銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色

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東方星蓮船 ⑯ 「REMINISCENCE ⑥」

 

 

 

 

 

 弟が突然里に帰ってきたのは、白蓮がもう若いとは世辞でも胸を張れなくなった頃だった。

 弟は生まれつき体が強い方ではなく、体格なんて女か小鹿みたいに細くて貧弱だった。白蓮の方が背が高く腕っぷしも強かったくらいで、近所のみんなからはどっちが男だかわからないとよくからかわれていた。それでも仏僧として日々濃密な修業を積む中で随分と成長し、いつの間にか背もすっかり抜かされて、一人前の大人ともなる頃には、ああこの子も立派な男の子だったんだなとひどく感心させられたのを覚えている。

 

 そんな弟は、ほんの数年見ぬ間に枯れ木のようになっていた。

 突然里へ戻ってきた理由を、静養と表現すれば当たり障りもなく聞こえるが。

 弟は病魔に蝕まれ、満足に動くことも難しい体となってしまっていた。

 

 生き急ぎすぎたかなと、弟は笑って言う。

 なまじっか名が通ったばかりに弟の元へは日夜様々な依頼が舞い込み、休息などないに等しい生活だったという。無理をしている自覚はあったし、仲間からたびたび休養も勧められていた。しかし弟は、己に人を救える力があるとわかっているからこそ、助けを必要としている人々を放っておくことができなかった。それが弟の道だった。救うことだけが己の存在意義だった。軋む体から目を逸らし、呻く心を抑え込み、あと一人、どうかもう一人だけと自分を騙し続けて――。

 そして、倒れた。

 風邪みたいなものだと思っていたがいくら休んでも良くならず、詳しく調べてはじめてそれが深刻な病だと知った。

 そこから体調が回復することは、結局最期までなかった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 弟の様子を見に行ってみると部屋に姿がなく、慌てて捜せば彼は裏の濡れ縁でひなたぼっこをしていた。

 がっくり肩が落ちた。

 

「もうっ……命蓮? 勝手にいなくなったりしないでちょうだい」

 

 振り返った弟は姉の気も知らず、大袈裟すぎると朗らかに一笑に付した。

 

「姉さん、家の外に出てるわけじゃないんだから」

 

 弟は、今日は少し気分がよさそうだった。体はすっかり痩せ細って骨に辛うじて皮が付いているような有様だが、笑みにはいつもより明るい生気がにじんでいた。

 お陰で、喉元で準備していたお小言がぜんぶ引っ込んでいってしまった。鼻から小さくため息をつき、弟の隣に腰を下ろす。隣同士で座ると、弟は白蓮より拳ひとつ分も目線が高い。

 

「今日は顔色がいいわね」

「うん、体も随分と楽だよ。このまま散歩に行ってこようかな」

「もう……」

 

 本当にそんな真似をしたら白蓮が右往左往の大騒ぎをすると、わかっていてこの男は言っているのだ。体が弱っても、今や精神が成熟しきる壮年の年頃であっても、こうやってすぐ姉をからかおうとする子どもっぽいところはあいかわらずだった。

 尋ねる。

 

「なにをしてたの?」

「んー……考え事。いろいろと」

 

 命蓮は両手を後ろにつき、空へ向けてゆっくりと胸を逸らす。

 

「最近よく、昔のことを思い出すんだよね……」

 

 目線が単に空を見上げるよりもずっと遠く凪いでいる。今や己の記憶だけに残された光景を偲び、そして悼むような一抹の寂しさを感じている。そんな瞳だった。

 

「……姉さんは、さ」

 

 口の端からこぼれるような、ひどく弱々しい声だった。

 

「覚えてる? ずっと昔、ぼくを助けてくれた妖怪がいたって話」

「……ええ、もちろん」

 

 白蓮がその話を聞かされたのは十年ほど前だから、弟にとってはもう二十年以上も遡るだろうか。

 山修行の途中で死にかけた弟を、助けて世話してくれた妖怪のこと。

 弟が出会った、ほんの数日間だけの『父上』のこと。

 あのとき弟が語ってくれた話は、今でもはっきりと白蓮の記憶に刻まれている。忘れられるわけがなかった。なぜならあれが、白蓮の見える世界を変えてくれたきっかけだったのだから。

 世の中にはたくさんの恐ろしい妖怪がおり――けれど怪我した子どもを助けてくれるような、争いを嫌う心優しい妖怪だっているのだと。

 

「正直、ちょっぴり羨ましいわ。……私、お父様のことはもうなにも覚えてないもの」

 

 母が命蓮を身籠って少し、自分はまだほとんど物心もついていない頃で、父はそれほどまでの早世だった。昔はおぼろげながら覚えていることもあったが、今ではすべて色褪せ、正直なところ父などはじめからいなかった感覚の方が強くなってしまっている。

 だからほんの数日だけであっても、父と呼べる誰かと出会い、話をして、世話をしてもらえた弟が羨ましく思えてしまうのだ。日頃からよくしてくれる近所の人たちは多くいるけれど、父親代わりというほどの誰かはいないし、そんなものを望めるような歳でももうなくなった。

 父、とは、一体どんなものなのだろう。

 

「……」

 

 弟が、錆ついた動きで背を丸めて俯いた。白蓮は首を傾げる。記憶にある限り、『あのひと』の話をするとき弟はいつも楽しそうにしていたはずだった。まるで子どもの頃へ返ったみたいに、白蓮が羨ましく思うくらいに。だが今の弟からはむしろ、唇の端をきつく噛むような慚愧(ざんき)に近い空気を感じた。

 予想外の言葉だった。

 

「……僕も、さ。あのひとのこと、もう覚えてないんだ」

「え、」

「いや、完全に忘れたわけじゃないよ。……でも、顔とか、声とか、言葉遣いとか。どんなに思い出そうとしても、影みたいになっちゃうんだ」

 

 はじめこそ胸を突かれた思いだったが、ほどなく白蓮の全身に急速な理解が広がった。

 そういうひとがいた、ということははっきりと覚えている。でも、どんなひとだったか、が段々と思い出せなくなってきている。

 白蓮が、そうやって父のことを忘れていってしまったように。

 

「いつからだったのかわからない。気がついたら思い出せなくなってた。思い出せないことにすら気づかなかった」

 

 膝に爪を立てながら吐露する、弟のその言葉は。

 

 

「――絶対に忘れたりしないって、心に誓ったはずだったのに」

 

 

 自分自身への、深い深い失望だった。

 

「自分で自分が許せないんだ。ぼくが忘れたら、あのひとは本当に(・・・・・・・・)いなくなってしまう(・・・・・・・・・)のに。なのにどうして、どうしてこんなことも覚えてられなかったんだろうって」

 

 あのひとを知っているのは弟だけで、弟の記憶こそが唯一あのひとが存在したことの証明だった。だから自分が忘れてしまったら、あのひとを覚えているのはもう誰もいない。それはもう、そんなひとなどいなかったということと、同義になってしまうのではないか。

 自分で自分に刻んだ誓いすら守れず、こうも呆気なく忘れてしまうというのなら。妖怪に誑かされていただけだという、仲間たちの心ない言葉を。

 認めてしまうことと、同じなのではないか――。

 

「考えすぎよ。顔が思い出せなくなっても、あのひとが命蓮を助けてくれたのは変わらないわ」

「……」

 

 枯れ枝のような弟の指先に、白蓮はそっと自分の手を重ねる。

 

「私はあなたから話を聞いただけで、あのひとに会ったことはないけど。でも、あのひとはそんなのきっと気にしないと思うわ。こんな体になるまで、あなたはずっとずっと頑張ってきたんだもの」

 

 人を救うために、仏の道に入ったのだろうと。

 あのひとはそう言って、名前も正体も告げず弟の前から消えたという。人のために生きろということだった。それが、あのひとが弟に願ったたったひとつのことだった。夢を後押しされた弟は一層ひたむきに修業へ打ち込み、名実ともに高僧たる地位まで登り詰めて、病に倒れるまでただただ人を救い続けた。

