藤千代にえいやっさと担がれて、ぐるぐる目を回した紫苑が茶の間に運ばれてくる。結局この少女、温泉の気持ちよさをほとんど体験することなく終始気絶しっ放しだったようだ。体を拭くのは雑巾で充分、お湯で体を洗うなんてもったいない、と相当貧乏をこじらせている彼女にとって、水月苑の風光明媚な温泉はいささか刺激が強すぎたのかもしれない。
「月見くーん、あがりましたよー」
「ああ、お疲れ様」
月見は座布団を並べて即席のベッドを作り、とりあえず紫苑をそこに寝かせてもらう。水月苑備えつけの浴衣に着替えさせられ、くたびれていた長い髪も今はさっぱりと結いあげている。こうして綺麗な恰好をさせてみると、彼女も幻想少女の例にもれない器量よしなのだとよくわかる。温泉の効能で血色もよくなり、生気の薄かった不幸顔が今はそれなりに幸せそうだった。
続けて女苑が爽快な笑顔で、
「いやー、気持ちよかったです! どうもありがとうございましたあ」
「どういたしまして」
こちらも姉と同じく浴衣で身を包み、また同じように髪を涼しく結いあげている。最初は外見から性格まで姉妹らしくない姉妹だと思ったけれど、こうして同じ恰好をしてみるとなるほど二人は顔立ちがよく似ていた。
女苑はわかさぎ姫に気づいて目を丸くし、
「……え、もしかして人魚ですか?」
「はぁい。はじめまして、人魚のわかさぎ姫と申しますー」
「あ、どうも。依神女苑です。そっちで目を回してるのは姉の紫苑」
次に輝夜を見て、
「こちらの方も、普通の人間じゃ……」
「蓬莱山輝夜よ。月人――月の世界から来たお姫様ねっ。まあ元、だけど」
「……はあー」
すっかり呆気に取られて、女苑は一周回ってリアクションが冷静になっていた。
「なんだかすごいお屋敷ですね、ここ」
「都合のいい溜まり場にされてるだけさ。お茶でも飲むかい? あと桃を切っておいたから、嫌いじゃなければ」
「桃ですか!? 是非いただきたいですっ」
女苑は目を輝かせて即答する。この少女、謙虚を通り越して卑屈な姉とは違って、人の厚意にはとことん甘えるタイプらしい。それでいて図々しい印象はまったくなく、むしろ気さくな愛嬌が感じられるのだからお得な性格をしている。
やっぱり、似ても似つかない姉妹だと思う。
「月見くん、お茶は私が」
「ありがとう」
みんなでテーブルを囲んで座る。藤千代が魔法瓶から麦茶を注ぎ、月見は切っておいた桃の皿を女苑の手前に置く。
「わー、すごく美味しそうですねえ」
「天界の桃だよ。地上で何日か置いておくと、神気が落ちて普通の桃になるんだ」
「へ、へー?」
「おまえたちは神様らしいから、元の神聖な桃の方がよかっただろうけど」
「……あー、えっと、そう言われてみるとそうですかね。でもでも、私はぜんぜん気にしませんのでっ」
女苑の視線が一瞬不自然に宙を泳ぐ。その咄嗟の反応を誤魔化そうとするように、彼女はそそくさとフォークで桃を頬張った。
「……!」
笑顔が弾け、
「うわっ、ほんとにめっちゃ美味しいです! こんな美味しい桃なんてはじめてかも……!」
神気が落ちて普通の桃になったとはいえ、噛んだ瞬間口の中で暴れ回る圧倒的な瑞々しさと、ぎゅっと甘味が凝縮された段違いの食べ応えは変わらない。甘いものに目がない少女たちからも大好評で、今や水月苑の名物グルメとして不動の地位を確立している。
輝夜が月見の二の腕あたりをぺちぺち叩いて、
「ギーン、私も食べたーい」
「もう充分食べただろうに。剥いてやるから自分で取っておいで」
はーい、と輝夜が台所へ出撃していく。女苑は桃を次々と頬張りながら、
「これ、姉さんには食べさせない方がいいかもしれませんねー。美味しすぎてまた失神するかも」
「……おまえのお姉さん、いつもどんな生活をしてるんだ?」
「まあ、いろいろワケありで」
