――どうして私は、あの人を止められなかったのだろう。
あの怪事件から、二週間が経った。かぐや姫が月に帰ると俄に噂され始めたその日、夜のほんの一時の間、都の人間たちのほとんどすべてが同時に意識を失うという、不可解な事件だった。
この事件で、二人の人間が、都から消息を絶った。
一人は、かぐや姫。
そして、もう一人――
色のない朝だった。柔らかい陽の光が注ぎ、小鳥たちが絶え間なくさえずり、吹く風には爽気が混じっている。夏の終わりの朝。けれど雪には、そのすべてが灰色にくすんで見えた。
陽のぬくもりが届かない。小鳥たちの鳴き声が響かない。風の中の爽気がわからない。
感じているのは、ただ重く冷たい、後悔だけ。
あのあと、銀山は戻ってこなかった。秀友を頼むと、それだけを雪に言い残して、空を飛ぶ舟が墜ちた先へと向かって――
そして、そのまま、帰ってこなかった。
銀山が死んだと、決定的な証拠が出ているわけではない。だが誰しもが、言葉にこそしないが、彼の命を諦めていた。妖怪が蔓延るこの世界では、二週間以上も行方不明になっている人間がいれば、妖怪に襲われて死んだと考えられるのが自然だった。
都からややも離れた平原に、大規模な戦闘の跡が見つかったらしい。見渡す限りすべてのものが灰燼へと帰した、凄絶な戦闘の跡だったという。
銀山がその戦いに巻き込まれたのかは定かではないが、もしそうだとすれば、奇跡でも起きない限り生きてはいないと――そう調査結果を出したのは、大部齋爾だった。都を代表する実力者の報告はひどく淡々としていて、なにも偽ろうとするものがなくて、故に紛れもない真実なのだと、人々の心に突き刺さった。
そして、雪だけが知っているのだ。
その戦闘が起こったとされる場所は、ちょうどあの夜に、銀山が向かった方向なのだと。
わかっていたはずだ。あのまま銀山を行かせてしまえば、とてもよくないことが起こる。雪はそれを予感していた。虫の知らせなどという次元ではなく、天啓のように。だから止めなければならなかった。銀山を行かせてはならなかった。
けれど、止められなかった。唇が麻痺して、体が震えて、呼び止めることすら、銀山の背中に手を伸ばすことすら、できなかった。
体が動かなかったなんて、言い訳にもならない。
あの時銀山を止められるのは、雪しか、いなかったのだから。
「……」
ふと、家の戸が控えめに叩かれる音が聞こえた。客なんて迎える気分になれなくて、初めは無視しようと思ったけれど、ほどなくして戸が勝手に開けられ、雪さん、と小さく名を呼ばれると、心の奥がかすかながら揺らめいた気がした。
戸を叩いたのは、夫の秀友だった。正式に婚約を結んだわけではないが、雪は彼をそういう風に見ているし、彼もまたそう思っているだろう。相思相愛の関係――けれど今の二人の間では、仲睦まじい会話など交わされない。
「……雪さん」
「……はい」
秀友は、少し痩せたようだった。もともと綺麗な方ではなかった髪がますますやつれて、ざんばらみたいになっている。それに、瞳の光も、以前ほどの強さがなくなった。とても健康とは言えない秀友の姿を見て、けれど雪はそれを咎めるでもなく、きっと私も今はこんな風なんだろうな、と他人事のように考えていた。似たり寄ったりな有様になっている自分に、そしてなにより秀友をこんな風にしてしまった原因の一端である自分に、今の秀友を咎める権利なんてないと思った。
「今日も、行ってくる」
秀友の言葉は簡潔だった。今日も、行く――ここ一週間ほど、雪たちの間で、なにかの儀式のように交わされている言葉だった。
「……そうですか」
雪は、頷くだけだった。本当は、雪も秀友とともに行きたかった。秀友とともに、銀山を捜したかった。だが秀友がそれを望まなかった。雪さんはここにいてくれと、そう彼が望んだから、雪は動けなかった。
件の戦闘の跡が見つかった影響で、強大な物の怪が都の近くに潜伏しているのではないかと、一部の陰陽師たちの間で囁かれるようになっている。だから秀友は、雪に、都の外へは出てほしくないと願っていた。
大切に思われているのは、嬉しかった。
でも、だからこそ、雪は泣いてしまいたくなる。
雪だって、秀友に都の外に出てほしくなかった。銀山と同じように、秀友まで消えていってしまう気がしてならなかった。
