまり――」

 

 ナズーリンが、厳かに首を振った。聡明な彼女は、志弦の言葉に早くもひとつの答えを見出した――のかと思いきや、

 

「――つまり、ご主人の汚名返上の出番が消滅したということか……」

「ちょちょちょっ待ってくださいナズ、いま大事な雰囲気! とっても大事な雰囲気ですよっ!?」

 

 ……まあ確かに、「白蓮の封印を解いて汚名返上する」という星の大変重要な出番が、綺麗さっぱりなくなってしまったということでもあった。

 

「いや、でもそうだろう。聖の封印を志弦が解いたら、ご主人はどうやって汚名返上するんだい」

「……ほ、宝塔! 宝塔がないと魔界の結界を越えられませんし、瘴気も危険ですから、私の力が必要ですよねっ!」

「それは宝塔の力であってご主人の力じゃないしなあ……」

「……ぐすっ」

 

 しょんぼり項垂れる星をナズーリンは放置し、

 

「しかし、志弦。君は……聖のために力を貸してくれるのかい?」

「うん。言ったでしょ、迎えに行くって約束したんだ」

「なら、」

 

 踏み留まるように、言葉を区切る。水蜜と一輪の方をつと窺い、わずかに逡巡する間があった。

 

「……なら、なぜ。神古しづくと聖は、その。敵、だったんじゃ」

 

 少なくとも、白蓮の夢に共感する味方ではなかった。だから神古しづくは彼女を封印したはずなのだ。

 敵同士だったのなら、なぜ「迎えに行く」と約束を交わす真似をしたのか。

 敵同士でなかったのなら、なぜ封印したのか。

 いや、そもそも。「迎えに行く」とは、一体どういう意味なのか。神古しづくが果たせなかった約束を、志弦が代わりに叶えようとしているだけなのか。だが志弦の口振りは、まるで今こそが約束の時なのだと言っているようで――。

 そのとき、また志弦の腹が鳴った。

 

「……ええと、うん。とりあえず、腹ごしらえだけ先にさせてもらっていいかな。あとでちゃんと話すからさ」

「……私はもちろん、構わないが」

 

 ナズーリンが再び横を窺う。口を閉ざしたままの水蜜と一輪が、瞬きすら忘れて険しく志弦を見据えている。志弦は、神古しづくの記憶もまた頭に入っていると言った。つまり二人にとってみれば、自分たちの平穏をめちゃくちゃにした怨敵が目の前にいるのも同然なのだ。突き上がってくる感情は理性だけでは歯止めが利かず、爪が食い込む拳からはかすかに妖気がこぼれ落ちている。

 だが、志弦は凪いだ表情を微塵も崩さない。今までの彼女なら、あふれ出す妖気に怯むくらいはしていたはずなのに。まるでこのまま襲いかかられても、自分で身を守るくらいはできると言うように。

 もしも志弦が、秀友の記憶を通して御老体の風をも『継承』しているのなら。確かにこの程度は、怯むうちにも入らないのかもしれないが。

 

「……ひとつだけ、答えて」

 

 一輪が、煮えたぎる声音のままで問うた。

 

「お前は、姐さんの封印を解いて。それから、一体どうするつもりなの?」

 

 敵ではないと言うのなら、約束をしたと言うのなら。この答えでどうか私たちを怒らせないでくれと、(こいねが)うようでもあった。

 志弦は少し、考えて。

 

「そうだね……まずは、ずっとずっと待たせちゃったことを謝って」

 

 嘘を口にしながらでは決してできない、柔らかいそよ風の顔だった。

 

「今の時代のこと、幻想郷のこと、月見さんのこと。たくさん、教えてやりたいかな」

「……」

 

 一輪は志弦の言葉を反芻させるように瞑目し、ゆっくりと大きく息を吸って、そのすべてをため息に変えた。

 

「……お前も他の人間たちと同じで、姐さんを悪魔扱いしてて。だから封印したんだって、ずっと思ってた」

 

