大晦日にも宴会するんだから、今日はほどほどにしておこう。
と訴える月見の孤軍奮闘も空しく、白蓮たちの歓迎会という名目の宴会は、結局大晦日のリハーサルのような馬鹿騒ぎになってしまった。とりわけ天狗や河童の男衆が発信源となり、べらぼうに美人な尼さんたちがやってきたとの情報は瞬く間に山中を駆け抜け、男も女も次々押し寄せては頭数を増やし、そこに酒が入ったならばあとはもう言わずもがな。この上大晦日には更なる馬鹿騒ぎをしようというのだから、幻想郷の住人が放つ際限なしのエネルギーは老骨にこたえるばかりである。
後片付けがすっかり終わり、一息ついて落ち着く頃にはもう宵の口だった。
宴が終われば人も去る。早苗たち守矢組は神社へ帰り、呑み足りない萃香は二次会を求めて博麗神社の方角へ飛んでいった。酔っ払った輝夜はまるで予知したように鈴仙がやってきて回収、その他酔い潰れた屍も動ける面々が順次連行して、結局客としては白蓮たちとおくう、藍、そして藤千代だけが残るのだった。
白蓮たちは、ほどなく一足早めの温泉に向かった。今日はこのまま水月苑で一泊し、明日になったら朝のうちから人里を訪問して、新しい生活の本格的な第一歩を踏み出すことになる。水蜜と星が左右から白蓮の腕を引っ張り、一輪とナズーリンが呆れながらついてゆく――幾星霜を超え再びひとつとなったその後ろ姿に、雲山は万感をこらえる渋い老爺の顔をしていた。
さてその間、月見はといえば。
「わあ……!」
「今日は一段と綺麗だね。運がいい」
昼間約束していた星空を見せるため、おくうを連れて外に出ていた。幸い天気が崩れることもなく、しんしんと澄み切った冬の冷気の先では、両手いっぱいぶちまけたような星屑が端から端まで夜を埋め尽くしていた。
生まれてはじめて星空を見るおくうのために、どうやら星々も一段とめかしこんでくれたらしい。夜の向こうでぽっかりと開いた青白い月を中心に、まるで七色に光り輝いているようでもある。この国で見られる星空として文句なしの最高級であり、見る者の魂を吸い込む神々しくも魅惑の煌めきだった。
「すごい…………」
空を見上げた恰好のまま寒さも忘れ、本当に魂を吸い込まれたみたいに立ち尽くすおくうを、月見は玄関の灯りの下からそっと見守る。その横を通って、わかさぎ姫を抱えた藤千代が池の畔へ歩いていく。すっとこどっこいの星とは違って、小柄ながらも大きな安心感あふれる背中である。
「どうですかおくうさん、すごく綺麗でしょう」
「ほんと、に、すごいです……」
おくうは頭の天辺から足の先まで圧倒され尽くし、もはやそれ以外の言葉も出てこない。するとずっと上ばかり見たまま突っ立っていたせいで、バランスを崩して尻餅をついた。慌てて立ち上がるも月見にバッチリ見られてしまったと気づき、宵闇でもわかるほど真っ赤になってそっぽを向く。
畔に下ろしてもらったわかさぎ姫が、近場の石に腰掛けておくうを手招きしている。
「うにゅほさん、是非こっちも見てくださいっ。綺麗なのは空だけじゃないですよ!」
空がこれだけ綺麗なのだから、水月苑の池に至ってはもはや論に及ばずである。『水月苑』の名の由来――わかさぎ姫が日々丹精込めて手入れする水面は天然の鏡となり、別世界へつながる扉のように夜空の姿を映し出していた。風がないのも手伝って、一瞬はそこに池があるのかもわからなくなるほどだ。おくうは興奮を隠し切れない小走りで畔へ駆け寄り、
「ほんとだ、水の中に空があるっ! なんでなんで!?」
「えへへ、綺麗でしょー」
身を乗り出しすぎて今にも落っこちそうなおくうを、わかさぎ姫が後ろから優しく引っ張る。わかさぎ姫は宴会の間、地上の妖怪ばかりで竦みあがるおくうに最初から最期まで声を掛け続けてくれた唯一の少女だった。そのほんわかとした人柄で相手の警戒心を、相手にも気づかせないまま和らげてしまうのは彼女の得意技だ。今ではおくうもある程度心を開き、こうして月見の傍を離れても大丈夫になっていた。
「月見様。布団の支度、終わりました」
後ろから名を呼ばれたので振り向くと、いつの間にか藍が戻ってきていた。三階へ白蓮たちの布団を準備しにいったはずなのだが、得意の早業でもう終わらせてしまったらしい。
「ありがとう。なにからなにまで本当に助かるよ」
「いえ、そんな。大したことではありません」
