銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色

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第14話 「月の小径 ①」

 

 

 

 

 

 脚が棒のようだとまでは言わないが、さすがに休みたいなと月見は思う。思い返せば、今日は異常なくらいによく動いた日だった。人間が安全に生活できる唯一の理想郷である人里は、間もなく夜の帳に包まれようとしていた。

 さすがにもうなにも起こらないだろう、と思っていた。主だった活動をやめて家に戻る人間たちと一緒に、宿を借りて、ゆっくり明日に備えようと。

 そう思って訪れた人里の中心で、けれど、月見は。

 

「――頼む! お願いだから力を貸してくれ、この通りだ!」

 

 周囲を人だかりに囲まれ、投げ掛けられるのは助けを求める悲痛な叫び。

 今日という日は、まだ終わらない。

 夜が落ちつつある幻想郷で、もう少しの間だけ、月見は動く。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 霧雨魔法店を去り、魔法の森を抜けると、月見は広がった平野の先に集落を望んだ。日は間もなく、山々の中にその体を完全に沈めようとしている。霧雨魔法店では思わぬ寄り道をしてしまったが、これならなんとか間に合いそうだった。

 向かって左には魔理沙から教えられた『香霖堂』なる古道具屋があったが、これ以上寄り道をする余裕はさすがになかった。こんな辺鄙な場所に立つ古道具屋がどんな店なのかは、また次の機会に確かめるとして、月見は速やかに人里に向けて歩き出した。

 そうしながら、ゆっくりと首を回す。……関節が、パキパキと小気味のいい音を鳴らした。

 

「……大分、疲れたなあ」

 

 ため息を吐き出すように、そう言う。今日だけで、妖怪の山を登り下りし、紅魔館で派手な戦闘をし、霧雨魔法店を忙しなく掃除し、魔法の森を踏破したのだ。疲労に強い妖怪の体とはいえ、さすがに抗議の声を上げ始めていた。

 

「……早いとこ行って、休ませてもらおう」

 

 だんだん重くなってきた両脚を励ましつつ、月見は懐から一枚の札を取り出した。陰陽術などで好んで用いられる、術式を刻み込んで発動の鍵としたものだった。

 刻まれた文字は、

 

「――『人化の法』」

 

 直後、月見の体に変化が生まれた。札が数多の光の粒子となって(くう)に溶け出し、体を包み込む。わずかにものが焼けるような異音を伴って、光の奥で、月見の体が作り変えられていく。

 『人化の法』は、有り体をいえば変化の術だが、ただ単に外見を変化させるだけの子ども騙しとは違う。体の構造を根本的に作り変え、完全な人間になる(・・・・・・・・)――月見が長年の歳月をかけて大成させた秘術である。

 身を包む光が輝きを失えば、月見の体は劇的な変化を得ていた。銀の尻尾と獣耳は綺麗に消え失せ、側頭部には、代わりに人間の耳が生えている。髪は艶のある黒で染まり、肌もまた、赤みのある濃い肌色へと色を深めている。

 そして、これは外見だけではわからないことだが――妖力は、霊力に形を変えて。

 月見はまさしく、人となっていた。

 

「……よし、と」

 

 術が成功したことを確かめ、月見は小さく頷きを落とした。これならどれほど疑われたとしても妖怪だとバレる心配はないし、外来人を装えば、一晩くらいの宿も保障してもらえるだろう。

 

「寝るならやっぱり、布団で寝たいよねえ」

 

 狐であるはずの月見がそう思うのは、長い年月の中で、人の生活に馴染みすぎたからなのか。

 月見は薄く苦笑し、人里へと向かう足を少しだけ速めた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 人を喰らう妖怪が跋扈(ばっこ)する世界にも関わらず、人里の周囲に防柵の類が少ないのは、すなわち必要がないからだ。人間たちに無条件の安全が認められた唯一の土地であるここは、人と妖怪の共生のために、八雲紫が自ら率先して保護を行なっている土地だった。害意を以て近づく妖怪は退け、好意を以て近づく妖怪は受け入れる――そんな手の込んだ結界を周囲に張り巡られているのだと、当人から聞かされたことがある。故に妖怪の侵入を妨げるほど堅牢な柵は必要なく、ただ里の子どもが容易に越えられない程度のものさえあれば事足りる。

 

