銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色

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第147話 「春風駘蕩春告賢者」

 

 

 

 

 

「――ふぎゃあああああああああああああああっ!!」

 

 その日、月見は少女の珍妙な悲鳴で目を覚ました。

 常識的に考えれば、緊急事態というやつだった。いくら日頃から少女たちの集会所と化している水月苑とて、こんな朝っぱらから悲鳴が轟くなどそうそうある話ではない。水月苑の家主としては今すぐ布団を蹴飛ばして跳ね起き、部屋から飛び出しては悲鳴の出所を突き止め、その原因を可及的速やかに解決すべき場面だった。

 本来ならば。

 月見はのそりと老人みたいに起き上がり、寝ぼけ眼で欠伸をひとつ噛み殺した。

 一応、それなりに切迫した悲鳴だったと思える――のに、なぜだろう。目を覚ましたばかりで半覚醒である以上に、慌てて駆けつける必要はないと、どこか本能で察知している自分がいるというか。悲鳴を聞いて慌てるどころか、ほのかな安心感すら覚えている自分がいるというか。

 それはあたかも、しばらくご無沙汰だった日常のひと欠片がようやく戻ってきたかのような。

 廊下の彼方から、ドタドタと慌ただしい駆け足が近づいてくる。

 

「月見いいいいい!! つくみいいいいいいいいぃぃぃぃぃっ!!」

 

 そして月見は、ああ、と静かな笑みとともに納得した。

 このマジ泣き一歩手前の涙声を、月見は大変よく知っている。『彼女』ならわざわざ馬鹿正直に走らずとも一瞬で移動できるはずなのだが、はてさて気が動転してすっかり冷静さを失っているらしい。てんやわんやの駆け足がどんどん襖の向こうに近づいてきて、

 

「ぶぎゃっ!?」

 

 コケた。

 顔面から床に突撃する比較的悲惨な物音が響き、束の間痛々しい沈黙があって、やがて『彼女』は小さく小さく、ひぐっと情けなく鼻をすすった。

 とんでもない安心感が月見の体と心を包み込んでいる。襖の向こうに広がっているであろう光景――床にぶっ倒れてぷるぷる震えている『彼女』の姿――を、さながら透視の能力でも得たようにはっきりと思い描くことができる。月見はよっこらせと布団から抜け出し、深い慈悲の微笑みをたたえながら襖を開けた。

 月見が想像していた通り、床に這いつくばって痙攣している少女が一人。

 

「ぢゅ、ぢゅぐみ゛いいいぃぃ……」

「……やあ、紫」

 

 幻想郷の賢者、八雲紫。

 冬が終わってひと季節振り――すなわち今年はじめて見る彼女の顔は、ずびずびえぐえぐのみっともないガチ泣きの顔だった。

 当然、賢者のカリスマなどのっけから完全に行方不明である。月見はその場に膝を折り、しみじみとひとつ頷いて、

 

「春だねえ」

「どういう意味よおおおおおっ」

 

 月見のばかあああああっ床をビシビシ叩いて暴れるこの少女が、幻想郷を創りあげた偉大な賢者なのだと言って誰が信じるだろうか。

 かくして、冬眠明けの紫であった。冬の間幸せいっぱい爆睡しまくったことで、身も心も生まれ変わって心機一転、髪はつやつやに甦りお肌はもっちりと若返り、身長も五センチくらい縮んでいる――というのは、さすがに気のせいだろうが。どうあれ外見も精神も妖力も完全回復し、あふれ出んばかりのエネルギーで早くも暴走状態に陥りかけている様子だった。

 

「せっかく起きたのに、いきなりどうしたんだい」

「どうしたもこうしたもないわよぉ!」

 

 ご乱心な紫は再び床に両手を叩きつけ、

 

「なんなの!? 私がちょっと寝てる間になにがあったの!? 泥棒猫は誰!? ねえわたし二十年くらい寝ちゃってたわけじゃないわよね!?」

「……?」

 

 なんの話だ、と月見は思う。話をひとつずつ整理していこうにも、これではどこからどう手をつけたらよいか、

 

「お、お父様っ! いま、台所に突然変な妖怪が……!」

 

 そのとき廊下を曲がってもう一人の少女が走ってきて、月見はおよその事の次第を推察した。

 金と紫のグラデーションがかかった髪を後ろで結わい、エプロン姿で走ってきたのは聖白蓮――ちょうど昨日の夕方あたりから屋敷を訪ねてきて、そのままちゃっかりと泊まっていったのだ。恰好を見るに朝食の支度をしてくれていたようだが、

 

「誰が変な妖怪よぉ!!」

「ひいっ!?」

 

 途端に紫に威嚇され、白蓮はうわわっとたたらを踏む。四つん這いで唸り声をあげる紫と、その隣で膝を折る月見を交互に見遣り、

 

「……ええと、お父様のお知り合いですか?」

「づぐみ゛いいいいいいいいいいッ!!」

 

 紫が絶望の形相で月見の胸倉に掴みかかった。決壊寸前大洪水秒読みの涙目で、

 

「こ、こここっこの人間、つつっつつつくみのっの、ここ、こどここっここもど」

「落ち着け」

 

 察するに。

 遡ること約一分前、白蓮が台所で朝食の支度をしていると、入口のあたりにふとした気配を感じた。これが冬眠から目覚めたばかりの紫だった。ところが白蓮はてっきり月見が起きてきたのだと思って、「おはようございます、お父様」とでも声を掛けてしまったのだろう。

 紫にとっては、まあよほどの一大事だったのだと思われる。

 友人の台所に見知らぬ女が立っていて、挙句自分を誰か(・・)と勘違いして『お父様』と呼んでくるなどしたら、想像力を逞しくするなという方が理不尽かもしれない。ともかく今は紫を落ち着かせ、事情をひとつひとつ丁寧に説明

 

「もぉー、うるさいなあー……朝っぱらから一体なによぅ……」

 

 ――やあぬえ、今日はちゃんと早起きできて偉いじゃあないか。

 よりにもよってこんなときに、よりにもよってこんなタイミングで。だらしなく着崩れしたパジャマ姿と、寝癖がぴょんぴょん飛び跳ねた無防備な寝惚け眼。どこからどう見ても勘違いを加速させるとしか思えない恰好で登場したのは、水月苑の怠惰な居候こと封獣ぬえであり、

 

「――――――――――」

 

 八雲紫、真っ白に石化。

 

「……あー、紫。おーい」

「」

 

 天に召された妖怪の賢者が、サラサラと儚く風化を始めていく。

 

「月見様っ、ここに紫様が来て――ああ、遅かったか……」

 

 本日四人目の足音が聞こえ、主人を追いかけてきたらしい藍がひょこりと顔を出す頃には、紫はもう半分くらい砂になってしまっていた。

 嘆かわしいため息とともに、藍の九尾が床に力なく垂れた。

 

「申し訳ありません、月見様……朝食の支度をしてる間に、勝手にいなくなってて」

「だろうね。お疲れ様」

 

 まったくこの人はどうして静かに食事も待てないのか、とぶつぶつぼやいている。しかし一方では、手のかかる主人の完全復活にある種の喜びというか、なんだかんだで満更でもない気分でいるのが伝わってくる。かくいう月見も、朝っぱらからやかましいこの少女に不愉快な感情は欠片も抱いていないのだ。

