銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色

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竹取物語 ② 「彼女の夢」

 

 

 

 

 

 残酷なくらいに、懐かしい夢だった。忘れたくて、忘れたくなくて、千余年に及ぶ歳月の風に吹かれ、風化し、霞みかけていた。

 この地上に降りてきた自分が、まだ『なよ竹のかぐや姫』と呼ばれていたあの頃の記憶。

 

『輝夜。今しがた、陰陽師の方々に依頼の書状を送りました』

 

 当時輝夜の世話をしてくれていた翁の、この一言がすべての始まりだったように思う。

 必要以上に関わるつもりはなかった。心を許すつもりもなかった。都合よく自分の身を守らせて、依頼が終わればすっぱり別れるつもりだった。

 けれど今になって思えば、完全にしてやられたということなのだろう。彼と一緒にいた時間は長くなかった。決して長くはない時間で、それでも輝夜は、彼を忘れることができなくなった。あれから千年以上が経った今でさえ、こうして焦がれるように夢を見るのだから。

 

(ねえ……どうしてこうなったのかな)

 

 目元に込み上がってくる感情は、涙の形をしている。

 

(どうして、あんな別れ方をしなきゃいけなかったの?)

 

 彼のぬくもりを思い出すと、暖かくて、懐かしくて、愛おしくて、泣いてしまう。

 

(ひどいよ)

 

 千年以上も昔のことだ。今更なにを言ったところで後悔にしかならないことはわかっている。

 でも、それでも、どうして考えずにいられるか。どうして想わずにいられるか。

 だって、輝夜は、

 

(もっと、一緒にいたかったのに)

 

 あいつのことが、

 

(……好き、だったのに)

 

 心を許すつもりなんてなかったのに、気がついたら惹かれていて。

 もっと一緒にいたかったのに、いられなくて。

 巻き込みたくなかったのに、巻き込んでしまって。

 そして、死んでほしくなかったのに――

 

(ばか)

 

 涙が頬を伝う冷たさを感じながら、輝夜は静かに、体を包む浮遊感に身を任せた。これが夢だとはわかっていたし、わかっている以上は目覚めることだってできた。けれど一度妹紅に殺されたせいなのか、体中がだるくてとてもその気にはなれなかった。

 それに、海原のように広がる思慕の情は、もうとてもじゃないけれど抑えが利かなくて。

 

(ばか……)

 

 夢でもいいからもう一度会いたい。もう一度、あの人のぬくもりを感じたい。

 もう一度、あの人に。

「輝夜」って、名前を呼んで、笑いかけてほしい。

 

(――ギンの、ばか)

 

 苦しくなる胸を押さえて、蓬来山輝夜は、未だ眠る。

 

 ここで目を覚ませば、すぐ目の前に彼がいることを。

 今はまだ、知らないままで。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 人と話すのが嫌いだった。屋敷の人間以外の顔を見るのが嫌いだった。故に輝夜は、都一の美貌を持ちながらもほとんどの者がその素顔を知らない、噂だけで語られる虚像の少女だった。

 仕方のないことだとは理解していたし、文句を言うつもりもなかった。屋敷に妖怪が忍び込んできたのだ。陰陽師に手紙を送り助けを求めた翁の判断は、間違いなく正しい。

 しかしそれでも、警護してもらうためとはいえ見知らぬ他人と顔を合わせることに、輝夜の心は深く倦んでいた。

 今輝夜が顔を合わせている陰陽師は、名を大部齋爾(おおべのさいじ)といった。傍目でもわかるほどの霜を頭に置いた老陰陽師がどんな男なのか、事前に屋敷の者たちに話を聞いて、教えてもらっていた。

 曰く――都屈指の大陰陽師であり、老いてなお盛んな女好き。

 大嫌いだと思った。そして実際に顔を合わせて、話をして、やっぱり大嫌いだと思った。目元がだらしなく弛んで、鼻の下が下品に伸びて、(おもね)るような声音で、やれ貴女は大層美しいとか、実に噂以上だとか、聞き飽きた巧言令色ばかりを並べ立てる。

 嫌いだ。確かに、並の女よりも見た目が優れている自信はある。けれど都一の美貌だとか、天下に名を轟かす美女だとか、そんなのは所詮、男たちの劣情が勝手に作り上げた噂話でしかない。にも関わらず――いや、だからこそ、屋敷の外の連中は皆がその噂ばかりに目を奪われて、本当の輝夜自身には一瞥たりともしてくれない。

 それは、とても、嫌なことなのだと――かつてこの屋敷を訪れ求婚してきた五人の貴族たちから、輝夜は身を以て学んでいる。

 断っておけば、なにも男の人から興味を持たれること自体が嫌いなわけではない。輝夜だって女だから、男から愛されたい、とは常々思っている。むしろ、その欲望は強い方だとも思う。

 だが輝夜に近づこうとする男たちは、どいつもこいつも、誠実に見せかけた瞳の奥で卑しい感情を渦巻かせていた。かつて故郷の地で読んだ一冊の本――地位も名誉も財産も捨て、姫を姫としてではなく、一人の女としてひたむきに愛した男の異世界譚――あんなものは所詮、本の中だけの夢物語だった。

 だから輝夜は、屋敷の外の人間が嫌いだ。輝夜を輝夜としてではなく、“かぐや姫”としてしか見てくれない人間たちが嫌いだ。

 今、屋敷には齋爾以外にもう一人の陰陽師が来ているらしいが、きっとそいつも彼と同じような人間なのだろう。齋爾との話が終われば、次はそいつと顔を合わせなければならない。そう思うと、輝夜の心は底なし沼にでも落ちたような心地になった。