一体どんなワケがあれば、温泉を見ただけでぶっ倒れるような子が育つのやら。そして姉がそうも極端な性格をしている一方で、妹がごくごく良識的な普通の少女らしいのはなぜなのか。
そういえば、あの質問をすっかり忘れていた。
「おまえたちは、一体なんの神様なんだ?」
「……あー。そういえば、その話がまだでしたね」
月見が問うなり、女苑の雰囲気がどことなく変わった。自分の中で、なにかのスイッチを音もなく切り替えたような。改まった仕草でフォークを置き、月見にまっすぐ笑顔を向けて尋ねる。
「月見さん、ちょっと手を出してもらってもいいですか?」
「? こうかい?」
月見が出した右手を、ちょっと失礼しますねーと愛想よく両手で握って。
――その笑みに、明確な悪意が発露した。
「――もーらい」
「……!」
強いて言えば――陽炎のごとく揺らめいた女苑の体が、月見の中を通り過ぎていった。そんな不可解な感覚だった。
違和感が消える頃には、目の前から女苑の姿が忽然と消えている。代わりに、声は月見の頭上から降ってきた。
「あっははははは! まさかこんなにあっさり行くとは思わなかったわ! あんたチョロすぎでしょ!」
「おや」
見上げると、依神女苑はそこにいた。ふんぞり返るように宙で足を組み、可憐というにはほど遠い悪意のあるせせら笑いを花開かせている。女苑の髪が
この現象には、覚えがあった。
「――憑依か」
「へえ、わかるんだ」
「まあ、多少は」
愛嬌のある言葉遣いが綺麗さっぱりと消え失せ、その声音は月見を皮肉るかのごとく冷たい。憑依と書けばどこか神秘的に聞こえるが、つまるところ月見は女苑に取り憑かれたということだ。しかもそのせせら笑いが証明する通り、少々よろしくないタチの神様だったらしく。
「それじゃあ、改めて自己紹介しましょうか」
獲物の喉笛を捕らえた妖艶な舌なめずりとともに、彼女はこう名乗るのだった。
「私は依神女苑。――あなたに不幸をもたらす疫病神よ」
「ほほう?」
「待って、なんでいきなり興味深そうな顔すんの。そこはもっと驚いて絶望するとこでしょ疫病神よ」
まあそれはそうなのだが、
「長いこと生きてきたけど、疫病神に取り憑かれたのははじめてだなあ。なるほどこういう風になるのか。はっはっは」
「もぉー、月見くんったら。あっでもでも、もし月見くんが不幸になっても、そのぶん私が幸せをあげるので大丈夫ですよっ!」
「あ、あーっ、私も! えっと、その、がんばります!」
「なに? なんでこいつら和気藹々としてんの? バカなの?」
「う、うーん……」
そのとき、紫苑が目を覚ました。起きあがった彼女はしばしぽけーっとあたりを見回し、それから月見に――正確にはその頭上の女苑に――気づくなり一発で血相を変えた。
「……!? 女苑ッ、なんで妖狐様に取り憑いてるの!?」
「なんでって、いいカモだったからに決まってんでしょ。警戒心ゼロのチョロ甘だったから簡単に取り憑けたわ」
「と、取り憑いちゃだめって何回も言ったのに……! 今すぐ離れてっ!」
「いやですー」
女苑を引き剥がそうとして飛びかかるも、その両手はことごとく彼女の体をすり抜ける。憑依状態となった女苑は霊魂同然の存在で、どうやら物理的な干渉が不可能になってしまうようだ。
せっかく温泉で血色がよくなったのに、紫苑は顔が青ざめていた。
「よ、妖狐様……! 女苑は、その、実は疫病神なんですっ! このままじゃ妖狐様が不幸になっちゃう……!」
「うん、そうらしいね」
「妖狐様に取り憑かないって約束したから連れてきたのにっ……! 女苑のばか!!」
女苑はけらけら笑ってまったく動じていない。今までの明るい姿はただの猫かぶりで、これが彼女の本性ということなのだろう。
そして妹が疫病神ならば、姉の紫苑もそういった類の神様としか思えないわけで。
月見の心を読んだように、女苑が答える。