大したことではない、わけはない。近頃ちゃっかりと水月苑で寝泊りしている彼女は、今日も温泉客の相手から宴会の支度まで至れり尽くせりの大活躍だった。すべては一番手の掛かるご主人様が冬眠しているからこそといえど、月見が地底にいた間も含めて本当に助けられっぱなしで、今の水月苑はまさしく藍一人によって支えられているといっても過言ではない。
なので月見はぽつりと、
「お前がいなくなったら生きていけなくなりそうだなあ」
「へ、」
というのはさすがに大袈裟にせよ、もしも藍の手伝いがなければ水月苑は存亡の危機を迎えるのだろう。せめて明日からはちゃんと働こう、と月見は固く心に誓った。
ところで先ほどから、金毛九尾のもふもふ饅頭が興奮状態でバウンドしまくっているのだが、
「――さて。星空も見ましたし、あまり遅くならないうちに帰りましょうか」
「あ……」
「月見くーん! そろそろ帰りますねーっ!」
そのとき池の畔から藤千代が、抜けるようによく通る声で手を振ってきた。おくうは月見の式神であるがゆえ例外的に地上行きを許可された身で、やることが終わったならば寄り道せず地霊殿に帰り、ご主人様へちゃんと無事を報告しなければならない。それが閻魔様との約束だ。だんだんと夜も更けてきており、帰りが遅い家族をさとりたちも心配しているだろう。
「二人とも、今日はありがとうね。おくうは、さとりに胸を張って報告しておいで」
「……んむぅ」
肯定したのかなんなのか、よくわからない返事をしたおくうはたどたどしく月見の傍までやってきて、
「今年は、もう、会えないん……だよね」
「そうなるね。……だからこれ、さとりたちに届けてくれるかい」
月見は懐から三通の手紙を取り出す。おくうが届けてくれたさとりたちの手紙に、簡単ながら返事をしたためたものだ。
「はい。よろしく頼むよ」
「ん……」
手紙を受け取ったおくうは、そのまま浮かない様子で黙り込む。少しだけそわそわしている。伝えたいことがあるものの、なかなか言葉がまとまらなくて葛藤しているときのおくうだった。
「その……ら、らいねん……」
顔を半分も上げられず、もじもじとした上目遣いで、声なんて今にも掠れて消えてしまいそうだったけれど。
「こ、今度は、みんなで……遊びに来ても、いい?」
問われるまでもなかった。
「もちろんだとも」
絶対的な自負を以て月見は答える。ある日突然地底から覚妖怪がやってきたら、そりゃあ一部の恥ずかしがりな少女たちは大いに慌てふためくだろう。しかし生憎ながら、さとりたちがかつてのように拒絶されてしまう未来はどうやっても想像ができないのだ。
あの少女たちなら、強くそう思わせてくれる。
妖怪も人間も、地上も地底も関係ない。水月苑は良くも悪くも、すべての住人に等しく開かれた憩いの場所。
だから今度は、さとりも、こいしも、お燐も、みんな一緒に。
「いつでもおいで。待ってるからね」
おくうは例によって、「う」と「ん」の中間のような鼻声で短く返事をして。
唇の端をほんのちょこっとだけ上げて、ぶきっちょに笑った。
幸いその後は追加で客が訪ねてくることもなく、夜は至って穏やかに更けていった。おくうと藤千代が地底へ帰り、白蓮たちも明日に備えて早めに就寝したことで、やがて屋敷で起きているのは月見と藍だけになっていた。
「――では月見様、先にお湯をいただきます」
「ああ。ゆっくりしておいで」
藍は、今日もこのまま水月苑に泊まっていくつもりのようだった。主人が冬眠して以降、彼女はその埋め合わせとするように日々屋敷の家事を手伝ってくれているが、ここに来てそれがとうとう日常の風景と化しつつある。月見は特になにも言わないし、それどころかなんの疑問にも思っていない。その事実こそがいみじくも藍の狙い通りであるのだと、今のところまったく気づいてすらいない。
藍が温泉へ向かい、茶の間には月見だけが残った。テーブルの片隅に置かれた文々。新聞を取る気にもなれず、なんの目的があるでもなくぼうっと物思いに耽っている。地上へ戻ってきたのはつい昨日のはずなのに、この二日間で数えきれないほどたくさんのことがあった気がした。地底の異変で包帯まみれになるまで無茶をしたのが、なんだかずっと遠い昔の出来事にも思えた。
しかし、あまり安閑と余韻に浸ってもいられない。白蓮たちの新しい暮らしをなるべく早く立てなければならないし、今年も残すところあと三日という状況にありながら、大掃除と新年の準備はほとんどまったく手が付けられていない。しかも大晦日には、年越しのスーパー大宴会がラスボスのような仁王立ちで月見を待ち構えているのだ。この十二月が『師走』という異名を取る通り、今年は最後まで慌ただしく
