銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色

26 / 160
竹取物語 ⑧ 「あめやさめ」

 

 

 

 

 

 幸せの絶頂、なんて言ってしまえば途端に陳腐になる気がするけれど。

 でもまあ、結局のところは、そうだったんだろうなあと輝夜は思う。翁が上手く便宜を図ってくれたこともあって、毎日とまではいかなかったが、週に何度かは、輝夜は銀山と会うことができた。

 もう、銀山と会うためだけに毎日を生きているようなものだった。銀山と一緒に過ごせる時間はそれだけ至福で、また独りで過ごす時間はそれだけ無為だった。きっと輝夜は、銀山が隣にいてくれなければ、もう上手に生きていくことはできないのだろう。そう思ってしまうくらいに彼を好きになるまで、さほど時間は掛からなかった。

 もちろん、この幸せが永遠に続くと思っていたわけではない。銀山との時間を重ねれば重ねるだけ、いつかは終わりがやってくるのだという悪魔の囁きが、脳裏を掠めるようになった。たとえ毎日を平穏無事に過ごし、たとえ輝夜が銀山と添い遂げられたとしても。絶対的な寿命の差――銀山の死という形を以て、終わりは必ず訪れる。

 わかっている。

 でもそれは、少なくとも、まだ先にある未来のはずだから。

 だから今は、この幸せに酔ってしまっても、いいんじゃないか。

 向こうの世界で罪を犯し、この世界にやってきたのは、きっと銀山に出会うためだった。彼に出会うために、輝夜は最初から、この世界に堕とされる運命だったのだ。

 だから、今だけはこのままでと――そう、思っていたのに。

 夜は凪いでいた。闇が落ちきり、静寂が広がる世界の中で、輝夜は人知れず紅涙を流した。星空に大きく孔を空けた、皓々と輝く白い月を、見上げて。

 どうして――どうしてよりにもよって、今なのだろうか。これ以上ないくらいに幸せで、そしてこれからも、もっと幸せになっていくはずだったのに。輝夜の想いを引き裂くように現れた魔の手は、現実として語るにはあまりに、御伽話じみていた。

 笑ってしまうくらいに。

 

「……ギン」

 

 縋るように彼の名を呼んでも、ただ胸が痛むだけだった。月の光は、もうどこにも逃げられないほどに強すぎた。

 月の声が聞こえる。

 

「……帰りたくない」

 

 輝夜はかつての故郷で大罪を犯し、この異国の地へと堕とされた。もしそれが、銀山に出会うための運命だったというならば。

 知らないうちに刑期を終え、元の世界へと帰る――銀山と別れ幸福を引き裂かれることが、また一つの(あがな)いだとでも、いうのだろうか。

 初めから、こうして別れるためだけに。

 私はギンと、出会ったのか。

 

「帰りたくないよぉ……!」

 

 悲嘆の声は、何者にも届かない。何者にも届かないまま、夜空の向こうで月に呑まれ、消える。

 涙を流す輝夜を、まるで見捨てるように。

 世界はどこまでも、凪いでいた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 このところ、月の様子がおかしい――というのは、都に住むものならば誰しもが耳に挟んでいる噂話だった。

 否、それは既に噂話ではない。紛うことなき現実として、連夜、都の者たちを様々な感情の坩堝へと陥れていた。

 それを、当たり前のことだろうと銀山は思う。今まで見たこともないくらいに月が大きく輝いていて、しかも日を追うごとに更に巨大化していくのだとなれば、見て見ぬふりをできる人間などいはしない。

 大きすぎる月は息も忘れるほどに神秘的で、そして行き過ぎた神秘は、人々の心に恐怖を生みつけた。天変地異の前触れ、或いは物の怪の仕業だと、声高に叫んだのは誰だったか。下町から広がった動揺はやがて都全体に伝染し、看過できぬものとなり、現在では、陰陽師たちに調査を命じるお触れが、都から出されるまでに至っていた。

 とはいえ、

 

「調査っつっても、なにをすりゃあいいんだかなあ」

 

 秀友が銀山の家にやってきてこぼした愚痴は、あまりに的を射ている。このところ月がおかしいのは物の怪の仕業かもしれないので、早急に原因を突きとめるように――などと言われたところで、一体なにをどうすればいいのか見当もつかない。『日に日に巨大化していく月』は、異常が起きている証拠としては充分でも、原因を特定する手掛かりとしては弱すぎた。

 結局、どの陰陽師もそれらしい成果を上げられないまま、無為のままに一週間が過ぎた。そしてその間も、月は目に見えて大きくなり続けていた。昨夜の月は、もう両の掌にすら収まりきらないほどだった。

 

「うあー、やってらんねー……」

 

 秀友が、やる気の欠片も感じられない声でそう吐き捨てて、床の上で大の字になる。お触れが出てからというもの、彼がこうして昼間に銀山の家を訪れ愚痴をこぼす頻度は、傍迷惑なくらいに増えていた。

 

「月が大きくなってる原因なんてなあ。そんなの、たったそれだけじゃあ、わかるわけねえだろって」

「それはまあ、同感だね」

 

 銀山も、月が日に日に大きくなっていく原因はわからない。そもそもこれが物の怪の仕業だと確定しているわけではないし、そこをはっきりさせられない以上、陰陽師ができることなど高が知れていた。一寸先も見えない暗中模索の現状に、秀友のように匙を投げている陰陽師も少なくはない。

