銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色

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第143話 「蠱惑と陰謀のもふもふ券」

 

 

 

 

 

「――では、これより緊急会議を執り行います」

 

 今日も今日とて参拝客など一人もいない博麗神社で、霊夢の珍しく厳かな声音が低く通る。

 母屋の戸はすべて徹底的に閉じられ、茶の間の襖も一分の隙間なく外の光を拒んでいる。お陰でまだ昼前だというのに部屋はかすかに薄暗く、霊夢の物々しい表情をそこはかとなく後押ししているように見える。卓袱台の上に両肘をついて、顎の手前で静かに互いの指を組ませている。

 いきなり連れ込まれた天子としては、まるで寝耳に水である。

 とりあえず言われるがまま霊夢と向かい合って正座しているが、なにが『緊急』なのかは皆目見当もつかず困惑してばかりいる。幻想郷で一番古くから存在する石階段、昨年生まれ変わって間もない真新しい社殿、そして微妙に端々まで掃除が行き届いていない境内と、少なくとも天子の目にはいつもと変わらない神社に見えていたのだが、

 

「ど、どうしたの? 一体なにが」

「どうしたもこうしたもないわよ」

 

 ピシャリと一刀両断するが早いか、霊夢が卓袱台に怒りの孕んだ拳を落とした。たったそれだけのことで天子の肩がびくりと飛び跳ねる。矢じりのような眼光が天子を真正面から射貫いている。

 

「言い訳なんて許さないわ。さあ天子、観念なさい」

 

 名を呼ばれた途端、天子の全身と心臓が一気に萎縮した。そこでようやく天子は思い知る――霊夢は自分を相談相手としてではなく、弾劾すべき被疑者としてこの場に連れ込んだのだと。天子の肌をひりつかせる霊夢の確かな怒気は、他でもない自分に向けられているものなのだと。

 そう思い知った途端、怖くなった。霊夢を怒らせてしまったのもそうだし、なにより原因にまったく心当たりがなかったからだ。

 自分でも動揺するほど他愛なく声が震えた。

 

「え、わ、私、なにかしちゃった……?」

「……まあ、あんたはそう言うでしょうね。わかってたわ」

 

 失望のため息を吐かれる。それがますます天子の動揺に拍車を掛ける。今日に至るまでの自分の行動を一生懸命思い出すが、何度頭を搾っても余計に糸が絡まるばかりだった。昨日だってお互い笑顔で別れたはずなのに、どうして今日になって突然。

 

「愚鈍なあんたのために、きっぱり言ってやりましょう」

 

 愚鈍、という霊夢の言葉が想像以上に胸の深くまで食い込んだのを感じる。もうなにも考えられなくて、目の前がどんどん真っ暗になっていく感覚に囚われる。

 比那名居天子は、臆病者だ。

 かつての自分は、怖い物知らずを地で行く傲岸不遜(ごうがんふそん)なお嬢様だった。他人からどれほど疎まれようと知ったことではなく、独りでもある意味では強く生きていられた。しかし月見と出会って、こうして幻想郷に受け入れられて、天子は人を好きになる幸福を知り、また人から好かれる幸福を知った。だからこそ、そんな人たちから嫌われる可能性がなによりも怖くなった。もしも霊夢に嫌われたらと思うと今すぐにでも謝りたくて、しかし彼女の有無を言わさぬ眼光がそれを許さない。

 

「いいこと、天子――」

「っ、」

 

 霊夢がゆっくりと息を吸う。言われる、と思う。覚悟を決めて正面から受け止めるだけの勇気が天子にはない。恐怖のあまり霊夢の顔を見返すこともできず、天子はただ全身をわななかせてぎゅっと目を、

 

 

「――あんたいつになったら月見さんのもふもふ券使うのよ!! せっかく私が気を遣ってやったのに、この腰抜けっ!!」

「…………………………………………、」

 

 

 なにを言われたのか、十秒くらい本気でわからなかった。

 わかった瞬間、顔中が真っ赤に噴火したのを感じた。

 

「……れ、霊夢ーっ!? 私、その、すごく真面目な話されると思って怖かったんだけど!?」

「なに言ってんの大真面目な話でしょこれは!! あれから二週間以上経ってもう小正月も終わってんのよ!? あんたほんとにやる気あるわけ!?」

「なんのやる気よそれぇ!?」

「月見さんと距離縮めるやる気に決まってんでしょうが!!」

「ちょわ――――――っ!?」

 

 一体いつからだっただろうか。博麗霊夢がこうして、天子と月見の関係をやたらと気にしてお節介を焼きたがるようになったのは。応援してくれるのは嬉しいといえば嬉しいのだが、最近はやり口が露骨すぎてちょっぴり困っている天子であった。

 生唾を呑むような物々しい空気も一転、霊夢とぎゃーぎゃーかしましく口喧嘩をしながら。

 この突拍子もない話の流れを整理するため、天子はひとまず、事の発端となった正月の記憶を掘り起こし始めた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 今になってみれば、どうして天人なんかになっちゃったんだろうと思わなくもないのだ。

 無論、天子が天人であったからこそ今の日常があるのは否定しようがない。比那名居天子がもし『地子』のままであったなら、こうして幻想郷と関わることはなかったかもしれないし、月見とは出会えなかったかもしれないし、そもそもとっくの昔に天寿を全うして彼岸の住人になっていたかもしれない。でもひょっとすると幻想郷と関わることができて、月見とも出会えて、地上の住人としてなにひとつ文句のない日々を謳歌できていたかもしれない。