もしも、もしも本当にそうなってしまったら、雪はきっと未来永劫立ち直れなくなってしまうから。
だから、止めたいのに、
「……気をつけてくださいね」
銀山への、そして秀友への罪責が歯止めとなって、口から出てくるのは、結局いつもと同じ言葉。今の雪が秀友に対して持てる言葉など、この程度でしかなかった。銀山の行方を捜そうとする秀友を、銀山を止められなかった自分が、どうして否定できるだろうか。
不思議な感覚だと、雪は思う。自分は今、泣いているはずなのに。なのに顔では必死に笑っているのが、なんだかおかしかった。
銀山がいなくなってから、雪は少しおかしくなってしまった。銀山は秀友とはまた違う意味で、雪にとって大切な人だったから、まるで自分の体の一部をなくしてしまったような喪失感だった。
「じゃあ、行ってくる」
「……はい」
結局、銀山を止められなかった雪に許されたのは、すべてが夢であることを願ってここで祈り続けることだけ。
だから、踵を返し雪のもとを去る秀友を、今日もただ見送るだけの――はずだった。
『――なーにやってんだよ、お前ら』
そんな、この場にはあまりに似つかわしくない、あっけらかんとした声が、響いて。
心臓を鷲掴みにされた思いがして、雪と秀友は同時に叫んでいた。
その名を、
「銀山さん!?」
「ギン!?」
それはもしかしたら、二人の弱い心が生み出した、幻聴だったのかもしれないけれど。
けれど、声はしっかりと、返ってきた。
『ああ。ちょっとばかり久し振りだね、二人とも』
男性独特の低い声音は、特に彼の場合、こちらの肌を撫でるように柔らかで、耳に優しい。
この声は、間違いなく。
「ギン……! おいお前、今までどこ行ってやがったんだっ?」
真っ先に声を上げたのは秀友だった。突然の出来事に脳が追いついていないのか、竦んだ笑顔を浮かべて、何度も周囲を見回す。
――雪の背筋を、言い知れない悪寒が撫でていく。
「心配したんだぞっ?」
『あー……それはまあ、悪かったね』
銀山の声ははっきりと聞こえる。すぐ目の前で話をされているかのように、息遣いまで聞こえてきそうだ。
――それなのに、銀山の姿がどこにも見えないのは、なぜ。
物陰に隠れているにしても、声の調子や方向からすぐにわかるはずなのに。なのに今の銀山の声は、あまりにはっきりと聞こえすぎていた。まるで、頭に直接響いているかのようだった。
「どこにいんだよ? 顔くらい見せてくれてもいいじゃねえかっ……!」
『……その話なんだけどね』
もしかしたらこれは、なんてことはない、銀山のタチの悪いいたずらだったのかもしれない。けれど雪は、予感してしまった。
あの夜、銀山を止められなかった時と同じく、天啓めいて。
『しかし、お前たちだってなんとなくわかってるはずなのに、どうして私の口から言わなきゃならないんだろうねえ』
「なんのことだよ……! んなのあとでいいから、まずは出てこいって……ッ!」
秀友だって、きっと既に予感している。それなのに、下手くそに笑い続けながら、銀山の姿を捜すのは。
『――私は、もうとっくの昔に死んでるよ』
目の前の現実が、正視すらできないほどに、辛すぎるからだ。
秀友が呼吸を殺した音が聞こえる。こんな話をする時でさえ、銀山の声音は一貫して柔らかくて。故に、認めたくないと凍りつく雪たちの心に、否応なしに染み込んできてしまう。
『だからいい加減ゆっくりしようかと思ってたんだけど、今のお前たちがあんまりにも情けなかったからね。つい口を挟みに来てしまったよ』
銀の光の粒子が舞う。粉雪にも似た光の粒は、玄関の片隅へと引き寄せられ、やがてそこで人の姿を形作る。秀友と同じくらいの、背の高い、人の形を。
これが――これが、今の銀山に許された姿なのだろう。銀の粒子は、月の光が結晶になったように柔らかで、綺麗だったのに。なのにどこまでも残酷に、雪たちの心を凍えさせた。
銀の光が、器用に腕組みをして言う。
『お前たちは、まず鏡で自分の姿を見た方がいいね。特に秀友。ここにいるってことは、お前はその格好で外を歩いてきたってことだよな。まったく、よく笑われなかったなあ』
雪は秀友を見遣った。彼は震えていた。身を固め、拳を握り、俯いて、氾濫しそうになる感情を必死に耐え忍んでいた。
『雪もね……一応、年頃の女なんだからさ。もう少しその……なあ?』
「……ごめんなさい」
