銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色
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第32話 「狐と閻魔と因果応報。」

 

 

 

 

 

 時折、こうして昔の夢を見る。懐かしい思い出をもう一度現実でなぞるように、鮮明な息遣いのある夢を見る。かつて生活していた都を離れ、妖怪と人の楽園を創ると決心した紫とも別れ、また遠いいつかのように、一人でのんびりと世界を歩いていた頃の夢。

 絶好の散歩日和の下、山々の匂いが風に乗る道を歩きながら、そうそう、と月見は懐かしく思い出す。

 確かこれは、説教くさい地蔵の女の子と出会った時の記憶だ。人里を目指し、数時間を掛けて山々を越え、ようやく麓まで辿り着いたその道中で、月見は路端に集まって陽気な笑い声を上げている子どもたちの一団を見かけた。

 恐らくは人里の子どもたちだろう。どうやらよほど楽しいことをしているようで、山の方から下ってくる月見には一向に気づく様子がなく、悲鳴みたいな声まで織り交ぜて大盛り上がりしている。

 これほど派手な大笑いを聞かされてしまえば、もはや知らぬ顔をして通り過ぎるわけにもいかない。月見は、今の自分が旅人を装って人の姿になっているのを確認してから、わざと出し抜けに声を掛けた。

 

「なにしてるんだ?」

「!」

 

 途端、子どもたちが顔を真っ青にして振り返った。その表情には、突然声を掛けられたことに対する驚愕が半分と、この場を他人に見られてしまったことに対する焦燥が半分。彼らが皆その手に筆と墨を握っているのに気づいた月見は、次いで彼らが取り囲んでいたものに目を遣って、すぐに強い苦笑で口元を歪めた。

 なるほど、そういうことか。

 

「お前たち、さすがにちょっとこれは……」

 

 月見がそう言葉を濁したところで、子どもたちはようやく我へと返ったらしい。

 

「やっば、人だ!」

「見られた!」

「逃げろー!」

 

 蜂の巣を叩いたような大混乱に陥って、あたりをドタバタと走り回り、我先にと人里へ逃げ去っていく。投げ捨てられた墨の皿が、月見の足下に黒い染みを作った。

 やがて一番足の遅い少年が半泣きになりながらみんなを追いかけていけば、山道にもとの静けさが戻ってきた。月見は足下に散らばった数人分の小皿と筆を眺め、やれやれともう一度苦笑いをした。子どもたちがあれだけ一目散に逃げ出したのも無理はない。どんな楽しいことをしているのかと思えば、事実はとても感心できたものではなかったのだから。

 月見が目を向けた先、山道をわずかに外れた森の手前には、女の子みたいに小さな地蔵が一つ。この地蔵を取り囲んで、子どもたちが筆と墨を両手にやっていたことは――

 

「……これはまた、随分と派手にやったもんだ」

 

 即ち、落書き。文字だったり、絵だったり、なにかの記号だったり、とかく様々なものが地蔵の全身至るところに落書きされて、言葉に言い表せないひどい有様になってしまっている。特に顔なんて、もはや黒くなっていない場所を探す方が難しいくらいだ。

 子どもがやったことだからと笑うには、やや罰当たりすぎるいたずらだった。地蔵を単なる石の塊と捉える者も少なくはないが、小さななりでも立派な菩薩の一尊、仏の次の位にあたる大変ありがたい御方である。そんなお地蔵様の全身を墨まみれにするとはまさに不届き千万、あの子どもたちには近いうちに雷が落ちるだろう。

 

「まあ、まだ明確な信仰を持たない子どもだからこそできることか」

 

 あの子どもたちを見つけ出して叱りつけようなどとは思わない。寿命が短い人間の、更に輪をかけて短い子ども時代だ。これくらい無鉄砲に生き抜いた方が、後々いい思い出になるのだろう。

 

「……とはいえ、このままにしておくわけにもいかないか」

 

 月見は決して敬虔な仏教徒ではないけれど、そうであってもこの有様は、見なかったふりをするには些か心苦しかった。それに、よく見てみれば地蔵の周囲の状態もひどい。足元には腐った落ち葉が溜まり、伸び放題になった草木には蜘蛛の巣も走っている。もしも月見がこの地蔵の立場だったら、誰でもいいから掃除してくれと毎日のように神に祈るだろう。

 なので月見は、掃除をしてやることにした。幸い地蔵の奥には桶や竹ぼうきなどの掃除道具が備えられているようなので、ちょうどいい。確か山を下る途中で近くを川が流れていたはずだし、そこから水を取ってくれば墨を洗い流してやることもできる。

 

「よし……そうと決まれば」

 

 地蔵の横を通り、奥から掃除道具を引っ張りだす。大分傷んではいるが、使えないわけではない。

 桶の中に、都合よく雑巾が入っていたのを確認して。

 

「どれ、まずは水だね」

 

 呟き、水を汲みに道を引き返そうとした折だった。

 

「――あ、あの!」

 

 ふいに、少女の声に背を呼び止められる。まだ幼さの抜け切らないいじらしい声音に、さっきの子どもたちの一人が戻ってきたのだろうかと、月見は思ったけれど。

 振り向き見てみれば、綺麗に九十度で頭を下げる少女の片手には、子どもには似つかわしくない長い錫杖が一本。その錫杖が、傍らの地蔵が持つそれと、まったく同じ形をしていたので。

 

「おや、もしかしてお前は……」

「はい。私、この地蔵です。地蔵菩薩です。子どもたちを追い払ってくれて、どうもありがとうございました」

「ほう」

 

 地蔵菩薩とは文字通り菩薩の一尊であり、衆生(しゅじょう)を救おうとする修験者の名。どうやら、この石でできたお地蔵様の体を媒体にして、現世(うつしよ)に顕現なさっているようである。

 お地蔵様に声を掛けられるのははじめてだったので、月見は礼を返すのもすっかり忘れてしまった。

 

「しかも掃除までしていただけるなんて、本当になんとお礼を言ったらいいか」

 

 心底安堵しきった様子で、少女が面を上げる。黒髪が翻り、顕になったその相貌に、月見は――

 

「ぶはっ」

 

 月見は、吹き出した。あまりの不意打ちに、失礼だとは思いつつも、こらえることができなかった。

 

「なっ!? ひ、人の顔を見ていきなり笑うとは何事ですかっ!」

 