 志弦はカラカラと笑い、

 

「いやいや、あんな底抜けにいい人が悪魔とかありえないでしょ。白蓮が悪魔だったら、この世の人間はみんな地獄の獄卒だね」

 

 吐息、

 

「しづくだって、白蓮を封印なんてしたかったわけじゃない。でも、しづくなりの考えがあって……そうするって、決めたんだ」

「…………」

「ちゃんと、ぜんぶ話すよ」

 

 だから、と一度言葉を区切って、掛ける問いは切々と。

 

「お願いなんで、腹ごしらえ、させてください……」

 

 ぐぐぐううううう、と。肝心なところで締まりきらないのは、どうやらあいつの頃からさっぱり変わっていないようだ。

 とりあえず一旦言う通りにしてあげない? と不憫な空気が広がっていく中で、一輪と水蜜が些か気不味そうに拳を解いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「――おししょおおおおお!! どうしてその式神は一緒で弟子の私はダメなんですかあああああ!! 私という者がありながらああああああああっ!!」

「はいはい落ち着いてくださいねー。月見くんたちは、白蓮さんっていう人間さんを復活させに行くんです。私たちまでついていったらお邪魔虫ですよー」

「すぃしょおおおおおおおおおお!!」

 

 志弦が簡単な腹ごしらえを済ます頃には修理も終わり、月見はどことなく勝ち誇った顔なおくうを連れて聖輦船に乗り込む。元の完全な姿を取り戻した船には力が満ち、ほのかながら法力の燐光を帯びて輝いているようにすら見える。

 今こうして身を以て感じても、これが命蓮の法力だなんてさっぱり信じられなかった。毘沙門天の御業なのだと説明された方がよっぽど納得できる。桶と柄杓を式神で浮かして大喜びしていた小僧が、こんなにも巨大な木造船を、千年もの間――。

 

(……まったく)

 

 どうして今の今まで、忘れてしまっていたのだろう。船にはもう何度も乗ってきたのに、どうして夢に思いもしなかったのだろう。笑みがこぼれる月見へどんなもんだと胸を張るように、その法力は誇らしく聖輦船を包み込んでいた。

 そして甲板では、チーム河童を率いるにとりがえへんと胸を張っていた。

 

「どう? 河童の技術はねー、金属とか機械とかだけじゃないんだよ!」

「いやいや、ほんと助かっちゃいましたよ。ありがとうございます!」

 

 現場監督の水蜜が両手でぶんぶん感謝の握手をしている。水月苑に変形機能をつけようとしたおバカたちとはいえ、さすがに今回ばかりはちゃんと空気を読んでくれたようだ。雲山が隈なく監視してくれたお陰なのかもしれないが、とにかく疑って悪かったな、と月見は河童たちへの評価を改める。

 

「これは、またお礼をしないといけないね」

「いやーいいよ、私らも楽しかったからさ」

 

 頭を掻いたにとりは、それからバチコンとお茶目なウインクを決めて、

 

「こっそり自爆装置も取り付けたしね☆」

「今日の昼飯は河童の丸焼きか……」

「雲山、GO」

「うそうそうそうそっ、冗談! ちょっとお茶目なじょーくだってば! それにほらー私って体小さいし肉付きだってすごく貧相でって誰がペタンコだゴルァ!」

「「「…………」」」

「あ、ごめん普通に心折れそう……」

 

 月見たちのみならず仲間からも白い目で見られ、にとりは甲板の隅っこで体育座りをしながらいじけモードに入った。

 満場一致で放置した。

 

「星、ちゃんと宝塔は持ったかい」

「あ、はい持ちました。バッチリですっ」

 

 力強く頷く星の両手には、昨日買い戻したばかりの宝塔がしっかりと握られている。毘沙門天のもうひとつの象徴である鉾は持っていない。そんなもんは一足早く船の中で置物だ。そんなもんより今はとにかく宝塔なのだ。もしも、万が一、一朝有事のことがあれば星は今度こそタダでは済まない。

