銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色

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東方星蓮船 ⑭ 「REMINISCENCE ④」

 

 

 

 

 

 長閑な山であるはずだった。

 少なくとも、今この瞬間まではそうだった。山中には寺院があり麓では町も栄えているが、人に荒らされることはなく、また恐ろしい妖怪が根城としていることもなく、草食の動物たちがのびのびと草を食んでは、肉食の動物たちが奔放に狩りをする、手つかずの自然をありのままに映し出した山のはずだった。

 

 血が飛んだ。

 

 なにか薄気味の悪い風を感じ、野生の直感が静かに警鐘を発そうとする寸前のことだった。

 自らの身になにが起こったのか、知る由もなく。

 無辜(むこ)な山の命が、ひとつ、消えた。

 

 

 

 

 

 愚かな人間に出会った。

 妖怪と人間が争うことなく、ともに暮らしていける世界を願う少女だった。

 無論、人間の小娘如きがどのような思想を抱こうと己には到底(あずか)り知らぬことだ。しかし人間によって里を失い仲間も喪った己に、よもや曇りのない(まなこ)でそんな絵空事を語って聞かせる小娘がいようとは、甚だ予想外で、話をしている最中はとかく沸き立つ感情を抑え込むので必死だった。

 すべてを奪った人間どもと、ともに暮らすなど。想像するだけでも寒気がする。

 何度その喉笛を掻き切ってやりたいと思ったことか、記憶はどうも曖昧だ。そうしなかったのは己の肉体が衰弱しきっており、かつあの小娘が毘沙門天の法力を使っていたからだった。歯向かったところで今の己に勝ち目はないとわかっていた。

 だが結果的に、己はあの小娘に感謝していた。本当によくやってくれたと哄笑(こうしょう)していた。

 どういう思考をしたのかは不明だが、あの小娘が勝手に、争いを望まぬ妖怪だと(・・・・・・・・・・)勘違いしてくれた(・・・・・・・・)お陰で。

 忌々しい(まじな)いから解き放たれ、再び自由を手にしたのだから。

 

『ああ――』

 

 血肉を喰らうと、失われていた熱が体の中で胎動を始めるのがわかった。

 元より強靭な妖の体である。ひとたび呪いさえ解けてしまえば、己を縛りつけるものなどなにもありはしない。

 元の姿に(・・・・)戻っていく(・・・・・)

 踏めば潰れるような矮小な姿ではなく。逆に矮小な存在を踏み潰して闊歩するに相応しい、紛れもなき強者の姿――己は、そう心から自負している。

 もはや(てん)や鼬の類にはあらず、獅子や寅すら生温く。その(かいな)はただの一振りで大木を薙ぎ、その爪の前には肉も骨もみな等しく、その牙に裂けぬ物などありはしない。

 力が満ちてゆくと同時に、己の中でくすぶり続けてた憎悪が火柱を上げた。

 

(……恨みに滅ぶ、か)

 

 恨みに囚われる心ほど悲しいものはないと、あの少女は言っていた。

 なんのことだかさっぱりだ。恨みに生きて、恨みに滅びて、それの一体なにが問題だというのか、なにが悲しいというのか己にはさっぱりわからない。

 所詮は部外者、熱くもない対岸の火事だから好き勝手な綺麗事がいえるのだ。奪われた者の心を、よりにもよって「悲しいものだ」と憐れまれるなど。これ以上の屈辱が、果たしてこの世に存在するものなのだろうか。

 ……だが、あの少女のことはもういい。どうあれ忌々しい呪いを解いてくれた相手に違いはないから、まあ、敢えて捜し出してまで襲うような真似はすまい。

 己が探すべき相手は別にいる。そのためにも今は腹を満たし、体を休め、完全な力を取り戻すことだけを考える。

 

 ――しかし次の獲物を求めて山を進む中で、予想だにもしていなかったものを見つけてしまった。

 

 見つけたといっても、目に見える類のものではない。こうして元の姿を取り戻したからこそ感じ取ることのできる、ほんのかすかな『臭い』だった。

 人間の、臭い。人が歩く道とは到底思えぬ山の斜面を、複数の獣の臭いに紛れて、脇目も振らず駆け下りていくように。

 あの尼僧ではない。とはいえ、確かここは麓に町を抱くそれなりに豊かな山である。町の人間が山の幸を目当てに分け入って、こういった道なき斜面を無理に進むこともあるだろう。獣に追われていたのか、あとになって獣が上を通ったのかは定かでないが、どうあれ己にはなんの関係もない些末なことだった。

 特に興味も引かれず忘れ去られるはずだった――その臭いに、唾棄すべき記憶を想起させられなければ。

 

『――……』

 

 立ち去ろうとしかけた足を止める。臭いを追って山を下る。よほど慌てて駆け下りたのか、人間の臭い自体はどうにも点々としておりわかりづらかったが、獣の方が道標となったのでさして追うのに苦労はなかった。やがて麓近くの山道まで辿り着き、人の姿がないことを確かめながら更に追えば、獣の臭いが途切れてなおその先に、人間のそれが特別濃く残された一ヶ所を見つけた。

 やはり、獣に追われていたのだろう。人間の領域が近くなったことで獣は山へ引き返し、追われていた何者かは思わずここで一休みした。もしかすると、どっと緊張から解放されて寝転がりでもしたのかもしれない。それほど充分すぎる残り香だった。

 今の今まで確信は持てなかったが、これで完全に己の記憶と符合した。

 

『――そうか』

 

 なぜこんな場所にこの臭いが残されているのかは知る由もない。知る必要もない。これがほんの一刻も前につけられたばかりの真新しい臭いであること。そして臭いの主が、どうやらこの先にある町へ向かったこと――それさえわかれば己には充分。

 為すべきことが決まった。

 

