銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色
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東方星蓮船 ⑬ 「REMINISCENCE ③」

 

 

 

 

 

(――?)

 

 鼓動のような揺らぎを感じて白蓮は目を開けた。無論、開けたと言っても所詮は感覚的な話であり、目の前に広がるのはなにひとつ変わらない無量無辺の闇である。封印された己の前に差し込む光などなく、凍てつくほどの無音だけが耳を満たしている。

 なにも見えないし、なにも聞こえない。いつものこと。けれど、確かに感じたのだ。

 この闇の向こう側から、まるで誰かに名を呼ばれたような。

 

(……あの人が、来てくれたのかな)

 

 そんなことを、冗談めかして考えた。あわいの空間に封じられてどれだけの時が過ぎ去ったかはとうに感覚がなく、そんな期待をしたところで辛くなるだけなのはわかっているけれど。

 それでも、思い出さずにはおれない。

 

(……しづく)

 

 神古しづく――白蓮をこの闇の中に封じた、陰陽師の少女。

 白蓮としづくは、似た者同士だった。白蓮は弟を妖怪に救われ、しづくはご先祖様を妖怪に救われた。白蓮は弟の遺した言葉を胸に秘めながら生き、しづくはご先祖様の遺した言葉を胸に秘めながら生きていた。

 そしてだからこそ、相容れなかった。

 人も妖怪もともに生きられればと願う白蓮の夢を、しづくは決して(わら)わず、親身になって理解してくれて――だからこそ最後には拒絶し、白蓮を封印した。

 しづくへの恨みはない。自分がそんなに虫のいいことを言える立場でないのはわかっている。人と妖怪の共存という夢に囚われるあまり、進むべき道を見誤って、無関係な人々を傷つけてしまったのだから。信じてくれていた人たちを裏切ってしまったのだから。今となっては、元より己の力では叶えようのない大言壮語だったのかもしれないとも思うのだ。かつてしづくが宣告した通り、なんの変哲もない小娘ひとりが志したところで、悲しい目に遭う誰かを(いたずら)に増やしてしまっていただけだったのかもしれない。

 

 白蓮には、人を導く才能がない。

 人には、よく信頼してもらえる。だがそれは、人の上に立つ才があるかどうかとはまったく別の話。平和主義が災いしていつも優柔不断で、昔からナズーリンや星には助けられてばかりだった。人と妖怪の共存を理想に掲げ、けれどそんな世界を創るためにどうすればよいのかなどまるでわかっていなかった。わかりもしないまま見境なく手を差し伸べ、救った気になって、人と妖怪の溝をより深いものにして、その期に及んでも夢を諦めきれなくて――。

 悪魔。そう呼ばれるようになったのは、当然だったのだと思う。

 

(本当に、バカだったなあ……)

 

 そう考えればむしろしづくは、敢えて封じることで白蓮を助けてくれたのかもしれなかった。少なくとも、あのときの彼女の口振りはそういう意味で取れたと思う。人に害を為す悪魔を本気で裁くなら、他に取るべき選択などいくらでもあったはずだから。

 でも、そうではなかったのかもしれない。

 白蓮を大人しく封印させるための、嘘だったのかもしれない。無意味な期待を抱きながら、来るはずもない解放の時を未来永劫待ち続ける――それこそが、己に課せられた本当の罰なのかもしれない。

 闇の奥底が囁きかけてくる声を、どうしても掻き消せない。

 

(しづく……)

 

 怖い。

 怖いよ。

 自分は、一体いつまでこの闇の中にいるのだろう。ずっとこのままなのだろうか。このままいつか、心すら擦り切れて完全に消えてしまうそのときまで、ずっと。しづくは白蓮を助けてくれたのだろうか。それとも助けてくれなかったのだろうか。

 この無間の闇で、罪の意識とともに最期まで苦しみ続けろと。それが悪魔と呼ばれた自分の末路なのだと言われてしまえば、白蓮にはなにも言い返すことができない。

 でも、それでも、

 

(やり直したい……)

 

 もしも、もしもこの眠りから覚めるのなら、

 

(もう一度、やり直したいよっ……!)

 

 覚めた先にある世界が、本当にしづくの教えてくれた通りであるのなら、

 

(もう一度、生きたいよ……! 命蓮を助けてくれた、『あのひと』と一緒に……っ!)

 

 生きたくても生きられなかった弟との『約束』を、今度こそ。

 今度こそ――。

 

(…………)

 

 涙は、流れなかったと思う。泣き方なんて、もうとっくの昔に忘れてしまったから。

 

(しづく――……)

 

 だからまた、白蓮はあのときのことを思い出す。闇の囁きがすぐそこまで迫ってきたときは、過去の記憶に縋るのが己にできる唯一の抵抗だった。

 弟が生きていたときのこと。みんなと一緒だったときのこと。そして、しづくと出会ったときのこと。

 何度呼び起こしたかもわからぬあの頃の記憶を抱いて、白蓮はそっとまぶたを下ろす。

 

 そしてそれが、この封じられた空間で過ごす最後の眠りになるのだと。

 今はまだなにも、知らぬままで。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 もちろん白蓮は、物心を得た当初から妖怪に好意的だったわけではない。はじめは世間一般の常識同様、妖怪は人間を脅かす恐ろしい敵なのだと思っていたし、仏の教えに身近だった分だけむしろその認識は強かったかもしれない。両親が早世した以外はなにも特殊な境遇などない、どこにでもいるようなごくごく普通の里娘だった。

 白蓮には、命蓮という名の弟がいた。自慢の弟だった。生まれつき体は強くなかったが、その代わり人並み外れた高い法力を持ち、将来を高僧として誰からも期待されていた。そしてその期待通りの立派な僧となり、多くの人々を救って――病を患い、白蓮を置いて夭折(ようせつ)した。

 白蓮の人生に最も大きな影響を与えたのは、間違いなく弟だった。

 弟がいなければ、白蓮が仏門に入ることはなかった。

 弟がいなければ、妖怪に恐怖以外の感情を抱くことはなかった。

 弟がいなければ、妖怪を救おうと考えることはなかった。

 弟なくして、己の人生は存在し得なかった――それくらいに自慢の弟だった。

 

 そんな弟には幼い頃、山で怪我をしたところを助けてくれた妖怪がいた。

 怪我が治るまでの間をともに暮らし、陰陽術の手解きを授けてくれた妖怪がいた。

 

 人間のように、やさしかったひと。

 

 その妖怪を、弟は「父上」と呼んでいた。

 白蓮の知らない、命蓮だけの父だった。

 

 

 

 

 

 人に言うと大抵意外な顔をされるのだが、幼い頃の白蓮は家で人形遊びをするよりも、外で虫取りや魚釣りをするのが好きな女だった。成人してからはさすがに鳴りを潜めたものの、外の空気が好きであるのは代わりなく、修行の合間を見つけてはしばしば散歩や買い物に出掛ける日々を送っていた。

 土の匂いは、好きだ。何年何十年と経った今でも、弟を振り回し野原を駆け巡っていた頃が鮮明に甦る。枝葉の隙間から降り注ぐまばらな日差しは、遊び疲れて木陰でお昼寝をした記憶。陽気な小鳥のさえずりは木の実拾いと山菜取りで、涼しげな川のせせらぎは水遊びと魚釣り。白蓮にとっての散歩とは、懐かしい頃の自分を追いかける思い出旅みたいなものだった。

 命蓮を(うしな)ってから、早いもので十年以上の歳月が過ぎていた。人と妖怪の共存を夢見て生きる中で仲間にも恵まれ、次第に前へ進めている実感が得られ始めてきた頃だった。

 散歩も兼ねて山の恵みを少しばかりいただいた、その帰り道だった。

 

「いい天気……」

 

 適度に広がる木陰の下でなお、見上げればそのまばゆさに思わず目を細めるほどだ。穏やかな陽気と心地よい森の声は、自然と白蓮の心を上向きにしてくれる。足取りは軽く、しゃらしゃらと鳴る錫杖とともにいつの間にか鼻歌を口ずさんでいた気づき、「私ったら……」とちょっぴり恥ずかしくなる。