どのくらいぼんやりとしていただろう。やがて月見は、廊下から足音を盗んで近づいてくるひとつの気配に気づいた。藍はついさっき風呂へ行ったばかりだし、白蓮たちもとっくに寝静まっているはずだし、はて誰だろうかと首を傾げながら待っていると、
「あ、月見さん……」
「おや」
ほどなくして恐る恐る襖を滑らせたのは、すでに床に就いたはずの白蓮だった。広い茶の間で月見と目が合うや、不安げだった面持ちがほっと和らぐ。
「どうかしたかい?」
「……」
白蓮は襖に指を掛けた恰好のまま、かすかな緊張で唾を呑んでから、
「あの、なんだか寝付けなくて……もしよろしければ、少し、お話できたらなあ……なんて」
わたわた手を振って取り繕い、
「いえその、もうすぐお休みになるのでしたら、ぜんぜんお構いなくっ。ただ、その……」
見る見るうちに小さくなって、あとはもう声というより単なる音のような有様で、
「……あんまり、お話できてなかったので……」
確かに、その通りではあった。およそ千年振りに甦った尼僧ともなれば、その申し分ない器量とあいまって否が応でも周囲の興味を引く。宴会の間は男も女も大勢から声を掛けられ口と耳が足りないくらいだったので、月見としても無理はさせまいと遠慮していたのだ。
「藍がちょうど風呂に行ったからね。あがってくるまででいいなら」
「あ、はいっ」
今の今までおっかなびっくりだったのに、一度許しがもらえると白蓮ははしゃぐように茶の間の敷居をまたいだ。嘘か真か、小さい頃は今の雰囲気からは想像もできないほどのやんちゃ娘だったという。今でも時折はこんな風に、大人びた佇まいにそぐわぬ無邪気さというか、無防備な一面が垣間見えることもあるようだ。
座敷へ入ってきた白蓮は、両手で持てる程度のそう大きくはない桐箱を持っていた。長きに渡る封印を解かれた彼女がそのときから、まるで我が身の一部とするように抱き締めていた物だった。
中身を見たわけではないが、命蓮の骨壷を納めた箱なのだと、聞いている。
「失礼します……」
そう言って腰を下ろす頃には、白蓮はまた最初の凝り固まった顔つきに戻っている。なんとも仰々しい正座で背筋を伸ばし、目の前のこたつに足を入れようとする素振りもない。思い返せばこの少女、宴会の間もまったく居住まいを崩さずじっとしていた気がする。
「楽にしてくれていいんだよ。自分の家だと思って」
「へっ、」
変なことを言ったつもりはないのだが、なぜか白蓮は見るからに動揺して、
「あ、じ、自分の家、ですか」
「ああ。……どうかしたか?」
「い、いえいえなんでもっ!」
慌てて首を振ったあとも、桐箱を抱き締めて「じぶんのいえ……じぶんのいえ……」とぶつぶつ呟いている。なんだか変な人間に見える。
「とりあえず、こたつに入ったらどうだい。あったかいよ」
「は、はいっ。そうします……」
そう答えつつも、白蓮はやはり正座を崩そうともしない。桐箱を一旦横に置き、こたつの掛け布団をちょこっと膝の上に乗せただけである。これではまるで、客の立場を弁えて遠慮しているというよりも、
「なあ、白蓮。私のこと、怖いか?」
「え? い、いえ、そんなことはありませんが……?」
「そうかい? すごく緊張してるみたいだから、怖がられてるのかなって」
近寄りがたい相手を前にして、萎縮しているように見えるのだ。「話をしたい」と言ってわざわざ来てくれたのだから杞憂なのだとわかってはいるものの、やはり不自然でどうしても気になってしまう。
白蓮はますます縮こまった。
「も、申し訳ありませんっ……私ったら、反って失礼なことを……」
「うん、まさにそういうところかな」
「あうっ……」
もはや消滅しそうになりながら、
「その、決して怖がっているわけではないんです。でも、緊張しているのは事実といいますか……」
それでも少しだけ、はにかむように、
「月見さんは、命蓮を救ってくださいましたし……私にとっても、世の見え方が変わるきっかけになった方、ですから……」
――私にとってあなたはなかなか大物な妖怪なので、いざ話をするとなるとどうしても緊張してしまうのです。
そう言っているのだと思った。なんとなく予感できていたこととはいえ、実際にそういう目で見られてしまうと少々据わりが悪い。
「大袈裟だなあ。ほんの数日面倒を見ただけだよ」
「でも、命蓮は本当に感謝していました。……父親が、できたみたいだったって」
「……」
月見は、『命蓮』の名を再び耳にするまで忘れてしまっていたのに。