 最後まで自分を子ども扱いしていたあの父へ、どんなもんだと胸を張れるように。

 命すら燃やしたその生き様を理解しないようなひとなら、弟ははじめから『父上』なんて呼んだりはしない。

 

「……そうだといいけどね」

 

 だが弟は、力なく苦笑するだけだった。

 

「でもさ。本当にこれでよかったのかって、ときどき考えることがあるんだよ。というか、さっきまでまさに考えてた」

「よくないわけがないでしょう? たくさんの人たちの力になって、すごく立派なことじゃない」

「まあ、それはそれ、っていうかさ」

 

 また、遠い目をして空を見上げる。

 

「いろんな人たちの依頼を受けてきたから、その分いろんな妖怪を見てきたんだ。もちろん、人を困らせる悪いやつが大半だったけど」

 

 肩を落とし、

 

「……でも今になって思えば、なんの悪さもしてないのに、人の方が勝手に気味悪がって悪者扱いしてる妖怪もいた気がするんだ。そんな妖怪までぼくらは調伏した。それが依頼だったから。もしかしたら、ただ平和に生きたいだけの妖怪だったかもしれないのに――きっと、あのひとみたいに」

 

 妖怪は妖怪であるだけで人々にとって恐怖の対象だ。妖怪とはそういう存在なのだと子は大人たちから教えられ、故にそう信じて疑わずに育ってゆく。人は様々な(まじな)いを使って妖怪を退け、必要に迫られれば調伏だってする。妖怪は危険な存在で、生きるためには身を守らなければならない。だから弟のような才ある人間が、神仏の加護を得て力なき人々を守るのだ。

 しかし、

 

「誰かを助けることばかり躍起になって、大事なことを見落としてたんじゃないかって。そんなぼくを見たらあのひとはどう思うのかなって、考えてたんだ」

「……」

「実際悪い妖怪がいる以上、世界平和なんて無理だけど」

 

 その眼差しを細め、「もしも」の未来を思い描くように、

 

「でも、人だけじゃない。平和に生きたいと願っている妖怪だって、助けるべきだったんじゃないかってさ」

 

 どうしてぼくは、あのひとと出会ったのか。あのひとに命を救われた意味はなんだったのか。あのひとを知っているただ一人の人間だったぼくは、本当はどうやって生きるべきだったのか。どうしてあのひとは、最後の最後にぼくの背中を押したりなんてしたのか。

 問うたところで、答えはどこからも返ってこないけれど。

 

「――人と妖怪が、一緒に暮らせる場所があればよかったのに」

「……!」

 

 弟の小さな呟きは、どんなに大きな叫びよりも鮮烈に白蓮の胸を打った。それは白蓮が、何年も前から胸の奥でくすぶらせていた葛藤と同じだったからだ。

 弟の命を救ってくれた妖怪がいた。だから妖怪といってもただ恐ろしいだけの存在ではないのかもしれないと思い、今までとは違う目線で世界を見つめ直してみた。そして罪のない人々が妖怪によって襲われるように、罪のない妖怪が人間によって襲われることもあるのだと知った。

 おかしいと思った。人も妖怪もみながみな争いを望んでいるわけではないのに、どうして私たちは傷つけ合ってばかりなのかと。

 人も妖怪も関係ない。争いを望む者たちが、欲望のまま戦いに身を投じる場所があるのなら。

 争いを望まない者たちが、その願いのまま平和に生きていける場所だって、あっていいのではないか。

 そういう場所があれば、弟と『あのひと』だって一緒に暮らしていけたのではないかと。

 しかし、その想いを誰かに語る勇気はなかった。周りの人たちが妖怪をどういう存在と見なしているかは知っていたので、語ったところで理解などされないとわかっていた。夢として抱くにも理想として掲げるにも程遠い、夜の中を彷徨うような漠然とした感情でしかなかった。こんなことを考えるのはおかしいのかもしれないと自分でも思っていたし、だから弟にも話したことはなかった。

 

「命蓮」

 

 闇が晴れ、豁然と道が開けたのを感じた。

 

「だったら、私たちが創ればいいんじゃないかしら。人と妖怪が一緒に暮らせる場所を」

「……へ?」

 

 命蓮が目を白黒させた。

 

「私もおかしいって思ってたの。『あのひと』みたいに、人を助けてくれるような優しい妖怪だっているのに。なんで人と妖怪は、こんなにも相容れられないんだろうって」

 

 今でこそ白蓮と命蓮は一緒の家で暮らしているが、これまでは長らく離ればなれで、顔を合わせられるのは何年かに一度、弟が修行先から里帰りしたときだけだった。にもかかわらずこうして同じ想いを抱いていたのは、果たして単なる偶然に過ぎないのだろうか。

 なにか運命めいた不思議な力で導かれたように感じてしまうのは、自意識過剰というやつなのだろうか。

 

「ねえ、いいと思わない? きっと、そういう場所を願っている人は他にもいるはずだわ。だから創りましょう、私たちで。みんな平和に暮らせる場所を」

「……、」

 

 命蓮は何事か言いかけたが口を噤み、声を失ったように黙り込んでから、

 

「……それ、本気で言ってる?」

 

 茶化しているわけではなく、あくまで真剣な問い掛けだった。

 

「普通の考えじゃないのはわかってる。でも、それはあなたも一緒でしょう?」

「そういう場所があればいいとは、思ってるよ。でも、創ろうなんて考えたことはなかった」

「ほら、一緒。私だって、さっきあなたの言葉を聞くまではずっと迷ってた」

「落ち着いてよ。たまたま同じ意見だったからって、つい嬉しくなってるだけじゃないの? 口で言うのは簡単だけど、どれだけ途方もないことかわかってる?」

「国を変えようなんてつもりはないわ。ただ、この世界のどこか片隅にだけでも、そういう場所があったっていいと思わない?」

「……思うけど。思うけど、じゃあどうやってそんな場所創るつもりなのさ」

「わかんない」

「あのさあ……」

 

 命蓮はこめかみを押さえ、項垂れるほど大きなため息をついて、

 

「姉さんって馬鹿だよね」

「ば!?」

「一見利発そうに見えるのに、そういうとこは昔からぜんぜん変わってない」

「ど、どういう意味ーっ!?」

 

 暗に頭が幼稚だと言われた気がして白蓮は憤慨した。確かに、この歳になっても頭を使うのは得意じゃないけど。体を動かす方が好きだけど。でも昔みたいなはっちゃけ娘ではないし、女性らしい嗜みだって身につけたし、そもそも毎日ごはんを食べさせて看病してあげてるのは一体誰だと思っているのか。さては姉のありがたみがわかっていないのか、舐めているのか。

 これは姉の威厳を守るため一発拳骨かしら、うーんでも一応病人だしなあなどと悩んでいると、

 

「……でも、そんな風にまっすぐ物を言えるのは、ちょっとだけ羨ましいよ」

 

 弟は、再度のため息とともに白蓮から顔を背けた。

 白蓮の目を見返せなかった己に、自嘲するような口振りだった。

 

「ぼくは考えもしなかった――ううん、違うな。はじめから無理だって思って、考えることも諦めてたのかもしれない」

「……」

「人も妖怪も平和に暮らせる場所を、ぼくたちが創る……か」

 

 眦を細め、

 

「……どうやったら、そんな場所なんか創れるんだろうね」

「わからない。でも、手を伸ばすことはできるわ。一人じゃ無理でも、二人なら届くかもしれないでしょ?」

 

 白蓮はこっそり準備していた拳骨を解き、弟の弱々しい背を優しく撫ぜて。

 

「……だから体、早く治さないとね」

 

 勘弁してよ、と弟はようやく笑った。

 