 あるのはただ――ああこの日常が戻ってきたかという、懐かしさだろうか。

 ほんの冬の間、会わないでいただけのはずなのだが。

 

「……あのー、こちらの妖怪って……もしかして」

 

 さておき、紫が起きたのなら説明の場を開かねばならない。白蓮やぬえの存在に限らず、紫の暴走を防ぐためにきちんと話しておかなければならないことはたくさんあるのだから。

 というわけで。

 

「あとで説明するよ。朝食の支度に区切りをつけてきてくれるかい」

 

 まずは、砂になった紫を蘇生させるところから始まるのだった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 実のところぬえは、『妖怪の賢者』と呼ばれる大妖怪について、その名前以上の素性をほとんどなにも知らない。

 自分は長年地底に封じられていた身なので、話をしたことも会ったこともなかった。その名と存在をはじめて知ったのも、地底に地上の妖怪たちが移り住んできてからの話で、極めて漠然と、幻想郷を創りあげた神の如き妖怪だと聞き及んでいるだけだった。

 聖輦船で寝泊まりしていた頃は月見から話を聞く機会もあったが、正直あまり覚えていない。自分と縁もゆかりもない他人の話なんてすぐ忘れてしまうし、今後関わり合いになるとも当時はまったく考えていなかったので、まあとりあえずすごい妖怪なんだろうと勝手に想像し、勝手に自己完結していた。

 

「――なるほど、話はわかったわっ。白蓮ちゃん、あなたはこれから私のことをお母様とモガガガガ」

 

 しかしこうして、藍の九尾に頭から呑み込まれる姿を見ていると。

 意外と、普段からこの屋敷に集まっている他の少女と変わらないというか。こういっちゃあなんだが、ぜんぜんすごい妖怪に見えないというか。

 

「モガーッ!!」

「紫様、さすがにその発言はいただけません。黙っててください」

 

 むしろ従者の藍にしつけされているあたり、なんかダメっぽそうというか。

 水月苑の茶の間である。お役御免の時も近いこたつをみんなで囲みながら、八雲紫との顔合わせが行われていたのだが――現場の空気は、さながら聖白蓮の公開処刑の様相を呈していた。

 どういうことか。

 白蓮が、月見のことをこっそり『お父様』呼びしていると判明したからだ。

 だからじたばた暴れる紫の向かいで、白蓮がテーブルに突っ伏してひたすらぷるぷると身悶えしているわけなのだ。

 ぬえも、今はじめて知った。

 それで紫がいろいろ想像力逞しく勘違いしてしまって、火をつけられたねずみ花火みたいに暴走していた――というのが早朝の顛末だったらしく。

 

「白蓮……あんたそんなことしてたのね」

 

 白蓮がぐすっと鼻をすすった。バレてそこまで恥ずかしがるならはじめからやんなきゃいいのに、人間の考えることはぬえにはよくわからない。

 藍も、どうやってフォローしたものか頭を悩ませている風だった。

 

「確か、お前の弟が……そうなんだったね。月見様を困らせなければ、呼ぶだけなら自由だと思うけど」

 

 月見と白蓮の弟――命蓮にまつわる話は、さすがのぬえもまだ覚えている。それで弟の真似っこをしているということなのだろうか。血のつながった家族を遠い昔に亡くした人間としては、そういうのが心の拠り所になるものなのだろうか。やっぱり人間の考えはよくわからない。

 月見も言わんこっちゃないと苦笑気味だ。

 

「人に知られて困るような呼び方して、本当にいいのかいとは訊いたんだけどねえ」

 

 すなわち完全な合意の上だったとは言い難く、白蓮の方が半ば強引に『お父様』呼びしていたとのことで。

 とりあえず、白蓮にとって相当ハズカシイ状況なのはよくわかった。白蓮が突っ伏したまま、あうううううっとくぐもった涙声をあげた。

 紫が藍の九尾から脱出する。

 

「ぷは! ……もぉーなにするのよ、髪の毛もじゃもじゃになっちゃったじゃない!」

「ちょうどいいです、整えるついでに落ち着いてください。紫様が初対面の相手に賢者の威厳を見せつけられるとは欠片も思っていませんので、せめて虚言だけ申されませんように」

「ひどぉい!?」

 

 ここまで見た限りで、八雲紫という賢者の印象をいえば。

 前述の通り、日頃から水月苑に集まっている連中となんら変わらないごくごく元気な女に見える。賢者だからといって特別理知的なわけでも、大妖怪だからといって居丈高なわけでもなく、ひどく等身大で、喜怒哀楽の起伏豊かで、一喜一憂するごとに表情や言動が踊るように変わる。とても幻想郷最強格の妖怪とは思えないが、それを言ったらぬえが普段ここで出会う少女たちだって大概そうなので、まあ今更かという感じもする。鬼子母神に天魔、金毛九尾に吸血鬼に伊吹童子にフラワーマスターと、名前を挙げ始めればそりゃあもうキリがない。

 そして八雲紫の場合、月見に対してかなり高いレベルでご執心の様子だ。ぬえの推測では、蓬莱山輝夜や鬼子母神といい勝負。月見と白蓮がどんな関係なのか必死に問い質す様を見ていれば、もはやこれ以上の観察など不要なほどに明白だった。そんな彼女は両手でくしくしと髪を整え、

 

「えほん。……じゃあ話を戻すと、この件については私の杞憂ということね」

「はい……お、お騒がせしました…………」

 

 白蓮がようやく体を起こしたが、顔中からほっこほこの湯気を上げて今にも涅槃へ到達しそうになっている。顔がここまで真っ赤になっている人間を、ぬえはちょっとばかりはじめて見た。

 彼女は生まれたての子鹿みたいな声で言う。

 

「あ、あの、このことはどうか内密に……」

「まあ、わざわざ言い触らしはしないけど……私をお母様だと思ってくれるなら冗談です待って藍やめてごめんなさい食べないで」

 

 それにしても八雲紫は、本当に八雲藍の主人なのだろうか。主従が逆ではあるまいか。従者にしつけされる主人とはどうなのかと一瞬思うも、天ツ風操と犬走椛、西行寺幽々子と魂魄妖夢など、幻想郷では比較的よくある光景な気がして考えるのをやめた。

 

「え、えっと……じゃあ次は封獣ぬえ! あなたね!」

 

 藍のうごめく九尾から逃れるため、紫が突拍子もなく矛先を変えてきた。うわこっち来た、とぬえは内心面倒くさく思う。紫の陶磁器のような人差し指が突き立てられ、

 

「あなたはなんでここで居候してるわけ!? 変な理由だったら許しませんからねっ」

「そんなんじゃないってば」

 

 ぬえは頭を掻き、

 

「私はずっと地底に封印されてて、地上に出てきたばっかだから住む場所がなかったの。それで知り合いの月見のとこに転がり込んだだけ」

 

 ぬえとしては貴重な友人のつもりだが、ここは知り合いと言っておくのが無難であろう。筋が通った真っ当な理屈だろうに、紫は胡乱げな目つきを解かない。

 

「あなた、この白蓮がやってるお寺の妖怪と友達らしいじゃない。どうしてそっちにしなかったの? 敢えて男の人の家を選んだ理由はなに?」

 

 めんどくせえ。

 

「別に仏を信仰してるわけじゃないし。なのに私みたいな大妖怪がお寺で生活とか、ちゃんちゃらおかしいでしょうに」

「ほんとにそれだけ?」

「あとはまあ、温泉あるし、お布団ふかふかだし、こたつあったかいし、一日三食おやつ付きだし」

 