 まあ、比那名居の一族が天人になったのは天子の意思ではないので、所詮は考えたところで詮のない空想に過ぎないのだが。

 でも天人の、しかもそこそこ由緒あるお家柄の一人娘であったばっかりに、平凡退屈な天界の祭事に社交辞令で参加させられて、お陰様で地上の楽しい年越しも、お正月の行事もみんなみんな逃してしまって。この年末年始で天子が得たものはといえば、上品な微笑みを張りつけながら退屈な祭事に付き合うストレスと、地上のみんなに会えない心細さくらいなものだった。

 故に天人やめちゃいたいなあという気持ちが片隅に生まれてしまうとしても、まったくもって致し方ないことなのだった。

 

 と、憂鬱な気分でため息をついていたのも過去の話である。

 

 ようやく天界の祭事から解放され、新年になってはじめて水月苑を訪ねた途端、天子の憂鬱は木っ端微塵の塵芥となって宇宙の果てまで吹っ飛んだ。

 ――あけましておめでとう、天子。

 そう月見に声を掛けてもらえただけで、なんだかもう、全身がふにゃふにゃ溶けてしまいそうなくらいにあたたかくなるのだから。

 本当にやられちゃってるよなあと、天子は時折自分で自分に呆れてしまうのだ。

 

「――ほんっとあんたは、月見さんさえいればそれだけで幸せの絶頂なのね」

「……いやっ、だから、月見だけじゃなくて霊夢も魔理沙も」

「はいはい、誤魔化さなくて結構。あんたの場合はもう誤魔化せる領域とっくに超えてんだから」

「…………」

 

 はずかしすぎてしにそう。

 遡ること約二週間前――天子が今年はじめて水月苑を訪ねて、その後博麗神社まで足を伸ばしたときの話である。境内の掃き掃除をしていた霊夢は新年の挨拶もそこそこに、天子の顔をひと目見ただけでにやりとして言ったのだ。

 ――よかったわね、やっと月見さんに会えて。

 水月苑に寄ってきたなんて、まだ一言も喋っていないのに。

 

「……わ、私、そんなにわかりやすい?」

「『今日は月見に会えたから最高の日!』って顔にデカデカと書いてあるわね」

「わー! わーっ!」

 

 年が明けても誰一人参拝客のいない神社で助かった。手水舎の水に顔を映してむにむに揉み解していると、後ろから更に霊夢が続けて、

 

「ああそうだ、あんたに渡したいものがあるんだった。ちょっと待ってて」

「?」

 

 振り向いたときには、彼女はすでにほうきを置いて母屋へ回れ右をしている。渡したいものってなんだろうと束の間疑問に思ったが、それよりも天子は再び水面の自分とにらめっこをする。

 むむむと唸る。天子としては至っていつも通りに振舞っているつもりなのだが、本当にああまで言われるほどわかりやすい顔をしているのだろうか。

 だとすればひょっとして、なんというか――天子が胸でほのかに秘めているこの感情は、思いっきりみんなにバレバレだったりするのだろうか。昨年の異変で、星熊勇儀にもあっさりと見破られてしまったのを思い出す。どうして自分はこうも未熟なのだろう、もう少し月見みたいな大人になりたいなあ、いや「月見みたいな」ってのは変な意味じゃなくてただ単に年長者らしい落ち着きというか余裕というかともかく

 

「天子」

「はいっ!?」

 

 声が裏返った。びっくりして振り返ると、生温かい慈愛の眼差しでこれ見よがしな腕組みをしている霊夢がそこにいた。

 

「今、月見さんのこと考えてたでしょ」

「……」

 

 くやしい。

 こんなに早く戻ってくるなんて予想外だった。いや、或いは天子がそう思っているだけで、自分は思考に没頭するあまり時間の感覚を失っていたのかもしれない。霊夢が玉砂利を鳴らしながら戻ってきてもさっぱり気づかず、水面とにらめっこしながら黙々と頬をむにむにしていたのかもしれない。ちょっとマヌケすぎて涙が出てくる。

 またしつこく茶化されるかと覚悟したが、幸いそれ以上の追いうちはなかった。霊夢はこちらに向けて右手を差し出し、

 

「はいこれ」

「……えっと、なにこれ?」

 

 霊夢が指先でつまんでいるのは、ちょうど掌と同じくらいの長方形の紙切れだった。なぜか鬼子母神と天魔の朱印が二つ並んで押されており、綺麗な達筆で『もふもふ券』と書かれている。脊髄反射で月見の姿が浮かんだ自分に頭の中で平手打ちする。

 尋ねる。

 

「えーと、なにこれ?」

「『月見さんのもふもふ十一尾に全身包まれながらぐっすりお昼寝できる券』」

 

 は、

 

「大晦日の宴会でビンゴゲームやってね。その景品でもらったんだけど、私いらないからあんたにあげるわ」

「……あの、」

「この世で一枚しかない超希少品よー。ありがたく使っちゃいなさい」

 

 当然ながら。

 第一に、天子は呼吸を落ち着かせて全力で警戒した。こんなの霊夢のイタズラに決まってる、と思った。このもふもふ券は霊夢が誰の許可もなく勝手に作ったなんの効力もない紙切れで、『月見のもふもふ十一尾に全身包まれながらぐっすりお昼寝できる』など完全なでっちあげ。天子が騙される様を、そして騙されたと気づいて悶絶躄地(もんぜつびゃくじ)する様を観察して笑いものにしようとしているのだと。