 

「……姫様? どうされましたか?」

「……いえ、なんでもありませんわ。どうぞ、お話を続けてください」

 

 とはいえ輝夜とて、一応は姫の生まれで相応の礼儀を仕込まれた身だ。たとえ心が憂鬱でも顔には出さず、浮かべる愛想笑いには一糸の乱れも見せない。齋爾はその笑顔にあっさりと騙され、また熱心に巧言令色を並べる作業へと戻っていった。

 輝夜は心の中で諦観のため息を落とした。そうやって輝夜のことを上辺でしか見ていないから、愛想笑いの一つすら見破れない。

 

(人と話をするのって、こんなにつまらないことだったかなあ……)

 

 やはり、外の人間と交流したってなにも楽しいことなんてない。これだったら、部屋に閉じこもって自分の好きなことをしていた方が、何百倍も何千倍もマシだ。

 

(あーもう、なんでこんなことになってんのかしら)

 

 決まっている。昨夜遅くに、屋敷に物の怪と思われる影が忍び込んだから。

 

(なんだって、妖怪まで私なんか)

 

 己の容姿が人間のみならず妖怪まで魅了するものだった、としても嬉しくもなんともない。むしろ迷惑だ。輝夜は一人で平穏に暮らしていたいのに、噂ばかりが一人歩きして遂に妖怪までおびき寄せてしまったとか、冗談じゃない。わざわざ遠路遥々やってきてくれた妖怪へは、断固として制裁を下す必要がある。

 もっとも輝夜は、腕っ節に自信があるわけでもないので。

 よって輝夜がすべきことはただ一つ。齋爾たちを適当に調子づかせて、さっさと妖怪を倒してもらって、そしてさっさと帰ってもらう――それが、輝夜が平穏を取り戻すための最善手だ。

 輝夜は着物の袖で顔を隠し、よよよ、とわかりやすく声を震わせた。

 

「齋爾様……わたくし、怖いです。一刻も早く物の怪を退けて、わたくしたちをお助けください……」

 

 女好きで名高い齋爾は、やはり、あっさり騙された。己の胸を拳で叩いて、

 

「お任せくだされ、姫様。姫様の身は、私が、必ずやお守り致します故」

 

 その自信は、都を代表する陰陽師であることへの誇りか、それともただの慢心なのか。……まあ、相当な実力者であるのは事実なようだから、役立たずということはないだろう。

 

「よろしくお願いしますね」

「ええ、必ずや。……や、しかし姫は本当にお美しく――」

 

 あーはいはいもういいわよそれは。

 輝夜は耳に意識で栓をして、部屋の縁側を通して遠くの空を眺めた。今日は本当にいい天気だ。真っ青な空で誰にも邪魔されず自分勝手に輝いている太陽が、憎いくらいに羨ましい。

 齋爾への受け答えを傍らの翁に任せて、輝夜は恋しきひきこもり生活へと思いを馳せる。早く戻りたいなあ。そう、ちょうどあそこをぶらついている男みたいに、屋敷の庭をのんびりと散歩して――

 

(――あら)

 

 ふと、気づいた。あれは屋敷の男ではない。ひょっとすると、翁が呼び寄せたというもう一人の陰陽師だろうか。

 

(へー、結構若いんだ)

 

 見た目は二十歳そこら、陰陽師としてはまだ若手だ。案内を務める下男の男と、打ち解けた様子で庭園を見て回っている。

 まさか本当に散歩をしているなんてことはないだろう。今回の件について、屋敷中を調べて回っている途中なのかもしれない。

 

(ふーん、こっちはなかなか真面目みたいね)

 

 物の怪に狙われるといけませんので、使用人の者たちは、最低限のみを残して避難させてください――今回の件について、齋爾がしてくれたことといえばその助言くらいだ。あとはずっと、輝夜の前であーだこーだと熱心に口を動かしているだけ。それに比べれば、あの陰陽師の青年はなんと真面目なことか。

 確か名前は、門倉銀山だったろうか。近頃頭角を現し始めた若手陰陽師らしいが、あくまで齋爾と比べれば、決して名の知れた実力者ではない。

 疑問。

 

(おじい様は、どうしてそんなやつなんか呼んだのかしら)

 

 輝夜からしてみれば、齋爾と同じくらいの実力者を呼んで、さっさと妖怪を退治してもらいたかったのだけれど。それともただ単に名が広まっていないだけで、腕前は折り紙つきだったりするのだろうか。

 いい暇潰しになるだろうと思い、輝夜はその陰陽師を観察してみることにする。

 遠目なのでいまいちよくわからないが、目鼻立ちは悪くなさそうだった。落ち着きのある足取りと、ゆったり構えた物腰で下男と話をする様子は、外見よりもずっと大人びて見える。一方で、時折こぼす笑顔には確かな若さの輝きがあった。

 

(ふうん)

 

 なかなか、好青年のようではないか。――まあ七十点ってとこかしら。ああいうやつが言い寄ってくるんならまだマシなんだけどなあ。こんなじいさんなんかじゃなくて。

 そうやってぼんやり彼の姿を眺めていると、ふと、目があった。

 輝夜の反応は速かった。ふっと微笑む。決して意識したわけではなく、姫としての長い生活の中で身に染みついた、世渡りの癖みたいなものだった。

 そして微笑んでから、失敗だった、と思った。こうやっていきなり微笑んでしまっては、あの陰陽師はすぐに鼻の下を伸ばして、齋爾と似たり寄ったりの有様になってしまう。……なんだかひどい自惚れを言っているようだが、事実、今までの男たちはみんなそうだったのだから仕方がない。あの青年だって外の人間なのだから、どうせ例外ではないだろう。だったら初めから目を合わさずに、彼の姿を遠くから眺めていた方が、まだ暇潰しになっていた。

 

 ――だから彼が、こちらに負けないくらいに、ふわりと柔らかい微笑みを返してきた時。

 輝夜は突然顔に火がついたように恥ずかしくなって、すごい勢いでそっぽを向いてしまった。

 

(……って、なんで私の方が慌ててるのよ!?)