 途端に少女がいきり立って叫ぶが、だったらまずは鏡を見てご覧よと月見は思う。笑いをこらえるので精一杯なので、思うだけで言葉にはできないけれど。

 とにかく、黒い。顎の先からおでこの上まで、唯一色が違うのは、瞳の中の翠色くらい。

 少女の顔は、もうそれは見事なまでに、墨で真っ黒に塗り潰されているのだった。

 ちょうど、そこの地蔵と同じように。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――いやあ、すまなかったね、いきなり笑ったりして……くっく」

「い、今だって笑ってるじゃないですかっ」

 

 汲んできた水で地蔵の墨を丁寧に洗い落とせば、少女の顔はすっかり綺麗になった。しかも黒髪だと思っていたのも全部墨だったようで、今は新緑さながら鮮やかな緑色を取り戻していた。

 地蔵の少女は、名を四季映姫といった。麓の人里とこの山道から悪い妖怪を退ける、ありがたい力を持った地蔵であるらしい。そんな御方がこんなにも幼い姿をしていることを、月見は改めて意外に思った。

 少し前まで彼女を囲んでいた里の子どもたちと、見た目の年齢はそう大差ない。背丈は月見の胸元に届くかどうかも怪しく、ついでに中身の方も、地蔵だからといって特別達観しているわけではないようで。

 

「ひどいですっ、無礼ですっ、罰当たりですっ」

 

 せっかく綺麗になった顔を真っ赤にして、悔しそうに錫杖で地面を叩く姿は、どこからどう見てもまさに子どもなのだった。

 

「……ともあれ終わったよ、掃除」

 

 伸び放題だった雑草を刈り取り、枯れ葉を竹ぼうきで掃き集め、蜘蛛の巣を同じく竹ぼうきで取り払う。たったこれだけのことだが、やってみれば随分と綺麗になった。もとが相当ひどかっただけに、まるで見違えるようだ。

 映姫が真心のない軽い笑顔を浮かべて言う。

 

「あ、ご苦労様です」

「……そこは『お疲れ様』と言うところじゃないか?」

 

 当たり前のことをやってもらったとばかりに、気遣いの気持ちが感じられなかった。

 月見が半目になれば、映姫はふふんと得意顔で、

 

「そうですねえ。あなたが初対面でいきなり私を笑うなんて無礼な真似をしなければ、そう言っていたかもしれませんね」

「いや、あれは不可抗力だろう?」

 

 なにせ、顔が真っ黒だったのだ。初対面とはいえ、初対面だったからこそ、笑うなという方が難しい。

 しかし映姫は人差し指をまっすぐに立て、ピシャリと切り返す。

 

「黙りなさい。どんな理由があれ、初対面でいきなり笑われたら女の子は傷つくんです。そこを上手く取り繕うのが男の甲斐性というものですよ」

「おや、地蔵様が男女差別かい」

「差別ではありません。男性が女性に対して負う当然の務めを説いているだけです」

「……ところで、人前に出る時には身嗜みを整えるっていう、人として当然の務めを説く必要はあるか?」

 

 くうっ、と映姫が歯軋りをした。

 

「あとは、世話になった人には感謝するのも当然の務めだよ」

「あら、自分からそんなこと言うなんて図々しいですね。それにあなた、人間じゃないでしょう」

 

 月見は、ほう、とかすかに眉を上げて映姫を見た。彼女は再び得意顔になって、勝ち誇ったようにすっと胸を反らした。

 

「人間に化けた程度で、私の目を誤魔化せるとでも思いましたか。甘いんですよ」

「ふうん……」

 

 今の月見は『人化の法』こそ使っていないが、決しておざなりな変化をしているわけでもない。それをこうもあっさりと見破られたのは、なかなかに久し振りな話だったので、素直に感心してしまった。

 やはりこんな見た目であっても、修験者らしからぬ上から目線な性格であっても、地蔵は地蔵ということなのだろう。

 

「まだ小さいのに優秀だね」

「そうですよ、私はとても優秀な地蔵で――って待ちなさいっ、あなた今、『小さい』って言いましたか!?」

「ああ、言ったけど……」

 

 事実、映姫の背丈は大きくない。人間でいえば十代に届くかどうかの未成熟な体を、社交辞令以外で大きいと評する者はいないだろう。

 つまり、月見としては単に事実を口にしただけだったのだが、けれど映姫はそれがとても――とてもとても、お気に召さなかったらしい。錫杖をじゃらじゃら振り回して、一生懸命に地団太を踏みながら叫んだ。

 

「私、小さくないですっ!」

「……いや、小さ」

「小さくないっ!!」

「……」

 

 ……まあ、彼女が自分の身長に激しい劣等感を抱いているのはよくわかったけれども。

 しかしだからといって、映姫がどれだけ必死に地団駄を踏もうとも、それで彼女の身長が伸びるわけではない。そう思うと、月見はちょっと気の毒になってしまった。

 月見が掛けてあげるべき言葉を上手く見つけられないでいると、映姫がふるふると震え出した。

 

「そ、そんな生温かい目で見ないでくださいっ! さては自分の背が高いのをいいことに私を馬鹿にしてますね!? 調子に乗らないでくださいっ! 私だってそのうち、ばーんって大きくなりますもん!!」

「……ああ、うん、……そうなるといいな?」

 

 両手を上げて一生懸命真上に背伸びする映姫に、どうか幸よあれ。

 映姫の怒りが沸点を迎えた。

 

「ですからその、可哀想なものを見る目をやめなさいっ! 地蔵に対してなんて態度を取るんですか、さてはあなた悪い狐ですね!?」

「そんなことないよ。地蔵の掃除をしてあげた真面目でいい狐じゃないか」

「黙りなさいっ、私がそう思ったらそうなんです! さあそこに直りなさい、説教してあげますからっ!」

 

 己の足下が映姫の錫杖でビシビシ痛めつけられているのを眺めながら、月見は、なんだか面倒なことになったなあと内心でため息をついた。無論月見とて、決して見返り目当てで掃除をしたわけではないけれど、それでもお礼代わりに説教をされるなど、まったくもって御免である。

 空を振り仰ぐ。いい具合に日も傾いてきたし、適当にあしらって逃げてしまおうか。

 