 しかし、だとすれば二つ並んだ鬼子母神と天魔の押印はなにか。これすらも霊夢のでっちあげだというのなら、それすなわち鬼子母神と天魔の名を騙ったということで、妖怪ならば一発でとっ捕まえられて山中引きずり回しの刑ではないか。

 いくら霊夢だって、単なるイタズラのためにそこまで命知らずな真似をするとは思えない。

 ということはつまり、

 これは鬼子母神と天魔公認の、

 本物、

 

「……あはは、もー霊夢ってば。いくらなんでもこんなのに騙されるほどバカじゃないよ?」

「あら、いらないの? ならしょうがないわね、代わりに紫にでもあげようかしら」

「……」

 

 もう一度冷静に考えてみよう。

 もふもふ券の真贋は一旦置いておいて、ここで天子が避けるべき行動とはなにか。

 それはもふもふ券をただのイタズラと早合点し、こんなのいらないと霊夢に突き返すことだ。だってもしも、万が一、億が一もふもふ券が本物だったとしてみろ。それはすなわち千載一遇のチャンスを自ら放棄し、自分以外の誰かへもふもふを譲渡する行為に他ならないのだ。

 例えば霊夢の言う通り、代わりに紫がこの券を受け取ったとしよう。彼女は大喜びでその日のうちに水月苑まで突撃し、券が本物だろうが偽物だろうが構わず月見の尻尾でお昼寝を始めるだろう。そして月見もなんだかんだ、仕方のないやつだという顔をしながら好きなだけ付き合ってあげるのだろう。

 それはもやもやする。

 とてももやもやする。

 むざむざライバルに甘い蜜を譲ってしまうのは、あまり利口とはいえない。

 故に天子が取るべき行動はただひとつ、

 

「……怪しいので、これは私が没収します」

 

 この場はひとまず、もふもふ券を受け取ること。

 

「月見に確認するから。そうすれば、ぜんぶ嘘だってわかるんだからね」

 

 とりあえず天子が手中に収めておけば、誰か他の人へ渡ってしまう心配はなくなる。それからゆっくりと真実を確かめればよい。霊夢のイタズラならなーんだやっぱりねと笑って捨てればよいし、もし本物だったら、

 

(……………………)

 

 本物だったら、そのときは――

 

「そう。没収、没収ね。ええ、没収しちゃってちょうだいな」

 

 霊夢がくくくと喉をひくつかせて笑っている。心の中を完璧に見透かされている気がして、天子は頬がじわじわと熱っぽくなってくるのを感じる。

 

「月見さんには私からもらったって言いなさい。そうすればわかってもらえるわ」

「……騙されないから。絶対騙されないからね」

 

 せめて一矢報いる思いで睨みつけるのだが、残念ながら霊夢相手ではなんの効果もなかった。

 

「こんなの、紫が寝てる今のうちなんだから。あんたも今年はちょっとくらい勇気出すのよー」

 

 老婆心たっぷりにそう言って、霊夢がなんとも機嫌よさそうに掃き掃除へ戻っていく。

 天子はしばらくの間棒立ちでもふもふ券を見つめ、それからふと手水舎の水面に視線を移した。

 なにかを心待ちにしているような、大変満更でもなさそうなだらしない天人の顔が見えて、天子はものすごく穴を掘って隠れたい気分になった。

 

 

 

 

 

 里で恙無(つつがな)く仕事始めを終えたその日の夕暮れ、天子は駆け足ならぬ駆け飛びでもう一度水月苑に向かう。

 月見は庭にいた。ほとりから短い石橋を渡り、池の上で島のようになった場所で、できあがって間もない祠のひとつに白狐の置物を飾り立てている最中だった。彼は天子が声を掛けるより早くこちらに気づき、

 

「いらっしゃい。どうだった、新年初仕事は」

「う、うん。特に何事もなく」

 

 あいかわらず声を掛けてもらえるだけで心がぽわぽわしてしまって、天子は表情がだらしなく緩まないよう頑張ってこらえた。

 

「できたんだ、稲荷神社」

「ああ。宇迦のやつから調度品も届いたよ」

 

 端から端まで十歩もあれば歩けてしまう程度の島に、去年まではなかった祠がぜんぶで四つ建てられている。いずれも真新しい石台に足元を支えられた、月見なら両手で持ち上げてしまいそうなくらいこぢんまりとした祠だ。注連縄と紙垂を渡らせ、石台の上に小さな鳥居まで添えているものがみっつ。注連縄も紙垂も鳥居もなく、代わりに傍でお地蔵様が見守っているのがひとつ。

 博麗神社、守矢神社、稲荷神社、そして命蓮寺の祠である。

 どうして突然そんなものを造ることになったのか、経緯はすでに聞き及んでいる。水月苑がどんどん賑やかになっていくなあと、まるで自分のことのように嬉しく思う天子だった。

 

「なにか手伝おっか?」

「あとはこれを飾るだけだから大丈夫だよ、すぐ終わるさ。……少し休んでいくかい? ぬえに茶を淹れさせよう。あいつは今日も食っちゃ寝してばかりでね」

 

 封獣ぬえ――昨年聖輦船とほぼ同時期に地底の封印から解き放たれ、その後ちゃっかりと水月苑で居候を始めた少女である。かつては伝説にその名を刻んだこともある大妖怪らしいが、今となってはこたつで丸くなるばかりのぐうたら娘に成り下がっているとか。

 天子は少し考え、

 

