試験的に行間を多めに空けています。
「――ん」
「つきちゃん、おはようさぁん」
気がつくと月見は、水月苑の縁側に腰かけて五分咲きの桜を見上げていた。
一体いつ目覚め、いつ着替え、いつここまでやってきたのかまるで記憶になかった。すぐ隣から見知った少女の声が聞こえなければ、よもや寝ながら徘徊するようになってしまったのかと冷や汗をかいていたかもしれない。
隣に、真っ白い少女が座っている。
彼女は
「やあ。どうかしたかい」
「あんなー、つきちゃんとお話したくて」
宇迦がこてんと首を傾けると、黄金色の髪飾りがしゃらしゃら小気味のよい音を奏でた。
月見と宇迦以外に誰もいないのを除けば、現実通りの水月苑の庭だ。幸い過日の大雨による被害もなく、もう間もなく庭中に春の息吹が満ちようとしている。
水月苑には、縁側から眺める景色の片隅を淡く染めあげるように、桜の木が一本だけ奥ゆかしく配置されている。博麗神社や白玉楼のような絢爛たる桜並木ではないので、花見のスポットとしてはいささか見劣りするけれど、その主張しすぎない美しさが月見はまずまず気に入っていた。もう間もなく満開を迎えれば、新しい季節の訪れを慎ましくも華やかに彩ってくれるだろう。
さて、宇迦がなんの用で夢枕に立ったかといえば。
「うんとなー、つきちゃん、こないだからうちに妖力くれてはるやろ? あれ、もうええかなー思て」
「ふむ?」
どうやら、おくうの話らしい。
月見が宇迦の力を借り、荒御魂と化した八咫烏を鎮めたのは去年の冬の出来事である。
月見たち俗世の存在が神の力を借りるためには、往々にして『供物』が必要不可欠であり、あのときは状況が状況だったため、手っ取り早く月見の妖力そのものを差し出していた。つまりおくうは今でも、八咫烏と宇迦之御魂神という二柱の力を内包した状態であり、そうである以上月見も妖力のいくらかを『供物』として宇迦に捧げ続けているわけだ。
今の時代、大きな妖力を持っていたところで使い道もないので、特に不自由とも思っていなかったけれど。
「それはまた、どうして」
「あれ」
宇迦が指差した先には、今年になって新しくこしらえた稲荷神社の小社がある。
「うちが思うとったより、お賽銭入れはる人がぎょーさんおってなぁ。人里でも、お稲荷様はええ神様やーってどんどん信仰が広がっとって、うちびっくりやわぁ」
大して驚いているとも思えない口振りで宇迦はそう言った。
宇迦が前回夢枕に立ったのは冬の終わり頃だったが、改めてこんな話をするということは、稲荷信仰の勢力拡大は現在も変わらず続いているらしい。あまり素直に喜べないのはなぜだろうか。
「そんでなー、うち考えたんよぉ。うちの信仰こぉんなに広めてくれはって、なのに妖力までぎょーさんもらってばっかやったら、なんやえらいもらいすぎであかんわぁって」
月見としては稲荷信仰を広めているつもりは一切ないのだけれど、それはひとまず置いておき、
「八咫烏を鎮めてもらってるんだから、私ばっかりってことはないと思うけど」
宇迦は少し困った風に微笑んで、
「あれなぁ、やたちゃんとっくに鎮まっとるもん、うちほとんどなにもしてへんえ?」
……まあ、それはそうである。
「つきちゃんが広めてくれはった信仰でもう充分。そないなわけで、妖力もらうんはおしまいにしましょ」
「そうか。おまえがいいなら、お言葉に甘えようかな」
宇迦は長い袖で口元を隠してくすくす笑い、
「つきちゃんの妖力なぁ、すごぉく綺麗やから、うちお肌めっちゃつるすべになってん」
「……そうか」
「妖怪でこない綺麗な妖力持ってはるんは、つきちゃん以外におらへんわぁ。な、やっぱうちの神使やらへん?」
月見も笑顔で、
「お断りするよ」
「あーいけずやぁー」
「もったないわぁ、ぜったいぴったりやと思うんになぁ」とちっとも残念そうではなく残念がる宇迦を尻目にしながら、それにしてもと月見は考える。