「姉さんみたいな体力おばけじゃないんだから、ゆっくり休ませてってヴァッ」

 

 白蓮もまた笑い、今度こそゴチンと拳骨をかました。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――でも結局、そこから弟の体がよくなることはありませんでした」

 

 こんなにもたくさんのことを、誰かの前で切々と語ったのははじめてだった。自分のこと。弟のこと。そして『あのひと』のこと。一番本音を打ち明けやすかったナズーリンにも話していない、自分のすべてといっても過言ではないくらいたくさんのことを、白蓮はほんの昨日出会ったばかりの人間を相手にただただ語り続けた。

 頭上に古ぼけて黒ずんだ天蓋を戴き、寺の本堂で白蓮と一人の女が向かい合って座っている。固い正座で背筋を伸ばす白蓮とは対照的に、胡坐を掻いて背を曲げて、男みたいに座って耳を傾ける女がいる。長い黒髪を雑にまとめて、小袖に袴の巫女のような出で立ちをしている。

 本当に巫女というわけではない。しかし一方で、白蓮の説法を聞くためわざわざ山を登ってきた参拝客でもない。

 

 名は、神古しづく。

 町の人々から(こいねが)われ、白蓮を捕らえに来た――陰陽師。

 

 君のことを教えてと、彼女は言った。

 どうして、妖怪を助けるのか。

 どうして、あの妖怪を助けたのか。

 麓の町が襲われたのは、本意だったのか。

 これから一体、どうするつもりなのか。

 ぜんぶ、教えてと。

 だから、白蓮は語った。

 

「病は弟を蝕み続け、どんな薬も祈祷も甲斐がなく、どんどん衰弱していくばかりで。死んでしまっては元も子もないと、妖怪の力を借りて不老長寿の秘術に縋りました」

 

 もはやなにも隠さなかったし、なんの嘘もつかなかった。人を救い魔の脅威を説くはずの仏僧でありながら、人の理を外れ、人外の領域へ手を伸ばしたことも。

 妖怪の力を取り込むことで、人ならざる生命力を得る禁術――これならばきっと、弟を助けられると思っていた。

 

「……ですがそれすらも、弟を救うことはできなかった。術が、体に合わなかったんです」

 

 結局、弟の残された時間を更に削り取るという残酷な結果になってしまった。神仏の存在意義を疑わずにおれぬほど世の無情を恨んだのは、後にも先にもあのときだけだ。

 

「弟は、強く生まれることができなかった己を悔やみながら逝きました」

 

 体が弱い自分に、泣き言なんて一度も言ったことがなかったのに。

 もっともっと、生きたかったと。最後の最後であんな風に涙を流すなんて、卑怯にもほどがあると今でも心の底から思う。

 

「だから私は決めたんです。弟がいなくなっても、私が私たちの夢を叶えようって。それが、遠くへ逝ってしまった弟との最後の約束なんです」

 

 夢を抱いたのは、弟がいたから。

 そして夢を捨てられないのは、弟がいなくなってしまったからだ。

 

「私は故郷を捨て、若返りの術と、弟と同じ不老長寿の術へ手を伸ばしました。体がすでに衰え始めていて、このままでは約束を果たすまで持たないとわかっていましたから。どうしても死ぬわけにはいなかなかったんです」

 

 ある意味、弟と自分は似ているのかもしれない。人の力になりたいと願い仏門を叩いた弟は、『あのひと』の言葉に背を押されて己が理想を追い続けた。そして人も妖怪も平和に暮らせる場所が必要だと願う白蓮は、弟との約束に背を支えられて己が夢を追い続けてきた。

 一蹴されるかとも思ったが、しづくは穏やかな顔をして白蓮の吐露に耳を傾けてくれていた。少なくとも、白蓮がすべてを語り尽くすまではなにも言わず聞き続けるつもりのようだった。

 白蓮は深く、一度呼吸の間を置いた。

 

「……あの妖怪は、その身に(まじな)いを受けて痛ましいほどに衰弱していました。人間に襲われ、棲家を追われ、仲間も喪ったと。そういう妖怪を救うのが私の願いです。だから呪いを解きました。……復讐の悲しさも、説いた、つもりでした」

 

 膝へ、食い込むほどに爪を立て、

 

「ですが、私の判断は間違っていたのでしょう。あの妖怪を助けたのは私で、私が助けさえしなければ町が襲われることはなかった。そこに申し開きは一切ありません。……お前のせいだと、言われたとしても。私は、なにも言い返せません」

 

 肩を震わせ、眉間を歪め、歯を軋らせて、堰を切る言葉で、それでも、

 

「でも、それでも……! 私は、夢を捨てたくないっ……!!」

 

 それでも、どうしても、その想いを吐き出さずにはおれなかった。

 結局白蓮には、論理的な説得で理解を求めるなど無理な話だったのだ。自分にできるのはただ、感情のまま吐き出すことだけで。でも今の自分では、感情のまま叫んだところでロクな言葉は出てこなくて。

 誰かを恨みたいわけではない。自分が被害者だとは思わない。こんなの理不尽だと無責任に嘆くつもりもない。白蓮の心を埋め尽くすのは、どこまでも、どこまでも、『どうして』というそのたった一言だった。

 

「どうしてなんですか……!? 人と妖怪は、どうして……ッ!」

 

 こんなことを、彼女に問うたところで意味がないのはわかっている。しかし彼女が人を救い妖を退ける陰陽師だというのなら、この夢は抱いてはいけないものなのかと問いたかった。

 

 これからどうするつもりかなんて、そんなのこっちが教えてほしい。

 

 私は、どうすればいいんですか。

 一体どうすれば、夢を叶えられるんですか。

 一体どうすれば、命蓮との約束を果たせるんですか。

 無理なんですか。

 こんなのはじめから、願っちゃダメだったんですか。

 どうして、

 

「どうして……!!」

 

 ダメだ、と思った。これ以上感情を暴れさせては、きっと白蓮は押し潰されておかしくなってしまう。唇を噛んでそこから先の「どうして」を抑え込み、目の前の少女――神古しづくの言葉を一心に待った。

 

「……なるほどねえ」

 

 答えを乞われたしづくは胡坐の足首を両手で掴み、体を前後へ揺すった。

 

「そういうことだったんだね」

「……はい」

 

 白蓮は強く唇を引いたまま頷く。しづくもまたひとつ頷き、至極真面目らしい顔つきをすると、唸るように腕組みをして言った。

 

「――てっきり同い年くらいかと思ってたけど、私らって下手すりゃ孫くらい歳離れてたんだね。やべーぞこれは」

「へ、」

「なるほどなー、不老長寿の術かー。それ使えば生涯現役じゃん、おばあちゃんになってもつるつるぴちぴちじゃん。いいなあ、私もかじってみよっかなー」

「……え、えっと、」

「……まあ、ってのはさすがに冗談だけどさ」

 

 反応が追いつかない白蓮へ愛嬌のある苦笑を向け、

 

「死んだ弟との約束、か。薄々予想はしてたけど、こりゃ相当なワケありだねえ。参ったなあ」

「……」

 

 君がある種の邪な思想を以て妖怪に加担するのなら、なにも迷うことはなかったのに――きっと、そういう意味なのだと思った。

 

「ほんと、参ったなあ……」

 

 しづくは顔をしかめ、うなじのあたりを荒っぽく掻くと、いきなり白蓮に向けて深く頭を下げた。

 

「ごめんなさい。元はといえばこれ、完全に私のせいだ」

「え……」

「あの妖怪、私が退治し損ねたやつなんだ。一匹だけ逃がしちゃって……でもあの呪いなら永くは持たないから、まあ大丈夫だろうって」

 

 白蓮は無理に反応しようとせず、しづくの言葉を理解することに全神経を注ぐ。

 

