銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色

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第145話 「やがては来る春を待つ」

 

 

 

 

 

 鈴奈庵とは、人里で唯一の木版印刷を専門に取り扱う店のことをいう。

 要は、規模の大きい版画だと思ってもらえばよい。印刷したい本の内容を木の板へ左右反転して彫り込み、そこに塗料を塗って、紙に押しつけることで複製していく手法である。外の世界では機械の発達に伴って廃れてしまったが、古くは仏教の経典や浮世絵などの大量生産で活躍し、長きに渡って日本の出版界を支えてくれた技術でもある。

 その技を幻想郷で受け継ぐのが鈴奈庵であり、一人娘兼看板娘の名を本居小鈴という。

 月見とは、互いの名を覚えてから日は浅いが顔見知りに当たる。自他ともに認めるビブロフィリア(ほんのむし)であり、親譲りの好奇心と蒐集癖を持つ少女であり、こうして時折月見を店まで招いては、

 

「――なるほど、『ベルリンの壁崩壊』ってそういうことだったんですねー。てっきりただの手抜き工事の記事だと思ってましたよぉ」

 

 集めた外の本やら新聞記事やらを持ってきて、お茶をすすりながら雑談に耽る程度の仲であった。

 命蓮寺での豆まきを終えた午後、古ぼけた紙と墨の匂いで満ちた鈴奈庵にて、この日小鈴が持ってきたのは外の擦り切れた週刊誌だった。外国のものだが、小鈴はまるで日本語のように難なく読むことができる。どのような言語であっても自然とその意味が理解できてしまう――『あらゆる文字を読める程度の能力』のお陰だという。

 あくまで読解のみであり、会話や筆記にはほとんど応用できないそうだが、どんな書物でも楽しむことのできるその能力を小鈴はいたく気に入っていた。手元の新聞をふんふんと何度も読み返しながら、

 

「いやーさすが月見さん、物知りですねえ」

「たまたま知ってただけさ。外でも有名な出来事だったからね」

「いえいえそんな。私みたいな能力もないのに、この記事だってさらさら読んじゃいますし……やっぱり長生きなお稲荷様なんだなあって実感します」

 

 ところでこの少女、月見のことをお稲荷様だと勘違いしている里人の筆頭であったりする。

 里の人間というのは、月見を妖怪と見ているか稲荷と見ているかで三つのパターンに分類できる。

 まずは月見を正しく妖怪と認識した上で、善良な存在として受け入れてくれている者。慧音や阿求がこれに当たる。次が月見を妖怪と理解しつつも、面白がって稲荷扱いしてくる者。日頃から月見に悩み相談を持ちこんでくるのが概ねこの類である。

 そして最後が小鈴のように、みんな稲荷だって言ってるし妖怪なわけないよね! と、そもそも妖怪だと信じてくれていない人たちなのだった。どうしてこんなことになってしまったのか月見にはさっぱりわからない。

 

「こうしてお稲荷様と本でお話するようになるなんて、夢にも思ってませんでした」

「……はっはっは」

 

 笑顔が乾いているのを感じる。

 とはいえ小鈴の場合は、その誤解がよい方向に働いて巡り合えた仲でもあった。なんでも彼女、元々は月見をちゃんと妖怪だと思っており、そのせいで怖くて近寄れないでいたのだという。だがあるとき周りの大人たちが「お稲荷様」と呼んでいることに気づき、ああきっとあの人はよんどころない事情があって妖怪と名乗ってるんだな、本当はお稲荷様だったんだなと納得したそうだ。

 幼い頃からたくさんの本に囲まれて育ったせいか、この少女、ちょっとばかり想像力が豊かだった。

 私は本当に妖怪なんだよとか、そもそもお稲荷様は狐じゃないんだよとか、喉から出そうになる言葉は多々あるものの、怖がられるよりはマシかと月見はプラス思考するようにしている。最近宇迦之御魂神から、「うちの神使にならへん?」と勧誘されているのも忘れることにする。

 

「それにしても……」

 

 さて小鈴の話がひと区切りしたので、月見は鈴奈庵の店内を見回して一言。

 

「また、いくらか本が増えたみたいだね」

 

 正直この装いを見て、鈴奈庵が木版印刷の専門店だとすんなり見抜ける者はいないだろう。

 本、である。壁にずらりと並んだ本棚、元々は来客用だったと思われる机、椅子、果てはそのへんの床の上にまで。物を置ける場所にはすべて本を置いたといっても大袈裟ではない、この本の巣窟こそが鈴奈庵の店構えだった。

 さほど広い店内ではないが、それでも冊数は五百やそこらを下るまい。本が大変貴重な人里で、すべて本居一家が個人的に蒐集してきたコレクションだというのだから恐れ入る。

 

「ええ、このあいだの古物市でだいぶ買っちゃいました。あとは、知り合いの旦那様が亡くなられて……そこでご遺族から引き取ったり、ですね」

 

 本居一家の蒐集癖は里でも知れ渡っている。なので一部の裕福な家では、扱いに困った本を寄贈という形で処分できる場所、とも認識されているようだった。

 

「最近、いよいよ置き場がなくなってきちゃって……あのへんも床に積んじゃってますし、本棚増やさないとですねえ」

 

 小鈴は頬を掻きながら苦笑、

 

「整理してる途中にちょっとのつもりで読み始めたら、いつの間にか日が暮れてたとか……そんなのばっかりで、ぜんぜん整理が追いついてなくて」

「ああ、それはわかるなあ。ほんの休憩のつもりなんだけどね」

「そう、そうなんですよっ。不思議ですよね、それもまた本の魅力なんですけど日が暮れちゃうと明かりをつけなきゃ読みづらくなっちゃうからもう一日中太陽が出てればいいのにって、」

 

 椅子を蹴飛ばすように立ち上がり、うっとりと陶酔しかけたところで正気に返った。縮こまりながらいそいそと腰を降ろし、

 