「じゃあ、ちょっとお邪魔しようかな」

 

 今朝一度ここを訪ねたときに、ぬえと簡単な自己紹介は交わしている。居候先として水月苑を選んだ理由も教えてもらった。温泉こたつにふかふかお布団、そしてあたたかいご飯にもありつけて気ままに暮らせそうだからと。或いは長年封印されていた自分にとって、地上で頼れる相手が月見しかいなかったから、とも。

 だいぶ、月見に懐いているようではあった。それが具体的にどのような感情によるものなのか、もう少し調査を行う必要はあるだろう。

 が、その前に。

 

「……ところで、月見」

 

 まずは、本来の目的を達成する方が先である。霊夢から渡されたこのもふもふ券が紛れもない本物なのか、それともただのイタズラなのか。大したことのないちょっとした質問をするように、さりげなく、フランクに。間違っても、この券をいま天子が所持していることは悟られないように。

 

「今日、博麗神社に行ってきたんだけど」

 

 別に告白をするわけでもあるまいに、なぜか天子は生唾を呑み込みたくなるほど緊張している。うん、と短く相槌を打ちながら、月見が稲荷神社に白狐の置物を飾っていく。

 

「霊夢が、その……大晦日の宴会で手に入れたって、月見の尻尾でお昼寝できる券? みたいなのを見せてきて……」

「ああ」

 

 月見の尻尾がゆらりと動いた。喉で苦笑した気配、

 

「確かに。ビンゴゲームをやってね。その景品用に、私が与り知らぬところでいつの間にかあんなものを作っていたようだ」

「……やっぱり、月見の許可をもらったわけじゃないんだ」

 

 偽物とわかって安心したような、或いは偽物とわかってしまってがっかりしたような、どちらとも言いがたい吐息を天子はそっとこぼした。なんにせよ、これではっきりした。このもふもふ券はやはり非公認の代物であり、天子に対しても月見に対してもなにひとつ効力のない紙切れであり、霊夢が天子をからかうために押しつけたトラップカードだったということだ。

 と、思っていたのだが、

 

「じゃあ、仮にあれを霊夢が使おうとしても無効ってことだよね」

「いや、そのときは付き合うつもりだよ」

 

 へ、

 

「一応、あれでも景品ってことになってるからね。尻尾を枕にされるのは諏訪子で慣れてるし」

「……」

 

 一気に風向きが変わった。とりあえず、天子は今すぐ理解できる事実からひとつずつ確実に整理してみる。

 はっきりと言えるのは、やはりもふもふ券を没収しておいたのは正解だったということだ。もしもこれが天子以外の誰かの手に渡っていたら、どんなに後悔してもしきれないほど羨ましい思いを味わうところだった。霊夢、疑ってごめんね。でも、完全に日頃の行いなのでちょっとは反省してください。

 それで。

 ええと。

 このもふもふ券を、私はどうするべきかという問題なのですが、

 

「もっとも、霊夢があれをあのまま使うとは思えないが。妙なことを企んでなければいいけど……お前はなにか聞いてないかい?」

「えっ、あ、えと、」

 

 まさか、私が譲ってもらっちゃいましたと正直に言えるはずもない。

 しかし一方で、仮に霊夢以外の誰かが使ったとしても、この券が有効なのかどうかは確かめておかねばならないと思い、

 

「聞いてないけど、その、もしかしたら、誰かほしい人に売ったりしてるかも……?」

「ああ、霊夢ならやりそうだなあ。あんな券なんて使わなくても、言ってくれれば触るくらいは誰だって構わないのに」

 

 それはつまり、もふもふ券を誰が使ったとしても付き合ってあげるという意味で、

 

「よし、終わりだ。……で、少し休んでいくんだったね。ゆっくりしていくといい」

「は、はいっ」

 

 白狐の置物を飾り終えた月見が、天子のすぐ横を通って屋敷へ引き上げていく。そのとき狭い島の上だったせいもあり、なびく月見の尻尾がほんの少しだけ天子の手の甲を掠めた。

 情けない声を上げかけるもすんででこらえた。

 怪しまれないよう、天子は努めて平常心を意識しながら月見の後ろについていく。心臓が天子の代わりに大声で狼狽していて、胸がきゅっと詰まるように少しだけ苦しい。

 じろじろ見ちゃダメだとわかっているのに、視線は揺れる月見の尻尾を追いかけてしまって。

 わけもなくポケットに指先を入れて、そこにもふもふ券があることも何度もなぞって確かめた。

 

 

 なお、繰り返すが二週間前の話である。

 小正月が終わり、今年最初の月もいよいよ下旬へと差し掛かり――天子は未だ、もふもふ券を月見に打ち明けることすらできていない。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 つまりは、そんな現状に霊夢は腹を立てているわけである。

 だいだい、この比那名居天子という少女は小心者すぎるのだ。ノミの心臓にもほどがある。昨年の夏、幻想郷全土の規模で異変を起こすという大胆極まりない真似をしたのはどこのどいつだ。霊夢にひと睨みされただけの小動物みたいに縮こまっている彼女が、実は何百年もの時を生きた高貴なる天人だと一体誰が信じるというのか。

 傍にいられるだけで幸せなんて意気地のない考えでは、天地がひっくり返ったって月見を射止められるわけがないのに。

 あの狐は、あまりに長生きしすぎてしまったせいで色恋沙汰では完璧に枯れている。周りの少女たちがみんな年下の娘のように見えていて、自分はその成長を見守っていく立場だと無意識のうちに考えてしまっている。要するに、精神的には隠居した年寄り妖怪そのものなのだ。