「……あの子も小さかったからね。あれくらいの子どもが山の中でひとり放り出されれば、赤の他人でもそういう錯覚を起こすだろうさ」
せめて抵抗のようにそう言うものの、白蓮には微笑みひとつであっさりと躱される。
「そうでしょうか。私は、錯覚ではなかったと思います。命蓮を、この目で見てきましたもの」
「……本当に大袈裟なんだ。お前に命蓮という弟がいたと知るまで、私はあの子を忘れていたんだから」
「……でも、思い出してくださったんですよね? もう、ずっとずっと昔のことなのに」
白蓮の面差しにふっと影が差し、膝の上の桐箱を慰めのように優しく撫でる。
「命蓮は……大きくなるにつれて、月見さんのことを、思い出したくても思い出せなくなっていきました」
「……」
「仲間たちから、だいぶしつこく言われたようなんです。お前は妖怪に誑かされていたんだ、もう忘れてしまえって」
それは、そうなのだろうな、と月見は思う。あくまで事実だけを考えれば、私はあの子を誑かしていたのかもしれない、とも。正体を知られぬまま終わらせることはできたはずだった。しなかったのは自分だった。あのとき命蓮の記憶がすでに戻っていると気づきながらも、希われるまま偽りの生活を続けようとして、結局あの子の仲間に幻術を暴かれ破綻した。
最後には正体を見破られて終わる。そこだけ見れば人を誑す妖怪話の結末として、至ってありふれて伝承されていることではないか。
時代など関係ない。詰まるところ原因は情に駆られた月見の甘さであり、だから命蓮はそうやって迷うことになったのであり、故に「恩人」という言葉など自分には相応しくないのだと月見は思っている。
けれど、
「命蓮は、忘れてしまった自分を本当に悔いていました。月見さんの顔も声も忘れてしまって……でも、まるで父親ができたみたいだった――それだけは、最期まで命蓮の大切な思い出でした」
白蓮は、掛け値なしの信頼を花開かせて言うのだ。
「だから、命蓮の分まで言わせてください。――ありがとうございました、月見さん」
「……まったく」
――どうしてこう、月見が出会う少女というのは、どいつもこいつも。
フランにしたって輝夜にしたって、天子にしたってさとりにしたってそうだ。辛かったはずなのに、苦しかったはずなのに、月見を責めることだってできるのに、彼女たちは恨み言のひとつだってこぼしやしない。大したことじゃあなかったと言うように前を向く強い姿は、こうしていつだって月見の心を救ってくれる。
脱力して、笑みを返した。
「礼を言うのはこっちの方だよ。ありがとう、白蓮」
「へ? い、いえ、私は別になにも……?」
「ふふ、そんなことはないさ」
妖怪すら心服させる並外れた大器、というわけではない。恐らくは、弟と違って才能に恵まれているわけでもないのだろう。あくまで人よりちょっと長生きし、普通よりちょっと人外の領域へ踏み込んだ程度の人間の子。そんな彼女がなぜ今でも星たちから慕われ続けるのか、その一端がなんとなくではあるけれど理解できた気がした。
「そ、そうですか……?」
まさか礼を返されるとは予想外だったか、白蓮は束の間むずがゆそうに目線を彷徨わせて、やがて自分の膝の上に乗っているものを思い出した。
「そ、そういえばですねっ。ひとつ……いえ、ふたつ、お願いしたいことがありまして……」
「ああ、聞こうか」
ひとつはおよそ目星がついている。膝の上の桐箱を、まさかなんの目的もなくただ持ってきただけということはないだろう。
こたつを抜け出した白蓮は月見の真横に座り直し、その箱を畳の上に差し出した。
今までの引っ込み思案な少女は露と消え、揺らぎのない瞳が月見を捉えた。
「これを、」
言い直す。
「……命蓮を、どうかあなたの傍に納めてはいただけませんか」
「……」
「どんな形でも構いません。……命蓮の、遺言みたいなものです」
それが、彼女がこの桐箱を決して手放さなかった理由だった。
少なからず、意外な頼みではあった。てっきり、命蓮の墓をどこかに作りたいと相談されるものと思っていたのだ。まさか遺灰そのものを託されるとは――そして、命蓮が最期にそれを望んだとは想像ができず、やや答えに詰まってしまったけれど。
「……わかった。私でよければ、納めよう」
何百年も昔のほんの数日、偽りのいっときの出会いとはいえ、月見を父と呼んだ息子の最後の頼みだ。こうして受け取ることがせめてもの供養になるのなら、喜んで託されようと思った。