 町並みは、過ぎ去りしかつての宿場町を思わせた。焼杉独特の黒い赤褐色が、道の両側で家屋を築き、見通す先まで連なっては大路を成している。人の手を入れて自然から切り離しつつも、また一方で、自然とともに息を刻む――そんな幽玄の中にある町並みは、のどかで、うららかで、そして少しだけの寂しさを醸す。きっと、こういう焼杉の町並みを、もう外の世界ではあまり見かけなくなってしまったのもあるのだろう。

 けれど今は、それ以上に寂しさを引き立てる光景が、月見の目の前にあった。

 

「……人がいない?」

 

 日没もすっかり近づいた頃合いとはいえ、多くの店が並ぶこの大路で、人っ子一人ともすれ違わない。町は、もぬけの殻のようにがらんどうとしていた。

 

「ふむ」

 

 並ぶ店々は、多くがまだその看板を下ろしていないし、茶屋からは団子の甘い香りすら漂ってくる。それなのにどの店にも、客はもちろんのこと、店番の姿すら見られない。

 妖怪に襲われた、という線はないだろう。紫の結界があるし、そうでなくとも綺麗すぎる。

 店の具合を見てみるに、本当につい先ほどまで人がいたのは間違いなさそうだから、

 

「……なにか、催し物かな?」

 

 里人がみんな出払ってしまうほどのなにかが、里のどこかで起こっている。祭りか、それともトラブルかはわからないが、店をほっぽりだして出て行ってしまうのだから相当だ。

 もしかすると、布団で休めるのはまだ先の話なのかも知れない。そう感じながら、月見は里の中心へと足を進めた。

 

 中心部に近づくに連れて、ぽつぽつと人とすれ違うようになった。しかしどの里人も皆、一様に不安で押し潰されそうになった表情を浮かべていて、よそ者である月見を気に掛ける余裕はないようだった。目が合っても、挨拶すらろくに返してもらえない。

 

「……」

 

 月見は、足を向ける人里の中央広場に、大きな黒山が築かれているのを見た。ほどなくして、ざわざわと騒ぎ合う喧騒も耳につくようになる。

 けれどそれは、祭りなどとはほとほと無縁な――言い争いの声。

 

『……だから、その子は私が必ず助ける! みんなはここで待っていてくれ!』

『しかし、慧音先生! もう暗くなってきちまってるし、たった一人で捜すなんて無茶だ! 俺らも手伝った方が……!』

『危険すぎる! 妖怪たちはもう活動を始めているんだ! お前たちまで妖怪に襲われたらどうするんだ!?」

『けどっ……!』

 

 その言い争いが意味するところを察して、なるほどなあ、と月見は眉間に皺を寄せた。さしずめ、子どもが一人、外の森に迷い込んでしまって、どうやって助け出すかで意見が割れている……といったところだろう。

 この人里は紫によって守護されているが、一歩でも外に出てしまえば話は別だ。妖怪に見つかった子どもがどうなってしまうかなど、わざわざ声に出して言う必要もない。

 

「……ちょいと、失礼」

 

 人々の背を縫って、月見は黒山の奥へと分け入っていく。意見は激しく割れていて、交わされる言葉は怒号のようでも悲鳴のようでもあった。

 

『とにかく行かせてくれ! 早くしないと、間に合わなくなる!』

『俺もついていくぜ、慧音先生! 大人は命張って子どもを守るモンだろう!?』

『そうだ!』

『頼む、慧音先生!』

『っ……! けどっ……!』

 

 声からして、言い争っているのは、慧音と呼ばれた女性と、里の男たち。一人で子どもを捜しに行こうとする彼女に、居ても立ってもいられない男たちが同行を求めている。

 人垣を掻き分けながら、月見はそっと笑みをこぼした。たった一人の子どもを助けるために、命の危険すら度外視して、ここまで強く一丸になれる。やはり、人間という種族は温かい。

 そして、それ故に――止めねばならぬ。

 

「よしおめえら、準備をしろ! なんとしても見つけ出すぞ!!」

「「「おおおっ!!」」」

「ま、待ってくれ! 待ってっ……!」

 

 男たちの雄叫びに、慧音とやらの悲鳴に近い声が混じっている。恐らく彼女は、ただの人間が妖怪たちの住処に足を踏み入れることの意味を、理解しているのであろう。

 それは、命を捨てに行くようなものだから。だから止めたくて、でも、止まってなんてくれなくて。

 故に月見は、代わりに叫んでいた。

 

「――ちょっと、待ったあ!」

 

