銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色

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東方星蓮船 ⑮ 「REMINISCENCE ⑤」

 

 

 

 

 

 今でこそ半ば人外の領域に足を踏み入れた尼僧だが、白蓮は、元々はなんの変哲もない一介の里娘だった。

 寺の生まれでないのはもちろん、身の回りに僧侶がいたわけでもなかったし、里には寺なんて一軒もなかったのを覚えている。ただ仏教が国を形作っている時代であったから、里の大人たちからごく簡単な教義や作法については教えられ、まあ至って平均的な知識と信仰心は持った子どもだったのだと思う。

 恥ずかしい限りだが、「里一番のやんちゃ娘」などと呼ばれていた。弟の命蓮を連れ回し、いつも里のあちこちを冒険して遊んでいた。生まれつき運動が得意だったのも手伝って、そんじょそこらの男の子よりも外で体を動かすのが大好きだった。好きな天気は、外で遊べるから晴れ。嫌いな天気は、外で遊べなくなるから雨。そんなことを真顔で言う女だった気がする。

 それが今ではこうなのだから、まこと人生とはどうなるかわからないものだ。

 

 第一のきっかけは、母の死だった。

 病死だった。流行り病だった、とは聞いている。母も父と同じで体が強い方ではなく、白蓮が覚えている限り、元気に歩く姿よりも床に伏す横顔ばかりが記憶に残っている。どういうわけか白蓮だけは熱すら滅多に出さない風の子だったが、病がちな体質は弟にも遺伝していた。白蓮とは似ても似つかぬほど気弱で大人しく、ちょっと目を離したらどこかにふっと消えてしまいそうな弟だった。

 だからだろうか。母がいなくなったことすらよく理解できず、しばしば熱を出しては苦しそうに咳き込んでいる弟を見て。

 自分が、命蓮を守らないといけないと、そう強く思った。姉としてだけではなく母としても命蓮を支えられるように、外で遊ぶのをやめ、家のことを教わり、一人前の女となるべく教養を積み始めた。我ながらよほど堅い決心だったらしく、そのあたりから自分勝手なわがままを言わなくなり、近所の子どもとケンカもしなくなった。周りの大人たちから痛く感心され、また微笑ましげに応援してもらえたのをなんとなく覚えている。

 

 第二のきっかけは、行脚の途中で里を訪れた僧侶たちだった。決して裕福な里ではなかったが、大人たちはみな気前がいい善人ばかりだったから、一休みでも一泊でもどうぞどうぞと歓迎したのだと思う。そんな中で、僧侶たちに――正確には僧侶たちが探究する仏の教えに、興味を示したのが命蓮だった。

 元より家の中で書を読むのが好きな弟だった。貧しい里でも手に入る貧相なものなど弟はとっくに読み尽くしており、それはきっと、書よりも遥かに優れた知識を持つ神様と出会えた心地だったに違いない。

 二~三日滞在する間、僧侶たちは快く命蓮に仏の教えを授けた。命蓮の貪欲な姿勢にすっかり心を打たれたのか、お前はいい坊主になれるぞと褒めそやし、里を去る際には、世話になった礼だと言っていくつか使い古した経典を置いていく有様だった。

 当然、命蓮はすっかり仏教の世界にのめり込んだ。誰に教えられるでもなく――教えられる大人もいなかった――経典を次々解読してしまい、大人たちが命蓮のとんでもない才能に気づくまでさほど時間は掛からなかった。

 

 第三のきっかけは、それから数年後、またしても里を訪れた旅の僧侶たちだった。

 命蓮が彼らを唸らせるには、ほんの数分の会話だけで充分だった。翌朝、旅路を急ぐ僧侶たちは命蓮にこう告げた。

 

 ――およそひと月ほど先、我々は復路で再びこのあたりを通る。そのとき、もう一度この里に立ち寄ろう。だからもし、そなたにその意志があれば。

 ――我々と共に行き、そなたの才、人々を救うために活かしてはみないか。

 

 命蓮の答えは、問われる前から決まっていたのかもしれない。

 その夜、まだ子どもなのに危険すぎると反対する白蓮に、命蓮は生まれてはじめて真っ向から逆らって、己の意志を真摯な言葉で伝えてくれた。

 止めるなんて、できるわけがなかった。

 

 そうして命蓮の旅立ちを境に、白蓮の中にもひとつの大きな変化が起こった。

 己の才と向き合い、人々を救うため、まだ子どもでありながら修行の旅へ出たあまりに立派すぎる弟。

 その家族として恥ずかしくないよう、自分も立派な姉になろうと思ったのだ。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――ただいま」

「おかえりなさい」

 

 およそ十年振りに里帰りした弟は、別人のように大きく逞しくなっていた。

 姉の白蓮でさえ、ひと目見ただけでは自信を持って判断できないほどだった。変わらない髪の色を見れば疑う余地なんてなかったはずなのに、それでも一瞬は、命蓮の付き添いでやってきた仲間の僧ではないかと思ってしまったのだ。生意気にも白蓮より頭ひとつ背が高くなり、いっちょまえにも体の線だって鋭くなって、かつて女よりも小さく華奢だった弟は、今やどこに出しても恥ずかしくない立派な『男』になっていた。

 白蓮は言うまでもなく、里の人たちも随分と驚いていた。

 

「あーあ、疲れた……」

 

 家に戻ってくるなり、命蓮は天井を仰ぎながらどかりと座り込んだ。こういう粗忽な仕草も昔の繊細だった弟からは想像ができなくて、やっぱり男の人になったんだなあと白蓮はしみじみ感じ入る。声変わりもすっかり終わって、肝が据わった精悍な響きだ。

 里のみんなに里帰りの挨拶をしてきた、その戻りだった。

 

「どうだった、久々に会うみんなは」

「みんな変わらないね。昔のまんま元気すぎ。こちとら何日も歩きづめでクタクタなのに、もうそんなのお構いなしだもん」

「命蓮に会えて、みんな嬉しいのよ。……そういう命蓮は、昔と随分と印象が変わったわよねえ」

 

 耳にタコができたみたいな目つきを命蓮はした。

 

「それ、みんなからも言われたよ。そんなに変わったのかな」

「もうぜんぜん。すっかり男の人みたい」

「いや、正真正銘男なんだけど」

「昔は女の子みたいだったのにねえ……」

 