 

 これではまるで、彼の笑顔に照れて逃げ出したみたいじゃないか。

 違う違う。今のはその、意表を衝かれてびっくりしただけなのだ。まさか真正面から微笑み返されるなんて、そんな人間が屋敷の外にいるなんて、夢にも思っていなかったのだから。……まあ、ちょっとくらいはいい笑顔だったのも、認めるけれど。

 ともかく。

 

「どうかされましたか、姫様?」

「いいえ、なんでもないのです……ふふ」

 

 疑問顔になっている齋爾を適当にあしらって、心の中で何度か深呼吸して気持ちを落ち着けて、輝夜は横目で庭へと視線を戻した。

 だが、あの男は既に輝夜のことを見ていない。

 庭の松の枝でチュンチュン鳴く小鳥たちを、微笑ましげに見つめている。

 

(ちょ、)

 

 危うく声が出てしまうところだった。

 かぐや姫、小鳥に負ける。

 

(なんで小鳥ー!? ちょっ、かぐや姫が目の前にいんのよ!? こっち、こっち!)

 

 もちろん目の前には齋爾がいるので、声には出さず、体も表情も動かさず、しかし心の中では全力で叫ぶ。全力で、ちょっとあんたこっち見なさいよオーラをぶっ放す。

 そのオーラに怯んだのか、小鳥たちが慌てた様子で飛び去っていった。それを空の彼方までひとしきり見送って、ようやく彼が輝夜へ目線を戻す。

 

(そ、そうそう。ほら、せっかくかぐや姫の顔が見れたんだから、もっと他に反応あるでしょ?)

 

 断っておけば、齋爾のように鼻の下を伸ばしてほしいわけではない。ただ、天下に名高いかぐや姫と対面したのだから、驚くとか感心するとか、そういう反応をするのが筋というものじゃないか。もしかして、輝夜がかぐや姫だと気づいていないのだろうか。

 彼が傍らの下男に何事か問い掛けたので、輝夜は目を凝らして読唇した。

 ――もしかして、あれがかぐや姫ですか? ――ええ、そうです。――なるほど、あれが……。

 

(そ、そうなのよっ。ほら、私がかぐや姫だってわかったでしょ? だからそこは驚くところよ!)

 

 輝夜が必死に驚け驚けオーラを放つと、彼は次に、こちらに向けて簡単な会釈を送ってきた。唇はどうやら、おはようございます、と動いたらしい。

 虚を衝かれた。

 

(え? あ、どうもおはようございます――って違うでしょ!?)

 

 すぐ我に返って、

 

(挨拶なんかしてる場合ー!? あんたほんとにわかってんの!? かぐや姫がっ、目の前にっ、いるんだってばーっ!!)

 

 立場上、齋爾の話を聞いているふりをしなくてはいけないのが、この上なく歯痒かった。そうでなければ、畳をびしびし叩いて、縁側に飛び出して、全力で怒鳴り散らすところだ。

 彼はまた、下男と何事かやり取りをしていた。輝夜はもう一度読唇した。

 ――……少し、見ていかれますか? ――そうですね。まあ、それもいいかもしれませんけど……。

 

(そ、そうそう。かぐや姫の前なんだから、もっと見ていたいって思うのが普通で――)

 

 ――ですがまだ私のやることが終わってませんし、あとでいいですよ。今は御老体と話をされてるみたいですしね。

 

(そうそう、だからまたあとで、…………え?)

 

 ちょっと待て。もしかして舌を読み違えただろうか。なんだか、自分の予想と百八十度の逆の発言が飛んできたような気がするのだが。

 輝夜が呆然と彼の姿を見つめていると、彼はこちらに会釈をしてまた歩き出した。下男に連れられ、庭のいずこかへ。男の姿が、どんどん縁側の端っこへ移動していく。どんどん輝夜から離れていく。

 

(え? ……ちょっと待ってよ、行っちゃうの? 一目見てそれで終わり? 驚かないの? 感心しないの? もういいの? あ、ちょっと、ねえあの、おーい――)

 

 そんな輝夜の心の声は、当然届くことなく。

 やがて彼はひっそりと、輝夜の視界から消えていった。

 

「――……」

 

 恐らくこれが、自分の今までの人生の中で最も呆然とした瞬間だったと思う。だって、初めてだったのだ。男に、こんなにあっさりと、目の前から立ち去られたのは。

 言葉こそ当たり障りがなかったが、つまり彼の言葉はこういう意味だったはずだ。

 ――かぐや姫にはそれほど興味がないから、後回しでいいよ。

 悔しくはなかった。

 ただ、鮮烈だった。

 

(なんで……? あいつは、私目当てでおじい様の依頼を受けたんじゃ、ないの?)