 行く手を遮る里人の背中を、心の中で謝罪しつつ、強引に脇へと押し退ける。

 そうして、月見が人垣を抜けた先で。

 月見は、蒼い銀髪を夜闇に溶かす、少女の姿を見た。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 夜に里の外へ出ることの危険性は、人里の守護者として、常々、たとえ口うるさくなってでも説いてきたつもりだった。危険だから夜に里の外へ出てはいけない、もしどうしても出なければならない用事がある時は、私に許可を得てからにしてくれと――口癖のように。

 里の外に飛び出してしまった子を、一緒に捜させてくれという男たちの申し出は、確かにありがたいものだった。かつての教え子だった子たちが、こうも逞しく真っ直ぐな大人になってくれた。……寺子屋の教師を務める者として、素直に嬉しかった。

 けれど慧音は、それ以上に、悲しかったのだ。

 だって。違うじゃないか。里の外には人を喰らう恐ろしい妖怪がいるんだって、何度も言ってきたじゃないか。だから、なにかあった時は私に任せてくれと、そう教えてきたじゃないか。

 妖怪は。この幻想郷にいる妖怪は、お前たちがどうにかできるような相手じゃないんだって。

 教えてきた、はずなのに。

 

「ま、待ってくれ! 待ってっ……!」

 

 雄叫びを上げ、武器を取ろうと動き出す男たちに、必死に手を伸ばす。武器なんて、持っていようがなかろうが関係ない。霊力すら持たない、己の腕力以外に頼るものを持たないただの人が、妖怪と戦うなんて、無謀ですらあった。

 慧音が守ってやればいい? ああ、確かにそうかもしれない。でも、今慧音が守るべきなのは、森に迷い込んでしまった子どものはずだ。そして彼女を守るためには、もはや余計な荷物(・・)を抱えている余裕なんてなかった。

 だから、どうかなにもせずに、待っていてほしいのに。でも、それを言葉にするだけの勇気が、慧音にはない。誰かを守りたいという、彼らの温かい気持ちを切り捨ててまで、現実を突きつける勇気が。

 

「っ……!」

 

 だから慧音は、震えることしかできなかった。私の気持ちなんて届かないのかと、嘆くしかなかった。

 ――聞き慣れぬその声が、喧騒を切り裂くまでは。

 

「――ちょっと、待ったあ!」

 

 周囲に築かれていた人垣を強引に押し退け、知らない男が飛び出してきた。里の人間ではなかった。里の人間なら、慧音は顔も名前もすべて覚えている。

 歳は恐らく三十にも満たないであろう、まだ若い男だ。肩に届くかどうかの、男としては少し長めな黒髪を垂らして――けれどそれ以上の顔立ちを、慧音は意識できなかった。彼の出で立ちに、自然と目を奪われていたから。

 白の狩衣。外の世界から切り離され、時代の進みが止まった幻想郷ですら、時代錯誤と取れる古めかしい出で立ち。まるで、かつて妖怪退治を生業にしていた人間たち――陰陽師のような。

 目が合う。そうして初めて気がつくけれど、彼は随分と背が高かった。……まあ、慧音が小さいというのもあるといえばある。女性らしい起伏に恵まれた一方で、どういうわけか慧音の体は、身長だけが腹立たしいくらいに成長しなかった。一時期は『子ども先生』なんてあだ名がついて、言論弾圧するのに苦労したほどだ。

 目の前の男が意外そうに眉を上げたのは、きっと予想外に小さい慧音の姿に驚いたからだろう。先生なんて呼ばれてる割に、随分小さいな――そんな感情がありありとにじんだ男の顔を見て、慧音は、彼のつま先を踏み抜いてやろうかと本気で悩んだ。

 その視線から逃れるように、彼が里の男たちに目を遣った。表情をすっと真面目なものにし、よく通るバリトンの声で、

 

「お前たち。森に入るという話、一寸待った」

「……なんだよ、あんたは」

 

 突如間に入ってきた不審な彼に、男たちは胡乱げな視線で答える。間もなく日が完全に沈もうとしているからか、無駄話に付き合う暇はないという焦りの色も見て取れた。

 その焦りに気づく素振りを見せつつも、彼は「まあまあ」と両の掌を見せた。

 

「単刀直入に言わせてもらうけど、森に入るのはやめておけ」

 

 男たちが顔をしかめた。その中の一人が、地面を蹴るようにして彼の前に出て、叫んだ。

 