 

 この頃の白蓮は故郷を遠く離れ、山奥の廃寺に新しくやってきた尼僧という立場を名乗り、夢を目指して精力的に――しかし一方では必要以上の素性を隠して慎重に――活動していた。不老長寿の秘術と若返りの禁術に手を出しているのもあるし、まさか妖怪との共存を声高々と謳うわけにもいかないから、表向きには「仏を信ずる心があれば善人も悪人も、妖怪すらもみな等しく救われる」という無難な文句で、こつこつと思想を広める毎日である。

 千里の道も一歩からで始まったこの歩みも、今となっては妖怪の門下を抱えるまでになった。船幽霊の村紗水蜜、入道の雲山、その雲山を使役する雲居一輪、白蓮の推薦を受け毘沙門天の代理となってくれた寅丸星。それと門下ではないけれど、星のお目付け役として毘沙門天から派遣され、寺のご意見番も務めてくれているナズーリン。白蓮の思想に共感し帰依してくれる、或いは理解して応援してくれる、心優しく、白蓮にとっては新しい家族ともいえるかけがえのない少女たちだった。

 まだまだ歩き始めたばかりで、夢は遥か彼方だけれど。

 

(少しずつ……前に進めてるはずだよね)

 

 白蓮の昔からの夢であり、同時に死に逝く弟と交わした最後の約束。

 古来より妖怪は人間を襲い、人間は妖怪を恐れている。妖怪は敵であるという意識が人々の間では根深く、それ故争いを好まない無害な妖怪たちまでが不当な迫害を受け、時には人間以上に苦しめられてしまっている。

 忌憚ない言葉で表現すれば、今の世は間違っていると白蓮は思う。

 人と争わず、むしろ人の命を救ってくれた妖怪がいる。

 その恩人を父と慕いながらも、正体が妖怪だったというだけで理不尽に別れなければならなかった人間がいる。

 優しい妖怪は、確かに存在している。

 だから種族の違いに囚われず、皆がともに手を取り合える場所が必要なのだ。この世界すべてを変えられるとは思わないが、せめて国のどこか片隅にでも、そういった場所が存在しなければならないはずなのだ。

 襲い、襲われ、恐れ、恐れられるだけの関係を強いる世界なんて、白蓮は絶対に認めたくない。

 

「……」

 

 しかし今の活動を今のまま続けたとして、それで夢を叶えられる日は一体いつになるのだろう。急いては事を仕損じるだけだとご意見番の少女は言ってくれるし、白蓮も、自分の活動が常に危険な綱渡りなのはわかっているけれど――目指す世界は未だ、あまりにも遠い。

 ついため息が出そうになって、首を振った。

 

「……だめだめ。自分だけは、自分を信じなきゃ」

 

 駆け出しの尼として、言われるがまま修行を繰り返すだけでよかった頃とは違う。今の白蓮は人からも妖怪からも帰依を受ける身で、彼女らを導いていかなければならない立場なのだ。昔はいくらでも弟を振り回していたのに、成人し女らしい自制を得た代わりに主体性を失い、人の上に立つのがすっかり苦手な白蓮であった。だからこそ、自分で自分を信じられない有様では門下たちに示しがつかない。

 前を向き、ふんす、と気合を入れて、

 

 真横に人が落ちてきた。

 

「ほわあああああああああああああげふ!!」

「ふひゃああああああああああああああ!?」

 

 本気で悲鳴を上げた。

 道端の木の真上からだった。その人影は枝が重なってできた層を真上からベキバキ突き破り、一番太い枝でしたたかに腹を打って止まりかけ、しかしあと一歩及ばず「あーれー」とずり落ちながら茂みに消えた。

 

「!? !?」

 

 死ぬほどびっくりした白蓮はじわりと涙目で、右を見て、左を見て、上を見て、ここが崖沿いの山道であることを思い出し、

 

「は、え!? ひ、ひと、落ち!? だだだっ大丈夫ですかしっかりしてくださいっ!?」

 

 白蓮が指導者に向かない理由のもうひとつに、予想外のことが起こるといとも簡単に平常心を失ってしまう点が挙げられる。

 どうすればよいかわからずその場でわたわたしていると、茂みから飛び出た足がかすかに動いて、

 

「し、しくじった……まさかここまで高い崖だとは思わなかったぜちくしょう」

「あ、い、生きてる……」

「殺さないでおくれやすー」

「ごっごめんなさい!」

 

 崖の上で、何匹かの獣の吠える声が聞こえる。

 

「えっと……野犬に、追いかけられたんですか?」

 

 足が答える。

 

「うむ。それで逃げようと思って飛び降りたんだけど、意外と高くて死ぬかと思ったよね」

「確かめないで飛んだんですか……?」

「だって止まった瞬間ガブリな状況だったし」

「追い払えばよかったんじゃ……」

「ふっ。血気盛んな野生とはいえ、わんこに手を上げるのは私の流儀に反するんだぜ」

 

 変な人なんだなあ。ピクピク動く足を眺めながら、白蓮はそう納得した。

 

「おっと、こうしてる場合じゃないや。そこにいると思われるお姉さーん、ちょっと手を貸してくれると嬉しいなー」

「あ、はい」

 

 茂みから右手が伸びてきたので、白蓮は一旦錫杖を置き、両手で握り返してめいっぱいに踏ん張る。意外と軽い相手だったこともあり、魔力なしでも手間取らずあっさり引っ張り出せた。

 

「ぷはー。いやーごめんごめん。お陰で助かっちった」

「お、お怪我はありませんか?」

「大丈夫だよー。丈夫なのだけが取り柄なもんで」

 

 全身に葉っぱやら毛虫やらをくっつけたみっともない恰好で、にへらと女は笑った。

 野暮ったい女だった。さっきまで茂みと一体化していたからではない。もとから長い髪を雑にまとめていて、もとからがさつな着飾りなのだ。上は庶民の女性が一般的に着ている小袖で、下は動きやすいように袴を履いているが、紐の締めが甘くぶかぶかの皺だらけで、折目も薄くなっているせいで見るからにだらしない。しかしくっきりとした二重の瞳は大きく丸く、笑顔には生命力が満ちているお陰で不思議と嫌な印象は受けない。野山を元気に駆け巡る子どもがそのまま大人になったような、どことなく純朴な人懐こさを感じる。

 巫女らしい出で立ちをしているが、まさか本当に巫女ではあるまい。葉っぱと毛虫を払った少女が立ち上がる。白蓮よりほんの少しだけ、背が高かった。

 

「あんれ、尼さんだ」

「あ、はい。尼さんです」

「こんな山の中を一人歩きなんて……さしずめなかなかの手練れと見た」

 

 見よ、私の名推理……みたいな顔を少女はしていた。楽しそうな人だなあと白蓮は思う。

 

「私は、この山にあるお寺の住職です。……あなたこそ、こんなところで一体なにを? 私が言うのもなんですけど、ここは女の方が一人で歩くような場所じゃ……」

 

 んー、と少女は白蓮を見ながら少し考え、

 

「……まあ、探し者(・・・)かな。もう用は済んだから、日が沈む前にそろそろ麓に下りようかなって」

「はあ」

 

 少女は荷物らしい荷物も持たず手ぶらである。そんな山歩きらしからぬ恰好で、一体なにを探していたのやら。

 それにしても、不思議だ。崖の高さを見る限り彼女はそこそこ高いところから落ちてきたはずだが、本当に怪我ひとつ負っていないし、それどころか服もまったく傷んでいない。髪をちゃんと結んで服の紐をしっかり締めれば、誰も彼女が崖から落ちてきたなんて信じないだろう。

 もちろん、怪我もなく済んだのはよいことだけれど。

 

「……ちなみに、町がある麓ってどっち? 追いかけられてるうちにわかんなくなっちった」

「それでしたら、この山道に沿って下っていけば、」

 

 そこで白蓮は口を噤んだ。

 白蓮の正面――すなわち山を登る方向から、恐らくは崖を迂回してきたのだろう、怒涛の勢いで疾走してくる野犬の群れが、

 

「……あー、」

 