銀の光に言われて、雪は小さく笑った。上手く笑えたとは到底思えないが、ただ、笑うことでなにかが楽になればいいなと。
「……あのあと、だったんですか?」
言葉の足りない問い掛けだったが、銀の光は頷いてみせる。
『そうだね。今都で噂になってる通りで、ほとんど間違いはないよ』
つまり大規模な戦闘が起こったあの場所で、銀山は巻き込まれて死んだ。
『一つ間違いを正せば、巻き込まれたんじゃなくて、自分から巻き込まれに行ったってところかな』
「……あの場所で、一体なにがあったんですか? 姫様は……」
『教えない』
銀の光に表情はないけれど、彼は今笑ったのだろう、と雪は思う。
『教えないよ。なにがあったかを知ったら、お前たち余計なことしそうだからね』
余計なこと、とは一体なんなのか、ひどく気にかかったけれど、銀の光は答えてくれない。
『ちゃんと……かどうかはさておき、輝夜のことも守ったしね』
だから、と続ける。
『これは私自身の行動の結果だし、自分でそれなりに納得もしてる。……だから雪も、私のせいだなんて勘違いはしないように』
「っ……」
心を言い当てられ、息が詰まる思いがする。
『考えすぎだよ』
それを、銀山の声は一蹴する。
『だってそれじゃあ、私がお前に殺されたみたいじゃないか」
くつくつと笑って、銀の光が小さく揺らめく。
『なあ……どうしてあの時、お前は動けなかったと思う?』
ふいな問い掛けに、雪は言葉を詰まらせた。雪があの時に動けなくなった原因は、銀山曰く、空を飛ぶ舟から発せられた特殊な術式だったという。だが、今彼が求めているのは、そういう答えではないような気がした。
上手く言葉を見つけられずに沈黙していると、銀山がふっと笑みの息を落として言う。
『秀友がいるからだよ』
「……え?」
銀山の言葉が、少しの間、理解できなくて。
彼は、そのまま空気に溶け込んでいきそうなほど柔らかい声音で、繰り返した。
『秀友がいるから、だからお前は動けなかったんだと、私は思うよ。動いちゃ駄目だったんだね。変に私のあとを追い掛けて、巻き込まれたりしないように。……目を覚ました秀友を、その手で、助け起こせるように』
「……!」
まぶたの裏が、湧き上がるように熱くなったのを感じる。
銀山の答えは、答えと呼べるほど正確なものではなかった。なんの証拠も根拠もなくて、ともすれば詭弁もいいところだったかもしれない。
それでも、秀友を助け起こしたこの手に、意味があったのならば――。
『秀友は、いつも隣に誰かいてやらないとダメなやつだから。……だから、よろしく頼むよ』
「っ……、……はい」
涙をこらえて頷きながら、ふと雪は、どうしてこの人を選んだのかなあ、と考えた。秀友と銀山。男性としてより魅力的なのは、きっと銀山なのだろうが、それでも雪は秀友を選んだ。
情熱的な告白をされてつい熱に浮かされたとか、そんな身も蓋もない理由ではない。雪は確かに秀友が好きだった。一人の女として、一人の男である秀友が好きだった。
素敵なところよりも、素敵じゃないところの方が目立つような男だけれど。
好きになった理由なんて、自分ですら心当たりがないくらいだけれど。
(……)
でも、それでもいいのだろう。理由なんてなくたって、こうして誰かを愛せるのだから。何事にも理由を求めようとするのは、人間の悪い癖だ。
銀山は考えすぎだと言ってくれたが、それでも雪は、あの時のことを後悔せずにはおれないだろう。銀山に手を伸ばせなかったことを、悪夢のように思い出しては悔い、嘆き、生きていくだろう。
だが雪には――今の雪には、他に手を伸ばさなけばならない人がいる。
親友を失い、悲しみに沈む秀友を助け起こすのは。
助け起こせるのは、雪しか、いないから。
だから今度こそ、手を伸ばせ――銀の光は、そう言ってくれているような気がした。
「……わかりました。好きな人の一人も幸せにできないようじゃ、女が廃りますからね」
目元の潤みを指で払って、精一杯に微笑む。今度は、ちょっとくらいは上手く笑えたんじゃないかな、と思う。
銀の光も、ふふ、と小さく揺らめく。
『さすが、雪は強いね』
「……強く在らないと、銀山さんは私を笑うでしょう?」
『ああ。……だからほら、秀友も負けるなよ。いい加減に諦めついたろう?』
「ッ――!」