 その証拠に、

 

「これでもし、またなくすようなことがあったら……ねえ、ご主人、わかっているよね?」

「……くすん」

 

 横のナズーリンは言葉も表情も優しく穏やかだったが、目だけが欠片も笑っていないのだった。

 よーし、と水蜜が指差し確認で、

 

「聖輦船よし、宝塔よし、月見さんたちよし! いよいよ聖を解放させられますね!」

「すぅぅぅいいいしょおおおおおおおおおおっ!!」

「はいはいダメですってばー」

「……えーっと、あれは無視でいいんですか?」

「うん」

 

 月見は躊躇いなく即答した。先ほどから大声でぎゃーぎゃー騒いでいるのは、一緒に連れて行ってもらえず不満爆発な小傘である。藤千代に後ろから首根っこを掴まれ、両手を振り回して大暴れしている。あんなはっちゃけ少女を連れて行ったら最後、水蜜たちと聖の感動的再会が根元から台無しにされかねない。

 元気すぎる小傘に藤千代もやれやれ気味で、

 

「むー、仕方ないですねえ。じゃあ、私に勝てたら月見くんを追いかけていいですよ。私の屍を越えていけです」

 

 あ、

 

「……なるほど、そういうことですか! これもまたひとつの試練というわけですね……! わかりましたっ。あなたの屍、越えていきます!」

 

 嗚呼。

 思っていたほどざわめきはなかった。小傘がやる気満々で答えた瞬間、周囲から捧げられたのは黙祷のように悲愴な沈黙だった。

 おくうがぽつりと、

 

「くるってる……」

 

 その言葉を向けた先は藤千代だったのか、それとも小傘だったのか。

 

「というわけで、月見くんたちをお見送りしたら勝負しましょうね」

「わかりましたっ。……というわけでお師匠、いってらっしゃいませー!」

 

 小傘。お前は私たちを見送ったあと、一体どうやって魔界まで追いかけてくるつもりなんだい。

 まあそもそも、「ちぇいっ」と藤千代にチョップされて一撃KOだろうが。周囲から注がれる生暖かい眼差しにまったく気づかず、小傘は元気いっぱいに手を振ってお見送りしてくれるのだった。

 

「じゃあ藍、すまないけど屋敷を頼むよ」

「はい。お食事の用意をして、待ってますね」

「ああ。……一人分、多めにね」

 

 それが一体誰の分なのかは、わざわざ言葉にするまでもなかろう。ほんの一瞬だけ思考して、藍はすぐに微笑んでくれた。

 

「ふふ、そうですね。そうですよね。お任せください、よりをかけて作りますから」

「ずっと封印されてた人間だからね。今の時代の料理を見たらきっと驚くだろう」

「腕が鳴るというものです」

 

 甲板から身を乗り出し、わかさぎ姫に手を振る。

 

「ひめも、留守番よろしくね」

「はいっ。行ってらっしゃいませー!」

 

 背後では早苗が志弦に、輝夜がおくうに激励を贈っている。

 

「気をつけてね。戻ってきたら、ちゃんとぜーんぶ説明してもらうんだから」

「ういうい。まーのんびり待っててよ」

「いいこと、うにゅほ……これがあなたの、ギンの式神としての初の大仕事よ。ちゃんとギンの役に立てるよう全力を尽くしなさい。なによりまずは気持ちよ!」

「だ、だから『うにゅほ』じゃないって言ってるのにぃ……」

「聞いてるのかーっ!!」

「わっ、わかってるってばぁ!」

 

 チーム河童が、いじけるにとりをお神輿にして船から離れていく。輝夜と早苗がそのあとに続く。なにかが始まる空気を嗅ぎつけたのか、いつの間にか天狗の野次馬がちらほらと増え始めている。

 志弦が、そっと呟いた。

 

「もうすぐだよ……白蓮」

 