 幼少期のひ弱だった自分にはあまりいい思い出がないのか、命蓮は苦虫を噛み潰した顔をしている。……まあ、変わったという点では白蓮も同じだが。幼少期の白蓮は女なのに外で遊んでばかりで、よその子と喧嘩すれば決まってボコボコにして泣かせることから、一時期は『山姥』などと不名誉極まるあだ名を頂戴していたりした。まったくもって恥ずかしい。

 命蓮が覚えていないくらい昔のことで、本当によかった。

 

「でも、変わったっていったら姉さんだってそうだよ。髪だってだいぶ伸ばして、随分大人っぽくなっちゃってさ。尼寺に通い始めたっていってたから、はじめはその仲間の人かと思った」

「もう子どもじゃないもの。こっちだって、はじめは命蓮の付き添いで来たお坊さんじゃないかって思ったわ」

 

 士別れて三日なれば、即ち更に刮目して相待すべし。ましてや十年振りともなれば、見違えるあまり本人かどうか咄嗟に疑ってしまったとしても、無理もないことなのかもしれない。

 どちらからともなく、微笑が浮かんだ。

 

「……向こうは、どう? 修業は辛くない?」

「辛いよ。修業自体キツいし、自分で言うのもなんだけど……いろいろ、期待とかされてるし。でも平気さ。自分の力で誰かの助けになれるのは、嬉しいから」

「そう……。あなたは生まれつき体が強くないから、それだけが心配だわ。もう随分前の手紙だけど、山で修業してたときに怪我をしたって、書いてきたことがあったでしょう?」

「……ああ。うん、そうだね」

 

 命蓮の瞳の焦点がふっと遠くなる。

 命蓮が旅に出て何年かした頃の手紙だ。山での修業中に足を滑らせてしまい、怪我をしてしまったと書かれていた。もう治ったから、心配は要らないとも。当然そんなことを書かれて心配しない姉はいないので、今すぐ命蓮の下へ飛んでいきたい衝動に駆られたのをよく覚えている。

 それが呼び水となって、白蓮は思い出す。

 

「そういえば、いつか里帰りしたときに話したいことがあるって書いてあったけど……」

 

 手紙に書いてくれればよかろうものを、命蓮はかたくなにそうしなかった。直接話したいから、と恰好つけたことを言って。要は手紙には書けないような内容だったのであり、白蓮が覚えている限り、弟との間でそんな隠し事をした記憶は他にない。

 

「……ちょっと待ってて」

 

 命蓮はやにわに立ち上がり、そう言うとなぜか外へ出て行ってしまった。家の周りを周到に歩く音がして、一周し終えるなりあっさりと戻ってくる。白蓮にはなにがなんだかさっぱりわからない。

 

「ええと、命蓮?」

「誰かいないか見てきたんだ。……姉さん以外には、ちょっと聞かせられないから」

 

 白蓮は思わず身構えた。

 

「まさか……す、好きな人ができたのっ?」

 

 白い目が返ってきた。

 

「……あ、あれ? 違うの?」

「むしろよくそれが正解だと思ったよね」

「そ、そう」

 

 昔からの付き合いである里のみんなにも聞かれたくないとなれば、てっきりそういう色恋の話なのかと思った。もしも自分に恋人ができたら、恥ずかしすぎて命蓮にだってなかなか話せないだろう。

 ため息をついた命蓮が、白蓮の傍に腰を下ろす。さっきよりも距離が近い。呆れの表情はすでに露と消え、語り出す言葉を一心に見つけようとしている。

 白蓮は改めて身構えた。きっとこれは、真剣になって耳を傾けなければいけない話だ。

 命蓮が一度、大きく息を吸い込み、

 

「……その手紙に、大した怪我じゃなかったからすぐ治った、みたいなことを書いたよね」

「……ええ」

「あれ、嘘。大雨が降ったあとの山で足滑らせて、崖から落ちちゃって。増水した川に思いっきり流された」

 

 白蓮は、咄嗟に言葉を出せない。

 

「運よくぼくを見つけてくれた人がいて、助けてくれたんだけど。体中痛くて立ち上がれもしないし、おまけに記憶までなくなっちゃうしで、ほんと散々だったんだ」

「……ま、待って。お願い、ちょっと……」

 

 ようやく、それだけ言えた。左手で命蓮の語りを遮り、右手で頭を抱えて必死に話へ食らいつこうとした。

 当然、冗談を言っているんじゃないかとまず疑った。およそ十年振りに会う弟は体も心もすっかり成長して、タチの悪い冗談で人をからかうようになってしまったのではないかと。

 でも、からかう方法なんて考えれば他にいくつもあるはずで、ほんの冗談で言っているのならいくらなんでもタチが悪すぎる。家族相手とはいえ、家族だからこそ、からかうというよりもはや人を騙す行いに近い。今や一人前の僧侶として修業を重ねる命蓮が、仏の教えに反する真似をするとは思えない。

 つまり、命蓮は。

 本当に。

 

「……本当のこと、なのよね」

「うん。ああ、ちゃんと生きてるし記憶も戻ってるのでご安心を。別に幽霊とかじゃないよ」

「それくらいわかるわ。まだ駆け出しだけど、私だって尼僧なんだもの」

 

 つまりあの手紙では、余計な心配をさせないためにわざと大したことがないように書いたわけだ。包み隠さず本当のことを書くと、白蓮に大変な心配を掛けてしまうから。いくら大丈夫だと書いても文字だけでは信じてもらえないと踏んだから、こうして実際に里帰りを果たすまで伏せていた。たとえ過去になにがあったとしても、目の前に壮健な姿があるのだからこれ以上の証拠もないだろう。

 まったく白蓮という人間をよく理解した、的確極まる判断だったと言わざるを得ない。

 とはいえ、疑問は残る。話がもしこれで終わりなら、わざわざ外に出てまで人払いをする必要などなかったはずだ。別に、白蓮以外には絶対に聞かれたくない話、というわけではなかった気がする。

 すなわちこれはまだ前置きに過ぎないのだと、そう確信して白蓮はじっと弟の言葉を待つ。

 

「それで、ぼくを助けてくれたひとがさ」

 