「ご、ごめんなさい。こんな風にお話できるのも今までは阿求くらいだったので、つい楽しくて……」

「光栄だよ」

 

 里で唯一本の印刷・製本を専門としていることから、本居家は稗田家とも関わりが深く、小鈴と阿求は親友同士である。阿求が編纂している歴史書の中にも、ここで命を吹き込まれたものは少なくないと聞いている。

 小鈴は気を取り直し、

 

「えっと、私が訊きたかったのはこれで終わりです。どうもありがとうございました。このあとはどうしますか?」

 

 どうするかとは、鈴奈庵の蔵書を見ていくか、という意味だ。こうして外の世界の話を聞き終えると、小鈴はお礼代わりに店の本を好きなだけ見せてくれる。そして、そのとき月見がリクエストするのはいつも決まっていた。

 

「じゃあ、今日も例のものをお願いしようか」

「わかりました」

 

 小鈴は週刊誌を丁寧に畳み、破顔一笑を以て答えた。

 

「私の自慢のコレクション――妖魔本ですね」

 

 

 

 

 

 〇

 

 

 この世界で『妖魔本』と呼ばれる書物には、主だって二つの種類が存在する。

 ひとつが、人外の著した本のこと。妖怪が書いた歴史書も魔法使いが作った魔導書も、とにかく人外が書いたものであれば、ただの日記や手紙の一枚までここに分類される。それ以外はなんの変哲もない『ただの書物』であり、鈴奈庵が蒐集する妖魔本も大半はこれである。

 そしてもうひとつが、極端な例を挙げれば読むだけで呪われる等、なんらかのオカルト的な力を宿していて『ただの書物』とは呼べない場合。

 制作者が人間であれ妖怪であれ、読み手にささやかな恩恵をもたらす有益なものから、周囲の命すら脅かしかねない危険なものまで様々であり。

 まこと危なっかしいことながら、この後者の妖魔本まで鈴奈庵には所蔵されているのだ。

 

「――お待たせしました。これが去年月見さんに(・・・・・)直していただいた(・・・・・・・・)、『今昔百鬼拾遺稗田写本』ですね」

「ありがとう」

 

 小鈴が持ってきた妖魔本は十数点。人間が複数冊所持しているだけでも珍しいのに、すべて小鈴が両親にも内緒で集めたコレクションだというのだからそら恐ろしい。きっかけは「両親も持っていないようなすごい本がほしかったから」だったというが、卓越した蒐集能力と褒めるべきか、異様なまでの蒐集癖と呆れるべきか。

 さて、『今昔百鬼拾遺稗田写本』である。

 鈴奈庵における後者の妖魔本の一冊であり、妖怪の存在を記録した図鑑という体で、実は何匹か本物の妖怪が封印されているというシロモノだ。当然ながら封印を解けば妖怪が復活し、人々の平穏が脅かされることになる危険な一冊でもある。

 こいつを小鈴にはじめて見せてもらったときは、長い年月を経たせいか術が綻んでおり、ロクな知識がなくとも簡単に封印を解いてしまえる状態になっていた。この本を読んでいるとき、もしくは手入れしているとき、ふとした拍子に意図せず妖怪を解き放ってしまう危険性があったということだ。なので月見が事情を説明し、小鈴の了承を得た上で封印の修復を施したのである。

 似たような理由で、他の妖魔本にも何冊か月見が手を入れている。云うなれば、妖魔本専門の検査人、というのが月見の立ち位置なのだった。

 

「……うん、特に問題なさそうだね」

「そうですか。よかったですー」

 

 小鈴が小さく胸を撫で下ろす。万が一誤って妖怪を復活させてしまったら、店にどんな被害があるかわからないし、両親からも大目玉を食らうし、たぶん慧音もすっ飛んでくる。妖魔本を集めるという変わった趣味を持っているが、おばけと妖怪、そして大人から怒られるのが年相応に怖い――本居小鈴は、そんなどこにでもいるようなごくごく普通の少女だった。

 

「まさかいつ封印が解けてもおかしくない状態だったなんて……はじめ聞いたときはびっくりしました」

「私も、お前がこういう本を集めてると知ったときは驚いたよ」

 

 そもそも月見と小鈴が知り合ったきっかけは、阿求だった。私の友人が熱心に妖魔本を集めていて、そのうちなにかやらかすんじゃないかと心配だから一度見てやってほしい、と頼まれたのだ。

 結果、阿求の不安は見事的中だったというべきか。もし小鈴を――否、彼女の持つ妖魔本をそのままにしていたら、きっとそう遠くないうちに面倒な事件を巻き起こしていただろうから。

 

「危ないものもあるとはわかってるんですけど、やっぱり愛書家の血が騒いじゃうというか」

「止めやしないさ、そこまでは阿求に頼まれてないし。お前も、危ないとわかった上で悪用したりはしないだろう?」

「もちろんですよっ。お店の売り上げを勝手に使ってこんなの集めてるってバレたら、拳骨一発じゃ……あわわわわ」

 

 ふと、この子は霖之助と気が合いそうだなと思った。自分の首を自分で絞めていると自覚しているのに、それでもお金を趣味に使うのがやめられない――年の瀬に金欠を起こしていたあの蒐集家とまさしく瓜二つではないか。香霖堂にもたくさんの外来本が所蔵されているから、いつか二人を引き合わせてみるのも面白いかもしれない。

 それに考え方次第では、人里のどこにどれだけ存在しているのかもわからない妖魔本を、彼女が片っ端から集めてくれるなら反って対処がしやすくなるといえる。危なっかしいものはみんなまとめて、目が届く場所で管理しておくに限るのだ。

 その後も小鈴が持ってきた妖魔本を、一冊ずつ目と手で確認して。

 

「よし、ぜんぶ大丈夫だね」

「ありがとうございます。いやー、やっぱりお稲荷様に見てもらえると安心感が違いますねー」

 