「聞いてなかったのか? 子どもが一人、里の外に出ちまって戻ってきてないんだよ!」

「聞いた上で言っているよ」

「あんたも、危険だからって言うのか!?」

「加えて、この子の迷惑にもなる」

 

 この子、と言って彼が示したのは、他でもない慧音。子ども呼ばわりされたのが一瞬癪に障ったが、言葉にはできなかった。

 男たちが、それよりも先に声を荒らげていたから。

 

「迷惑って、どういう意味だよ!」

 

 今にも殴りかかりそうなほどに目を剥く男たちに、しかし彼は静かな表情を微塵も崩さなかった。

 

「冷静に、考えてみてくれ」

 

 問う。落ち着いた声音で、諭すように。けれど奥底に、口答えを許さぬ強さをたたえて。

 

「彼女は、森に迷い込んだ子どもを助けなければならない。なのに、妖怪と戦う術を知らないお前たちがついていったら――」

 

 一息、

 

「――彼女が守らなければならない相手が、闇雲に増えてしまうと。そうは、思わないか?」

「――っ」

 

 息を呑み、言葉を失った男たちに、つなぐ。畳みかけるように。

 

「お前たちは、妖怪と戦える力を持ってるのか? ……武器さえあればなんとかなる、なんて答えはなしだよ。そのへんの獣なんかとはわけが違う。妖怪が、その鋭い牙でお前たちの喉笛を噛み切ろうとした時、お前たちは動けるか? 立ち竦まずに、自分の命を守れるか? もしお前たちが妖怪に襲われてしまったら、もう子どもを捜す余裕なんてなくなってしまう。――それじゃあ本末転倒じゃないか」

 

 もう、男たちが声を荒らげることはなかった。彼の言葉が確かに的を射るものであると、反論したくとも、認めざるを得なかった。

 

「……妖怪の賢者が率先して里を守っている、ある種の弊害だね。妖怪が恐ろしい存在だと知りつつも、一体どれほどにまで恐ろしいのかを知らない。……知っているのは、この子だけというわけだ」

「っ……」

 

 彼が、首だけでこちらを振り返る。その深い黒の瞳を見た時、慧音は咄嗟に叫んでいた。

 

「あなたは……あなたは、知っているのか!? 妖怪の恐ろしさを……妖怪と戦う術を!」

 

 彼の言う通り、たとえ里の男たちを連れて森に入っても、慧音にとっては足手まといにしかならないだろう。しかし一方で、たった一人で子どもを捜し出すには、絶望的なまでに人出が足りないのも事実だった。なにせ子どもは、人里の周囲に散在する森の、一体どこに迷い込んでしまったのかすらわからないのだ。

 彼の言葉は決して闇雲ではなく、確かな経験に裏づけられたものだと、慧音には感じられた。彼の陰陽師を思わせる出で立ちは、伊達でも酔狂でもないのだと。

 だから、もし彼が、力を持った人間であるのなら。

 

「――頼む! お願いだから力を貸してくれ、この通りだ!」

 

 それ以外のことを考えられるほどの余裕は、時間的にも精神的にもありはしなかった。もう夜は訪れているのだ。今すぐにでも動かなければ、最悪の事態になってしまう。

 彼が、里の男たちのように心優しい人間であることだけを祈って。

 慧音はただ、頭を下げる。

 

「里の子は、どこの森に入っていってしまったのかもわからない……! だから、どうか! どうか、力を貸してっ……!」

 

 どよめきが周囲の里人たちに広がる。しかしそれもほんの一瞬で、あとはじっと、彼の答えを待つように静まり返った。

 そして答えは――彼の小さな宣言によって、示された。

 

「――飛べ」

「……え?」

 

 その言葉の意味を理解できなくて慧音が顔を上げた瞬間、視界を白の欠片で埋め尽くされた。驚いて一歩あとずさってから、それが無数の紙片であることを知った。

 一枚一枚が二十センチほどの、人の形を模して作られた紙片が、彼の周囲で桜吹雪のように乱れ飛んでいる。それが一体なんであるかを、慧音は迷いの竹林に住む陰陽師の友人から聞かされたことがあった。

 人形(ひとがた)陰陽師が使う(・・・・・・)、もっとも簡素でもっとも初歩的な――式神の名。

 

「……子どもだし、さほど遠くにも行っていないだろう」

 

 呟きに、すべての人形が一瞬で動きを止め、彼からの指示を仰ぐように待機状態に入った。まさか心を持っているのではと疑ってしまうほどに、彼の手によって完璧に統制されていた。