『そうか。そうなのか……!』

 

 湧き立つ(ほむら)が如き衝動を一心に抑え込む。まだ力が完全に戻っていないし、ほとんど彼誰時(かはたれどき)とはいえ今はまだ人間どもの時間である。夜を迎え、闇が己に力をもたらしてくれるまで待つべきだと、なけなしの理性が訴える。

 (わら)う。今この瞬間だけは、人間どもがいう神とやらの存在を信じてやってもいいと思う。まるでそうしろ(・・・・)と、己にゆくべき道を示してくれているようではないか。

 躊躇いはない。たとえ夜を待ち完全な力を取り戻したとしても、恐らく生きて帰れることはないだろう。だがそもそもすべてを喪った己に、帰る場所すらもはやない己に、生きて戻る必要などはじめからありはしないのだ。

 このまま先のない生を空虚に歩み続けるくらいなら、答えなど簡単だ。

 

『そこにいるのだな、陰陽師……ッ!!』

 

 ――燃えたぎる憎悪のままに、この身を最期まで焦がし尽くせばいい。

 

 

 

 

 

 起源を辿れば、元は大陸に伝わる妖獣の名へ行き着く。知識人によってこの島国へと持ち込まれ、伝承だけが恐怖の中を独り歩きし、遂には国古来の妖怪と習合されることで新しい形の怪物を生み出した。

 

 名を、窮奇(きゅうき)

 

 ごく最近の話だ。獅子の体躯に蝙蝠(こうもり)の翼、そして風を操り獲物を仕留めるその禍々しい出で立ちは、妖怪退治を生業とする者たちの間でもまだ広くは認知されていない。ましてや京から程遠い地方ともなれば、単に名が伝わっているだけでも上出来だといえる。

 白蓮が知らなかったのも無理はない。

 だが()の妖怪を知る者たちは、口を揃えてこう断じるだろう。

 

 情けなど決してかけてはならない、まこと凶悪無比な妖怪だと。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 実は私、未来が見えるんだよねえ。

 などと人前で公言すれば、まあほぼ間違いなく生暖かい反応をされるか、阿呆を見る目をされるかのどちらかである。人知を超えた魑魅魍魎が跋扈(ばっこ)し、人間だって陰陽術や法術を駆使して摩訶不思議を操る時代であるにもかかわらず、そのあたりで決まって胡散くさい扱いをされるのはいまいち解せないとしづくは常々思っている。

 もっとも昔の話であり、今はもう己の能力を進んで他人に話すことはしない。

 別にありがたい力でもなんでもない。『未来を夢見る程度の能力』とでも呼べば神様のように聞こえるが、その実自分の意思ではまったく制御することができない不自由な能力だ。自分が見たいと思う未来を見ることはできず、いつも突拍子もない夢ばかりを見せられる。しかもそれが誰の、どれだけ先の未来なのかも予測不能で、すぐ近所の知人友人であったり、顔も知らない他人であったり、ほんの数時間後の出来事であったり、何年も先の未来であったりする。

 

 とはいえ、これはまだいい。もしも無差別に未来を夢見るだけの単純明快な力だったなら、しづくがわざわざ嫌うようになることもなかっただろう。

 見せられる夢の十中八九が、誰かが不幸になる未来なのだ。

 不鮮明で断片的で、なにがどうなっているのかもロクにわからないまま、その人が不幸に落ちていく瞬間だけを――問答無用で見せられて、終わってしまう夢なのだ。

 先祖代々陰陽師を生業とする家系に生まれた身としては、ありがたいどころか最悪もいいところな能力だった。だってそれはすなわち、「その人に不幸が起こるのはわかっているのに、どうすれば助けられるのかがまるでわからない」ということになるのだから。

 どうして不幸になるのかが判然としないのでは、助けたくとも対策のしようがない。奇跡的に運良く助けることができても、それはたまたまそのとき上手く行っただけで、いずれはまた同じことが繰り返され今度こそ不幸になってしまうのかもしれない。そもそも、どこの誰かすらわからない赤の他人ではどうしようもない。今までそれなりに多くの人々の未来を見てきたが、実際に助けられた者などほんの一握り以下だった。

 だからしづくは、この能力が嫌いなのだ。己の無力を思い知らされる気がして。己の存在意義を崩される気がして。けれど自分の意思で制御できない以上、嫌ったところで夢を見ずに済むわけでもない。しづくにできるのはどうかなんの夢も見ないよう祈る以外になく、お陰で一時期は眠ることすら嫌になっていたくらいだった。

 

 そしてしづくは、また夢を見た。

 だいたい、ふた月くらい前からだろうか。

 見知らぬ少女の夢だった。縄で縛られ、地べたに転がされて。

 物騒な出で立ちの人々に囲まれ、裏切り者と、悪魔と立て続けに罵られて。

 懸命の訴えも空しく、激昂した暴徒によって――非業の最期を遂げてしまう夢だった。

 

 一度だけではなかった。何度も同じ夢を見た。場所や状況は少しずつ違っていたが、悲惨な結末だけは何度見ても絶対に変わってくれなかった。その光景はまるで現実同然にまざまざとしていて、人々の罵声だって耳にこびりついて離れないほどで。

 例によって原因は判然としない。夢はいつも少女が捕らえられた瞬間から始まり、捕らえられるに至った経緯は一切不明で、人々の言葉も肝心なところだけ音が消えてしまう。しづくにわかるのは、少女がなんらかの過ちを犯した罪人であることと、己の罪を心から謝罪していたこと。

 そして、その想いが決して届きはしないこと。

 怖かった。

 只ならぬ予感に駆られて、しづくは少女を探した。この夢だけは、見て見ぬふりをしてはいけない――そんな気がしたのだ。まったく見ず知らずの他人だが、知らないだけで身近にいる可能性は充分にあった。動いたところでなにかが変わるとは限らないけれど、動かなければ絶対になにも変えられない。