 アア、ソウダネ。

 

「また新しい妖魔本が手に入ったら、まっさきに月見さんにお見せしますのでっ」

「そうしてくれ。お前が安全に趣味を続けられるようにね」

「えへへ、ありがとうございます」

 

 最初は怖がられていたという割に、いつの間にか随分と信頼されてしまったものである。小鈴が妖魔本の蒐集を続ける限り、この店とは今後末永い付き合いになりそうだった。

 

「今の時期は寒くて大変だけど、換気はこまめにね。陰気が溜まらないように」

「はーい。湿気は本の敵ですからね、毎日忘れずやってますよ!」

 

 鈴奈庵はあくまで木版印刷の専門店であるが、一家の蒐集癖は里でも広く知られるところであり、数多の本を並べるこの店構えも同じくらいに有名である。

 しかし小鈴の妖魔本は、両親の外来本とは違って、彼女が心を許した相手にしか教えないヒミツのコレクション。

 その実ここが、里でも指折り妖怪と近い『陰』の場所であることを、知っている者はほとんどいない。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――『アフリカでエボラが猛威を振るう』……うーん、アフリカは地名っぽいけど、エボラは……妖怪かしら?」

 

 月見に妖魔本を確認してもらってから数日、充分高い月が外に静寂の帳を下ろした時刻。小鈴は鈴奈庵の屋根裏部屋で布団にもぐりこみつつ、寝る前には欠かせない静かな夜の読書を楽しんでいた。

 この日読んでいるのは、つい今日手に入れたばかりの外の週刊誌だった。

 元々読書は大好きだが、月見と知り合ってからは外来本を読むのがますます楽しくなった。外来本は幻想郷の住人にとって馴染みのない用語や固有名詞が多く、文字を読むことはできてもその意味までは理解できないものが珍しくない。しかし今の小鈴には、わからない言葉があったときに優しく手解きしてくれる先生がいる。単純な言葉の意味はもちろん、説明が難しいものなら幻術で図を示したり、おおまかな見た目を再現してくれたりすることもある。彼にも説明できない言葉が出てきたときだって、必ずどこかで調べてきて答えを教えてくれる。穏やかな口調で語られる遠い世界のお話は、昔受けていた寺子屋の授業より何百倍も心が躍るものだった。

 そして教えてもらった知識を駆使し、今までわからなかった文章を自力で読み解けるようになったときの快感といったらもう言葉にも代えられない。

 お陰で最近は、とっくの昔に見飽きた外来本まで一から読み返すこともある始末だった。

 

(これも、今度月見さんに教えてもらおっかな)

 

 はじめは怪しい妖怪だと怖がっていた自分を、今では心底恥じるばかりである。こんなビブロフィリアなオタクの話に快く付き合ってくれるばかりか、危険が及ばないよう妖魔本の修復まで任されてくれている。お陰で小鈴も安心して妖魔本を集められるし、外の世界について教えてもらうという建前で、趣味を同じくする仲間と心ゆくまで楽しい時間を過ごすことができる。

 親友の阿求相手では、仲がよくなりすぎた弊害なのか、なかなかこうはいかないのだ。そういう意味で、年の離れた近所のお兄さんのような、近すぎず遠すぎもしない距離感が小鈴には不思議と心地よかった。

 次に月見と話せるときが楽しみで仕方がない。まさか自分にこんな同好の士ができるとは思っていなくて、小鈴は読書をするのも忘れてだらしのない笑顔をこぼした。

 

 物音がした。

 

「――?」

 

 一階からだった。最初は、両親だろうかと思った。いつもなら二人とも寝静まっている時間だが、ふっと目が覚めて布団から抜け出し、薄暗い視界でうっかり物音を立ててしまうこともあるだろう。この鈴奈庵は小鈴と両親の三人暮らしであるから、それ以外の可能性などありえないはずだった。

 けれど今しがた聞こえたのがなんの音だったかに気づいた途端、言い知れぬ不安が小鈴の足元からせり上がってきた。

 あれは、店の本が落ちた音ではなかったか。

 しかも一冊や二冊ではなく、恐らくは机の上で重ねたままになっていた本の山が、まとめて崩れて床に散らばった音。

 頬がひきつった。

 

「……ま、まさか、」

 

 ――泥棒、じゃないよね。

 いやいやそんなはずはない、お父さんかお母さんに決まってると自分に言い聞かせる。しかし、一度絡みついてしまった不安はその程度の自己暗示では誤魔化せなかった。いくら視界の悪い夜中だからといって、目を瞑っていても歩ける自分の家でそんなうっかりをするものなのか。普段なら寝ているはずの時間に一体なにをやっているのか。本当に、お父さんかお母さんなのか。

 

「……、」

 

 小鈴は、身動きひとつできずか細く息を殺していた。

 ――人里において、本は貴重品であり金銭的な価値も決して低くない。

 もしも。

 もしも泥棒が、鈴奈庵の本を盗もうとしているとしたら。

 両親が長年掛けて集めてきた外来本はもちろん、もしかしたら小鈴の大切な大切な妖魔本まで――

 

「――……」

 

 断崖絶壁の上で綱渡りをするように、小鈴は髪の毛の先まで神経を尖らせながら布団から抜け出した。やめておけ、なにかあったらどうするつもりだ――頭の裏からそう警告してくる自分がいる。しかし己の身に危険が及ぶかもしれないと理解しても、小鈴にはじっとしているなんてできなかった。もしも物音の正体が本当に泥棒で、もしも本当に妖魔本を盗まれてしまったら、小鈴は布団の中で怯えていた自分を一生後悔し続けるだろう。

 一方で、泥棒なんてとっ捕まえてやると熱に浮かされているわけでもない。鈴奈庵の本の価値を理解し盗もうとするなら、間違いなく犯人は大人であり、護身術の心得もない小娘一人が立ち向かったところで勝ち目はない。だから犯人の顔でもなんでも、せめて盗みの証拠だけは掴むべきだと思ったのだ。