 

 例えば目の前の男――大部齋爾は、間違いなく輝夜目当てで依頼を受けた。直接聞いたわけではないが、目の色や態度を見ていればそれくらいは簡単にわかる。

 だがあの陰陽師が依頼を受けた理由は、齋爾とは違う。輝夜よりも自分の仕事を迷いなく優先させたということは、つまりそれだけ強い気持ちで、翁の依頼に応えようとしているのだ。

 果たしてそれは、実績を残して名声を得ようとするものなのか。

 それとも純粋に、善意や使命感を以て、輝夜たちを妖怪から守ろうとしてくれるものなのか。

 

(……門倉、銀山)

 

 心の中で呆然と、彼の名を反芻させる。彼が去っていった方をただ眺めて、その姿を脳裏で再生させる。

 もしかして――もしかすると、彼は。

 輝夜が今まで出会ってきた男たちとは、違うんじゃないか。

 

(銀山)

 

 心臓が一度、強く胸を叩いた。

 懐かしい感情だった。懐かしいくらい久し振りに、思った。

 

 ――話が、したい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 齋爾を下がらせるのは、思っていた以上に手間だった。

 なにせ彼は、警護が必要だからと言い張って部屋から出て行こうとしない。輝夜の知らないところで、既に二人の陰陽師の役割分担が決まっていたらしいことが災いした。

 銀山が屋敷の周囲の調査で、齋爾が輝夜の警護。だから、輝夜が「屋敷の調査をして物の怪の狙いを明らかにしてほしい」と――つまりさっさと出てけよと――言ったところで、齋爾は首を縦に振らなかった。屋敷の方はあの小僧に任せておけばいいのですと言って譲らなかった。

 

「齋爾様は、あの方――銀山様を、よほど信頼しておられるのですね」

 

 何気なしにそう問うてみると、能面のようににこやかだった齋爾の表情が初めて崩れた。浅く眉根を詰め、咎めるように、

 

「姫様、気味の悪いことを仰らないでください」

「……はあ」

 

 違うのだろうか。銀山のことを信頼しているからこそ、彼に屋敷の調査を任せたのでは。

 齋爾は首を横に振る。

 

「私は、あの(わっぱ)を信頼してなどいません。欠片ほども」

「……なら」

 

 ならどうして齋爾は、銀山に屋敷の調査を任せたのか。

 まさか、輝夜に会いたいがためだけに、面倒な仕事をすべて押しつけたとでもいうのか。もしそうだとしたら、いよいよ「出てけ」の一言くらい、吐き捨ててやりたくなってくる。

 輝夜は無言で齋爾の答えを待つ。齋爾は少しの間、言葉を考える間を見せてから、無感動な声で言った。

 

「信頼などではなく、ただ事実として――この程度のことが任せられないほど、やつも童ではない故」

「……」

 

 少し、意表を突かれた心地だった。輝夜は齋爾の言葉を吟味し、わざと無感動を装った言葉の奥に隠れた感情を推測して、それからつい、笑ってしまった。

 不可解そうに顔をしかめた齋爾に、軽く詫びる。

 

「申し訳ありません、齋爾様。……でもわたくしは、それこそが信頼するということなのだと、思います」

「……」

 

 齋爾は今にも舌打ちの一つでも吐き出しそうなくらいだったけれど、反して輝夜の心は愉快だった。ちょっとは面白いところもあるじゃないと、そう思ったのだ。大嫌いだけど。

 とはいえこれ以上一緒の部屋にいるつもりなんてさらさらなかったので、輝夜はまず適当(・・)な理由をつけて、部屋をあとにした。もちろん、齋爾にはついてくるなと三回ほど釘を刺した上で。

 そして、満面の笑顔で逃げ出した。

 

「あー! やっぱり私は、一人でやりたいことやってる方が性に合うわー! 誰かと堅苦しいお話なんて真っ平御免!」

 

 蒼い宝石みたいな空に向かって叫ぶと、疲れも吹き飛んでいくようだった。裾の長い着物を着ているにも関わらず、どこへ向かうでもなく庭を横切る両脚が、無意識のうちにスキップを刻む。

 

「あれ? 姫様、今は陰陽師の方と面会なさっていたのでは?」

 

 すれ違った女中が輝夜を見て目を丸くした。輝夜はヒラヒラと片手を振って、その話題はもう御免だとばかりに早口で答えた。

 

「あーいいのよあんなのおじい様に任せておけば」

 

 翁を含め、この屋敷で働いている者たちは、輝夜が素の自分を見せることができる数少ない相手だ。だからこの屋敷の者たちは、普段の輝夜がどれだけ猫被りで、本当の輝夜がどれだけずぼらであるかを知っている。

 事情を察した女中は眉を下げて、苦笑した。

 

「姫様、あまり造様を困らせてはいけませんよ」

「いいじゃない。おじい様も私がああいうの嫌いだってことくらい知ってるだろうし、適当に合わせてくれるわよ」

「ですが……」

 

 不安げに周囲を見回すと、女中は声を曇らせ、

 

「……今は、物の怪がいつまた忍び込んでくるか知れません。あまりお一人で動かれては危ないですよ」

「……そうねえ」

 

 その言い分はもっともだ。今はどうしようもなく一人で好き勝手に散歩したい気分なのだが、妖怪に襲われてから後悔したって遅い。本当に面倒なことだった。

 

「でも、大人しくしてたらあのじいさ――齋爾サンにまとわりつかれるからヤなのよねえ。あいつ、私狙いって欲が丸見えだし」

「なら、もう一人の陰陽師の方に会われてみてはいかがです?」

 