掛けられた言葉に、秀友の体が一度だけ大きく震えた。すすり泣くように呼吸をして、息を止めて、
「なにが、諦めついただよ……!」
もしここに銀山の体があれば、秀友は彼を殴っていたのだろうか。けれど、色を失うほどきつく握り込まれた拳が打つものは、もうどこにもない。
代わりに、限界まで込み上がった言葉が、秀友の堰を切る。
「――諦められるわけねえだろ!? 諦めるなんて、できるわけねえだろうがっ!!」
『馬鹿』
だが返す銀山の言葉は速く、迷いがなかった。その声音に、強く、厳しく、叱咤する色を込めて。
『死者に囚われて己の生を潰すな。お前はなぜそこにいる』
こうして輪郭だけの姿になってしまったのに、言葉を紡ぐたびに、彼の髪が、顔が、瞳が、体が、甦っていくかのよう。
『お前は、今のお前みたいな人たちを救うために、その道を選んだんじゃないのか?』
陰陽師である、ということ。
かつての彼が、この都で多くの人たちを手を差し伸べたように。
『人を救えよ秀友。人を救って、人に囲まれて、そして幸福に生きろよ』
光だけで包まれた顔に、表情は見えないけれど。
『……私がお前に望むのは、そういうことだ』
銀の色が柔らかく光る、その時彼はきっと、微笑んだのだろう。
秀友の体が揺らめいた。感情をこらえるのでもなく、吐き出すのでもなく、なにか心の中で大切な区切りが生まれたような、そんな揺らめきだった。
喘ぐような息遣いは、けれど笑みを作るもの。
「……最後の最後まで、そうやって人の世話焼くのな」
『ん……そうか?』
「そうだよ。……この世話焼きめ」
秀友は毒づくが、込められた感情は柔らかだった。だから雪はそっと秀友の傍に寄り添って、彼の腕に己の腕を絡めた。胸の中にあるこの気持ちを共有するように、ぎゅっと。
銀の光が、おや、と小さく肩を竦める。
『やれやれ、見せつけてくれるねえ。……それじゃあ仲睦まじい夫婦を祝福して、私の家はお前たちにあげるよ。まだ残ってるだろう?』
「……いいんですか?」
二人だけの家がほしい、というのは、雪と秀友の一つの夢だった。伴侶がいるわけでもないのにしっかりした一軒家で生活している銀山を、二人で何度も羨ましがった覚えがある。
『いいよ。どうせもう使えやしないんだから、好きにしてくれ。……大したものも遺せなかったから、これくらいはね』
ふいに、雪は言葉が出てこなくなった。お礼を言わなければならないのはわかっているのに、喉が詰まる。咄嗟に口を衝いて出そうになった「ありがとう」という言葉が、なんだか今自分が言うべきものではないような気がした。
だから雪は、少しの間だけ、考えて。
「……大切に、使わせていただきます」
深く深く頭を下げて、一音一音を慈しむように。
胸にあるすべての感謝を乗せるには、これだけではとても足りなかったけれど。
「お世話になりました。銀山さん」
真っ白な気持ちでそう言った途端、雪は無性に泣きたくなってしまった。鼻の奥が痛くなって、目元が震えて、今にも声が出てしまいそうで、秀友の肩に顔を押しつけて誤魔化した。
お世話になりました、なんて、ちょっとカッコつけすぎたかもしれない。銀の光に、ふふ、と小さく笑われた。
『――で、夫の方はだんまりか。友人の最期に、なにか気の利いた一言くらい言ってくれないのかな』
雪は、秀友の肩に押しつけていた顔を離して、彼を見た。秀友は、心の中を駆け巡る感情に圧倒されて、なにも言えなくなってしまっていた。雪でさえ、こんなにも胸が張り裂けそうになるのだ。銀山の親友だった秀友の心なんて、もうとっくの昔に張り裂けていた。
掌を通して伝わってくるその震えが決して小さくはなかったから、雪は慈しむように、秀友へと身を寄せる。
秀友は肩を震わせ、嗚咽を殺し、なんとか平常心を取り返そうと必死になって、けれどいつまで経っても冷静になんてなれなくて……言葉にしたい想いが多すぎて、雪のような一言に集約させることなど、到底できない様子だった。
『……ここでの生活は、楽しかったよ』
それを見兼ねたのか、仕方なさそうに、銀山の方から口を切る。
『ここまで楽しかったのは、きっとお前に出会えたからなんだろうね。お前に出会えなくてもきっと楽しかったんだろうけど、間違いなく今には遠く及ばなかったろうさ。お前はどうしようもない馬鹿だったし、呆れるくらいのお調子者だったし、救いようのないくらいに騒がしいやつだったけど、不思議とそれが心地よかった。悪くなかったよ、お前の友人やってた数年間は』