 

 思えばこの時点で『両親を起こす』という選択肢が過ぎりもしなかったのは、ひりつくような焦燥を前に合理的な判断を失い、自分一人だけが冷静なつもりでいた証拠だったのだろう。

 

 鈴奈庵は、本居家家屋の一部を改装して店舗としている。屋根裏から一階へ下りれば、店のスペースと住居のスペースを仕切るのは廊下一本と暖簾ひとつだけである。凍える忍び足で廊下を越え、震える四つん這いになって暖簾をくぐり、今にも心臓が止まるような思いで怖々と店を覗き込んだ。

 闇、である。

 暗闇にまだ目が慣れきっていないものの、不審な物音はこれといって聞こえないし、人影も見当たらないように見える。気のせいだったのか両親だったのか、それともすでに盗みを終えて退散してしまったのか、小鈴の緊張の糸がほんの一瞬緩みかけたその直後、

 

 音。

 

「……!」

 

 小鈴の全身が再び電流とともに緊張する。今度こそ間違いなかった。ここからは死角となった本棚の陰で、何者かが店の本を物色している。棚から本を抜く音と、手元でページを繰る紙の音が確かに聞こえる。

 生唾を呑んだ。心臓と胃がよじれによじれて、夜に食べた物を戻してしまいそうなくらいだった。

 だが、逃げようとは思わなかった。普段勘定台として使っている机の陰まで移動し、首を亀みたいに突き出してなんとか物音の正体を探ろうとした。

 だんだんと、闇に目が慣れてきていた。

 その人影はあまりに小さく、最初は床とほとんど同化しているように見えた。

 

(――え、)

 

 それだけで本を物色しているのが両親ではなく、ひいては小鈴が想像していたような泥棒でもないと必然的にわかった。

 いくらなんでも小さすぎる。あれではまるで、文字を覚えて間もない子どもが床に本を広げ、ぺたりと座りながら読書に耽っているときのような、

 

「……こ、子ども……?」

 

 虚を衝かれるあまり、無意識のうちに声がこぼれてしまっていた。

 それが命取りだった。

 

「――あ、」

 

 夜が深く、物の輪郭くらいしかわからない闇の中でも――目が合ったのだと、はっきりと感じた。

 人影が飛び跳ね、そのとき小鈴は、なにか動物めいた高い鳴き声を聞いた気がした。

 それがなにを意味していたのかは、小鈴にはとうとうわからなかった。目の前で影が歪に揺らめき、突然形が崩れるや上から引っ張られるように巨大化して、気がつけば見上げる天井からぎょろりと目玉が、

 

「――うぎゃああああああああああ!?」

 

 一つ目お化け。

 妖怪やお化けが普通に怖い普通な少女である小鈴は、為す術もなくひっくり返って意識を手放した。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――月見さん。あの、いまお時間はありますか?」

 

 散歩や買い物がてらで人里を歩いているとき、道行く人々から相談事を持ちかけられるのにもすっかり慣れてしまった。

 暦の上では立春が過ぎ去り、冬のかじかむ寒さも多少和らぎを感じられるようになってきたその日、月見を呼び止めたのは九代目御阿礼の子だった。月見の前ではなにかと気丈夫に振る舞うことの多い彼女だが、今日は普段の元気が少しばかり鳴りを潜めていた。

 

「実は、小鈴のことなんですけど……」

「どうかしたのかい?」

 

 あまり声を大きくはできない厄介事らしい。阿求は神経質な様子で傍に人がいないのを確認すると、月見にもう一歩だけ近づいてトーンを落とした。

 

「……昨日の晩、小鈴の家に妖怪が出たらしいんです」

「……妖怪か」

 

 少し、答えを返すのに間が空いてしまった。そのとき月見の脳裏を真っ先によぎったのは、言うまでもなく小鈴が蒐集している数々の妖魔本だった。

 

「幸い、危ない目には遭わなかったそうですけど……念のため、これから様子を見に行こうと思ってまして」

 

 ――妖魔本から、妖怪が出てきてしまった?

 考えにくいことではある。鈴奈庵の妖魔本にはすべて月見が目を通しており、綻んでいた封印の修復もひとつ残らず終わっている。妖怪が勝手に出てきてしまう危険性はないはずだし、かつては月見すら怖がっていた小鈴が自分から封印を解くとも思えない。

 ならば妖魔本に惹かれて、外から妖怪が入り込んだのか。

 

「もしよろしければ、月見さんもご一緒いただけませんか?」

「……わかった。行ってみよう」

 

 一も二もなかった。これがもし妖魔本に起因するトラブルであれば、月見のミスという可能性も決してありえない話ではなくなる。そのときは、妖魔本の修復を申し出た身として責任を果たさなければならないだろう。

 阿求の隣に並び、行く先を鈴奈庵へ切り替える。阿求はため息をつくように、

 

「……妖魔本、でしょうか。もしかして封印されていた妖怪が――」

 

 はたと口を噤み、

 

「あ、ごめんなさい、月見さんの腕を疑っているわけではっ……」

「いや、それは私も考えていたよ」

 

 月見の修復にミスがあったのか、偶然なんらかの外的な要因があったのか、どちらにせよ事が起こったのなら可能性としては否定できない。

 

「小鈴の見間違いでないのなら、あそこで妖怪が出る可能性は二つしかない。本から出てきたか、外から入り込んだかだ」

「小鈴の妖魔本を狙って入り込んだ可能性も……」

「ありえるだろうね」

 

 阿求は眉間を押さえ、今度こそ項垂れるようにため息をついた。

 

「もう、だから興味本位で集めるのは危ないって言ってるのに……」

「まあ、妖魔本が原因と決まったわけじゃない。なんにせよ話を聞いてみないとね」

 