 無論、少女を助けようとする選択が正しいのかどうかはわからない。少女は本当に許しがたい大罪を犯した悪人で、人々の怒りは至って正当なものなのかもしれない。しづくが見た夢は、起こるべくして起こる未来なのかもしれない。

 でも、だからって、あんな悲しい結末が正しいものだとは思えない。思いたくもない。

 ――人を、救って生きろ。

 それが、しづくが親から継いだ言葉だからだ。

 

 だが、国のどこに住んでいるのかも、なんという名なのかもわからない相手を探し出すなんて、あくまで一般人でしかないしづくには無理難題が過ぎた。そも、赤の他人に気を取られて周りの人々を蔑ろにしてしまっては本末転倒だ。日々の仕事に追われる中でできる限り尽力はしたが、ひと月でなんの成果も得られず、いつしか悪夢も見なくなり、もう手遅れになってしまったのかもしれないと、しづくは心のどこかで諦めかけていた。

 

 妖怪退治の依頼で、たまたまこの地方にやってきた最初の夜。

 山の中で少女と出会う夢を見なければ、きっと悪夢のことすら忘れてしまっていただろう。

 

 つまり、探し人とはそういうことだ。

 依頼を終えてこの町に立ち寄った際、山の廃寺に近年新しくやってきた美しい住職がいると小耳に挟んだ。それで一縷の望みを抱きながら山へ分け入り、まあ、まさか野犬に追いかけ回されるとはまったくの予想外だったが。

 どうあれしづくは、遂に少女を見つけたのである。

 

 心優しい少女だった。実際に言葉を交わしたのはほんの束の間だったが、それでも彼女が悪事と無縁の善人であるのは容易にわかった。『裏切り者』や『悪魔』などという罵りとは、生涯無縁に生きていくはずだったに違いない。

 なにかが起こるのだ。ここから先、しづくも知らない最悪のなにかが。

 能力が役に立たないのなら、自分の足と目で確かめるしかない。だから、明日はお寺まで訪ねてもっとたくさん話をしてみようと。

 

 ――それくらいの時間はまだ残されているのだと、欠片も疑っていなかった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 床の軋む音を感じて山伏は目を開けた。

 この町では最も安価で質素な宿の一室だった。ひと二人がある程度余裕を持って寝られるだけの空間で、山伏は壁を背にしながら座り込んでいる。ただ寝るためだけにあるような粗末極まる部屋だが、仕事柄外で夜を明かすのも珍しくない身としては、風を防げる壁と雨を凌げる屋根があるだけで充分上等だった。

 閉め切った突上窓は所々板が割れて壊れ、差し込む白い月明かりが部屋を朧に照らしている。自分のござと山伏の分を重ねて横たわり、布切れにくるまって眠っていたしづくが、不意にのそりと起き上がったところだった。

 

「……どうした。また妙な夢でも見たか」

 

 表情は夜に紛れていまひとつわからないが、なんとなく浮かない空気を感じて山伏はそう問うた。一応はそれなりに付き合いの長い腐れ縁なので、彼女が持つ特殊な能力については知っているし、一定の信頼に値する力だと認めてもいる。――当人にとっては、まったくもって不本意な評価ではあろうが。

 白い闇の向こうで、緩い吐息の音が返ってくる。

 

「うん……まあね」

「例の尼僧絡みか」

「……うん」

 

 ふた月ほど前からしづくを苛んでいる悪夢についても、大まかなところは知っている。

 

「また同じ夢か」

「……ううん」

 

 どうも心ここにあらずな返事だ。寝惚けているのではなく、今しがた見た夢の意味を一心不乱に考え込んでいるらしい。

 人知の及ばぬ深遠な(えにし)というやつなのだろうと山伏は思っている。己の記憶が正しければ、しづくの能力は見る未来を選べるものではなかったはずだ。誰の、いつの未来を夢見るかは完全な神の気まぐれで、にもかかわらず件の尼僧の未来だけはしつこいほど何度も見せられている。

 だからしづくも運命めいたなにかを感じて、行動を起こさずにはいられなくなっている。元より神古しづくとはそういう人間だ。山伏が剣を握る理由は己の修練と妖怪への嫌悪だが、彼女が札を握る理由は、ただ人の助けと成らんが為なのだから。

 しづくが夢の整理を終えた。

 

「ずっと」

 

 一旦それだけ言い、ゆっくりと深く、息を吸って、

 

「ずっと先の、未来だった気がする」

「先?」

「今まで見てた夢よりも、先の未来」

 

 山伏は一拍考え、

 

「その尼僧が死んだ先の未来か」

「違う」

 

 しづくは強く首を振る。強く否定する。

 

「死んでない。生きてる……あの人を、生かせられる(・・・・・・)未来だった」

「ほう?」

 

 山伏は口端を曲げた。しづくの能力は、見る夢を選べるものではないはずなのだ。

 

「随分と都合がよいな。なら、その夢の通りに動けば尼僧を助けられるのではないか?」

「……たぶん、そうだと思う。でも……」

 

 少しずつ闇に目が慣れてくる。細々とは言い難く差し込む月明かりの中で、しづくの冴えない横顔がぼうと浮き上がっている。せっかく尼僧を救える未来が見えたというのに、その姿は月光よりも薄弱として見える。

 迷っている――いや、戸惑っているという方が近いか。

 ふむ、と山伏は片眉を上げる。果たしてしづくがどんな夢を見てきたのかは知らないが、あまり容易に受け入れられる類の未来ではなかったらしい。まあ、経緯はどうあれいずれ人々から悪魔と罵られるほどの人間なのだから、生き永らえたところで救いがあるのは限らないということか。

 