「早くしなさいっ! それとも、物理的なお説教の方がお好みですか!?」

「どっちも勘弁だよ。さあ、錫杖を振り回すのをやめてくれ。私はもうそろそろ行くからね」

「あ、ちょっ――ま、待ちなさい!」

 

 服の裾を掴まれそうになったので、月見は走った。

 あー! と背中に映姫の叫びが届く。

 

「あなた、逃げるんですねっ!?」

「逃げるともさ。子どもに説教されて喜ぶような趣味はないよ」

 

 映姫が錫杖を振り回しながら追いかけてくるが、体が小さいからかあまり速くない。見る見るうちに、月見との差は大きく広がっていった。

 

「じゃあなー。私に説教したいのだったら、もっとまともな威厳を身につけてからにしてくれ」

「こ、このっ……! 見てなさいっ、すぐに大きくなって見返してやりますからね!?」

「いや、大きくなるだけじゃなくて……まあいいか」

 

 結局、一日中身動きしない地蔵だけに体力が弱いのか、映姫がすぐに息切れを起こして追いかけっこは決着した。

 膝に両手をついてぜえぜえ息をした映姫は、最後の力を振り絞って、めいっぱいの空気を吸って。

 

「今度会ったらお説教ですからね――――――――ッ!!」

 

 その叫びに背中を叩かれながら、随分と個性的な地蔵に出会ったものだと、月見は小さく笑ったが。

 同時に、とりあえず帰りはここを通らないようにしようと、心に堅く誓いもしたのだった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 ――そうそう、そんなこともあったっけ。

 目覚めは穏やかだった。寝床として貸してもらった紅魔館の一室――その、咲夜の手で完璧にメイキングされたベッドの上で、月見はゆっくりと体を起こした。

 それから、映姫の叫び声がまだ頭の中で反響していることに気づいて、苦く笑う。

 

「結局、あのあとに会うことはなかったっけ」

 

 次に会ったら説教などと言われたためか、しばらくの間は会いに行こうという気が起こらず、次に月見があの道を通ったのは数年後のことだった。けれどその時には既に、映姫は地蔵ごとどこかへ消えてしまっていた。

 どこか別の場所へ移動したのか、それとも、撤去でもされてしまったのか。

 

「……」

 

 そう思うと、一度くらいは素直に説教されてやっても、いい思い出になっていたのだろうか。

 

「……ともあれ、朝か」

 

 ゆっくり背伸びをしてから、ベッドを降りる。カーテンの隙間から差し込む柔らかな光を見るに、今日も幻想郷は快晴のようだ。

 ドアを小綺麗にノックする音と、声が聞こえる。

 

『……月見様、もう起きられましたか?』

「ああ、ちょうど起きたところだよ」

 

 控えめながらドア越しでもよく通る咲夜の声に、そう返事をして、月見はカーテンを引き開けた。途端、部屋中に満ちあふれた光に一瞬視界が真っ白となって、けれどすぐに満天の青空が広がった。

 空の果てまで透き通る、その青に、目を細めて、笑う。

 ――さて、今日は幻想郷のどこを見て回ろうか。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 まずは、妖怪の姿のままで人里へ行ってみることにした。今後幻想郷で生活をする以上、人里へ行くたびに人化の法を使うのは手間になる。例えば人里でよく買い出しをするという藍のように、妖怪として受け入れてもらえるのならば、それに越したことはない。

 けれど月見は、先日ここを訪れた際に、里人に無用な警戒を持たれまいと人を偽った身だ。今になって正体を明かして、果たして受け入れてもらえるのかどうか。正直なところ、俺たちを騙してたのか、なんて言葉を投げられても仕方ないだろうと考えていた。

 だからこそ、月見の正体を見てもとりたてて騒ぐことなく、それどころか「本当に狐さんだったんだねえ」と親しげに声を掛けられた時には、月見はいい意味で肩透かしを食らった思いだった。

 話を聞いてみれば、昨日紫のスキマで人里に戻ってきた慧音が、今後のことを考えてあれこれと気を遣ってくれたらしい。そう広くもない人里だから、慧音が少し里人を集めて話をするだけで、あっという間に里中の噂話となった。

 月見の正体が狐だということと、決して悪い妖怪ではないから、受け入れてやってくれということ。慧音先生が言うなら違いねえ、と里人たちも二つ返事だったのだとか。

 畢竟、なにもかもが杞憂だったのだ。世話焼きな慧音に礼を言うべきだろうと月見は思ったが、彼女は今、寺子屋で授業の真っ最中らしいので。

 

「……なんだか、あれこれ気を揉んで損をしたね」

「ふふ、そうですね」

 

 人里で買い出しがあるのでと言ってついてきた咲夜と一緒に、里の甘味処でのんびりと団子を摘むことにした。店の外にこしらわれた三人掛けの腰掛けに二人で座って、間には二人前の三色団子。この甘味処の看板メニュー、らしい。

 

「咲夜は、買い出しの方はいいのか?」

「ええ、特に急ぎというわけでもないので。もう少しゆっくりしてますわ」

 

 咲夜が三色団子の串を一本手に取り、一番上の桃色の団子を半分だけかじって食べる。その口が笑みの形で緩んだのを見て、月見は何気なしに問うた。

 

「咲夜は、甘いものが好きなのか?」

 

 咲夜は団子を飲み込んでから、

 

「ええ、それなりに……。月見様は?」

「私もそれなりにかな。特別好物というわけではないけど、たまにこうして食べたくなる」

 

 月見も串を取り、桃色の団子を一つ丸ごと口の中へ。控えめながらもしっかりとした甘さが香る、看板メニューを冠するのも頷ける出来栄えだった。

 

「美味しいですね」

「そうだね」

 

 咲夜も、半分になっていた自分の桃色をはむっと食べて、

 

「はいよー、そこの銀髪同士のうら若いカップルさん。お茶だぜー」

「むぐぅっ」

 

 いきなり背後から飛んできた男の声に、月見はとりたてて動じなかったが、咲夜は盛大に驚いて団子を喉に詰まらせかけた。

 

「だ、大丈夫か?」

 

 咲夜は自分の胸をどんどんと叩きながら、何度か咳き込んで、

 

「え、ええ、なんとか……」

「ならいいんだけど……こら店主、妙なこと言っておどかさないでくれよ」

「アッハハハ、すまねえな」

 