 しかし身構える白蓮とは対照的に、弟の口振りは拍子抜けするほど朗らかだった。まるで、面白おかしい思い出話をするように、

 

「ただのしがない世捨て人だーとか言ってたんだけど、実は妖怪だったんだよね」

「へ、」

「妖怪に助けられて、ちょっとの間一緒に生活してたんだよ、ぼく」

 

 ……。

 ええと。

 

「妖怪のくせに死にかけのぼくを助けて、手当てして、毎日食べ物を取ってきて、薬まで出してくれてさ」

「みょ、命蓮? あの、」

「怪我が治って、記憶が戻るまで面倒を見てくれて、おまけに最後に、またぼくを助けてくれて――本当に、」

 

 戸惑う白蓮に構わず、そこまでほとんど一息で言って。

 それから、途方に暮れたように項垂れた。

 

「本当に……人間みたいな、ひとだった。ちょっと恥ずかしいけど、父さんができたみたいだって思ってた」

「……、」

「姉さんは」

 

 吹き消えそうな瞳で白蓮を見つめる、弟は。

 迷子のような、顔をしていた。

 

 

「――姉さんも(・・・・)、妖怪に誑かされたんだって。そう思う?」

 

 

 きっと、誰にも理解なんてしてもらえなかったのだろう。

 世の子どもは人と会話することを覚えると、ほどなく妖怪と呼ばれる存在について親から教わる。ときに幻で人を誑かし、ときに強靭な肉体で人を攫い、ときに恐ろしい呪術で病を蔓延させ、ときにその牙で人の命を奪う。言うことを聞かない子どもがいれば大人は決まって、天狗にさらわれるぞ、鬼に食べられちゃうぞと言って叱りつける。そして、それは決して根も葉もない出まかせではないのだ。妖怪が悪しき存在であるのは歴史を(ひもと)けば疑いようがなく、だから世の人々はみな妖怪を恐怖している。日々厳しい修業を積む命蓮の仲間たちともなれば、きっと敵意すら抱いている者だっているだろう。

 姉さんも、と命蓮は言った。

 つまり寺の仲間たちは皆、お前は妖怪に誑かされたのだと冷酷に断じ、誰一人として弟の気持ちを理解しようとはしなかったのだ。

 

「優しいひとだったって、一緒にいたぼくが誰よりもわかってる。わかってるはずだったんだ。……なのにみんなから、誑かされていたんだ、忘れた方がいいって毎日毎日言われてるうちに、だんだんとわからなくなっていった。本当に、夢だったんじゃないかって。あのひとは、いなかったんじゃないかって」

「…………」

「それが、すごく、すごく、悔しいんだ。……ぼくが、ぼくこそが、この目で見て、記憶に刻んだことなのに」

 

 命蓮の言葉は、懺悔のようでもあった。信じてくれない仲間たちではなく、他人の言葉で簡単に揺らいでしまう己こそを命蓮は責めていた。自分を救ってくれたあのひとに、面目ないと。父のようだとすら思ったこの感情を、他人に言われるがまま忘れてしまうつもりなのかと。

 白蓮だって、妖怪は怖い。

 平凡な人里で、両親が早世だった以外は平凡な里娘として育ち、弟の影響を受けて近年尼寺にも通い始めた。妖怪という存在に対して、世間一般と同程度の認識と恐怖を抱いている自覚はある。だから命蓮が誑かされていた可能性だって、決して皆無ではないのかもしれないと思う。

 けれど命蓮が、それでも、優しいひとだったというのなら。

 

「……素敵なひと、だったのね」

 

 白蓮もまた、その妖怪を『ひと』と呼ぼう。

 妖怪は、怖い。けれど、それだけが妖怪だという証拠なんて考えてみればどこにもありはしないのだ。人間には、様々な人間がいる。人々の助けとなろうと尽力する善人もいるし、誰かを傷つけて悦に浸る悪人だっている。

 なら、妖怪だって。人に害を与える、悪い妖怪がいて。人に力を貸してくれる、いい妖怪だっていて。

 命蓮が出会ったのはきっと、そんな優しい妖怪だったのだと、信じたいと思った。

 ぽかんと顔を上げた命蓮に、微笑んで。

 

「聞かせて。そのひとのこと」

「……!」

 

 これが、すべてのきっかけだったのだと思う。命蓮からこのときこの話を聞くことがなければ、白蓮は他の人々同様妖怪を恐れ、近づこうとしないままで一生を終えていただろう。

 命蓮が、まるで童心へ返ったように生き生きとした目で、『父上』のことを話してくれたから。

 妖怪と呼ばれる者たちを、いま一度見つめ直してみようと思えたのだ。

 

 

 

 

 

 ――所詮、叶うはずもない幻想だったのだろうか。

 人が妖怪に手を差し伸べるのは、それだけで悪で。人と妖怪がともに生きる世界など、夢見てはいけない禁忌だったのか。

 白蓮が、人を超えてでも手を伸ばした果てにあったものは。

 人の道を外れた、悪魔の指先だったのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 いつかはこうなってしまうのではないかと、前々から、臓器が体にきちんと収まっていないような居心地の悪い不安を覚え続けていた。だから仲間の鼠が麓の町で起こった事件を大慌てで報告してくれたとき、ナズーリンの心に落ちたのは驚愕でも動揺でも焦燥でもなく、ああそうか、とため息をつくような静かな諦念だけだった。

 前途多難な茨の道だなと、白蓮の思想をはじめて聞いたときはそう思った。世界そのものに真正面から一石を投じるにも等しい願いだった。人間も妖怪も分け隔てなく、ともに手を取り合って生きていける場所を創りたい――普通の人生を歩む普通の人間であれば、天地がひっくり返ったって考えないようなことだった。

 正直なところ、叶うも叶うまいも、最初はあまり関心を持たなかったというのが正しい。所詮は世に数多くいる毘沙門天の信徒のうちの、たった一個人が自由に抱く思想である。叶おうが叶うまいが、正しかろうが正しくなかろうが、仏に背かぬ限りナズーリンがいちいち口を挟むものではない。毘沙門天様が代理人として黙認された、寅丸星という少女を監視する――己の役目はそれ以上でもそれ以下でもなく、白蓮に救われたわけでもなければ共感したわけでもない、あくまで一介の客分という立場に徹するつもりでいたのだ。