宇迦之御魂神が直々に「充分」と認めるほど、幻想郷の稲荷信仰が本格化している事実。
人里を席捲する稲荷ブームについて、霊夢からジト目で睨まれたのはまだ記憶に新しい。そのうち冗談抜きで、憎っくき商売敵として闇討ちされるのではなかろうか。
○
「あら、お狐様。ちょうどよかった、ちょいと話を聞いとくれよぉ。実はねえ――」
と頭を悩ませながらも、声を掛けられれば立ち止まってしまうのが月見であって。
桜が五分咲きとなり、早くも花見に興じる人が目立ち始めた春の人里で、月見は例の江戸っ子ご婦人からまた相談事を持ち込まれていた。眉をハの字にし、あまり目立たぬよう気を遣って話そうとする様子を見れば、どんな困り事なのかはなんとなく想像がついた。
「――ふむ、また妖怪か」
「そうなのよ」
赤蛮奇からこんにゃく作戦を伝授された小傘が、外れで里人をおどかしては騒がせていたのが少し前のこと。この時代、人間が里でおおっぴらに襲われる事件はもうほとんど聞かないが、夜な夜なおどかされる程度の騒動ならしばしば起こる。
人間の恐怖は多くの妖怪にとって必要なものだし、博麗の巫女など力ある存在がこれに対処する『妖怪退治』のプロセスは、幻想郷の均衡を保つ上で重要な歯車でもあるのだ。よっていつも通りであれば、話を聞いて適切な人材に引き継ぐのが月見の役割なのであるが。
「どうも、今回は少し変な妖怪みたいでねえ」
なんでも里の外れで黄昏時、妙な妖怪が現れて里人に声を掛ける事案が続いているという。遭遇した人々の証言はピタリと一致しており、その妖怪は長い桃色の髪、チェックのシャツ、三日月の穴が開いた奇抜なスカートをまとい、なぜか顔には能面を張りつけているとか。
してなんと声を掛けてくるかといえば、これもピタリと、
「私に『心』を教えてください……ね」
「そうそう。気味が悪いでしょ」
出で立ち自体は少女のようだが、薄闇の夕暮れ時にわざわざ能面で顔を隠し、『心』を教えろなどと奇怪な問いかけをしてくるのはいかにも怪しい。声を掛けられた里人はみな薄気味悪さから一旦その場を離れ、仲間を連れて戻ったときには、少女はすでにどこかへ消えてしまっていたそうだ。
「ただ、声を掛ける以上のことはなにも……それこそ襲われたりとかはまったくないみたいだから、悪い妖怪かもわからなくてねえ」
「なるほど」
確かに話を聞く限り、人間に害を為そうとしているわけではなさそうに思う。
しかし、だからといって油断はできない。妖怪の中には人間に対し特定の質問をしたあと、回答次第ではなんらかの危害を加えるという厄介な性質を持った手合いもいる。妖怪への恐怖が消失した外の世界で、なお日本中を震えあがらせた『口裂け女』がいい例だろう。
少し考える。
この話を博麗神社へ持っていけば、霊夢は人里の平和を守るため――もといお駄賃を稼ぐためにやる気満々で出撃するだろう。だが件の妖怪が、それこそかつての小傘のように、ただ困って助けを求めているだけだとしたら少々可哀想だ。幻想郷の気ままな巫女さんは里からの依頼となれば、実際悪い妖怪だろうとなかろうと、とりあえず感覚でとっちめてしまうに違いない。
ご婦人も同じことを考えているようで、
「お狐様の方で、一回見てやってもらえないかねえ」
「そうだね。では、今日の夕方にでも行ってみようか」
「よろしくお願いねえ。……あ、これちょっとだけどお供え物」
「だから私は稲荷じゃないって」
「いいじゃないかいそんな細かいこと」
いや細かくないけど。
こういう安請け合いばかりしているから、お稲荷様だと勘違いされたり稲荷ブームの立役者などと言われてしまったりするのだろうか。
しかしまあ、それが月見の性分なのでいかんともし難い。半ば強引に押しつけられたお供え物は、屋敷の稲荷神社にお供えしようと思った。