 並みの方法では攻略できない。それは、紫や輝夜や藤千代が日頃から突撃しては玉砕している有様を見ても間違いない。なのに、霊夢ですらそこまで理解できているというのにこの天人様は、

 

「使うなら早くしなさいってこないだ里でも言ったでしょ!? ただ尻尾モフらせてもらうだけじゃない、なにそんなに恥ずかしがってるわけ!?」

「れ、霊夢には私の気持ちなんてわかりませんー! 月見の尻尾でお昼寝なんて、あ、ある意味下手な告白とかより恥ずかしいんだからね!?」

「じゃー今すぐ告白してきなさいよもぉー!!」

「そういう問題じゃないのぉー!!」

 

 卓袱台をベシバシ叩き合い、霊夢と天子は言葉による壮絶な弾幕ごっこを繰り広げている。おでことおでこを突き合わせて、鍔迫り合いのように一歩も引かず睨み合う。

 

「私は今のままで充分幸せなの! 無理やり近づこうとして引かれたらどう責任取ってくれるの!?」

「甘い、甘すぎるわよ天子ぃっ!! そんな弱腰で月見さんを攻略できるものかっ!!」

「別に攻略したいわけじゃないもん!!」

「こォんの意気地なしが――――――ッ!!」

「うるさいうるさい霊夢のばか――――――っ!!」

 

 叫びすぎたせいでお互い息が切れ、同時に息継ぎ。それからどちらからともなく、浮かせていた腰を座布団に落としてクールダウンし、

 

「……ったく、じゃあこのまま宝の持ち腐れにする気なの? 私はね、ずりずり先送りにしてたらいつの間にかもふもふ券なくしちゃって、本気で凹んでるあんたの姿しか想像できないんだけど」

「うぐっ……」

 

 そこは嘘でも否定しなさいよ、と心底呆れながら、

 

「自分がどうしたいかはわかってるはずなのに、難儀よねえ……」

「……うー」

 

 天子の言い分もわからないわけではない。月見との距離を縮めるということは、穿って言えば今の関係を変えることにつながる。そして、それが必ずしもよい方向の変化になるとは誰にも保証できない。一層親密になれるかもしれないし、下手を踏んだ結果反ってギクシャクしてしまって、今までの関係に戻ることもできなくなってしまう可能性だってありえるだろう。それは否定しない。

 しかし、断じて明言しておくが、霊夢は天子と月見を強引にくっつけようとしているわけではないのだ。

 ただ、月見のもふもふでお昼寝できる券があるから使ってみろ、と勧めているだけなのである。想いを伝える必要はないし、なんだったら距離を縮めようとアピールする必要だってない。月見のもふもふを枕代わりにお昼寝するなど、彼の周りでは洩矢諏訪子だってフランドール・スカーレットだってやっている日常の風景なのだ。

 しかし今となってはノミの心臓の天子に、触らせてと自分からおねだりするのは高い壁だろう。

 だからもふもふ券を使えばいい。難しいことはなにも言わなくていい。なんか霊夢からもらっちゃって、せっかくだしちょっと使ってみようかなって――それだけ言えば、あのお人好し妖怪ならすんなり納得して頷いてくれるだろう。

 もふもふ券を口実にして、今よりもほんのちょっぴりだけ自分の気持ちに耳を傾けてみる。そのささやかなきっかけにできるよいプレゼントだと思うのだが、どうもこの少女はオーバーに考えたくて仕方がないらしい。

 霊夢はなにも言わず、天子はなにも言えず、母屋の茶の間をしばしの間沈黙が支配しようとした――そのとき。

 

「――霊夢、いるかい?」

 

 玄関の戸が開いた。

 誰がやってきたかなんて、わざわざ考えるまでもなかった。

 里から依頼を持ってきたよ――月見がそう玄関で声をあげるわずかな間、霊夢と天子は互いの顔を見合わせて、次に自分が起こすべき行動を目まぐるしく思考していた。

 しかして、差はほんの一瞬だった。まず霊夢が座布団を蹴飛ばす勢いで立ち上がり、続けざまに天子が、

 

「月見さーん♪ 天子がなんか大切な話」

「させるかああああああああっ!!」

「へぶ!?」

 

 足首を掴まれた霊夢はびたーんと転倒し、

 

「なにすんのよ危ないじゃないの!?」

「言わせないから!! 言わせないからね!? 言ったらもうご飯作ってあげないんだからね!?」

「くっ、胃袋を人質に取るなんて卑怯な……! 見損なったわよ比那名居天子ィ!!」

「れ・い・む・がっ、悪いでしょもおおおおおおおおっ!!」

 

 あんぎゃあ! と畳を転げ回ってケンカしていたら、騒ぎを聞いてあがってきた月見にとても変な目で見られた。

 そこからまたひと悶着起こるわけだが、最終的には天子が涙目で緋想の剣を抜くところまでいってしまい、さすがの霊夢も断念せざるを得なかったのである。

 まったくもって、この少女が一歩前へ進めるのはいつになることやら。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「……はあ。疲れた……」

 

 その日の昼下がり。天子は元気のかけらもない重苦しいため息を吐き出しながら、ふよふよと力なく幻想郷の空を飛んでいた。

 あれですっかり調子が狂ってしまったのか、今日は寺子屋に向かってからもまさしく散々の一言だった。恥ずかしい失敗の繰り返しで生徒からは笑われ慧音からは呆れられ、挙句変に気を遣われて、いつもよりだいぶ早めに仕事を切り上げさせられてしまう始末であった。だめだめすぎる自分にさっきから憂鬱なため息が止まらない。