「ちなみに姉さんは貧乏神だから。自分がいるところになんでも不幸を呼び込むの。私よりよっぽどタチ悪いわよ」
「っ……」
なるほど、貧乏神と疫病神の姉妹――仏滅と
「ま、姉さんにお年玉なんか渡しちゃったのが運の尽きってことね。ご愁傷様」
「ち、違っ……私は、そんなつもりじゃ……」
紫苑の顔色は、もはや青すら通り越して真っ白になっていた。いきなり正体をバラされてしまって狼狽えているというより、なにか思い出したくない記憶が甦っているようでもあった。貧乏神にせよ疫病神にせよ人々からは歓迎されない存在だから、今まで味わってきた苦労も決して並々ではないのだろう。
翻って、女苑はどこまでもあっけらかんとしている。
「そんで、私の力は財産を消費させる力。私に取り憑かれると、自分でも気づかないうちに散財して最終的には無一文になるの」
単に「不幸になる」より具体的な分、こちらの方が随分といやらしい気がした。
「それは困るなあ」
「ふふん。しかも『財産』ってのは、なにもお金だけとは限らないわよ。あんたの大切な宝物かもしれないし、土地っていう可能性もあるわね。ひょっとすると明日にはこの屋敷を手放して、私たちに譲ってるかもしれ」
「――ふふっ」
………………あー、
と間延びした感情が胸に広がっていくのを感じながら、月見はすべてが決着するのを察した。
藤千代である。鈴を転がすようなたおやかな微笑とともに、女苑の浴衣の帯をちょこんとつまんでいる。一体いつ立ち上がったのか、この場の誰にも認識されぬまま彼女は唐突にそこにいた。
「へ、」
「女苑さん、今のはちょっと聞き捨てならないです。ここは月見くんのおうちであり、私たちの大切な憩いの場所。月見くんのいるこのお屋敷が、幻想郷にとってなくてはならないものなんです。そこに踏み入ろうとするなんて――とっても困っちゃいます」
触れられないはずの女苑になぜ当然とばかりに触れているのか、そんなことは問うだけ無駄である。
笑みは柔らかく、言葉は優しく、発する妖気もごくかすかではあったが、それが途方もない氷山のほんのひとかけらでしかないのは明らかだった。わかさぎ姫が顔を青くして部屋の隅まで逃げようとする。藤千代を知る幻想郷の妖怪ならば、畳に額をこすりつけて全面降伏する場面だ。
しかし女苑は幻想郷にやってきたばかりの若い神様で、藤千代という少女を知らなかった。だからその異質な気配に気圧されつつも、ついムキになって言い返してしまった。
「ふ、ふん、言っとくけど私を引き剥がそうったって無駄よ。私が私の意思で離れるしか方法はないんだから。ってか訊きたいんだけどあんたなんで私に触」
「そいや」
「ぶぎょっ!?」
帯を引っ張られて華麗な弧を描き、女苑は背中から床に叩きつけられた。
月見の背中から、なにかがべりっと剥がれ落ちる感覚がした。
「げほっ……ちょっと、いきなりなにすんのよ!? おかしいでしょ憑依した今の私には触れないはずで、」
起きあがりかけた女苑の目が点になり、
「……は? え、憑依が解けてる? なんで? ま、待ちなさいあんた一体なにしたの!?」
「引き剥がしました」
「いやいやいやバカ言わないでよ素手で憑依を引き剥がすなんてできるわけ――え? できるわけないわよね? え?」
月見はノーコメントである。藤千代がやることなすことに、いちいち疑問を挟んでいてはキリがないのだ。
柔道ならば満場一致で一本になるであろう鮮やかな投げ技に、紫苑はすっかりほれぼれとしている。
「す、素手で憑依を解くなんてはじめて見た……鬼様すごい……」
「こ、このっ……だったらあんたに取り憑いてやるわ!」
「おっと」
女苑が再び陽炎のごとく揺らめき、橙の光を散らしながら藤千代の体を通り抜け、
「おりゃーっ!」
「げぼっふぅ!?」
一本。
「ごふっ……ぜ、絶対おかしいわよこんなの……あんた一体何者……!?」