「あの妖怪、窮奇っていってね。最近この国に入ってきたばっかだからほとんど名は知られてないんだけど、一言で言っちゃえば悪い妖怪ってやつで、あれこれやらかしてくれちゃってるわけ。だから……そういう(・・・・)依頼が私たちのとこにも来て、それで、ね」

 

 ――あの妖怪は元々、私が依頼で退治するはずの相手だった。でも逃げられてしまって、それを偶然君が助けてしまった。だから私がちゃんと一匹残らず退治していれば、そもそも君があの妖怪と出会うことはなくなって、今まで通りのなにも変わらない日常が続いていたはずなのに。

 そう言っていた。

 ……それは白蓮も、可能性としてはそうなのかもしれないと思った。けれど頷くことはできなかった。あの妖怪が、はじめから彼女に退治されているべきだったのか。こうして裏切られてもなお、白蓮には咄嗟に答えが出せなかった。

 

「……でも、考えようによっちゃこれでよかったのかな。知らない場所で知らないまま終わっちゃうよりは、ずっと」

「え?」

「んにゃ、こっちの話」

 

 しづくの鹿爪らしい佇まいは、すぐに鳴りを潜めた。

 

「でも、白蓮はすごいねえ。確かにみんな平和に暮らせればそれが一番だけど、そういう場所を創ってやろうって実際に行動できる人なんていやしないよ。普通はみんな口だけさ」

 

 予想外の称賛に一瞬面食らったが、自分は褒められるに値する人間ではないとすぐさま思い直す。

 

「……口先だけなのは私も一緒です。このような取り返しのつかない結果になってしまうんですから」

「それは仕方ないよ。さっきも言ったけど、あの妖怪はこの国じゃまだほとんど名が知られてない。どうせ君の前じゃ一見物分わりがいいようなふりしてて、悪い妖怪には見えなかったでしょ。そういうことを平気でやるやつなんだ」

「仕方ない、では町のみんなは納得しません」

 

 しづくが、見定めるような(まなこ)で白蓮を捉えた。

 

「納得してもらう、つもりなんだね」

 

 あくまで純粋な問い掛けを、白蓮は肯定も否定もできない。しかし言葉は続ける。

 

「納得してもらえるなんて、虫のいいことを考えているわけじゃありません。普通に考えれば、この期に及んでは無理なのだとも思います。でも、」

 

 教えてほしかった。

 

「……それでも、夢を捨てたくないと思ってしまう私は。愚か、なのでしょうか」

 

 この夢は、抱いてはいけないものだったのか。叶えられるはずのない絵空事だったのか。人と妖怪はいがみ合いながら生きていく他なく、負の連鎖を断ち切ることなどできないのか。

 そして、

 

「弟が出会った妖怪は。弟が過ごしたあの数日は。……幻想、だったのでしょうか」

 

 決して忘れないと己に誓ったはずの弟は、しかし周りの仲間たちからことごとく否定され続けたせいで、最後は自分でも自分の記憶を信じられなくなってしまった。『あのひと』は本当に、『あのひと』だったのだろうかと。

 白蓮の世界を変えるきっかけとなってくれたあの出会いに、一体なんの意味があったのだろう。

 あれが幻想だったというのなら、死に逝く弟と交わした最後の約束に、一体なんの意味があるというのだろう。

 私はなんのために今まで歩いてきて、なんのために今ここに立っているのですか。

 その答えを、誰でもいいから教えてほしかった。

 

「……」

 

 こんなことを訊かれても迷惑なだけだったろうに、しづくは不快そうな素振りひとつ見せず、長閑な日差しが注ぐ本堂の外へゆっくりと目を配った。

 遠い遠い記憶を(ひもと)くような、凪いだ眼差しをしていた。

 

「……ねえ。弟さんを助けてくれたその妖怪って、どんなひと?」

「……詳しくはなにもわかりません。最後まで、弟には名前も教えなかったそうですから」

 

 名前はもちろん、鬼なのか天狗なのか、はたまた狸なのか狐なのかそれ以外なのかもわからない。霊山の奥地を住処にする妖怪ならば、天狗に違いあるまいと弟の仲間たちは口を揃えていたようだが。

 

「子どもだった弟が『父親ができたみたいだった』と感じたそうなので、人間に姿が近い男の方だと思います。それと陰陽術に精通していて、弟にいくらか手解きをしてくれました。あとは、元はあちこちを旅していたとか……ただ、それは人間のふりをするための嘘かもしれませんけど」

「ふうん……」

 

 一見気のない相槌のあとに、なにか心を固めるような余韻があった。

 

「――やっぱりこれって、運命ってやつなのかもね」

「……え?」

「ね。今度は私の話を聞いてくれる?」

 

 はあ、と白蓮は生返事をする。いや、それよりも、直前に口ずさんだ「運命」って一体なんのことで

 

 

「私のご先祖様って、妖怪の友達だったらしいんだ」

 

 

 世界が止まった、気がした。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 まるで弟から、はじめて『あのひと』の話を聞かされたときのような。

 そんな時間だった。かつてある妖怪が、人に化けて弟の父親代わりとなったように。それはある妖怪が、人に化けて人の京に紛れ、しづくのご先祖様とかけがえのない――最後には人と妖怪故の別れが訪れたけれど、それでも決して色褪せることのなかった――友誼を結んだ話だった。

 何百年も昔である分、話はどうしても断片的ではあったが。それでも彼女のご先祖様が、その妖怪と本当に良き関係を築いていたのだけははっきりと伝わってきた。

 陰陽術のいろはを教わったこと。

 そいつが仲を取り持ったのもあって、この上ない良妻に恵まれたこと。

 なにからなにまで世話になったこと。

 恩人であったこと。

 最後は人間として、死という形を持ってご先祖様の前から消えていったこと。

 そして、何年も後にひょんなことからそれが芝居だったと知ったが、ご先祖様はその妖怪を決して恨まず、最後まで人々のために生き抜いたこと。

 

「その妖怪が、『人を救って生きろ』って言い遺したらしくてさ。それが今でもウチの家訓というか、この仕事やる上での信念みたいなもんになってるわけ」

「そうなんですね……」

 

 己の立場も時間の経過もすっかり忘れ、白蓮はあの頃に時が戻った思いでのめり込むように耳を傾けた。楽しかった。胸が躍った。片や弟、片や遠い遠いご先祖様という違いはあれど、自分と似たような身内を持つ人間とこうやって話ができたのなんてはじめてで、なんだか夢を見ているみたいだった。

 

「人間に相当上手く化けられるし、陰陽術にも詳しいし、ご先祖様と友達だったくらいなら、怪我した子どもを助けるくらいはしそうだよね。……ひょっとしたら、君の弟さんを助けたのと同じ妖怪だったりするのかも」

「ええ……本当に……」

 

 なんの確証もないけれど、そうだったらいいなと白蓮は思った。だってそれなら『あのひと』は確かにいたのだと、弟に証明できるような気がしたから。

 

「――とそんな感じで、ウチの家系で代々語り継がれてる秘伝のお話さ。話すのは君が二人目だけど」

「……貴重なお話、本当にありがとうございました」

 

 頭を下げる白蓮にしづくは笑い、

 

「そう考えると私らって案外似た者同士らしいし、これも運命の巡り合わせってやつなのかなあと考えなくもないわけですよ。……だから余計に思うのさ。もっと違う形で会えればよかったのにって」

「……」

 

 もしも、自分たちの出会いがもっと違っていたら。

 どうなっていたのだろう。しづくは人間を救う陰陽師で、白蓮は妖怪こそを救いたいと願う尼僧だけれど。あまりに違いすぎる生き方だけれど。それでも同じ妖怪に身内を助けられた者同士、ひょっとすると手を取り合って歩んでゆくこともできたのだろうか。

 しづくのどこか締まり切らない佇まいが、波が引くように消えていく。白蓮の背後に向かって流れる風が、そよ風と呼ぶには冷たすぎる圧を帯びたのがわかった。

 最後の問いだった。

 

