銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色

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第17話 「導きの白 ②」

 

 

 

 

 

 目の前でいきなり火事が起きた。それくらいに慌てた。焼け野原と化した竹林の隅っこで、少女が素っ裸でぶっ倒れていたのだ。そりゃあ慌てる。

 幸い、月見には脊髄反射で頭突きを叩き込んだため、彼が少女の裸を見たということはないだろうが――迂闊だったと、慧音は己の浅慮を後悔した。

 よくよく考えてみれば、この展開は予想できたはずだ。妹紅と少女が戦っていることは初めからわかっていた。であれば、二人の戦いが“衣服が残らないくらいにまで相手を叩き潰す”ものであることにだって、すぐに気づけたはずなのに。戦いの敗者が素っ裸で気絶しているであろうと予測して、事前に月見を引き止めることだってできたはずなのに。なのに月見のマイペースっぷりに呆れ果てて、すっかり気が回っていなかった。

 まったくもって、迂闊だった。

 

「ええと。と、とりあえず、どうしたものか」

 

 慧音がおろおろしながら見下ろす先には、少女の体が横たわっている。気を失っているのか、一糸まとわぬ有様でなお、身動ぎ一つする様子がない。

 それがつまりどういうことなのかは言わずもがな。よりにもよって仰向けで倒れているというのがなお悪い。月見に頭突きをかましておいて、本当に正解だった。

 

 病的なまでに白い肌である。雪化粧のように柔らかで、きめ細かで、ただただ白く、一点の汚れも、くすみも、穢れもありはしない。握ればたちまち砕けてしまいそうな、そんな首元から薄っすら伸びた白の線は、浮き出た鎖骨で弓を描いて、弧をなぞるようにして乳房を通り、腰でくびれ、流水よりなめらかに双脚へとつながっていく。あまりに敬虔で、闇雲に触れたら穢してしまいそうで、人に許された限界を超えて、まるで幻のよう。

 少女が生まれたままの姿で眠るその光景を比喩する言葉を、慧音は持たなかった。絵画のような――? 否、これはいかな美辞麗句すらも絶する深い幽玄だと、慧音は思った。

 蓬莱山輝夜。

 かつての月の姫君であり、日の本でも『かぐや姫』として広く名を知らしめている彼女が、眠る。

 

「とにかく、なにか隠すものを……」

 

 触れれば穢れてしまう美しさでも、さすがにこのまま放っておくわけにはいかなかった。なにせこの場には、男である月見がいるのだから。彼に輝夜の裸を見せるくらいなら、幽玄を穢した罪人にでもなった方が遥かにマシだ。

 念のため背後を振り返り、月見が輝夜の体を盗み見るような真似をしていないか確認する。彼は地面にうつ伏せで倒れていて、視線は明後日の方角を向いていた。なぜ倒れているのかはわからないが、とりあえずこちらの言いつけは守っているようなので、よし、今のうちにさっさとやってしまおう。

 だが悪いことに、持ち合わせがなかった。タオルの類があれば理想だが望むべくもない。今の慧音はまったく手ぶらの状態で、それはあそこで寝っ転がっている月見も同じだ。となると自分が着ている服くらいしか使えそうな物がないのだが、そうすると今度は慧音が下着姿になってしまうし、月見の服を剥ぎ取って使うというのも、なんとなくアレだと思えた。

 すなわち、

 

「ど、どうしたもんか……」

 

 と頭を抱えてしまう程度には、困り果てた状況なのであって。

 

「――あれ、慧音さん?」

 

 助け舟は、思わぬところからやってきた。

 輝夜を挟んで、慧音の向かい側に広がる竹林の奥からだった。ヨレヨレの皺がついた、手芸品みたいな兎耳をトレードマークにして、鈴仙・優曇華院・イナバが、綺麗に畳まれた病衣を片手に現れたところであった。戦いに負けた輝夜を回収しに来たのだろう。まさに天恵のタイミングだった。

 鈴仙は、裸の輝夜を見下ろす慧音を特別訝しむでもなく、兎耳を一度ひくりとさせて、

 

「珍しいですねー、あなたがこんなところにいるなんて」

「あ、ああ」

 

 助かった、と吐き出したため息が慧音の胸を撫でた。

 

「助かったよ。どうしようかと困ってたところだったんだ」

「それもまた珍しいですねー」

 

 鈴仙は意外そうに目を丸くし、

 

「姫様は不老不死なんですから、放っておいても全然問題ないのに」

「それはまあ……ね」

 

 慧音は曖昧に笑って、足元の輝夜をもう一度見下ろした。

 横たわる輝夜の体には、服が残らないほど凄絶な攻撃を受けたにも関わらず一切の傷がない。攻撃を受けた時点ではそれこそ正視に耐え難い状態になったのだろうが、すべて回復したのだ。

 老いという概念を克服し、定められた天寿からも解放され、たとえ心臓を貫かれようが首を落とされようが瞬く間に再生し、決して潰えることのない永遠の命を、人は不老不死と呼ぶ。幻想郷には三つの永遠の命が存在し、蓬来山輝夜はその中の一つだ。

 鈴仙が、持ってきた病衣を宙へ大きく広げながら、問うてくる。

 

「永遠亭になにか御用だったんですか?」

「ちょっとね」

 

 慧音は膝を折って、輝夜の体をゆっくりと抱き起こす。

 ありがとうございます、と鈴仙は小さく笑んだ。

 

「どこか悪くしたんですか?」

「いや……観光目的で永遠亭に行ってみたいっていう変わり者がいてね」

「へえ?」

 