 あ、と輝夜は小さく声をもらした。そうだ。齋爾から解放された喜びですっかり忘れていたが、輝夜が部屋を抜け出した理由は、あいつを捜し出して話をするためでもあったのだ。

 女中は庭の西側を指差した。

 

「今しがた、あちらの方を歩いているのを見かけました。姫様、あの方――ええと、そう、門倉様にはもう?」

「や、まだだけど――」

 

 正確に言えば、既に顔を合わせてはいる。ただあれは、きっと、『会った』のうちには入らないのだろう。

 女中が微笑んだ。

 

「なら是非。あの御方はどうやら、今まで姫様がお会いになってきた貴族の方たちとは、少し違うみたいですよ」

「違うって……」

「私も女ですから。女を狙う男の目というのは、一目見ればわかります」

 

 それは輝夜にもわかる。なんというのだろう……まとわりつくというか、舐められるような。そんな、気味の悪い目だ。

 

「でもあの方の目は、とてもまっすぐなものだったように思います。姫様や、或いは報酬や、名声……そういったものに関係なく、真摯な気持ちで、私たちを助けようとしてくれているのではないかと」

「……」

 

 ……そうなのだろうか。

 けれど輝夜には、屋敷の外にそんな男がいるなんて想像もできなかった。みんな、こちらの体を狙う不埒者ばかりなんだと思っていた。決めつけかもしれないが、それなりの経験に基づいてもいた。

 この屋敷の手伝いたちは、翁が自ら厳選した、輝夜に対し下心を持たない清らかな者たちばかりだ。翁は人の本質を見通す聡い目を持っているが、それでも集めるのに何ヶ月とかかった。

 輝夜の美貌は、それだけ多くの男を魅了するのだ。

 

「ほんとかしら」

「どうでしょう……でも私は、姫様よりも少しばかり長く、女をやっていますから」

 

 輝夜は曖昧に笑った。失笑だったのかもしれない。実際は輝夜の方が、少しばかりどころか、比べるのも馬鹿らしくなるくらいに長く女をやっているのだから。

 それは胸の奥にしまったままで、輝夜は屋敷の西側を見た。あの陰陽師の姿は、ここからでは見えないけれど。

 

「そうね……じゃあ、ちょっと会ってみようかしら」

 

 話がしたい、という感情が、輝夜の心を再び熱くする。あんた何者? なんでおじい様の依頼を受けたの? てかあのかぐや姫が目の前にいるんだからなんか言いなさいよこら。そんな感じの言葉が次々浮かんでは消えていく。

 その輝夜の背を、女中が優しく押してくれた。

 

「それがいいと思いますよ」

「そう。……よし、わかったわ」

 

 拳を握り、

 

「会ってやろうじゃない! その門倉銀山ってやつに!」

「呼びましたか?」

「ぎゃああああああああ!?」

 

 そしていきなり背後から男の声が飛んできたので、輝夜は心臓を吐き出しそうになりながら前へとつんのめった。

 慌てて立ち上がり、振り返る。すると思っていたよりも近くに男の姿があったので、またびっくりして、今度は尻もちをついてしまった。

 いた。あの時、屋敷の中から見た陰陽師が。

 門倉銀山が、すぐ目の前に。

 

「なっ、あ――」

 

 驚いた。本気で驚いた。頭の中が真っ白になった。すっからかんだ。なにをすればいいのかわからない。なにも頭に浮かんでこない。あれだけ話をしたいと思っていたはずなのに、準備していた言葉が全部悲鳴と一緒に外に飛び出して虚空に消えた。

 数秒の、静寂があって。

 それからようやく頭が再起動を始めて、輝夜は自分の状況に気づくことができた。いけないと思って、とにかくなにかしないとと思って、頭をフル回転させて、でもなにも妙案が浮かんでこなくて、こうなったらもう反応を返せるならなんでもいいやと自棄になって、一切の思考を諦め、体が動くままに行動した。

 その結果、

 

「――いきなりおどかすなバカアアアアアアアアッ!!」

「ぐっ」

 

 動いたのは拳。堰を切って出てきた言葉は、品とは無縁の大絶叫。

 輝夜渾身の正拳突きが、銀山の鳩尾を的確に打ち抜いた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 笑われた。

 大笑いされた。

 

「――アッハハハハハハハハ!! そうかそうか、あのかぐや姫がこんなにぐっ」

 

 それが体が焼けるくらいに恥ずかしかったので、輝夜はもう一撃銀山に正拳突きを叩き込んだ。地面に倒れて物言わぬ屍となった男を、輝夜は顔を真っ赤にして怒鳴り散らす。

 

「あ、あんたねえ! この私を笑うなんていい度胸じゃないの、張っ倒すわよ!?」

「ひ、姫様落ち着いてっ。もう張っ倒してますっ」

「ええい放しなさいっ。もう一発、もう一発殴らないと気が済まないわっ」

 

 女中に後ろから羽交い締めにされながら、輝夜はその場で地団駄を踏んだ。どうしてだろう、どうしてこんなに恥ずかしいのだろう。別に、猫を被っているのがバレる程度なら恥ずかしくもなんともないはずなのに。実際、この屋敷の使用人たちへは、そうやって自分の本当の姿を打ち明けてきたのに。

 それがなぜか、今はすごく、恥ずかしい。

 向こうにいるはずの銀山がどうしていきなり背後から出てきたのかといえば、輝夜が女中と話している間に、庭をぐるりと回ったきたかららしかった。案内役の下男が、動かなくなった銀山を「門倉様ー!?」と必死に揺さぶっている。