「なんにせよ、好きにするといい。知らん女がどうなろうと儂には関係ない。貴様が助けるなら協力はするし、見捨てるならなにもしないだけだ」

「……ほんっと、山伏サンって淡々としてるよねー。本当は女好きのくせに。白蓮、めちゃくちゃ美人だったぜ?」

 

 小指が跳ねた己を全力で斬り殺したかった。

 

「……色欲は剣を曇らせる」

「カッコつけてら」

「ぶっ叩かれたくなければさっさと寝ろ」

「カッコつけてらー」

 

 いいだろうぶっ叩いてやる、と山伏が腰を浮かしかけたときだった。

 外で、風が吹いた。物静かな夜を破る突風で、壊れかけた窓から吹き込む隙間風が騒々しく山伏の足元を撫ぜた。

 だからどうした、という話ではある。急に強い風が吹く程度、多少珍しくはあるが、かといって特別異常を疑うようなものでもない。実際この部屋にいるのが山伏だけだったなら、大して気に留めることもなくすぐに意識から外していただろう。

 

「――山伏サン」

 

 山伏だけだったなら。

 しづくは違った。瞬く間に声を緊張させ、布切れから転がり出ると手探りで仕事道具を探して、

 

「すぐに準備して」

「む?」

「嫌な風だ。――なにか来る」

 

 およそ五拍の間があって、しづくの断言通りにそれ(・・)は来た。

 

 

 破砕の音だった。

 

 

 そう遠くはなかったはずだ。空を裂き地を揺らすかの如き轟音からして、人家一軒が丸々破壊されたのだと山伏は判断する。そして、判断したときにはとうに突上窓から外へ身を躍らせていた。

 皓々とした月以外に明かりのない、未だ眠りの中に沈んだ丑三つ時の町だった。昼間は活気であふれていた通りもここまで闇が深まれば人影ひとつなく、また人ならざる異物も視認できる範囲では見当たらない。まるでなにかの間違いであったように轟音は消え去り、町に変わらぬ夜の静寂が戻ろうとしている。

 だが二度目の圧壊とともに、とうとう人の悲鳴が聞こえた。

 

「昼間の山の方! 先行くからよろしく!」

「っ、おい!」

 

 遅れて窓から身を翻したしづくが、着地と同時に風をまとい、地を蹴って文字通りの疾風(はやて)と化す。迷惑極まりない土煙を置き土産にして、彼女の姿は瞬く間に夜の闇の彼方へと消える。

 山伏は袖で砂塵を払いながら舌打ちする。緊急事態なのは理解するが、ロクな連携もなしにすぐ独断専行する癖はいい加減なんとかしてくれないものか。義心の強さもここまで来れば立派な悪点だ。

 幸いなのは、勝手に行動して勝手に危機に陥るほどの間抜けではないことか。

 

「棟梁!」

 

 ちょうど、宿の戸を蹴破るように開け放って、山伏と同じ出で立ちをした青年が転がり出てきた。更にその背を追って、二十以上になる頭襟(ときん)の集団が次々と続く。すべて、此度の遠征で山伏が従える部下である。

 

「何事ですか」

女童(めらわ)曰く、嫌な風だそうだ。十中八九妖怪だろう」

 

 青年は眉ひとつ動かさず、

 

「神古殿は?」

「先に行った。半分続け。残りは町人の救援だ。人選は任せる」

「はっ」

 

 安眠から叩き起こされた町人たちが、戸から窓から揃って顔を覗かせて不安げに声をあげている。しかし妖怪退治を生業とする山伏たちにとって、この程度の火急で平常心を乱していては命がいくつあっても足りない。疑問の声などなにひとつなく全員が真言を唱えて加持仏より加護を賜り、五つ呼吸する時間ですべての準備を整える。

 

『みんな』

 

 そのとき誰もいないはずの闇の向こうから、風がしづくの固い声を運んできた。勝手に一人で戦い始めるかと思ったが、どうやら『遠鳴り』を使って連携する程度の判断力は残っていたらしい。

 

『敵は妖怪一匹。だから前に出るのは私と山伏さんだけでいい。他は「陣」の準備をして』

「……ふむ」

 

 しづくが一匹というなら、一匹なのだろう。(ひな)びているとはいえ街道近くの町へ単身乗り込んでくるとは、よほど血気盛んなのか、或いは腕に自信があるのか、それともただの向こう見ずなのか。

 なんにせよ、こちらに戦力があると知られれば反って面倒なのは山伏も同意見だった。たかが人間二人と侮らせておいて、その隙を衝いて始末してしまう方がやりやすい。相手が大妖怪となれば話は別だが――もしもそんな実力者が攻めてきたのなら、この町はとっくに荒野へと変わり果てているだろう。

 

「いいだろう。全員、隠形の法を忘れるなよ」

「御意」

 

 夜闇の奥から、着の身着のままの町人たちが何人も押し寄せてきた。皆一様にその相貌から血の気を失い、正常な呼吸すら満足にできなくなりながら、ある者は家々の戸をけたたましく叩いて回り、ある者は力の限り叫び声を上げる。

 妖怪が出たと。外れの商家が襲われて、みんなやられちまったと。

 町が叫喚の坩堝(るつぼ)と化していく。人外たちの時間である丑三つ時とはいえ、妖怪がこうも堂々と町を襲うなどそうそうある話ではない。山伏の目に映る範囲でも、蹴飛ばすように家を飛び出し何処(いずこ)かへ逃げ惑う者、逆に家の中へ匿われる者、せめてもの護身に農具を手に取る者、なけなしの理性でなんとか周りを落ち着かせようとする者と、まさに蜂の巣を叩き壊した有様だった。男の怒声が響き、女の悲鳴が走り抜け、眠りを妨げられた赤子がどこかで泣き出し、独りはぐれた子どもが懸命に母を呼んでいる。