「はい。ありがとうございます……」
白蓮は祈るような一呼吸、静かに、深く頭を下げた。
「それで……もうひとつ、お願いしてもいいでしょうか」
「ああ。なんだい?」
月見は桐箱を持ち上げてみる。月見なら片手でも持てる程度の、本当に大したことのない重さでしかなかった。限られた生を力の限り全うして、今はもうこんな小さな姿になってしまったけれど。
庭に墓でも作ろうか、と思う。妖夢や幽香にお願いして、どこかよさそうな場所を見繕ってもらって。この水月苑の姿を、人と妖怪がともに暮らす幻想郷を、いつだってあらん限り見せつけてやるように。
明日は白蓮の住む場所を決めなければならないし、年越しの準備だって始めなければならないしで、やらなきゃならないことが山積みだなと小さく笑い、
「『お父様』とお呼びしていいですか?」
「ハハハ、それくらいお安い御――なんだって?」
月見はいっそ芸術的な真顔で白蓮を見た。白蓮は途端にびくりと縮こまり、緊張と恥じらいを絶妙にブレンドした上目遣いで、とても心細げに人差し指同士を合わせながら、
「で、ですから……お、『お父様』と、お呼びしても、いいかなー、なんて……」
「……」
――ええと、なんの話だっけ。
月見は冷静に今までの会話を遡る。なにがどこでどう間違って『お父様』などと飛躍したのか原因を探ろうとするのだが、何度思考を巡らせても「白蓮がなんの脈絡もなく変なことを言い出した」という結論に落ち着く。なにゆえ命蓮の遺灰の話からそこまですっ飛んでしまったのか、残念ながら月見の実力では即座に答えを弾き出せない。
月見が困惑しまくっていることを、白蓮は雰囲気から察したようだった。ますます小さくなって、蚊が鳴くごとくぽそぽそ声で、
「だ、だって……月見さんは、命蓮にとって、お父さんみたいだったわけで……それって、私にとっても、お父さんみたいってことですよねー、とか……?」
「…………」
いや、その理屈はおかしい。
「……よし、あれだ。今日はゆっくり休んで、この話は明日にしよう。一旦落ち着いてから。な?」
きっと疲れてるんだろうな、と月見は結論した。封印から目覚めていきなりの宴会で疲れが溜まっただろうし、見知らぬ時代、見知らぬ土地での再スタートに不安や戸惑いを感じてもいるだろう。するとそれらが密接かつ複雑な相互作用を引き起こし、白蓮から正常な思考を奪い去った挙句『お父様』発言へと至らせてしまった、という可能性をどうして否定することができようか。初日から負担を掛けてしまって申し訳ない。
そういうことにしておこう。
「……むー」
なぜ不満げな顔をするのか。
「命蓮はよかったのに、私はダメなんですか……」
「……いや、それとこれとは話が別でな?」
確かに命蓮からは『父上』と呼ばれたりもしたが、あれは事実彼がそれくらいの子どもだったし、月見が名乗りもせず「好きに呼んでくれ」なんて言っていたせいでもある。素性を隠さなければならない手前、余計な詮索をされないなら『父上』でも構わないという打算があったのだ。しかし白蓮の場合は違う。なにからなにまで違う。若々しい少女の姿をしていても中身は立派な大人だし、素性も知れているからわざわざ『お父様』と呼ばせる理由がないというか、むしろ呼ばせてはいけない理由がゴロゴロ思い浮かぶというか。
冷や汗が浮かびそうな月見の心境など露も知らず、白蓮は寂しげに目を伏せる。
「……私たちは、両親を早くに亡くしているんです。特に父は早世でした。私はもう名前しか覚えていませんし、命蓮に至っては会ったこともなかったはずです。ですから、命蓮が月見さんを父と呼んだのは、きっと心のどこかでそういう存在に焦がれていたからなのだと思います」
「……、」
指先で髪を一房、くしくしといじくり、
「わ、私も……ま、まあ、そのあたりは……少し、命蓮が羨ましいなーと。思っていた、次第でして……」
「…………、」
「つきましては私も、命蓮と同じ気持ちを、味わってみたいなー、とか……?」
――さて。
どうしよう。
もちろん、どうやって諦めさせようか、という意味である。なにやら込み入った思いがあるようなのは伝わってきたものの、こればかりは何卒思い留まっていただきたい。周りから大変な勘違いをされる未来しか見えないのは、果たして月見だけなのであろうか。
「あ、あの、さすがに皆さんがいる前でお呼びするつもりはないですよっ? 今みたいに、二人だけのときなら、ちょっとくらいはだめかなーと……」
――それなら、いいか……?