 月見が後ろを振り返って半目になれば、甘味処の店主はけれど、微塵も悪びれる素振りなく呵々と喉を鳴らして応えた。顔には五十も半ば過ぎようという老いの色が見て取れるものの、対照的に体つきは逞しく、若々しい生気に満ちあふれている。性格は食べ物を扱う店の主人とは思えないほど粗野で、それが逆に親しみやすい人柄のよさを感じさせる男だ。

 彼は湯呑みの載った盆を月見と咲夜の間に颯爽と差し出し、ニッと大きな歯を見せて笑う。

 

「ちょっとしたお茶目な冗談よ、……冗談でよかったんだよな?」

「当たり前ですっ」

 

 その盆の上から、すっかりヘソを曲げた咲夜が湯呑みをひったくっていく。中身をこぼさなかったのが不思議なくらいの勢いに、月見は苦笑いをして、残った方の湯呑みを静かに手に取った。

 

「繁盛してるみたいだね、店主」

 

 見回せば、店はまさに千客万来の有様だった。外に置かれた腰掛けはすっかり満員になっていて、店内の方から聞こえる談笑も絶えることがない。昼食にはまだまだ早い時間帯でこれなのだから、昼下がりにでもなったらどうなってしまうのだろうか。

 店主は、青空を仰いで豪快に笑う。

 

「いやあ、ウチは普段は細々とやってるしがない甘味処よ。今いるのはほとんどあんちゃんたちが連れてきた連中だぜ? お陰様で、稼がせてもらってますってな」

 

 銀の狐に銀のメイドという取り合わせは、黒髪がほとんどな人里の中では図らずとも目を引くらしい。興味本位で見にやってきて、そのまま流れで団子を頼んでいく里人が、随分と多いようだった。

 

「にしても、あんちゃんが狐っこだったたあ意外だわなあ」

「悪かったね、騙すような真似をしてて」

「や、そりゃあまったくもって構わねえんだがよ」

 

 店主は腕を組み、しみじみ感心しきった様子で何度も頷く。

 

「そうすっとあんちゃんは、妖怪なのに人間を助けてくれたわけだろ。藍様もそりゃあ大層なべっぴんさんだし、ひょっとして狐ってのは、案外気がいい連中なのかね」

「……さあ、どうかな?」

 

 店主の探るような目を、月見は曖昧に笑ってやり過ごす。確かに狐は、狸と一緒になって人間のごく身近で生きてきた妖怪だから、鬼や天狗に比べれば友好的な者は多い。しかしそうであっても、基本的には人を化かすことを生き甲斐とする種族。必ずしも、人間にとって益のある妖怪ではない。

 月見や藍のように、人を化かすことをやめて平穏に生きているのは、ほんの一握り中の一握りだけだ。

 と、

 

「旦那ー、いつものやつちょうだーい!」

 

 店の中から、談笑を突き抜けて張りのいい女性の声が鳴った。青空を射抜く爽やかな声に、けれど店主の表情が見る見るうちに曇っていったので、月見は首を傾げて問うた。

 

「店主、客みたいだけど」

「ん? ああ……」

 

 生返事で頷いた店主は、小声でぼやく。

 

「あんにゃろ、また仕事サボってきたんじゃねえだろうなあ……」

「サボりか」

「ああ、サボりだ」

 

 月見の脳裏を操の能天気な笑顔が掠めていく。もしあいつだったら引っ捕らえて椛の前に突き出すべきかと思うが、残念ながら声からすると別人だろう。

 店主は嘆くように頭を振り、

 

「一応はウチのお得意さんだから、邪険にはできねえんだけどよ……。あんにゃろうの上司の姉ちゃんがよく連れ戻しにやってくんだけど、店の前でそのまま説教始めちまうことが多くてなあ。お陰で結構客足に響くのなんのって」

「私の知り合いにもいるよ、サボり癖があるやつは。どうして真面目にできないんだろうねえ」

「おお、そっか。あんちゃんも苦労してんなあ……」

 

 いや、実際に苦労しているのは椛なのだが――しかし店主がとてもしんみりとした様子だったので、敢えてまで口にはできなかった。

 店の方から、また声が聞こえる。

 

「あっれ? 旦那ー、いないのー? サボりー?」

「うっわ、この世界中であいつにだけは言われたくねえ台詞だなあ……。やれやれ、んじゃまあ行ってくるわ。ごゆっくり」

「ああ」

 

 月見が見送る店主の背中は、男の哀愁の背中だった。

 月見はため息、

 

「ここにもサボり魔が一人……か。ちょっとは咲夜を見習ってほしいものだね」

「い、いえ、私なんて全然……」

 

 咲夜が恐縮したように首を竦めるけれど、それは謙遜ではなく卑下というものだろう。咲夜は本当によく頑張っている。あの広い紅魔館の家事を最前線で率いて、更に手の掛かる主人の世話まで率先してやっているのだから、従者としては藍と並んで幻想郷屈指と評していい。

 そう言うと、咲夜はますます恐縮した様子で縮こまった。

 

「あ、ありがとうございます……。でも私なんて、まだほんとに未熟者で」

「……咲夜が未熟者だったら、未熟にすら届かない無能者がどれだけ出てくるんだろうねえ」

 

 操なんて、あっという間に天魔から哨戒天狗まで降格されられるに違いない。

 

「いえあの、そういう意味で言ったんじゃなくてですねっ」

「わかってるよ。ちょっとした冗談さ」

「……むっ」

 

 十六夜咲夜は、意外と怒りっぽい。またヘソを曲げた彼女は、桃色の次にある白の団子を、今度は一口で頬張っていた。

 

「――あのさー、そこのカッコいい狐のお兄さんや。ちょっといいかい?」

「ん?」

 

 掛けられた声に月見が振り向けば、染物顔負けに鮮やかな緋色のおさげを揺らし、人懐こい笑顔とともにこちらに近づいてくる女性の姿。身の丈ほどはあろうかという大きな鎌を右肩に担いでいて、死神なのかなんなのか、人里に似つかわしくない物騒な出で立ちをした女性だ。

 声から察するに、彼女が先ほど店主を呼んでいた常連客兼サボり魔らしい。月見は同じく笑顔で応じる。

 

「なんだい、美しいお嬢さん」

「むっ」

 

 ……十六夜咲夜は、やはり意外と怒りっぽい。

 緋色髪の女性は、月見の切り返しが予想外だったのか、くすぐったそうに片頬を掻いた。

 