 鈴奈庵は、今日も表に暖簾を提げて普段通り営業していた。戸を開けるとカウンター代わりの机で本を読んでいた小鈴が、「いらっしゃいませーっ」と思いのほか元気に顔を上げた。

 

「あ、月見さん! ……と、なんだ阿求(あんた)か」

「なんだとはなによ」

 

 育ちのよい深窓のお嬢様である阿求も、親友の小鈴に対しては口がざっくばらんと軽くなる。

 

「心配して様子を見に来たのに。妖怪が出たんだって?」

「そう、そうなんですよっ」

 

 小鈴が椅子を蹴飛ばして立ち上がる。阿求をそっちのけで月見の目の前まで駆け寄ってきて、

 

「月見さん、こ、ここに妖怪が出たんですっ。暗くてよく見えなかったんですけど、最初は子どもみたいに小さくて、でもいきなりぶわーって天井くらいまで大きくなってぎょろぎょろーって目玉が!」

 

 怖がっているのか興奮しているのか、とりあえず『天井くらいまで大きくて、目玉がぎょろぎょろと特徴的な妖怪』を見たらしいのはわかった。

 天井にはこれといって目玉と勘違いしそうなものは見当たらず、小鈴の見間違いという線は低そうだった。

 

「寝ぼけてたわけじゃないのよね?」

「そりゃもちろん。泥棒かもしれないってすごく怖かったんだから、眠気なんて吹っ飛んでたわよ」

 

 もう少し詳しく話を聞いてみれば。

 昨日の夜中、屋根裏部屋にある自分の部屋で読書をしている最中に、一階から本の落ちる音が聞こえた。もしかしたら泥棒かもしれないと恐る恐る様子を見に行ったところ、子どもくらいの小さな人影が床で本を読んでいた――と思ったのも束の間、小鈴に気づいた影はみるみるうちに巨大化し、天井近くまである恐ろしい一つ目お化けになった。そこで小鈴は恐怖のあまり気を失い、悲鳴を聞いて飛び起きた両親に介抱されたのだという。

 ほどなく目を覚ました小鈴は大慌てで本を確認したが、物色された痕跡もなく盗まれたものもなく、一つ目お化けも綺麗さっぱり消え去ってしまっていた。両親はお化けなんて見なかったと口を揃えており、寝ぼけていたんだろう、遅くまで夜更ししているからだとまったく信じてくれていない。

 おおまかには、そういう顛末のようだった。

 

「妖怪、だったんでしょうか……」

「人ではないだろうねえ」

 

 人影が本を物色していたという棚のあたりを調べてみる。

 

「妖魔本は確認してみたかい? もし妖怪が抜け出したのなら、本からは姿がなくなってるはずだ」

「あ、はい。妖怪が封印されてるのはぜんぶ見てみましたが、みんな大丈夫でした」

 

 少し肩の力を抜けた。小鈴の答え次第では、彼女に対して合わせる顔がなくなっていたところだ。

 

「となれば、外から入ってきたか……」

「や、やっぱりそうなりますか!?」

 

 小鈴がいきなり血相を変え、目を皿のようにして月見の袖に縋りついてくる。

 

「ま、まさか、うちの本を狙ってきたとか……!」

「ありえないとは言えないね」

「どどどっどうしましょうどうしましょう!? もしかして、そのうちまた盗みにやってきたり!?」

「……するかもしれないね」

「ぎゃー!?」

 

 筋金入りのビブロフィリアである小鈴は、本に注ぐ愛情もまた人より二倍も三倍も強い。彼女の大切なコレクションである妖魔本はもちろん、親の代から集めているたくさんの外来本だって、一冊でも盗まれれば自分の体が欠けるような思いに違いなかった。

 しかも相手は、見るも恐ろしい一つ目の大入道である。真っ青になってバタバタ跳ね回る小鈴を、阿求がむんずと襟首掴んで押さえつけ、

 

「落ち着きなさいな。霊夢さんに退治を依頼してみたら?」

「ぎくり」

 

 身動きを止めた小鈴は視線を明後日の空に泳がせながら、親指と人差し指でぎこちない○印を作った。

 

「その、今はちょっと……これが、厳しくてですねえ……」

「……今『も』、でしょ」

「し、仕方ないでしょ!? 本を集めるのって、結構お金が掛かるもんなのっ!」

 

 この少女、実は霖之助の親戚なのではあるまいか。

 

「あいかわらずあんたは、本のことしか考えないで生きてるんだから……」

「ふーんだ、私は本に囲まれてれば幸せですもーん」

「厄介なものを集めてるって自覚をもうちょっと持ちなさいよ。今回だって一歩間違ってたら――」

「それを言ったら阿求だって――」

 

 そうこうしているうちに、阿求と小鈴が親友らしい歯に衣着せぬ言い合いを始めてしまった。あまりケンカをしている場合ではないのだが、月見は止めなかった。阿求は『御阿礼の子』と呼ばれる生粋のお嬢様で、人里でも相当位の高い貴族みたいなものだから、小鈴という同年代の友人がいると知ったときはやけに嬉しい気持ちになったのを覚えている。

 仲のいい少女二人を微笑ましく思いながら、月見はなんとなしに店の片隅へ目を遣って、

 

「……ん?」

 

 小さな緑の葉が一枚、本棚の陰に落ちていた。

 鈴奈庵の店内に観葉植物は置かれていない。故に外から吹き込んできた落ち葉かと思い、これといって深い考えもないまま手に取って――そして月見は口元に薄い笑みを浮かべた。

 

「小鈴」

「あ、はい?」

「確認なんだが……昨日見た妖怪、はじめは小さい子どもくらいだったんだよな? それから突然大きくなって一つ目のお化けになったと」

「はい、そうですけど」

 

 なるほど、なんとなく想像がついた。

 