 構っている暇はない。妖怪が一匹なら、こちらから攻めることが最大の防御につながる。

 すべて置き去りにして、山伏たちは動き出した。もしもこの場にあと少しだけ冷静な者がいたならば、人々が滅茶苦茶に逃げ惑う中を衣すら掠めることなく掻い潜り、誰も触れられないかのように逆走していくその影の集団こそを、闇から襲い来た妖怪なのだと恐れ(おのの)いていたかもしれない。

 道を違えることはない。ただ、風が流れていく先を追えばよいだけのことだから。

 人々の叫喚が完全に背後の騒ぎとなり、やがて行く手に火が見えた。

 

「あの先だ。『陣』の準備に入れ」

「御意」

 

 山伏の背に従っていた部下たちが、一斉に左右へ散った。両手の指では足りぬほど繰り返してきた勝利のための布石だ。家屋と家屋の隙間の狭い路地へ、壁を駆け上がって屋根の上へ、各々の判断で配置に向かい闇の中へ身を潜める。

 山伏は足を止めない。火の正体は、逃げるのではなく立ち向かうことを選んだ人々が掲げる松明の明かりだった。農具を構える町人から刀を抜いた武士まで、皆集まって通りの端から端へ決死の防壁を築いているが、妖怪と戦った経験など皆無なのだろう、どいつもこいつも腰を抜かす寸前で到底役には立たないとわかる。とはいえ、元より自分たち以外の戦力など当てにしていないのでなんの問題もない。

 跳躍し邪魔な人垣を越えた先に、しづくはいた。突如現れた山伏の姿に人々がどよめくも、それ以上の行動を起こせる者は一人もいない。眼前の『それ』から注意を逸らす真似をすれば、その瞬間に喰いかかられるかもしれないという強い恐怖があったからだ。

 すなわち、妖怪はそこにいた。しづくが微動だにせず睨む先――倒壊し木屑の山と化した商家を後塵とし、白い獅子の身体に、大斧が如き一対の翼を揺らめかすその妖怪は、

 

『くは。貴様の顔も、覚えがあるぞ』

「――こやつ、」

 

 そう――覚えがあった。

 ほんの二日前の話だ。山伏たちが拠点を遠く離れてわざわざこんな辺境を訪ねたのは、元は依頼で妖怪退治をするため。昨今このあたりに見たこともない恐ろしい妖怪が現れたので、一匹残らず退治してほしいという依頼だった。

 詳しくは知らないが、しづくによれば元は大陸で語られる、獅子の体に蝙蝠の翼を備えた怪物だという。交易によってその名が国へ持ち込まれ、漠然とした存在だけが恐怖とともに語られてゆく中で、やがては国古来の妖怪『鎌鼬』と習合されて、とうとう現実の妖怪として生まれてしまったのだと彼女は言っていた。

 曰く混沌を好み平穏を害し、曰く風を操り人を喰らう。名を、

 

「――窮奇」

 

 そのはずだ。

 一匹、討ち損ねていたのだ。山伏にもしづくにも油断はなかったし、仲間の包囲網も充分だったはずだが、そこは経験のない妖怪と戦うが故の不測だったとでも言おうか。追いかけ始末するという選択肢もあったが、結論として山伏たちは見逃した。戦闘のさなかでしづくが強力な(まじな)いを打ち込んでおり、逃げたところで長くは持たないと確信があったからだった。

 そして目の前の窮奇は、少なくとも山伏の目にはその逃がした一匹であるように見えた。

 呪いが、解かれている。

 

「――どうしてかな」

 

 しづくが、冷え切った声音で静かに問う。

 

「お前のことは覚えてる。私が退治し損ねて逃げられたやつだ。結構強い呪いを打ってたから、どうせ持たないと思って追いもしなかった」

『ああ、そうだとも。まこと忌々しい呪いだったよ』

「そう。――で、」

 

 しづくは明らかに、虫の居所が悪かった。心を律しきれず無意識に霊力が漏れ、生ぬるい風となって山伏の頬を撫ぜてくる。腕前は申し分ないが、若い分だけ精神的にはまだまだ未熟な女だった。

 だがそれは窮奇への敵意以上に、自責とも呼ぶべき感情だったのかもしれない。長くは持つまいと高を括って見逃す真似をしたから。自分があのとききちんと退治していれば、今こうして町が襲われることはなかったはずだから。つまりはこの事態、原因の一端は自分たちの誤算にあったのだとも言えるのだ。

 窮奇の背後で残骸と化した商家。そしてやつの牙から滴る血の意味を、わざわざ問う真似は山伏もしづくもしなかった。

 しかし懐疑はある。

 

「誰が助けた?」

 

 そもそも窮奇が、打ち込まれた呪いをどうやって解いたのか。

 

「お前じゃどうにもできなかったはずだ」

 

 自力でどうにかされてしまう可能性があるのなら、はじめから見逃してなどいない。

 すなわち、

 

「誰か、手を貸してくれたやつがいたってことだよね」

 

 呪いを解いてくれる協力者が窮奇にはいた。かねてよりの仲間だったのか、偶然出会った相手だったのかはわからないが、しづくの呪いを解けるということはそれなりに腕が立つのは間違いない。

 窮奇を解き放てば果たしてどうなるか、わかった上で助けたのか。

 それともわからぬまま、善意に付け込まれて手を貸してしまったのか。

 答え次第では、自分たちの『仕事』がもうひとつばかり増えるかもしれない――。

 

『ふ、は、は』

 

 窮奇が、低く小刻みに身を震わせた。よくぞ訊いてくれたと言うかのようだった。

 

『気になるか』

「勿体ぶるような相手ってことかな」

『ああ、そうよな。まったく、これほど愉快な話もそうそうなかろう』

 