「あや、まさかそう返されるなんて……世辞とはいえ、こっ恥ずかしいねえ」

「先に言い出したのはそっちだろうに」

 

 カッコいい狐のお兄さん、などと言われたので、月見も相応の返し方をしただけだ。……とはいえ、それがあながち世辞とも限らないだけの容姿を、事実として彼女は持っているようだけれど。

 

「まあそりゃあそうだけどね、でもやっぱり嬉しいもんだよ? 実際お前さん、なかなか悪くない顔してるしね。……あ、そういう意味であたいがさっき言ったのはあながち世辞でもないから。それなりに本心だよ、カッコいい狐さん?」

「……」

 

 隣の咲夜がなにやら不穏な気配をまとい始めたので、月見はさっさと本題へ切り込むことにした。

 

「で、私になにか用か?」

「おっとそうだった。悪いんだけど、隣いいかねえ。他に空いてる場所もないみたいでさ」

 

 見回してみれば、外の腰掛けが満員なのはあいかわらずなようだ。本当によく繁盛している。

 なので月見は快く頷き、

 

「どれ、ちょっと待っててくれ」

「おっ、すまないねえ」

 

 腰掛けの真ん中に置いていた団子の皿を、手に取った――

 

「……」

 

 その瞬間、咲夜がすっと動いて真ん中の席を陣取った。

 女性が、おや、と面白そうな顔をしたのに対し、咲夜は対照的に無愛想な声で、

 

「どうぞ、こっちの席に座りなさいな」

 

 先ほどまで自分が座っていた席をぞんざいに叩けば、女性はますます面白いものを見たように、口をニヤリと三日月の形にして言った。

 

「お前さん、確か紅魔館のメイドだね?」

「それがなにか?」

「いーや、別にぃ? ただお前さんの動きがあんまりにも速かったから、なんかそこに座られたくない理由でもあったのかなーって思っただけ」

「……」

 

 不機嫌な咲夜を微塵も意に介すことなく、女性は不敵な含み笑いをして、言われたままの席へドカリと腰を下ろした。

 なんだか妙なことになっている気がする、と月見は思う。

 

「えーっと、お前さんの名前は十六夜咲夜だったね。んで、そっちのカッコいい狐のお兄さんは?」

「人に名前を尋ねるなら、まず自分が名乗ったら?」

 

 なんだか咲夜がセメントだ。一緒に団子を食べていた時の幸せそうだった瞳はどこへやら、今はナイフさながらに冷めきっている。

 しかし女性は、肝が据わっているのかまったく怯む様子がない。

 

「お前さんはあたいの名前知ってるだろう?」

「さあ、誰だったかしら」

「うっわひどおっ。小町だよ、小野塚小町。……あ、そういうわけでそっちの狐さんもよろしくね」

「……ああ、よろしく。私は月見、ただのしがない狐だよ」

 

 もしかすると、咲夜とこの女性――小野塚小町は、仲が悪いのかもしれない。もっとも、咲夜が一方的に小町を敵視している形ではあるけれど。

 

「お前さん、このあたりじゃ見ない顔だねえ。人里で団子を食べる銀狐なんて、少しは噂になってそうなもんだけど」

「最近、外の世界からこっちに来たばかりでね。ええと……そうだね、まだ四日目の新参者だよ」

 

 言うと、小町は感心したように短く口笛を鳴らした。

 

「ほおー、それなのにもうここで団子食えるくらいに馴染んだのかい」

「そういうお前こそ、そんな物騒な物を持ってる割に随分と馴染んでるじゃないか」

 

 月見は、小町が担ぐ長鎌を見て苦笑する。本物かどうかはわからないが、どちらにせよ見た目が立派な凶器であるのは間違いない。そんな物を持って白昼堂々人里を歩く不審者がいれば、たちまち大騒ぎになって慧音がすっ飛んでくるだろう。

 それがないということは、店主の言葉通り彼女はここの常連客であり、かつ危険な人物ではないと里から受け入れられている証拠。

 

「ここに馴染むために、一体何回仕事をサボったんだ?」

 

 うっわ、と小町が露骨に嫌そうな顔をした。

 

「それ、ひょっとしてここの店主から聞いた? まったく旦那も口が軽いねえ」

「結構迷惑してるみたいだったけど」

「そいつは濡れ衣だよ」

 

 拗ねるように唇を尖らせて、

 

「迷惑掛けてるのは、あたいを所構わず説教する四季様の方だって。あたいはたくさん団子を食べてここの売上に貢献してるんだから、むしろ感謝されるべき上客ってもんだ」

「や、それだってもとを言えばお前がサボるから――って、」

 

 月見は呆れながら言いかけたが、途中ではっとして言葉を止めた。

 今、小町の口からこぼれた名は。

 

「――四季様?」

「ん? ……ああ、四季様ってのはあたいの上司。そうそう、自己紹介が足んなかったけど、あたいはこの通り死神でね。だから上司の四季様は、すなわち閻魔様だ。地獄を代表する閻魔王、四季映姫! ってね。べっぴんさんなんだけど、説教くさいイヤーな性格してんだこれがー」

 

 やんなっちゃうよねえと小町が空を振り仰ぐけれど、それにわざわざ相槌を打つような心の余裕は、今の月見にはない。

 一体、どうして予想できるだろうか。昨夜夢を見て思い出したばかりの少女の名を、こんなところで聞くことになるなんて。

 

「こ――――ま――――ち――――…………!」

 

 遠くから響いてくる声は、決して幻聴ではない。声変わりをしたのか、あの頃よりも少し低く、琴を弾くように芯のついた声音は――けれど間違いなく。

 

「うわあ、もう来たよ……。あいっかわらず真面目なんだからもー……」

 

 小町が苦い顔をしてため息をつく。月見は苦笑いをして吐息をこぼす。

 人里の向こうから猛烈な勢いで突っ走ってくる彼女は、遠目からでもはっきりと見て取れるほどに背が高くなっていて。かつて一生懸命背伸びをしてまで訴えた悲痛な願いは、何百年もの時を経て、見事現実となったらしい。

 あの頃とはもう、見違えるほどに大人になった、彼女の姿を。

 けれど、見間違えなどするものか。

 

「久し振りだね、……映姫」

 