 紫の半目が月見にターゲットを変えた。

 

「随分甘やかしてるみたいじゃないの」

「ロクに手伝いもしない怠け者で困ってるよ」

 

 だったら怒るなり追い出すなりすればいいのにそうしないあたりはいかにも甘やかしているし、自分で言うのもなんだがぬえは独りぼっちが大嫌いだから、甘やかしてもらえるのが嬉しくてここで居候しているのもある。言えば絶対面倒なことになるので、この場では黙っておくけれど。

 月見は薄い笑みを見せて続ける。

 

「しかし、それももうすぐ終わりだ。マミゾウが近々こっちにやってくるらしいからね。そのときは、ぬえを襟首掴んででも連れていってくれるだろうさ」

「……は!? えっ、あのたぬきが幻想郷に来るの!? なにそれ初耳なんだけど!?」

 

 紫が腰を浮かせて目を剥いた。きめ細かく小さな手でテーブルをバシバシ叩く、

 

「つ、月見ーっ! またっ、また女を増やそうとしてるの!?」

「人聞きの悪いことを言うな」

 

 月見は眉をひそめ、

 

「ぬえとマミゾウは古馴染らしくてね。旧友が幻想郷で暮らし始めたと聞いて、マミゾウもこっちに住まいを移そうということだろう。私は無関係だよ」

 

 まあぬえの封印を解いたのは月見であり、ぬえがいま幻想郷で生活できているのは彼のお陰なので、無関係どころか思いっきり当事者なのだけれど――これもまた敢えては言うまい。

 マミゾウがもうすぐ幻想郷にやってくると思うと、ぬえは嬉しさ半分不安半分のやや複雑な気持ちになる。

 無論、またマミゾウに会えるのは嬉しい。それは間違いない。しかし彼女は他に類を見ない筋金入りの狐嫌いで、その点月見は銀毛十一尾の大妖狐であり、まさしく狐の中の狐というべき男である。この二人が出会ってなにも起こらないはずはないし、実際浅からぬ因縁もあるとうっすらとは聞かされている。

 十中八九マミゾウが一方的に突っかかっているだけだろうが、それでも友人二人が争うのを見るのは忍びない――そういう意味での不安だ。かといって自分が間で緩衝材になろうとすれば、マミゾウに「おぬしはこやつの肩を持つのか」と誤解されそうだし……なんとも悩ましい。

 紫はこれまた納得しない。

 

「わからないわよっ。そうやって嫌い嫌い言ってるやつに限って、内心ではなんだかんだ相手を認めてたり、実は意外と気を許してたりするの! そういうのが『てんぷれ』なんだって外の本で読んだもの!」

「はあ」

「紫様、また変な本読んだんですか?」

「ちゃんとした本を読まないみたいに言うのやめてくださる!?」

 

 賢者って一体なんだろう、とぬえは思う。ここまでの印象ではどうにも彼女、『賢い』という概念とはあまり縁がなさそうな少女に見えてしまうのだけれど。冬眠から目覚めたばかりでボケているのだろうか。

 

「……あ、あとは!? あとはなにもなかったでしょうね!?」

 

 これ以上なにかあるなら私そろそろ泣くわよ!? と紫が眼力で一生懸命アピールしている。しかし彼女の訴えも空しく、月見と藍は互いに目配せしてからこう答えるのだった。

 

「去年の終わり頃に、実はひとつ異変があってね」

「はい。今までの異変と比べても、なかなか事の大きいものが」

 

 紫が口を「い」の形にして固まる。

 

「無事に解決しましたので心配は無用ですが、その異変で月見様が成り行き上、式神を作ることになりまして」

「し、」

「地底に住んでいる地獄鴉なのですが」

 

 ほんの数ヶ月前の出来事のはずだが、そういえばそんなのもあったなあとぬえは遠い記憶のように思い出した。ちょっと出掛けている間に聖輦船がどこかに消えるわ、地底の様子がおかしくなって不穏な空気になるわ、独りぼっちでとても寂しい思いをしたのを覚えている。月見が地底にいてくれて本当によかった。そうでなかったらぬえは独り寂しく地底を彷徨うだけの妖怪と化し、そのまま独り虚しく新しい一年を迎えていたのだろう。

 再起動した紫が笑顔で問う。

 

「ねえ、藍。その式神って、女?」

 

 藍は、にっこり微笑んで答えた。

 

「女です」

 

 頬をリスみたいに膨らませ、涙目で月見を睨みつける賢者ができあがった。

 

「……まあ待て。これにはちゃんとした事情があってだね」

「月見はいっつもそうよ! 庭にあの人魚が住みついただけでもアレなのに、その上義娘(むすめ)と居候と式神ですって!? どーせ私は忘れられていくだけの古い女ですよぉーだ!」

 

 幻想郷を司る賢者にとっては、異変の詳細よりもそっちの方が遥かに重要な話らしい。今度は紫がテーブルに突っ伏してうえええええと泣き始め、月見は鼻からため息をつき、藍はどこか楽しげな微笑を眉ひとつ動かしもしない。

 

「……なあ、藍。紫って、冬眠明けはこんな感じだったか?」

「多少精神面が後退するのはいつものことですが、今年は例年より顕著ですね。やはり月見様がいらっしゃるからでしょうか」

 

 八雲紫という妖怪が、ぬえにはよくわからない。

 

「では、私たちはそろそろ戻りますね。朝食を片付けないとなりませんし……ほら紫様、一旦帰りますよ」

「うう、ぐすっ……なんで藍はそんなに冷静なのよ。これは私たち古参妖怪のピンチよ、もっと危機感を」

「冬眠明けですから、食後は特別にケーキを」

「はいはい食べる食べるぅ! なにしてるの藍はやく帰りましょっ!」

 

 よくわからない。

 なにもなかったはずの空間に突如『スキマ』とやらが開き、まるで妖怪の目々連(もくもくれん)が棲んでいるかのような、無数の瞳で埋め尽くされた赤黒い空間が垣間見える。なんでも紫の『境界を操る程度の能力』の一端であり、離れた場所と場所をつなぐ異次元の扉とすべき空間であり、故に紫は一部からは「スキマ妖怪」なんて呼ばれているそうな。

 正体不明を愛するぬえとしてはなかなか好みなデザインだったが、横で白蓮は口の端を引きつらせていた。

 

「じゃあ月見! 一旦帰るけど、あとでもっと詳しく聞かせてもらうんですからねっ」

「はいはい、ゆっくり食べておいで」

 

 紫と藍がスキマの向こうに消え、そしてスキマもまた(くう)に溶けて、水月苑に本来あるべき朝の静けさが戻ってくる。

 しばしの無音をしみじみと感じながら、ぬえはひとつ、呼吸を置いて。

 

「なんていうか……春一番みたいな妖怪だったわね」

 

 まさしく、暖かくなってきた頃に突然やってくる小さな嵐のような。どこからともなく到来しては世間を騒がせ、かと思いきやあっという間にどこかへ消えてしまうあたりがなんともそれらしい。

 違いない、と月見もおもむろに頷く。

 

「一応、あれでも幻想郷を創りあげた妖怪だよ。よろしく頼む」

「お、思っていたより個性豊かな方で……ええと、」

 