 ――妙な物言いだ。

 勿体ぶるということは、答えを言えば山伏たちにその意味が余さず通じるということだ。まさか山伏が直接知っている相手か、知らずとも名を聞けば一発でそれとわかる人物とでも言うつもりか。ほんの数日前に一度、敵として邂逅しただけの妖怪風情が。

 嫌な予感がする。脳の裏側で粘ついた液体が絡みつくような。答えを聞けば、その瞬間にすべて取り返しがつかなくなるような。

 

『ときに儂の後ろの山には、寺院があるそうだな』

「それがどうし――」

 

 しづくの言葉が、止まった。

 山伏にも、わかった。『愉快な話』の、その意味が。

 窮奇が笑みの牙を剥いて吼える。その事実を町の隅々まで、轟かすように。

 

『儂を助けたのは、その寺の尼僧――人間だよ!!』

 

 しづくの全身が、ざわついたのがわかった。

 そういうことか、と山伏は静かに俯瞰する。窮奇の背後には昼間にしづくが登り、野犬から追い回される無様を晒した山がある。しかししづくとてわざわざ野犬と競争をするために足を伸ばしたのではなく、目的はある一人の女を捜すためだった。

 

『奇怪な髪の色をした女だったぞ』

 

 あの山には長年廃れていた寺があり、近年どこからともなく、不思議な髪の色をした見目麗しい尼僧がやってきたという。

 しづくの夢でやがて人々から『悪魔』と呼ばれる、その女の名は、

 

「――白蓮様?」

 

 山伏の背後で、誰かがそう呆然とこぼした。

 それ以外になかった。少なくともこの町においては、尼僧といえば彼女のことを指す言葉だった。誠実な人柄で町人からの信頼篤く、寺があまりに山奥だから、もっと町の近くに移したらどうか、白蓮様のためならみんな喜んで協力しますよ――そう言わしめるほどの尼僧。

 

「う、嘘だ、白蓮様がそんな」

 

 窮奇は薄気味の悪い笑みを止めない。

 

『儂も人間の助けなど受けんと言ったのだがな、問答無用だった。まあ、お陰で命拾いしたしこうして貴様らにも復讐ができるわけだから、それなりに感謝はしておるよ』

「……なんだそれは!」

 

 今度は別の男が声を荒らげる。旅の途中で偶然この町に宿を取っただけの、まったくの部外者だったはずである。

 

「この町には、妖怪を助けてその復讐に加担する女がいるのか!?」

 

 部外者からすれば、それが当然の理解だった。

 もしかすると、それは本来なら美談と呼ぶべきものだったのかもしれない。傷つき命の危機に瀕した者があるならば、たとえ妖怪であろうとも手を差し伸べる。今の時代、妖怪を助けるなど並の胆力でできる行動ではない。仏の教えに元来人も妖怪もありはしないから、聖白蓮は真の意味で誠実であり、平等で慈悲深い心を持った人間だったのかもしれない。

 手を差し伸べた妖怪が、窮奇でさえなかったならば。

 そうではなかったのかもしれない。温厚篤実を絵に描いた姿は、彼女の本性を隠す都合のいい仮面に過ぎなかったのかもしれない。一見善人らしく見えても、心の奥底ではどんな邪念を抱えているのかなどわからないのが人間だ。それがどこからともなくやってきた、ロクな素性すら謎めいた女なら尚の事。

 人々の心に、いびつな亀裂が走っていく。

 

「ち、違う! 白蓮様がそんなことをするはずがないっ!」

「ならあの妖怪はなんだ!? そこの陰陽師だって、自分が呪いをかけたはずだと言っていただろう!!」

「り、利用されたんだ! 白蓮様なら、傷ついた者はきっと妖怪であってもお助けになる……! その妖怪が、白蓮様に助けられた恩を仇で……!」

「なるほど! つまりその女があの妖怪を助けなどしたせいで、この町が襲われたのは事実なわけだな!?」

 

 入った亀裂を人々が自らの手で広げ、ひとりでに疑心暗鬼の泥沼へ沈んでいく。誰かが声を発するたびに言い争いは激しさを増し、人から人へ次々と伝播していく。完全に窮奇の思う壺だった。言葉ひとつで人間の心に容易く不信を植えつけてしまう力――云うなれば、『混沌を生む程度の能力』。

 これこそが、白蓮が『悪魔』と呼ばれるようになる火種だったのだ。

 あなたは人間であるはずなのに。私たちを救おうとしてくれていたはずなのに。味方だったはずなのに、信じていたのに、

 

『本当に、奇妙な尼僧だった――』

 

 とどめの一撃だった。

 

『――妖怪とともに生きるのが願いだと言って、儂を寺に誘ってきたぞ。他にも妖怪がいるんだと言ってな』

「――、」

『貴様らの中に、寺に行ったことがある者はいるか? だとすれば哀れと言う他ない! 或いは知らぬうちに、儂のような妖怪に目をつけられているかもしれんのだからな!!』

 

 窮奇が、嗤った。総身を震わせ、大気を揺るがし、この町すべてを混沌の底へ呑み込むように。事実、人々の心はもはや完全に呑まれていた。窮奇ではない別の誰かへ向けた敵意で刀を軋ます者、魂が抜けた顔で農具を取り落とす者、全身の力を失い為す術もなく地に膝をつく者、そして、

 

「――そう」

 

 どうしようもなく――本当にどうしようもなく凍てついた、しづくの声だった。

 風が吹いた。

 

『――!!』

 

 一瞬早く勘づいた窮奇が横に跳んだ直後、左の翼が根本から切断されて吹き飛んだ。

 

『ッ……!?』

「貴重な話、どうもありがとう」

 