 ――果たしていつからだったか。年の割にそそっかしい白蓮をどうにも放っておけず、ささやかな助言や忠言を繰り返すうちにやけに頼られてしまい、すっかり寺の相談役となってしまったのは。

 大して興味もなかったはずの、白蓮の願いを。

 いつか本当に叶うことがあればと、心のどこかで望むようになっていたのは。

 

「――聖。入るよ」

 

 今にも崩れ落ちそうな星を連れ、ナズーリンは白蓮の寝室まで戻ってきた。襖を開けると、まだ夜は明けていないのに寝具を片付け、行灯の心もとない光の中、座敷の中央で瞑想に沈んでいる白蓮の背が見えた。

 夜の寺は、風の音も響かずしんと静まり返っている。星が怖々と、蚊の鳴いたような声を掛ける。

 

「ひ、聖。水を、持ってきましたよ……」

「ありがとう。こっちに持ってきてくれる?」

 

 答えの声は、一見すると落ち着いていたが。

 どうあれ、気持ちを整理する時間は終わりだ。立ち竦んでいる星の袖をわざと強く引っ張り、ナズーリンは白蓮の背後へ腰を下ろす。白蓮がゆっくりとこちらへ向き直り、星に向けて両手を伸ばす。はじめの一呼吸、星はその手の意味が咄嗟にわからず硬直し、二呼吸目でようやく、自分がここまで運んできた物の存在を思い出した。

 

「ど、どうぞ」

「ありがとう」

 

 冷たい水で満たした小さな椀を、白蓮は受け取りこそしたが、口はつけずに己の膝元に置いた。

 

「……気持ちの整理はついたかい?」

「ええ。もう、大丈夫」

 

 嘘つけ、とナズーリンは思う。朧な行灯の明りの中でも、その微笑みが青白く生気を失っているとはっきりわかる。

 だが、震えていないだけマシでもあった。

 

「では、単刀直入に問おう。――どうするつもりだい、聖?」

 

 日が昇り切り、魑魅魍魎の力が最も弱まる頃合いを狙って、人間たちがこの寺まで攻め込んでくる。他でもない、聖白蓮を捕らえるために。

 白蓮の助けた妖怪が、町に被害をもたらした――人間たちにとってはそれがすべてだ。たとえ白蓮に悪意は一切なかったとしても、具体的な犠牲が出てしまった以上和解の道は極めて厳しいと見るべきだろう。

 答えが返ってくるまで、思っていたほどの間はなかった。

 

「私が、町のみんなと話をします」

 

 まぶたを下ろし、その裏側で自分自身の姿と対峙しているような言葉だった。ああ、やはりあなたはそう言うんだなと、ナズーリンもまた瞑目した。

 

「ムラサと一輪には、夜が明けてすぐ遠くへ用事を与えます。……私を守ろうとして、町のみんなと戦おうとするはずだから」

「……待ってください。聖、あなたなにをするつもりなんですか?」

 

 星が、頬をひきつらせて白蓮の決意を遮ろうとする。星とてこうなることはわずかなりとも予想できていたはずだが、実際直面すると理屈より認めたくない感情が先に立ったらしい。辛うじて声だけは抑えながらも、言葉は決して歯止めが利かない。

 

「話をするって、そんな場合じゃないでしょう!? 人間たちは、聖を捕らえようとしてるんですよ!? 早く逃げないと……!」

「いや、聖は間違っていない」

 

 ナズーリンはまぶたを上げ、

 

「ご主人。人間たちは聖を、悪しき妖怪に加担する悪僧だと認識している。聖が逃げれば、己の悪事が露見したから逃げたんだと都合よく取られてしまうだけだ。そうなれば然るべき場所に報告が行って、本格的に聖の捜索が始まるだろう」

「……!」

「噂はあっという間に広まって……もはや、理想を果たすどころの話ではなくなるだろうね。生涯追われる身だ」

 

 もっともそれは、この寺に残ったところで同じこと。逃げれば追われ、残れば捕らえられ、どちらにしたって今まで通りの生活を続けることは敵わない。

 星が小さな、牙を見せた。たとえ姿形が神となっても、こうしてみると彼女がかつては獣の妖怪だったのだとよくわかった。

 

「そんなのっ……! じゃあそんなの、どうしようもないじゃないですか!?」

「そうだね」

 

 中途半端に言葉を濁す真似はしない。

 たとえ冷酷であろうとも、失望されるとしても。それが、寺のご意見番である己の役割なのだと思うから。

 

「それだけのことが、起こってしまったんだよ。ご主人」

「……なっ、」

 

 早鐘を打つ心臓でふたつ呼吸するだけの間、星は怯んだ。

 そして、叫ぶことでその束縛を強引に引き千切った。

 

「なんで、なんでですか!? 悪いのは、町を襲った妖怪じゃないですか!? なのに、なのにどうして聖が!」

「星、いいの」

 

 白蓮の声が通る。決して強くはなかったが、まるで事態がまったくわかっていないかのような穏やかな言葉に、星が再び動きを止める。

 白蓮の唇には、かすかな笑みの影があったが。それが底知れぬ自責の表れなのは、星の目にもはっきりとわかっただろう。

 

「……私が間違っていたの。あの妖怪が、人間を憎んでいるのはわかっていたのに。町が襲われるなんて考えてもいなかった。後先も考えないで助けてしまった。私が、」

 

 息を止める、短い沈黙があって、

 

「……私が、助けなければ。町のみんなが襲われることはなかったでしょう」

「そんなこと、言わないでください……!」

 

 堰を切るように星は喉を震わせ、首を振る。

 

「そんなこと、聖が言っちゃダメです! そんなことっ……!」

 

 それは、あなたが今まで歩んできた道を否定してしまう言葉だから。

 星は、涙すら流そうとしていた。これ以上白蓮と向き合うこともできず、耳を塞ぎながらいびつに身をよじり、何度も首を振ってただひたすらに拒絶し続けた。白蓮が間違っていたなんて、もうどうしようもないなんて、助けなければよかったなんて、共に歩んできた仲間として、家族として、絶対に認めたくはなかったのだ。

 

「こんなの、おかしいですよ……!! なんで、どうしてこんなっ……!!」

「……」

 