 輝夜の白い腕に病衣を通しつつ、そこでようやく鈴仙は、慧音の背後で寝っ転がっている月見に気がついたようだった。

 つい作業の手を止めて、コメントに躊躇う素振りを見せて、

 

「……えっと、あの方ですか?」

「そうだよ」

「なんで倒れて……もしかして、姫様たちの戦いに巻き込まれて怪我でも?」

「いや、その……」

 

 正直に答えるべきか否か慧音は悩んだが、無理に誤魔化そうとして彼が疑われてしまったら元も子もない。一応、彼は偶然この場に居合わせただけで、まったく悪気はなくて、輝夜の裸も当然見てはいないのだということを、はっきりと伝えなければ。

 

「その、な。輝夜の体を見てしまいそうになったから、咄嗟に私が頭突きを」

「うわあ……」

 

 鈴仙が浮かべた作り笑いは、腰が引けていた。

 

「それはまたご愁傷様で……」

「あ、あいつも悪気があったわけじゃないからっ。ただこれは、事故みたいなものであって……」

「わかってますよ。慧音さんがいたなら大丈夫でしょう」

 

 そうして改めて手を動かしつつ、けれど気になるところがあったのか、彼女はふとした体で問うてきた。

 

「あの人、さっきからぴくりともしませんけど、大丈夫なんですか?」

「え? それはもちろん――」

 

 なにを当たり前のことを、と頷きかけて――しかし慧音は動きを止めた。ようやく疑問に思った。そういえばあいつは、どうして倒れているのだろうか。

 こちらの言いつけを守って、輝夜の体を見ないようにしてくれているのだと思っていた。けれどよくよく考えてみるとそれはおかしい。後ろを向くなりこの場を離れるなりすればいいだけの話なのに、どうして服を土で汚すような真似をしてまで、わざわざ地面に寝っ転がっているのだろう。

 焼け野原に転がった月見の体は身じろぎ一つしない。その様が、ここで気を失っている輝夜と、とてもよく似ていたので。

 やがて水面へ顔を出すように、慧音は思い出した。素っ裸で気を失う輝夜を前に動揺するあまり、自分は月見へなにをしただろうか。

 全力で頭突きをした。

 全力で、彼の頭を地面に押しつけた。

 ――半人半妖故に人間よりもずっと強いその腕力を、縦横無尽に発揮して。

 

「……だっ」

 

 慧音はゆるゆると鈴仙に視線を戻して、冷や汗を流しながら、今の自分にできる精一杯の笑顔を浮かべた。

 

「大丈夫だ、ぞ……?」

「……いや、確認しましょうよ」

「そ、そそそっそうだな。行ってくるっ」

 

 鈴仙の半目に胸を貫かれ、慧音はそそくさと月見のもとに駆け寄った。まさかそんな、きっと居心地が悪いから寝たふりをしてるだけだろう、だから気絶してるなんてないない。そうポジティブに自分へと言い聞かせつつ、月見の顔を覗き込んで、

 

「ぅえっ、」

 

 変な声が出た。

 月見が額から、血が。

 

「ちょっ――」

 

 断っておけば、決して殺人現場のようにおどろおどろしい有様ではない。血を流しているといっても、額をほんの少し切って細い赤線が一筋走っている程度だ。

 だけれどもその原因は間違いなく慧音の頭突きであり、つまり言い逃れのしようもなく、慧音のせいであり。

 

「……ぁ、」

 

 月見がゆっくりと目を開けた。顔を横倒しにしたまま、苦虫を咀嚼しているように不機嫌な眼差しで、じっと慧音を見上げてきた。

 

「……慧音ぇ」

「は、はいっ」

 

 気だるげに間延びした声はだらしがなかったが、どういうわけか地獄から鳴り響く怨嗟のように恐ろしくて、慧音は叱られる子どもみたいになって背筋を伸ばしてしまう。

 月見の言葉は滔々(とうとう)と続く。

 

「いや、わかってるさ。なんかよく覚えてないんだけど、とりあえずなにかよくないものを見てしまった気はするし、お前が見ちゃダメだって騒いだのも無理はなかったかなと思うよ。それで咄嗟に頭突きをしてしまったというのも、まあ、仕方ないことなのかなって。……だけど、ものには限度というものがあるとも、私は同時に思うわけだよ」

「……、」

「……慧音」

「は、はいっ」

 

 息ができなくて、声が裏返ってしまいそうになる。

 月見は一度、地面に転がっていた指先を動かして額を拭った。血は固まっていなかったから、当然、指先は赤く汚れるのであって。

 それを確認した月見は、憮然と、深いため息を、一つだけ置いて。

 慧音を見上げ、一音一音確認するように、丁寧に言った。

 

「……なにか、言うことは?」

「…………ご、ごめんなさい……」

 

 生きた空もないとはこのことか。

 月見の半目に全身を射抜かれているようで、慧音はもう、その場でしおしおと縮こまることしかできなかった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 薬師の卵だけあって、鈴仙は常日頃から最低限の医療道具を持ち運ぶようにしているらしい。月見が額から出血していると知るや否や、輝夜の着替えをそっちのけにして応急処置を引き受けてくれた。

 本当は慧音がやってやるのが筋なのだろうが、本職に出てこられては出番もない。それに今は、月見に怪我をさせてしまったことがとにかく申し訳なくて、彼と顔を合わせることすら満足にできない状態だった。できることといえば精々、傍で大人しく二人の様子を見守ることくらい。

 