「どうやら、そこまで不安がることじゃあなさそうだよ」

「え……なにかわかったんですか?」

「ああ。とりあえずまた近いうちに顔を見せるだろうから、本人に訊いてしまうのが早いんだが……」

 

 月見の推測が当たっていれば、件の妖怪は盗みが目的で鈴奈庵に侵入したわけではないし、人に害を与える危険なやつというわけでもない。だからここの本はすべて無事だったし、小鈴もいっぺんおどかされただけで事なきを得た。

 小鈴と一緒に阿求も首を傾げている。

 

「本人に訊くって……話が通じる妖怪ということですか?」

「通じるだろうさ」

 

 ――なんせ、夜な夜なこんなところまで本を読みにやってくるやつなのだから。

 そのとき鈴奈庵の戸が、ひどく控えめな音を立てながら四分の一ほど光を迎え入れて。

 

「あ、いらっしゃいませー……あら?」

 

 小鈴の営業スマイルが尻すぼみで消えていき、やがて小さな疑問符に変わる。ちらりと開いた戸から顔を覗かせているのは、木版印刷の専門店を訪ねてくるには到底似つかわしくない、小鈴と比べてもまだ頭ひとつは小さな男の子であり。

 

「――!?」

 

 月見の姿に気づいた途端、少年は泡を噴くように尻餅をついた。

 噂をすればなんとやら、というべきか。

 

「ちょうどよかった、いまお前の話をしていてね。昨晩どうしてこの店に忍び込んだのか、少し聞かせてくれないかい」

 

 この葉っぱはただの落ち葉ではなく、まだ幼い狐や狸(・・・・・・・)が妖術の練習用に使う、例えるならば自転車の補助輪のようなサポートアイテム。

 驚くあまり術の制御が疎かになったのだろう。尻餅をついた少年の後ろから、冬毛でこんもり膨らんだ金色の尻尾が飛び出していた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 犯人は、まだ人の言葉を話すのもままならない小さな小さな妖狐だった。

 人間でいうなら、寺子屋に一番年少組として通い始めるくらいだろうか。頭にちょこんとかわいらしい狐耳をつけ、小さくも毛並み豊かな尻尾を生やしたその子どもは、阿求が勧めた椅子の上で石像みたいに全身を強張らせていた。

 無理もないと阿求は思う。なんせいま少年の隣には妖狐の中の妖狐、銀毛十一尾の大妖怪たる月見がいるのだ。天狗たちの長が天魔、鬼たちのとりまとめが鬼子母神であるように、幻想郷に住む妖狐の一番高いところにいるのがこの男なのである。

 長になんてなった覚えはないぞと本人は否定するだろうが、周りの狐たちはほとんどみんなそう思っている。金毛九尾の八雲藍が太鼓判を押すのだから間違いない。大昔から世界中を気ままにほっつき歩き、妖怪の権力闘争にはまるで興味を示さなかったせいか、かつては妖狐の中ですら伝説めいた存在として語られていた時期があったという。

 子狐の少年にとってみれば、まさしく天の上で輝くお月様といったところか。月見と同じ空間で息ができるだけでも恐縮そうで、少年はなにもしていないのに顔がすっかり真っ赤になっていた。

 小鈴の、いささか拍子抜けした声だった。

 

「――えーと、つまり……本当に、ただうちの本を読みたかっただけ……?」

「そういうことだね」

 

 月見が通訳したところによれば。

 少年は本が大好きで、ひょんなことから鈴奈庵が誇る外来本コレクションの噂を耳にした。そこで一度店を訪ねて読んでみたいと思い立つも、自分は変化がヘタで人の言葉も話せないし、そもそも鈴奈庵の本は個人の所有物であって、売り物でも貸し物でもない。でも本は読みたい、とても読んでみたい。そうしてあれこれ頭をひねった結果、夜にこっそり忍び込んでこっそり読んでしまえばいいのではないかと考えついた。

 さて実際に忍び込んでみると、予想以上の本の数に少年は興奮した。興奮しすぎてうっかり本の山を崩してしまった。それが原因で小鈴に見つかってしまってさあ大変、わけもわからずお化けっぽいモノに変化して、小鈴がひっくり返ったスキに這う這うの体で退散したそうだ。

 幸い、慌てる中でも本をちゃんと片付けるのは忘れなかった。故にきっと見間違いで終わってくれるだろうと、少年はほっと胸を撫で下ろし――それから重大なミスを犯してしまったと気づいた。

 変化のときに使う木の葉を、店に落としてきてしまったのである。

 あれが見つかれば妖狐の仕業とバレてしまい、里の人間総出で狐狩りが行われるかもしれない。そう恐れ慄いた少年は、里の子どもに化けて木の葉を回収すると一大決心し。

 かくして、今に至るのだった。

 

「そんなに怖がらなくても、獲って食いやしないよ」

 

 少年がぶんぶんと物凄い勢いで首を横に振る。違います違います怖がってなんてないです、と言ったのだろうと阿求は推測する。同時に、こんな形で月見の目に触れてしまったことを強く恥じ入る気持ちも混じっているように見えた。

 

「……! ……!」

 

 狐の言葉を知らない阿求には、少年の言葉は甲高い動物の鳴き真似にしか聞こえないけれど。

 

「あんなことしてごめんなさい、どんな罰も受けます……だって」

「え、い、いや、罰なんてそんな」

 

 見た目だけなら自分より年下の子どもが相手とあっては、小鈴もいかんせん分が悪かった。

 

「確かにおどかされはしましたけど、特に怪我とかしてないですし、本も盗まれてないですし……」

 

 浅く膝を折り、椅子の少年と目線を合わせて、

 

「……本、好き?」

「……!」

 

 少年が、首が落ちそうになるくらい何度も大きく頷いてみせる。言葉によるコミュニケーションが取れないので、身振り手振りで一生懸命自分の気持ちを伝えようとしているのだろう。将来有望な回答が聞けて小鈴は満足げに、