 

「いっつつ……ここまでいい一撃をもらったのは久し振りな気がするなあ」

 

 掠れ声で呻き、銀山が腹をさすりながら体を起こした。三回くらい咳き込んで、それでもまったく痛がってなさそうな顔をして、

 

「そんじょそこらのゴロツキよりもよっぽどいい腕っ節してる」

 

 もう一回殴るべきだろうか。だが女中がしぶとくこちらを羽交い締めにしているので、しぶしぶ諦めることにする。

 この距離で銀山と顔を合わせるのは初めてだった。改めて見てみるが、やはり目鼻立ちは悪くない。女性を魅了する甘いつくりではないが、代わりに人を安心させるような優しい整い方をしている。目を合わせているだけで、あれだけ暴れ回っていた輝夜の心が毒気を抜かれるようだった。

 下男に支えられて立ち上がった銀山は、よそ行きの笑顔で会釈をした。

 

「おはようございます、姫」

「え? あ、うん、おはよう――って」

 

 またそれか。

 

「どうしてこんなところに? 齋爾殿と話をされていたのでは?」

「や……抜け出してきたのよ、退屈だから。――って、だから、」

 

 だからあんた、もっと他に言うべきことが、

 

「それはそれは……。しかし今は状況が状況ですからね、あまりお一人では動かない方がいいと思いますよ」

「う、うん、そうよね。だからさ、」

 

 あのかぐや姫が目の前にいるのに、

 

「でしたら、なるべく早く齋爾殿のところに戻ってあげてください。あれでも腕だけは確かですから」

「あの、ちょっと」

 

 なんでそんな、そのへんの女中を相手にするのと同じような態度で、

 

「では、私は行きます。まだ屋敷の調査が終わってませんので」

「――」

 

 ――ぷつん、と来た。

 なにかが切れた。それがいわゆる堪忍袋と呼ばれるものだったのかはわからないし、この際どうでもいいと思った。心の中がざわざわと波立って、顔には無意識の笑顔が浮かぶ。銀山を先導しようとしていた下男が、頬を引きつらせてあとずさりする。輝夜を羽交い絞めにしていた女中が、ひっ、と短い悲鳴を上げて離れていく。自由になった輝夜は、踵を返そうとしていた銀山の手首を引っ掴み、強引にこちらを振り向かせた。

 

「おっと。……どうしました?」

 

 かぐや姫の方から触ってもらえたというのに、銀山はやはり顔色一つ変えない。それが、輝夜の神経を余計に逆撫でした。

 語気は強く。

 

「私もついてくわ」

「は? いや、しかし」

「あいつのとこには戻りたくないのよ。だからいいでしょ?」

 

 掌に霊力を乗せ、彼の服をしわくちゃにするくらいの握力で。

 美しすぎて怖気を振るう、素敵な素敵な笑顔をたたえて。

 

「あんたと一緒ならとりあえず身の安全も確保できるし。屋敷調べながらでいいから話し相手になってよ。暇なの」

「ですが――」

 

 ギリギリ。

 

「いいわよね?」

「いや、その」

 

 ギリギリギリギリ。

 

「……ね?」

「……」

「ね?」

「…………」

 

 ギリギリギリギリギリギリギリギリ。

 このまま負けられるかと思った。銀山の頭の中では、輝夜も屋敷の女中も、みんなが同じ『女』という括りで完結してしまっている。認めるわけにはいかない。輝夜は確かに女だが、そんじょそこらの女たちとは一味違う、特別な女なのだ。それを思い知らせてやらねばと思った。

 かぐや姫として持て囃されるのは嫌いだが。

 他の女たちと同じように扱われるのも、それはそれで、気に入らない。

 そんな微妙なお年頃の、輝夜なのだった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 屋敷の庭は、多くの使用人たちが外に避難したため、普段以上の静けさに包まれていた。警固の男たちすらいなくなった庭で、ただ蝉だけが、いつもと変わらず元気に鳴き続けている。

 輝夜はまず、私が案内するからいいとか適当にそんなことを言って、下男と女中を下がらせた。不用心かもしれないが――否、不用心だからこそ、銀山がどんな男なのかを見極めるチャンスだと思った。例えば人の目があるところでは真面目を装っているが、輝夜と二人きりになった途端に――なんて話は、ありえないとも言い切れない。

 けれども銀山は結局、輝夜が呆れてしまうくらいの仕事真面目だった。居心地が悪くならない程度にぽつぽつと話は振られるが、それだけ。不審なところはないかと熱心に周囲へ目を配るばかりで、輝夜の方などほとんど見向きもしてくれない。あのかぐや姫と二人きり、となればどんな男だって調子づくはずなのに。いよいよもって、私ってばなんの興味も持たれてないんだなあ、と実感してしまう。

 これが陰陽師として正しい姿なのだと、わかってはいる。陰陽師にとって人からの依頼はとても大切なものだから、それをそっちのけにして女に現を抜かすのは阿呆がすることだ。つまり齋爾は阿呆だ。

 ともかく。

 そうとわかってはいても納得はできなかったし、悔しかった。だが同じくらいに鮮烈でもあった。

 

「……あんたは、どうしておじい様の依頼を受けたの?」

 

 仕事の邪魔だと思われるかもしれないから、立ち入った話をするのは躊躇われたけれど。

 

「あのおじいさんみたいに、私目当て……ではないのよね」

 

 それでも訊きたい。銀山が、今こうしてこの屋敷にいる理由を。

 だが銀山は、庭に目を光らせるばかりで答えてくれなかった。よほど集中しているのか、それとも。

 