銀山の声はここでも穏やかなままで、本当に不公平だよなあ、と雪は思う。泣いているのは雪たちばかりで、銀山自身はそんな素振り、ちっとも見せてくれやしない。
きっと、捉え方の違いなのだろう。雪たちは、銀山がいなくなってしまうことを悲嘆している。けれど銀山は全然悲しくなんてなくて、ここで築いた思い出を、とても誇らしいものだと思っていて。
だから、どこまでも優しい声で。
こう、言えるのだ。
『ありがとう、秀友。……お前という最高の友に巡り会えたこと、忘れはしないよ』
本当に、不公平だ。秀友が耐えられるわけないとわかっていて、銀山はこんなことを言うのだから。
秀友が崩れ落ちる。膝で地を打って、前にくずおれた体を両手で支えて、咳き込むように泣く彼を、雪はなにも言わずに抱き締めた。涙を忍ぶ体から伝わる熱が愛おしかった。皺くちゃになるほど服を強く握り返される、その震えが愛おしかった。このまま、彼のすべてを、抱き締めてやりたいと思った。
銀の光が、穏やかな息遣いで笑う。
『……さて。言うことも言ったし、私は行くよ』
その輪郭が、ふいに崩れる。足元から徐々に光を失って、散り散りになって、人の形を失っていく。
これが本当に最期なのだと、雪は静かに悟った。銀の光が消える、これを境にして、雪たちと銀山は隔絶される。触れることはもちろん、言葉を交わすことすら叶わない、生と死という絶対的な壁で。
悲しみがないといえば嘘になるけれど、それ以上に心に込み上がってくるのは、一つの覚悟にも似た、深い深い理解だった。
「秀友さん……銀山さんが」
「ッ……!」
びくりと震え秀友が顔を上げた時、銀の光は既に半分が消えてしまっていた。恐らくあと数秒で、銀は完全に消えてなくなってしまうだろう。旅立つ友人に掛ける最期の言葉を見つけ出すには、あまりにも短い時間だった。
「バカ、やろうっ……!」
それでも、秀友は言うだろう。涙の気配は消せずとも、目元を拭って、精一杯に。
「なってやるよ! お前みたいな、立派な陰陽師に!」
精一杯に、笑って。
「――そんで、いつか絶対、お前をぶん殴りに行ってやるからな!! 覚悟しとけよ!!」
その言葉が銀山に届いたのかはわからないけれど、きっと、届いたはずだ。
だって銀山は、笑ったのだから。最後の光が消える間際に、幻のように――けれど確かに垣間見えた、銀山の微笑みは。
涙のあふれた瞳を越えて、雪たちの心の一番深い大切なところに、優しいぬくもりを、与えてくれた。
○
「――人の営みは、その死によって完結される」
そう、彼は言った。
「だからこれで、『門倉銀山』の物語はおしまい。……ま、あくまで『私』は生きてるんだけどね」
「……」
正直なところ、どうして彼がこのような決断をしたのか、紫にはよくわかっていなかった。『門倉銀山』を死んだことにする必要が必ずしもあったのかどうか、はかりかねていた。
からりと晴れた、夏の終わりの空だ。暑さの名残がほのかに香る爽気の中で、紫は月見とともに、空高くから都を見下ろしていた。
下町を行き交う人々が紫たちに気づくことはない。妖怪である自分たちが見つかれば都中の陰陽師から熱烈な歓迎を受けてしまうから、特製の
「……これでよかったの?」
月の民から受けた傷が無事癒えたあと、都を離れてまた旅を再開すると言い出したのは月見だった。見下ろす一角にある小さな民家は、雪という名の少女の家。月見は都を離れる最後に、あの場所で人間の友人たちに別れを告げてきた。
幻術を使い、『門倉銀山』に死を与えることで。
月見は少し困ったように、もはや隠しはしない銀の尻尾をふらふら揺らす。
「ダメだったかな?」
「ダメとは言わないけど……わざわざ死んだことにする必要はなかったんじゃないかなって」
それこそ、旅に出ることにした、とか。そういう理由ではダメだったのだろうかと紫は思う。それなら、二人があんなに悲しむこともなかっただろうし。
だが、月見は静かに頭を振る。
「そのあたりは私のわがままかな。旅に出る程度の理由じゃ、あいつら追ってきそうだったからね」
月見が大成させた人化の法は、人間の老いまでは再現できない。何年経っても変わらない容姿――都で生活することではなく、そもそも人間として生き続けること自体が、限界に近づいてきていた。