「――さて、確認だ。君はこれからどうするつもりなのか。今の生き方を、変えるつもりはないんだね?」

「……はい」

 

 しづくの透明な瞳を、白蓮は逃げずに見返した。

 

「しづくさん、私を町に行かせてください。隙を見て逃げたりはしません、なんだったら私を縛ってくれても構いません。どうか、町のみんなと話をさせてください」

 

 わずかに――本当にわずかに、しづくがこらえるように眉を歪めたのだと、そのとき白蓮は気づかなかった。

 

「……今のみんなが、君のことをなんて呼んでるか知ってる?」

「はい。『悪魔』、ですよね」

「そう。……それでも?」

「はい」

 

 逃げてはいけない道だ。

 

「元々そのつもりでしたけど、あなたとお話できて心が決まりました。私……私、やっぱり諦めたくありません」

「……」

 

 この期に及んで浅ましいかもしれない。愚かかもしれない。けれど白蓮は、生きられなかった弟のためにもどうしても夢を捨てたくない。星、ナズーリン、ムラサ、一輪、雲山――待ってくれているみんなのためにもどうしても終わりたくない。自分から諦めるのは絶対に嫌だ。だからこうして最後の問いを突きつけられるのなら、もう足掻けるだけ足掻くしかないのだ。

 それだけで、あとはみんながすべてを決めてくれる。

 なんだか不思議だ。あれだけ巣食っていた恐怖や後悔は露と消え、今はただただ心が澄んでいくのだけを感じる。たとえ町のみんなを前にしても、悪魔と罵られたとしても、伝えたいことを伝えたいままに伝えられる気がする。

 もしかすると、一種の悟りみたいなものだったのかもしれない。

 

「しづくさんは、私を捕らえて町に引き出すために来たんですよね? だから、行きましょう」

「…………」

 

 しづくは要領の得ない吐息とともに目を伏せ、口の端を捻じ曲げるようにして笑った。

 

「参ったなあ。そんな、憑き物が落ちたみたいな顔して言うかいね」

「そんな顔してます?」

「うん。……やっぱり、君はそうするんだね」

 

 それから、小さく、

 

「……私も、心が決まったよ」

「……?」

 

 袖の奥に手を入れ、なにかを取り出した。

 札だった。

 あれで私を捕まえるのかしら、陰陽師ってそんなこともできるんだなあと白蓮は呑気にその様子を見つめ、

 

「――ほんと、私たちだけで来て正解だった」

 

 しづくが札から手を離す。そしてひらひらと舞い落ちた紙片が床に降りた瞬間、光と風が生まれた。光は視界が潰れるほど強く、風は髪がはためくほど強く、どちらも足元から天へ流れゆくように。ほんの数拍程度の時間であり、治まったとき白蓮が目を開けると、本堂全域を掌握する淡い光の陣が顕現していた。

 光の中、しづくが立ち上がっていた。

 

「しづく、さん?」

「ごめんね、白蓮」

 

 謝罪の言葉こそ穏やかだったが、白蓮を見下ろす眼差しにはどこか俯瞰的な寂しさがあった。

 

「今までの話、ぜんぶ時間稼ぎなんだ」

「え、」

「お寺の周りに私たちの仲間がいて、この陣の仕込みをしてた。結構大掛かりなやつだからすぐにはできなくてね。そのための時間稼ぎ」

 

 なんで、という問いが頭に浮かぶ。なんで、そんなことをするのか。しづくは人々に依頼され白蓮を捕らえに来て、白蓮はしづくに従って町まで行くつもりなのだ。逃げるつもりはない。心配なら両腕を縄かなにかで縛りでもすればいい。だから、こんな大仰な陣なんて必要ないはずなのに。

 どうして、時間稼ぎが必要だったのか。

 どうして、こんなものが必要なのか。

 まさか、彼女は、

 

「白蓮。勝手で、悪いけど」

 

 まさか、

 

 

「私はここで、君を封印する」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「……動いたか」

 

 本堂の外まで立ち上がる黄金色の光に、山伏は厳つい面構えのまますっと目を細めた。

 寺の敷地の外で屹立する、呆れるほど背の高い大樹の上だった。本堂の屋根より更に高いその位置で、人間の胴体みたいな枝を足場にして立つ男の姿は、人が見ればすわ物の怪の類と戦慄するだろうほどまさしく天狗めいていた。

 山伏はふむとひとつ鼻息をつく。陣の仕込みが整ってからやや待たされはしたが、とうとう動き出したようだ。見下ろせば山伏の部下が寺を包囲し、光り輝く陣へ力を供給する姿も見て取れる。

 

「ようやく腹が決まったらしいな」

 

 それしか聖白蓮を救う方法がないのだから、迷う道理などないだろうに。

 まあ、無理もないのかもしれない。たとえ救うためとはいえ、人を、己と同年代くらいの女を封印するなんて。神古しづくにとっては。

 

 しづくの未来を見る能力によれば、聖白蓮はそう遠くないうちに志半ばで非業の死を遂げるらしい。

 

 聖白蓮が命を落とす瞬間を、いっそ見慣れてしまうほど繰り返し夢に見たのだ。具体的な死期や死因はまちまちだったが、何度夢を見てもそれだけは決して変わらない未来だった。人を救え、という家訓のもとで生きるしづくにとって反吐が出るほどの悪夢だったろう。

 だからこそ昨晩見た『聖白蓮を生かすことのできる未来』は、しづくにとって仏の導きにも等しい救いだったはず。

 迷いこそすれ、最後には必ず縋る。

 そして縋ったにもかかわらず、恐らくは最期までその選択を悔やみ続ける。

 そういう人間なのだ、神古しづくは。未来が見えるといえば聖人めいて聞こえるが、だからこそ彼女は人並みに迷い、人並みに苦しんで生きている。

 

「まこと、難儀な女童(めらわ)よ」

 

 喉で震えるように低く笑い、山伏は枝にのそりと腰を下ろす。

 首を突っ込む真似はしない。聖白蓮とやらがどうなろうと、山伏にはまったく与り知らぬこと。己が待つのはただ、山を登る途中でしづくから聞かされた未来。

 ――夕暮れ頃に仲間の妖怪が戻ってくるから、そいつらもまとめて封印する。そんときはヨロシクね。

 望むところだ。

 神古しづくが人を救い、聖白蓮が妖怪を救うように。妖怪を斬り伏せ、剣の道をより高みへ登り詰めることこそが、己の生きる道なのだから。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 しづくが思っていたほど、聖白蓮は取り乱さなかった。だが冷静だったわけではなかった。耳を澄ませば彼女の心臓の音だって聞こえてきそうで、それほどの焦燥と惑乱の渦中であってもなお、頭の中が真っ白でなにも反応できないでいるのだと思った。

 見ず知らずの異国に、突然独りぼっちで放り出されたような。

 そんな顔をしていた。

 

「白蓮」

 

 しづくがそっと呼びかけると、白蓮は幼すぎるほど肩を震わせて、まるでしゃっくりみたいに拙く息を吸った。

 無理もない。なんの脈絡もなくいきなり、お前を封印するなどと言われれば。

 聖白蓮は、善人だった。

 そして、ただの善人に過ぎなかった。

 不老長寿の術の力で見た目以上に長生きしていても、彼女はなんの特別な力も持たない少女だったのだ。夢を手繰り寄せるだけの並外れた辣腕を持つわけでもなく、その背中で妖怪すらも畏怖させる大器というわけでもない。最大限の誇張を交えて表現したとしても、聖白蓮は「聖人のように心優しい善人」であり、しかし決して聖人ではなく、だからこそ人間と妖怪の共存を望む夢は紛れもない本物だった。