 つぶやく。

 

「私も、わかってはいるんだけどなあ……」

 

 もちろん、もふもふ券のことである。

 ここ二週間、天子とてあの券からかたくなに目を背けていたわけでは決してない。本音で言えば使ってみたいと思っているのは事実なので、一応、ちょくちょく水月苑を訪ねてチャンス自体は窺っていた。

 しかしまあ、そこは水月苑であり月見とでも言おうか。時期が正月というのもあって来客がいる、もしくは留守にしている場合がほとんどで、誰にも邪魔されず二人きりになれる時間など皆無に等しかった。それを抜きにしても、封獣ぬえという居候が出現してしまったのだからどうしようもない。

 だったら前もって相談して都合をつけてもらえばいいじゃない、と恐らく霊夢なら言うだろう。

 お説ごもっとも。

 そこであと一歩勇気が出ず先送りにしてしまうのが、自分でも自分を情けないと思うところなのだった。

 

「はじめの頃は、普通に触らせてもらったりしてたのに……」

 

 天界ではじめて月見と知り合った頃、弾幕ごっこの修行をつけてもらいながらたびたび尻尾を触らせてもらっていたのを思い出す。あの頃は尻尾とはいえ、月見の体へ触れることに恥ずかしさなんて感じてはいなかったと思う。けれど幻想郷での日々を過ごし、胸の奥の感情を一日また一日と募らせていくうちに、気がつけば『下手な告白より恥ずかしい』と考えるほどの軟弱者になってしまっていた。

 昔の自分に戻りたいとは思わないが、当時の怖いもの知らずだった度胸が今は少しだけ羨ましい。

 

「はあ……」

 

 しかしそうやってため息をつく中でも、天子は気がつけば水月苑の近くまで漂ってきていた。天界から地上にやってきたとき、そして地上から天界へ帰るときに水月苑で月見に挨拶するのは、もはや天子の体と精神に染みついた習慣みたいなものだった。

 月見に会えば元気になれるかなと考えてしまう自分に、少しだけ笑みがこぼれた。

 

「こんにちは、ひめ」

「あ、天子さん。こんにちはー」

 

 池のほとりでわかさぎ姫に挨拶をする。はじめは来客みんなから物珍しい目で見られていた彼女も、今となってはすっかり水月苑の看板娘だった。彼女としても、水月苑では月見よりもまず自分が来客と顔を合わせる立場だと自覚するところはあるらしく、いついかなるときもあたたかな挨拶と笑顔を欠かさないでいる。

 

「今日はお仕事、早く終わったんですか?」

「うん、なんか調子が悪くって。早退しちゃった」

「えっ……だ、大丈夫ですかー?」

 

 まるで自分のことのように心配してくれるわかさぎ姫を、『天使先生』なんて呼ばれる私よりよっぽど天使だよなあと思いながら、

 

「大丈夫。具合が悪いんじゃなくて、なんていうか……気持ちの方だから。なんだか今日は空回り気味で、疲れちゃって」

「まあ、そうなんですか……」

 

 わかさぎ姫は気遣わしく相槌を打ってから、励ますように尾ひれで水面をぱしゃぱしゃと叩いた。

 

「それなら、お屋敷で休憩なさっていってくださいな! ちょうど旦那様も、少し前に戻ってこられたばかりですのでっ」

「うん。そうするね」

 

 月見は昼間出掛けている場合も多いので、この時間帯に屋敷で会えるのは運がいい。それだけで、あんなにも憂鬱だった気持ちが回復し始めたのを感じてしまう天子であった。

 わかさぎ姫と別れ、屋敷の戸を開ける。

 

「月見ー、入るねー」

 

 かすかに返事が返ってきたのを確認し、きちんと揃えて履物を脱ぐ。どうやら本当に戻ってきたばかりだったようで、茶の間に向かうと月見はこたつで冷えた体を温めている最中だった。

 

「いらっしゃい、天子」

 

 月見は壁に掛けられた時計を一瞥し、

 

「今日は早いじゃないか。なにか用事かい?」

「ううん、そういうわけじゃないんだけど……」

 

 手でこたつに入るよう促されたので、天子はそそくさとお邪魔させていただく。下半身にじんわりと心地よさが広がるも、天子がほっとため息をついたのは、体ではなく心を温めてくれる別のぬくもりに対してだった。

 と、そこでふと気づく。

 

「……あれ、そういえばぬえは?」

 

 いつもこたつで惰眠を貪っているはずのぐうたら娘が今はいない。月見は「ああ」と短く声をあげ、

 

「あいつなら、今は命蓮寺に行ってるよ」

「ふーん……」

 

 この二週間ほどで、ぬえともだいぶ親しくなれた。地底で封印されている間は、命蓮寺にいる村紗水蜜や雲居一輪と一緒に生活していたらしく、そのつながりで時折は寺の手伝いに連れ出されることがあるようだ。タイミングが重なったのは今回がはじめてである。

 ということはつまり、今の自分は正真正銘月見と二人きりになるわけで、

 

「それで?」

「へ? あ、ご、ごめん」

 

 天子は心の中で頭を振り、降って湧いた思考を強引に打ち切った。

 