「一応、永遠亭で検査した方がいいですかねえ」

 

 月見の額の傷を消毒しつつ、鈴仙は眉を寄せて言った。

 

「ちょっととはいえ頭を切ってるわけですし、念のために」

「う、ううっ」

 

 心を抉られるような心地がして、慧音は思わず呻いた。幻想郷一の薬師に師事する鈴仙が言うのだ、でたらめということはあるまい。月見にそれだけの怪我をさせてしまったのだという罪悪感がずんずんとのしかかってきて、小さな慧音の体は潰れてしまいそうだった。

 一方で、当の月見は実にあっけらかんとしていた。慧音がごめんなさいをした時点でこの件についてはすっぱり割り切ったらしく、検査、という言葉を受けて意外そうに腕を組んでいた。

 

「ふむ、そこまでしてもらわなくても大丈夫だと思うけど」

「ダメですよ」

 

 鈴仙は、考える間も見せずに毅然と頭を振った。

 

「頭の怪我は油断できません。……ええと、月見さん、でしたよね。慧音さんに頭突きされたあと、気を失ったりしました?」

「いや、一応はずっと起きてたよ。なにも考える気が起きなくて、半分は寝てたようなものだけど」

「うーん、気を失ってないのならそれほど心配はないかもしれませんけど……でもやっぱり、検査しておいた方がいいと思いますよ。特に月見さんは人間ですからね」

「そうだねえ……」

 

 月見は口元に指を当てて考え、それからふとしたように、

 

「そういえば、永遠亭は診療所でもやっているのか?」

「あ、はい。そうですね、説明が遅れてました。永遠亭は、私の師匠が開いてる、どんな薬でも処方できる診療所なんですよ」

 

 どんな薬でも、というところを強調して、うっすらと胸を張る鈴仙は誇らしげだった。彼女が、己の師である八意永琳を強く尊敬している証だ。

 

「ほう、それはすごい。随分と優秀なお医者さんなんだろうね」

「そうなんですよ。月見さんは外来人らしいですから信じられないでしょうけど、師匠も私も、月からこっちの世界にやってきたんですよ。そして師匠は、向こうの世界では“月の頭脳”なんて呼ばれてた天才なんです!」

「……ふうん」

 

 地球外の生命体を目の前にした割には、月見の反応は静かだった。感動や驚きよりも先に、なにか喉に引っかかるものがあったのか。鹿爪らしい顔をして、真っ白い病衣に包まれた輝夜を見下ろしていた。

 

「……この子は」

 

 口数の少ない問いに、鈴仙は手当を続けながら、

 

「月の世界のお姫様に当たる方です。元、ですけどね。こっちの世界なんかじゃ、一時期は『かぐや姫』なんて呼ばれてたみたいですよ」

「……、……なるほど、ね」

 

 深い、吐息だった。感動でも驚きでもない、もっと別のなにかを、月見はその吐息に乗せて吐き出していた。

 それはまるで、遠い昔からの心のしこりが、ようやく溶けて消えていくような。

 

「どうかしました?」

「……いや、まさかかぐや姫が実在していたなんてと思ってね」

 

 奥歯にものを挟んだような口振りだったが、手当の片手間だったからか、鈴仙がそれに気づく様子はなかった。

 

「あーなるほど。でも幻想郷には他にも、日本の歴史で伝えられてる有名な妖怪とか結構いますよ? 萃香さん――鬼の四天王とか有名どころじゃないですか?」

「そうだね。……それは楽しみだ」

「……?」

 

 岡目八目というやつなのだろうか。慧音の目に映る月見の様子が、少し、おかしい。

 その違和感はあまりに小さすぎて、どこがどのようにおかしいのかまでは、わからなかったけれど。

 

「……あ、もう血は止まってるみたいですね。ご要望があれば絆創膏をおつけしますけど、どうします?」

「遠慮しておくよ、みっともないしね」

「似合うと思いますけど……。じゃあどうします? 検査を希望されるなら、永遠亭までご案内しますよ」

 

 月見は、一呼吸、まるで噛み締めるような間を置いてから答えた。

 

「そうだね。お願いするよ」

「わかりました。……慧音さんはどうしますか?」

「……私もついていくよ」

 

 静かに答え、それから慧音は身を竦めた。

 

「その……色々と責任を感じる部分もあるし」

 

 今慧音がするべきことは、できる限りで月見に怪我をさせてしまった償いをすることだ。しっかり永遠亭までついていって、検査結果を見届けて、治療費を立て替え、一緒に人里まで帰る。そうでもしない限りは、この罪悪感が消えてくれる日は当分訪れないだろう。

 

「わかりました。はぐれないように気をつけてくださいね」

「ああ。……輝夜はどうする?」

 

 よほどこっぴどくやられたようで、輝夜に目覚める兆しはまだ見えない。

 

「私が運ぼうか?」

「いえいえ、慧音さんのお手間は取らせませんよ」

 

 鈴仙はどことなく得意そうな顔をして、慧音の提案を断った。親指と人差し指で輪っかを作り、それを口まで持っていく。

 指笛を吹くつもりらしい。ひょっとして、指笛で仲間を呼び寄せるなんて芸当ができるのだろうか。

 そうして鈴仙は大きく息を吸い込み、一息で、

 

 すひー。

 

「……」

「……」

「……、」

 

 静かになった竹林の中で、鈴仙はもう一度息を吸って、

 

 ぴすぅーっ。

 

「…………」

「…………」

「…………」

 