 悲しかったし、悔しくもあったのだろう。なにより、本当は一番辛いはずなのにそんな素振りなど欠片も見せず、笑顔すら浮かべてしまう白蓮に耐えがたいほどの悔しさを覚えたのだと思う。すべて自分の責任なのだと一人で抱え込み、一人で勝手に答えを決めてしまって。怖くて怖くて仕方ないはずなのに、たった一人で人々の怒りを受け止めようとしていて。

 じゃあ私たちは、一体なんのための仲間なんですかと。きっと心の中では、そう何度も何度も白蓮を問い詰めただろう。

 ナズーリンは静かに吐息する。酷い話だ、と思った。白蓮の覚悟は至極理解できるし、星の悔しさは至極当然だと思うし、人々の怒りは至極已むなしと思う。だからナズーリンは白蓮に考え直せと言えないし、星に聞き分けろと諭せないし、人々にやめてくれと訴えることもできない。

 本当に、酷い話だ。

 

「……聖、ご主人、今のうちに言っておく」

 

 その上でナズーリンは、こう告げなければならないのだから。

 

「今回の件に関して、私とご主人は一切関与できない」

「――ぇ、」

 

 星は息を失い、白蓮はそっと、微笑むように眉を下げた。

 

「不干渉――それが、毘沙門天様のご判断だ。なれば私もご主人も、従う他ない」

「…………あ、あはは。なに言ってるんですか、ナズ」

 

 星の口端が、望まぬ弓の形に引きつり歪む。

 

「じょ、冗談ですよね? だって、そんなの、」

「ご主人」

 

 冗談と思いたい気持ちはわかる。ナズーリンだって、はじめ聞いたときは己が耳を疑った。だがそうする他ないのだ。

 繰り返す形になるが――もうどうしようもないことが、起こってしまったのだから。

 

「聖と一緒にこの寺に残って、それで人間たちになんと言葉を掛けるつもりだい? 聖に悪気はなかったんだから許してくれ、とでも?」

「そ、それはっ……」

「人間たちにとっては、受けた被害こそがすべてだ。聖が妖怪を助け、その妖怪が町を襲った。そこに誤解は一切ない。彼らはなんの罪もない被害者なんだ」

「ひ、聖にだって罪は」

「わかってる。本当の悪は町を襲った妖怪で、聖だって、むしろ恩を仇で返された被害者だろう」

 

 たとえ浅慮だったとしても、善意につけ込まれ利用されてしまったのだとしても、目の前で危機に瀕した命を救おうとした彼女の心までは、決して否定されるべきではないとナズーリンだって思う。

 しかし、

 

「だが言ったろう、聖の本当の思想はもはや人々に知られてしまった。町を襲った妖怪のみならず、他にも多くの妖怪に手を差し伸べている。こうなってしまった以上、聖がやっていることは人々にとって裏切りも同然なんだ」

 

 なのに星が――毘沙門天が聖に味方すれば、それがどんな理由であれ、更なる怒りを買い深い失望を与えることになるだろう。もしくは白蓮が己の行いを正当化するために、仏の言葉をでっちあげているのだと取られるかもしれない。実際、神意を騙って人を陥れようとする大馬鹿者がこの世にはたびたびいるのだ。

 そうなれば、もはや白蓮は『罪人』だ。

 一度氾濫してしまった人々の心に、人の言葉も仏の言葉もありはしない。ナズーリンたちが関われば、白蓮を助けるどころか余計に危機へ追いやってしまうかもしれない。

 それがわかっているから白蓮も、たった一人で人々と向かい合おうとしているのだ。

 

「聖にも人々にも罪はなく、どちらにもどちらの苦しみがある」

 

 仏も神も、人の祈りがあってはじめてそこに加護を施すものであり、人の罪があってはじめてそれを裁くもの。

 白蓮が仏に縋る危険を理解し、故に己の力で乗り越えるというのなら。

 

「人の世の秩序に従って、人の手によって為されるべきだと。それが、毘沙門天様のご判断なのだと思うよ」

「……」

「私たちが迂闊に立ち入るようなものじゃない。仏が関わるということは、それだけで非常に大きな意味を持ってしまうのだから」

 

 星が唇を限界まで引き結び、唸るように重苦しく歯を軋らせた。

 ナズーリンは元より理詰めな性格だし、白蓮に特別恩義があるわけではないし、いつかこうなる覚悟だけはしていたから仕方ないことだと割り切れる。形こそ最悪になってしまったが、人と妖怪がともに暮らせる場所を築くために、これは彼女が自分で乗り越えなければならない試練なのだとすら思っている。信徒の人々との衝突は、その道を歩み続ける限りいつかは必ずぶつかってしまう壁なのだ。

 しかし寅丸星は感情に逆らえない少女で、白蓮を心から強く慕っていて、こんなことが起こるなんてきっと夢にも思っていなかったはずだった。

 納得なんてできまい。

 

「――いやです」

 

 そう言うに決まっていた。

 

「いろいろそれらしい理由をつけてますけど、結局、それって聖を見捨てるってことじゃないですか。私は、そんなの絶対にいやです」

 

 敢えて、ナズーリンは問うた。

 

「……毘沙門天様に逆らうとしてもかい?」

「毘沙門天様にご迷惑は掛けません」

「ご主人には無理だ。目付け役として、それは見過ごせない」

「ナズに私の気持ちはわかりません」

 

 ついさっきまで、打ちひしがれてロクに喋れもしない有様だったのに。

 ナズーリンを真正面から迎え撃つその瞳には、太刀を構えるにも似た徹底的なまでの反抗の意志がひそんでいる。事なかれ主義の彼女がここまで毅然と言い返してくるとは予想外で、ナズーリンは思わず返す言葉に詰まる。

 だが、

 

「私はここに残ります。ここに残って、聖を    」

 

 続くはずだった星の宣言が、そこで唐突に途絶した。

 言葉を切ったというより、その部分だけがなぜか意志に反して音にならなかったような不自然な空白だった。事実、星は目を丸くして喉を押さえ、

 

「あ、あれ? ええと、……あー、あー」

 

 ちゃんと声が出るのを確認してからもう一度、今度はひとつひとつはっきりと区切りながら、

 

「私は、ここで、聖と、    」

 