 白蓮が頭を精一杯ひねって、ひとつひとつ言葉を選び抜きながら、

 

「私ったら、勝手に……その、聖哲というか、厳格な方なのだとばかり」

 

 なるべく当たり障りのなさそうな表現をしてはいるが、要するに「賢者らしい威厳がなかった」と言っているのと同じだったし、実際ぬえもそう思ったし、月見も否定はしなかった。

 

「オンとオフの差が激しいというか。やるときはきちっとできるやつなんだが、何分普段はあんな具合さ」

「いかにもあんたの古馴染らしいじゃない。そういうやつらばっかでしょ、あんたの周りって」

 

 ここで居候を始めてもう三ヶ月程度だが、ぬえは月見に対して完全な『オン』で接している少女を未だかつて見たことがない。月見の前ではよそいきの仮面を外し、一人の女としてのびのびと自由に振る舞う。もしくはオンで接そうとはするものの、上手く行かずボロだらけの姿を晒してしまうかのどちらかだ。

 

「それを言ったらお前だってそうだろう。毎日惰眠を貪ってばかりで、とても伝説の大妖怪とは思えないぞ」

「そうですよね……ぬえさんも、実はすごい妖怪なんですよね」

「あんたも、実は妖怪と素手で殴り合いできるとんでもない人間だけどね」

「そ、そんな野蛮なことしませんよっ?」

「うん? 確かお前、『お稽古』とやらでいつも水蜜と一輪をボコ」

「あ、朝ごはん! 私たちも朝ごはんにしましょうかっ!」

 

 露骨に逃げやがった。もっとも逃げたところで、ぬえも月見も当事者である二人からバッチリ愚痴を聞かされているので無意味なのだが。

 白蓮に続いて、月見ものんびりと腰を上げた。

 

「どれ、私も手伝うよ」

「あ……ありがとうございます。助かります」

「……」

 

 それにしても、まあ。

 月見に手伝うと言ってもらえた白蓮のこの満ち足りた笑顔といい、二人並んで台所へ向かう後ろ姿といい。

 他人に知られたら解脱昇天しかけるほど恥ずかしがる有様だったのに、それでも白蓮は月見を「お父様」と呼んでいた。やや天然で抜けている一面こそあれ、白蓮は決して愚鈍な人間ではない。人間はよくわからないという言葉で片付けるのは簡単だけれど、ひょっとすると彼女は、バレたときの赤っ恥などはじめから覚悟の上だったのではあるまいか。

 たとえいつかバレてしまうとしても、今はそう呼んでいたいと。

 白蓮にとって月見とは、それほどまでの妖怪なのではあるまいかと。

 そんなことを考えながら、ぬえはふてぶてしく頬杖をついてぼそりと、

 

「……親子仲がよろしいことで」

「きゃふ!?」

 

 廊下に一歩出るなり白蓮が滑ってコケた。

 なるほどこれは、からかいネタとしてはなかなか優秀そうだ。

 

「……ぬ、ぬーえーさーんーっ!?」

「あはははちょっとした冗談だよ冗だ――ちょっと待ったストップストップいやいやいやいやいくら妖怪でも関節極められたら痛い痛い痛いってば待ってやめてごめんなさいすみませんでした調子乗りましん゛に゛ゃ――――――――ッ!?」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「……さて、今日は一日なにをしようかしら」

 

 自分でいうのもなんだが、古明地さとりは仕事(デスクワーク)がデキる女である。

 元々筋金入りのインドア派だし、趣味が高じてか何時間机に向かっても苦痛を感じない体質だ。おまけに字は上手い方だと自負しているし、一般常識は問題なし、計算能力だってそうマズくはない。豪放磊落(ごうほうらいらく)とした鬼たちがまとめ役の中心となっている旧都では、この手のデスクワークに向いた几帳面な人材というのがなかなか多くないらしい。なので藤千代経由で雑多な書類を回してもらい、旧都の経済を陰ながら支えるのがさとりの昔からの仕事であった。

 そんなデキるキャリアウーマンこと古明地さとりは、期限間近の書類を昨日の時点で完璧に片付け、今日は丸々一日フリーである。

 妹やペットたちと穏やかな朝食を終え、一度自室まで戻る廊下の途中で、今日という休日をどうやって過ごそうかと黙々思案に耽っていた。

 とは、いえ。

 

(まあ、選択肢なんて多くないんだけど)

 

 引きこもりのさとりにできる休日の過ごし方なんて、趣味の執筆に没頭するか、手当たり次第に本を読むか、汚いわけでもない部屋を掃除するか、のんびりとペットたちの世話をするかのどれかくらいなものだ。今までのさとりであれば、そんな休日を物足りないと感じることもなかったけれど。

 

(……どうせなら、月見さんが遊びに来てくれればいいのに)

 

 そうもどかしい気持ちに駆られてしまって、建設的な思考ができなくなっている自分がいた。こういうときはつくづく、月見という存在が地霊殿にとってどれほど大きいかを再認識させられてしまう。地霊殿の主として年長者ぶってはいるが、本当はこいしやおくうを見て笑える立場ではないのだ。

 せっかくの休日なのに、なんとも悩ましい一日になりそうだ――小さくため息をついて、自室のノブに手を掛けようとした。

 

「ごめんあそばせ」

「え、」

 

 声がした。真後ろから。

 あまりに不意打ちすぎたせいで、脳が『驚く』という反応にも至らなかった。

 なにもないはずの空中から、突拍子もなく女の体が生えていた。

 

「――、」

「はあい。お久し振りですわね」

 

 人間も妖怪も、本当に予想外のことが起こると声ひとつ上げられず凍りつくものなのだ。

 

「覚えていらっしゃるかしら。八雲紫ですわ」

「……え、あ」

 

 幸いにも向こうが名乗ってくれたことで、さとりの脳が慌ただしく再起動を始める。可及的速やかに記憶をひっくり返す。それは月見が時折口にしていた古馴染の名前であり、名乗られてみれば顔にはぼんやりと見覚えがあり、確かさとりたちが地底へ移り住んで間もなかった頃の、

 

「思い出してくださいました?」

「……はい。ええと、お久し振りです」

 

 妖怪最強とも噂される強大無比な能力で、幻想郷という世界を創りあげた賢者――八雲紫。

 スキマと呼ばれる異空の扉から上半身を覗かせ、どこか底の見えない妖艶な笑みでさとりを見下ろしていた。……こうして面と向かって会話をしたのは、この地霊殿が完成して、さとりたちが灼熱地獄跡の管理をすると決まったとき以来になるはずだ。数百年の歳月は妖怪にとっても短くはなく、お陰で名乗られるまでどこの誰だか完全に忘れていた。そういえば冬の終わり、すなわち春の始まりは、彼女が冬眠から目を覚ます時期だったか。

 それにしても、とさとりは身構える。さとりは別に名のある妖怪というわけではなく、八雲紫とは知り合いとすら言い難い。本当に、仕事の都合上で顔を合わせたことがあるだけだ。故に、恐らくは冬眠から目覚めてまだ間もないであろう彼女が、わざわざ地霊殿までなんの目的でやってくるのか心当たりが

 

(――あ)

 

 ない、とまで考えかけたところではっと気づき、それからさとりは全身の血の気が緩やかに落ちていくのを感じた。

 八雲紫は、幻想郷の管理者である。

 

「突然の訪問、大変失礼いたしますわ。実は私の式神から、少々気になる報告を受けたもので」

 