 白蓮を助ける方法は二つあって、そのうちのひとつが彼女に夢を諦めさせることだった。結局のところ彼女が志半ばで命を落とすのは、夢を追いかけてしまうからだ。種族によらない平和を願うその夢はとても優しく、けれど彼女は夢を叶えるにはあまりに優しすぎた。彼女の進む道はいつか必ずどこかで破綻し、人間たちに決して望まない形で露見して、裏切りという感情を以て為す術もなく排斥されるようになる。事実今がそうなってしまった――が、すべてが手遅れになってしまったわけではない。

 夢を捨て、今後一切妖怪には関わらないと誓えば、多少の罰はあれど余生を穏やかに過ごす程度はできるだろう。自分の立場と人脈を使えば、それくらいの手助けは充分にしてやれるはずだった。

 だというのに、ああ、こんなの卑怯すぎるよとしづくは思う。

 白蓮の夢はただの理想ではなく、死に別れた弟との最後の最後の約束で。それを捨てるのは、きっと自分が築き上げてきたものをすべて破壊し、自ら命を絶つのと同じことで。

 

 ――私を、町のみんなに会わせてください。

 

 あんなに澄み渡った顔をしてそんなことを言うなんて、本当に卑怯すぎると思う。

 ご先祖様が妖怪の親友だった自分。弟が妖怪を父と慕っていた白蓮。お互い、なんだか似た者同士だからこそ。

 言えない。

 そんな夢捨てちゃえなんて、しづくには言えない。

 だから白蓮が、最悪の結果を覚悟してなお夢を追い続けるというのなら。

 

「――白蓮はさ、未来が見える力って信じる?」

「……、」

「私が実はそんな力を持ってて、結構前から君が死んじゃう未来を見ていたとしたら。このまま君を行かせても、最悪の結果になるだけだとしたら。その未来を唯一変えられるのが、ここで君を封印することだとしたら――信じる?」

 

 答えはなく、白蓮の瞳だけがぐらぐらとあてどなく揺れている。

 信じられまい。しづくが白蓮の立場だったらまず信じない。だが、信じてもらえなくたって構いやしない。

 

「夢を見たんだ。つい昨日の夜。君を封印する夢。そして君を封印したあとの、どれくらい先かもわからない未来の夢」

 

 しづくが能力で見る夢は十中八九悪い未来だが、まれに、本当にごくまれに、そう悪くはない未来を見せてもらえるときがある。

 それが、昨夜の夢だった。例によって断片的で不鮮明な夢ではあったが、それは確かに白蓮が救われる未来だった。

 

「――あれは、人と妖怪が一緒に暮らす世界だった」

 

 見えたのは、どこかの大きなお屋敷だった。雪化粧のように白い壁で、三階建てで、庭だって呆れるほどに広いそれはそれは大層な豪邸だった。

 人が訪れ、妖怪が訪れ、争うことなく同じ時間を共有している場所だった。

 

「人と妖怪が、同じ場所で笑ってた」

 

 たとえ不鮮明な夢でも、そこにある暖かな感情は充分すぎるほどに伝わってきた。

 

「そこの人たちと協力して、君の仲間が封印を解きに来てくれる夢だったんだ」

 

 人と妖怪が力を合わせて、たった一人の人間のために。今の世が今の世である限り、あんな世界を創ることができるなんて到底思えない。だからきっと、何年も何十年も、ひょっとしたら何百年も先の、世界のあり方が変わってしまうくらいの遠い未来の光景だったのかもしれない。

 でも、それでも、白蓮が死して救われぬ未来と、生きて救われる未来があるというのなら――。

 

 

「――封印から解かれた君も、その世界で笑ってたよ」

 

 

 白蓮が、揺らいだ。

 それはきっと、白蓮の心の一番深いところが鼓動を打つ、揺らぎだったのだと思う。

 

「人にも、妖怪にも囲まれて。これって、君の願いが叶うってことだよね」

 

 この選択が正しいのかどうかはわからない。しづくの未来視は今まで外れたことがないけれど、それはあくまで今までの話であり、今回も絶対に外れないという保証はどこにもない。白蓮が死ぬ未来だって、生きる未来だって、どちらを選んでも外れる可能性は等しく存在すると言わざるを得ない。

 

 しづくが余計な真似をしなくても、白蓮は自分の力で未来を切り拓いてしまうのかもしれない。

 でも、夢の通りになってしまうかもしれない。

 

 ここでしづくが封印を選んだところで、白蓮が本当に未来で幸せになれるとは限らない。

 でも、夢の通りになってくれるかもしれない。

 

 なにが正しいのかなんて、もう誰にもわからない。

 だからあとは、お互いの想いのぶつかり合いなのだ。

 

「だから私は、君を封印する」

 

 白蓮の夢は理解できるし、共感だってしたい。けれど応援はできない。自分はきっと、白蓮よりも少しだけ、悪意ある妖怪たちを数多く見てきてしまったから。人と妖怪の共存は、それこそ、その気になれば世界の理すら捻じ曲げてしまう強大な力がなければ成し遂げられないことなのだ。自分たちのようなただの小娘が目指したところで、悲しい目に遭う誰かを徒に増やしてしまうだけなのだ。

 

「このまま君を行かせても、私は、君の夢が叶う時が来るとは思えない」

「っ……」

「でもそれは、白蓮が悪いわけじゃない。今の時代が、夢を追うには悪すぎるんだよ。君だって薄々わかってるはずだ」

 

 答えは返ってこない。白蓮が俯き歯を食いしばる沈黙を、しづくは肯定と受け取った。

 

「それでも君が、同じ道を貫くつもりだっていうなら。私個人として君を止めたいし、みんなから依頼を受けた陰陽師として、君を止めないといけない」

 

 だからひとつ、息を以て、

 

「……私が君を封印する理由は、これでぜんぶ」

 

 しづくが語りを止めれば、本堂には風の流れる音だけが満ちていく。白蓮は長い間、俯き口を閉ざし続けていた。こんな荒唐無稽な話を、彼女は一生懸命に信じようとしてくれていた。しづくが見た未来をなにひとつ疑わず、真剣に受け止めようとして迷い苦しむ人なんて、この少女が生まれてはじめてであるはずだった。

 本当に、優しい人なのだ。

 

「……ズルいです」

 

 はじめは風の音にも負け、聞き間違いかと思うくらい小さな声だった。

 

「ズルいですよ」

 

 今度は、聞き取れた。

 震えていた。

 

「そんなの、ズルすぎます」

 

 こぼれる声も、張り詰めた肩も、膝の上に皺を刻む拳も。ずっと頑張って支え続けてきたものが、どうしようもない限界まで崩れかけているように。

 叫んだ。

 

「そんな、そんな優しい顔して言わないでください!! だって、私、そんなの……!! そんなこと言われたら、もう、もう……! どうすればいいのか、わからないじゃないですか……ッ!!」

 

 悲鳴のような言葉でも、それでも白蓮は泣いていなかった。今にも泣きそうな顔をしているのに、心の奥では泣いていたはずなのに、涙だけがいつまで経っても流れなくて、まるで泣けない(のろ)いにかかっているみたいだった。

 しづくは、微笑んで答えた。

 

「そうだね。どうすればいいのかなんて、私もわかんない。だから私は、私がやりたいようにやるよ」

 

 正直な気持ちだ。

 

「私は、未来で白蓮が、あんな風に笑えるんだったら。君に恨まれるくらい、ぜんぜん屁でもないって思うから」

 

 白蓮が、顔を両手で覆った。

 いっそ理不尽ですらあっただろう。悔しいわけではない、悲しいわけでもない、辛いわけでもない、なのにどうしようもなく大声で泣いてしまいたいような、言葉にならない感情で埋め尽くされ、ただただ胸が苦しくて、どうしたらいいのかなんてもうなにもわからなくて。

 だから、しづくがこの手で終わらせるのだ。

 そうすれば、ぜんぶ「しづくのせい」で済むのだから。

 

「……じゃあ、始めるよ」

 