 

「悪いことをしたってちゃんと自覚してますし、反省もしてるみたいですし……お咎めなしじゃだめですかね?」

 

 月見は薄く微笑み、阿求は肩を竦めて即答した。

 

「お前がそれでいいなら、異論はないよ」

「右に同じ」

 

 本好き仲間を見つけて嬉しいだけでしょ、と思ったが口にはしない。数多の妖怪を記録してきた阿礼乙女の勘が、この少年は見た目通りの無害な妖怪だと直感している。幸い人騒がせな悪戯程度で済んだのもあって、わざわざ口を酸っぱくするほどではないと思った。

 それに少年も、本好きというからにはそれ相応の頭脳で理解したはずだ――鈴奈庵に対してなんらかの悪さを働けば、銀毛十一尾に見咎められるのだと。幼いとはいえ妖狐の端くれなら、彼に対して無礼になる真似をしようとは思うまい。

 

「それでどうする? 本、この子に読ませてあげるかい?」

「あー、そうですねえ……」

 

 小鈴は腕を組んで難しく思案する。

 

「私も読ませてはあげたいですけど、ここの外来本ってほとんどが両親のですし、どう説明したものか……」

 

 鈴奈庵は、希望者に対しては本の貸し出しも行っている。ただしあくまで信頼できる相手との個人的なやり取りに過ぎないため、両親の同意なく知らない相手に貸すことを小鈴は許されていない。

 

「里の子だって言っても、たぶんどこの子か訊かれると思いますし……まさか妖怪とは言えませんし」

「……ふむ」

 

 月見の、よく考えず出た独り言のような言葉だった。

 

「ここが貸本屋だったら、話も変わるんだろうけどねえ」

「……貸本屋?」

「ああ、まあ、商売として本の貸し出しをする店のことだよ」

「……貸本屋」

 

 阿求は他愛もないたとえ話としか思わなかったのだが、なにやら小鈴が真に受けた顔で月見の言葉を反芻させており、いやちょっと待てこの本の虫まさか、

 

「……へー、面白そうですねそれ! 素敵なアイデアだと思いますっ」

「ちょ、ちょっと小鈴? あんたまさかやる気になってるんじゃ」

「え、だって素敵じゃない。お父さんとお母さんに相談してみよーっと」

 

 ……。

 ……小鈴ぅ。

 この少女は本当に、なんというか。まったく物怖じしない行動力があると褒めればよいのか、興味本位でいい加減すぎると嘆けばよいのか。阿求はなんだか頭が痛くなってきたのだが、小鈴は唇を尖らせて反論してくる。

 

「別に考えなしで言ってるわけじゃないわよ。元々、新しい副業でも始めようかって漠然とは考えてたの」

「そうだったのかい?」

「うちのお店、なかなか収入が不安定でして……木版印刷は手間と時間が掛かる分費用も高くなっちゃうので、仕事があるときは一気に儲かるんですけど、ないときは何ヶ月も収入なしだったり……」

 

 まあ、言っていることはわかる。小鈴の店は基本的に里の裕福層にしか需要のない商売であり、その中でも本の印刷や製本を必要としているのは更にひと握りであり、顧客の母数が少ない以上収入はどうしても安定しない。一応チラシの一枚からでも受け付けは可能だが、人から人の言葉による情報伝達が主な里では活躍の場も多くない。そうでなくとも大抵の人は、安くないお金が掛かるくらいなら面倒でもすべて手書きする方を選ぶだろう。

 そしてその安定しない収入を、この一家は次から次へと本の蒐集に当ててしまうのだから、金を貸してくれと未だ誰にも泣きついていないのが不思議なくらいだった。

 

「考えたことはあるんです。こうやって本をたくさん集めて、たくさん読んで……それから、どうするんだろうって。読み飽きた本は高閣(こうかく)(つか)ねて、掃除のときに手に取るくらいで」

 

 そうやって本に囲まれた生活を続けていると、それはそれで生まれる悩みもあるらしかった。概して能天気でお調子者な困った娘だが、本に注ぐ想いの強さだけは阿求も一目置くほどだった。

 

「でも月見さんの言葉を聞いて、この子たち(・・・・・)とお店を開いてみるのも、いいのかもしれないなって。……そう考えるのは、おかしなこと?」

「……」

 

 まったく、嫌らしい訊き方をしてくれるものだ。阿求と小鈴、互いに担う作業は違えど、本を作り本を愛する親友同士なのだから。

 吐息した。

 

「……ちゃんとご両親と話し合うんなら、止めやしないわよ。それで里のみんなが気軽に本を読めるようになったら、悪くないとは思うし」

「さっすが阿求!」

 

 なにが『さすが』なのか、あいかわらず調子がいい親友に阿求はそれ以上の小言を諦めた。まさか自分の呟きで鈴奈庵が生まれ変わることになろうとは、月見も小鈴のフットワークにすっかり目を丸くしていた。

 

「……まさかそうも乗り気になってもらえるとは。これは、実現したら私も借りに来ないとね」

「月見さんなら特別価格でご案内しますよっ。……なーんて、まだ両親に相談もしてないのに気が早いですよね」

 

 小鈴はてへへと頭を掻いて、話がよくわからずぽかんと呆けていた少年へ、

 

「というわけで、ここの本はもう少し我慢してくれる? その間、私の本でよかったら貸してあげるから……大した外来本は持ってないけど」

「……! ……!」

 

 少年が尻尾を振り回して全身で頷くと、最後に可憐な一笑を咲かせてこう付け加えた。

 

「わかってると思うけど、ちゃんと丁寧に扱って読み終わったら返してね。汚したりいつまでも返さなかったりしたら、月見さんに言いつけちゃうから」

「……!?」

 

 はっはっは、と月見もわざとらしく笑った。

 