 それでも未だ多くの陰陽師が原因解明に精を出しているのは、都が提示した多額の報酬故だろう。一生とまではいえないが、当面は悠々自適に暮らせるほどの額で、銀山も初め聞いた時は「おっ」と思った。もっとも、お金にはそれほど困っていなかったので、すぐに興味を失ったが。

 なので月見は、こう思う。

 

「私は、今の月の姿をもっと楽しんだらいいと思うけどね。とっても綺麗じゃないか」

 

 大きすぎる月に恐怖を抱く者も少なくはないが、それは単に、未知のものを受け入れようとしない心の狭さ故だ。先入観を捨てた純粋な心で夜空を見上げれば、まるで世界と一つになれるように気持ちがいいことを、果たしてどれだけの人間が知っているのか。

 まあそんなのは、銀山の正体が妖怪だからなのかもしれないけれど。

 

「あんな月の前で一人のんびり月光浴してるようなやつなんて、お前くらいなもんだよ……」

 

 秀友から、すっかり呆れ返った半目を向けられる。

 

「あーあ。オレもお前を見習って、雪さんと月を見ながら愛を語り合いたいもんだぜ」

「じゃあそうすればいいだろうに」

「うーむ。でもなあ、金も欲しいんだよなあ。雪さんと一緒に暮らすんだったら、やっぱりちゃんとした一軒家がいいし……。ほら、今のオレの家って借家だろ? しかも一人用」

 

 確かに、今回の報酬を受け取ることができたら、家くらいは簡単に建てられる。ひょっとしたら、貴族たちが住んでいるような豪邸すら可能かもしれない。

 

「やっぱり最低でも、このくらいの家は建てたいよな」

「では、頑張って調べて回ってくれ。私はお金には困ってないしね」

「ちくしょー!」

 

 秀友が床を転げ回って喚く。

 

「さっすが、若手で一番成功してる優秀な陰陽師様は言うことが違うねー! 嫌味かこのヤロー!」

「事実だよ。私はほとんどの稼ぎを酒と恋人に注ぎ込んでる誰かとは違って、金の管理はちゃんとしてるんだ」

「ぐぬう」

 

 もっとも、若手の中ではまずまず成功している方なのも事実なのだろう。竹取の翁から渡された報酬は、あまりの多さに受け取るのを躊躇ってしまうほどだった。

 うだー、と情けない声を上げて、秀友が体を起こした。頭を掻いて、ふとしたように、

 

「そういやお前、まだ姫様とは密会してんの?」

「密会言うな。……月がおかしくなってからは会ってないね」

 

 いや、都の連中に気づかれないようにこっそり会っているのだから密会なのだろうが、ともかく。ちょうど月に異常が出始めた頃を境に、輝夜の屋敷を訪ねても、門番が静かに首を振るようになった。

 

「なんでも、具合が悪いらしいよ」

「お? 風邪でも引いたんか?」

「いや」

 

 同じ質問を、銀山も門番に尋ねている。門番曰く、風邪ではないけれど、あまり元気がない様子なので休ませてあげてほしい、とのことだった。あのお転婆娘が落ち込んでいる姿というのは想像できなかったが、特に食い下がる理由もなかったので、それ以降彼女には会っていない。

 

「ふーん。お前、なんか姫様を傷つけるようなことしたのか?」

「まさか」

 

 最後に会った輝夜はいつも通りのお転婆な輝夜だったし、別れる時も「また来てね!」と満面の笑顔だった。

 

「なんかあったのかねえ」

「そうかもしれないね」

 

 或いは、月の巨大化となにか関係があるのかもしれない――と勘繰るのは、深読みしすぎだろうか。けれど、輝夜が元気をなくしたのと、月の巨大化が始まったのがちょうど同時期なのが、なんとなく気にかかる。

 窓を通して空を眺める。夕暮れが近づき、青から赤へと色を変える途中の空だ。太陽とは逆の方角に、雲に溶け込むようにして白い月が浮かんでいる。太陽よりも一回りも二回りも大きくなった月は、やがて夜空に白い孔を空けるだろう。

 

(一体、なにが起こってるんだろうね)

 

 今の月の姿をもっと楽しめばいい、と先ほどは言ったが、一方でこの異常の原因がまったく気にならないわけでもない。妖怪としてそれなりに長い時間を生きた『月見』でさえ、ここまで大きな月を見上げるのは初めてのことだ。神秘的で美しいのは大変結構だけれど、このままなにも起こらないとは到底思えない。

 

(紫なら、なにかわかるんだろうか)

 

 この都で生活を始めるより前に、ともに旅をしていた少女のことを思い出す。『境界を操る』という類稀な能力を持つ彼女は、境界を視ることで、通常では知り得ないあらゆる事象を見通すことができた。彼女ならば、この月を前にしてなにか感じているところがあるかもしれない。

 だが銀山と彼女は今は別行動中で、こちらから連絡を取る手段はない。たとえ彼女がこの異常の原因を知っていたとしても、銀山にはどうすることもできなかった。

 と、ふいに、銀山の思考を妨げる物音。家の戸が、控えめにではあるが二度、ゆっくりと叩かれた音だった。

 誰かと思って表に出てみれば、戸を叩いたのは貴族からの遣いであり。

 そして、差し出された手紙は、

 

「……」

「誰からだったよ?」

 

 家の中に戻った銀山は、秀友の問い掛けに、浅く肩を竦め返した。それだけで、長い付き合いである彼には伝わったようだった。

 なにも言わず歯を見せて笑う秀友に、銀山もまたなにも言わず、苦笑する。

 差出人は、讃岐造。堂に入った季節の挨拶から始まるその手紙は、あいもかわらず冗長だったが、要点をまとめればやはり内容は簡潔だった。

 