 少女は、振り返ることもなく察した。きつくまぶたを閉じ、声なき声で呻き、ぷるぷる震えながらお天道様へ呪詛を飛ばすように空を仰いで、

 一秒、

 

「上等じゃあああああっ捕まえられるもんなら捕まえてみやがれええええええええ!?」

『『『ガウウウウウッ!!』』』

 

 白蓮が教えた方角をまるっきり無視し、山道を外れ急な斜面を猿みたいに駆け下りていく。そしてそんな死に物狂いの少女を、野犬たちは一匹残らずご丁寧に猛追していく。白蓮なんてはじめから眼中になしである。

 

「へ、」

「助けてくれてあんがとねええええええええええっ」

 

 少女も野犬の群れもあっという間に斜面の底へ消え、あとには山彦のような少女の叫びが響くのみ。

 頭が追いつくまで、たっぷりと五拍ほど掛かった。

 

「……はっ!? へ、あ!? あ、あのーっ!?」

 

 慌てて斜面を覗き込むと、辛うじて木々の彼方で点になりかけている少女の背が見えた。なにゆえ野犬から世紀の大泥棒みたいに追いかけられているのか、いやそれよりもなにぼけっと突っ立ってるの聖白蓮危険な目に遭ってる人を見過ごすつもりなの今すぐ追いかけなきゃ、

 

「ま、待ってくださ――うひゃあ!?」

 

 そして斜面に一歩足を踏み出した瞬間、落ち葉で滑ってものの見事にすっ転んだ。昔から運動神経は自信があるのに、しょうもないところでしょうもない鈍くささを発揮してしまう白蓮であった。

 

「ふわっ――うわわわわわっ、へぶぅ!?」

 

 勢いよく尻餅をついた瞬間取り返しのつかないところまで体勢が崩れ、顔面から落ち葉のそりに乗せられていっそ滑稽なくらいに滑り落ちた。

 はてさてどれほど滑ってしまったか、斜面が緩やかになった場所でようやく止まる。

 

「い、いたたた……もうっ、私ってどうしてこう……」

 

 誰にも見られてはいなかったはずだが、マヌケすぎて勝手に顔が熱くなってくる。聖は住職としては優秀だけど、そそっかしくて危なっかしいところがあるからねえ――ご意見番の少女にそう辛辣に評価されてしまった記憶が甦って更に熱くなる。そういえば昔も、野原を走っては転んで釣りに行っては川に落ちて、いつも命蓮から生暖かい目で見られてたっけなあ。

 

「うう……」

 

 しゅうしゅう湯気を上げながら体を起こす。山の恵みを入れた籠が壊れなかったのは幸いだが、当然少女の姿などもう影も見えない。白蓮はため息をつき、地面にしっかり両手をついて、また足を滑らせないよう慎重に、

 

「――え、」

 

 血。

 手をついた先の落ち葉が、ひと目でぞっとする量の血で赤黒く汚れていた。

 

「……え、や、やだ、どこか怪我したかな」

 

 咄嗟に慌てることもできなかった。まざまざと血の気が落ちていく感覚の中で白蓮は体を確かめる。腕、胸、お腹、脚、最後に頭。しかしどこを触っても血が流れている様子はなく、斜面を滑り落ちた鈍い痛みこそあるが、意識ははっきりしているし体も問題なく動かせる。

 つまり、

 

「……私の血じゃ、ない?」

 

 落ち着いて考えてみれば当然のことだった。白蓮の手は汚れていない。この血はすでに固まっているのだ。つまりは白蓮よりも先にここを通りかかった何者かの血痕であり、なんだよかったと思わず胸を撫で下ろしたその直後、

 

「た、大変……!?」

 

 心臓をぎょっと鷲掴みにされた。なにがよかったものかと自分で自分を叱責し、立ち上がる間も惜しんで懸命の形相で血の跡を探した。落ち葉の汚れ方からして、誰がどう見たってちょっとやそっとの怪我ではない。そしてこの山に土地勘のある白蓮は、ここより周囲に存在するものが手つかずの自然ただひとつであることを知っている。寺にだってまだまだ歩かなければならない。もしもこれが必要な手当てを受けることもできず、当てもなく山を彷徨い歩いた何者かの痕跡であるのなら。

 人であろうと妖怪であろうと、白蓮の答えは決定した。

 

「……ごめんなさい」

 

 秤にかけるまでもなかった。今やもう声も聞こえないあの少女へ小さく詫びを入れ、白蓮は余計な思考をすべて意識の外へ弾き出す。

 何度も足を滑らせかけながら探し回ってようやく、落ち葉と土に紛れた血痕の道を見つけた。

 

 

 ――人のみならず、理不尽に虐げられる妖怪こそが救われるべき命なのだと思っていた。争いを望まない心優しい者たちが、その望みのまま暮らしていける場所を創りたいだけだった。遠すぎる理想を目指して歩き続け、少しずつ仲間に恵まれて、私たちはきっと手を取り合って生きていけるはずだと確かな実感が得られ始めていた。

 

 それ故の、油断だったのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 血の跡を追いかけ山を下り、或いは登り、山修行で鍛えた土地勘も失いかけるほど奥へ分け入って、白蓮はようやくその場所まで辿り着いた。

 わざわざ崖と呼ぶほどでもない、山を歩けばどこでも見かけるような、人ふたり分ほどの高さで剥き出しになった粒の粗い地層。苔むし木の根が這うその根元の部分が崩れ、白蓮でも屈まなければ進めない程度の小さな洞穴となっている。そう大した深さがあるとは思えないが、光が上手く差し込まないせいなのか、入口は不気味な闇一色で遮られている。

 奥。

 

「っ……」

 

 知らず識らず、胸の前で己が両手を握り締める。もはや血の跡を探さずともわかる。他者を寄せつけまいとする針のような気配を感じるし、この奥に身を隠しているのが人ではないことも白蓮はすでに察していた。

 そして、向こうも白蓮に気づいていた。

 人間に友好的な妖怪とは限らない。これ以上近づくのは危険かもしれない。けれどここまで追えてしまうほどの血を大地に流した何者かは、間違いなくあの闇の奥にひそんでいる。もしも白蓮の悪い想像が当たっているのなら、確かめもしないで恐怖に屈してしまうのは絶対に嫌だった。

 妖怪というだけで人間から理不尽に襲われ、怪我を負い、誰の助けにも縋れぬまま独りで耐えるしかない者だって、この世界には確かに存在しているのだ。

 

「毘沙門天様……どうか、御加護を」

 

 祈り、白蓮は一歩を踏み出す。途端に洞穴の奥から剣呑な妖気があふれ、壁となり立ち塞がって白蓮の歩みを拒む。けれどそれは、強がりな妖気だった。これ以上近づかれればもう為す術がない自分を、喉を唸らせ、牙を剥き出しにして懸命に覆い隠そうとしていた。

 普通の人や獣なら、それでも充分追い払えただろう。

 白蓮は止まらない。だからこそ、止まるわけにはいかない。この先にいるのはきっと、自分が手を差し伸べるべき妖怪であるはずだから。

 洞穴の入口を、目の前に捉えた。

 

『――止まれ』

「……!」

 

 地の底が冷たく唸りをあげたような、老婆とも老爺ともつかぬしわがれた声だった。人の声にはありえない振動で肌が引きつり、白蓮は咄嗟に呼吸を止めた。

 

『……人間が。儂の首を取りに来たか』

 

 深い嫌悪と、怨嗟と――空虚の、声。

 やはり深い洞穴ではない。薄闇の奥にかすかながら、横たわった獣の四つ足と尾の輪郭が見える。大きくはない。あの少女を追い回していた野犬と同じか、むしろ少しばかり小さい程度。

 

()ね。その首喰い破られたくなければ』

「……」

 

 恐ろしい言葉とは裏腹に、声に浮かぶ感情は深い失意だった。上っ面だけの警告だった。敵を喰い破るだけの力なんてとっくに残っていない。この人間がもしも妖気に臆せず踏み込んでくるなら、結末はひとつ以外にありえないと――そう、己の命を諦めてしまっていた。

 やはり、逃げるわけにはいかない。白蓮は静かに息を吸い、止めて、強く言った。

 