 冬、彼女はその任を離れて深い眠りに就いていた。その間に幻想郷で事件があったとなれば、たとえそれが無事に終わったものだとしても、事の次第を(つまび)らかにしてひとつの判断を下す立場にある。

 そう考えたときさとりたち地霊殿の住人は、八雲紫から決して看過してはもらえない大事件を起こしているのだ。

 

「なんでもここの妖怪が、冬の間に異変を起こしたとか」

「……、」

 

 八雲紫はあくまで、妖艶な笑みを崩さなかったが。

 それが反って言葉以上の重圧を持って、さとりの両肩に天高くからのしかかってきた。

 

「なかなか、大変な異変だったそうで。危うく、旧都が灼熱地獄に呑み込まれるところだったそうですわね」

「…………、」

「もしそうなれば、地上――幻想郷もどうなっていたか」

 

 ――さとりに、八雲紫の心は読めない。

 森羅万象の境界を操るという規格外の能力で、そういう風(・・・・・)に操作しているのだという。故にさとりには、紫が言わんとしていることを精一杯推測するしかない。そして、推測した先に行き着く答えはひとつしかない。

 

「結果的に事なきを得たとはいえ、幻想郷の賢者として見過ごせません。古明地さとり、真摯に答えなさい」

 

 地霊殿の主であるさとりの責任追及、ないしは異変を起こしたこいしやおくうの処罰のため――。

 さとりの背筋を、気のせいではないうっすらと冷たい汗が伝って、

 

「――月見の式神になったっていう霊烏路空ちゃんはどこ!? 月見の式神なんてズル、んっん、ともかく私の目に適う妖怪じゃないと認めませんからねっ!」

 

 …………は?

 気のせいだろうか。八雲紫のまとっていた賢者としての重圧が一瞬で吹っ飛んで、なんかぷりぷりと怒り出したのだけれど。

 

「月見が進んで誰かを式神にするなんて思えないから、きっと事情があるのでしょう。でもね、理由がなんであれ、月見の式神という立場は大きな責任と相応の自覚が伴うの! 今日はそのあたりのお話をしに参りましたわっ」

 

 ……………………ええと。

 まずは、目の前の少女は本当に八雲紫なのか、というところから始まった。冷静に考えて別人に入れ替わったはずもないのだが、思わずそう考えてしまうくらいの落差だったのだと理解してもらいたい。

 まだ頭が追いついていない中で、一応尋ねてみる。

 

「あの……異変の責任とか、そういうのを追及しにいらっしゃったのでは」

「異変はちゃんと解決したんでしょ? ならいいの!」

 

 いいんだ。

 スキマの奥から見覚えのある金毛九尾が湧き出し、あたかも紫を捕食するように一瞬で引きずり込んだ。

 声、

 

「もがーっ!!」

「紫様……あなたはなんでそこでスイッチを切っちゃうんですか? どうして最後まで真面目にできないんですか。やればできると感心した私が馬鹿だったんですか」

「私は至って大真面目よっ! これは今後の幻想郷にも関わる重大な話、そうでしょう!?」

「なんでこんなに自信満々かなこの人……」

 

 そこで思考が目の前の状況に追いついたさとりは、ああ、と静かな理解の吐息をこぼした。

 月見の心を読んだときに時折現れていた、これが『少女』としての八雲紫の姿なのだ。賢者の二つ名からは想像もできないくらい茶目っ気たっぷりで、弾け飛ぶように天衣無縫で、少々ドジでぽんこつ気味で、けれどそれ故に誰からも憎からず思われるけんじゃさま。ひとたび理解できれば意外だとは思わなかった。なぜならば、月見の周りに集まる妖怪の少女とはみんなそういうものなのだから。

 本当は幻想郷指折りの実力者なのに、さとりなんて道端の石ころ同然の強大な力を持っているのに、だからといってなにも特別なものはなく、どこにでもいる普通の少女となんら変わらない。

 八雲紫もまた、そんな少女の一人だったのだ。

 

「藍はちっともわかってないわっ。いいこと? 月見の周りに新しい女が増えれば増えるだけ、私たち古い女っていうのは忘れられていくのよ! これは私たちの存在を懸けた闘いなのっ!」

「まあなにを言いたいのかはなんとなくわかりますけど、いいから落ち着いてください。常に賢者モードでいろとは言いませんが、ここは水月苑じゃないんですから。最低限の品位は持ってください」

「最低限の品位すらないって言ってる!?」

「……あのー、」

 

 それで彼女は幻想郷を管理する大妖怪としてではなく、あくまで月見の友人として地霊殿を訪ねてきた、ということでいいのだろうか。気を抜けばあっという間についていけなくなるこのはちゃめちゃ感、いかにも月見の友人らしくて大変結構なのだけれど、さとりは一体どうすればいいのか。

 スキマから藍が顔を出した。

 

「やあ。朝から騒がせてしまって申し訳ない」

「あ、いえ……」

「何分冬眠から起きたばかりで、元気が有り余ってるらしくてね。人様を訪ねるときくらいはちゃんとしてほしいんだけど……」

 

 藍のため息は、何百年と紫の従者を務める中でもはや逃れ得ないと悟った諦めのため息だった。苦労してるんだなあと、さとりは妹の姿を思い浮かべながら親近感を抱く。

 スキマの奥から声、

 

「ちょっと藍、放してよぉ!」

「ちゃんと品よくやってくださいよ?」

「ええ、任せてちょうだいなっ」

「だからなんで自信満々かなこの人」

 

 藍の上半身が引っ込み、上向きに開いていたスキマが一旦閉じて、すぐに天井近くから下向きに口を開ける。そこから八雲紫がふわりと飛び降りてくる。あたかも一枚の花びらか羽毛が舞うような、体重を感じさせない不可思議な着地だった。

 重圧は感じないが、自分とは違う次元の存在だと直感で理解できる、近づきがたい怜悧な佇まいだった。なるほど賢者としての顔と少女としての顔、ここまで変わるのなら『賢者モード』という表現も言い得て妙かもしれない。

 

「こほん。……というわけで、霊烏路空という妖怪に会わせていただけないかしら。私、気になるの」

「それは、構いませんが……」

 

 続けて藍が紫の背後に降り立ったのを見つつ、さとりは眉を下げ、

 

「ただ、おくうはだいぶ人見知りが激しくて……特に初対面の方にはすごく警戒して、会話も上手くできないくらいなんです」

「お気遣いなく」

 

 八雲紫は右手の扇を開き、そこに描かれた銀の月夜の景色とともに淡く微笑む。

 

「霊烏路空が、式神として優秀か未熟かは関係ありません。ただ、彼女という妖怪のありのままを見定めたいのですわ」

「変なことはしないから安心してくれ。もし紫様が勝手をするようなら私がぶっ叩いて止めるよ。いつものことだからね」

「ねえ藍、私がちゃんと真面目にやってるんだからあなたも真面目にやりましょ? ね? それだと私がいつもぶっ叩かれてるみたいに聞こえちゃうでしょ?」

「実際そうかと」

「そんなわけ、……ない、ともっ、言い切れないけどお!」

 

 藍のいじわる! とまた賢者モードが吹っ飛んだ紫を見ていると、さとりもなんだか肩の力を抜けた気がした。

 藍の心を通して、紫がどうしておくうの存在を気にしているのか伝わってくる。……なるほどこれはひょっとすると、ある意味では(・・・・・・)紫のお眼鏡に適わないなんて話になってくるかもしれない。さあ、どうするおくう。これまたなかなかの強敵よ。