 見てはいけないものを見てしまった、と慧音は思った。いたたまれない。なんかもう、鳥肌が立つくらいにいたたまれなかった。

 鈴仙は、顔を真っ赤にしてふるふる震えて、なんだか死にそうになっていた。得意顔で指笛を吹こうとしたら音が鳴らなかったという赤っ恥に押し潰されて、息も絶え絶えになっていた。

 こういう時には、一体どんな言葉を掛けて慰めてあげられるのだろう。もう百年以上の長い時を生きた慧音だが、未だ、その答えを知らない。

 結局できたことといえば、縋るような気持ちで月見にアイコンタクトを送るくらいで。

 きっと月見だってどう言葉を掛けるべきか迷っていただろうに、それでも彼は慧音の視線に応えてくれた。鈴仙の肩に優しく手を置いて、優しく微笑んで、そして優しい声音で、

 

「大丈夫だよ、鈴仙。――私たちはなにも見なかったから」

「うわああああああああん!!」

 

 優しく優しく、鈴仙にトドメを刺した。

 心を砕かれ膝から崩れ落ちた鈴仙は、えぐえぐと咽び泣きながら、どんよりオーラをまとって地面の土をいじくっていた。

 

「ふふふふふ、そうですよ見栄張りましたよ。指笛で仲間を呼べたら、なんだかカッコいいなあって、前々から思ってたんですよ。これでも一応、昨日の練習では上手く行ったんですよ? ああごめんなさいなんでもないですこんなのただの言い訳ですよねだって本番で失敗してるんですもん。聞きましたよねみなさん、ぴすぅーですよぴすぅー。あはははははごめんなさいごめんなさい師匠私はやっぱりダメな子でしたー……」

「つ、月見いっ!」

「ははは、悪い悪い」

 

 月見が悪びれる様子もなく呑気に笑っているので、慧音は頭が痛くなってしまった。よりにもよってこのタイミングで、彼の子どもらしい部分が出てくるなんて。

 とにかくなにかフォローをしないとと思って、鈴仙の肩を揺すって必死に声を掛ける。

 

「鈴仙、しっかりしてくれっ!」

「あら慧音さん、私は大丈夫ですよ。ええ、しっかりしてます。しっかりと、自分のダメっぷりを認識してますとも」

「鈴せーん!?」

 

 マズい、なんだか鈴仙の目が虚ろだ。このままでは近いうちに迷いの竹林で首吊りが起こってしまうかもしれない。

 焦りに焦った慧音は、もう口に任せて、引きつった笑顔で叫んでいた。

 

「だ、大丈夫だって! ほ、ほら……ああいうお前も、茶目っ気があって可愛かったし!」

「そんなんで可愛いって言われても嬉しくないですよーだうわあああああん!!」

「あっ、」

 

 追い打ちだった。鈴仙はあふれる涙を流れ星みたいに振りまきながら、霧と竹林の向こう側へと走り去っていってしまった。

 慧音が咄嗟に伸ばした右手はなにも掴むことなく、空しい。

 

「……」

「……慧音、人のことは言えないんじゃないか?」

 

 月見にニヤリとした目で見られたので、慧音はしょげた。どうにも最近の自分は、焦るあまりに変なことばかりをしてやないか。ゼロ距離弾幕をぶっ放したりとか、人の頭を地面に押しつけたりとか。

 

「……さて」

 

 自分で自分の教師としての適性を疑う慧音を傍目に、月見は腕を組んで、手持ち無沙汰に鈴仙が駆け抜けていった方角を見つめた。

 

「どうしたものかね。あの子、どこかに行ってしまったけど」

「……」

 

 追いかけたところで無駄だろう。土地勘がない慧音たちでは到底見つけられないだろうし、そうであっても『脱兎』なんて言葉がある通り、鈴仙は非常に足が速い。

 つまりは、せっかく巡り会えた永遠亭への道案内を失ったのであって。

 

「……か、輝夜が目を覚ますまで待つしかないんじゃないかな」

「ふむ……」

 

 小さく息をついて、月見が眠れる輝夜の相貌を見つめた。生まれて初めて出会うかぐや姫を、物珍しく思うような目ではなかった。穏やかに細められ安らいだ瞳が見せるのは、過去を偲ぶ色で。

 だから、慧音は、

 

「……なあ、月見」

「うん?」

 

 問う、

 

「お前と輝夜って、もしかして――」

「――ぅぁぁぁぁぁあああああん!!」

「知り合――って、え?」

 

 そのさなか、しかし突如として近づいてくる少女の叫び声を聞いて、目を丸くした。

 つい先ほど、鈴仙が涙を振りまきながら走り去っていった方角からだった。竹林を揺らし、立ちこめる霧を肩で切り裂いて、飛び出してきたのは――

 

「……れ、鈴仙!?」

 

 まさしく鈴仙であった。迷いの竹林の地形がもたらした奇跡なのか、どうやら彼女は、無我夢中で走っているうちに走る向きをぐるりと半回転させたらしい。

 だが、鈴仙はそのことに気づいていないようだった。たださめざめ涙を流しながら霧を薙ぐばかりで、このままではまたどこか竹林の向こう側へと消えていくだろう。

 慧音は咄嗟に声を上げた。

 

「れ、鈴仙! 鈴仙、止まれ!」

 

 だが鈴仙は止まらなかった。それが『脱兎』の文字通り風さながらの勢いだったものだから、手を伸ばして引き止めることもできなくて。

 結局鈴仙は、慧音たちを横切ってはまた白い世界の向こうへと――

 

「……!」

 