いやいや、と首を振る。早速折衷されかけてどうする。ちょっとくらいなら、そう思って折れてしまった時が月見の負けだ。
「やっぱり、ご迷惑でしょうか……」
「待て待て、そもそもお前はそれでいいのか? 私とお前は、今日はじめて会ったばかりなんだぞ? お前の思い描いている通りの男だとは限らないよ」
「それは心配していません」
白蓮は途端にまばゆい自信で満ちあふれて、
「今日の宴会の席を見ていれば、月見さんが誰からも慕われていらっしゃるのは大変よくわかりました。ムラサたちも心を開いていましたし、ナズーリンだってすごく太鼓判を押していたんです」
あのネズミ。
「月見さんの在り方は、私の理想であり目標です。これから、たくさんのことを教えていただきたいのです。ですから……」
「……それで、『お父様』と?」
「命蓮が、そうだったんですよね?」
いやまあそうかもしれないけれど。そうかもしれないのだけれども。
「……拒否権はあるのかな」
「どうしてもご迷惑であれば、仕方ないですけど……」
一見理解のある素振りを見せつつも、白蓮はちょこっとだけ口を尖らせて、年頃の娘が拗ねるように言うのだった。
「……でも、命蓮だけズルいと思います」
「……」
――妙な子だ。
その姿は、ナズーリンたちが話す人物像とは少しばかり違っていた。他人想いに振り切れている分押しが弱く、人の意見に左右されやすくて、自分の言動が周りの和を乱さないよういつも気を遣っている。しかしいま目の前にいる白蓮は、月見が困っているのを承知で我を曲げず、遠回しに断られても食い下がる程度には押しが強かった。ひょっとするとこれもまた、かつて彼女がやんちゃ娘だった頃の名残なのだろうか。
ふいに、命蓮のことを思い出した。あれから千年近くが経っていても、子どもの頃とは見違える性格になっているとしても、やっぱりこの子は命蓮のお姉さんなのだと。
「……まあまあ、そんなに焦る話でもないだろう。それが本当にお前の本心なのか、もう一度よく考えてみてくれ。命蓮だって、私をそう呼び始めたのは出会って何日かしてからだったしね」
「それは……」
「それでお前の気持ちが変わらなかったなら、私も真剣に考えるよ」
思えば、なぜこのときはっきりと断ってしまわなかったのだろう。これはいっときの気の迷いというやつで、時間さえ置いてしまえば自然と消滅する――なぜかそんな風に考えてしまったのだ。本当の意味で正常な思考を失っていたのは、もしかすると月見の方だったのかもしれない。
「さあ、今日はもうおやすみ。明日からたくさんやることがあるから、朝寝坊はさせないよ」
これに対し、白蓮はなんとも不可解な反応を見せた。話を無理やり切り上げられるのが不満だったか、まず隠そうともせずむっと唇をへの字にして、しかしすぐに、まるでこの言葉を望んでいたように破顔したのだ。
「わかりました。今日は休みます」
突然やけに聞きわけがよい。白蓮はこれはこれで満足した様子で立ち上がり、いっそ拍子抜けするほどあっさりと部屋を後にする。
まあ見逃してもらえたならよかったと、月見がつい油断していると。
「それでは、おやすみなさい。『お父様』」
月見が部屋の入口に顔を向けたのと、襖が逃げるように閉まったのは同時だった。能面みたいな無表情で固まる月見を置いて、白蓮の小走りが夜の静けさに消えてゆく。
「……、」
月見はやがて、天井を仰いで崩れるごとく吐息して。
「……参ったな」
こめかみを指で掻きながら、白蓮という少女への評価を確信とともに改める。たとえ柔らかく大人びた物腰でも、底抜けの善人であっても、人間妖怪問わない平和主義者であろうとも、彼女は決して聖人君子というわけではない。
人並みの俗っぽさも年頃らしい茶目っ気も、しっかり併せ持った紛れもない人の子なのだ。
「お前のお姉さんには、なんだかこれから手を焼かされそうだよ」
傍らに置かれた桐箱を、ぽんぽんと撫でるように二度叩く。
当然、返事など返ってくるはずもないが。
――そうなんですよ。ぼくも本当に手を焼かされて、困った姉なんです。
そう肩を竦める命蓮の姿が、まぶたの裏に見えた気がした。
○
火照った体を風で冷まそうとするような小走りで、白蓮はやっとの思いで三階まで戻ってくる。階段を登りきったところで限界になって、壁に両手をついてもたれかかり、そのままずりずりと情けなく膝からへたり込む。呼吸をほとんど忘れていたせいで完全に息切れしている。肩を上下させて何度も息を吸い、乱痴気騒ぎな頭の中を精一杯落ち着かせようとする。
緊張した。