「具合が悪いわけじゃないんだけど、今日はちょっと調子が出なくて。早く帰って休むように言われちゃった」

「おや、お疲れかい」

「あはは……まあ、それもちょっとあるかなあ……」

 

 主に霊夢のせいで。霊夢のせいで。今朝は本当に、あと一歩のところでもふもふ券のことをバラされてしまうところだったのだ。なんとか月見には気づかれずやり過ごせたものの、かなり変な目で見られてしまってとんでもなく恥ずかしかった。

 しかし、こうして思い出したらだんだんと腹が立ってきた。もふもふ券は霊夢が天子に譲渡したものであり、現在の所有者は他でもない天子だ。だったら券をいつどう使うかは天子の自由であるはずで、さっさと使えだの、やる気あるのかだのと文句を言われる筋合いなんてないじゃないか。

 

「そうか。なら、少し昼寝でもしていくかい? ご希望なら尻尾を貸すよ」

「そうだねえ、それもいいかなあ……」

 

 背を押そうとしてくれる気持ち自体はありがたいが、やっぱり霊夢は気が短くて強引すぎる。確かに、こちらから近づこうとしなければ月見との距離を縮められないのは天子も認める。しかし、後先考えずグイグイ行くのが正解かなんて誰にもわからないではないか。もし本当に正解ならば、紫か藤千代がとっくの昔に月見を射止めているはずではないのか。

 近すぎず遠すぎない距離から互いの理解を深める時間だって、この手の問題にはまた必要不可欠なもののはずだ。霊夢もちょっとは月見から影響を受けた方がいい。例えば今のように、相手のペースに合わせて昼寝を勧め、なんだったら尻尾だって貸してやるくらいの広い度量を持って待って待って待って待って、

 

「私の尻尾程度で気が休まるならいくらでも貸すよ。なんなら十一本ぜんぶ出してもいいぞ」

「…………………………………………」

 

 天子は急激な真顔になって月見を見た。

 月見は、微笑んでいた。

 一見するといつも通りの月見だが、今だけはなぜか意味深長に見えて仕方がなかった。

 だから、天子は、

 

「…………つ、月見。もしかして、あの、ええと、」

 

 壊れる寸前の硝子細工のように、全身にヒビが入っていくのを感じながら、

 

「ま、まさか、気づいて(・・・・)

「さて、なんのことだい?」

 

 絶対気づいてる。

 理解した途端、耳の先までぼふんと真っ赤になったのがわかった。

 

「……つ、月見ー!? いつから!? 一体いつから気づいてたのお!?」

「なんの話だかわからないなあ」

「嘘つきいいいいいいいいっ!?」

 

 ふにゃー!! と、天子は今すぐこたつに飛び込んで丸くなりたい衝動に駆られる。さすがにそこまではしなかったが、月見から離れる方向の畳にお腹からダイブして、腕を枕にして突っ伏しながらああああああああと煩悶した。

 なんというか、頭の中の神経がぷちぷち音を立てて千切れ飛んでいくような。

 天子の人生を振り返ってもなかなか身に覚えのない、空前絶後の恥ずかしさだった。

 全身の高熱はあっという間に許容限界を超えて、天子は蒸気をもくもく噴出しながら畳でノビるだけの物体と化した。

 

「…………もうころしてくださいぃぃ……」

「大袈裟な。でも、そういう反応をするってことはやっぱり当たりだったかい」

 

 一撃必殺です。

 

「……参考までに、どこで気づいたか教えていただけると……」

「このところお前が妙に私の尻尾を見ているのは、だいぶ前から気づいていたよ」

 

 しんでいいですか。

 

「で、今朝の神社のあれだろう? だから、霊夢があの券を選んだのはそういう狙いだったのかって」

「……」

 

 よくよく考えてみれば、そりゃあ気づかれるよなあと天子は思うのだ。だって月見は特別鈍感ではないし、里で相談役として人気を獲得している通りむしろ気配り上手な方である。自分に突如今までと違う視線を向けてくる知人がいれば、たとえなんとなくであってもやっぱり彼は気づいてしまうのだ。

 むしろ鈍感だったのは、気づかれているなんて夢にも思っていなかった天子の方だったわけで。

 月見のことを最近やたらジロジロと見て、しかも気づかれていると気づいていない。なんだかそれって、言葉だけだとそこはかとなく変態っぽく聞こえるわけで。

 

「ところで天子、生きてるかい?」

「あい……」

 

 死にかけの返事をして、天子はなんとか腕で上体を起こした。月見に振り向く精神力はない。蒸気の噴出は落ち着いたが、まだ湯気くらいはあがっている気がする。

 どうしよう、ここから自分が生き延びられる選択肢がまったく見えない。明日からどんな顔をして月見に会えばいいのか。否、今日はどんな顔をして月見と別れればいいのか。目下最大の問題は、そもそも今の自分がどんな顔をしているのかまったくわからないことである。

 

「どうする? 繰り返しになるけど、私の尻尾程度で休めるなら十一本ぜんぶでも貸すよ」

「……」

 

 しかしながら、天子はふっと思考してみる。

 ここまでこっぴどく恥ずかしい思いをしたのなら、もはや開き直ってもいいのではないか。今更羞恥をひとつふたつ上塗りしたところで失うものはなにもない。月見はもふもふ券を天子が持っていると知り、その上で快く尻尾を貸すと言ってくれている。そして、今は月見と天子以外水月苑には誰もいない。ここで天子がヤケクソになってもふもふ券を使ったとしても、それを目撃して茶化したり言い触らしたりする輩はどこにもいないのだ。