 そして、

 

「捜せ。――二分以内だ」

 

 散る。北へ、南へ、東へ、西へ。三里四方を飛燕の如く、人形たちの羽音が切り裂いていく。その勢いは大気すら乱し、巻き起こった旋風に慧音が一瞬目を瞑ったあとには――水を打った静寂だけが残された。

 誰しもが、言葉を失っていた。里人たちは、なにが起こったのかを理解できなくて。そして慧音は、彼が本当に力を貸してくれたことを、未だ理解しきれなくて。

 

「まあ、なんだ。男として……というか、人として助けてやらないとね」

 

 呟きながら、彼は慧音の足元からなにかを拾い上げた。……慧音の帽子だ。さっき頭を下げた時に落ちてしまったのだろう、まったく気がついていなかった。

 彼はそれを慧音の頭の上に乗せ、茶化すように、白い歯を見せて微笑んだ。

 

「あんなに泣きそうな顔で、助けてって言われたんだし……ね?」

 

 言われて初めて、慧音は、自分が今までどんな顔をしていたのかを理解して。

 込み上げてきた恥ずかしさの前に、帽子をぎゅっと両手で押さえつけて、俯くことしかできなかった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 上白沢慧音。人里の守護者を任され、人々から『先生』と慕われている割に、若い少女であった。背丈だけなら、ちょうど魔理沙と同じくらいだ。もっとも半人半妖らしいから、年齢は百を超えていようが。

 人里の中央で、月見は静かに佇み、放った式神――人形(ひとがた)を操る。視覚や聴覚などの基本的な知覚の共有に加え、術の遠隔発動の媒体にもできる、簡素ながらも汎用性の高い式神だ。迷子の捜索にはこれ以上ない。

 傍らには、慧音の姿があった。握り込めた指が掌に食い込み、そこから血の気を奪っているのが見えた。

 本当は、今すぐにでも走り出したいくらいだろう。だが子どもの居場所がわからない以上、闇雲に捜し回っても実りは少ない。もし勘に従って向かった先が正反対の方向だったら、目も当てられなくなってしまう。

 

「あなたは……里の人間ではないよな」

 

 白くなったその手を誤魔化すように、話を振られた。

 

「そうだね。……道に迷ってしまってね。当てなく歩いているうちに、ここに」

「陰陽師なのか?」

「そんなところだ」

 

 懐かしいやり取りだな、と月見は思う。妖怪の身を偽り、陰陽師として人間の世界に紛れ込んでいた一時期を思い出す。

 今ではもう、千年以上も昔の話だが。

 

「……まだ、見つからないか?」

「もう一分」

 

 縋るような問い掛けに対し短くそれだけ答え、月見は式神の操作に意識を集中させた。式神を放ってから一分が経つが、未だ子どもは見つからない。ただ、闇に紛れ活動を始めた妖怪たちの姿が見えるばかりであった。

 

「……」

 

 月見はその面持ちに険を刻み、人形を加速させる。目を閉じ、意識を静め、すべての知覚を鋭敏に研ぎ澄ませる。

 そして、一分と四十秒。

 捉えた。

 

「――いた」

 

 南東だ。小さな木の幹に体を預け、泣いている女の子が一人。

 生きている。

 

「ほ、本当か!?」

「ああ。南東の森にいる。怪我もなく、元気に泣いてるよ」

 

 慧音を始めとし、周囲の人だかりへざわめきが広がった。中には胸を撫で下ろし、安堵の笑顔をこぼす女性たちもいる。

 それを見た月見も、思わず肩から力を抜きかけて――しかし、直後に別の人形から入ってきた情報に、舌打ちした。

 女の子の近くになにかがいる。少女とは比べものにならないほど無骨で大きな、人間離れした巨躯は、

 

「まずいな……すぐ近くに妖怪が、」

「――ッ!?」

「あっ……慧音!」

 

 傍らで空気が動いたのを感じ、月見が見た時、既にそこに慧音の姿はなかった。南東に向けて、風すら置き去りにして駆け出している。まるで猪のようだったが、それで正解だと月見は思った。

 もはや一刻の猶予もない。その熊に似た妖怪は、既に少女の泣き声を聞きつけてしまっていた。

 慧音が少女のもとに辿り着くのが先か、それとも妖怪が鋭い爪を振るうのが先か。

 月見は周囲の里人たちへ、釘を刺す声音で言った。

 