「ふふ、腕にちょっと覚えがあるだけの鬼の女です」
腕にちょっと覚えがあるだけの女は、拳ひと振りで神々の戦場を更地にしたり、月人最強の剣士と一緒になって月を破壊したりしません。
「憑依を素手でひっぺがすやつがちょっとなわけないでしょ!?」
「まあまあ、愛の力というやつです。それより、これで諦めてもらえませんかー? 神様も、痛いのは嫌ですよね?」
暗に、これで諦めなかったら次はもっと痛いことをしますよという笑顔の脅迫に、なぜか紫苑の方がひええと月見の背中に隠れる。女苑もさすがに相手が悪すぎると悟ったらしく、畳でぐったり大の字になって脱力した。
「あー、わかったわよ。なんかどう足掻いても勝ち目なさそうだからやめとくわ……」
「そうですか」
月見の後ろで、今度は紫苑がくすくすとせせら笑う。
「女苑のばーか。妖狐様に迷惑掛けようとするから。自業自得だわ」
「この世で姉さんにだけは言われたくないのよねえ……」
女苑はのそりと起きあがり、意地の悪い横目を月見に向けて、
「さっきも言ったけど、姉さんはただそこにいるだけで不幸を呼び込む貧乏神。私が取り憑かなくたって、このままじゃあんたも周りも間違いなく不幸な目に遭うでしょうね」
「……う、」
紫苑がこらえるような声をもらして後ずさる。
「具体的にはどうなるんだい?」
「さあ。私は『財』を消費させるだけだけど、姉さんは『不幸』と呼べるものならなんでも呼び寄せるわ。たとえば……外がこの嵐だし、風で窓が割れるとか、屋根が吹っ飛ぶとか、ひょっとしたら雷が落ちるなんてのもあるかもね」
女苑は肩を竦め、
「ってか私たちが住んでた空き家も、雨で浸水するわ風で壁が壊れるわ雷で天井が裂けるわ、あっという間に住める状態じゃなくなっちゃってさ。それでここまで雨宿りに来たわけで」
「ふむ……」
そうすると、紫苑のみすぼらしい身なりだけでなく、その卑屈ともいえるほど暗い性格にも筋が通ってくる。女苑がはじめサングラスやら貴金属やらで贅沢に着飾っていたのは、疫病神として人々から巻き上げた財があったから。一方で紫苑は貧乏神として常に不運を呼び寄せてしまうため、妹のおこぼれにも与ることができないでいるのだ。
貧すれば鈍する、という言葉がある。昔から不幸ばかりを積み重ねて貧乏をこじらせれば、性格だって否応なくひん曲がって卑屈にもなろう。
「ギーン、持ってきたわよー! 剥いて剥いてーっ」
そのとき、両腕いっぱいに桃を抱えて輝夜が戻ってきた。一体いくつ食べるつもりなのか、鼻歌を刻みながらご機嫌に襖を通ろうとし、
めきょ、とフチに足の小指をぶつけた。
「ふぬ゛ぅ!!」
痛恨の一撃だった。一瞬で体の自由を失った輝夜は為す術もなく転倒し、桃をそこらじゅうにまき散らし、地獄の亡者のようなよくわからない言語で呻き苦しみながら、右へ左へバタバタゴロゴロとのた打ち回った。
「か、輝夜さん、大丈夫で――へぐ」
それを見たわかさぎ姫が慌てて駆け寄ろうとするが、彼女は人魚なので、地上では大抵尾ひれを引きずりながら這って移動する必要がある。するとうっかり者な彼女はついつんのめって転倒してしまい、そこにちょうど転がってきた輝夜と思いっきりごっちんこするわけだ。
「……」
つくづく予想通りな少女たちを月見は生暖かい目で眺める。一層激しくのた打ち回る哀れな少女二人に、紫苑がみるみる血の気を失って、
「あ、ああ……また私のせいで、不幸が……」
いつも通りの光景な気がしないでもない。
さておき。
「ご、ごめんなさい……や、やっぱり、私なんて、ご迷惑ですよねっ……」
月見の背中から離れた紫苑は、今にもこの世から消滅してしまいそうなほど萎縮していた。