 やはり途切れる。唇は最後までその通りに動くのに、なぜか声だけが途中で出なくなる。

 星の相貌が不可解な困惑で歪む。

 

「あ、あはは、どうしたんですかね。変ですね、私はただ、聖を    」

 

 何度やっても結果は変わらない。

 星の唇の動きを読んで、ナズーリンはすべてを理解した。同時に、これは酷だな、と小さく小さくため息をついた。

 

「……ご主人」

「ちょ、ちょっと待ってくださいね。私はちゃんと」

「わかっている。……わかっているよ」

 

 それが御仏の意思なのだと理解はできても、真実を告げるべきかどうか無意識に躊躇った。

 言った。

 

「ご主人は、毘沙門天様の代理人だ。……だから、毘沙門天様のご意思に明確に背く言動はできない……ということだと思う」

「――……、」

 

 毘沙門天に仕えてそれなりに長いナズーリンとしても、はじめて見る光景ではあったが。恐らくはこれが、代理とはいえ神の名を背負うということなのだろうと思った。

 毘沙門天は白蓮を救わない。だから星にも白蓮は救えない。助けたいと、口にすることすら許されないのだ。

 星の表情が凍りつき、そこから砕けるまでは、さほど時間は掛からなかった。

 彼女の瞳の奥で、決意と呼べる感情が為す術もなく破壊されていくのが見えた。

 

「…………そん、な」

 

 飛びかかるように白蓮へ振り向く。

 

「聖ッ!!」

 

 納得など、できるはずがなかった。

 

「私は、聖を    !!」

 

 牙を剥き、爪を立て、喉を震わせ、

 

「私は、聖を    ……っ!!」

 

 振り払うように、打ち砕くように、なげうつように、

 

「わたし、は……    ッ!!」

 

 何度も、何度も、何度も、

 

「……わたし、は。わた、し、は、………………」

 

 だが、ダメだった。どんなに叫んでも、どんなに繰り返しても、どんなに想いを吐き出しても。

 あなたを助けたいとすら、守りたいとすら――今の星には、ただの一言も言えなかったのだ。

 

「……ご主人」

 

 星は、泣いていた。声を上げることこそ、嗚咽に身を震わすことこそなかったけれど。畳を爪で抉るその手の甲に、音もなくそっとひとつの雫が落ちたのがわかった。

 

「――私は」

 

 星が吐き出す言葉に、もはや力も覇気もありはしない。

 元は野山を駆け巡る一介の妖怪で、仏の教えになんてなんの興味も持っていなかった。そんな彼女が毘沙門天の代理となったのは白蓮に推薦を受けたからで、ただ白蓮の力になりたかったからだった。

 毘沙門天に敬服していたわけではない。人々を救いたかったわけではない。白蓮のために頑張ってこの寺の本尊となり、白蓮のために頑張って人々の信仰を集め続けた。星にとっては白蓮が――この寺でみんなと一緒に送る生活こそがすべてだったのだ。

 だから今だって、白蓮のために、みんなのために、頑張って助けとなるのが当然のことなのに。

 また雫が、落ちる。

 

「私は、なんのために、神になったんですか――」

 

 悔しかっただろう。本当に、本当に、もう想いの遣り場すらわからなくなってしまうほどに。それだけはナズーリンも理解しているつもりだった。そして、理解してなお詮無きことだと割り切ってしまおうとしている自分に、少しだけ嫌気が差した。

 

「星」

 

 白蓮が、星の名を呼んだ。

 

「星、ありがとう。星……」

 

 (くずお)れる星の両肩に手を伸ばして、そっと抱き締めるように、

 

「本当に、立派な神様になって。それでも、そんなに私のことを考えてくれて……」

 

 優しい顔をしていた。それはさっきまでの拙い強がりではなく、彼女の心からの表情であるように見えた。

 皮肉なことだが、畳すら抉って涙を流す星の姿が、反って白蓮の決意を固めてしまったのだと思った。

 

「ありがとう、星。本当に……」

「っ……」

 

 そんな優しい言葉を、星は掛けてほしくなんてなかっただろう。怖いと、助けてと、たったそれだけの言葉さえあれば、その瞬間に己のすべてを白蓮のためになげうっていただろう。

 だが白蓮は、最後まで決して泣かなかった。

 それどころか、茶化すような笑みすら見せるのだ。

 

「でも、ひとつだけ不満だわ。星は、これで私たちの生活がなにもかも終わりになっちゃうと思ってるの?」

「……、」

「私だって、ただ捕まるためにここに残ろうとしてるわけじゃないのよ?」

 

 ――それは、そうだ。それは確かに、そうだろう。

 だが、しかし、

 

「ひょっとして、私じゃムリだって思われてるのかしら」

「そ、そんなことっ……」

 

 顔を上げた星の顔へ、指を伸ばす。

 

「星、私はね」

 

 驚いて動きを止めた星の目元を、指先で優しく拭う。

 

「これは、ちゃんと私の力で乗り越えなきゃいけないことだと思うの。これくらい自分で乗り越えられないで、人と妖怪が一緒に暮らせる場所なんか創れないんだって。遅かれ早かれ、いつかは必ず向かい合わなきゃいけないことだったんだって」

 

 眉を下げ、

 

「きっと私、みんなに甘えちゃってたんだと思う。みんなと出会えて、毎日がほんとに充実してて……もしかしたら、このまま上手くやっていけるんじゃないかって。……バカよね」

「聖、」

「だから」

 

 星の言葉を遮り、

 

「だから、これは私がやらなきゃいけない。町のみんなとちゃんと話をして、謝って、ぜんぶを許してもらえるはずはないし、そんなつもりもないけど。……罪を償って、またみんなと一緒にやり直していくわ」

 

 それが、白蓮の選ぶ道だった。

 白蓮は夢を捨てない。夢のために自分を偽ることはできない。誰かに犠牲を強いることもできない。彼女にできるのは、ただひたすらに、その体ひとつで道を歩き続けることだけだった。たとえ道の先に待つのが針のむしろだとしても、彼女はそれすらも乗り越えようとして歩き続けるのだ。

 

「――こんなところで、つまずいてなんかられないもの」

 

 こうやって、なんてことのない顔をして。

 だからナズーリンは、今になってようやく、染み渡るような理解を覚えた。

 