「……おまえたちは、ここにいてくれ」

 

 是非を問うような暇はありはしない。ついてこられたところで、守ってやるような余裕もない。

 月見の言葉に、里人たちは皆一様に俯いた。女たちは祈るように。男たちは、なにもできない自分たちを呪うように。

 

「……」

 

 それを確認し、月見は慧音のあとを追った。追い縋る声も、足音もありはしない。ただ、すべての里人の祈る想いだけが、月見の背に注がれていた。

 故に月見は駆ける。体に霊力を巡らせ、地を蹴る力、勇ましく。

 必ず助けるからと、誓う言葉だけを、その場に残して。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 銀の風が、夜の落ちた森を鮮やかに切り裂く。間に合ってくれと――ただそれだけを祈って、慧音はがむしゃらなまでにひた走った。若い枝で肌を傷つける、その痛みすら、力に変えて。

 南東の森。どこを捜せばいいのか皆目見当もつかなかった状況で、あの陰陽師の男がたった二分で弾き出してくれた場所は、しかし闇が落ちた森の中で一人の子どもを見つけ出すには、あまりに頼りないものだった。

 大声で少女の名を呼べば、もしかしたら反応が返ってくるのかもしれない。しかし一方で、不用意に物音を立てれば、それだけ多くの妖怪を寄せ集めてしまう危険性もある。

 

(一体、どこにッ……!)

 

 畢竟、叫び出したい衝動を抑えて、ただ走るしかない。この先に少女の姿があることを、祈るしかない。

 

「ッ……」

 

 あの陰陽師の男を置いてきてしまったことが悔やまれた。少女の近くに妖怪がいると、その言葉を聞かされた途端に全身から血の気が失せて、具体的な場所も聞かないままに飛び出してしまった。

 だが、決して引き返すわけにはいかない。今はもう、少女が妖怪に見つけられてしまっている可能性すら、あるのだから。

 見つけるしかない。なんとしても。

 

『――慧音!』

「……!」

 

 突如として響いた声に、慧音は思わず足を止めそうになった。その声は、背後から追い縋るのではなく、真横から耳朶を叩いてきた。

 あの陰陽師の声だが、そこに彼の姿はない。あるのはただ――慧音と並行して空を駆ける、一枚の紙片。

 人形(ひとがた)を通して、彼の声が届く。

 

『慧音、あの子はすぐ近くにいる。こいつ(・・・)に先導させるから、行ってくれ』

「! た、助かる!」

『私も全力でそっちに向かってるけど、何分人間だからね、まだ時間が掛かる。……すまないが、援護はあまり期待しないでくれ』

 

 謝ることなんてなにもない。充分だ。充分すぎるくらいだった。広い森の中からたった二分で少女を見つけ出して、更に先導まで買って出てくれて、もはやこれ以上などなかった。

 

「あ、ありがとう……!」

『礼にはまだ早いぞ。……さあ』

 

 人形が速度を上げ、慧音の先を飛燕のように切り裂いていく。獣道を外れ、少女のもとまで最短距離を駆け抜ける道筋に、服が汚れることなど、躊躇いはしなかった。

 追う。草木を掻き分け、枝葉を叩き折り、ただ前だけを見つめて。

 そして、十秒と経たないうちに視界は開けた。転がるようにして逃げ回る小さな体と、それを執拗に追い掛ける、熊すら凌ぐ巨大な体を見た瞬間。

 慧音の霊力が、火のように弾けた。

 

「――その子に、触るなあああああ!!」

 

 弾幕なんて必要ない。ただ一撃で――射抜く。

 霊弾が走る。ありったけの霊力を凝縮させ、銃弾のように押し固められた弾が、疾風となって射抜くのは妖怪の喉笛。

 

『――!!』

 

 潰された喉笛は、もはや断末魔を上げることすら敵わない。ただ一度、足掻くように爪を振って――しかして巨体は、あっさりと地に崩れ落ちた。

 

『……お見事――っておい、待』

「大丈夫か!?」

「あっ、――けーねせんせえっ!!」

 

 傍らで人形がなにか声を発した時、慧音は既に飛び出していた。慧音に気づいてよたよたと歩み寄ってきた少女の体を、両腕で思いっきり包み込んだ。すぐに胸の中で上がった嗚咽すらも抱き竦めて、ただぎゅっと。

 ――よかった……!