「……」

 

 無視されるというのは、初めての経験だった。この世界では――そして向こうの世界にいた頃だって、輝夜の回りにはいつも誰かがいて、話を無視されるなんてことはなかった。

 だからだろうか……少しだけ胸が痛いのは。

 

「……」

 

 でも、不思議だ。例えば齋爾のような男に無視されても、きっと輝夜はなんとも思わない。いいわよそっちが無視するなら私も無視するから、とそれだけ思ってすぐに気にしなくなるだろう。

 けれど、なんだか、銀山に無視されるのは、すごく気に入らない。

 

「ねえ……」

 

 無視、しないでよ。

 声はまた届かなかった。銀山は庭の隅に広がる池の方へ歩いていく。離れていく彼の背中に、また胸が痛む。

 

「ねえ……!」

 

 嫌だ。

 なんだかよくわからないけれど、これは、嫌だ。すごく嫌だ。

 だから輝夜は、彼の背を追った。

 

「ちょっと……!」

 

 もう、無我夢中で、

 彼の腕を掴んで、力いっぱい、

 

「無視……しないでったらっ!」

 

 振り返らせる。腕の力だけではなく、全身を使って、勢いあまって銀山と一緒にたたらを踏んでしまうくらいに。

 なんとか踏みとどまって、輝夜は銀山の顔を見上げた。深い黒真珠の瞳が、少し驚いた様子でこちらを見下ろしている。……ふと、その瞳が随分と近い距離にあることに気づいた。

 ただ、腕を掴んだだけのつもりだったけれど。

 輝夜はどうやら、銀山の腕に、抱きついてしまったらしい。

 

「あ……」

 

 頭の中がからっぽになる。どこか遠くで、この状況はまずいと誰かが囁いてる気がしたが、その声が輝夜の意識を呼び覚ますことはなかった。

 今この場に輝夜と銀山以外の人の目がなかったのは、恐らく神の図らいだろう。

 

「ええと……なにか?」

「ッ……!」

 

 少し困惑した声でそう問われて、輝夜ははっと我に返った。

 反射的に飛び出すボディーブロー、一発。

 

「ぐふっ……」

「あっ」

 

 いや、正確には、銀山のくぐもった声を聞いた今この瞬間になってようやく、我に返ったのだろう。しまった、またやっちゃった。

 呻く銀山の背中を優しくさすってやる。

 

「ご、ごめん。大丈夫?」

「え、ええ……」

 

 銀山は、今度は少し痛そうな顔をしながら、

 

「なんでしょう。私、姫に殴られるようなことをしてますか」

「……ええと」

 

 輝夜は目を逸らした。さすがに殴ったのは、やりすぎだったかもしれないけれど。

 だが輝夜だって、一回目は思いっきりおどかされたし、二回目は思いっきり笑われたし、今回は思いっきり無視されたのだ。殴るのはさておき、文句を言う権利くらいはある。

 

「だから、無視しないでよって言ってるの」

「おや……申し訳ない、こっちに夢中で気づいてませんでした」

「……随分と熱心にやってたわね。なにか気になることでもあるの?」

 

 問えば、銀山は苦笑し、

 

「いや……ないからこそ真剣に、といったところですね」

 

 つまり、手掛かりが一つも見つからないから頑張って探している段階らしい。

 

「ふうん、そう簡単には行かないのね」

「恐らく、自分の足跡をしっかり払ってあるんでしょう。ただの馬鹿が興味本位で入り込んだわけではないみたいですね」

 

 そう言い銀山が向かったのは庭に広がる池だ。この屋敷は都の水源となる川に近い場所にあるので、そこから直接水を引いている。

 

「……ここがどうかしたの?」

「いえ、まだよく見ていなかったので」

 

 銀山は小石で作られた池のへりに立ち、膝を折って水底を見つめた。なんとなく輝夜もその隣に立って、同じように水の中を覗き込んでみる。透き通った水と、その中をのんびり泳ぐ鯉と、水底を埋め尽くす抹茶色の藻類。もちろん、輝夜にはなんの変哲もない池にしか見えない。

 

「どう?」

 

 ふむ、と銀山は息をつき、

 

「やっぱり鯉がいますね。綺麗です」

「……ねえ、突き落としていい?」

 

 輝夜が銀山の肩に手を掛けながら微笑むと、彼はすぐに「冗談ですよ」と軽く笑って、

 

「……」

 

 だがその瞳には、笑みとはまた異なる別の感情が宿っているようだった。口元には笑みの影を残しながら、それでいて瞳は睨むように、まっすぐ水底を見据えている。

 

「……なにかわかったの?」

「そうですね……」

 

 銀山は輝夜の問いに答えないまま、突然立ち上がって踵を返した。

 また無視か。だが輝夜もめげずに彼の背を追う。

 

「ちょっと」

「姫。姫の知人に、最近になって水難で亡くなった方はいますか」

「え……すい?」

 

 すいなん。いきなりの問い掛けだったので、その単語が上手く頭の中で変換されない。

 それを機敏に察した銀山は、すぐに言葉を言い換えた。

 

「水の事故です。川で溺れた、或いは船を出して嵐にあった……とか」

「え、ええと……」

 

 銀山の言葉は静かだったが、言い逃れを許さない強さがひそんでいるような気がした。急かされるように輝夜は考える。だが、内陸にあるこの都ではそんな話を聞く方が稀だ。あまつさえ屋敷に引きこもっている輝夜に、心当たりなどあるはずが――