 消える、その前に動く、影があった。月見だ。鈴仙が足を向ける先に立ち塞がり、浅く両腕を広げて身構える。

 その行動の意図を、慧音が悟るよりも早く。

 月見と鈴仙が、激突した。重くくぐもった音が鳴り、慧音は、二人の体が数瞬の間宙に浮いたのを見る。そして肉を強く打つ落下音が響いて、ようやく慧音は正気へ返った。

 

「ッ……お、おい!」

 

 肝が潰れた思いだった。鈴仙は月の世界の兎、すなわち妖怪だ。風のように走る妖怪と正面からぶつかって、体のやわな人間が無事で済むはずがない。今になって凍え始めた体を懸命に動かして、慧音は二人のもとへと駆け寄った。

 一瞬は最悪の悪寒すら脳裏を掠めたものの、月見は生きていた。怪我をしたどころかなんの痛みも感じていない様子であっさりと体を起こして、抱き止めた鈴仙を緩いため息とともに見下ろしていた。

 

「つ、月見……? 平気なのか?」

「ああ、大丈夫だよ」

 

 慧音が恐る恐る問えば、すぐに確かな肯定が返ってくる。

 

「陰陽術は便利なものでね。衝撃を和らげる符を使ったから、この通りなんともないよ」

「そ、そうか……」

 

 強ばっていた肩から力が抜けていくのを感じる。二度も月見を痛めつけてしまった慧音としては、とにかくもう彼には怪我をしてほしくなかった。

 月見は苦笑し、鈴仙の背中を静かに叩いた。

 

「せっかく見つけた永遠亭への足掛かりだからね」

 

 そうしてようやく、鈴仙がうぅーんと呻き声を漏らしながら身動ぎをした。こちらは彼と違って衝撃を和らげることができず、少しの間気を失っていたらしい。

 鈴仙がゆっくりと顔を持ち上げれば、すぐ近くに月見の顔がある。抱き止められているのだから当たり前だ。

 

「……」

 

 鈴仙は未だ状況を整理しきれないようで、呆然としながら自分の体を見回した。

 月見の腕が自分の背中に回っている。自分の腕が彼の胸元を掴んでいる。そして最後に、自分の体が彼の膝の上にすっぽり乗っかっていることを理解して、ようやく、

 

「――う、うわわわわわあああっ!?」

 

 いきなり熱湯の中に叩き込まれたように大暴れして、月見の両腕を振り切って、ごろごろと地面へと転がり落ちた。それだけに留まらず、更に這う這うの体で素早く月見から離れ、陸に上げられた魚みたいになりながら、

 

「ご、ごごごっごめんなさい! わわわ私ったら、なんとはしっはしたっ、はしはし」

「いや、いいから落ち着きなさい。ほら、そんな短いスカート履いてるんだから、あんまり暴れないで」

「ひゃあああああ!?」

 

 もはや見ていて可哀想になってくるくらいの慌てようだった。素っ頓狂な悲鳴を上げた鈴仙は、スカートの裾をはっしと押さえてその場で正座し、顔から蒸気を上げながらしおしおと縮こまって、動かなくなった。

 

「……ええと……大丈夫か?」

 

 腫れ物を扱う気持ちになって、慧音はへっぴり腰になりながらそう小さく問うた。対して鈴仙はなにも答えず、ただこくっと、かすかに頭を縦に動かしただけ。どうやら恥ずかしさのあまり口が利けなくなってしまったらしい。

 

「すまないね、無理に止めたりして」

 

 月見が立ち上がり、服についた土を払い落としながら鈴仙へ尋ねた。

 

「怪我はないか?」

 

 こくっ。

 

「永遠亭まで案内してほしいんだけど、大丈夫かな」

 

 こくっ。

 

「……立てるか?」

 

 ……こくっ。

 頷いた鈴仙は、しっかりとスカートの裾を押さえながら、ちょっとだけ内股になって立ち上がって、

 

「……し、し」

 

 なにかを言おうとするのだが、舌がもつれて上手く行かない。彼女は何度も舌を噛みながら、深呼吸をしたり、ますます縮こまったりして、ようやく声が出たのはおよそ秒針が一回転してからだった。

 

「……し、しつれぇ、しました…………」

「あ、ああ……ごめん」

 

 まさかここまで動揺されるとは思っていなかったようで、月見はすっかり面食らった様子で頬を掻いていた。……まあ、鈴仙の反応も無理はないだろう。赤の異性にいきなり抱き留められたのだから、女として動揺しないわけがない。やむを得なかったとはいえ、頬に紅葉が咲かなかった月見は幸いだった。

 

「大丈夫か、鈴仙?」

 

 慧音は俯く鈴仙を覗き込んだ。返事がないのでもう一度、

 

「鈴仙?」

「……い、いぇ、だいじょうぶ、ですよ」

 

 返ってきたのは、蚊の鳴くような声だった。鈴仙は顔を耳まで真っ赤にして、もじもじしながら、

 

「わたし、その、男の人を触診するのとか、ほんとダメで。簡単な応急処置だったり、子どもとかご老人なら、大丈夫なんですけど、その、大人の方の、胸とか、触っちゃうと、すごく硬くて、私たちと違うんだなとか、まじまじ思っちゃって、ほんと、なんかドキドキしちゃって、ダメなんですよぅ……」

「……」

 