だから、人でないとバレてあれこれ問題を起こすくらいなら、最後まで人のままで。
「さほど長くもない人間の寿命だ。自分たちの命は、自分たちのために、使ってほしかったから」
そして誰にもあとを追われることなく、門倉銀山一人だけが、都から消えていけるように。
そのために月見は、門倉銀山の死を以てして、『彼』の物語を完結させた。
厳しい優しさだと、紫は思う。親友を失った秀友と雪は、今は決して幸せではないだろう。この悲しみを引きずって、しばらくの間は上手に生きられなくなってしまうかもしれない。
「あいつらなら大丈夫さ」
だが月見は、彼らを信じていた。でまかせなどではなく、ここで築いた確かな絆に基づく、力強い確信だった。
あいつらなら、大丈夫だから。
「だから、私があれこれ世話を焼くのはもう終わりだ」
人間に惹かれて都に紛れ込んだ狐は、そうして都を離れることを選んだ。築いた絆を最上の宝物にして、別れの最後まで、笑顔のままで。
(……いいなあ)
羨ましいと、紫は思う。月見が都で生活している間、紫も紫なりに考えて、人間たちと時を共有して生きてきた。だが、いい思い出と同じくらいに苦い思い出も生まれて、人と関わることの難しさを知った数年間だった。
だから今、こんなにも誇らしげな顔をして都を去ろうとしている月見が、眩しくて。
「……ねえ」
「ん?」
「私にも、あんな風な人間の友達、できるかな」
あんな風に、涙を流して別れを惜しんでくれるような、人間の友達が。
私にも、いつか。
「……どうかな」
月見は曖昧に笑って、友のいる家を見下ろした。
「そういう人間が、自分にもいてほしいか?」
「……うん」
決して幸せばかりではないとはわかっている。種族の違い。寿命の違い。それらはいつだって、妖怪と人間の距離を容易く隔ててしまう。
けれど、それでも月見のように、別れたあとでも強く心に残る、確かな絆を築けたならば。
それは一体、どれほど素晴らしいことなのだろうか。
「それは、お前次第かな」
呟き、月見は空を見上げた。見果てぬ世界へ、遠く遠く思いを馳せるように、目を細めて。
「でもまあ、世界は広いからね。大いに期待はできると思うぞ?」
「……そうよね」
妖怪の中にだって、紫の夢を肯定してくれるような物好きな狐がいた。だから人間の中にだって、きっと。
月見と一緒に青い空を見上げて、己の胸に落とすのは、小さな決意の言葉。
「必ず」
輝く太陽があんまりにも眩しかったから、月見がどんな顔をしてくれたのかはわからない。けれど、ぽんぽんと頭を叩かれる感触はとても心地よかったので、悪くはないなと思った。
「――そういうわけで、私はただ単に友人に別れを告げに来ただけです。それ以外には、なにも妙なことをする気はありません」
「……? なに言ってるの?」
突然月見が変なことを言い出したので、紫はきょとんと首を傾げた。紫に向けた言葉ではない。月見が敬語を使うところなんて初めて聞いた。
しかし、この場には紫と月見以外には誰もいないのに、一体誰に――
「……ッ!?」
気づく。背後だった。逆巻く風を全身にまとい、紫たちと同じ目線で、空に佇む陰陽師がいた。
月見もまた振り返り、その男の姿を認めると、言い訳をするように笑って言った。
「なので、見逃してくれませんかね。……御老体」
『風神』、大部齋爾――殊に風の術においては天狗たちをも凌駕する力を持つ、人の範疇を外れた大陰陽師。人でありながら多くの大妖怪たちから一目置かれ、また同時に危険視すらされている、人間の最強格――。
紫の隠形の結界は、完全に見破られていた。
「……!」
紫は咄嗟に身構えようとするが、それを差し出された月見の腕が遮った。そうされてようやく、不機嫌そうなしかめ面をする齋爾の目に、敵意が宿っていないことに気づく。
……どうやら、紫たちを討ちにやってきたわけではないらしい。
「すぐに出て行きますよ。もう用は終わりましたから」
「……」
齋爾は応えず、月見の銀の尻尾へと、束の間だけ目を向ける。
「……貴様、狐だったのか」
驚くのでも感心するのでもなく、どこまでも憎々しげな声だった。
月見は苦笑し、
「ええ。上手く化けていたでしょう?」
「……なぜこの都に紛れた。それも、陰陽師として」