○
夕日があと少しで尾根へと消える黄昏時、いつまでも続くようだった里の活気も次第に鳴りをひそめていく。
人間たちの時間が終わり、幻想郷がもう間もなく妖怪の世界へ切り替わろうとしている。店は暖簾をしまい子どもは家へ帰り、花見に興じていた人々は名残惜しげに片付けを始める。月見の行く手を横切り家の陰へ消えたのは、正真正銘里の子どもだったのか、それとも子どもに化けて花見を楽しんでいた人ならざる者だったのか。
ご婦人ネットワークの情報に従って、月見は里の中心からやや離れた並木道を歩いている。一人ではない。抜かりない目つきで周囲を見回しながらついてくるのは、
「『心』を教えてほしい、ですかー。一体どういう意味なんでしょうねえ」
守矢神社の風祝、東風谷早苗である。
一応明記しておくが、件の妖怪を退治させようと連れてきたわけでは断じてない。仮に退治が目的だったとしても、それならばきちんと
なんでも、月見が妖怪絡みの事件にどう対処するのか見学したいのだという。
今の幻想郷は博麗神社と守矢神社、それに命蓮寺とお稲荷様まで加えた四つの寺社が信仰を獲得し合う宗教戦争時代。今後は人里でも積極的に活動せねば生き残れないと判断し、布教の機会を虎視眈々と狙っているらしい。博麗神社の商売敵として、本格的に名乗りをあげようとしているわけだ。
「戦うつもりはないけど、気をつけてね。妖怪の中には、『問いに答える』行為自体が危険なやつもいるから」
「なるほど……わかりました! 月見さんの背中を目に焼きつけたいと思いますっ」
件の妖怪も、よほど世間知らずでなければ早苗を襲う真似はしないだろう。守矢神社の名は、妖怪たちの中ではそれなりに有名だ。祀られる神の一柱が祟り神であることも、巫女に手を出せば恐ろしい祟りが降りかかることも。
雑談しながらしばし並木道を歩き続け、ほどなく里の端っこが近づいてくる頃だった。
「――あのう、そこの道行くお二方」
物静かで、そして平坦な少女の声だった。月見が声の方へ振り向くと、桜の木の後ろから斜めに顔を出し、じいっとこちらを見つめている能面が見えた。
「……う、うわぁ」
早苗の腰が引けた。小面は様々な種類がある能面の中でも代表的な、若く可憐な女性を表した面である――のだが、
「……ああいう能面って、なんだか不気味で怖いですよね……」
「あれでも、可憐な女性を表現した面なんだよ」
「昔の人の感性はわからないです……」
小面の面が趣深く映えるのも、風雅に演じられる能を通して見ればの話。本来なら舞台でしか見る機会のない道具だからこそ、日常の中で出くわせばそこには異質な空気が生まれる。黄昏時の闇の向こうから微動だにせずこちらを凝視してくる様は、いかんせん『可憐な女性』からはあまりに大きくかけ離れていた。
なるほど、里人たちが気味悪がって逃げ出すわけである。
「あのうー」
件の妖怪だった。
もちろん能面が宙に浮いて喋っているわけはなく、面で素顔を隠した女の子の妖怪だ。腰まで隠れる長い桃色の髪、鮮やかな浅葱色をしたチェックのブラウス、三日月の穴がいくつも空いたバルーンスカートと、ご婦人から聞いた情報と出で立ちはぴったり一致している。ひとつ予想外な点を挙げるなら、噂の割に随分と大人しそうに見えるところだろうか。妖怪の月見を警戒しているのか、はたまた巫女の早苗の方か、木の後ろに隠れたまま出てこようとする気配はなく、
「突然お声掛けして申し訳ありません。私に、『心』を教えてはいただけませんでしょうか……」
妙に抑揚を欠きながらも丁寧な言葉遣いで、情報通りの謎めいた質問を彼女は口にした。月見はひとまず問いには答えず、
「おまえが、里で噂になってる妖怪かな」
少女の肩がぴくりと震える。
「うむむっ……やはり、噂になっているのですか」
「それはもう。ここ最近、なんだか気味の悪い妖怪が出るんだって」