 それは、一人前の薬師を志す者としては致命的ではなかろうか。慧音が言えた台詞でもないが、ちょっと初心すぎるのでは。

 そういえば、と慧音は思い出す。永遠亭が人里で健康診断を行う時、診察はほとんど永琳一人で行って、鈴仙はその手伝いばかりだった。薬師見習い故に手伝いしかさせてもらえなかった、のではなく、初心すぎるが故に手伝いしかできなかった、というのが真実らしい。

 ……永琳が不老不死であることも相まって、鈴仙は一生、卵のままなのかもしれない。

 

「ちょ、ちょっと待ってくださいね。もう少しで落ち着きますから」

「そ、そうか」

 

 鈴仙が、細い息遣いで、ひー、ひー、ふー、と間違った深呼吸を始める。どうやらまだ相当混乱しているようなので、慧音は振り返り、少しそっとしてやってくれと月見に向けて目配せをした。

 薄く苦笑いをした月見は、所在なげに周囲を見回して、やがて今なお眠ったままの輝夜を目に留めた。

 

「……この子は、結局どうやって永遠亭まで連れて帰るんだい?」

 

 びくん、と鈴仙の肩が律儀に飛び跳ねる。けれど月見は、そっとしてやってくれという慧音の言いつけを守って、そのまま続けた。

 

「なんだったら、私が運んでも大丈夫だけど」

「……大丈夫なのか?」

 

 慧音は眉をひそめた。人の体は、見た目よりもずっと重い。輝夜はまだ幼さが残る少女だが、それでも気を失い完全に脱力した体を気軽に持ち上げるのは難しいはずだ。加えてほんの少し右から左に動かす程度ではなく、永遠亭までの長い道のりを運ぶのだから、もう立派な重労働となるだろう。

 だが思い出してみれば、昨夜の晩、腰を抜かして動けなくなった慧音を人里まで運んでくれたのは、他でもない月見だった。彼は決して逞しい体つきではないけれど、意外と結構な力持ちなのだ。

 だから、まあ大丈夫かなあ、と慧音は思ったが。次第に、すー、はー、という正しい深呼吸法へと戻ってきた鈴仙が、赤みの残る頬を持ち上げて月見を見上げた。

 

「でもその、悪いですよ。お客さんというか患者さんというか、そんな人にやってもらっちゃうなんて……」

「でも、男の私がなにもしないっていうのもね。大分困らせちゃったみたいだし、顔を立たせてくれないかな」

「いえそんな、あんなの、わ、私が初心というか、ともかく月見さんは全然悪くないので……」

「まあいいんじゃないか? 鈴仙」

 

 鼬ごっこになりそうな気配を感じて、慧音は苦笑とともに二人の間へ割って入る。

 

「せっかくの男手だし、有効活用しようじゃないか」

「そうそう、そうしてくれ」

 

 これがもし下心アリの申し出だったら、もちろんゼロ距離弾幕でぶっ飛ばすけれど。彼の人柄を考えれば、それもありえないだろう。

 鈴仙は少しの間迷う素振りを見せてから、苦笑した。

 

「……じゃあ、折角なのでご好意に甘えますね。永遠亭まではそんなに遠くないので、お願いします」

「了解」

 

 頷き、月見は一度その場で肩を回すと、輝夜の上半身を起こして左手を背中に、右手を腿のあたりに差し込む。それからちょっとした荷物を運ぶようにひょいと抱き起こす、その抱き方は、お姫様抱っこというやつだったので。

 慧音はふいを衝かれて、どきん、とした。

 

「そうやって運ぶのか?」

「おぶって運ぶのは危ないだろう。後ろにひっくり返ったら大変だ」

「それは、まあ……」

 

 そうなのだけれど、なんというか。その。

 慧音のその悶々とした気持ちを、代弁したのは鈴仙だった。からりと笑って、

 

「なんだか様になってますねえ、月見さん」

 

 そう。様になっているというのも妙な表現だが、輝夜を抱いた月見の姿が、まるで劇の一場面を覗くように、すっと慧音の瞳へと入ってくるのだ。

 輝夜の体を両手でしっかりと支えたまま、月見は笑った。

 

「茶化してもなにも出ないよ」

「いやいや、本心ですよ。……ともあれ行きましょうか。ご案内しますよ」

 

 鈴仙が霧の奥へと歩き出し、月見もすぐにそれに続いていく。ただ慧音だけが、まるで夢でも見ている心地で、月見の背中をぼんやりと見つめていた。

 或いはだからこそ、聞き取れたのかもしれない。

 耳をそばだてなければ到底気がつけないような、彼の呟きを。

 

 ……あいかわらず、軽いやつだねえ。

 

 だから慧音は、確信した。もう間違いない。月見自身がそう言ったのだから、そうなのだろう。

 月見と輝夜は、知り合い同士なのだと。

 そう確信した慧音は、それが一体どういう意味なのかをぼんやりと考えながら、月見の背中を追いかけた。

 霧が晴れてきている。月見を迎え入れるように。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 心地良い記憶ほど、夢のように感じる。億にすら及ぶ久遠の歳月を生きた八意永琳が、千年ちょっと前の出来事をこうも懐かしいと感じるのは、それだけその記憶が心地良いものだからなのだろう。

 輝夜がまだ『かぐや姫』と呼ばれていた時代に、彼女とともに在る陰陽師の男がいた。彼は、輝夜が地上の世界で得た大切な友人であり。

 そしてかけがえのない、想い人でもあった。

 永琳が彼と出会ったのはほんの数分だった。けれどその数分で、輝夜が本当に彼を想っているのだと思い知らされて、それが少し意外で、そしてとても嬉しかったのを覚えている。