「単に、人間と一緒に生活してみたかっただけです。……ええ、本当にそれだけ」
「……」
どうしてそんなに怖い顔してるのかなあ、と紫は思う。どうやら決して機嫌が悪いわけではないらしいが、だったらもう少し穏やかな顔をしたらどうなのだろうか。これでは相手に変な誤解をさせてしまうし、実際紫は、齋爾が怖くて月見の背中に隠れてしまっていたりする。
齋爾はそんな紫を一瞥して、やはり驚くのでも感心するのでもなく、無感情にため息をつく。
「……八雲紫か」
紫はビクつきながらちょこんと頭を下げる。
「ど、どうも。はじめまして……」
「妖怪の女に興味はない」
カチンと来た。
「……ねえ月見、ちょっと先に帰っててくれる? 私、最近どうにも運動不足で」
「落ち着けって。御老体と戦ったら、いくらお前でもたたじゃ済まないよ」
ぐぬぬ、と紫は唸った。月見の意見はもっともなのだが、それにしたって初対面の女にいきなり「興味ない」なんて、このじじい、ちょっと失礼すぎるのではなかろうか。
いや、興味があると言われてもそれはそれで困るしむしろそういうことは月見から言われたいのだけれど、とにかく今のじじいの発言は一の乙女として聞き逃せない。確かに今の紫は妖怪としてはまだまだ若い方で、体だって、将来の大逆転劇に望みを託すしかないような有様だが、
「ねえ月見、やっぱり胸なの? 胸なのかしら……」
「なんの話をしてるんだお前は」
「私だっていつか絶対……」
紫なら境界を操ればある程度誤魔化せるが、そんな小細工は弱い女がすること。やはり一人前の大人の女になるためには、えへんと胸を張れる――そう、
「……それで、御老体はなにか用ですか?」
ぶつぶつ言いながら自分の胸を触ったりなんだりしていたら、月見に放置された。
「別に」
そして齋爾の方も、紫からはもう完全に興味を外しているようだった。おのれこのじじい。
「不審な気配がしたから様子を見に来ただけだ。……用が済んだのならさっさと消えろ」
「おや、いいんですか? 都に入り込んだ妖怪を倒して名を上げる、絶好の機会ですよ?」
齋爾は眉間に寄せていた皺を一瞬深くして、しかしすぐに緩める。
「……貴様が人に害を為す邪な物の怪なら、喜んでそうしよう」
……それはつまり、月見をいい妖怪として認めている、ということでいいのだろうか。
紫は月見の背中から顔を出して齋爾を見た。齋爾の表情はやはり不機嫌だった。この上ないほど不機嫌そうに、ふんと小鼻を鳴らしていた。
「だがそうでないなら儂の知ったことではない。どこへでも行き、好きに生きていればいいだろう」
「……一応、礼を言っておきますよ」
月見がこちらに目配せをしてきたので、紫は頷いて傍にスキマを展開する。奥で無数の瞳が蠢く空間は、初めて見る者の度肝を抜くだろうに、齋爾はふっと一瞥しただけで、すぐに興味もなさそうにまぶたを下ろした。
中に飛び込み、月見が来るのを待つ。彼はスキマの縁に手を掛けて、そこでふと思い出したように齋爾へと振り返る。
「このこと、あの二人にバラすのはなしですよ。台無しですからね」
「……」
齋爾は眉一つ動かさず口も利かなかったが、或いはそれこそが彼なりの、不器用な肯定の仕方だったのかもしれない。
「では、お世話になりました。もう会うことはないでしょう」
「さっさと消えろ」
愛想のかけらもない返事に苦笑して、月見は最後に下を――友がいる小さな家を見下ろす。
「さあ、本当にさよならだ。――どうか、元気で」
その声音に初めて、一抹の寂しさがにじむ。やはりなんだかんだ言って、月見だって寂しいのだろう。あそこまで芝居がかった別れ方をしたのは、月見なりに、寂しさを誤魔化そうとする演技でもあったのかもしれない。
だから紫は、スキマの中へと入ってきた月見に向けて、
「ねえ……また一緒に、旅しない?」
「ん?」
月見が都で生活を始めるより以前、少しの間だけではあったが、紫は彼と一緒に旅をしていた。それを、もう一度やりたいなと思った。
月見はきっと、人間の親友と別れたことを、ちょっとだけ引きずるだろうから。だから、自分が一緒にいて寂しさを紛らわせてあげるのも、吝かではないのである。
それに、月見が都でどんな生活を送っていたのか、話を聞きたいと思ったから。
「ね、いいでしょ?」
「ふむ……」
月見は口元に指をやって考え、ほどなくして軽く苦笑する。