「――あなたを、助けに来ました」

 

 己が使命を、己自身へ告げるように。

 

「傷を見せてください。私が、手当てをします」

 

 しばし、反応はなかった。やがて沈黙こそが答えだと白蓮が受け取ろうとする頃になって、薄闇の奥から不自由そうに喉を震わす音が響いた。

 

『――ふ、は、は。人間が、儂を助ける?』

 

 嘲笑だった。

 

『我が里を襲い、同胞の命を奪った人間が。儂を、この儂を、助けるだと?』

「ッ……」

 

 ――ああ、まただ。

 妖怪は人間を襲い、時に血肉をも喰らう。それ故に人々の恐怖はやがて、妖怪が人間を襲うのなら、我々人間は襲われる前に打ち倒してしまえばよいのだという思想を生み出した。妖怪が人間を襲う一方で、いつしか人間もまた妖怪を襲い、互いが互いを傷つけ合うようになってしまっていた。

 争いを望まぬ心優しい者たちまで巻き込んで、それに一体、なんの意味があるというのか。私たちは一体、なんのために心を持って生まれてきたのかと、白蓮は本当に口惜しい思いに駆られる。

 だから白蓮は、妖怪を救うのだ。負の感情をぶつけ合う無意味で空虚な負の連鎖は、必ずどこかで、誰かが正の感情で断たねばならないから。

 

「助けます」

 

 答えた。

 

「人を襲う妖怪がいます。妖怪を襲う人もいます。……でも、人の命を助けてくれるような、優しい妖怪だっていますし、」

 

 弟は、妖怪に命を救われた。

 優しいひとだったと、弟は言っていた。

 ただ襲い襲われるだけが、人と妖怪のつながりではないと。そう弟が、白蓮に言い遺してくれたから。人も妖怪も救ってみせることが、弟と最後に交わした約束だったから。

 だから、

 

「――傷ついた妖怪の力になりたいと願う人間だって、ここにいます。だから助けます」

 

 からみつく妖気を振り解き、再び一歩を踏み出す。妖怪が喉を唸らせ白蓮を睥睨(へいげい)するが、もう怖いとは思わなかった。助けがなければ衰弱し死ぬだけだとわかっているはずなのに、それでも助けを拒絶しようとする拙い矜持が哀れですらあった。

 膝を曲げ、洞穴を進む。

 (てん)――或いは、鼬か。まず目に飛び込んできたのはその毛並みだった。恐らく元は白に近い色だったのだろうが、こびりついた血が黒く変色し、土と泥で汚れ、打ち捨てられた布切れよりも遥かに無残で痛々しい姿だった。毛先は艶を失い濁りきり、生気の巡りがほとんどなにも感じられず、もしも前以て威嚇を受けていなければ、白蓮とて死んでいるものと早合点してしまっていただろう。

 半死半生。

 

「ひどい……」

『……人間が、妖怪を憐れむか』

 

 獣が、まぶたを上げた。貂や鼬は一見丸く愛らしい顔つきをしているものだが、この獣には愛嬌と呼べる類などひと欠片も存在していない。生気を失ってなお炯々(けいけい)と赤い(まなこ)は鋭く切り立ち、黄ばんだ牙を隠そうともせず根元から剥き出しにする。けれどやっぱり、それは、なんの力もない自分をせめて妖怪らしくあろうとする強がりな示威に過ぎなかった。

 深呼吸をした。

 なにもはじめてのことではない。厭世に呑まれた妖怪へ、手を差し伸べるのは。

 

『……無様だろう。どうだ、妖怪を見下し、その生殺与奪を握った気分は』

「助けると、言ったはずです」

 

 獣の自嘲と嘲笑を一声の下で断ち、白蓮は膝をついて手を伸ばした。

 

「傷を、見せてもらいます」

 

 獣の瞳に、苦々しい不可解と警戒の色が混じる。

 

『なにを考えている』

「言った通りです。あなたを助けます」

『戯れ言を。そんな真似をして貴様になんの得がある?』

「あなたの命を見捨てずに済みます」

 

 強く顔をしかめるような、低く短い唸り声だった。きっと、人間から悪意以外の感情を向けられることすらはじめてだったのだろう。それは白蓮という人間への猜疑(さいぎ)ではなく、はじめて出会う正体不明の生物に対する動揺ですらあった。

 心の中では、白蓮の想像も遥かに及ばぬ激しい自問が繰り返されていたと思う。だが最終的に獣は、それすらもはや無為なものでしかないのだと切って捨てた。

 

『……好きにしろ』

 

 体から一切の力を抜き、空虚に、

 

『なにをされようと儂には、もう抗う力もない』

「ええ、好きにさせてもらいます」

 

 生を諦めた思考の放棄を、白蓮は肯定と受け取った。逡巡は須臾の間だけ。血まみれの体へ手を伸ばし、痛みを与えぬよう細心の注意で傷の所在を確かめる。

 その如何によっては、寺へ運んで手当することも覚悟したが。

 

「……よかった、傷自体はもう塞がってますね。さすが妖怪です」

 

 妖怪は総じて外傷に強く、その治りも人間と比べていっそ不平等なほど早い。見る限り手当を受けた痕跡はないから、毛の色が変わり果てるまでの血を流しながらも、己の潜在能力だけで事なきを得たということだ。

 白蓮はひとつ胸を撫で下ろす。しかし気は緩めない。

 

「なにか……術を、掛けられていますね」

 

 獣の体の中で、なにか邪な力が絶えず渦を巻いているのがわかる。具体的な見当はつかないけれど、獣を襲った人間が掛けた呪術の類なのは疑いようがない。

 獣がわずかに首を上げ、喉で笑った。

 

『ほう、わかるのか』

「助けると言ったはずです」

 

 即答する白蓮を、心底おかしそうに、

 

『妖怪の力を封じ衰弱させる、忌々しい(まじな)いだよ。これのお陰で一向に回復の兆しがない。なんとか傷だけは塞いだが、これ以上は儂にはどうにもできん』

「……解きます」

 

 傷自体がすでに癒えているのなら、この邪法さえ解いてしまえば助けられる。尼僧として、どんなときも最低限の道具だけは携帯するようにしていて正解だった。火種がないから護摩は焚けないが、おびただしい量の経を写した巻物、法力を込めた念珠、そして錫杖さえ揃っているならなんとかなる。呪いを祓う――つまり邪なモノを退けるのは、白蓮たち仏僧が最も得意とする独擅場だ。

 静かな問いだった。

 

『……本気か。貴様、本気で儂を助けるつもりなのか』

 

 今度は、白蓮がおかしそうに笑ってやった。

 

「はじめから、そう言ってるじゃないですか」

『……』

 

 獣が持ち上げていた首を地面に下ろし、また、長い吐息とともに全身の力を放棄していく。けれど此度のそれは、己の最期を悟り諦めるものではなく。

 

『……奇妙な人間だ』

「よく言われます」

 

 少しだけ。

 抵抗が無意味なのではなく、不要なのだと理解し、白蓮を受け入れるような。

 思わず頬が緩み、すぐに首を振って白蓮は心を切り替える。獣の体に巣喰う呪術を白蓮は知らないし、罪もない妖怪を死に至らしめる術など知りたいとも思わない。

 だがたとえ知らずとも、邪悪を祓う毘沙門天の力さえあれば。

 

「動かないでくださいね」

『……安心しろ。動く気力もない』

 

 そうですか、と短く答えて。

 念珠を握り締め、白蓮は祈った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 四半刻は掛からなかったと思う。

 

「……どうですか?」

 

 今の自分にできる限りの祈祷を終え、白蓮は固唾を呑む思いで獣を見下ろした。上手く行った、はずだった。自分にはもう、この獣を蝕んでいた邪法の痕跡は影も形も感じられない。

 獣が病み上がりの体を押して立ち上がろうとする。白蓮は咄嗟に手を伸ばそうとし、しかし赤黒く固まった毛先に指が触れる直前で思い留まった。白蓮の予想に反して、獣が拍子抜けするほどあっさりと立ち上がったからだった。

 獣自身、些か驚いた口振りだった。

 