 ――輝夜に、会ってあげてほしい。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 すべてを話そうと思った。自分のことを、すべて、銀山に話そうと。

 初めてのことだった。こちら側の世界で、輝夜が何者なのかを本当の意味で知っている人間はいない。翁ですら、輝夜のことを、『この世界の人間』だと思い込んでいる。それでいいのだと思っていたし、これからもそうあるべきだと思っていた。けれど、あの大きな月が空に孔を空けて初めて、輝夜はこのままでは嫌だと思った。

 このままなにもかもを隠したままで、銀山と別れるのは、嫌だった。

 恐怖心はあった。すべてを打ち明けた時、一体銀山がどんな反応をするのかは想像ができない。銀山ならきっと受け入れてくれる気がするし、一方で、信じてもらえなくて、避けられてしまってもなんら不思議じゃないとも思う。二つの未来が輝夜の中でせめぎ合って、心を締めつけてくるようだった。

 絶対に打ち明けなければならない理由なんてないはずだ。なにも話さず、なにも知られないままこの世界を去る。銀山に避けられる可能性を考えれば、そっちの方がよっぽど無難なはずだった。

 けどそれでも、嘘をついたまま銀山との最後を迎えるのは、嫌だと、思ったから。

 この日も、夜は凪いでいた。庭の一角にある池の畔で、輝夜はただ張り詰めた顔をして、水面で揺られる水月を見下ろしていた。

 銀山を待つ間の時間は、首にかけられた縄が少しずつきつく締まっていくような心地だった。ただ息をするだけのことがとても苦しくて、泣いてしまいそうで。待つだけでこれなのだから、銀山の顔を見てしまったら、本当に泣いてしまうんじゃないかと思った。

 それでもいざ顔を合わせてみれば、やあ、と銀山が微笑んでくれた途端、あっという間に首を縄が解けて、こっちまで笑顔になってしまうのだから。

 これが惚れた弱みかあ、と輝夜はしみじみ思うのだ。

 輝夜の隣に、静かに銀山の影が並ぶ。

 

「具合はいいのか?」

 

 久し振りに見る銀山の姿は、強すぎる月明かりに照らされて、ぼんやりと白く揺らめいていた。銀山だけではない。屋敷も庭も、輝夜自身も、今宵はすべてのものが白で染め上げられている。それは現実とは思えないほど神秘的で、幽玄で、輝夜の心をざわめかせた。

 

「……まずまず」

 

 白い水面に目を落とし、輝夜は短くそう返した。とても元気とは言えないが、ここ数日に比べれば随分と立ち直った方だ。この月が現れて間もない頃は、人に会おうとすら思わなかったのだから。

 

「なにかあったのか?」

「うん……まあ、ちょっと色々あったの」

「そうか」

 

 ここで銀山が追及してこないことを、輝夜は彼らしいと思った。銀山は、滅多なことでは他人の内側に踏み込もうとしない。雪がかつて言っていた、自然体、というやつだ。自ら踏み込む真似はせず、ゆっくりと構えて、相手の方から曝け出させようとする。

 もちろんそんなことは、銀山は全然意識していないのだろう。無自覚だからこそ、タチが悪かった。できれば今のところは、追及してほしかったのに。色々ってなにがあったんだ、どうして私を呼んだんだって、訊いてほしかったのに。そうか、なんて一言で済まされたら、もう話が終わってしまうじゃないか。

 沈黙があった。輝夜はどうやって話を切り出そうかと考えたが、とりとめのない思考では、霧を掴もうとするようなものだった。

 

「……お前は」

 

 結局、そうして思い悩んでいるうちに、銀山の方から問いが来て。

 

「お前は、月が嫌いなのか?」

「え?」

 

 けれどそれは、輝夜が予想していた問いではなかった。顔を上げて隣の銀山を見上げると、彼は薄く微笑み、そっと水月を指差した。

 

「さっきからそればっかり、むつかしい顔して見てるから」

「……」

「嫌いじゃないんだったら、そんな顔はしないんじゃないかと思ってね」

 

 どうなんだろうな、と輝夜は思う。月を眺めるのは好きだった。けれど月を眺めて、向こうの世界のことを考えるのは嫌いだった。

 銀山は向こうの世界のことなんて知らないから、彼が言う月とは、夜空にかかるあの白い丸を指すのだろう。じゃあ好きだ。今は少し強すぎるけれど、淡く優しい月の光は、輝夜の心を穏やかにしてくれる。

 ふと、今なら話せるかな、と思った。今なら、自分の本当の姿を、すべて月光の下に曝け出せるような気がした。胸を押さえて銀山を見上げる。彼は、輝夜がなにかを言おうとしていることを既に感じ取っていたようだった。決して促す風ではなく、静かな瞳で――自然体で、輝夜の言葉を待っていた。

 一度周囲に目を配ってみるが、輝夜と銀山以外に人の気配はない。いつものように空気を読んだ翁が、いつの間にか人払いをかけてくれたのだろう。ひょっとすると翁は、輝夜がこれから銀山に打ち明けようとしている真実まで、既に見通しているのかもしれない。

 月を見上げる。どうやって言葉にするか、少しだけ悩んだが、包み隠さずありのままを告げることにした。

 輝夜の、正体。

 私は。

 蓬莱山輝夜は。

 