 もちろん、彼は人間だったから、既に生きてはいない。

 それは、彼が永琳たちとともに月の追手から逃げ、生き延びていたとしても、変わらない定めだったろう。輝夜は不老不死であり、彼は人間だった。輝夜がどれだけ彼を想おうとも、どれだけ生きてほしいと願おうとも、先立たれる運命は避けられなかった。

 けれど同じ死であっても、彼が選んだのは天寿を全うすることではなく、輝夜を助けるために己を捨てることだったから。

 彼には本当に感謝している。彼が助けてくれなければ、永琳たちは無理やり月へと連れ戻され、この世界で生きていくことはできなかった。それは、本当に、感謝しているのだ。

 でも、私たちと一緒に逃げ延びる道を選んでくれても、よかったのに。少なくとも、輝夜はそれを望んでいたはずなのに。

 感謝の心の中で生まれる、針が刺すような痛みは、ともすれば恨みという言葉でも表現できるだろう。感謝していたし、同時に恨んでもいた。それらの感情は千年以上が経った今でも色褪せないのだから、私も感傷的になったものだと永琳は思う。

 カルテが床の上に散らばった音で、我へと返った。

 

「……」

 

 いつの間にか、随分と考え込んでしまっていたらしい。永琳は緩くため息をついて、散らばったカルテを掻き集める。

 思考が次第にこちら側へと戻ってくると、ふと思い出すことがあった。

 

「そういえば……ウドンゲ、まだ帰ってきてないわね」

 

 妹紅との戦いに敗れた輝夜を回収に向かわせたのは、もう随分と前の話だ。鈴仙は決して有能な助手とはいえないが、仕事真面目ではあるから、戻りが遅れるとなれば相応の理由があるだろう。だが心配はしなかった。月の兵士として高い戦闘能力を持つ鈴仙にとって、襲われると危険な相手というのは、意外にもそれほど多くない。薬師としてはまだまだだが、輝夜の護衛としては、ある程度のラインで信頼を置ける助手だった。

 だから永琳は、そのうち帰ってくるだろうと深く考えず、掻き集めたカルテで机を叩いて、仕事の続きをしようとした。彼のことも。今となってはもうどうしようもないことだから、深く執心するのはよそうと。

 

『ただいま戻りましたー、師匠ー』

 

 玄関の方から、朗らかな鈴仙の声が聞こえた。そして声は、それだけではなかった。

 

『どうもありがとうございました、わざわざ運んで頂いて。……それじゃあ、姫様を寝かせてきますので、あとは任せてください」

『ああ、よろしく』

 

 物静かなバリトンは男の声音。鈴仙の帰りが遅れた理由は、途中で彼と出会ったからなのだろう。

 男が何者かはわからないが、話の内容からして輝夜を運んでもらったのは明らかだった。であれば礼を言わなければならないから、永琳は整理したカルテをひとまず机の上に置き、玄関へと向かう。

 途中、輝夜を背負った鈴仙と鉢合わせた。

 

「あ、師匠。ただいま戻りました」

「ええ、おかえり。……一体誰を連れてきたの?」

「慧音さんと……あとは外来人の男の方です。少し怪我してるみたいだったので、治療をと思って」

 

 そう、と永琳は短く頷いた。今はカルテの整理くらいしかやることがなくて暇だったから、お礼も兼ねて暇潰しに治療してあげるのは悪くない。一人で作業しているとまたあの思考の海に囚われかねないから、人相手に仕事をしたい気分だった。

 

「じゃあ私が行くわ。ウドンゲは輝夜をよろしくね」

「はい、わかりました。お願いしますね」

 

 鈴仙と別れ、撫でるように廊下を進んでいく。玄関では、鈴仙の言葉通り、上白沢慧音と外来人の男が待っていた。物珍しそうに永遠亭の内装を見回す男を、隣の慧音が行儀が悪いと言ってたしなめている。

 

「お待たせしました」

 

 永琳の出迎えに、まず反応したのは慧音だった。こんにちは、と間をつなぐように笑顔を見せて、その片手間で男の裾を鋭く引っ張る。二人の身長は随分と差があったが、まるで他人の家に挨拶に来た母親と息子のようだった。

 そこになってようやく、男は永琳の姿に気づいたらしい。何気なくこちらを向いた彼と、目が合った、

 瞬間、

 

「……!」

 

 強く頭を叩かれた心地だった。あまりの衝撃に周囲の雑音がすべてシャットアウトされて、視界に慧音の姿が映らなくなり、男の相貌だけが浮き出るように鮮明になる。胸が急に苦しくなって、息の仕方がなんだかよくわからなくなって、喘いでしまいそうになる。

 千年以上昔のほんの数分だけの邂逅だったけれど、それでもはっきりと思い出せる。

 我の強い輝夜が心を許し、恋すら抱いた、あの。

 あの男が、目の前に。

 

「――……」

 

 バカな、と思い、それからすぐに確かにバカことだと気づいて、永琳はつい笑ってしまった。そうだ、ありえるはずがない。千年以上も昔の人間が、あの時となにも変わらない姿で、また永琳たちの前に出てくるなんて。

 他人の空似だ。そう思ったら、さほど、目の前の男があの人に似ているわけでもないような気がして、呼吸が楽になった。視野狭窄を起こしたように狭まっていた視界が徐々に広くなって、慧音の姿がわかるようになる。周囲の雑音も、もういつも通り。

 

「……永琳? どうした?」

 

 疑問顔の慧音に、軽く頭を振って返した。

 

「なんでもないわ」

 

 それから、男を見て、

 