 そう――いよいよ、なのだ。志弦にとっては千年間置き去りになっていた約束を果たす時であり、水蜜や一輪たちにとっては千年振りの再会の時であり。

 そして月見にとっても、これはきっと大きな意味を持つ出会いとなろう。せり上がってくる高揚を抑え切れず、水蜜の音頭は空高くまで朗々と。

 

「それじゃあ、行っきますよおーっ!! 星、宝塔の準備!」

「はいっ!」

「月見さんっ、お願いします!」

「ああ」

 

 勝負所だった。

 元より月見と彼女(・・)の主従関係は、異変を収束させる中で生じたやむを得ない手段のひとつでしかなく、それ以上の深い意味合いを持つものではなかったし、月見としても持たせるつもりなんて毛頭なかった。

 けれどこのところどうにも彼女から、責任とってよ、という無言の圧力を感じるので。

 

「っ……」

 

 今だって、なにかを訴える強烈な視線が横から頬に突き刺さってくる。

 怖くないはずがないのだ。あの異変で叩きつけられた彼女の苦痛を思えば、怖くないなど絶対にありえることではない。彼女を見る。強がった顔をしているが全身が強張り、握り締めた拳は誤魔化せない震えを帯びている。呼吸は細く早く、引き結んだ唇はみるみる色を失っていく。

 でも、それでも彼女は月見の言葉を信じて、もう一度あの力と向き合おうとしてくれている。

 だから月見も、今は主人として応えようと強く思う。

 

「おくう」

 

 名を呼び、

 

「心配するな」

 

 手を伸ばし、

 

「私は、ここにいるよ」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 はっきり言ってロクでもないご主人様である。おくうを勝手に式神にするし、おくうをほったらかしにして勝手に地上へ戻るし、たくさん知り合いがいるし、たくさん友達がいるし、弟子を自称してまとわりついてくるようなやつだっているし、その上みんなと仲がいいし、仲がいいし、仲がいいし、いいし。あまつさえヤタガラスの力をもう一度使えというのだから本当にどうかしている。しかもしかも、十割おくうを想っての発言だったのならまだしも、半分くらいは『びゃくれん』とかいう人間のことを考えている始末なのだから、まったくもってこの狐はロクでもないやつなのだ。

 

「――私は、ここにいるよ」

 

 と悶々としていたのが、一発で消し飛んだ。

 ズルい、と思った。この狐は、ロクでもないやつで。おくうをほったらかしにして、仲のいい知り合いがたくさんいて、今だって『びゃくれん』のことで頭がいっぱいになっていて。

 でも、おくうが本当に見てほしいと思っているときは、こうしてちゃんと必ず気づいてくれるのだ。

 

「おくう」

「う、うにゅ……」

 

 名前を呼ばれ、反射的に伸ばされた手を取る。その途端思いがけない力で握り返されて、「みぅっ」と変な声がこぼれた。

 地霊殿よりもずっと寒い場所で、でも月見の大きな手はじんわりと温かかった。

 

「今から半分の半分くらい、お前の封印を緩める。準備はいいか?」

 

 心の準備という意味であれば、正直まったくよくない。月見の力にはなりたいけれど、こうして再びヤタガラスの力を使う日がやってくるなんて夢にも思っていなかったから、迷いも緊張も恐怖もちっとも払拭できていない。

 けれど、

 

「――うん」

 

 頷いた。だっておくうは、独りじゃないから。

 危なくなったときは、月見が守ってくれる。また、助けてくれる。手から伝わる月見の体温が、内側から感じるもう一柱の神の力が、優しくおくうを包み込んでくれている。だから迷っていても、躊躇っていても、怖くても、月見のために頑張ろうと思える。

 

「……いくよ」

 

 握り合わせた掌を通して、月見の力がゆっくりと流れ込んでくる。頭の中でひとつ、金属の鍵を外すような音が響く。体の中に熱が生まれ、立ち上がる熱風とともに己の姿が変わっていく。