 笑みとともに呟いた、その瞬間、

 月見は、

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 ――月見は、地面で大の字になって青空を見上げていた。

 あれ? と思う。自分は一体どうなったのだろうか。映姫の名を呟いたその直後から、記憶がごっそり抜け落ちてしまっている。

 

「月見様っ! 月見様、大丈夫ですかっ!?」

 

 咲夜の悲鳴みたいな声に耳朶を叩かれて、ああそうか私は地面に倒れてるんだ、と月見はようやく気づくことができた。こめかみのあたりが、鈍く痺れるような痛みを発している。しばらくの間考え、やっとの思いで抜け落ちていた記憶を引っ張りあげる。

 

『久し振りだね、……映姫』

『こ――――ま――――…………成ばああああああああああいっ!!』

 

 映姫の名を呼んだ直後、月見は標的を小町から切り替えた映姫に、持っていた板切れでこめかみをぶち抜かれて。そしてそれがあんまりな威力だったので、少しの間意識が飛んでしまった。

 ……というのが、月見がここで大の字になっている事の顛末なのだった。

 

「ちょっ、四季様!? いきなりなにはっちゃけてるんですか!?」

「だ、だだだっ黙りなさい小町ッ! この狐、今更どの面下げて私の前に出てきたんですか!?」

 

 こめかみを押さえながら体を起こしてみれば、どうやら月見は十メートルほど吹っ飛ばされていたらしい。甘味処の手前で、いきり立つ映姫が小町に羽交い締めにされているのが見える。

 咲夜が、すっかり困惑した様子で月見の背に手を伸ばしてきた。

 

「だ、大丈夫ですか? お怪我は……」

「大丈夫だよ。……ただ、まあ、びっくりしたね」

 

 まさか顔を合わせるなりいきなりぶっ飛ばされるとは思ってもいなかった。映姫にとっての月見とは、それほどまでに憎っくき存在だったということなのだろうか。未だこめかみに残る痛みには、彼女の数百年分の恨み辛みがしっかりと凝縮されていた。

 映姫は暴れに暴れている。

 

「放しなさい小町! あの狐、まだ息があるッ! 早くトドメを刺さなきゃッ!」

「……トドメ?」

 

 その一言を聞いて、咲夜の瞳がまたナイフのようになった。冷たい空気を振りまきながら立ち上がった彼女は、けれど月見を振り返るなり莞爾と笑い、

 

「申し訳ありません月見様、少しだけ待っていてください。――すぐに静かになりますから」

「待て待て待て」

 

 十六夜咲夜は、意外と喧嘩っ早い。なんの躊躇いもなくナイフを抜こうとした彼女を慌てて引き留める。

 

「月見様を傷つけることは、紅魔館を敵に回すことと同義です」

「いや、そう言ってくれるのは嬉しいけどな? とりあえず私は大丈夫だから、落ち着いてくれ」

 

 もちろん咲夜の気持ちは嬉しかったけれど、それにしたって閻魔ともなろう相手に喧嘩を売るとは、彼女もなかなかにはっちゃけている。

 咲夜の方はそれでひとまず収まったものの、映姫はあいかわらず、小町の羽交い締めから抜け出そうと躍起になっていた。一触即発の空気を前に、周囲の里人たちが巻き添えを恐れて次々と退散していく。腰掛けに座って団子を食べていた客も、注文を待っていた客も、みんなが甘味処から遠ざかっていく。

 そしてついさっきまでの賑いが白昼夢だったみたいに、あっと言う間にがらんどうとなって。

 

「四季様っ、ほんと、ほんとお願いしますから落ち着いてくださいっ! 店主がすごい笑顔でこっち見てる! すごい人殺せそうな笑顔でこっち見てますからあああああっ!?」

「大体この狐、今までどこをほっつき歩いてたんですかっ! 何百年も音沙汰がなくて、私がどれだけ寂し――じゃなくて、心ぱ――でもなくて、憤慨したと思ってるんですか!? 今すぐ説教してやるからそこに直れえええええっ!!」

「四季様ああああああああっ!!」

 

 嬉しい繁忙期から一転、涙も涸れる閑散期へと突き落とされた店主が、青筋の浮いたとても綺麗な笑顔で映姫たちを見つめているのが印象的だった。

 

 

 

 

 

 それから少しして、主に映姫が原因の喧騒はすっかり収まり、代わりに腫れ物を扱うような、かすかな緊張を孕んだ空気がピンと糸を張っている。月見は食べかけだった団子を片手に、目の前に広がる光景を驚き半分感心半分の心地で見つめていた。

 声、

 

「――いいですかい。閻魔様ともあろう御方が普通にこの人里までやってくることに関しちゃあ、わたくしにはなにも言う権利がないですし言うつもりもありやせん。むしろ、いっそ放っときゃあいいこのバカをわざわざ連れ戻しに来るのは、大変仕事熱心で素晴らしいと思いまさあ」

 

 甘味処の店先で、店主が滔々と説教の舌を振るっている。そして店主が仁王立ちしたその先で、地べたの上に泣く泣く正座をしているのは二人の女性。

 

「ですがね閻魔様。ウチの店先で騒ぐのだけはやめてくれって、わたくし何度もお願いしてたと思うんですがね。しかも今日はなんですかい? 店先でこのバカを説教されるだけでも客足に響くってのに、いきなりお客さんをぶん殴るってぇのはどういう了見で? 大切なお客さんにそんなことされちまっては、さすがに卑小なわたくしなれど、大変恐縮ながら口を挟まずにはいられねえってもんです。営業妨害って言葉、まさか知らないわけはございませんよね。お客さん、みんな帰っちまったんですが、そのあたりどうお考えで?」

「も、ももも、申し訳ありませぇぇぇん……」

「そんで隣のバカ。オメエ、今日はサボって来たわけじゃないっつってたよな。非番だから大丈夫だっつったよな。大丈夫って五回くらい言ってたよな。あれ全部嘘か。嘘かコノヤロウ。あ?」

「ご、ごめんよ旦那ぁぁぁ……」

 

 四季映姫と小野塚小町。ともに彼岸の存在である彼女らが、二人揃って人間に説教される光景というのは、さすがの月見も言葉が出なくなるほどにシュールの極みだった。一度は根こそぎ人気のなくなった店先に、ぞろぞろと野次馬たちが戻ってくるほどだ。けれどそこから団子の注文まで流れていく者は一人もおらず、失われた客足はどのみち元には戻らない。お陰で店主の説教は水を落とすが如く、もうそろそろ十分近くになるものの一向に途切れる様子がない。