 

 というわけで、所は地霊殿の応接室に移る。片方のソファにさとりとこいしとおくう、向かいのソファに紫と藍が座り、簡単な自己紹介やおくうが式神になった経緯などを説明する。そのあいだ紫は口数少なく、好意的とも否定的とも取れない寡黙な瞳でおくうを見つめ続けていた。

 

「う、うにゅ……」

 

 案の定おくうは控えめな警戒心を露わに、指先でさとりの袖をつまんだまま離そうとしない。幻想郷で一番偉い大妖怪の訪問とあって緊張も並々ではなく、自己紹介のときは物の見事に噛み噛みなおくうであった。名前が「霊烏路うにゅほ」だった。一方でこいしは今日も今日とて失礼なくらい元気はつらつで、さとりが話している間も両足をぶらぶらさせてまったく落ち着きがないし、なにが楽しいのか小さく鼻歌まで歌っている。今だけでも二人を足して二で割れたらちょうどいいのだけれど、とそんな考えがさとりの頭をちらりと掠める。

 そんなこんなでさとりの話もひと通り片付き、膝の上でのんびり丸くなっているお燐を撫でながら、十秒少々。必要最低限の相槌以外は沈黙を保っていた紫が、ようやく口を開く。

 

「なるほど……神様の御霊が宿っている以外は、本当に普通の妖怪ね。普通すぎるくらい」

「はい。戦いはできませんし、人間を食べることもない優しい子です」

 

 妖怪として強いかどうかをいえば、下から数えた方が圧倒的に早いだろう。ひょっとするとさとりでも勝てるかもしれない。今でこそ大妖怪をも凌駕し得るだけの力を宿しているけれど、本来のおくうはどこまでいっても『ただの鴉』に過ぎない少女なのだ。

 なにも特別な能力なんて持っていないし、性格ひとつ見てもなにかと欠点が多く目立つ。人見知りで不器用で口下手でヤキモチ焼きで、平常心に欠けるし頭もいいとはいえない。銀毛十一尾たる月見の式神としてふさわしいかなど、論じる以前の問題――それが、極めて客観的におくうへ下される評価だろう。

 しかし紫の頬には、「まったくもう」と白旗を上げるような微笑があった。

 

「こんな子のためにあれこれして、しょうがないんだから」

 

 彼女の心の声は、あいもかわらず聞こえないままだけれど。

 曲がりなりにも女の直感とでもいおうか――ああこの人は本当に月見さんのことを好きなんだなと、さとりは腑に物が落ちたように理解した。さとりの話を聞いている間、頭を過ぎった言葉は他にたくさんあったはずなのに。考えているうちにそれがぜんぶ引っ込んで、気がつけば「まったくもう」に変わってしまった。そんな自分に思わず気が抜けたような笑顔だった。

 女ながら、不覚にもどきりとしてしまった。

 

「……ふたつ、聞かせてくれないかしら」

 

 紫にまっすぐ柔らかな瞳で見据えられ、おくうの肩がかすかに震えた。

 

「話を聞く限り、こうして八咫烏の力を鎮めることができたなら、あなたが月見の式神でい続ける理由はなさそうに見えるわ。それはどうして?」

「っ、」

 

 続けざまに今度は大きく震える。それは昨年のクリスマスパーティーで、神奈子がおくうに尋ねたのとほぼ同じ疑問だった。そしておくうにとっては答えるのが恥ずかしすぎて、早くもこの場から逃げ出したくなる禁忌の質問でもあった。

 一瞬で赤くなって固まったおくうを、さとりと藍はにこにこしながら微笑ましく見守る。おくうが心の中で、なんだかよくわからない奇声をあげながらあっちにこっちに走り回っている。沈黙のまま五秒が過ぎ、十秒が過ぎ、やがて十五を数えたところでこいしが元気よく手を挙げて答えた。

 

「はい! 八咫烏の力とか関係なく、おくうが月見の式神でいたいからですっ」

「にゃあああああ――――――――っ!?」

 

 おくうがこいしを全身で押し潰した。それがなによりも雄弁な回答となった。紫があくまで穏やかな表情のまま、音もなく扇を開いてそっと口元を隠した。

 

「……なるほど、やっぱりそういうこと……」

「ううっ……」

 

 おくうがじわりと涙目になる――が、決してこいしの発言を否定まではしない。咄嗟に違うと叫ぼうとするおくうを、もっと素直な女になると決めたもう一人のおくうが止めた結果だ。他でもない賢者様の前なので、さとりは顔が失礼な具合にならないよう全身全霊で我慢した。

 

「おくう、重いよー」

「こ、こいし様が勝手に答えたりするからじゃないですかっ」

「賢者様はおくうのことを聞きに来たんだから、ちゃんと答えなきゃダメだよー」

「う、うー……!」

 

 果たしておくうは気づいているのだろうか。せめてそこだけでも否定しなければ、こいしの回答が他でもない『ちゃんとした答え』だったと完璧に認めてしまうことになるのだが。

 おくうとこいしが体を起こすと、紫が小気味よい音とともに扇を閉じた。

 

「じゃあ、ふたつ目の質問です。――あなたにとって、月見はどんな存在?」

「――、」

 

 予想では。

 この質問を聞いた時点でさとりは、これまたおくうにとっては触れられたくない禁忌の問いだと思った。月見をどう思っているかなんて、あのおくうが冷静かつ素直に答えられるはずもない。だから彼女は次の瞬間またあわあわと取り乱して、さとりに大変甘美な心の声を流し込んでくれる。そう信じて疑わず、さとりは口の端がつりあがらないように改めて頬の筋肉を締め直した。

 しかし。

 

「……、えっと」

 

 おくうは狼狽えるどころか、きょとんと小首を傾げて。

 それがどうかしたのかと問い返すように、すんなりこう答えてみせたのだった。

 

「ご、ごしゅじんさま…………?」

 

 ――なるほど、そう来たか。

 よもや、ほぼ即答。わずかに言い淀む間こそあったが、それは答えを躊躇ったからではなく、純粋に質問の意図がわからなかったからだ。どうしてそんなわかりきったことを訊くんだろう、普通に答えていいのだろうか、なにか裏があるのではないのか、と。

 これは、さとりを以てしても読みきれなかった想定外の結果だった。

 無論、おくうの答えは紛れもない本心だ。本気でそう思っている。おくうは月見の式神なのだから、その認識自体に間違いや問題はなにもない。おくうはただ事実を口にしただけだ。

 けれどおくうが、その事実を口にすることをなにひとつ躊躇わなかった点は注目に値する。今のおくうは、月見が自分のご主人様であると心から認めている。至極当たり前のことだと思っている。はてさて口の端がつりあがるのをどうにも抑えられないのは、果たしてさとりだけであろうか。

 間があった。紫が再度開いた扇で口元を隠し、さとりとこいしと藍は一層にこにこして、膝の上のお燐が肩を竦めるように大きくあくびをした。そこでおくうはようやく、自分がみんなの予想と異なるなにかをしてしまったと気づいたようだった。

 