「ち、違うんです、あの、び、貧乏神だってバレたら、また嫌われると思って、妖狐様を騙してたわけじゃ……ごめんなさいごめんなさいこんなの言い訳ですよねわかりました今すぐ出て行きます消えます消え失せます消滅させていただきますごめんなさい」
ただ財を巻きあげるだけの妹より、あらゆる不幸を呼び寄せてしまう彼女の方が苦労も多かったのだろう。そのせいで自己評価が極端に低く、指先でつつけば崩れ落ちるくらい意志薄弱で、常に相手の顔色を窺ってビクついている。けれど一方ではあのときのお年玉を今でも感謝していて、月見に取り憑こうとする素振りはまったくなくて、むしろ取り憑いた女苑を必死に引き離そうとしてくれた。気が小さくて暗くて卑屈で、おどおどしてばかりで、それでも心根は貧乏神と思えぬほど優しい少女なのだ。
今だって、月見に嫌われると思って泣き出しそうな顔をしている。
そんな子を大雨のなか外に放り出すほど、月見は鬼ではないのである。
「――まあ、そのあたりは実際に事が起こってから考えればいいさ。一日くらいなら、案外なにも起こらないかもしれないし」
「で、でも、あの人たちがもう不幸に」
輝夜とわかさぎ姫はまだうねうねと呻き苦しんでいる。なんだか変な生命体に見える。
「あれはいつも通りだから気にしなくていいよ」
「え、えぇー……?」
「ともかく、こんな大雨なのに追い出すのも気が引けるからね。ほら、桃でも食べて落ち着くといい」
テーブルに用意していた紫苑の分の皿を差し出す。ブロック状にカットされた艶めく桃を見て、紫苑ははじめそれがなんだかわからず首を傾げ、やがて頭をぶっ叩かれたように大きく仰け反った。
「も、桃っ!? 桃って、まさかあの伝説の!?」
温泉といい桃といい、この少女の中には伝説がいっぱいなのだ。
「桃ってすごく高級品で、特別なときしか食べちゃいけないんじゃ」
「そんなことないさ。知り合いから、食べきれない分をいっぱい分けてもらっててね。こうしてお客さんにも食べてもらってるんだ」
「で、でも……」
「いらないなら、女苑にぜんぶあげてしまうけど」
「え、いいの? やったぁ」
紫苑の目の色が変わった。
「た、食べるっ。食べさせてください!」
「はい、どうぞ」
「お茶もありますよー」
紫苑をテーブルへ促すと、藤千代がすぐに麦茶を添える。悪天候の中でも光り輝く美しい果肉、そして食欲を刺激する甘く澄んだ香りに、紫苑は早くも感極まって鼻をすすった。
「なんだか、夢みたいっ……」
おぼつかない手つきでフォークを取り、いま自分のいるここが夢なのか現実なのか、期待と緊張で震えながら慎重にひと口――
「――姉さん、ストップ」
頬張ろうとする寸前、女苑が待ったを唱えた。紫苑は見るからに警戒し、桃の皿を両腕で抱きかかえるようにして、
「な、なに? 女苑にはあげないよ」
「私の分はこっちにあるからいいわよ。……それより、先に食べた私から言わせてもらうわ」
女苑はあくまで大真面目な口振りで、
「その桃、めちゃくちゃ美味しかった。……美味しすぎて、姉さんなら食べた瞬間ショック死する可能性があるわ」
「……!」
「姉さん、炊き立てのごはんでもいっつも死にかけるでしょ? そんなクソザコ姉さんにこの桃は危険すぎる」
「そ、そんな……っ!」
月見はとりあえず沈黙しておく。
「いきなり果肉を直接味わうなんて自殺行為よ。はじめはもっと刺激が少ないように……たとえば、搾ってジュースにするとか」
「――私、食べるよ」
いつしか、フォークを握る紫苑の指から震えが消えていた。生気が薄くどこか沈んでいた彼女の瞳に、今ははっきりとした意志の輝きが宿っている。真正面から力強く見つめ返され、女苑は驚愕に顔を歪めた。
「正気なの、姉さん……!?」
「うん。これは、妖狐様が私のために用意してくれたんだもの。だから、このまま食べるわ」