 ううむ、と月見は低く唸り声を上げた。

 

「店主……お前って実は、結構すごい人間だったんだね」

 

 小町の方はさておき、地獄の閻魔王ともあろう映姫を地べたに正座させた上で説教だなんて、並の度胸でできることではない。

 店主は説教の舌を一旦休めると、怒気をしゅっと引っ込めて気恥ずかしそうに笑った。

 

「やあ、俺ァただの甘味処の店主だぜあんちゃん。……それよか、あんちゃんこそこいつらに説教しなくていいのかい。いきなりぶん殴られて痛かったろうに」

「そうですよ月見様。一発殴り返してもいいんじゃないですか」

 

 真顔で物騒なことを言う咲夜が少し怖い。

 

「咲夜……私は本当に大丈夫だから、落ち着いてくれ。な?」

「私は落ち着いてますわ」

「そうじゃなくてね、当の私が怒ってないんだから、咲夜も怒らないで」

「月見様が怒らないから代わりに怒ってるんですっ」

 

 咲夜は不服げに頬を膨らませ、正座している映姫をきつく睨みつけるなり、

 

「大体なんなんですか。出会い頭にいきなりあんなことするなんて、公明正大の閻魔様が聞いて呆れますわ」

「だ、騙されてはなりません! そこの狐は、何百年も前に私にひどいことをしたのです! だからあれは当然の報いで」

「あら。そんな昔のことを未だに根に持ってるなんて、閻魔様も意外と私欲まみれですのね」

 

 繰り返すが、咲夜が怖い。

 一瞬怯んだ映姫は、すぐにぶんぶん頭を振って体勢の立て直しを図る。

 

「……と、ともかく! そこの狐、初めて会った時に私の顔を見ていきなり笑ったんですよ!? ひどいと思いませんか!?」

 

 なるほど、自分の顔が真っ黒だったことは伏したまま、月見にすべての罪をなすりつけようという魂胆か。そうはさせるものかと、月見はすかさず口を挟んだ。

 

「確かに笑ったよ。子どもたちの落書きで顔中真っ黒になってからね、つい我慢できなくて」

「そんなの笑って当たり前じゃないですか」

「あうっ」

 

 咲夜にバッサリ切り捨てられ、映姫が胸を押さえて俯いた。ということは、映姫だって自分に非があったことは少なからず自覚しているのだろう。それなのに月見にすべての罪を押しつけようとするあたり、なんとも強情というか。

 映姫の横から、小町が呆れ顔になって言う。

 

「てか、顔に子どもの落書きって。四季様、一体なにやってたんですか」

「し、仕方なかったのですっ。あの時の私はただの地蔵だったから……」

「理由はどうあれ、それではあなたにだって非がありますわ」

「そうだなあ……。落書きした子どもを怒るってんならまだしも、それじゃああんちゃんはただのとばっちりみたいなもんだわな」

「う、ううっ……」

 

 三人に白い目で見られ、映姫がしおしおと縮こまっていく。見事な四面楚歌の構図に、映姫の反論は完全に封殺された。悪は滅びるのである。

 

「閻魔様、このあんちゃんはあなた様が思ってるほど悪人じゃありませんさ。この前なんか、外の森に迷い込んじまった里の子どもを助けてくれたんです。その善行でチャラってわけにはいきませんかね」

「紅魔館では、すれ違っていたお嬢様と妹様の仲を取り持ってくれましたわ。……むしろチャラにしてもお釣りが来ます」

「……」

 

 すると映姫は、心底面白くなさそうなしかめっ面をしながら、もそもそと一枚の手鏡を取り出した。

 おや、と月見は思う。閻魔が持つ手鏡といえば。

 

「もしかして、浄玻璃の鏡か?」

 

 映姫は月見を一瞥し、やはり心底面白くなさそうに、

 

「へえ、知ってるんですか。博識ですね、すごいですね」

「……」

 

 まったくもって褒められた心地がしないが、それはさておき。浄玻璃の鏡は、閻魔が死者の生前を見極めるために使用する鏡だ。一挙手一投足に至るあらゆる生前の行いを暴き出し、いかな嘘をも看破してしまうという。どうやら生者相手にも力を持つようで、これで咲夜たちの言葉が真実がどうか確かめてやろうということらしい。

 

「ところで最近は、プライバシーってものが騒がれててね」

「黙りなさい。他者を公平に裁くためには必要なものです」

 

 月見は肩を竦めて、食べかけになっていた団子をむぐむぐと食べた。

 浄玻璃の鏡に映される真実は、もちろん月見の場所からは見えない。だが映姫にとってはよほど予想外な光景が広がっているらしく、彼女はしばし鏡を食い入るように見つめたのち、やがて残念そうなため息を隠そうともせず、淡々と浄玻璃の鏡をしまった。

 

「どうやら、真のようですね」

「……嘘だったらよかったのに、って顔してる」

 

 咳払い一つで無視された。手に持っていた板切れを月見へと突きつけて、気取ったすまし顔を浮かべながら、凛と通る声で宣言する。

 

「妖狐・月見。あなたのこの二つの善行を鑑みて、過去の罪については不問とします」

 

 特別大声を出しているわけでもないのに、その声音は一切の申し立てを封殺するように強く月見の心に入り込んでくる。これが、紛うことなき閻魔としてのカリスマなのだろう。地べたの上に情けなく正座させられさえいなければ完璧だった。

 とはいえ、あの時出会ったしがない小さな地蔵が、今や地獄を統括する代表者の一人にまで成長したという事実には、素直に感心せざるを得ない。

 それに、身長だってしっかりと伸びているし。

 

「どれ……映姫、ちょっと立ってみてくれないか?」

「なぜですか」

「どれくらい背が伸びたのか気になるんだよ。だからほら」

「……ああ、そうですね」

 

 神妙に頷いた映姫は、それからちょっと得意そうな顔をして、女性らしい起伏に恵まれた胸を惜しげもなく逸らして言った。

 

「では恐れ多くも立ち上がってあげますので、しっかりと目に焼きつけなさい。もう、私の方がお姉さんなんですからね!」

 