「――私は、この世界の人間じゃないの」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 輝夜が銀山の問いを予想していなかったように、銀山もまた、輝夜の答えを予想していなかった。この世界の人間ではない――なんてことはない文字通りの言葉のはずなのに、脳が理解するまでには数秒の間が必要だった。

 例えば銀山のような、正体は実は人間じゃないんだ、などとは格が違う。別世界で生まれ育った人間。こうも綺麗な月夜の下で話すには、あまりに突飛で無軌道だった。

 けれどだからこそ、銀山はほとんど直感で、輝夜の生まれた世界がどこなのかを理解した。

 

「……月、か?」

「そう」

 

 輝夜は水月を見下ろし、ふっと花びらを散らすように笑う。空で輝く白月すらも銀山の意識の外へと弾き飛ばす、人間には過ぎた美しさだった。

 けれど、

 

「月にもね、ここと同じ風に、人間たちの世界があるの。私はあの月で生まれ育って、数年前に、『こっち』に堕ちてきた」

 

 脳裏を掠める、そんなバカなという言葉を口にできないほど、輝夜の声には悲しみの色がある。

 

「――知ってた? 私ってね、向こうの世界じゃあ、正真正銘本物のお姫様なのよ?」

 

 冗談だろうと笑い飛ばせないほど、彼女の微笑みは、儚い。

 

「本物のお姫様だから、いつまでもこの世界にはいられないの」

 

 揺れる瞳は、まるで泣いているようで。

 

「帰らないといけないの」

 

 紡ぐ言葉が、涙のようで。

 

「もうすぐ――ギンと、お別れしないといけないの」

 

 嘘だと否定するには、彼女はあまりに、小さすぎた。

 銀山の中で、ゆっくりと糸と糸がつながっていく。恐らく月が巨大化を始めた最初の夜に、輝夜は自分が月へと戻らなければならないことを知った。けれどその事実を上手く受け止めることができず、塞ぎ込んでしまい、銀山に会うこともしなかった。ようやく気持ちの整理をつけられたので、銀山を呼んで、すべてを打ち明けることにした。

 お別れを、するために。

 

「……」

 

 きっと輝夜は、大したことじゃないという風にすべてを話して、後腐れなく綺麗に別れようとしていたのだろう。銀山だって、いつか都を去る時のために、こういう別れ方を考えたことがある。

 けれど、これは、ダメだ。

 方法が悪いのではない。

 大したことはないと必死に自分に言い聞かせて、必死に笑おうとして――でも最後の最後で感情に負けて、下手くそな泣き笑いを見せてしまう、輝夜が悪い。

 そんな顔で別れて、本当に後腐れなく終われると思っているのだろうか。どこからどう見たって未練たらたらで、全然納得なんてできてなくて、別れたあとに一人で大泣きするのが丸わかりじゃないか。

 だから銀山は、苦笑して。

 

「輝夜、少し焦りすぎだよ。一度深呼吸してご覧」

「……」

「一人で突っ走らないで、落ち着いて一緒に話をしよう。そのために、私をここに呼んだんだろう?」

 

 別に、輝夜がこの別れ方でいいと言うのであれば、銀山は構わない。一方的に嘘を打ち明けて、それで終わりにしたいのなら、すればいい。

 ――けれど、本人ですら納得できていないような下手くそな別れ方は、私以外のやつにやれ。

 

「……そうね」

 

 輝夜が、ごめん、と力なく笑った。

 

「私、冷静じゃなかったみたい。……ギンとお別れしなきゃいけないのが、怖くて」

「……それも含めて、話をしようか」

 

 静かに頷いた輝夜が、一歩、銀山の傍に寄り添う。肩が触れ合うほどの距離で、隣り合って、彼女は記憶を遡るように水月に目を落とした。

 輝夜が語る言葉を見つけ出すまでの間、銀山もまたなにも言わずに、水面の白を見つめる。

 ――『月の世界』という言葉の意味を、考えながら。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 輝夜がすべてを語る間、銀山はなにも言わなかった。相槌の一つも打ちはしなかったが、こちらの声に耳を傾けてくれているのは感じられたので、輝夜は語り続けた。こんな御伽話みたいな身の上をどう話せば信じてもらえるのか、苦心し、何度も言葉につかえながら、それでも最後まで。

 

 今の人間たちが生まれるよりも遥か昔、この世界には別の人間たちが文明を築いていて。

 彼らは、地上の生存競争によって生まれる『穢れ』を忌み嫌い、月の世界へと移り住んだ。

 輝夜は、そうして今や月に一大文明を築く『月の民』の一人であり、正真正銘のお姫様。

 けれど『蓬莱の薬』という薬を飲んだ罪で、この地上へと堕とされた。

 正確に言えば、自らの意志で墜ちたのだ。月の文明はとても高度に発達していてなに一つの不自由もなく、同時に姫という立場も非常に面倒で、故に輝夜の人生はつまらないものだった。だから、月の世界を離れ、人生を変える口実として、あえて『蓬莱の薬』を飲んで罰せられた。

 だが間もなく輝夜の刑期は終わり、月から迎えがやってくる。

 その迎えで、輝夜は、月の世界に帰らなければならない。

 

 話し終わってみればそれだけのことだったが、たったそれだけのことに、自分でも信じられないくらいに時間がかかった。何度も言葉につかえたし、どう言葉にしたらいいのかがわからなくなって、黙り込んでしまったのも少なくなかった。だがそれでも、銀山は煩わしそうな顔一つせずに、じっと耳を傾け続けてくれた。