 白蓮は答えなかったが、代わりに抵抗もしなかった。頭の中がぐちゃぐちゃで、彼女はもはや抵抗という選択ができるほど正常な状態ではなかったのだ。

 両手を解き、縋りつくように顔を上げて。

 泣きそうなまま、声をよじった。

 

「――少しだけ、時間をください」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 もうなにもわからなかった。どうしたらいいのかも、どうするべきなのかも、もうなにも。思考回路の水底でとめどない自問の渦に絡み取られ、いつまで経ってもまともな意識を取り戻せぬまま、気がつけば白蓮はひとつの桐箱を抱えて陣の中央に座り込んでいた。だから、あああなた(わたし)はそうするのね、と白蓮はぼんやり思った。

 出会ったのはつい昨日の話で、今日このときになってようやく名前を知ったばかり。そんな人間に今、白蓮は言われるがまま大人しく封印されようとしている。自分の未来をすべて委ねてしまおうとしている。本当に信頼できる相手なのかもわからないのに。必ず帰ると約束したのに。

 人と妖怪の共存が叶った世界。ここで封印され、いつか訪れるその未来まで生き延びることで白蓮の願いは叶う――そんなの、白蓮を都合よく言いくるめるための嘘かもしれない。否、普通なら嘘と考えるのが当然のはずだった。

 荒唐無稽すぎて、信じる方がどうかしている。

 なのに白蓮は、信じようとしている。

 

(命蓮――……)

 

 背を曲げ、包み込むように桐箱を抱き締める。すっかり小さく軽く変わり果てて、今はもうその存在を感じることはできないけれど。

 命蓮、わたし、どうすればいいのかな。

 どうすればよかったのかな。

 命蓮だったら、私よりもっともっと上手くやれたのかな。

 なんでわたしって、こんなに上手くやれないのかな。

 きっと、みんなに怒られちゃうよね――。

 

「――白蓮? 白蓮、大丈夫? ……って、そんなわけないか」

 

 顔を上げる。しづくが目の前で膝を折り、こちらに目線を合わせている。

 やっぱり、穏やかな顔をしている。

 

「恨んでいいよ。私のこと」

 

 ぐちゃぐちゃになって悲鳴を上げる頭では、頷くことも首を振ることもできない。

 しづくが立ち上がり、床をなぞるような足取りで静かに陣の中央から離れていく。小袖に覆われた彼女の背はとても年下とは思えぬほど大きく、そして随分と擦り切れて見えた。それは、彼女のような若者にできる背ではなかった。数え切れないほどの傷が刻まれ、癒えきらず固く強張ってしまったような風格――人並みどころかそれ以上に迷い、苦しみ、土を爪で抉りながら生きてきた人間の背中だった。

 だから白蓮はふと、この人は今までどんな人生を歩んできたんだろう、と考えた。未来を夢見る力。彼女は今まで、一体どんな未来を見ながら生きてきたのだろう。字面だけだと神様のような力に思えるけれど、本当にそうなのだろうか。

 もしかして彼女は今までも、誰かが死ぬ未来を夢見てきたのではないか。

 夢見てしまった未来をなんとかして覆そうと、足掻きながら生きてきたたった一人の少女なのではないか。

 白蓮なんかよりもよっぽど辛い思いをして、だからこそこんなにも擦り切れた背中をしているのではないか――。

 

「っ…………! ぅ、ッ……!」

 

 言葉が、答えが、出ない。心の中はこんなにも、痛くて苦しい想いであふれているのに。もうなんだって構わないから、身が切れるほどどうしようもなく叫んでしまいたいのに。今まで生きてきた人生で一番、白蓮は大声で泣きたかったはずなのに。

 わたしは。

 わたしは、

 

「――白蓮」

 

 しづくが、振り返る。

 

「必ず、迎えに行くよ。そのときに私が生きてても、生きてなくても。約束する」

 

 だから、と続ける。

 

「私は、信じてる。次に目が覚めたら、あの世界できっと君が救われるって」

 

 陣に再び光が満ち、白蓮の世界を天へ真っ白く染め上げていく。立ち上がる風がそっと、白蓮の頬を慈しむように撫ぜていく。誰かが抱き締めてくれるような優しい熱が、白蓮の体を包み込んでいく。

 私は、信じてる――そう、繰り返す。

 

「君を救ってくれる、あの妖怪が」

 

 しづくの姿は、もうほとんどが光に遮られて消えてしまっていたけれど。

 ああ、それでも、わたしにははっきりと見えたのだ。

 はじめて出会ったときと同じ――にへら、と、人懐こい笑顔が。

 

 

「――きっと、君の弟さんを助けてくれた、『あのひと』なんだって」

 

 

 ほんの、ひとしずくだけ。

 やっと、涙を流せた、気がした。

 

「――待ってます」

 

 上手く笑えたはずはなかったけれど、それでも白蓮は精一杯に笑おうとした。

 笑おうと、したのだ。

 

「待ってます、から……!! きっと……!! きっと……っ!!」

 

 叫んだときにはもう、なにも見えない。なにも聞こえない。

 

 白。

 それがこの世界で白蓮に刻まれている、最後の景色だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今となっては遠い遠い昔――弟がまだ生きていて、けれど病が取り返しのつかないところまで進行し、もはや最期の時を静かに待つしかなくなった頃。

 

『ねえ、姉さん。ひとつ頼んで……いや。託しても、いいかな』

 

 弟は、すっかりくたびれて掠れた声になってしまっていた。修行で鍛えた体もまた弱りきり、自分で起き上がるのも思うようにできなくなっていた。

 

『姉さん一人で上手くやってけるかどうか、ぼくは実に、ひっじょーに、ものすごーく不安で仕方ないわけだけどさ』

 

 それでも最後の最後まで、減らず口だけはちっとも直らない弟だった。

 そんな弟は、旅立つ前に白蓮へひとつの願いを託した。

 白蓮が不老長寿と若返りに手を出してまで生に縋りつき、夢を追い続けるようになった最期の――もうひとつの、約束。

 

『もし、本当に夢が叶って。もし、本当に、あのひとが来てくれたら――』

 

 解けそうな白蓮の心をつなぎとめる、大切な誓い。

 

『――あのひとの傍に、ぼくを埋めて』

 

 白蓮でもこうして簡単に抱えてしまえるくらい、今はもう小さな姿になってしまったけれど。

 命蓮はまだ、ここ(・・)で眠っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――名前を呼ばれた気がした。

 この闇の中に封印されてからは、数え切れないほど繰り返してきた幻聴だった。声の主はそのときによって様々で、大半はしづくや星やナズーリンであり、ときにはムラサや一輪であったり、ひどいときには弟であったりすることもあった。

 

『聖! 聖っ!』

 

 今回は、どうやら星の声みたいだ。

 星はあのあとどうしたのかな、と白蓮は思う。白蓮を信じて待ち続けて、けれどその想いがすべて無駄に終わったことを知ったとき、彼女の心は一体どれほどの失意に呑まれただろう。それは悲しみかもしれないし、或いは約束を果たさなかった白蓮への怒りだったかもしれない。ムラサたちだってそうだ。なにも言わないまま目の前から消えてしまった白蓮を、もしかすると彼女たちは恨んだのだろうか。

 何度も考えてきたことだ。

 自分は今でも、彼女たちに名を呼んでもらえるほどの存在なのだろうか。とっくの昔に見切りをつけられ、もう忘れられてしまっているのではないか。白蓮よりずっとずっと頼りになる新しい主人を見つけて、自分が戻る場所なんてもうなくなってしまったのではないか。

 だから、またみんなでやり直していきたいと願ってしまうのは。彼女たちを裏切った身の程を弁えない、傲慢な望みなのかもしれないと。

 

『聖っ! 起きてください、聖ッ!』

 