(……聖。君は、もしかしてずっと――)

 

 言うまい。喉まで出かかっていた言葉を吐息に変えて吐き出し、遣る瀬のない胸の痛みに煤けた天井を仰いだ。

 どうして彼女がこんな目に遭わねばならないのだろう、という答えなき問いが頭を埋め尽くした。人も妖怪も等しく安らげる場所を心から願い、傷ついた命を放っておけず危険も顧みず助けて、その結果裏切られても、自分が間違っていたのだと恨み言のひとつだってこぼしやしない。人と妖怪の共存を目指す人間として、涙も流さぬまま立ち向かおうとしている。こんなにも不器用で痛々しいまでの善人が、どうして人間から『悪魔』などと呼ばれてしまうのだろう。そういう運命だったという言葉で割り切るには、あまりに道理が合わないのではないか。

 この世には、他に報いを受けるべき罪人や悪人がごまんといるはずなのに。どうしてそんな人間たちを差し置いて、白蓮という少女だけが矢面に立たされてしまうのだろう。

 

「――約束、してください」

 

 言いたいことは、決してそれではないはずだった。心の中で暴れ狂うたくさんの想いを噛み千切り、星がそう声を絞り出した。

 

「私たちは、待っています。聖を信じて、待っています。ですから――」

 

 せっかく目元を拭ってもらったばかりなのに。泣けない白蓮の分まで、涙を流そうとするように。

 

「必ず、帰ってきてください」

 

 答える白蓮は、最後まで笑顔だった。

 

「――うん。頑張る」

 

 ナズーリンは、まるで正反対の表情で向き合ういびつな二人から、片時も目を離せないでいた。今まで感じたことのない言い知れぬ感情で、己の心が息もできぬほど張り詰めてゆくのがわかった。

 ――そうか。

 本当に、今更だった。

 今更になってようやく、人と妖怪の共存を願う白蓮の想いが。彼女に夢を託したという弟の想いが。肌を切るような悲愴とともに、理解できた気がしたのだ。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 別に、自暴自棄になって一人で背負い込もうとしているわけではない。たとえ悪意などなかったとしても、これが己の過ちで起こった悲劇なのはなんの弁解の余地もない。なのに都合よく仏の助けに縋るのは筋違いだし、町の人々だって怒りの行き場をなくして底知れぬ失意に呑まれてしまうだろう。

 自分が助かるためだけに、町のみんなを犠牲にしようなんて思わない。

 そして、人々の怒りのまま自分のすべてを差し出すつもりもない。

 こんなところで終わるわけにはいかない。諦めるわけにはいかない。突きつけられた気がしたのだ。お前は本当に、夢を成し遂げるつもりがあるのかと。このまま歩き続けたところで、本当に約束を果たせる日がやってくると思うのかと。今の生活に心のどこかで満足し、甘えてしまっていたのではないかと。

 自分の進もうとしているのが、一体どういう道だったのか。

 今の世が今の世で、白蓮が白蓮である限り、いつかは必ず人々と衝突してしまう日がやってくるのだ。妖怪を恐れる人々に、それだけが妖怪ではないと説かねばならない時がやってくるのだ。そんなことすら自分は都合よく忘れようとしていた。だから人間の自分が、一人で人々と向き合って、乗り越えていかなければならないのだと感じていた。

 それすらできずして、どうして人と妖怪の共存を成し遂げられるというのか。

 

「――ムラサ、一輪、おつかいを頼みたいんだけどいいかしら? ちょっと遠くまでだから、遅くまで掛かっちゃうかもしれないけど……」

「いいですよ! 任せてくださいっ」

「聖様のためなら、海の向こうにだって行ってきますよ!」

 

 夜が明けてすぐ、白蓮は予定通りにムラサと一輪へ遣いを頼んだ。なにも知らない二人の笑顔に胸が痛んだけれど、きつく耐え忍んで白蓮もまた笑顔で送り出した。本当のことを知れば彼女たちは、白蓮に逆らってでも人々を迎え討つ道を選ぶだろう。

 町の人々だって、妖怪がいるとわかっている寺に無策で踏み込んでくるとは思えない。腕利きの退治屋を雇ってくるかもしれない。自分が撒いた種で人々を傷つけてしまったのに、その上家族まで危険に晒すなんて絶対に嫌だった。

 

 ――どうして白蓮が、こうにも己の夢に固執するのかといえば。

 そういう場所が必要なのだと本気で考えているのに嘘はない。かつて妖怪に命を救われた弟は、その妖怪をまるで人間のようだったと言っていた。父ができたみたいだったと言っていた。だから妖怪はただ恐ろしいだけの存在ではないのかもしれないと思い、今までとは違う目線で彼らの姿を見つめたとき、たとえ争いを望まない優しい心を持っていても、妖怪であるというだけで理不尽に恐怖され迫害される者たちがいると知ったのだ。

 そして、そのことを誰よりも知っていたのは弟だった。弟は、その短い生涯の中でたくさんの人々を救った高僧だった。たくさんの人々を救ったということは、それだけ多くの妖怪を調伏したということだ。けれど壮年の弟は、妖怪をひたすら退け続けることで成される平和に小さな疑問と葛藤を抱いていた。

 無論、なんの罪もない人々を徒に脅かす悪しき妖怪がいるのは事実である。

 しかしその陰に隠れて、ときには依頼だから、人々の生活を守らなければならないからという大義名分で、無辜の妖怪と対峙せねばならないことがあった。人間の側にだって省みるべき非はあるのに、守るために見て見ぬふりをしなければならないこともあった。

 自分が作り上げてきたものは、本当に平和と呼べるものだったのだろうか。

 果たして今の自分は、心から『父』に胸を張れるのだろうかと――そう苦心していた。

 弟は病で命を落とすその最期に、人だけを救い、妖怪を救おうとしなかった己を悔いていた。人と妖怪が、ともに暮らしていける場所があればよかったのにと嘆いていた。だから、白蓮が叶えようと決めたのだ。自分が願う世界を、弟が願った世界を。

 自分の夢は、決して自分だけの夢ではない。

 もう手の届かない場所へ逝ってしまった弟との、最後の約束なのだから。

 

「……静かだなあ」

 