 嬉しくもあったが、一方で、口を挟まれない分だけ銀山の考えが読めなくて不安でもあった。肯定も否定もされない、というのは、自分だけが独りで暗闇の中を歩いているような錯覚に陥る。

 けれど輝夜は、その考えをふっと頭を振って追い払った。すべてを話すと、そう決めたのだから。だから最後まで、あともう少しだけ、頑張れ、輝夜。

 まだ一つ、話していないことがある。輝夜は銀山の瞳を見上げ、もう一度言葉をつなぐ。

 

「ギンは、不老不死って知ってるでしょ?」

 

 知らないはずはないだろう。言葉の意味自体なら、銀山くらいの年齢になった人間で知らない者はいないはずだ。

 老いることも死ぬこともない永遠の命――人間たちが古来より目指した桃源郷。

 銀山からの返答は、簡潔で短い。

 

「それが?」

 

 けれど決して投げやりではなく、微笑みかけるように優しい言葉だった。だから輝夜はさほど緊張することなく、その行動を起こすことができた。

 

「まあ、見てて」

 

 着物の奥から一振りの小刀を取り出す。昔、翁が護身用として与えてくれたこれを、結局今になるまで、一度も使うことはなかったけれど。

 

「……」

 

 輝夜は、不老不死だ。輝夜がこの地上に来るために飲んだ『蓬莱の薬』は、そういう薬だった。

 これが、輝夜が銀山に隠し続けた最後の秘密。だからこの小刀で自分の体をわざと傷つけて、途端に塞がっていく傷を見せて、不老不死であることを証明しさえすれば。

 もしかすると、気味が悪いと思われてしまうかもしれない。避けられてしまうかもしれない。

 けれどどういう結果になろうとも、それでようやく、すべてが終わる。

 

「……ギン?」

 

 小刀を抜こうとした輝夜の手を、優しく留めるものがあった。月の光で、輝夜の肌に負けないくらいに白くなった、銀山の指だった。

 首を傾げる輝夜に、静かに微笑みかけて。

 もう充分だよ、と彼は言う。

 

「そこまでしなくても、もうわかったから」

 

 だからそんなことしなくていいよ、と。

 

「不老不死なんだろう? 他でもない、お前が」

「っ……」

 

 銀山の方から言い当てられるとは、思っていなかった。反射的に、怯んでしまいそうになるけれど。

 

「『蓬莱』の意味を考えればすぐわかるし……それにお前、自分の手首を掻っ切ろうとしたろう。そこまでされそうになったら、もう誰だってピンと来るさ」

 

 銀山の表情は、輝夜のすべてを知ったあととは思えないほどに穏やかで。声は、柔らかくて。月の世界に不老不死だなんて、眉唾すぎてとてもその場で信じられるようなことじゃないはずなのに、銀山は輝夜をちっとも疑っていないようだった。

 指に力が入らなくて小刀を取り落とし、畔の小石に当たった音でふっと、輝夜は我に返る。

 

「……信じてくれるの?」

 

 問えば、銀山は苦笑して、

 

「なんだ、からかってるのか?」

「そ、そんなわけないじゃない」

「じゃあ、信じるさ」

 

 輝夜は言葉を失った。銀山ならきっと受け入れてくれる、という期待がなかったかといえば嘘になる。けれど、まさかこんなにあっさりと信じてもらえるとは思ってもいなかった。明日の天気は雨だよと言われて、明日また来るよと言われて、それを信じるのとなに一つ変わらないような。それほどまでに、銀山の言葉にはなんの迷いも疑いもない。

 

「こんな、御伽話みたいなのに」

「私はね、こういう話は信じてみたくなるタチなんだ」

 

 世界が膨らむからね、とほころぶ彼の笑顔が、まるで少年みたいに若々しかったから。それを見てようやく、輝夜は水が染み入るように悟ることができた。

 結局、自分がしてきた心配は。

 なにもかも、全部。ただのつまらない、取り越し苦労らしかった。

 

「な、なあんだ……」

 

 本当に、なあんだ、だ。やっぱり銀山は受け入れてくれた。銀山は、輝夜が思っていた通りの人だった。ほら見ろ、やっぱり私の見る目は正しかったじゃないか、と意識のどこかでもう一人の輝夜が胸を張っている。

 そんな自分を笑うように、ゆっくりと息を吐いて。

 銀山の肩に、そっと、頭を預けて。

 

「よかったぁ……」

 

 安心した、けれど、同時に悲しくもなった。銀山に受け入れてもらえた。受け入れてもらえたからこそ、これでもう、全部、おしまいだった。

 肌を通して伝わってくる銀山のぬくもりに、こうして甘えられるのも、最後なのだ。少し、鼻の奥が湿っぽくなる。けれど輝夜は我慢した。銀山には涙を見せず、笑顔で別れるのだと、決めていた。

 彼に出会ってからのことを、思い出す。

 

「……この一ヶ月くらいは、本当に楽しかった」

 

 ――あなたと一緒にいた時間は、たったそれだけだったけど。

 

「でも、本当に楽しかった」

 

 この屋敷で初めて出会った時、あなたは私のことなんかほとんど見向きもしないで、屋敷の調査ばっかりしてた。

 

「あなたは、変なやつだったけど」

 

 でも大伴御行が襲いかかってきた時、どんなに苦しめられても、傷つけられても、あなたは私を守り通してくれた。

 

「それが、温かくて」

 

 私があなたの看病をしようとした時は、たくさん迷惑を掛けてしまったけれど、あなたはそんな私を優しく受け入れてくれた。

 

「それが、嬉しくて」

 