 

「……あ」

 

 ――ないと、その時は思っていた。

 けれど直後、脳裏である人物の名が閃く。数ヶ月前、輝夜のもとに婚姻を求めてやってきた五人の貴族たち――その中の、一人の名が。

 しかし輝夜は、その名を口にはできなかった。銀山が突然足を止めた。つられて輝夜も立ち止まる。彼は眉間に薄っすらと険を刻んで、じっと己の足元を睨みつけている。

 初めはなんだかわからなかった。けれどすぐに、輝夜も“それ”を感じた。

 地面の奥――深い深い地下から、

 なにかが、

 

「姫!」

「え、――きゃあ!?」

 

 銀山に強く腕を引かれ、突然抱きかかえられた。視界が回転する。雲一つない青空が視界いっぱいに広がる。背筋が寒くなるような浮遊感が体を包んでいる。空を飛んでいるのか、見慣れた庭の地面が、いつもより随分と遠くに見えて、

 

 直後、その庭が一瞬で水の中に沈んだ。

 

「――!?」

 

 一瞬で、だ。空の青をすべて水に変えて瀑布にしたような。そう錯覚するほど圧倒的な水量に、広大な庭園が一瞬で水の中に消えた。

 

「……え?」

 

 いつしか体を包む浮遊感は消えていた。近くに建てられていた小舎の屋根の上にいる。だが輝夜の意識はそこまで回らない。動かなくなった両手で銀山の襟を掴んだまま、呆然と、

 

「――え?」

 

 理解が追いつかない。なにが起きた。これはなんだ。自分が見ている世界は本当に現実か。見れば、築地塀(ついじべい)の半分以上が水中に消えている。ということは、輝夜がこの水の中に入れば、ひょっとして足が底につかないかもしれない。それだけの水が一瞬で満ちた。

 傍らから声が来た。

 

「……やられましたね」

 

 低く重い、ため息の音。

 

「まさかこんな昼日中からやってくるなんて……随分と威勢がいい」

「ねえ……なによこれ、」

 

 輝夜は虚ろな声で問うた。

 

「なんでこんな……なにが……」

 

 ようやく――ようやく目の前の光景に理解が追いついて、しかしだからこそ現実として認めることができなかった。箱入り娘として育てられた輝夜が咀嚼するには、この光景は常軌を逸しすぎていた。とても恐ろしいことが起こったのだと漠然と感じても、震えることすらできない。

 銀山の答えは粛々としていた。

 

「私が先ほど姫にあのようなことを問うたのは、池に妙な気配が混じっていたのに気づいたからです。本当にかすかでしたが、私たちの間では残留思念と呼ばれるものでした」

「残留、思念」

「人の強い思いが念となって特定の場所に留まること。……特に水などの液体は、比較的残留思念を遺しやすいですから、向こうも完全には払いきれなかったみたいですね」

 

 それはつまり、昨夜この屋敷に入り込んだ物の怪の思いが、遺っていたということ。

 なら、

 

「思い、って」

「……」

 

 銀山はすぐには答えなかった。瞳の色を闇のように濃くして、深く水面の奥を見据えた。そこに紛れてひそむ何者かを、見極めるように。

 

「……本当にかすかでしたから、読み取れた言葉は断片的です」

 

 札を抜く。

 紡ぐ言葉は鋭く、

 

「龍と」

 

 強く、

 

「嵐と」

 

 静かに。

 

 

「――姫」

 

 

 音は、なかった。音もなく輝夜たちの見下ろす水面が波立ち、奥から一つの人影が浮き上がってきた。

 頭――肩――腰――脚――。そうしてその者は、足場などないはずの水面の上に、現れた。

 

「――ッ!」

 

 輝夜は息を呑んだ。そしてそのまま、すべての動きを忘れて凍りついた。

 脳裏に、銀山から告げられた言葉が響く。

 

 龍。

 

 知っている。

 

 嵐。

 

 輝夜は、知っている。

 

 姫。

 

 この男の名を、知っている。

 

「――あな、たは」

 

 今より数ヶ月前、輝夜との婚姻を求めて、この屋敷に五人の貴族たちが訪れた。熱心に愛を叫ぶその者たちに、輝夜はそれぞれある宝物を持ってくるように提示した。それを手に入れることができない限り、婚姻は受けないと。

 遠回しに、結婚はしないと、そう伝えたつもりだった。貴族たちは所詮、輝夜の体、或いは財産、或いは地位にしか目を光らせていない、偽りの愛を叫ぶ者たちばかりだったから、果たしようのない難題を押しつければ、すぐに諦めて引いてくれると思っていた。

 けれど貴族たちは引かなかった。達成できるはずもない難題を成し遂げるために、自分たちにできる限りの手を尽くしたのだ。

 

 ――そしてその中で、不幸にも、一人だけ不帰の客となった男がいる。

 

『龍の頸の玉』の難題を受け、

 船を出した先で嵐に襲われ、

 二度と輝夜と会うことなく、海の藻屑と消えた男がいる。

 

『……お久し振りです、姫』

 

 その男が、

 

『姫のため、黄泉の世界から舞い戻って参りましたぞ』

 

 死んだはずの男が、

 

 

『――お元気でしたか?』

 

 

 輝夜の目の前で、笑っていた。

 輝夜の体にまとわりつく、隅々まで舐め回すような目で、笑っていた。

 

 蝉の鳴き声がやんでいる。

 ただ、ひたりと。

 濁った水が滴る、音がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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