 胸元に宝石めいた赤い瞳、右足は鉄を象った融合の足、左足は電子が絡みつく分解の足。制御棒がない以外は見間違いようもなく、ヤタガラスの力を得たあのときの姿。

 

「――っ」

 

 途端に異変の記憶がフラッシュバックする。生き物の命を容易く奪いかねない殺傷力と、体の奥底から際限なく湧き上がる灼熱を制御し切れず、荒御魂に呑まれ、精神を焼かれる痛みの中で自分自身が崩壊していく記憶。体は熱を帯びているのに呼吸も心臓も一瞬で凍りつき、押し寄せる怖気に視界が強烈な渦を巻く。無意識のうちに、口の端からか細い悲鳴がこぼれる。目の前が真っ暗に閉ざされる。内側に宿るこの熱が、今すぐにでもおくうを呑み込んでしまいそうな気がして、

 

「おくう」

「、」

 

 優しく名を呼ばれておくうは目を開けた。決して大きくはなかったのに、その声はおくうの耳朶をまっすぐに叩き、心の凍てつく闇を瞬く間にかき消した。はっきり見えるようになった視界の先で、月見がおくうの掌をそっと両手で包み込んでいた。

 

「落ち着いて、よく見つめてご覧。ほら、なにも怖いことはないよ」

「……、」

 

 気づいた。

 体に宿る力の感覚が、記憶に刻まれているものと違う。異変のときは、業火が燃え(たぎ)るような、溶岩が煮え立つような、ひと目で危険だとわかる禍々しい力だった。

 でも今は、暖かい。禍々しくなんてない。

 その熱は天で輝く、あの綺麗な太陽みたいで。

 

「ああ――」

 

 ――どうして、忘れてしまっていたのだろう。

 注連縄の神様から、一番はじめにヤタガラスの力を授かったとき。そのときおくうの体に宿っていたのは恐ろしい灼熱などではなく、まさにこの暖かさではなかったか。

 そうであるはずだった。だがあの頃は、そもそも神様の力を理解していなかった上に、こいしの期待に応えたい一心で戦うため――誰かを傷つけるために使ってしまった。そして桁外れの破壊力を前にして勝手に恐怖を抱き、この力は恐ろしいものなのだと誤解した。誤った認識は神の力の在り方を捻じ曲げ、おくう自身の心の歪みも拍車を掛けて、やがては荒御魂へと変わり果てていってしまった。

 月見の言っていた通りだ。

 ヤタガラスの力が、はじめから恐ろしいものだったわけではなかった。

 月見が、微笑んだ。

 

「さあ、願ってご覧。今度はちゃんと、お前の嘘偽りない言葉でね」

 

 前以てなにか言葉を考えていたわけではない。けれど願いは決まっていたし、そのための言葉も自然と心に浮かんだ。

 おくうの右手を包んでくれる月見の両手に、そっと左手を重ねておくうは祈る。

 

(――ごめんなさい)

 

 ごめんなさい。私は、間違っていました。自分のせいであんなことになったのに、あなたはなにも悪くなかったのに、私はあなたを怖い神様だと思っていました。

 本当は、こんなに優しい力の神様だったのに。太陽みたいな神様だったのに。私のせいであんなことをさせてしまって、本当にごめんなさい。

 私に、あなたの力を使う資格なんてないのかもしれません。こんなお願いをする権利なんて、ないのかもしれません。でも、でもどうか聞いてください。

 

 私を、助けてくれたひとがいました。

 たくさん怪我をして、ボロボロになって、すごく痛かったはずなのに、それでも私を助けてくれたひとがいました。

 そのひとは今、あなたの力を必要としています。この船を遠くまで動かす力が必要なんです。だから、助けてあげてほしいんです。

 私に力を貸して、なんて言いません。

 私を、使ってください。

 私を使って、あなたの力で、このひとを助けてあげてください。

 