『……よもや、本当に助けられるとは思わなんだ。貴様は人間ではないのか』

「……人間ですよ」

 

 眉を開きながら白蓮は答える。――少なくとも、今はまだ。妖怪から力を分けてもらい、不老長寿の秘術と若返りの禁術に手を出している。存在が人間とは呼べなくなっても、心は人のままでありたいと願ってはいるけれど。

 でも、と続け、

 

「この世には様々な人たちがいて、十人十色です。妖怪に敵意を持っている人もいるでしょうし……逆に、どうか互いに争うことなく、平和に生きていたいと願う人だっています。それは、妖怪も同じでしょう?」

『……』

「私は、そんな人と妖怪の橋渡しになりたいだけなんです」

 

 祈るように、

 

「争いを望まない者たちが、争わずともに暮らしていける。そんな場所がこの世のどこかにひとつくらいあったって、いいじゃないですか」

『…………』

 

 獣はなにも言わず、探るような目つきで微動だもせず白蓮を見ている。だから白蓮もそれ以上はなにも語らず、毅然と相手の瞳を見返した。たとえ一生を懸けるに値する譲れない夢であっても、他人からすればなんの価値もない荒唐無稽な絵空事でしかないのはわかっている。だからこそ、ここで逃げてしまってはいけないのだと思った。

 先に目を逸らしたのは、獣の方だった。

 

『……貴様は、妖怪の味方なのか』

「敵とか、味方とか。そういう線引きをしなければならないこと自体、悲しいことではありませんか」

 

 口端を曲げた。

 

『まこと、奇々怪々な人間よ』

「……そうかもしれませんね」

 

 妖怪との共存を願う自分の思想が、世の流れに逆らうものであるのは事実だろう。荒唐無稽と笑われるだけならまだマシであり、人の目によっては狂気の沙汰にも映りかねないものなのかもしれない。今はそれだけ、人と妖怪の距離が深く隔たれてしまっている時代だった。

 だが結局白蓮は、時代にそぐわないという理由だけで夢を捨てられるほど利口ではなかった。人に理解されないものだからと恐れをなして、声を上げることすらできぬ人間にはなりたくなかったのだ。

 声を上げなければ、なにかを変えることすらできないのだから。

 だから白蓮は、こう問い掛けるのだ。

 

「私のお寺に、来てみませんか?」

『……寺だと?』

「はい。あなたのような、行き場を失った妖怪にも開かれたお寺です」

 

 二つ目の問いを、白蓮はややの間躊躇った。

 だが、言った。

 

「今のあなたには……人を恨む心が、ないわけでは、ないと思います」

『……それは』

「でもっ、」

 

 言い淀む獣に、強く言葉を被せて、

 

「恨みに囚われる心ほど悲しいものはありません。恨みに生きて、恨みに滅びて、地獄で永遠の責め苦を味わうだけ――その先に一体なんの救いがありますか」

『……』

「私たちはなんのために、心を持って生まれてきたのですか。同じ命同士で争い、憎み、苦しむためですか? 私は違うと思います。違うはずです。……そんなことのために心が存在しているなんて、悲しいじゃ、ありませんか」

 

 姿は若い少女であっても、白蓮は今や老齢にも差し掛かった人間である。長く生きた分だけ様々な世界を見てきた。平和な世界も――そしてそれ以上に、悲しい世界も。

 心なんてものがあるから争いや苦しみが生まれる。それは悔しいが否定できない。だからこそ否定できると示したい。人と妖怪は、きっとともに暮らしていけるのだと。

 こうして行き場のない妖怪たちに、手を差し伸べ続けることで。

 

「どうですか? お寺には妖怪の門徒もいるんです。あなたにとって、なにか新しいきっかけになると思いますよ」

『……』

 

 獣はしばし黙考していた。顔つきは至って真剣で、少なくとも当初の、妖怪を救おうとする白蓮を嘲っていた姿ではなかった。

 もしかしたらと、一瞬は期待してしまったけれど。

 

『……いや。やめておこう』

 

 獣は、ゆっくりとかぶりを振った。

 

『やらねばならぬことがある。腹が減ったし……他に生き延びた同胞がいないか、捜さなければ』

「私たちなら、お手伝いできます」

『これ以上人間の世話にはならん』

 

 苦笑し、

 

『儂にも妖怪としての矜持がある。……助けられたことは礼を言おう。世話になったな』

「……」

 

 白蓮の脇を通り過ぎ、虚ろな歩みで洞穴から出て行こうとする、その小さな体に。

 

「迷ったときはいつでも、いらしてくださいね」

『……』

 

 答えはなかった。洞穴から出た途端、太陽の光に目をくらまされてややふらつき、しかし決して歩みは止めぬまま、壁伝いの方向へ影のように消えてゆく。

 やっぱり心配になって、追いかけてみたが。

 

「あ……」

 

 外に出てあたりを見回すも、獣の後ろ姿はどこにも見当たらない。

 すべてが白昼夢であったように。しんしんとした昼下がりの森だけが、素知らぬ顔をして白蓮一人を包み込んでいる。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 珍しくないことだった。

 ほんの一地方での地味で地道な活動とはいえ、始めて今や何年にもなる。傷ついた者、行き場を失った者、生まれたときから独りだった者、それなりにいろいろな妖怪たちへ手を差し伸べてきた。寺の仲間以外にも、白蓮の思想に一定の理解を示してくれる妖怪はいた。しかしそこに理解はあっても共感はなく、わざわざ白蓮の手を取って仏門に下るまでは至らなかった。

 妖怪にとって出家とは、どうやら人間ほど簡単にできる行いではないらしいのだ。

 

「星やナズーリンなら、上手くお話できたのかなあ……」

 

 ナズーリンは言わずもがな、星も信仰を集める一点に関してはとても優秀で頼りになる仲間だった。もしも白蓮ではなく彼女たちであれば、今頃はあの妖怪を寺に招く程度はできていたような気がしてならない。

 

「はあ……」

 

 どうして自分はこう、上手く人を導けないのだろう。押しが弱いのだろうか。それとも、自分の意見に説得力を持たせて伝えるのが下手なのだろうか。ちょっぴりナズーリンに弟子入りしたい気分になってくる。

 うじうじ煩悶しているうちにだいぶ歩いたらしく、いつの間にか寺が見えてきていた。正確には寺へ続く長い石畳の階段と、それを登りきった先にある古ぼけた山門が、であり、階段の中腹では門下の少女がのんびりと竹ほうきを動かしていた。

 白蓮は頭を振ってひとまず煩悩を退散させる。悩むのはおしまいだ。彼女たちの前で、住職としてみっともない姿は晒せない。

 白蓮が階段の一段目に足を掛けたところで、少女が気づいた。

 

「あ、聖様。おかえりなさい」

「ただいま、一輪」

 

 更に少女の左肩あたりでは、雲でできた拳大の老爺の顔が浮かんでいる。

 

「雲山も、ただいま」

 

 老爺は凝り固まった眉間の皺を少し解き、ぺこりと丁寧な目礼をした。

 入道使いと雲居一輪と、彼女が使役する入道の雲山である。片や元は普通の人間の少女、片や元は普通の野良妖怪であった二人だが、白蓮と出会ったのちは仏門に下り、見習い僧侶として平和な修行の毎日を送っている。雲山が寡黙ながら礼儀正しい一人前の男である一方、一輪は怠け癖が抜けきらない半人前で、朝はなかなか起きないし修行からは逃げようとするし、本当に仏を信仰してくれているのかと白蓮は最近疑問に思っている。

 とはいえ、見る限り今はちゃんと掃除をしてくれていたようだ。単なる寺の掃除も、僧侶にとっては立派な修行のひとつである。

 

「今日のお散歩は長かったですね」

「途中で、ちょっと寄り道しちゃって」

 

 あの妖怪のことは、あとでみんなが集まったときに話そうと思う。

 一輪は白蓮の出で立ちを上から下まで観察し、なるほど読めたとばかりの顔をして、

 