「……ダメだって言っても、ついてくるんだろう?」
「そんなの当たり前じゃない」
「じゃあ好きにしたらいいさ。……お前がいると色々と助かるしね。スキマとか」
「まっかせなさい、たくさん役に立つわよ!」
また一緒に旅ができると思うととても嬉しかったので、紫は月見の腕に飛びついて喜んだ。月見はため息をついていたけれど、それでも紫を押し離したりはしなかった。
そうして二人は、スキマの内部を漂っていく。新しく旅を始める、出発点に向けて。
瞳たちは、そんな二人を目で追いすらしない。
各々が好き勝手な方向を向いて、呆れるように、その赤黒い色を細くしていた。
○
赤黒い異空間が徐々に閉じられていき、そして線になって、やがて消える。その異様な光景を、しかし齋爾はただ黙したままで、最後まで見つめ続けていた。
考えたことは多かった。門倉銀山を名乗っていたあの妖狐について、陰陽師という職業柄か、それとも曲がりなりにも同業者であったからなのか、齋爾の思考は目まぐるしく回転していた。
八雲紫と行動をともにする銀の狐が、何者か――数十年に渡る年月で培われた齋爾の知識は、そうして一つの推測へと辿り着く。
「……そうか。貴様が」
脳裏を掠めるのは、陰陽師たちの間で伝説として語られている、とある噂話。その存在がほのめかされつつも、実際に姿を見た人間が一人としていないことから、半ばお伽話のように語り継がれている大妖怪。
境界の妖怪・八雲紫を始め、鬼子母神や天魔など、名のある大妖怪たちと友誼を結び、獣に化け人に化け、人知れず世に紛れて生きている。
妖怪を愛し、またそれ以上に人を愛す――
「――銀毛十一尾。或いは貴様こそが、そうなのかもしれんな」
なんの確証もないことだ。けれどなんとなく、そうなのだろうなと思った。幻の銀毛十一尾がもし本当に存在するのなら、きっと彼のような姿をして、彼のように生きているのだと。
「……」
無論、だからと言ってなにかが変わるわけでもない。あの狐はこうして都を去り、そして齋爾は、もう決して長い命ではない。あと十年を待たないうちに、己に与えられた命の灯火は、その役目を終えて静かに燃え尽きるだろう。
だから二人は、もう交わることはない。
それでいいのだと、齋爾は思う。
「……門倉銀山」
呟き、齋爾はゆっくりと首を振った。少し前に、八雲紫が口にしていた言葉を思い出す。……そう、確か彼女は、あの男のことをこう呼んでいた。
「さらばだ、――月見」
今ほど純粋な気持ちで彼の名を呼んだのは、初めてだったかもしれない。なぜかはわからないけれど、それほど悪くはない、気分だった。
だから齋爾は、気づかない。自分の唇が、無意識のうちに、薄い笑みの形を作っていることに。
風を操りその場を去る最後まで、気づくことはなかった。
「あ……秀友さんっ」
雪から掛けられた声に、秀友は顔を上げた。消えてしまったはずのあの銀の光が、再び秀友の目の前を舞っていた。
それらは蛍のように宙で寄り添い、一つとなって。
「あっ……」
光の中からこぼれ落ちたのは、一枚の札だった。反射的に手に取った秀友は、札に書かれた文字を見て、言葉を失った。
加護、の文字。
その裏には、見慣れた――秀友が一番よく見慣れた文字で、こう、続けられている。
お前の行く先に、どうか豊かな幸福がありますように
我が最上の友へ、心から
――本当に。
本当にあいつは、どれだけこちらを泣かせれば、気が済むのだろうか。
せっかく落ち着いてきていた目元が、また、熱っぽくなってしまって。
「秀友さん」
「……ああ」
寄り添ってきた雪の肩を取って、秀友は大きく息を吸った。
叫ぶ先なんてどこでもよかった。だからもしもこの声が、まだあいつのところまで届くなら。
「柄でもないことしやがって! ……この、バ――――カ!!」
今はもう、返事なんて、返ってこないけれど。
「ば――――か!!」
一緒に叫んでくれた雪と、二人で笑った。とても綺麗とはいえない泣き笑いだったけれど、一緒になって笑った。
幸せになろう、と思う。細かいことなんてどうでもいいから、とにかく幸せになりたかった。幸せになることが、銀山にしてやれる精一杯の恩返しなのだと思った。
誰もが羨むくらいに幸せになって、そしてすべてが終わったら、胸を張ってあいつに会いに行けるように。
いつか――いつか、必ず。