 あなたが二週間も私に会いに来てくれなかった時は、あんまりにも寂しかったから、思わず私の方から会いに行っちゃった。

 

「それが、幸せで」

 

 私は他の人と比べれば、取り柄がなくて、なにもできない女だったけど。

 

「全部全部、素敵な思い出で」

 

 あなたに恋をするという、この感情は、とっても素敵なものでした。

 

「ありがとう」

 

 この地上に降りてきて、本当によかった。

 

「本当に、ありがとう」

 

 あなたに出会えて、本当によかった。

 

「……けど、さようなら」

 

 叶うなら、ずっと一緒にいたかったけど。

 

「ギンのこと、忘れないから」

 

 どうか、私を忘れないでいてください。

 

「門倉銀山っていう、私が恋した男がいたこと」

 

 蓬莱山輝夜っていう、あなたに恋した女がいたこと。

 

「忘れないから」

 

 どうか、忘れないでいてください。

 

「だから」

 

 だから、

 

「さよ、ぅ、――」

 

 さようなら。そう言おうとして、言葉が上手く出てこなかった。

 最後の、最後で。

 鼻の奥に、刺すような刺激が込み上がってきたのを感じたら――もう、ダメだった。

 

「ぁ、」

 

 泣き出す直前の赤子の声。引っ張られるように、目元が一気に湿っぽくなる。

 

「ぅえっ、」

 

 慌てて目元を拭っても、涙はどんどん込み上がってきて。

 口を噤もうとしても、声は次々こぼれ落ちて。

 

「ぅ、あ――うううぅぅ~……!」

 

 もう、限界だった。これでいいんだと思っていた。すべてを話して、笑顔で別れれば、あとにはなにも残らないんだと自分に言い聞かせてきた。

 バカじゃないのか。

 そんなこと、あるわけないじゃないか。

 だって、銀山がいない。理由なんてそれで充分だ。銀山がいなくなってしまうのに、笑顔だとか綺麗な別れ方だとか、ふざけるのも大概にしたらどうなんだ。

 輝夜にでき得る、どんなに綺麗な笑顔を咲かせたって。考えられる限り、どんなに綺麗な別れ方をしたって。あとには絶対に、後悔だけが残る。後悔以外のものなんて、残るわけがない。

 蓬莱山輝夜は、もう。

 銀山と別れるためには、あまりにも、幸せになりすぎたのだ。

 

「ギン~……! ギン~……ッ!」

 

 いやだよ。さよならなんていやだよ。ずっと一緒にいたいよ。ずっとあなたのことを、好きでいたいよ。

 もう、一人では立ってもいられなくて。銀山の胸の中に身を投げ出して、すべてを彼に委ねて。

 どうして輝夜は、月の世界に生まれてしまったのだろう。この地上に生まれたかった。銀山とともに生きて、銀山とともに死にたかった。月の民とか、月の姫とか、もううんざりで。出自も名前も地位も過去も、なにもかもを捨てて、なに一つ特別なものを持たない、ただの女になりたかった。

 おっかなびっくり背中に回された、彼の腕で。

 この体を。

 命を。

 彼の中に、閉じ込めてほしかった。

 

「私、帰りたくない……!」

 

 もう、自分の気持ちに嘘はつけない。

 

「ずっと、ギンと一緒にいたいっ……!」

 

 このぬくもりを失いたくない。失ってしまったら、きっと輝夜は、寒さに耐えられない。

 ――だから、私は、

 

「帰りたく、ない、よおぉ……!」

 

 夜は凪いでいる。輝夜がどんなに悲しんでも、どんなに涙を流しても、世界は、月は、なんの感情も浮かべずにただ凪いでいる。

 当たり前だ。たった小娘一人が泣いたところで、世界は慈悲を恵まない。なにも変わることなく、ただ別れの日だけを、輝夜のもとに突きつけてくる。

 泣いているのは、輝夜だけ。

 大きすぎる夜の下で、少女の慟哭は、ひどく虚しかった。

 

「……輝夜」

 

 ふと、バリトンの声が鳴った。輝夜を支えていた銀山の手が、優しくあやすように、輝夜の背を叩いた。

 

「私は、今この場で月について知ったばかりだから、よくはわからないけど」

 

 銀山の胸に顔を埋めながら、輝夜はその声に耳を傾ける。甘えだった。ダメだとわかっているのに、慰めてほしくて、優しくしてほしくて、我慢が利かなかった。

 言い訳なんてできないし、ここまで来てしようとも思わない。

 蓬莱山輝夜には、本当に。

 銀山がいてくれないと、ダメなのだ。

 もぞもぞと身じろぎをして、銀山を見上げる。彼の表情は静かだった。少なくとも、今の輝夜に同情してくれている顔ではなかった。

 至って不思議そうに、彼は言う。

 

「――帰りたくないんだったら、帰らなければいいんじゃないのか?」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「ひどいなあ……そんなこと訊いちゃうんだ」

 

 それがあまりにひどい問いだったので、輝夜は思わず笑ってしまった。銀山には珍しく、デリカシーのない言葉だった。帰らなければいいと言ったところで、帰らないで済むのだったら、輝夜は初めからこんな風に泣いてなどいない。

 月での生活はひどく憂鬱だったが、人間関係に限っては、必ずしも悪いばかりではなかった。特に教育係をしてくれていた女性とは、親しい関係を築くことができていた。

 自惚れでもなんでもなく、大切にされていた、と思っている。ぶっきらぼうで厳しい人だったけれど、それが彼女なりの愛情の表現だった。きっと彼女は輝夜を娘のように思っていたし、輝夜も、彼女の存在を母のように感じたことは一度や二度ではない。