「え、な、なにか変ですか!? だってそうですよね!?」

「ええ、そうね。なにも間違ってないわ。なにも間違ってないのよ、おくう」

「そうそう! おくうは月見の式神だもんね!」

「もう月見ったら。月見ったらもう。ふふふふふ……」

「いいのではないですか。式神になりたてだった頃の橙みたいで、微笑ましいです」

「ふにゃー」

 

 よくわからないおくうは頭の上で大量の疑問符を量産している。紫が両手で丁寧に扇を閉じ、緩く吐息しながらそれを膝の上に置いた。

 

「……わかりました。あなたが式神として月見の害になることはなさそうだし、とりあえずはよしとしますわ」

「だって。よかったわね、おくう」

「?? ???」

「けどね、」

 

 ぽつりと付け加える。それと同時にさとりは、紫がここまで維持し続けてきた賢者オーラに亀裂が入っていくのを感じた。そして向かいの藍が心の中で、ああまた始まったと天井を振り仰いだその直後、

 

「――これだけは言わせていただくわ! 私と月見はあなたたちよりずっとずーっと、ずうーっと昔からの仲なの! 新参者に割って入る余地なんてありませんからねっ」

「はいは――――――い!! 異議あり異議あり――――――っ!!」

 

 少女モードに戻った紫がぷりぷり怒り出す、こいしがすかさず立ち上がって挙手する、

 

「地上の人たちばっかり月見を独り占めしてズルいです! 私たちも地上に行きたーいっ!!」

「ダメですーっ! 不可侵の約定を知らないなんて言わせないわよ!」

「月見とか鬼子母神様とか無視してるじゃん!」

「あ、……えっと、あれは二人が例外なの! 二人は幻想郷でも重要な妖怪だから、そういう枠組みに囚われず」

「去年のクリスマスに、地上の人たちがたくさんここに来てパーティーしたよ! そこの藍も来た!」

「藍?」

 

 藍はさっと視線を逸らした。

 

「月見と鬼子母神様も、いつか地上においでって言ってくれてるもん!」

「…………ま、まあ、そのあたりは後ほど確認させていただくわ。ともかく、私は冬の間ずっと寝ていたの! だからしばらくは私が独り占めしますわ!」

「ズル――――――いっ!! おくうもそう思うでしょ!?」

「うにゅ!?」

「はい二対一! 私たちの勝ちー!」

「ふーんだ、私は大妖怪で賢者だから一人で三票分ですー! 三対二で私の勝ちですーっ!」

「なにそれーっ!!」

 

 紫には大変申し訳ないのだが、さとりは若干遠い目をして思う。賢者って、一体なんだろう。

 藍も、瞳の焦点が遠い青空だった。

 

「こんな感じの御方だけど、よろしく頼むよ……」

「……藍さんも、大変なんですね」

 

 こいしと苛烈な月見争奪戦を繰り広げるこの姿が、もしも八雲紫の平常運転であるならば。自由奔放すぎる妹に日々振り回されている身として、藍とは互いに有意義な酒が呑めそうだった。

 

「でも、なんていうんでしょう、ちょっとほっとしました。やっぱりこの方も、月見さんのご友人なんだなって」

「そう前向きに考えてもらえると助かるよ。でも力だけは本当に凄まじい方だから、困ったときは」

「独り占め反たぁ――――――いッ!!」

「なによちょっとくらいいいでしょずっと出番なかったんだから――――――っ!!」

 

 二人の裂帛に耳を貫かれ、さとりと藍はすっと黙る。

 それから、どちらともなく破顔一笑する。その瞬間、さとりと藍は完全に以心伝心した。今だけはさとりの心も、一から十まで余すことなく藍に伝わっているはずだった。

 鏡合わせでゆっくりと腰を上げて、たっぷりと大きく息を吸って。

 

「――こいし、いい加減にしなさい!!」「紫様、いい加減にしてください!!」

「「ぎゃんっ!?」」

 

 さとりは平手で、藍は尻尾で。

 いかんせん女らしいお淑やかさに欠ける妹の、ないしは主人の脳天を、すぱぁん! とお互い鮮やかに一閃した。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――遂に起きたのねスキマアアアァァ!! ここで会ったが百年目よおおおおおっ!!」

「えーえー起きたわよ起きましたよ出たわねこの駄姫様ぁ!! いい加減に引導を渡してあげるわ覚悟しなさあああああい!!」

 

 はてなにかを忘れている気がすると、喉に小骨が引っかかったような感覚は覚えていた。

 紫が目覚めたことで幻想郷に本来の日常が戻ってきたのは周知の通りであるが、その割にはまだなにかが足りないと感じる。さながら瞳の欠けた竜の絵画を見ているかのごとき違和感は、その日の昼下がりになるまで月見の胸の中にわだかまっていた。

 そして輝夜が本日も元気はつらつとやってきたことで、すべての疑問は氷解したのである。

 

「そうかそうか、これを忘れてたんだな」

「ですね」

 

 すなわち、紫と輝夜のキャットファイト。因縁の二人は数ヶ月振りに出くわすなり闘争心をむき出しにし、早速茶の間の隅っこでとっくみあいのケンカを始めた。二人の言い争う声やら頭をぺちぺち叩き合う音やらを聞きながら、月見と藍は胸中のもやが晴れた心地でお茶をすすった。

 

「……いや、止めなくていいのあれ?」

 

 ぬえが半目になりながらもっともなことを言う。しかしながら今日という日に限っては、思う存分ケンカさせてやるのが正解なのだ。

 

「いいんだよ。ケンカするほどなんとやらだ。ほら、二人ともいきいきとした顔をしてるだろう?」

「……まあ、生命力は感じるけど」

「あの二人は前々からああさ。冬の間ずっとご無沙汰だったから、久し振りにぶつかれて嬉しいんだろう」

「「嬉しくないッ!!」」

 

 口ではなんとでも言えるのである。

 朝こそ騒々しい始まりだったものの、あのあと紫はすぐに挨拶回りや結界の調整など、冬の間溜まった諸々の用事を済ませに出掛けたので、水月苑はといえば今までとなんら変わらない穏やかな一日であった。屋敷の家事をある程度片付け、文々。新聞で情報収集をし、春に変わりゆく庭を散歩しては、その間に公園感覚でやってくる少女たちを出迎えしていた。用事にひと区切りをつけた紫が、藍とともに戻ってきたのが三十分ほど前。今はちょうど輝夜以外の客足も途切れ、みんなで昼下がりの一服を楽しんでいたところだった。

 

「そういえば、月見様」

「うん?」

「あ、ほんとに放っとくんだ……」

 

 もう少ししたら、仲良く外に飛び出して弾幕ごっこを始めるだろう。藍はもはやケンカする二人に一瞥もせず、

 

「紫様と方々(ほうぼう)を回るついでで、佐渡にも立ち寄ったのですが」

「ほう。というと、マミゾウか」

 

 藍が首肯し、ぬえが丸めていた背中をぴんと伸ばした。声があからさまに明るくなり、

 

「マミゾウと会ってきたの?」

「ああ。紫様がね、いつこっちにやってくるのか直接話を聞きたがって」

「いつって言ってた?」

 

 やや前のめりになって、矢継ぎ早に尋ねる。旧友と数百年振りの再会が近いとあって、さすがに目に見えて浮ついた様子だ。

 

「予定では、明々後日だそうだ」

「へー……!」

 

 明々後日かあ、とぬえが小躍りするように桃を口に運ぶ。明々後日か、と月見はいわく言い難い心境で茶を口に運ぶ。無論マミゾウを嫌っているわけではないが、あの超絶狐嫌いがいよいよ幻想郷にやってくるとなればどうしても身構えてしまう。年を食って角が取れる程度なら、ぬえへの手紙に『戦支度』なんて物騒な単語は並べないだろう。

 藍は続ける、

 

「それで紫様が、月見様のことをお話になりまして。そうしたらあの女狸、戦の支度をするなどと言い出したので、紫様と適当にのしておきました」

 

 今なんと?