「それが、姉さんが食べる最後の食べ物になるかもしれないのよ!? いつか料亭の懐石料理とか、A5肉のステーキとか、回らないお寿司とか、フランス料理のフルコースとか食べてみたいって言ってたじゃない! その前に死んでいいの!?」
「出された物を食べないなんて、貧乏神の名折れ……!」
紫苑の全身から清澄な神気があふれ出す。力の波濤に乗って髪が持ち上がり、蒼い魂の光となって幻想的な煌めきを描き始める。
「こ、これは……!? 違う、いつもの不幸オーラじゃない。嘘でしょ、姉さんにこんな力があったなんて……!?」
月見は涙目な輝夜とわかさぎ姫をよしよしと慰めている。
「姉さんやめて! 早まらないで! 姉さあああああん!!」
「――いただきますっ!!」
そして紫苑は、桃を食べた。
途端、紫苑の神気がぴたりと止まった。霊魂のように変化していた髪が元へ戻り、重力に引かれて畳の上へ広がる。紫苑は意を決した形相のまま桃を
「……………………ふぎゅぅ」
天に召された。
「姉さんしっかりして!! 姉さあああああんッ!!」
「……」
妹に抱かれる紫苑の死に顔はとても穏やかで、安らかな幸せに満たされていた。
〇
貧乏をこじらせすぎた貧乏神は、ちょっとした『贅沢』を味わうだけですぐ天に召されてしまうとても繊細な生き物だった。その後も紫苑は、夕食で天麩羅を食べたときに一回、水月苑大宴会場のあまりの広さに驚いて一回、お布団がふかふかすぎて一回、妹ともう一度温泉に行って一回と、事あるたび昇天しては生き返ってを繰り返した。
今まで一体どんな生活を送ってきたのか、彼女の並々ならぬ苦労が察せられる。さすがに翌朝となれば多少落ち着いたものの、それでも朝食の席ではあいかわらずえぐえぐと感動の涙を流していた。
かくして一夜明けて嵐が去り、姉妹の服も乾いたので。
「妖狐様、本当にお世話になりましたっ……」
「あーあ、取り憑けないのがほんと残念だわ。こんなお人好し」
晴天が広がる玄関先で、月見は依神姉妹を見送りする。このあと姉妹は人里へ向かい、ボロボロになってしまった空き家の代わりに、とりあえず破滅して当然な悪徳商人でも見繕って取り憑くという。わざわざ悪人を標的にするあたり、女苑も案外心根は真っ当なのかもしれない。
「気をつけてね」
「はいっ」
「あんたに心配される筋合いなんかないわよ。……あ、そうだ」
素っ気なく片手をひらひらとさせた女苑は、それからふと些細な言い忘れをしたように、
「ねえ、これからは私もここに遊びに来ていいかしら? いいでしょ?」
「えっ……女苑!?」
まさかこいつ、まだ妖狐様に取り憑くのを諦めてないのか――と、紫苑の表情に深い失望と怒りが走る。女苑はすぐ首を振り、
「あー、違うってば。ここ、日帰り温泉宿みたいなのやってるんでしょ? だから、私も客として入りに来よっかなって。すごく綺麗で気持ちよかったし」
「あ、そ、そういうこと……でも、妖狐様にこれ以上ご迷惑は……」
「私がいるときなら構わないよ。もういろんなやつらの休憩所にされてるんだ、今更ひとりふたり増えても同じさ」
二人が温かいお湯を用意するのも難しい生活を送っているのなら、ここの温泉くらい使わせてもいいだろうと月見は思う。風呂は命の洗濯だ。お金や食材は使えば減るのでときには困ってしまう場合もあるけれど、温泉は使った端から湧いてくるのだからなんの問題もない。
「えっと、その、私が言ってるのは、そういうことじゃなくて……」
紫苑が不安げな上目遣いで体を縮めている。これ以上自分たちが関われば、いつ妖狐様に不幸が降りかかるかわからないのに――そう考えている顔だった。
こういう話をしていると、月見は雛と出会ったときを思い出す。
手っ取り早く紫苑の不安を取り除くなら、あのときと同じで彼女にも能力を使ってしまえばいい。しかし紫苑は貧乏神であり、厄神とは違って不幸を呼び寄せることこそが彼女の本質だ。それを月見の能力で無理やり捻じ曲げたとき、依神紫苑という神になにが起こってしまうのかは想像ができない。