 表立って言葉にはしなかったし、蓬莱の薬の製作にも協力してくれたけれど、彼女は輝夜の地上行きに大反対していた。娘のような存在である輝夜を、自分の目の届かないところに行かせたくなかった。だから時が満ちれば、我先にと迎えにやってきて、帰ろうと、薬の匂いがする手をそっと輝夜へと伸ばすだろう。

 そして彼女に付き従う形で、月の兵士たちもやってくる。道中の護衛という建前を引っさげ、半ば強引にでも、輝夜を連れ戻すために。

 想像でしかないけれど、大罪人であってもなお月へ連れ帰るだけの理由が、輝夜の存在にはあるはずだから。

 

「さて、本当にどうしようもないのか?」

 

 だが、銀山の声は退かない。

 

「勘違いだったらすまないけど、なにも絶対に、どうしても帰らなきゃならないってわけではないんだろう?」

「……それは、そうかもしれないけど」

 

 確かに、絶対に月へ帰らなければならないと決まったわけではない。あくまで輝夜の想像だ。もしかするとあの教育係は、ここにいたいのならそうすればいい、と言ってくれるかもしれない。月の兵士たちだって、不老不死となった大罪人は月に必要ないと、とっくに見切りをつけているかもしれない。

 だが、それもまた想像に過ぎない。可能性でいえばやはり、月に帰らなければならない未来の方が圧倒的に強い気がする。

 

「輝夜」

 

 銀山の強い声に、思考を遮られる。子どもを諭すように張りのある声だったから、一瞬驚いてしまったけれど、顔を上げてみれば銀山は微笑んでいた。

 まるでなんてことはない、と言うように。

 

「可能性を完全に閉ざしてしまうのは、いつだって本人の諦めだよ」

 

 胸が詰まるような思いがした。

 

「帰りたくないなら、帰りたくないなりに行動してみた方がいいと私は思うよ。このままただ待つだけだったら、帰るしかなくなってしまうんだろう? さて、お前はそれでいいのかな。いいんだったら、私から言えることはなくなってしまうけど」

「……」

 

 それは、輝夜を慰める言葉ではなかった。穿ってしまえばただの事実確認だ。現実を再提示しただけで、これといった優しさも感じられない、ともすれば機械みたいな言葉だった。

 だがその再提示が、輝夜の心に強くのしかかる。

 本当に、このまま終わってしまっていいのか。――いいわけがない。いいわけがないからこそ、輝夜はこうして銀山に泣きついているのだから。

 なら、泣きついて、それで終わりか。そのまま諦めて、すべての可能性をゼロに閉ざして、後悔に(さいな)まれながら、月へと帰っていくのか。

 ――バカじゃないのか。

 

「……!」

 

 悲しみではない、もっと別の感情で胸が熱くなって、銀山の背に回した腕に力がこもる。

 それは、恋が生み出した一つの弊害だった。銀山のことを好きになって、好きな人に甘える快楽を覚えてしまって。蓬莱山輝夜は、彼を好きになる前よりもずっと弱くなってしまっていた。彼に体を預ける心地よさに酔ってしまって、己の足で立つことを忘れてしまっていた。

 思い出せ。大伴御行が屋敷を襲撃した時、輝夜は一体なにをした。

 戦った。非力な己なりに必死になって、弓を手に取り、言葉の矢を射った。

 それと同じだ。あの時必死になって、銀山を守ろうとしたように。輝夜と銀山の仲を引き裂こうとする邪魔者がいるのだから、今回だって戦えばいい。

 

「私が知ってる輝夜は」

 

 その気持ちを後押しするように、銀山がこう言ってくれる。

 

「あの時御行を振ったみたいに、嫌なことははっきり嫌と言って戦える子だと。……そう思っていたのだけど、買い被りかな?」

 

 答える代わりに、銀山を両腕で思いっきり抱き締めてやる。

 

「いてててて。輝夜、痛い痛い」

「うるさい。……生意気なこと言ってくれたお礼よ」

 

 かぐや姫が泣きながら抱きついたっていうのに、顔色一つ変えないで、慰めの一言もなくて、本当に生意気だ。けれど、それが逆に彼らしかった。

 悲しみが氷のように溶けていって、ようやく輝夜の顔に、作りものではない自然な笑顔が戻る。

 

「そう……よね」

 

 心に染み込むような、理解だった。

 

「そう、だよね。本当に帰りたくないんだもの。わがままくらい、言う権利はあるわよね」

 

 そうだとも、と銀山は頷く。

 

「こんな風に泣きついてみれば、お前なら一発なんじゃないか?」

「あー……私の迎えに来る人は、ふつーに『甘えるな』って一蹴しそう」

「おっと、それは強敵だな」

「そうなの。本当にいやーなやつでね」

 

 いつの間にか心はすっかり軽くなっていて、軽口を飛ばすような余裕まで出てきた。

 最初から無理だと決めつけて、諦めてしまうのは、あまりに実りのない生き方だ。

 この手の中に豊かな幸福を望むのならば、人は、笑っていなければならないのだと。

 

(……本当に)

 

 銀山の姿を見ていると、本当にそう思わされる。彼が幸せなのかはわからないが、少なくとも不幸ではないのだろう。それは彼が滅多に暗い顔をせず、明るく、前を見て生きているから。

 彼のように、生きられたなら。

 こんな私でも、幸福を、掴めるのだろうか。

 

(……)