 助けられた。守ることができた。堰を切ったあふれた安堵の気持ちが全身を呑み込んで、涙すら込み上がるようだった。もはや立っていることもできなくて、少女とともにゆるゆると座り込んでしまう。すぐ耳元でなにか彼の声が聞こえるが、とてもそこまで気が回ってくれない。ただ、腕の中にいる少女のぬくもりを、少しでも長く感じていたかった。

 だから――己のすぐ背後に、暗天を突き上げるかのような巨影が佇んでいると、気づいたのは。

 

『――慧音ッ! 死ぬ気か!!』

 

 彼の大喝に脳をぶっ叩かれて、意識が覚醒した直後であった。

 風の裂ける音が聞こえる。自分の体と同じかそれ以上のなにかが高速で迫ってくる、血も凍るような異音が――すぐ真上から、落ちてきている。

 

「――ッ!?」

 

 背筋から上ってきた悪寒が全身を襲って、一瞬で体が冷たくなって、そのまま凍りついてしまった。どうしなければならないのか、頭ではわかっているはずなのに、その思考が行動に結びつかなかった。

 あ、これはダメだな――なんて、そんな妙に俯瞰した自分の声が、意識の片隅で聞こえた気がした。少女を助けることができたと勝手に思い込んで、妖怪が一体だけだと勝手に決めつけて、完全に気を緩めてしまったから。まさか二体目がいるなんて、夢にも思っていなかったから。

 真上から落ちてくるのは、きっと妖怪の腕だろう。空気の悲鳴を聞くだけでわかる。慧音の体と同じくらいに巨大な腕だ。切り裂かれるのか、殴り飛ばされるのか、押し潰されるのか。どちらにせよ、一瞬でなにもわからなくなるだろう。

 でもせめて、腕の中の少女だけは守ろう。そうすれば、あとから駆けつけてくれたあの陰陽師が、きっとこの子を助けてくれるはずだから。

 そう信じて慧音は、少女の体を、もっと、もっときつく抱き締めた。

 

 ――しかして慧音の背に襲い掛かるのは、身を裂かれる激痛でも、身を潰される衝撃でもなく。

 突如として逆巻いた、熱風。

 

「ッ、熱……!?」

 

 痛みすら感じるその熱気に、慧音は思わず振り返った。振り返ることができた。慧音を襲うはずだった妖怪の腕が、緋色の炎に巻かれて、苦悶の声とともにあらぬ方向へと振り回されていた。

 ――え?

 なんで、炎が――そう慧音が呆然と思った、直後。

 

『そのまま動くなよ』

 

 耳元で、声が聞こえた。

 耳に心地よいバリトンの声音は、あの陰陽師の、声だった。

 

『じゃないと、火傷するぞ』

「ふえっ、」

 

 わけがわからなくてそんな間抜けな声をこぼした慧音は、己の視界を横切って、一枚の紙片が前へ躍り出たのを見た。更に、続け様に四方八方から現れた人形たちが、妖怪の周囲を取り囲んだ。

 妖怪ががむしゃらに両腕を振り回す、その動きすら、鮮やかに交わして。

 響く宣言は、静かに、歌を詠むかの如く。

 

『――狐火・蓮火(れんか)

 

 空に、花が咲く。

 

 紅い紅い、蓮の花だった。

 暗い闇色で包まれていた森が、一瞬で鮮烈な紅に染め上げられる。自らが置かれていた状況もとうに忘れて、慧音はただ酔いしれるように、その唐紅の蓮に心を奪われた。

 体の芯まで焦がすほどに気高い熱気が、慧音の肌を打ちつける。

 その蓮華が燃え盛る豪炎なのだと気づいたのは、花弁に呑み込まれた妖怪の断末魔が、森を震撼させてからだった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 結局のところ、慧音はまた、あの陰陽師の男に救われていたらしい。蓮の花が陽炎のような残火を残して夜空に消えた時、慧音の耳に届いたのは、安堵と呆れを半々に織り交ぜた彼の声だった。

 

「……なんとか、間に合ったみたいだね」

 

 声のした方を見遣れば、木々に遮られた薄闇の奥から、彼が息を切らせて駆け寄ってきた。よほど全力疾走したのだろう、額にはかすかに汗をにじませていた。

 

「大丈夫か?」

「え……あ、」

 