「もしかして、またやんちゃしてきたんですか?」

「や、やんちゃ?」

「だってほら、服に微妙に土がついてますし。羽目を外しすぎて、また山道から転げ落ちたんでしょう?」

「べ、別に羽目を外してたわけじゃないのよっ?」

「転げ落ちたのは否定しないんですね、ぎゃん!?」

 

 白蓮は鋭い手刀をお見舞いした。確かに転げ落ちはした。転げ落ちはしたけれど。

 

「目上の相手をからかっちゃいけませんっ」

「からかったわけではなく事実……」

「ねえ一輪、あとで一緒にお稽古(・・・)しよっか」

「大変申し訳ありませんでした」

 

 わかればよろしい。

 

「なにか変わりはあった?」

「いえ、なにも。ムラサは庭の水遣り、星はナズーリンに座禅を見てもらってますよ」

「そう、ありがとう。終わったら、そろそろお夕飯の準備にしましょうね」

「はーい」

 

 一輪と別れ、石畳を登る。

 そう大した寺ではない。境内は山門の位置からでも見渡せる程度の広さしかなく、正面には一層古ぼけた風格漂う本堂があり、横にこぢんまりとした僧堂が隣接している。向かって右手にあるのが白蓮たちの住居となる庫裏(くり)で、左手がいっちょまえの鐘楼と、これだけですでに境内の充分すぎる面積を占めているが、そこに弟の遺した飛倉まで無理やり置いたものだから余計手狭になっており、庭の手入れが行き届いていないのもあってなんとも垢抜けない景観だった。ちょっと気を抜いた隙に植木たちがまた茂ってきたようなので、そろそろ町からお手入れの人を呼ばないとなあと白蓮は思う。基本的な掃除はすべて白蓮たちでこなしているが、本格的な庭仕事は、交流も兼ねて町から職人を招くことが多い。

 さてそんな庭では一輪の言葉通り、植木へ水遣りをしている少女がいた。底が抜けていない柄杓を軽やかに振り回し、「とりゃーっばしゃー!」と大変楽しげな様子である。

 

「ムラサ」

「ばしゃーっ、……あ、聖! おかえりなさいでーす!」

 

 彼女、船幽霊の村紗水蜜は、一輪の場合とは少々事情が違い、元は多くの人間に害を為す荒れくれ者の妖怪だった。しかし白蓮との出会いを経て心を入れ替え、今ではすっかり大人しくなって、この寺で居候としてのんびり気ままな生活を謳歌している。一輪同様やや怠け癖があるものの、不思議とそれが欠点に感じられない人懐こさが魅力の少女だ。

 

「今日はちょっと長めでしたね。なにかあったんですか?」

「う、うん、ちょっと寄り道しちゃって」

 

 また気づかれるかと身構えたが、ムラサにそれらしい素振りはなく、

 

「いやー、今日は朝からすごく天気がよかったですからねえ。寄り道もしたくなっちゃいますよ。ほら、みんなもきらきら輝いてますしー」

 

 見ればなるほど庭の草花たちが、ムラサの撒いた水で陽の光を受けて宝石みたいに着飾っている。こういうところで心から楽しそうな顔ができるのも、彼女の大きな魅力のひとつであろう。

 

「ムラサは本当に変わったね」

「?」

「ほら、はじめて会った頃と比べると」

 

 ムラサが、とても苦い薬を水なしで放り込まれたようなしかめ面をした。

 

「あの頃の話はやめてくださいよー……。あれはちょっとやさぐれてたっていうか、本来の私じゃなかったんですっ」

 

 当時の記憶は、今のムラサからするとあまり振り返りたくないらしい。人間の中にもしばしば、幼い頃やんちゃだった――いろいろな意味でやんちゃだった――自分を思い出しては、闇より深い自己嫌悪で頭を掻き毟る者がいるという。

 こうして見ると妖怪といえど、なんてことはない、人間みたいにかわいらしい立派な一人の女の子なのだ。

 

「水遣り、ありがとう。そろそろお夕飯の準備にするから、終わったら手伝ってくれる?」

「あ、はーい。じゃあぱぱっと終わらせちゃいますね!」

 

 ばばば!と柄杓で元気いっぱい水を振りまくムラサに微笑み、白蓮は更に先へと進む。

 履物を脱いで上がるのは、寺の僧堂である。僧堂とは文字通り僧侶のための空間で、つまりは日々の修行を積む場所である。といっても山奥の小さな寺なので、多くの門徒を抱える立派な寺院とは比ぶべくもなく、要は普通より多少広い程度のお座敷だ。座禅や写経の他、滅多にあることではないけれど、町から人々を招いて白蓮が説法を開くのにも使われる。

 座敷の中央に、座禅を組んで精神統一に耽る星がいた。背後にはナズーリンが立ち、いつでも警策(きょうさく)――僧の座禅が乱れたとき、肩を叩いて励ますための細長い棒――を振り下ろせるよう準備万端で身構えている。抜き足忍び足のこちらに気づき、ナズーリンの小さな唇が「おかえり」と動いたので、白蓮も同じく「ただいま」と返した。

 寅丸星は毘沙門天の代理人にして、この寺の本尊を務める少女である。生来は山を駆け巡る一介の獣であったが、白蓮との出会いを通して仏心に目覚め、紆余曲折を経つつも今の立ち位置に落ち着いた。元が妖怪とは思えぬほど心優しく、人々の信仰をとても上手に集めてくれるのだ――白蓮以上のお人好しで、ちょっと間抜けなところがあるのが玉に瑕だが。

 そしてナズーリンは、星が代理人としての務めをきちんと果たしているか監視するため、毘沙門天の元から派遣された客分にあたる。この寺では唯一、白蓮の思想に帰依しない中立の存在であり、その立場を活かしてしばしばご意見番の役目を買って出てくれている。日和主義が過ぎる白蓮に、いつも的確で忌憚ない助言を与えてくれる、寺一番の縁の下の力持ちだ。

 星は忍び足の白蓮に気づくことなく、まぶたを下ろして一心に心を澄ませている。彼女は毘沙門天の代理人になって――すなわち仏門に入ってまだ日が浅いので、仏という立ち位置ではあるものの、仕事の合間を縫ってはこうして修行に勤しんでいるのだ。

 感心感心、と白蓮が頷いたところでいきなり、

 ぐぐうううううぅぅぅ。

 

「「「……」」」

 

 腹の音だった。

 星の、それはそれは盛大な腹の音だった。

 

「「「…………」」」

 

 静謐に澄んでいた星の表情が次第に崩れ、じわじわと赤くなり、体はぷるぷると痙攣を始める。対してナズーリンは人差し指でこめかみを掻き、大きく息を吸い、吐いて、

 

「ふんッ!!」

「いだぁい!?」

 

 警策で星の頭をぶっ叩いた。

 とても見事な快音が響いた。

 

「なななっなにするんですかナズ!? 違いますっ、叩くのは肩! 頭じゃなくてかーたーっ!」

「うるさいよ」

 

 涙目で頭を押さえる星をナズーリンはばっさり切り捨て、

 

「まったく……今の今までちゃんとやっていたのに、どうして聖が戻ってきた途端そうなるかな」

「だ、だって、そろそろお夕飯の時間ですし……え、聖?」

 

 星がようやく白蓮に気づいて、顔からぼふんと盛大な湯気を噴いた。

 

「ひ、ひひひっ聖!? い、いつからそこに……!」

「えーっと……星のお腹が鳴るちょっと前から」

「き、聞かれっ……ふえええん……」

 

 とまあこんな感じで、仏様とは思えないくらい間抜けであり、そこがとてもかわいらしい少女なのである。

 蹲ってぷるぷる羞恥を耐え忍んでいる星に、白蓮は微笑んで。

 

「じゃあ、そろそろ支度しましょっか」

 

 ムラサに一輪、雲山、星、そしてナズーリン。

 弟を喪った白蓮の、今はこの妖怪たちこそが、かけがえのない大切な家族だった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 この山は、麓に町を抱いている。

 都から離れた地方の町なので決して大きくはないが、一方で街道に近い分だけあながち小さくもない。主に街道を行き交う商人や旅人が一休みのため立ち寄る、所謂宿駅に近い形で発展しつつある町だった。