「……」
能面が木の後ろに引っ込む。ほんの三秒ほど短い間があって、ひょこりと出てきたのは小面ではなく姥の面だった。
「気味が悪いって言われた。なにも悪いことしてないのにひどいわ、しくしく……」
感情のこもっていない平坦な声で、よよよ、と姥の少女は悲しむような仕草をする。それからまた引っ込み、
「まさか、私を退治しにやってきたのですかっ。そんな相手に声を掛けてしまうとはなんたる不覚! あわあわ!」
今度は
月見がそうこう観察しているうちに、大飛出は般若の面に替わっている。少女は木の後ろから勇ましい構えで飛び出して、
「おのれ人間、ただ声を掛けただけの妖怪を退治するとはなんたる暴虐! 私は怒ったぞ! ぷんぷん!」
「いや、退治しにきたわけじゃないから安心してくれ。ほら、私も妖怪だしね」
月見が尻尾を軽く揺らすと、少女はぴたりと静かになった。回れ右をしてもそもそと面を付け替える。いつの間にか少女の周りに、青白い鬼火めいた光に包まれながら複数の能面が浮かび上がっている。小面、姥、大飛出、翁、猿――そして少女がこたび手に取ったのは、
「これは失礼いたしました……。私としたことが、妖狐の方だとは露も気づかず。てれてれ」
お面の妖怪。
となれば、月見の心に浮かぶ名はひとつだけだ。
「おまえは、面霊気かな」
すなわち、お面の付喪神である。少女は火男の面のまま頷いて、
「左様です。わたくし、面霊気の秦こころと申します」
「月見。ただのしがない狐だよ」
「あ、東風谷早苗です。神社で巫女みたいなものをやってます」
「なるほどなるほど」
二度頷いた少女――こころはまた後ろを向いて、もそもそと小面の面に付け替えた。
単にお面を付け替えて遊んでいるわけではないらしい。理由はさておいて、どうやら彼女は自分の感情に合わせて付けるお面を替えているようだ。姥の面は悲しいとき、大飛出は驚いたとき、般若は怒っているとき、火男は恥ずかしいとき。そして小面の面は、なんでもない普通のときという風に。
「それで、『心を教えてほしい』とはどういう意味だい? さっきも言った通り里のみんなが気味悪がっててね、悪い妖怪じゃないか確かめてくれって頼まれたんだ」
「むう……噂になりたくなかったのでここで声を掛けていましたが、逆効果だったのでしょうか」
「悪い妖怪じゃないなら、私がちゃんとみんなに説明するさ」
わかりました、とこころは頷き、
「心を教えてほしいとは、そのままの意味です。私に、あなたたちが持つ『心』――より具体的には、『感情』というものを教えていただきたいのです」
「ふむ?」
「私は、感情というものを知らないのです」
すぐに早苗が疑問の声をあげる。
「え? でもさっき、普通に悲しんだり怒ったりしてたような……」
こころは首を振り、
「あれは演技です」
「演技……ですか」
「こういうときはこういう感情を抱くのだと判断し、それを面や身振り手振りで表現しているだけのこと。私は本気で笑ったことも、本気で悲しんだことも、本気で怒ったことも、本気で驚いたこともないのです。私の顔はいつどんなときであっても、なんの感情も浮かべてはくれないのです」
俯き、静かな呼吸ひとつ分の間があり、
「……この幻想郷に住んでいる者たちは、人間も妖怪もみな感情豊かです。特に笑顔が素敵です。遠くから見ているだけでも、みんな心から笑っているのだとよくわかります。……なのに私は、私だけが、笑いたいのに、どうやっても笑うことができないのです」
その表情は小面の面に遮られ、口振りだってあいかわらず平坦で、確かに彼女から感情らしい感情を読み取るのは難しい。
けれどそこには紛れもなく、月見たちへの羨望がにじんでいた。
「ずっと、ずっと、それはおかしなことなのだと思ってきました。だから私に、本気で笑ったりできる本物の感情――本物の『心』を、教えていただきたいのです」