 問われ、慧音はようやく自分を取り戻した。あの紅い蓮華をまるで夢のように思いながら、ゆっくりと体の緊張を解いて周囲を見回した。やれやれといった様子で慧音を見下ろす彼がおり、腕の中で「せんせえ、痛いよう」と可愛らしく声を上げる少女がおり――そして、全身を焼き尽くされて息絶えた、妖怪の骸がある。

 なにが起こったのかは、しっかりの慧音の網膜に焼きついていた。けれど、あの燃える蓮の花があまりに幻想的だったものだから、本当に現実だったのか、いまひとつ確信が持てなかった。

 

「あれは……あなたが?」

 

 ぼんやりと問えば、彼の大きめなため息が落ちてきた。

 

「まったく肝が冷えたぞ……。まさか本当に死ぬつもりだったのか?」

「す、すまない……助かったよ」

 

 死ぬつもり。そう言われてようやく、今までの出来事を現実として理解できた気がした。

 あの時慧音は、確かに殺されるところだった。この体は半人半妖だから、さすがに死にはしなかったかもしれないが――どの道、到底無事では済まなかったろう。

 それを救ってくれたのが、彼。

 

「どうやって……」

「それよりも、早いところ戻るぞ。結構派手に暴れたからね、長居は危険だ」

「そ、そうだな」

 

 あの蓮の炎はきっと遠くからでもはっきりと見えるほどに凄絶だったし、慧音だって、妖怪を一体仕留める際につい大声を上げてしまっていた。それに気づいた他の妖怪たちが、ほどなくしてここに集まってくるだろう。

 慧音は頭を振って気持ちを入れ替えると、腕の中の少女に向けて尋ねた。

 

「歩けるか?」

「うん、だいじょうぶ」

 

 今になって気づくが、少女はほとんど怪我をしていなかった。あれだけ大きな妖怪に襲われたのに、よく腰も抜かさずに逃げ回れたものだ。

 少女の体をゆっくりと腕から離す。そして、自らも立ち上がろうと両脚に力を込めて――

 

「――あ、あれ」

 

 おかしい、と慧音は思った。立てない。……というかそもそも、脚が動かない。

 

「……」

 

 頭からさあっと血の気が落ちた。もしかしてこれは、もしかしなくても。

 

「どうした慧音、早くしないと」

「あ、ああ。わかってるよ、わかってっ……」

 

 まさかこのタイミングで、そんなことがあってたまるか。そう自分に言い聞かせて、慧音は渾身の力を振り絞るのだが、

 

「……う、ううっ」

 

 立てない。地面に伸びた両脚は慧音の命令を一切拒否し、完全にボイコットを決め込んでしまっていた。

 強い興奮や緊張によるストレス状態が続いたのちにほっと平常心に戻ると、体が弛緩して、こんな風に立てなくなってしまうことがある。

 人、それを――腰が抜けた、という。

 

「せんせえ、どうしたの? どこか痛むの?」

「あ、いや、その……こ、これは、だな」

 

 妖怪に襲われとても怖い思いをした、この少女ですら、けろりと立ち上がってみせたのに。

 まさか、自分が、腰を抜かすなんて。

 

「慧音、もしかしてお前……」

「う、うううっ」

 

 いつまで経っても動けない慧音に、陰陽師の男がははあと含み笑いをしたのがわかった。慧音は両脚をぺしぺし叩いて叱咤したが、現実は無情だった。

 いや、別に、腰を抜かしてしまったこと自体は、百歩ほど譲ってまだいいのだ。なにせ一時は死ぬかどうかの瀬戸際に瀕したのだから、安堵のあまり立ち上がれなくなってしまったとしても、それはうべなるところである。

 だがこのタイミングで腰を抜かしてしまった場合、慧音が里まで戻るためにはどうすればいいのか。それを考えると、もうとても平常心ではいられないほどに、恥ずかしかったのだ。

 

 妖怪が多い森の中で長居するわけにはいきません。今すぐ誰かに運んでもらいましょう。

 ……じゃあ、慧音を運ぶのは、一体誰?

 

「う、うううぅぅ~~っ……!?」

 

 地面に爪を立てて屈辱を堪え忍ぶ。よりにもよってこのタイミングで、この状況で動かなくなってしまった己の両脚は、いくら恨もうとも恨みきれるものではなかった。

 

「……けーねせんせえ?」

 

 きょとんと首を傾げる少女の横で、くつくつと、男が笑い声を押し殺していたので。

 慧音は手近なところにあった木の枝をひっ掴み、男に向かってぶん投げたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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