 なにより天子自身、いろいろ限界すぎていっそひと思いに甘えてしまいたいというか。

 幸か不幸かは定かでないが、恐らくこんなチャンスはもう二度と巡ってこない。

 

「……つくみ」

 

 あいかわらず、心臓はバクバクでおかしくなってしまいそうなくらいだったけれど。月見へ振り向いた自分がどんな顔をしているのかは、最後までわからなかったけれど。

 あとはもう、野となれ山となれだった。

 

「――誰にも、言わないでくれる……?」

 

 天子がこんなにも決死の思いで搾り出したのに、月見はいつもの優しい微笑みで、答えを考えた素振りもなく。

 

「ああ。御安い御用だとも」

 

 月見が妖術を使う気配。隠されていた十本の尻尾が畳に広がり、みるみる膨らんでもふもふを超越したもっこもこの即席ベッドを作りあげる。あああれは人類をダメにするやつだな、と天子はひと目で確信する。あれに全身で飛び込めば最後、天子の意識はあっという間に極楽まで吹っ飛んで帰ってこられなくなるだろう。

 でも、もう、帰ってこられなくてもいいや。

 

「つくみ」

 

 目の前の一本に手を埋めてみると、説明不能の柔らかさで心地よく押し返される。

 

「なんていうか、その」

 

 こんな反則的なベッドでお昼寝しようものなら、もう、いろいろとだらしないことになるのは見えきっていたので。

 

「うしろ、あんまり、見ないでね…………?」

 

 絶対に見ないで、と言わなかったのは――恥ずかしいけれど、月見になら、だらしないところを見られたとしても、まあいいかなと。心のどこかでは、そんな風に考えていたからなのかもしれない。

 

「わかったよ。一時間くらいで起こすから、ゆっくりおやすみ」

「……うん」

 

 月見の言葉が、それだけで優しい子守唄のようで。

 ぜんぶ吹っ切れたとはいえやっぱり恥ずかしかったし、心臓なんていよいよ限界だったけれど。

 それで眠れなかったのははじめの数分。沈みゆく天子の意識が最後に見ていたのは、なんだかいつもよりも大きくてあたたかい、銀の狐の背中だった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――あ、霊夢さん霊夢さんっ」

「ん?」

 

 なんとなしに水月苑までやってきた霊夢が玄関へ向かおうとすると、池のほとりからわかさぎ姫に呼び止められる。

 

「旦那様がお取り込み中なので、いまお屋敷へは入れませんよー」

「取り込み中?」

 

 眉をひそめながら改めて玄関を見たところ、確かに『所用のため施錠中』と札が掛かっている。冬なので当たり前といえば当たり前だが、縁側の雨戸もすべてぴっちりと閉められていて中の様子はわからない。

 

「一時間ほどで終わると仰ってましたが、お急ぎでなければまた明日いらしてくださいな」

「ふうん……」

 

 月見の就寝時を除いては基本的にいつでも誰でも入れる水月苑が、戸をすべて閉ざして来客をお断りしているのは珍しい。

 

「誰か面倒なお客さんでも来てるの? 閻魔様とか」

「いえ、確か天子さんだけだったと思いますけど」

 

 その名を聞いた瞬間、霊夢は回れ右をしてわかさぎ姫の目の前まで詰め寄っていた。

 

「――確認させてちょうだい。いま水月苑にいるお客さんは、天子一人。間違いないわね?」

「え、は、はい、そのはずだと思います」

 

 なるほど。

 なぁるほど。

 霊夢は推理小説に登場する名探偵ばりで思考を回転させる。いま現在のお客さんは天子だけ、これはすなわち天子と月見が二人っきりということだ。そして表に掛かった『所用のため施錠中』の札。これだけ見ると重要な用事で手が離せないのだろうと受け取りがちだが、果たして本当にそうか。これは例えば、屋敷で広がるなにか途轍もなく微笑ましい光景を、余所者に目撃されないよう配慮するカモフラージュではないのか。

 無論、以上は霊夢の勝手な想像であり確証なんてなにもない。

 しかしそう考えた場合、霊夢の中ですべての線が見事一本につながるのだ。

 つぶやいた。

 

「……やれやれ、あいつもやっと観念したってことね」

「え?」

「いえ、なんでもないわ。それじゃあ、今日のところはまた出直すとしましょうか」

 

 所詮は、午後のおやつでも食べさせてもらおうと思って本当になんとなく立ち寄っただけの身だ。実際にこの目で見られないのは残念だが、だからといって玄関の錠を蹴破るのはさすがにぶしつけが過ぎるだろう。

 こんなときくらいは、霊夢も黙って空気を読むのである。

 振り返って、茶の間がある方向に目を遣って。

 

(それでいいのよ、天子。あんただってたまにはいい思いする権利くらいあるんだから、遠慮するこたないわ)

 

 まったくあいつの応援も楽じゃないわねー、と心の中で大仰に肩を竦め、霊夢は代わりのおやつを求めて香霖堂へターゲットを切り替えた。

 

 この日、このとき、水月苑の茶の間でなにが起こっていたのか。

 知っているのは幻想郷でただ二人、銀の狐と楽園の巫女さんだけである。

 

 

 

 ――無論、後日霊夢が天子に「月見さんのもふもふはどうだったかしらぁー?」とニヤニヤ尋ねた結果、博麗神社ではちゃめちゃな弾幕ごっこが巻き起こったのはまったくの余談。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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