 私を助けてくれた、バカで、ロクでもなくて、でも優しいごしゅじんさまを。

 どうか、どうか、助けてあげてください――。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 もちろんナズーリンは、過日地底で起こったという異変について詳しいことはなにも知らない。ただ人づての伝聞と妖怪鼠のネットワークで、世間一般に知れ渡っている情報――すなわち危機的被害こそなかったものの相当な大事(おおごと)であったこと、助太刀へ向かった月見が大怪我を負ったこと、守矢神社の神々がエネルギー革命だかを目論んで一枚噛んでいたこと――を、同じように知っているのみである。

 だが目の前の光景を見て、ナズーリンは己の中の仮説を確信に変えた。

 その異変は恐らく、この霊烏路空という少女が原因で起こったものだったのだろう。結果ありきで筋の通る推測をすれば、まず守矢神社の神が霊烏路空に八咫烏を与えた。八咫烏は太陽の神であるから、その力を利用すればエネルギー革命を起こすことも可能だろう。しかし太陽の力は大いなる恵みをもたらす一方で危険でもあり、空は制御を失って暴走してしまう。これが過日の「異変」であり、月見が取った解決は、空を無理やり式神として制御する方法だった――。

 元々妙に思っていたのだ、月見が妖怪を式神にして従えるなんて。そんなことをしたがる性格でないのは明白だし、おまけに式神の少女は二柱の神を同時に宿すというオーバースペックぶりだ。月見がそこまでして霊烏路空を式神に選んだ理由が、すべて八咫烏を鎮めるためだったとするならば、この大仰な話にもひとつの理屈が通るとナズーリンは思う。

 笑った。

 

(まったく……本当に、君というやつは)

 

 霊烏路空は妖怪だが、別に人間だったところで月見は同じことをしただろう。幻想郷でも指折りの大妖怪が、高が一介の鴉如きになにをそこまで――と考えて、やめた。この狐のやること為すことに、いちいちツッコむのはもうやめたのだ。だからナズーリンは月見を信じ、過去と闘う霊烏路空を静かに見守り続けた。

 一分は、待たなかったと思う。

 来た。

 

「……!」

 

 八咫烏が、霊烏路空の祈りに応えた。

 彼女の内側に留まるのみだった太陽の力が膨張し、ほんの一息で聖輦船全体を呑み込んだ。

 

「うわわっ!? な、なんてすごい力……!」

 

 予想外の出力にムラサたちが目を見開き、ナズーリンも内心舌を巻く。魔界へ行くどころか往復したって呆れるほどのお釣りが来るような、まさに桁外れの力の奔流である。際限なく湧きあがって迸る流れは疾風を生み、熱を孕んで烈火が如くナズーリンの全身に打ちつける。しかしその風がナズーリンの肌に刻み込むのは、痛みには程遠い果てしない畏怖の感情だ。無意識に口端がつり上がる。長年神に仕えてきたナズーリンとしては、これだけで片膝をついてしまいかねないまでに気高く、神々しい。

 半分の半分、要するに十のうちの三にも満たない出力でこれなのだから、さすがは神話に名を刻んだ太陽の化身であり――

 

(いや――)

 

 或いは――八咫烏がここまでの力をお貸しになるほど、霊烏路空の祈りが清らかだったのか。

 声を張った。

 

「ムラサ、早く魔界に跳びたまえ! このままじゃあ船が耐え切れないよ!」

 

 本来であれば空に放散していくはずの力の波濤が、しかしそうはならず船の周囲に留まり続けている。聖輦船全体を膜のように覆って包み込む、八咫烏とは違う別の神の力がある。

 宇迦之御魂神。

 霊烏路空の清廉な祈りを、八咫烏のみならず彼女まで聞き届けたのだ。確かにこれなら、ただ放出されるだけのエネルギーをより効率的に取り込める。しかし一方で、充満する超高密度のエネルギーに圧迫されて船が嫌な音で軋み始めている。一刻も早く動力に変換しなければ、圧倒的な神の力に圧し負けてバラバラの粉々に弾け飛ぶだろう。

 ムラサが我に返った。

 