「……なるほどね」
月見が思わず笑みをこぼしてしまうくらい、それは切実で愛らしい願いだった。もちろん、彼女はすでに感情というものを知っているはずだった。人々の笑顔を素敵だと感じる心、自分も笑ってみたいと思う心、なのに笑えない自分をおかしいと考える心、だから本物の感情を知りたいと願う心、それらはすべて正真正銘の『心』であるはずなのだ。
しかし彼女は、生来感情が表に出にくい妖怪だという。そのせいで自分の中にある心が本物だと実感できず、自分は感情を持たないおかしな妖怪だと勘違いしてしまっている。「『心』を教えてほしい」といえば意味深に聞こえるが、要は簡単だ。
――私もみんなと同じ風に、笑ったり驚いたりしてみたい。
たったそれだけの、なんとも愛らしい願いなのだ。
「ふぐうっ」
変な声が聞こえた。振り向くと、すっかり感極まった早苗がマンガみたいにえぐえぐ鼻をすすっていて、
「ううっ、なんて純粋な願いなんですかあ……! 月見さんっ、私たちが力を貸してあげましょう! こころさんに笑顔をプレゼントするんですっ!」
「ああ、それは構わないけど」
こころの純粋無垢な願いが、早苗の現人神エンジンをフルスロットルで点火させてしまったらしい。能面を気味悪がっていたのはどこの誰だったのか、堂々と一歩踏み出してこころの手を取ると、
「こころさんっ、私たちが力になります! 本当の笑顔を手に入れるため、一緒に頑張りましょうっ!」
「本当ですかっ。よろしくお願いいたします。わくわく」
と、月見の意見も聞かず勝手に話を決めてしまった。
まあ手助けするのは一向に構わないので、さてどうやったものかと月見は考える。こういった心にまつわる悩み事は、医学というか臨床心理学というか、永遠亭向きの問題になるのだろうか。
「じゃあとりあえず、能面は外してみませんか? 一緒に笑顔の練習です!」
「わかりました」
これといって、素顔を隠しているわけではなかったらしい。こころが言われた通り能面を外し、途端に早苗は「わあ……」と感嘆の声をあげた。
「お人形さんみたい……」
志弦を以てして『クラス一どころか学校一も狙えるレベル』と言わしめる早苗が息を呑むほど、こころの素顔は浮世離れしていた。ほのかな色を帯びたきめ細かな肌は上等の織物を思わせ、柳眉はさながら一級の絵付師が全身全霊を込めて綴ったかのよう。薄闇にもかかわらず一本一本がきらびやかな前髪と、わずかな起伏に至るまで完璧に形作られた鼻と頬の造形、乾きを知らない果実の唇、そしてまるで画竜点睛を欠いたような、生気を宿らせぬまま仕上げられた淡い色の瞳が、反って不完全な魅力となって月見たちの目を惹きつける。
もしも彼女がはじめから能面をつけていなかったら、別の意味で里中の噂になっていたかもしれない。
「すごくかわいいじゃないですかっ。月見さんもそう思いますよね?」
「ああ、そうだね」
「ありがとうございます。てれてれ……」
こころは肩をすぼめてくすぐったそうな仕草をするものの、声はやはり棒読みのまま、表情も眉ひとつ動く気配がない。
これはどうも、「感情が顔に出にくい」なんて単純な話ではない気がする。
「それじゃあ楽しいことを思い浮かべて、一回ためしに笑ってみましょう! きっと素敵ですよ!」
「楽しいこと……」
そのとき、なぜかこころはチラと月見の尻尾を一瞥してから、
「では、行きます。……にこにこ」
「……」
にこにこの「に」の字すら見当たらない、まさしくお手本のような無表情だった。
さすがに冗談だと思ったらしく、早苗はあははと一笑して、
「こころさんったら、ぜんぜん顔が変わってませんよ? ほら、にこーって」
「にこー」
ぴくりとも動かない。
「えっと、口の両端を上にくいっと上げる感じで」
「くいっ」