 なのに白蓮を呼ぶ星の声はちっとも消えないし、それどころかどんどん強くなって耳朶を打ってくる。まるで、本当に目と鼻の先で呼ばれているみたいだった。そうならどれほどよかっただろうと思った。けれど己の意識を満たすのは変わらない闇であり、要するに封印は未だ解かれていないのであり、目覚めはまだ先だと、この孤独な贖いはまだまだ続くのだと深淵の底から白蓮に告げるのだ。

 首を振った。

 眠ろう。期待を抱いて待てば待つほど、辛くなるだけなのだから。

 そして白蓮はゆっくりと、身を委ねて水の中へ沈んでいくように、意識を闇の底まで手放

 

「ひじりいいいいいいいいいいぃぃぃぃぃッ!!」

「ふみゃみゃみゃみゃみゃ!?」

 

 激痛。

 

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「いひゃぁい!? ……………………はえ?」

 

 頬をこっ酷く抓られて(・・・・・・・・・・)白蓮は飛び起きていた(・・・・・・・・・・)

 その事実がどういう意味なのか咄嗟に理解できず、魂が抜けたみたいに呆けた。闇の中ではない、そこは光と色がある世界だった。いの一番に認識できたのは、整然と敷かれたどこか飴色の床板の上に、封印されたときそのままの恰好で座り込んでいる自分だった。

 まだ、なにがなんだかわからない。

 

「ひ、ひじり、」

 

 振り向いた。名を呼ばれたからという意識はなく、単に音が聞こえた方を向いただけの無意識の反応だった。まるでついさっきまで白蓮を膝枕していたみたいに、畏まった正座で座っている少女がいた。

 星。

 視界が一気に覚醒した。一足飛びで再起動した脳が五感から一斉に情報を取り込み始める。星の肩越しにもう一人――ナズーリン。向かい合うようにもう二人――ムラサと一輪。そして一輪の肩のあたりには雲山の顔。なんだかみんな、眠る白蓮を囲んで必死に呼びかけてくれていたみたいで――

 違う。「みたい」ではない。右の頬に残るじんじんとした痛みと熱さは、決して勘違いなどではない。

 つまり、これは、

 本当に、

 

「……みん、な?」

「ひじり゛いいいいいぃぃぃぃぃっ!!」

「うひゃ!?」

 

 瞬間、顔中完膚なきまでぼろぼろになったムラサが両脚をバネにして突進してきた。あまりの勢いに押し倒されかけるが根性で耐え、

 

「ム、ムラサ? ちょ、落ち着いて」

「うるさい!!」

 

 予想外の大喝に思わず怯む。昔のままのムラサなら、白蓮に対しては絶対に使わなかったであろう乱暴な言葉は。

 

「うるさいですっ!! ひじりは、ばかです!!」

 

 白蓮の息が苦しくなるくらい、きつくきつく両腕を回して、

 

「本当に、大ばか者ですっ……!! ひじりの、ばかぁ……ッ!!」

「……、」

 

 ――ああ、そうか。

 押し殺された嗚咽が、抑えられない肩の震えが、変わらない匂いが、預けられた重さが、伝わる体温が、呼吸が、鼓動が、色が、風が、光が、世界が、

 すべて、教えてくれた。

 ムラサの背を、そっと抱き返した。

 

「……ただいま」

 

 そんな言葉が自然とこぼれた。勝手なことをしてごめんなさいでもなく、迎えに来てくれてありがとうでもなく。ずっとずっと待たせてしまったけれど、それでもずっとずっと待っていてくれたみんなへ。

 ただいま。

 

「おかえりなさい、聖様……っ」

 

 白蓮の肩に顔を押しつけう゛う゛う゛う゛う゛と会話不能なムラサほどではないにせよ、一輪が目元の涙を指で拭って微笑んだ。

 

「長かった……とても、長かったです」

「……うん。ありがとう、ずっと待っててくれて」

 

 ちょっと髪を伸ばしたかしら、と白蓮は思う。頭巾からこぼれる水色の髪がおしゃれに様変わりしていて、顔立ちも少しばかり大人びたようだ。きっとそれだけ、自分の眠っていた時が本当に長かったということだった。

 

「雲山も、よかったと言っています」

 

 一方で一輪の肩を漂う雲山は、笑ってしまうほどちっとも変わっていなかった。なにかをこらえるようなしかめ面で口ひとつ利かず、一輪が言うからには喜んでくれているのだろうが、厳つい雰囲気のせいでなんだか虫の居所が悪そうに見える。

 隣では、ムラサと同じく感極まった星がなぜかナズーリンに抱きついている。

 

「こらご主人、なんで私にくっつくんだっ」

「なぢゅはうれじぐな゛いんでずがあああっ」

「それとこれとは話が別だっ、ええいやめろ鼻水がつく!」

「なぢゅのばがああああああああ」

 

 体の芯からこみあがってくるじわりとした熱を、ああ、と吐息に変えて白蓮は吐き出す。ムラサがいて、一輪がいて、雲山がいて、星がいて、ナズーリンがいて。封印される前となにも変わらない光景が、反ってまだ夢の中にいるみたいだった。

 

「ここは……?」

 

 白蓮は目の前の景色をゆっくりと見遣る。空は見たことがないくらい赤黒い霧で覆われ、中心では太陽がぽっかりと穴を空けている。そんなおどろおどろしい世界から白蓮たちを守るように、淡い光の結界が周囲に清浄な気を満たしている。そして白蓮が座る飴色の床板は、どうやら建物ではなくなにか乗り物の上らしい。

 ようやくナズーリンから離れた星が、えぐえぐと何度も鼻をすすりながら、

 

「あ、ええどでずね、えぐ、こごはまがいの゛、ずび」

「あーもう、ご主人はまず泣きやみたまえよ」

「ふぐぅ」

 

 見かねたナズーリンが星の顔面にちり紙を押しつけ、話を代わる。

 

「ここは魔界だよ。君が封印されていた場所だ」

「まかい」

「まあそれはいいさ。それより、横を見てごらん」

 

 横。

 人がいた。

 

「や」

「ひゃっ」

 

 膝を折って白蓮に目線を合わせる、巫女服姿の少女だった。

 まさか他に人がいるとは思っておらず体勢を崩しかけてしまうほど動揺したが、少女の顔立ちはすぐに己の記憶と符合した。

 

「しづく……さん?」

 

 しかし、断言はできなかった。白蓮の記憶に残る彼女よりも、間違いなく目の前の少女が若返っていたからだ。そういえばしづくは、白蓮が使う若返りと不老長寿の秘術に興味を示していた気がする。まさか、同じ術に手を伸ばして今までずっと――と白蓮が早合点をするより先に、少女がやんわりと首を振った。

 

「んにゃ。えーと、一応『はじめまして』って言うべきだよね。神古志弦です」

「しづる」

「わかりやすくいうと、神古しづくの子孫ってやつです。しづくはとっくの昔に死んじゃったので。でも、あなたとしづくの間にあったことは、ぜんぶ知ってます。実際に見てきた(・・・・・・・)から。なんで、ある意味では久し振りというか」

「……え、えーと」

 

 いきなりついていけなくなった白蓮に、志弦は表情を変えず、

 

「このへんはあとでゆっくり話します。ともかく、しづくに代わって私があなたの封印を解いて、あなたはこうして目を覚ました……ってところまでは、いいですか?」

「……は、はい」

 

 とりあえず、頷く。うむ、と志弦もまたひとつ頷き、

 

「会わせたい妖怪がいます」

 

 心の臓に、胸を叩かれた。封印の間際しづくの語った言葉が、なによりも鮮明に脳裏へ甦った。

 

 ――君を救ってくれる、あの妖怪が。

 ――きっと、君の弟を助けてくれた、『あのひと』なんだって。

 

「……本当に、長かったよ」

 

 そう吐息し、志弦が目線で指を差した先。

 白蓮たちの再会を邪魔すまいとするように、そっと距離を置いたその場所で。

 

 

「――あ、」

 

 

 銀を、見つけた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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