「そ、そうだったっ! それでは皆さん、出航しますよおー!」

「ご主人、もうすぐ出番だ! 宝塔を落とすんじゃないよ!」

「わ、わかってますってばぁ!」

 

 最高級のエネルギーを貪欲に取り込んで、聖輦船を形作る木という木から煌く光の粒子が散り始める。足元から極光にも似た輝きが立ち上がり、ナズーリンの視界を幻想的に染め上げていく。

 すべてが光で埋め尽くされる、その間際。

 

(それにしても――)

 

 神の力に満ちる船を見ながら、ナズーリンは思う。

 

(どうしてなかなか、お似合いじゃないか)

 

 或いは八咫烏のみならず、宇迦之御魂神をも宿している影響なのだろうか。

 聖輦船を包み込む、霊烏路空の神の力は。

 

 ――どこかの狐にとてもよく似た、美しい銀の色をしていた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 人間ないし妖怪としてごくごく平凡な生を歩む限り、この魔界と呼ばれる世界に縁を持つ者はまずいないと断言して差し支えない。魔法の森と比較にもならない濃密な瘴気は人間のみならず並の妖怪にすら有毒で、オマケに魔界育ちの強力な魔物がそこかしこを跋扈しているという、あらゆる生物の訪れを拒む過酷な世界である。危険度だけなら無縁塚だって目ではないそんな世界に近づくのは、瘴気を利用して力を高めようとする魔法使いや妖怪か、かつての月見のようにどんな世界かひと目知ろうとする物好きか、ナズーリンたちのように大切な使命を背負った者たちくらいなのだろう。

 しかし光が晴れたあとに広がった景色は、月見の記憶にある魔界とは少しばかり違っていた。

 静かだ。それに生物の姿と人工物もない。赤黒い血の色をした太陽が不気味に見下ろし、唯一変わらない濃密な瘴気に覆い尽くされ、昼とも夜ともつかぬ彼誰(かはたれ)の闇の中、化物のような巨岩が広がる限りに隆起を成している。ただそれだけの世界である。動くものは聖輦船と、船上で周囲を見渡す月見たち以外にない。

 

「……ここは、魔界のどのあたりだ?」

「無限の空間を持つ魔界の端の端、仏界と呼ばれる区域です」

 

 星が答える。両手でしっかり握り締めた宝塔が、神々しい金の光を放っている。

 

「魔界の文明から遠く離れた辺境であり、同時に争いのない平和な場所でもあります」

「景色は地獄みたいだけどねー」

 

 志弦が手を庇にして遠くを眺め、うひゃーこわーと興奮半分逃げ腰半分な声をあげている。お化け屋敷にやってきた女子高生みたいな反応である。実際女子高生だが。

 

「宝塔の力で、船の周りに結界を張っています。外は瘴気が濃いですから、結界からは出ないでくださいね」

「おっと」

 

 そのとき急に腕が下に引っ張られたので見てみると、おくうが甲板にへたり込んでいた。すべての緊張から一気に解放されたせいで、体にはまったく力が入らず、口から何度も酸素を取り込んで、月見の掌に縋りつく指先は今にも力を失って落ちてしまいそうだった。

 

「大丈夫か?」

 

 膝を折り、おくうと目線を合わせる。ゆるゆると顔を上げたおくうは目をしばたたかせ、ここが現実か夢かもわからぬ様子で、

 

「こ」

「こ?」

「こし、ぬけた……」

 

 月見は苦笑し、おくうの頭を励ますように三度、優しく叩いた。

 

「よく頑張った。ありがとう、おくう」

 

 願わくはこれが、彼女の八咫烏への認識を変えるきっかけになればと思う。一歩間違えれば多くの命を危険に晒す力であるのは、決して否定しようがなく――けれど清らかな心で祈る限り、神とはこんなにも優しく暖かな存在なのだと。

 なにかを傷つけるのではなく、なにかを助く力であるのだと。

 

「……、」

 