 

 やっぱり、まだ終われない。輝夜の幸せの在処は、銀山の隣だ。月の世界には、輝夜が求める幸せなんてない。

 だから、戦って。月に帰る運命なんて、ねじ曲げて、撥ね除けて。

 この世界で、銀山とともに、生きていく。

 

「さて、気持ちはまとまったか?」

 

 軽く肩を抱かれ、銀山の胸の中からゆっくりと引き離される。それを、輝夜は拒まなかった。銀山に甘えるばかりの弱い女は、これでおしまいだと思った。

 

「ええ」

 

 力強く頷いて、銀山の瞳をまっすぐに見返して。

 

「私、頑張ってみる」

 

 顔くらいしか取り柄がない、なにもできない女だけれど。

 

「こんな私でも、頑張ることは、できるから」

「……そうか」

 

 銀山の言葉は、輝夜を肯定するものでも否定するものでもなかったが、浮かべた笑顔はこちらの背中を押してくれるようだった。それでいいんだと、言われている気がした。

 月を見上げ、輝夜は思う。――そうだ。絶対に、ただで帰ったりなんてしてやらない。泣きついてでも、駄々をこねてでも、自分の素直な気持ちを伝えるのだ。

 不安はあった。けれど勇気もあった。明るすぎる月の光に怯えるだけだった自分は、もうどこにもいない。

 この声に、もう一度、言葉という名の矢を番って。

 この世界で生きていきたいと、伝えるのだ。

 

「なあ、輝夜。月からの迎えが来る時、私も立ち会っていいか?」

「っ……」

 

 ふいな問い掛けではあったが、輝夜の心はさほど大きく波立たなかった。きっと銀山ならこう言ってくるはずだと、心のどこかで予感していたからだろう。

 

「お前以外の月の人間たちがどんな風なのか、興味があるんだ。滅多にない機会だし、ひと目見ておきたいと思ってね。……それに、私からもなにか、お前のために言えることがあるかもしれない」

「……」

 

 私もお前の力になるよ、という優しい言葉。けれど輝夜の心は凪いでいて、嬉しいとは、思わなかった。

 慰めてほしいと思った。優しくしてほしかった。けれど決して、助けてほしかったわけではなかった。

 むしろ、銀山に助けてもらうわけにはいかない。月の民たちは、地上の人間に対して、穢らわしいもの、羽虫同然の存在だという、その程度の認識しか持ち合わせていない。当然、月の世界には地上の人間を殺すことを罪とする法など存在しないし、それで罪悪感を抱く者も滅多にはいない。

 翁や屋敷の者たちは、輝夜を養ってくれた存在だから、月の民たちも無下には扱わないだろう。だが輝夜の心を地上に引き留める一番の原因である銀山は、月の民たちにとって明確な『敵』だ。銀山が月の民たちに出会った時、彼らが一体どんな行動を取るか――それは、輝夜にも予想がつかなかった。

 もしも彼らが、邪魔者は始末して構わない、とでも命令されていたならば。

 その時、銀山は――。

 

「……」

 

 だが一方で、輝夜は気づいてもいた。輝夜がそうであるように、銀山もまた、わがままな人間であることに。

 嫌なことには絶対に首を縦に振らないとか、自分の思い通りにいかないと機嫌を悪くするとか、そういう子どもじみたわがままではなく。

 銀山は――したいと思ったことは、素直にする。そういう、他人に縛られない人間だ。

 ここで輝夜が首を横に振っても、銀山は退かないだろう。一旦は退いたと見せかけておいて、迎えの日にいきなり首を突っ込んでくるくらいの真似は、笑いながらしてくるだろう。

 それは、嫌だった。これ以上、銀山が輝夜のために命を危険に晒すのは、見ていられなかった。

 だから、銀山を巻き込まないために、輝夜が取るべき行動は。

 

「――いいわよ」

 

 なんでもないという風に微笑んで、傍らの彼を見上げる。

 

「迎えの日は?」

「今からちょうど五日後。……その日の夜、月からの使者が、この屋敷に私を迎えにやってくるわ」

「五日後……ね」

 

 ごめんね、と輝夜は心の中で小さく呟く。

 

「そのこと、翁殿には話したのか?」

「ううん、まだ。……でももう吹っ切れたから、ちゃんと私から話すわ」

「そっか」

 

 ごめんね、ギン。最後の最後で、嘘をついて。

 

「……今日はありがとう。お陰で、すごく気持ちが楽になった」

「どう致しまして。……上手く行くことを祈ってるよ。お前がいなくなると悲しむ人が、ここには大勢いるだろうから」

「うん」

 

 でも、大丈夫だから。私は、一人で戦えるから。あなたが危険を冒す必要なんて、どこにもないから。

 

「じゃあ、もうそろそろ帰って大丈夫かな。あんまり長居すると、また面倒な噂が立ちそうだし」

「……うん」

 

 私は必ず、必ず、あなたの隣に帰ってくるから。

 

 ――だからあなたは、どうかなにも知らずに待っていてください。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 銀山が屋敷を去ったあと、輝夜は翁にすべてを告げる。己の正体を。そしてこれから起こることを。銀山に対してそうしたように――けれど最後まで、嘘偽りない真実だけを。

 

 月からの迎えが来るのは、四日後(・・・)の満月の夜だと。

 

 すべてを知っているのは、天上で光る白い月だけ。けれど月は、月であるが故に、なにも言葉を落とすことはない。

 なにも言わずに。

 すれ違う二人を、ただ、見下ろすだけだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。