 一人だけで佇む寺は、まるで生まれてはじめてやってきた場所みたいに静かだった。白蓮が外から戻ってくるとき、この寺ではいつも仲間たちが待ってくれていた。一輪が掃除をし、ムラサが水をまき、星が座禅を組んでナズーリンが警策を構えていた昨日の光景が、胸を締めつけられるくらい昔のように甦ってくる。何度も何度も見慣れたはずの本堂が、今はひどくがらんどうになって見える。

 こんなときでも、山が大きく呼吸をする音色は穏やかで。もうすぐ自分の人生で最大の分水嶺がやってくるなんて、なんだか嘘みたいだった。

 

「……」

 

 目の前の文机には、広げられた真っ白い書簡が一枚だけ乗っている。もしものときを考えて、みんなに手紙を残すかどうか考えていた。けれどはじめから諦めてしまっているみたいで嫌だったし、そもそもどれだけ文机に向かっても、思考がぐちゃぐちゃで文字のひとつを書くこともできないでいた。

 

 怖かった。

 本当は、泣きたいくらいに怖かった。

 

 星の前でいっちょまえな顔をして言ったことはぜんぶ強がりだ。私の力で乗り越えるなどと言っておいて、自分一人でなにができるのかなんてまるでわからない。ちゃんと人々と話をするなどと言っておいて、どんな言葉で向き合えばいいのかなんてさっぱりわかっちゃいない。

 またみんなと一緒にやり直していくなどと、恰好つけて言っておいて。

 これで終わってしまうかもしれないという恐怖を、どうしても、どうやっても拭うことができなかったのだ。

 

「っ……!」

 

 心の奥底に押しやっていた感情が、わずかな綻びから白蓮の意識を侵食する。

 どうして。

 どうして、こんなことになってしまうのだろう。私は、なにも悪いことをしようとしているわけじゃない。誰かを傷つけようとしているわけじゃない。人も妖怪もみんな平和に暮らすべきだなんて、時代を知らない大言壮語を語っているわけでもない。

 この世には、自ら争いを望んで戦いに身を投じる者たちがいる。この国には、戦場と呼ばれる場所がいくつもいくつも存在している。妖怪は人を襲い、人は妖怪に抗い、しかしその陰では望まぬ戦火に怯えている者たちが確かにいるのだ。

 だったら、争いを望まない者たちが平和に生きていける場所だって、あっていいじゃないか。在らねばならないはずじゃないか。

 それだけなのだ。

 悪いことをしようとしているわけじゃない。傷つけようとしているわけじゃない。本当に、ただそれだけなのに。

 なのに、どうして。

 どうして、どうして、こんな、

 

「どうしてっ……!」

 

 堰からあふれるように言葉がこぼれ、はっと口を覆う。いつの間にか目のすぐ真下まで熱い痛みが迫ってきていて、慌てて拭った。

 

「……だめ。だめよ、泣いちゃ」

 

 泣いて己の理想が叶うのなら、いくらでも憚らずに泣き喚こう。

 涙を流す余裕があるのなら、顔を上げろ。俯くな、背を見せるな、前を向け。私が、みんなを導いていかなければならないのだから。

 言っただろうと、自分で自分の胸を叩いて刻み込む。星たちの前で偉そうに語った強がりの中で、これだけは絶対と断言できる決意がひとつだけあっただろう。

 弟と交わした、最後の約束を。

 ――こんな形で終わらせてなど、たまるものか。

 

「……命蓮」

 

 神に祈ることはできないけれど、弟の名を呼ぶと少しずつ指の震えも止まっていった。

 大丈夫だ。

 わたしは、闘える。

 だから、待とう。

 

「……」

 

 白蓮は、待ち続けた。誰もいなくなった寺で一人、山の静かな呼吸に抱かれながらただただ待ち続けてた。そしてあるとき――本堂の中へ、音もなく柔らかな風が吹き込んできた。

 外から本堂に続く古びた木の階段が、確かな重みを受けて軋んだ。

 

「……!!」

 

 心臓が一気に暴れ出した。来た。この状況で参拝客がやってくるはずはない。間違いなく、白蓮を捕らえに来た人間たちだ。階段を軋ませる足音はひとつだが、振り向けば外では大勢の人々が白蓮を待ち構えているだろう。もしかすると見知った顔だってあるかもしれない。白蓮を憎悪に焼けた(まなこ)で睨んでいるかもしれない。そう考えるだけで怖くて、呼吸がおかしくなりそうで、手足は完全に竦んで欠片も動かせず、白蓮はただぎゅっと目を、

 

 

「――ごめんくださいなあー、っと」

「……え?」

 

 

 掛けられたのは、場違いに呑気で明るい少女の声だった。

 

「だー、やっと着いたよ疲れたあ。話には聞いてたけどこんな山奥とはねー。これって買い出しのたびに登り下りでしょ、大変じゃない?」

 

 わけがわからず、振り向いた。

 本堂の薄暗い日陰に慣れてしまっていたせいで、はじめは誰だかまったくわからなかったが。

 

「や。また会ったねえ」

「――あ、」

 

 皺だらけでだらしのない小袖と袴。後ろで雑にまとめた長い黒髪。そして野山を元気に駆け巡る子どもがそのまま大人になったような、素朴な生命力を感じさせる姿は、

 

「あなた、は」

 

 昨日、どこからともなくいきなり白蓮の真横に落ちてきて、野犬に追いかけられるがまま騒々しく走り去っていった、

 

「ん。……やっぱり、君が聖白蓮だったんだね」

 

 あのときの少女だった。

 彼女の姿を通して本堂の外を見る。彼女以外に人っ子ひとりの影もない。一人でやってきた。こんな山奥のお寺まで。なんのために。

 

 ――この状況で、参拝客がやってくるはずはない。

 

 少し前の、自分自身の思考が反響する。

 

 ――妖怪がいるとわかっている寺に、町のみんなが無策で踏み込んでくるとは思えない。

 ――腕利きの退治屋を、雇ってくるかもしれない。

 

 まさか、

 まさか、

 彼女が、

 

「――もっと、違う形で会えればよかったのに」

 

 あのときの少女は、けれどあのときと同じ表情ではなかった。

 己とは決して交わることのない彼方を見つめる、寂しく儚い笑顔だけがあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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