「そうだなあ。人間から借りた物をちゃんと返さない悪い狐がいたら、とっ捕まえて叱らないといけないかもしれないね」

「~……! ~……!」

「誰かからなにかを借りるのは責任が伴うものだよ。なに、これも社会勉強さ」

「そうそう、決まりを守るのは大事ですよー」

 

 ――鈴奈庵に妖怪が出たらしいと聞いたときは、一体どうなることかと思ったが。

 終わってみれば、少年が若干涙目になっている以外は朗らかな幕引きで、阿求も気がつけば笑みをこぼしてしまっていた。小鈴の見間違いではなかった、本当に妖怪が忍び込んで小さいながら悪さを働いたのだ。本来であれば里のあちこちで薄気味の悪い噂話になって、博麗の巫女へ退治の依頼が投げられていただろう。

 ところがどっこい今回の話を要約してみれば、「妖怪が本目当てて忍び込んできたので貸本屋を始めましょう」である。冷静に考えていろいろおかしいと思うのは阿求だけなのだろうか。

 少し前の里ならありえなかったであろう、拍子抜けするほど平和的な解決。

 

(……これもあなたの力ですか。月見さん)

 

 考えてみれば、阿求は意図して月見をこの場に呼んだわけではなかった。道中で偶然鉢合わせしたとき、彼なら相談相手にちょうどいいと思ってごく自然に声を掛けていた。そうしてごくごく自然に二人で鈴奈庵を訪ね、彼が自然と犯人を突き止め、彼のひょんな呟きで自然と事が解決した。

 本人にそのつもりがなくとも、気がつけば異なる種族――人間と妖怪の間で、不思議と上手く橋渡しをする緩衝材となっている。

 どうもこの幻想郷において、月見という男はどこまでもそういう星の下にあるらしかったので。

 

「それにしても月見さん、こうしてるとお父さんみたいですよねー。小さい子の相手をするのが結構サマになってるっていうか」

「……そうかい」

 

 ――いっそ幻想郷縁起に、「みんなのお父さん」とでも書いてやろうか。

 阿求はそう、冗談めかしながら考えるのだった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 さて鈴奈庵の小さな騒動から一週間ほど、月見が散歩のついでで里に立ち寄ってみると。

 

「……あ、月見さん! おはようございまーす!」

「おや?」

 

 鈴奈庵がその年季の入った戸を広々開け放ち、本やら棚やら仕事道具やらを根こそぎ店先に運び出して、まるで年末の煤払いのような賑わいになっていた。どこからどう見ても店の客ではない、額に手拭いを巻いたガタイのいい男衆が集まっていて、小鈴は着物をたすき掛けしていつも以上の元気をみなぎらせていた。

 

「何事だいこれは」

「なにって、貸本屋の件ですよ! 今のままだと店内が窮屈なので、絶賛改装中です!」

 

 ということは、両親から見事承諾をもらえたらしい。なるほど言われてみれば、集まっている男衆は里の腕自慢な大工さんたちである。

 

「貸し出しの決まりとかいろいろ考えてたら遅くなっちゃいましたけど、ようやく目途がつきました!」

「それはまた」

 

 正直なところ、月見の呟きでまさか本当に貸本屋を始めてしまうとはまったくの予想外だった。妖魔本の蒐集についても言えることだが、この子の磁石のような好奇心と、竹を割ったような行動力がつくづく恐ろしくなってくる。読書を愛するインドア派な少女かと思いきや、実はとんでもない活動家の素質があるのかもしれない。

 

「今更言うのもなんだけど、本当によかったのかい?」

「確かに月見さんの言葉がきっかけでしたけど、ほんとにやってみたいって思うんです。普段本なんて読めない人たちにも、魅力とか楽しさとかが伝わったらいいなあって。ついでに収入の足しにもなって一石二鳥っ!」

 

 そこで小鈴は照れくさそうに、

 

「まあ、改装に掛かるお金は、ほとんど阿求から借りちゃいましたケド……」

「なんだ。じゃあ私も少し出資しようか」

「いえいえそんなそんなっ。月見さんには妖ま――ゴホン、本の手入れで助けてもらってますし、これ以上はバチが当たっちゃいますよ」

「……うん、そうか」

 

 宇迦のはんなりしたと笑顔が脳裏にチラつく。今日の夜あたり夢枕に立たれて、「つきちゃん、ほんまうちの神使やらへんのぉー?」とか言われるだろう。たまには妖怪らしいこともしないとダメなんだろうか、と少々早まった悩みを片隅に抱いていると。

 

「今春、新装開店予定ですよっ。新しい季節の始まりに新しい門出って、なんか素敵じゃありません?」

「……そうだね」

 

 ふと月見は、そうなんだよな、と思った。立春が過ぎ去り、いつまでも続くようだった冬の寒さも和らぎ、幻想郷にもうすぐ新しい季節がやってくるのだ。

 そして春になるということは、今日もふかふかお布団の中で幸せいっぱい爆睡しているであろう、月見のよく知るあの少女が――

 

「月見さんも、ぜひぜひ気軽に利用してくださいね!」

「ああ、楽しみにしてるよ」

 

 これからの日常が、また一段と賑やかになる気配を感じながら。

 なんにせよ小鈴がとても生き生きとしているので、ひとまずはよしとする月見だった。

 

 

 

 かくして春に鈴奈庵が新装開店すると、月見はしばしば紅魔館よりもそちらから本を借りるようになり、フランが怒ったり咲夜がヘソを曲げたりとまたひと悶着起こるわけだが。

 今はまだ先の話――と書くのは、もはや正確ではあるまい。

 月見が幻想郷に戻ってきて、もう間もなくぐるっと一年。

 

 春はもう、遠くない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 〇

 

 

 幻想郷のとある境界の狭間、とあるお屋敷のとある寝室で。

 

「……んみぃ………………」

 

 と、とある少女がカリスマ皆無な寝言を言った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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