故に、月見は言葉を重ねる。
「結局、不幸らしい不幸も起こらなかったしね。ひょっとしたら……ここには風水的ななにかがあって、少し遊びに来るくらいなら平気なのかもしれないよ」
こちとら、厄神の少女とのんびりお茶を楽しむ仲である。それにあまり一般的な信仰とはいえないが、貧乏を司る貧乏神は転じて福の神であるともいわれている。紫苑によって運ばれてくる『不幸』が本当に不幸なのかは、月見が自分の目を以て確かめることだ。
今まで何千年と生きてきて、貧乏神や疫病神と知り合ったためしはまだ一度もない。なればこそ、ここらで縁を持ってみるのもまた人生の一興。
だから少し意地悪な顔をして、こう言ってやるのだ。
「気が進まないなら無理にとはいわないけど、そうしたらおまえの桃は女苑が独り占めだね」
「え、いいの? やったぁ」
紫苑の目の色が変わった。
「ま、また来ます!! 来させてくださいっ!!」
思いっきり叫んでから、あう、と頬を赤らめまた縮こまる。おどおどしてばかりで卑屈な彼女の本心を聞くには、どうやら食べ物で釣るのが一番のようだった。
隣の女苑が、やれやれと言いたげに大きく息をついた。
「答えが出たことだし、ほら行きましょ。とにかく住むとこ見つけないと、野宿なんて絶対に嫌だからね」
「え、あ、待ってよ女苑!」
さっさと歩き出してしまった妹の後ろを、紫苑は慌てながらふよふよとくっついていく。その途中で何度も月見の方を振り返る。なにかを言いたい、言わなければならないとはっきり感じているけれど、考えがまとまらなくて、これっぽっちも言葉が出てこなくて、開いていく月見との距離にただただもどかしさを感じている。焦れれば焦れるほど頭の中がこんがらがって、しかも女苑はわざとらしいほどまったく足を緩めてくれない。
結局このまま、迷いと沈黙を残しての別れになるかと思われたが。
「……あ、あのっ!!」
反橋を渡り始めたあたりで、紫苑が意を決してこちらに振り向いた。やや躊躇ってから大きく息を吸い、月見に向けてなにかを叫ぼうとした。
したのだが。
月見は完全に見落としていたのだ。紫苑は不幸を呼び寄せる貧乏神。その能力によって災難な目に遭うのは、月見たち周りの生き物だけでなく、彼女自身においても例外ではないのだと。
つまるところ、そのときなにが起こったのかといえば、
「へぶぎゅっ!?」
紫苑の脳天めがけて、空からタライが降ってきた。
タライ、
「ね、姉さーん!?」
「……」
紫苑が一撃で昏倒する。月見が空を見ると、「ごめんなさーい!?」と平謝りしている哨戒天狗たちがいる。どうやら本山に荷物を運ぶ途中で落としてしまったらしいが、よりにもよってこのタイミングで、よりにもよってこの少女に、
「姉さんしっかりして!! 姉さあああああんッ!!」
「…………」
妹に抱かれる紫苑の死に顔はとても哀れで、理不尽な不幸にさめざめ涙を流しているように見えた。
それから水月苑では、片やみすぼらしく片やセレブな姉妹が時たま目撃されるようになる。風情ある日本庭園を散歩し、温泉に入って桃を食べ、畳でのびのびと体を伸ばして、これ以上の贅沢はないとばかりに満足して帰ってゆく。
そのとき常連客の少女たちはといえば、なにもない場所ですっ転んだり、足の小指をぶつけたり、お茶で舌をやけどしたり、曲がり角でぶつかったり、池に落ちたり、おやつを落としてダメにしたり、弾幕ごっこに巻き込まれたり、ぎゃーぎゃー元気にケンカしたりと、涙目になる頻度が普段より若干増えるようだが――。
それはそれ、水月苑ではいつものありふれた風景なので、特に誰も気にしていないそうな。
返信はおやすみしていますが、いただいた感想はすべてありがたく目を通しております。ありがとうございます。