 

「月見様に戦を仕掛けるなんて二度と考えられないように。もしかすると、こっちに来るのが少し遅れるかもしれませんね」

「「……」」

 

 ……マミゾウの狐嫌いに、拍車が掛かっていなければよいのだが。

 

「……うん、まあ、元気そうでよかったわ。今が元気かは知らないけど」

 

 ぬえが、上手く言葉が出てこないけどとりあえず、と書かれた表情でそれだけ言った。月見も言葉が見つからない。マミゾウの迂闊な発言が招いた結果とはいえ、さすがに少々不憫であった。

 紫が裂帛した。

 

「あーもーしつこいわね!! わかったわ表に出なさい弾幕ごっこでコテンパンにしてあげる!!」

「上等よ!! 冬眠ボケしてるあんたで勝負になるのかしらねー!?」

「なりますー!! むしろ今の私はぐっすり休んでベストコンディションなんだから! 遠吠えしながら永遠亭に帰るがいいわっ!」

 

 月見の予想通り、とっくみあいだけでは満足できず外で弾幕ごっこを始めるようだ。畳をまったく同じリズムで踏み鳴らしながら出て行った二人を、目で追ったのはぬえだけだった。月見と藍はただ瞑目し、二人が玄関から外に飛び出したのを音で確認してから、

 

「――では、そろそろ夕飯の仕込みを始めましょうか。橙を呼びます」

「ああ。ほらぬえ、お前も手伝え。みんなでやるぞ」

「……うん。もうなにも言わないわ」

 

 少女たちの仲睦まじいケンカなど、水月苑では極めて日常茶飯事なのである。

 

「あ、あのお二人とも、ケンカはダメで――ひええええーっ!?」

 

 ……そして、わかさぎ姫がなぜかピンポイントで巻き込まれるのも。

 盛大に水柱の上がる音が聞こえ、それっきりわかさぎ姫の叫びが途切れる。ぬえをこたつから引っ張り出しながら、夕飯にはひめも呼んであげようと月見は思った。

 

 

 

 

 

 弾幕ごっこは、宣言通り紫の快勝だった。

 ぐっすり休んでベストコンディションというのはあながち伊達でもなかったらしく、輝夜にスペルカードを一枚も破らせない完璧な試合内容だった。輝夜は大変納得がいかない様子だったが、「ま、あんたにとっちゃ久し振りなんだし、今日くらいは引いたげるわよ」とすんなり諦め、月見の背中にくっついて一度たっぷり深呼吸をしてから、ほくほくした様子で竹林に帰ってゆくのだった。

 その後は橙も交えて夕食の卓を囲み、冬の思い出話に大きな花を咲かれば、いつしかとっぷりと夜だった。

 当初は酒も入れつつ遅くまでの宴になるかと思われたが、紫がうつらうつらと睡魔に襲われ出したことでお開きの雰囲気になりつつあった。朝のうちからスキマであちこちを回って、マミゾウをのしたり輝夜と弾幕ごっこをしたりと散々運動をしたのだから無理もない。眠気はほどなく橙にまで伝染し、よい子はもう寝る時間なのだと月見たちに教えてくれた。

 交代で入浴を済ませ、月見が座敷に戻る頃には、紫と橙がテーブルに頭を乗せて仲良く舟を漕いでいた。

 苦笑。

 

「ほら、こんなところで寝ると逆に疲れるぞ」

「んむぅ……」

「んみゅぅ……」

 

 紫も橙も、すでに半分夢の世界へ旅立っていて会話もままならない有様だった。藍の姿が見えないのは、二人のために急いで布団を支度してくれているからだろう。ぬえは月見が入浴する前に、妖怪らしく夜遊びへと出掛けていった。

 紫の向かいに座り、頬杖をつく。この世に悩みなどなにひとつ存在していないかのような、紫の大層スキだらけな寝顔が見える。

 

「……これで、この世で一二を争うくらいの大妖怪だっていうんだからねえ」

 

 どこからどう見ても、よく笑ってよく怒ってよく泣いてはよく眠る、普通の年頃の少女としか思えないのに。

 妖怪の月見が言うのもなんではあるが、妖怪とはつくづく摩訶不思議な生き物だ。

 藍が戻ってきた。

 

「あ、月見様」

 

 月見は軽く手を挙げ、

 

「二人とも、もうだいぶ眠そうだ」

「はい。いま、布団を敷いてきました」

 

 少し声量を抑えて言うと、藍も同じく控えめに応えた。月見は二人の手前でテーブルを軽く指で叩き、

 

「紫、橙。歩けるかい?」

「「……むぅ~……」」

 

 ダメそうである。両腕を枕にしたまま顔を上げられそうにない。

 

「布団まで運びましょう。月見様は、」

 

 そこで藍は己の主人と式神を交互に見比べ、束の間考えてから、

 

「そうですね、紫様をお願いします」

「……了解」

 

 間を置いた理由については、まあ訊くまい。

 藍は橙を、そして月見は紫を抱えて立ち上がる。紫は状況を理解できているのかいないのか、月見にされるがままふわふわと微睡み続けている。こうして無抵抗なまま抱き上げてみれば、大して重くもない華奢な体だった。

 思考。

 

「……なあ、藍。こいつやっぱり、冬眠して背が縮んだんじゃないか?」

「ふふ、そうかもしれませんね」

 

 なんだか、だんだん冗談とも思えなくなってきた。妖怪は精神生命体だから、幸せいっぱい爆睡して若返った心が肉体に影響を及ぼしたのだろうか。ひょっとすると明日の八雲紫は、今日よりまた身長が縮んでいるのではないか。そんな突飛な想像を月見はふとしてみる。

 紫を寝室まで運ぶ。月見の歩みによるわずかな揺れがちょうどよかったのか、部屋へ着く頃には紫はすよすよと寝息を立て始めていた。心地よさそうでなにより。

 藍が丁寧に引いてくれた布団へ、起こさないようそっと寝かせる。

 

「んみぃ……」

 

 なにが「んみぃ」か。

 藍も橙を寝かし終えたようだ。二人並んで気持ちよさそうに眠る姿を見ると、なんだか主人と式神というよりも歳が少し離れた姉妹みたいで、月見と藍はどちらからともなくふっと一笑した。

 幸せな夢の世界を邪魔しないよう、より一層声をひそめて。

 

「藍は、まだ起きてられるかい?」

「ええ、大丈夫ですが……」

「なら一献、付き合ってくれないかい」

 

 紫を見下ろし、

 

「……もう少し、話がしたい気分だ」

 

 藍は月見の視線の先を追って、やがて柔らかく頷いた。

 

「ふふ、わかりました。お付き合いしますよ」

 

 肴はそう、ひとつ例えを挙げるなら。

 お調子者でそそっかしくて、大妖怪の威厳なんてちっともなくて――けれどそれ故に愛らしい、とある小さなけんじゃさまについてだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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