もうめちゃくちゃ緊張した。恥ずかしすぎて爆発しそうだった。途中ですっ転ばなかったのが不思議なくらいだ。よく生きて帰ってきた、偉いぞわたし。
「はあ……」
胸いっぱいに吸った息を、ぜんぶため息に変えて最後まで吐き出す。まだ心臓が大暴れしているのがわかる。どうにもすぐには立ち上がれそうもなくて、壁に背を預けてしばらくの間ぼーっとする。鼓動の音だけが白蓮の耳を奥底から満たしている。
なにが緊張したかって、そりゃあ月見が白蓮にとって特別な意味を持つ妖怪だからだ。宴会の間は自分から話しかけることもできなくて、ただただ平常心を装うのが精一杯なくらいだった。
なにが恥ずかしかったかって、そりゃあそんな月見を『お父様』なんて呼んだりしたからだ。いくら弟がそうだったからといっても、今日はじめて出会ったばかりの男のひとを。
「…………はあ」
今度は、最初と比べればずっと小さく力ないため息。
弟を助けてくれたひと。自分たちの生き方が変わるきっかけになったひと。人間も妖怪も、皆等しく受け入れてその架け橋となる――白蓮が理想とし志す生き方を、体現するひと。
そしてここは、人間と妖怪が一緒に集まって宴会をして、笑ったり騒いだり、友達みたいにふざけ合ったりできる世界。
「……なんだか、夢みたい」
夢を絶たれて何百年も封印され、ある日目が覚めたら夢が叶っていた。頬をつねったり毘沙門天様に祈りを捧げたり、思いつく限りの方法でこれが幻でないのは確かめたのだが、正直今でも夢現で迷うような思いに駆られる。
今なら、自分を封印すると決めたしづくの気持ちが理解できる気がする。もしも自分が、しづくと同じ立場だったら。もしも同じ能力を持っていて、同じ夢を見ていたとしたら。躊躇って、悩んで、迷って、苦しんで、けれど最後には同じ選択をするのだと思う。
だから、白蓮はしづくを恨まない。まあ随分と待たされたわけだし、感謝しているとも言いづらいけれど。彼女の記憶を継いでいるという神古志弦とは、今度こそよい関係を築いていきたいと思っている。
笑みがこぼれた。自分は今、明日が楽しみだと感じている。『明日』なんてもう二度とやってこないかもしれないと、闇の中で幾度も恐怖していた自分が。
呟く。
「『お父様』……」
ほんのりと、心が暖かくなるのを感じた。ちょっぴり気恥ずかしいけれど、それ以上にこそばゆくて、頬が勝手にむにむにと変な感じになるのがわかった。
月見が「朝寝坊はさせないよ」と言ってくれたとき、自分でもびっくりするくらいに嬉しかったのを思い出す。なんだか本当に、父親ができてしまったような気がしたのだ。明日は「早起きだね」って言ってもらえるのかなと考えると、それだけで胸が躍った。
命蓮も、こんな気持ちだったのだろうか。そう思いながら白蓮はもう一度だけ、
「……『お父」
「聖」
「ひゅいっ!?」
尻上がりで変な声が出た。びっくりして振り向くといつの間にかナズーリンがいて、大変不審なモノを見る半目で白蓮を見下ろしていた。
――今の、聞かれなかっただろうか。いや、聞かれなかったはずだ。いくら耳がいいナズーリンでも、はっきり音になってもいない一瞬のささやきを聞き取るなんて、そんなそんな。
「なにをしてるんだいこんなところで。まさかとは思うが、部屋に戻る途中で眠くなったからってここで寝ようとしていたわけじゃあないだろうね?」
「そ、そんなわけないでしょっ。これはそのっ……ちょっと、一人で考え事というか……」
「わざわざ温かい布団から抜け出して、こんな寒くて中途半端なところでかい」
あう、と白蓮は凹む。わかっている。こうして現場を見られてしまった以上、自分如きの機転で上手くやり過ごすのは到底無理な話なのだ。
これ以上変な目で見られないためにも、ある程度正直に言うしかあるまい。
「じ、実は、月見さんとお話してきて……すごく緊張したから、ここでちょっと休んでたの」
まさか、「命蓮みたいに月見さんを『お父様』って呼んでみたら恥ずかしすぎたのでここでへたり込んでました」なんて言えるはずもない。
「ああ、そういえば弟殿の骨壷がなくなっていたね。よかったじゃないか、託されてもらえて」
「……盗み聞きしてたわけじゃないわよね?」
まるであの場に居合わせていたかのような発言に、白蓮の背筋がうっすらと寒くなる。いや待て、そういえばナズーリンはなぜここにいるのか。白蓮が部屋を抜け出すとき、みんながぐっすりと寝静まっていたのはしっかり確認している。まさかこの少女は狸寝入りをしていて、あろうことか仲間の鼠を使って今まで盗み聞きまでしていて、白蓮の『お父様』発言をバッチリ把握してしまっているのではないか――。