 そんな町へもう間もなく辿り着こうという麓の道にて、神古しづくはボロ雑巾になっていた。

 

「つ」

 

 品もなく地面で大の字になって、青空を見上げてぜーぜー息をしながら、

 

「つ、つかれた」

「なにをやっているのだ貴様は」

「わんこから逃げてた!」

 

 神古しづく至上最速の下山記録であろう。山の中にいる間はしつこく追いかけ回してきた山犬たちも、人間の領域が近いとわかると口惜しげに退散していった。

 さて傍らでは天を衝く山伏姿の大男が一人、大変冷ややかな眼差しでしづくを見下ろしている。

 旅の仲間、みたいなものである。その割には疲れ果てた仲間への労わりなど微塵も感じられないのだが、まあ仲間みたいなものである。

 やはり気遣いの欠片もない冷徹なため息、

 

「馬鹿か」

「ひどくねー?」

「なぜ追い払わなかった」

「ふっ。血気盛んな野生とはいえ、わんこに手を上げるのは私の流儀に反」

「やはり馬鹿だな」

「ねえ、私たちってほんとに仲間?」

「さあどうだったか」

 

 クソ坊主が。

 

「こないだの仕事で命を救ってやった恩を忘れたか」

「なんの手柄も上げていない貴様が哀れだったのでな、見せ場を作ってやっただけだ。貴様こそ儂が助けてやったのを忘れたか」

「いやーちっとも活躍できてない君が可哀想でさー。優しいよねー、感謝してほしいなー」

 

 とまあ、昔からなにかと一緒に仕事をやってきた腐れ縁だ。先日もとある依頼でとある山の凶悪妖怪たちを退治してきたばかりであり、今はちょうど帰り道でこの先の町に宿を取っている。ただしづくだけちょっとばかし別の用事があったので、山伏含めた仲間たちを町に残して、一人で山をうろついていたわけである。

 他の仲間たちの姿は見えない。大方しづくのことなど綺麗さっぱり忘れて、町の美味しい食事に舌鼓を打っているのであろう。私たちってほんとに仲間なのかなー。

 

「そも、なにゆえ山犬などに追いかけられていたのだ」

「さあ……。やっぱあれかなー、獣にもわかっちゃう女の魅力っていうか」

「鳥か野兎の匂いでもするのではないかな」

「ぶっ飛ばす」

「面白い」

 

 しづくは立ち上がって札を抜き、山伏は錫杖の形をした仕込み刀の鯉口を切り、一触即発で数拍の間睨み合う。やがてどちらからともなく構えを解き、

 

「立てる威勢があるなら戻るぞ。腹が減った」

「そだねー」

 

 この程度の小競り合いは、自分たちの間ではいつものことだった。仲が悪いというわけではなく、これはこれでひとつの理解の形なのだとしづくは思っている。

 身の丈が高い分歩幅も広い山伏の背に続いて、町へ戻る道をせかせかと歩く。彼の杖代わりの錫杖がしゃらしゃらと鳴る。

 問い。

 

「それで、探し人には会えたのか」

「うん。同じ顔、同じ恰好だったし、まず間違いないと思う」

 

 無論山犬に追いかけられたいがために、わざわざ一人で山へ立ち入っていたわけではない。

 しづくは元々、この山を辛抱強く登った先にあるという寺院を訪ねるつもりだった。その途中でなぜか山犬から目をつけられ、追いかけられるがまま道なき道を登ったり下ったりしているうちに崖から落ち、結果的には無事目的の人物を拝むことができた。

 長らく近づく者のいなかった廃寺を瞬く間に立て直した、見目麗しき女住職。

 確かに町で耳に挟んだ評判通り、人柄も容姿も申し分ない才色兼備だったけれど。

 

「あれが、『悪魔』なんて呼ばれるようになっちゃうわけかー……」

 

 どこからどう見ても、天女という言葉の方が相応しい少女なのに。

 

「実際悪人なのではないか? 僧侶だからといってみな善人というわけではないぞ」

「そうだねー、倒れてる仲間に手も貸してもくれない冷酷無慈悲なお坊さんがいるしねー」

 

 無視された。クソ坊主め。

 とはいえ確かに、山伏が言う可能性も考えてはいた。一見すると善人に見えても実は救いようのない悪人で、彼女は呼ばれるべくして『悪魔』と呼ばれるようになるのではないかと。しかしその疑いも、ああして実際に顔を合わせてみたことでほぼ完全に消えた。

 断言する、あの少女は善人だ。不器用なまでに善人だ。表向きは人のいい住職を演じ、裏では人道を外れ悪に手を染めている――あれはそんな器用な生き方ができるような人間ではない。つまりはここから先の未来、あの少女はどこかでドジを踏むのだ。人々の信頼を裏切ってしまうにも等しい、なにか致命的で最悪なドジを。

 そして人々から希代の悪僧、或いは悪魔と罵られ、最後には理性の(たが)を失った暴徒によって――。

 

「ああもう、それ以上はわからないのがもどかしいよ。私の能力はいつだってそうだ。ほんといい加減にしてほしいっての」

 

 あの少女の悲惨な最期だけは、何度も何度もしつこく見せてくるくせに。ならば助けるために一体どうすればよいのか、どうすれば誰も苦しまずに済むのか、あの光景(・・・・)はいつ、どこで、なにが引鉄になって現実となるのか――そういう肝心なことはなにひとつ教えてはくれない。

 だが、

 

「こうして、手遅れになる前に会うことができた。ならばあとは、貴様次第だろうさ」

「……そだね」

 

 こちらを振り返りもしない、山伏の励ましかどうかも怪しい励ましに苦笑して、

 

「……人を救って生きよ」

 

 そっと呟くのは、しづくの家に家訓のように代々伝えられている言葉。

 嘘か真かしづくのご先祖様には、妖怪の友がいたという。まるで眉唾もいいところだが、唯一無二の友であったという。しかしご先祖様が紛れもない人であった以上、昔も今と変わらず人と妖怪の溝が深い時代であった以上、別れの時が訪れるのは必然だった。

 その友が、去り行くときに、遺していった言葉なのだと。

 そう、聞いている。

 

「なにもかもを助けるなんて、できっこないけど」

 

 正直なところ、名前しかわからぬご先祖様の、名前すらわからぬ友人のことなんてあまり知ったこっちゃない。その友が妖怪だったという話も心からは信じていない。けれど先祖代々妖怪退治の職を生業としてきて、受け継いできた技術があり、積み上げてきた信頼があり、故に『神古』の存在を必要としてくれる誰かがいるという事実は、両親の背を見て育った自分の中にいつしか深く根を下ろしていたのだ。

 どんなに研鑽を積もうと人は小さく、その手が届く範囲など呆れるほどに狭い。でも、だからこそ。

 

「目が届く範囲くらいは、見て見ぬふりなんてしたくないよね」

 

 悲劇が起こるとわかっているのなら、なおのこと。

 それすらできぬというのなら、自分が生まれ持ったこの異端の能力に、一体なんの意味があるというのか。

 きっかけは作った。だから明日また山を登って、今度こそ寺を訪ねてみようと思う。それでなにができるのかはわからないけれど。なにをすべきなのかもわからないけれど。それでも動けば、なにかを変えられるかもしれないから。

 

「……」

 

 振り返る。

 沈みゆく夕日を冠に戴き、山は変わらずそこにある。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 考えてみれば食事をしながらする話ではなかったので、白蓮が口を切ったのは食後の片付けが済んでからだった。

 

「……帰り道で、人に襲われて怪我をした妖怪に会ったの」

 

 それだけで、白蓮の言わんとすることは全員に通じた。星が菓子に伸ばしかけていた手を止め、ぎこちなく膝の上に戻して眉を下げた。

 

「……そうですか。お疲れ様でした」

「突然襲われて……仲間を喪って、住む場所も追われたって」

 

 ムラサが口端を噛み、

 

「元はと言えば妖怪が人間を襲うからだって、わかってはいますけど……やっぱり、やるせないですね」

 