 おくうはしばし、ぽかんと目を丸くして。

 

「……ん」

 

 翼をそわそわさせながら満更でもなさそうに、へにゃ、と笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんな二人をこっそり観察しながら志弦は、

 

(紫さあ――――んまずいよ――――冬眠してる場合じゃないかもよこれえ――――――)

 

 と内心盛大にニヨニヨしているのである。改めて冷静に考えてみれば、霊烏路空は月見の式神なのだ。式神の主人には大きく分けて二種類あり、式を己の手足としてこき使う者か、大切な仲間や家族として思いやる者であるが、月見はどう考えたって後者なのだ。つまり霊烏路空は紫よりも輝夜よりも他の誰よりも、月見に一番近い場所にいると言えないこともないのだ。

 これで霊烏路空が、たとえばフランのような意味で懐いているのであれば話は違ったろうが。

 どうも今までの一部始終を見る限り、腹になかなか厄介な一物を抱えていそうなのである。

 

(んー、ほんと寝てる場合じゃないかもですぞー。だってこれ、白蓮もどうなるかわかんない(・・・・・・・・・・)もん)

 

 弟を助けてくれた恩人という意味でもそうだし、なにより妖怪とも人間とも変わらぬ友誼を結ぶ月見の在り方は、たぶん、白蓮が目指していた理想そのものだ。白蓮にとっての月見とは、自分の目指す先が向こうから服を着てやってきたようなものなのだ。そんじょそこらの妖怪とはワケが違う。そんな相手に対して白蓮が、はてさて当たり障りのない知人程度の関係で満足などするかどうか――。

 

「志弦」

「うい」

 

 ナズーリンに名を呼ばれたので、志弦はやや桃色な妄想を打ち切った。

 

「息苦しくはないかい? 君は人間だから、魔界の瘴気は一番有毒だ」

「ん、大丈夫だよ。もぉー深呼吸だってできちゃうぜ」

 

 ナズーリンの後ろで、星がほっと胸を撫で下ろした。

 

「それはなにより。……では早速ですまないが、聖の場所まで案内してもらっても?」

「おうさ。えーと、」

 

 志弦は空に意識を澄ませ、風の流れから現在地と方角を確認し、

 

「船長さーん」

「……なんでしょう」

 

 指を振り、御老体譲り、ひいては秀友譲りの術で風を生み出す。

 

「この風が吹く方向に向かう感じで」

「……わかりました」

 

 船長の名前は確か村紗水蜜だったはずだが、志弦に応じる声音には未だ消えきらない距離感がある。そうだろうなあ、と思う。どんな理由があれ志弦は、しづくは、彼女たちの生活を引き裂いた張本人なのだから。

 それがたとえ、白蓮を守るためであったとしても。

 

(白蓮も、怒ってるかなあ)

 

 千年も待たせてしまったから、ちょっとくらいは、怒られそうだ。

 船が、風の流れる先へ向けて動き出す。

 

「……志弦」

「うん」

 

 ナズーリンの問いなき問いに、志弦は頷き、全員へと振り返る。

 

「ぜんぶ話すよ。私たちのこと。白蓮のこと」

 

 あの頃は時代が、互いの信念がそれを許さなかった。けれど幻想郷では違う。きっと今度こそ、自分たちは共に手を取って歩めるはずだと信じている。

 だって、私たちは。

 同じ妖怪(つくみさん)を、恩人に持つ者同士なのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「……ん? なあ、水蜜」

「はいはい、どうかしましたか?」

「ふと気になったんだけど……ぬえはどこに行った? 乗ってないのかあいつ」

「え? なに言ってるんですか月見さん、ぬえなら私たちと一緒に………………あれ?」

 

 

「みんな私を置いてくなんてひどいよおおおおおおおおおおっ!! うわあああああん仲間外れにされたああああああああああ」

「こたつで怠けてなんかいるからだ。さあさあ私たちの手伝いをしておくれ、そろそろお客を入れるからね」

「うええええええええええ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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