「ようこそ永遠亭へ。私は八意永琳、ここで薬師をしているわ」

 

 男は、すぐには返事を寄越さなかった。永琳を見つめたまま、記憶を遡るように目を細めて、押し黙っていた。

 その沈黙が妙に長かったから、隣の慧音が、挨拶くらいしろと肘鉄を打ち込もうとして。

 

「――ああ、そうだ思い出した。確かに。確かに永琳は、お前だったね」

 

 生まれて間もない頃から神童と呼ばれ、月の頭脳と崇められるほどの才に恵まれた永琳だけれど。だけど未だかつて、これほどまでにわけがわからなくなることなんてなかった。

 心臓が早鐘を打ち始める。指先がかじかむ。息が詰まる。唇が干上がっていく。わけがわからなくなると、そうか人はこんな風になるんだと、どこか俯瞰した自分の囁きが頭の片隅で聞こえた。そんな言葉を思う余裕なんて、どこにもなかったはずなのに。

 

「久し振りだから思い出すのに時間掛かったけど、なんだ、もしかするとあの時からまったく変わってないみたいだね。ひょっとしてお前も不老不死だったのか?」

 

 この男の言う『あの時』が、一体いつの話なのか、とか。

 一体誰の姿を思い描いて、『お前も』なんて言っているのか、とか。

 あくまで機械的に、彼の声を言葉として認識することはできる。けれどそこまでだった。彼の言葉がどういう意味なのかを考えようとすると、思考は濁流さながらに混乱して、ちっとも形を成してくれなかった。

 

「……ちょっと、待って」

 

 ようやくの思いでそれだけ搾り出して、顔を押さえ、俯き、深呼吸をして、乱れる思考に手綱をつけて、八意永琳は考えた。バカなことだと思った。他人の空似だと思った。だが、違うのか。

 悪戯。違う。当時の記憶を知っているのは永琳と輝夜だけで、鈴仙にすら詳しいところは教えていない。あの人の姿を偽るなんて、他人にできる悪戯じゃない。

 夢。違う。夢を見ているならば、永琳ははっきりとそれを認識できる。自分が今いる世界は間違いなく現実だ。

 目の前の彼を否定しようとも、否定しきれるだけの理由が見つけられない。

 なら、

 なら、

 この人は、まさか夢でもなんでもなくて。

 本当に。

 

「……いまいち覚えてもらえてないかな。まあ、お前と話をしたのはほんの数分だったし、無理もないけど」

 

 もしかしたら輝夜からも忘れられてるのかねえ。そうだとしたらちょっとショックだね。

 彼は、笑う。

 からから、笑う。

 永琳は咄嗟になにかを言おうとした。けれどそれが声になる前に思い留って、ぐっと呑み込んだ。いけない、と思う。感情に任せて喋ってしまっては、そのうち堰が切れて、自分で自分がわからなくなってしまいそうだった。

 ゆっくりと、深く呼吸をして、感情を理性で抑えつけて。

 

「あなたが“彼”だという証拠が、どこにあるの?」

 

 静かな問いに、彼は笑みを崩さない。

 

「お前と出会った時の話をしてやろうか。私は、今でもよく覚えているよ?」

 

 流水のように綺麗に流れる言葉は、とても嘘とは思えなかった。けれど、嘘でないとも、思えなかった。

 

「なんで……百歩譲ってあなたが“彼”だとしても、千年以上も経って今更、どうやって」

 

 蓬莱の薬ではない。当時永琳が月から持ち込んだ二つの薬のうち、一つは永琳が、そしてもう一つは妹紅が飲んだ。彼は不老不死ではない。それは間違いないはずだ。

 けれど、不老不死でないなら、

 

「若返りの禁術にでも手を出した?」

 

 千年近く前に、そうやって妖怪を助けて回る尼僧の噂を耳に挟んだことがある。

 

「いやいや、まさか」

 

 けれど彼は、首を振って。

 

「なにも変な真似はしていないよ」

「じゃあ、どうやって」

「今更打ち明けたところで、信じてもらえるかはわからないけど――」

 

 その体を、ふいに光の粒子が包んだ。

 なにかの妖しい術かと思って咄嗟に身構えたが、その粒子はただ彼の体を包み込んだだけで。

 

「――解術・『人化の法』」

 

 小さな宣言の声とともに、光の衣が砕け散り、消える。

 そして現れた、彼の姿は。

 

「――!!」

 

 音がするほど強く、永琳は息を呑んだ。日本人独特の深い黒髪をした外来人は、もうそこにはいなかった。

 代わりに佇んでいるのは、あの黒を反転したかのように、くすみのない綺麗な銀色をした――

 

「――というわけで、私の正体は妖怪だったんだよ」

 

 妖怪。――妖狐。頭から伸びた一対の獣耳も、背後で揺れる大きな尻尾も、淡く感じられる妖気の気配も、もはや人のものではない。

 

「――……」

 

 頭の中が完璧に真っ白になった。生まれて初めてだった。生まれて初めて永琳は、なにも考えられず、指先一つも動かせず、なんの声も出せず、もうバカになってしまったかのように、ただただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。

 笹の葉擦れの音が、聞こえた気がした。

 

「……………………なっ、」

 

 そしていち早く我に返ったのは、どうやら彼女の方だったらしい。

 もはやまばたきもできなくなった、永琳の視界の中で。

 

「なんだそりゃああああああああああ!?」

 

 絶叫とともに繰り出された慧音のロケット頭突きが、彼のこめかみを打ち抜くのが見えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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