 星もムラサも一輪も、今の場所に落ち着くまではそれぞれがそれなりの事情を抱えた迷える妖怪の一人だった。もしも運命がほんの少しでも違う形だったなら、彼女たちだって人間に退治されていたかもしれないと白蓮は思う。

 たとえ人を襲うことのない無害な妖怪だったとしても、妖怪であるというだけで時には退治の矛先とされうるのだから。

 

「それで、その妖怪はどこに?」

 

 一輪の問いに白蓮は首を振り、

 

「ここに来るようには言ったんだけど、もう大丈夫だからって……」

「そうですか……でもそう言うってことは、動けるくらいは回復したんですよね。よかったです」

「……」

 

 ナズーリンが、眉根に皺を寄せて何事か難しく考え込んでいる。

 

「ナズーリン、どうかした?」

「……ん? いや、鼠たちからなにも報告がなかったものだからね」

 

 ナズーリンは毘沙門天の遣いを務める妖怪鼠であり、自らも仲間の鼠を使役することでこの山、ひいては麓の町にまで広大な情報網を展開している。にもかかわらずまったく連絡がなかったことを、訝しんでいるようだった。

 ムラサが笑い、

 

「いくらナズーリンの情報網でも、この山をなにからなにまで把握するなんて無理でしょ。逆に怖いよそれ」

「……まあ、そうだがね」

 

 歯切れが悪いのは自分の腕に自信を持ってるからなんだろうな、私もそれくらい自分を信じられるようになりたいなあと、このとき白蓮はナズーリンの表情の意味をまったく深く考えていなかった。

 笑顔の戻った星が、改めて菓子に手を伸ばした。

 

「なんにせよ、助けられてよかったですね」

「……ええ」

 

 本当にそう思う。もしも白蓮が血の跡に気づいていなかったら、あの妖怪はあのまま衰弱して最悪消滅してしまっていたかもしれない。仲間を喪い、住む場所を追われ、見ず知らずの場所で誰の助けも得られぬまま、耐え難い苦痛と深い失望の中でたった独り――想像しただけでもぞっとする。

 そのようなことが人間にあってはならぬと、訴えれば賛同の声は数多く上がるだろう。

 だが妖怪にだってあってはならぬのだと考える人間は、未だやるせないほどに少ない。もしあの妖怪を見つけたのが、自分ではなかったら。助けの手を差し伸べる者などほんの一握りで、大半が見て見ぬふりを決め込むか、或いはとどめを刺してしまえと冷酷に武器を振り上げるだろう。

 けれど、誰とも争わず平和に生きたいと願う者は確かに存在する。それは人間だって、妖怪だって同じなのだ。だから自分が、皆が平穏に生きられる場所を創る先駆者になりたかった。

 

 それだけ。

 本当に、それだけだったのだ。

 

「――なにも、なければいいんだが……」

 

 ナズーリンの苦い呟きが、白蓮には聞こえなかった。

 

 

 己の思想は常に危険な綱渡りなのだと、わかっていたつもりだった。

 所詮は、「つもり」でしかなかったのだ。なにもわかってなんかいなかった。

 大きな失敗を犯すこともなく、地道に活動を続ける中で素敵な仲間に恵まれたが故の油断か。

 才能のない自分でも、頑張ってみんなを導いていかなければならないのだという過信か。

 死んだ弟との約束という重圧か。

 それとも、なかなか手が届かない遠すぎる理想への焦燥だったのか。

 

 

 ほんの、夜更のことだった。

 

 

「――ふざけるなッ!!」

 

 

 ふっと偶然目を覚まし、偶然喉の渇きを感じて部屋を出ていた白蓮は、僧堂の方から星の抑え切れない怒号が上がるのを聞いた。なまじっか声を殺し切れていなかったからこそ、理性ではどうにもならない激情に駆られた叫びなのだとわかった。

 星が悲鳴以外で大声を出すなんて、そうそうあることではない。

 只事ではないと感じた。白蓮は本来の用事も忘れて脇目も振らず駆け出し、履物を投げ捨てて僧堂に飛び込んだ。

 

「しょ、星!? どうかしたの!?」

「……!!」

 

 僧堂の座敷には、星とナズーリンがいた。ナズーリンは駆け込んできた白蓮に眉ひとつ動かさず座し、一方で星は畳を踏みにじるように立ち上がって、牙を剥き、今にもナズーリンへ飛びかかろうとしているかのように見えた。

 

「あ、ひ、聖」

 

 星が落ち着きなくナズーリンから距離を取る。その表情は、見られたくないものを見られ、聞かれたくないものを聞かれてしまった焦りと動揺で支配されている。

 ケンカをしていた――などという陳腐な話ではない。

 

「一体、なにが……」

「……えっと、その。いえ、すみません、大したことじゃ――」

 

 星が下手くそな愛想笑いで誤魔化そうとしたその間際、

 

「――聖」

 

 ナズーリンが、静かに切り込んできた。

 

「悪い――あまりにも悪い報せだ」

「ッ、ナズ!!」

「誤魔化してどうにかなるものじゃない。話すなら、ムラサと一輪がいない今の方がいい。聖、二人は起きていないね?」

 

 わけがわからないまま頷く。星を説き伏せるナズーリンの口調がいつもより早い。ナズーリンも、顔ではおくびにも出さないが焦っているのだ。

 星が、揺らいだ。泣き出しそうなほどに。

 

「で、でも……! こんなの……! こんなのって……っ!!」

 

 なにも言えないでいる白蓮に、ナズーリンはあくまで滔々(とうとう)と。

 

「聖。君は昨日、怪我で動けなくなっていた妖怪の手当てをしたと言ったね」

「え、ええ……」

 

 一刻を争う悪い報せ。昨日の妖怪。二つの言葉を白蓮は懸命に結びつけようとする。きっとなにかがあったのだ。その『なにか』をナズーリンが妖怪鼠の情報網で掴み、ここで星に話していた。あの妖怪の身になにかが起こったのかもしれない。まさか仲間を捜す途中で人間に見つかってしまい、また悪い妖怪だと決めつけられて襲

 

 

その妖怪に(・・・・・)麓の町が襲われた(・・・・・・・・)

 

 

「――――――――ぇ、」

「確かだ。私の鼠が教えてくれた。妖怪はすでに討伐されたが、どうやら小さくない被害が出たらしい」

 

 世界から色が消え、音が失われた。

 ナズーリンの言葉を飲み込むより先に、そのとき白蓮の頭を過ったのは昨日一日の記憶だった。朝日に負けないくらい早起きをして、みんなで寺の掃除をし、読経をして、朝ごはんを食べて。そうやっていつも通りの時間が過ぎていった、いつも通りの一日なはずだった。

 唯一変わったことがあったといえば、散歩の帰りに怪我をした妖怪の手当てをしたくらい。人間に棲家を終われ、仲間も喪い深い失意に呑まれていたが、白蓮の救いの手を受け入れて、生き延びた仲間を捜すために再び歩き出していった小さな後ろ姿、

 

「ご丁寧にも、君に助けられたことを言い触らしてくれたようだ。君が話した、君の思想も。この寺のことも」

 

 音のない世界で、ナズーリンの声だけが鮮明に耳を叩く。

 聞きたくない、聞いてはいけないと、脳が必死に叫び声をあげるのに。

 

「凶悪な妖怪の復讐に加担したのみならず、人ではなく妖怪に味方する希代の悪僧」

 

 ――ただ、不幸になってほしくないだけだった。

 人間であろうと妖怪であろうと、平和を願う心優しい誰かが、理不尽に平穏を奪われるなどあってはならないと思っていた。だからこの世に争いを望まない妖怪がいるのなら、私たち人間と手を取り合って、ともに前を向いて生きていければよいと願った。

 この世界のどこか片隅にでも、そんな場所を創りたかった。

 悪いことをするつもりなんてなかった。

 誰かを傷つけるつもりなんてなかった。

 ただ、せめて自分の目が届く限りでは、誰も不幸になってほしくなかっただけ。

 本当に、ただそれだけだったのに。

 

「聖」

 

 為す術もない白蓮に告げる、あまりに簡潔なその一言で。

 すべてが、破壊された。

 

 

「――人間たちが、君を捕らえにやってくるぞ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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