「まさか。月見の性格を考えれば、これくらいは簡単に推測できるよ」
内心盛大にほっとしたのを、破顔することで誤魔化した。
「ナズーリンは、月見さんのことをよくわかってるのね」
む、とナズーリンは一瞬言葉に詰まり、
「……その表現が妥当かどうかは大いに疑問だがね。彼は裏表がないから、考えそうなことを読みやすいのさ」
白蓮が今日一日見ていた限りの印象ではあるけれど、ナズーリンは意外にも月見へ大幅の信頼を寄せているようだった。宴会の間も、彼がいかに人畜無害でお人好しな妖怪なのかを、悪酔いしているのかと思うくらいしつこく言って聞かされた。この水月苑で普段から繰り広げられる賑やかな日常、彼の行く先々で巻き起こる屈託のない喧騒、そしてナズーリンが彼と出会うことになった、無縁塚と呼ばれる場所での出来事。――だからね聖、君はくれぐれも彼とよろしくやっていくべきだよ。そうすれば君の理想も自ずと叶うことになるだろうさ、と云々。
白蓮も、そう思う。
彼という妖怪がいるこの場所でなら、自分たちはきっと上手くやり直していけると思う。こんなことを言ってもあのひとは困ってしまうだろうけど、白蓮は彼の在り方からたくさんのことを教わっていきたい。それこそ、子が親の背を見て学ぶように。
命蓮もきっと、こんな気持ちだったのだろう。
「それじゃあ、ちゃんと部屋に戻ってから寝るんだよ」
「だ、だから寝ようとしてたわけじゃないってばっ」
軽く欠伸をしたナズーリンが、白蓮の横を通り過ぎて階下へ下りていく。なにをしにいくんだろう、と一瞬疑問に思ったが、お酒を呑んだあとの夜だし勘繰らぬが礼儀と思い直した。きっと白蓮と同じで、月見となにか話しておきたいことがあるのだろう。
部屋に戻ろうと思い、前を向いて、
「聖」
「はいっ!?」
振り返る。ナズーリンが、階段の中腹あたりからニヤリとこちらを見上げていて、
「言い忘れていたよ。君の気持ちは察するが、迂闊な独り言はやめておいた方がいい。壁に耳あり障子に目ありというだろう?」
「へ、え?」
咄嗟になんの話かわからず首を傾げる。独り言って、別に私は変な独り言なんてなにもいやちょっと待って、
「私は、胸の中にしまっておくけどね。人によっては、面白がって言い触らすかもしれないし」
「……、」
猛烈に嫌な予感、思えばナズーリンはいつから白蓮の隣にいたのか、いつから白蓮の独り言を聞いていたのか、自分はそのときなにをつぶやいていたのか、ぐるぐる回転し出す思考を見透かしたようにナズーリンはふてぶてしい笑みを深め、
「月見に娘みたいに懐いているやつはいるけど、まさか本当に
「――――――――」
真っ白になった。
ああ、やっぱり。白蓮が思わず
「いやあ予想外、予想外。あっはっは」
左で団扇をあおぐようにナズーリンが階下へ消える。静寂が返ってくる。白蓮は誰もいなくなった廊下でただ一人、魂を抜かれたごとくぼけっと突っ立っている。頭の中が大嵐に見舞われて、反って指の一本も動かせなくなっていた。
いや、違うのだ。確かに、月見を『お父様』と呼んだのは他でもない白蓮の意思である。けれど同時に、あの場に月見以外の誰もいなかったからできたことでもあるのだ。人前でなんか恥ずかしすぎてできるわけがない。故に独り言をうっかり聞かれてバレるなど、絶対にあってはならないことなのだ。
あってはならない、はずなのだが。
そのとき、いろいろ限界状態なせいで余計に研ぎ澄まされた白蓮の聴覚が、階下からかすかな話し声を、
「……おや、ナズーリン?」
「ああ、月見。いや君、君ね、聖のことをよろしく頼むよ。『お父様』として、くれぐれもね。あっはっはっは」
「…………ナ、ナズウウウウウウウゥゥゥッ!!」
白蓮は階段を真っ逆さまに駆け下り、その猛烈な勢いを維持したままナズーリンに南無三した。
お陰で星たちがすわ何事かとみんな飛び起きてしまって、誤魔化すのに大変な労力を使う羽目になったのである。
「ナズのばかばかばかばかばかばかばかばかああああああああああっ!!」
「おぶぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼ」
「ひ、聖なにやってるんですかナズがっ、ナズが白目剥いて!? ナズ――――――――――ッ!?」
その後、やっぱりやんちゃなところもあるんだねえと月見に笑われてしまい、白蓮は恥ずかしさのあまり布団でお団子になってふて寝したそうな。