ぴくりとも、
「ていっ」
「わぷ。な、なにをするーっ」
早苗がこころの顔に掴みかかり、指で無理やり口の端を押しあげて、
「はいこの感じ! この感じですよ! 今いい感じでにこーってしてます! じゃあ指を離すので、そのままキープですからね!」
そして早苗が手を離した瞬間、こころのほっぺたはぷるるんと元の位置に戻った。
「……にこー」
「……」
早苗も無表情になった。
「早苗、ちょっと」
月見は早苗を手招きして、小声で作戦会議を開始する。
「月見さん、これってもしかして……」
「ああ。おそらく、彼女自身の妖怪の性質がそうなんじゃないかな」
鬼がみな怪力であるように、天狗が翼で空を飛ぶように、河童が泳ぎの達人であるように。秦こころという一妖怪、或いは面霊気という種族の性質として、お面さながら表情が動かないという特徴があるのだと月見は考える。つまりこころの無表情は決しておかしいのではなく、彼女という妖怪において極めて正常な状態にあるといえるのだ。
「なるほど……。それじゃあ、どうすればこころさんに笑顔をプレゼントできるんでしょう」
「感情が顔に出ないだけで、心ではちゃんと喜んだり怒ったりしてる気がしないかい? だから、それに気づかせてやれればいいんだけど」
そのときこころがふと、
「あのう、妖狐のお方。失礼とは存じますが……尻尾を触ってみてもよろしいでしょうか」
「ん? ああ、どうぞ」
月見はよく考えもせず尻尾を差し出す。もはやお馴染みの条件反射である。
「おおー……もふもふ……」
「――で、どうするかだけど。とりあえず、一度私の屋敷に戻らないかい。ずっと立ち話もなんだし、もうだいぶ暗いしね」
「そうですね。諏訪子様と神奈子様にも相談してみましょう」
「もふもふ……ふふっ」
月見と早苗は同時にこころを見た。こころは顔を俯かせ、ちょうどお腹あたりで月見の尻尾をいじくっている。
今この少女、
「こころ」
「もふ……あ、なんでしょう」
顔をあげたこころは、例によってなんの表情も浮かべていない。いや、しかし、断じて聞き間違いではなかったはずだ。
「おまえ、いま笑わなかったか?」
「?」
「ふふって笑った声が聞こえたんですけど……」
早苗も同意する。まったく自覚していなかったらしく、こころはきょとんとしている。
「左様ですか?」
「左様です左様です。もしかして、月見さんの尻尾を触るのが楽しかったとか?」
「楽しい……というのは、よくわかりませんが」
両腕でゆっくり、月見の尻尾を抱き締めるようにして、
「このもふもふは、もっと触っていたい……かも、です」
「……そうか」
月見は推測を確信に変える。やはりこの少女、自覚していないだけで喜怒哀楽を感じる心はしっかりと持っている。なんとなく演技をしているだけだと彼女は言うけれど、本当は最初から自分の感情に従って行動できているのだ。
だからなんとか、その事実に気づかせてやることさえできれば。
「――閃きましたあっ!!」
そして、現人神に天啓が舞い降りた。
それは正真正銘の神のお告げだったのか、それとも神を騙った悪魔のささやきだったのか。
「月見さん、アニマルセラピーです! アニマルセラピーを使いましょう!」
「うん?」
アニマルセラピーとは動物介在療法とも呼ばれ、動物との触れ合いが人の病や心を癒すという考えに基づく医学用語だがそれが一体どうしたってちょっと待て、
「もふもふです! もふもふなら、きっとこころさんの願いだって叶えられるはずですっ!」
瞳を爛々と輝かせ、すっかり興奮状態になって鼻息を荒くしながら、エンジンフルスロットルの現人神はこう宣うのだった。
「名付けて――もふもふセラピー大作戦です!!」
ああ、そういえば。普段は諏訪子の勢いに隠れて目立たないが、この子も筋金入りの
まこと今更のように、月見はしみじみと思うのだった。