 ――妖怪と比べて、人間とは非力な生き物である。

 だから二つの種族が戦いに身を投じたとき、常に不利なのは人間の方だ。妖怪も玉石混交なので一概には言い切れないが、剣の道をそれなりに高い場所まで登り詰めた自負のある山伏すら、純粋な身体能力だけでは人外に並ぶことも敵わない。故に人々は神仏に祈りを捧げてその加護を得、或いは術を駆使して怪力乱神を物とすることで、古来よりひたすら魔の存在に抗い続けてきた。

 しかしまこと憎々しいことに、それでも力及ばないなお強大な妖怪というのは少なからず存在する。その事実に対し、人間が築き上げた対抗手段は主に二つ。数を以て叩き潰すか、自分たちに有利な土俵へ妖怪を引きずり込むか。

 しづくの戦いは、後者だ。

 しづくを中心とし、部下たちが準備を整えた半径およそ二十間――そのすべての空が『風姫』の名の下に付き従う、結界とも呼ぶべき絶対的領域である。

 だがこれは、山伏が知るいつもの『陣』よりも――

 

「――もう、喋らなくていいよ」

 

 山伏は緩く吐息して三歩後ろへ下がった。今のしづくの横顔を見れば、余計な真似はせず後ろで黙っているのが正解なのだとひと目でわかった。

 窮奇が全身の毛を逆立て妖力を開放するが、もう遅い。

 窮奇とてしづくの術は理解していたはずだが、それでも風を操る妖怪である己が、人間の小娘如きに真正面から凌駕されるとは思ってもいなかっただろう。

 いや――今でも思っていないに違いない。一応、背後の人々に一声は掛けておく。

 

「前に出るなよ。巻き込まれたら怪我では済まんぞ」

 

 窮奇が咆吼する。風の妖怪の為せる業か、文字通り大気を震撼させるその轟きをまともに喰らって、山伏が忠告するまでもなくほぼ全員がその場に竦んだ。残りは情けなく腰を抜かすか、みっともなく逃げ出そうとして転倒するかだった。

 しづくは、眉ひとつ動かさない。

 風向きが変わる。風の支配権をしづくから奪い取り、窮奇がその身に逆巻く烈風をまとう。あとは地を蹴りただ駆け抜けるだけで、その直線状にあるものをすべて根こそぎ破壊し尽くしていたに違いない。

 相手が悪かった。それだけだ。

 

『――!!』

 

 再度の咆吼とともに窮奇が動く。自身を一陣の暴風に変え、触れた大地を巻き上げ粉砕しながら突き進み、回避など許さないまったく無慈悲な速度でしづくの首を噛

 

「五月蝿い」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――地に落ちた窮奇の首を、不動明王の加護を賜った愛刀で刺し貫く。首はしづくに喰らいつく鬼が如き形相のまま石化し、程なくして砂へと変わって崩れ落ちる。脳を失った胴体は血に沈み、二度と動き出すことのない骸と化す。

 終幕だった。

 

「……あいかわらず、憎たらしいほど見事な術よな」

 

 胴体の方へも刀を突き立てながら、山伏は口端を曲げて小鼻を鳴らした。実際、ここまでの手際を見せつけられると感服を通り越して憎たらしい感情が先に立った。

 風の支配権を奪い返し、窮奇の突撃を弾き飛ばして首を落とす。

 言葉にすればそれだけだが、それをしづくは指一本動かさず、風だけで、すべて一瞬でやった。背後の人間たちには、窮奇が突然首と胴体に分かれながら吹っ飛んだようにしか見えなかっただろう。

 しづくとも長い腐れ縁になる山伏だが、あの次元の技はそう何度も見たことがあるものではない。あれが『風姫』が先代より受け継いだ奥義であり、山伏が知る限りほぼ無敵の化身と化す一方で、極限の集中を必要とするし消耗も馬鹿げているほど激しい諸刃の剣だ。遡ること数百年、彼女の血筋に陰陽師の技を刻み込んだ大元の師は、あの次元の秘術をまるで呼吸に等しく使いこなし、人の身でありながら『神』の名を賜っていたというのだから本当に馬鹿げていると思う。

 そこでふと山伏は、袖をはためかす風が未だ治まっていないと気づく。

 しづくが風をまとったまま、砂と化していく窮奇の胴体を瞬きひとつせず見下ろしている。

 

「……おい、もう片付いたのだから術を解け。明日一日寝込むつもりか」

「――」

「おい」

 

 鞘の先で脇腹を小突く。しづくは驚いて顔を上げ、

 

「へっ、……あ、な、なに?」

「……術を解け。もう終わっただろう」

「……あ、ごめん。そだね」

 

 ――やはり、脆い。

 心中は察する。この状況は間違いなく、しづくを苦しめ続けてきた悪夢へとつながっていく最悪の筋書きだろう。しかしそれでも、山伏の声も届かなくなるほど正気を失って、感情が振り切れるまま断罪するように窮奇を捻じ伏せて――どれほど人間離れした力を持っていても、中身はなんの変哲もない女なのだ。

 風が止み、窮奇が完全に砂と変わっても、しづくの思い詰めた表情は欠片も晴れなかった。

 

「……お、終わったんで……?」

 

 人垣の中から首を伸ばし、町の住人と思しき男が竦んだ足腰で問うてくる。しづくは受け答えができる状態ではなく、山伏が代わりに、

 

「ああ。もう心配は要らん」

 

 剣先の砂を払い鞘に収めると、人々の恐怖と緊張が一斉に弛緩した。しかし戻る笑顔はどこにもなかった。笑って一件落着にできる有様でないのは、目の前の惨状を見れば一目瞭然だった。

 かつての姿を見る影もなく粉砕され、木屑の山と化した人家が少なくとも二軒。

 誰もが寝静まる真夜中に、突然家ごと襲われたのだ。窮奇という妖怪の性格を考えても、無事に逃げ延びられたとははじめから考えていない。人々もそれをなんとなく感じてしまうのだろう、木屑の山に駆け寄れる者は誰一人としておらず、ただ唇を噛んで立ち尽くすのが精一杯だった。