 映姫が正座を解いて立ち上がる。そうして改めて見てみれば、映姫の体は本当に見違えるほどに成長していた。あの頃の背丈は魔理沙や慧音よりも下だった気がするが、今は咲夜よりも大きいようだ。もともと器量よしだった顔に、服の上からでも容易にわかる豊かな体つきも加わって、見た目だけならば間違いなく、立派な一人前の女性と評していいだろう。中身はさておき。

 

「大きくなったねえ」

 

 素直に言えば、映姫はますます得意顔になった。

 

「ふふふ、そうでしょう? どうですか、ちゃんとばーんと大きくなりましたよ? すごいでしょう?」

「いや、まったくもってその通りだね」

「もう子ども扱いはさせませんからね。私の方がお姉さんで、しかも閻魔なんですから、ちゃんと敬意を払って接するようにっ」

「さっきぶん殴ったのを謝ってくれたら考えるよ」

「そ、それは……」

 

 ギクリと肩を震わせた映姫は、逃げ道を探すように目を横に逸らしてから、

 

「その……そ、そう、それは因果応報というものです。少なくとも、あの時に私を子ども扱いして馬鹿にするような真似をしていなければ、起こらなかったこと。一つの反省要素ですよ」

「……」

「そ、そもそも、あなたは少し人を喰ったような態度が目立ちますっ。もっと誠実に人と向き合うことを覚えなさい。浄玻璃の鏡で見たところまったく善行を積んでいないわけでもないのですから、そこさえ正せば快適な死後が約束されるでしょう。初対面でいきなり相手を笑ったりせず、子ども扱いせず、説教にはありがたく耳を傾ける。一度きりの人生を謳歌するのは素晴らしいことですが、だからといってあまり好き勝手に生きているようだと手痛いしっぺ返しを食らいますよ? 因果応報は世の理。人を蔑ろにすれば、いずれ自分自身も人から蔑ろにされるようになるでしょう。これに懲りたらきちっと反省して、人と誠実に向き合うことを覚えるように」

「……はあ」

 

 なんとか話を誤魔化そうとして、口から出任せを言っているのが丸分かりだった。そんなに自分の非を認めるのが嫌なのだろうか。公明正大に他者の罪を裁く閻魔様は、己の罪には随分と甘いらしい。

 空返事で頷いた月見は、ともあれ映姫の話が一区切りついたのを好機と見て、さっさと逃げてしまうことにした。今日は他にも行きたい場所があるのだから、映姫の説教で一日を潰されるなど御免である。

 串に刺さっていた最後の団子を口に放り込み、立ち上がる。

 

「……どれ、私はそろそろ行くよ。店主、ご馳走様」

「あいよ、お粗末さん」

「あっ、口にものを入れながら話すなんて行儀悪いですよ!」

 

 案の定飛んできた映姫の横槍を有意義に無視して、団子を早々に飲み込み、財布から代金を取り出す。

 

「あっ……月見様、お金は」

「や、いいよ」

 

 ハッとして自分の財布を取り出そうとした咲夜を、やんわりと制して。

 

「昨日、泊めてもらったしね。これくらいの礼はさせてくれ」

「待ちなさい、女の人のところに泊まったんですか!? そんなの公序良俗に反しますっ!」

 

 喚く映姫を、咲夜もまた無視した。

 

「そうですか……ありがとうございます。では月見様がまた紅魔館にいらした際に、お礼をさせてくださいね。私、これから日本茶を淹れる練習をしてみますので」

「……じゃあ、その時はご馳走になろうかな」

「ちょっと!」

「月見様はこれからどうなさるんですか? 私は買い出しをしてから紅魔館に戻りますが……」

「とりあえず、もう一度慧音のところに行ってみるよ。そのあとは……家ができるまで、またのんびり幻想郷を歩いてみようかな」

「こらあっ! 閻魔の私を無視するなんていい度胸じゃないですか、説教しますよ!?」

 

 なんだか映姫は、閻魔になってからますます面倒な性格に拍車が掛かったような気がする。

 なので月見は代金を店主へと手渡しながら、笑顔で、

 

「じゃあ、あとはよろしく」

「おうよ」

 

 そう言えば、店主もまた笑顔で応えてくれた。なにをよろしくするのかは敢えて明言しなかったが、彼にはしっかりと伝わったらしい。

 

「まいどあり。今後とも当店を是非ご贔屓に」

「そうだね、また団子を食べたくなったら」

「あっ、さてはあなた逃げるつもりですね!? させませんよ、まだ話したいことがたくさ」

「まあまあ閻魔様、ちょいと待っちゃあくれませんかね」

 

 映姫が月見の肩を掴もうと手を伸ばすが、それを遮る、店主の大きな体。

 

「それよりも先に、わたくしの話がまだ終わってねえってもんで。ここはお互い、納得が行くまで話し合うとしましょうや。他でもない、この店の今後のためにね」

「……え、ええと、ですね」

 

 なんだか泣きそうになりながら、映姫が助けを求める視線を向けてくるけれど。

 もちろん月見は、笑顔でこう切り返した。

 

「まあ、仕方ないんじゃないか? だって――」

 

 一息、

 

「――因果応報は世の理、なんだろう?」

 

 映姫は口を一文字に引き結んで、あふれる悔しさをふるふる震えて耐え忍んでいた。だが、「それじゃあ続き、いいですかね」と笑顔の店主に肩を叩かれて、泣く泣く地べたに膝を戻した。

 

「あ、じゃあもうあたいは帰っていいよねー……。それじゃあお疲」

「おう逃げんなやこら座れいっそ土下座しろ」

「扱いひどくない!?」

 

 正座を解く間もなく一喝された小町と一緒に、

 

「それじゃあ、またそのうちどこかで会おうな」

「お、覚えてなさいっ! 次こそ、次こそ絶対に逃がしませんからね!?」

 

 顔を真っ赤にして板切れを地面に振り下ろす、その映姫の姿が、かつて悔しそうに錫杖で地面を叩いていたあの頃と重なる。

 体が大きくなっても、心はそのまま。

 だから月見は、つい微笑ましい気持ちになって、ふっと笑ってしまった。

 

「今笑いましたね!? 私のことバカにしましたね!? この性悪狐――――ッ!!」

 

 月見の背中を叩く怒りの絶叫は、微妙に涙声なのだった。

 

天網恢恢疎(てんもうかいかいそ)にして漏らさず。当然の報いですわ」

 

 咲夜は最後まで怖いままだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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