 故に、その叫びが上がったのは必然だったと言えよう。

 

「これで終わりではないぞ……!!」

 

 窮奇の前では怯えるしかできなかった割に、その侍が腹から発する声音は勇ましかった。

 

「寺の尼僧だ! そやつがいる限り安心などできるものかッ!」

 

 誰かが、続いた。

 

「そ、そうだ! そいつが妖怪なんか助けたからこんなことになったんだろ!? なに考えてんのか知らねえけど、このまま放っとくのはまずいんじゃねえのか!?」

「いや、なにを考えているのかはわかりきっている。あの妖怪めが言っていただろう――妖怪とともに生きるのが願いだと!!」

 

 繰り返すが、大声で喚いているのは聖白蓮をよく知りもしない部外者だったはずなのだ。

 悪魔だと、誰かが言った。妖怪に魂を売り払い、人を弄んだ希代の悪僧だと。

 肉を裂く音すら生むかというほど、しづくが痛々しく拳を震わせた。それは一体、誰に向けた感情だったのだろうか。窮奇を一度見逃すという根本的な過ちを犯してしまった己なのか、最悪の形でしづくの悪夢を現実にしてしまった窮奇なのか、理由はどうあれ妖怪に加担し人々を裏切ってしまった白蓮なのか、或いはこのような唾棄すべき現実を突きつける世界そのものか。

 こんなのは間違いだと、きっと誰よりも叫びたかったはずだった。だができなかった。自分一人が否定したところでもはや人々は止まらないし、こちらまで疑われては白蓮を救うことだってできなくなる。けれどそれは白蓮が善人であり、妖怪に裏切られた哀れな被害者だったならの話。

 言葉ひとつで人間の心に不信を植えつける力。『混沌を生む程度の能力』。

 もしかすると白蓮は、紛れもなく魔に魅入られてしまった悪人かもしれないのだ。

 

「――私たちが行く」

 

 故に、それがしづくに残された最後の選択だった。なぜ窮奇を助けたのか。妖怪とともに生きたいという願いは本当なのか。一体どうして、なんのためにそんな世界を望んでいるのか。

 自分は君を、助けてもいいのか。

 

「あの妖怪は、元々私たちが退治し損ねてたやつだから。責任は取る」

 

 確かめなければならない。白蓮は善人なのか、悪人なのか。自分はできることをすべきなのか、すべきことをしなければならないのかを。

 その背中だけでも、今のしづくには問答無用で見る者を竦ませる凄みがあった。

 

「そ、そりゃあ……あんたほどの術者がやってくれるなら、ありがたいけど」

「うん。約束する。どっちだったとしても(・・・・・・・・・・)ちゃんと終わらせる(・・・・・・・・・)って」

 

 ――できるのか。貴様に。

 聖白蓮は十中八九善人だろうが、それでももうひとつの可能性が決してありえないとは言い切れない。もしも白蓮が本当に黒だったとき、この脆い心の少女がなにをしでかすかは山伏にも想像ができない。

 

「……みんな、家を調べて。もしかしたら、まだ無事な人がいるかも」

 

 しづくの『声』を聞いて、人家と人家の隙間から、或いは見上げる屋根の上から、次々と頭襟の集団が現れて木屑の山を調べ始める。そのときになってようやく、人々の中にも束縛を破って駆け出す者が現れた。その中の一人――なんの武器も持っていない、妖怪だって今日生まれてはじめて見たような若い男の背に、山伏は問うた。

 

「よいのか。……見れば、後悔するかもしれんぞ」

「……」

 

 足を止めた男は振り向かぬまま、束の間呼吸を止め、全身を軋ませるようにして答えた。

 

「……ガキの頃からの、友達だったんです」

「……そうか」

 

 それ以上は山伏も、男も、なにも言わなかった。再び駆け出し、固い声音で山伏の部下へ言葉を掛ける。何事か会話を経て、やがて自分の身の丈以上もある残骸を震える手つきでどかし始める。

 一人、また一人と山伏の脇を通って、手を貸す人々は徐々に数を増やしていく。

 

「山伏さん……」

 

 しづくが、怖がる赤子のような手つきで山伏の袖をつまんだ。

 自分の力ではどうにもできない、泣き笑いの顔だった。

 

「なんで……どうして、こんなことになるのかな。もう、やんなっちゃう」

「……」

 

 いつも剽軽で、お調子者で、へらへら笑ってばかりいるしづくの、年相応に弱くて小さな姿だった。

 しづくが夢で繰り返し見てきたのは、悪魔と呼ばれた尼僧が迎える結末だけ。どうして悪魔と呼ばれることになるのか、どうしてその結末を迎えることになるのかはなにもわからなかった。わからなかったものはどうしようもない。放っておくべきだった手負いの窮奇を、まさか白蓮本人が直接助けてしまうなど予想できるはずがない。助けられた窮奇がよりにもよって今日この町を襲って、白蓮の思想を吹聴するなど予期できる方がおかしい。

 結果的に見れば窮奇を一度見逃した自分たちの不覚だったが、それだって当時の判断としては間違いだったわけではないと山伏は思う。

 だから、しづくが自分を責めたところで詮なきことなのに。

 

「――私、なんのために、こんな力持って生まれてきたの?」

 

 そう割り切れないのが、神古しづくという人間だ。

 答えを持っているのは山伏ではないし、自分はこういうときに気の利いた慰めを言える人間でもない。きつく強張るしづくの指先を取ることもできず、山伏はままならぬため息をついて夜空を見上げる。

 

 月が白い。

 なにがどうなろうと知ったことではないという、無感情で無機質が光だけがそこにはある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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